駅は、大小無数の駅が一つに集合した姿であり数えきれぬほどのホームと路線と通路と運河を〈擁〉《よう》し、地上に地下に広がっていくその様はまるで迷宮を思わせた。事実、歳月の内に駅を行き交う者達の中には、己が行き先を惑い見失い、そのまま居着いてしまう者も多多あるという。  そういった所在なげな根無し草、故郷喪失者達の他に、駅に〈呱々〉《ここ》の声を上げ、ひっきりなしの列車の運行音と振動と、駅内放送、ラジヲを子守歌として友として育ち、駅を生涯の場として定める者もまた多い。ただ彼らが皆一様に、鞄の隅に、寝台の下に、あるいは商売道具の中に埃と同じような感覚で紛れこませている物として、駅の時刻表がある。  みなどれを取っても手擦れがし、角がぼろぼろに取れたものばかり。だがそれは一体何の為にあるのだろう。駅を終の棲家と定め、夏には茹だるような熱さに、冬なら隙間風の侘びしさに、晒されながらも駅を出ることなく生涯を終える者達にとって、それは一体何の為にあるというのだろう。  一人の少年が、駅南西部のとある地下連絡道を走り抜ける、〈葉群〉《はむら》を間切る〈蜂鳥〉《ハチドリ》の俊敏さに人並みをかわしつつ。南西部の地下通路網の中でも主筋から外れた区域でありながら、駅内幹線ホームの一つと運河船の発着場を繋ぐ裏道として人の流れは絶え間なく、それを当てこんだ売店、屋台も多い。  手入れの悪い裸電球の〈靄〉《もや》がかったような明かりや電光掲示板に流れる光に照らし出された地下通路は、どこやら坑道のような気配を帯びたが、行き交う人々は衣装は種々雑多にして、色と紋の見本帖の様。なにしろ軍事統制令が失効してからもう数万時間以上も経っている。この辺境にある駅に訪れる人々の衣装も、あの戦時中に強いられていた、野暮ったく潤いに乏しい官給服に替えて、かつてのそれぞれの〈邦〉《くに》の、それぞれの風俗の色合いに満ち満ちた衣装を取り戻そうというものだろう。  ただその中にあってさえ少年の格好は、まだ思春期を卒業したどうかの年頃、体格にもかかわらず、伊達な燕尾服に乗馬ズボン、そしていなせな〈山高帽〉《ボーラーハット》と、どうにも小生意気な筋に装われ、〈所謂〉《いわゆる》、地に脚降ろした堅実な衆、から隔たった、浮ついた世界の気色を漂わせる。  ……とはいえ彼の衣装も、よくよく見やれば薄切れ、補修の跡などが散在し、この〈一張羅〉《いっちょうら》の他にはろくな着物も持たぬ暮らしぶりというのが透けてくるのだが。  駆ける少年の脚は、終戦後特有のどさくさまぎれ、〈自棄〉《やけ》っぱちで野放図な活力とはまた別種の、流れ者につきまといがちの不敵な〈太太〉《ふてぶて》しさともいうべき推進力によって駆動され、進路上の人々の背を、時に巧みに時に危なっかしくすり抜ける、走る走る。彼の肩にはカンバス地のずだ袋、担がれて、走る足取りに合わせて揺れる揺れる、中では何物かがごろついている。  やがて少年は、行き着くが地下連絡道の枝道の果ての暗がりに。  その暗がりには元々は地上へと上がる昇降機が設けられていたのだけれど、戦争中に起こったとある不幸な事件のために閉鎖され、終戦してからも復旧を見なかった為、今では人も通わぬどん詰まりと化している。なのに薄ぼんやりと明かりを投げかけ商う屋台の一つあり、少年は上気した額を被っていた帽子で〈暫〉《しば》し〈扇〉《あお》ぎつ、もう片手でポケットの中での硬貨を幾枚か、油で〈蝦蟇〉《がま》の腹の如くべとつく屋台の縁に放る、〈手捌〉《てさば》きがまた〈小面憎〉《こづらにく》いまでに世慣れした無造作さで。 「姉さん、〈焼き飯〉《にぎりめし》を一つ、〈油条〉《ユウティアオ》を芯にして。あ、それから〈湯〉《タン》も頼むぜ。胡椒をたっぷり利かせた奴な」  注文の取り付けぶりも堂に入ったもの、子供の舌にしては〈流暢〉《りゅうちょう》に過ぎるを通り越し、〈不遜〉《ふそん》ですらあったが、屋台の娘が生真面目に唇引き結んで、苛立ちを抑えこんだ声で言い返したのは、 「あなた、オキカゼ君、私のお店では、国外のお金は取り扱ってません、て何度言えば覚えてくれるんですかっ」  少年の小生意気に今更立腹したに〈非〉《あら》ず、〈煤〉《すす》けた〈角燈〉《カンテラ》の侘びた灯りの下でも、投げ出された硬貨が異国の通貨であることをしかと認めた、その〈慧眼〉《けいがん》故に。  この屋台の娘というのは、駅の平駅員の一人なる。揃いの〈詰〉《つ》め〈襟〉《えり》、ズボンの制服に帽子の、誰も彼も細身で似通った背丈で、〈貌立〉《かおだ》ちも前髪が双眸に被さっている上に皆似通っている中性的な風貌、故に個々人の識別と性の判別がどうにもつけがたく、少年も何度かやりとりしてようやく此処の駅員が女性と〈諒解〉《りょうかい》したくらい。  彼女達平の駅員というのは、駅内で様々な雑務に着いていて、判りやすく列車の運転業務に〈携〉《たずさ》わっている者あれば、果ては大ホームの片隅で床屋を開いている者ありという塩梅で、駅の何処に行っても気がつくと視界の隅に入っている事がしばしば。  さすがにこんなしけた界隈で浮かない屋台を営んでいるのは珍しい口ではあるが、彼女もまた紛れもない平駅員の一人である。  怒鳴り散らす程ではないにしろ、きっぱりと強い声音でねじこまれてきたにもかかわらず、少年は〈怯〉《ひる》むどころか薄笑いの、〈逞〉《たくま》しさ。 「細けぇコト言うなって〈姐〉《ねえ》さん。こんな景気悪いトコで〈売〉《バイ》してて、ろくな客もいねえくせにさ」 「いいんです、そんなの私の勝手なんです。ご不満なら余所に行っては如何? なんだったら塩でも撒いてあげましょうかっ?」 「怒鳴るなって。食いモンに唾が飛んでるだろ。ちぇ、仕方ねえや……これでいいか?」  と少年は、ポケットの中まさぐることまたひとしきり、取り出しましたのは駅が在する省での通用硬貨、その黄銅銭。平駅員の、少年が初め出した外国硬貨を否んだにも訳があって、換金の手間が面倒というのと、そして換算比率が低いという事情に〈拠〉《よ》っている。例えば少年が先ほど放ったのは同じ数字で同じ黄銅銭なのだが、駅での常用の省貨の黄銅銭一枚に対して三枚分で同価値となるように。少年は、省貨の黄銅銭一枚に加え、また懲りず同じ外国硬貨の、今度は白銅銭を指先で〈摘〉《つま》みあげ、示す。 「でもさ、悪いんだけど今省貨の持ち合わせなくってよ。こっちの黄銭三枚で、白銭一枚分だろ? 両替はめんどくせえだろうが、今日だけな? な?」  平駅員、一拍二拍と、親の仇でも見たようにその外国の白銅銭を〈睨〉《にら》みつけていたが、それでもしまいに根負けして、ぶつくさ〈零〉《こぼ》しながら少年からもぎ取ると、〈湯〉《タン》の具の油揚げを二枚、鋏で切り分けにかかってざくざくと。  突き出された〈油条〉《ユウティアオ》の───というのは小麦粉を細長くこねて油で揚げたもので、熱い飯に実に良く合う───握り飯を夢中で頬張り、豚骨の〈湯〉《タン》で流しこみ、彼女が背を向けた隙に荷台の丼から豚の皮を少々拝借して、朝食を平らげた勢い、ようやく獲物にありついたクズリにも匹敵した。  油に濡れた唇を舌で〈拭〉《ぬぐ》って少年は、ご馳走様も言わず背を向けて、ずだ袋担ぎ直して駆け出す、というより逃げ出すといった方がしっくり合ったろう。なにしろ肩越しに屋台へちょっと振り返り、投げた眼差しにはしてやったりの喜色の。ただ小腹を満たしたにしてはどうにも〈狡〉《こす》っ〈辛〉《から》い。 「もう……ほんとにあのコってば、なんだってああすれっからしなんだろ、まだあんな、子供みたいなのに。ご馳走様も言わないなんて、お行儀悪いんだから」  ───屋台の平駅員が、ご馳走様も言わず駆け出した少年の、不作法に唇尖らせ、それから突如〈嗚〉《アッ》と〈愕然〉《がくぜん》となってたんたん地団駄を踏むももう遅い。少年の、通貨比率を悪用した、安い詐術に言いくるめられた自分の間抜けさ加減を呪ったところで、もう遅い。  歯列に残る香辛料の欠片を舌先でほじりつ、〈反芻〉《はんすう》しているのは味わったばかりの飯の余韻ではなく、使い古した詐術ながらもやりおおせた事への満足感。浮かせた金は安い外国銅銭のそれもほんの僅か一枚二枚分程度ではあれども、自分の舌先だけで他人を出し抜いてやったという、盆栽の松の根じみた、矮小な屈折と〈強〉《したた》かさが同居した達成感が少年を微笑ませる。  かく少年はほくそ笑み、次に〈潜〉《もぐ》りこんだのは地下連絡道の南端のまた行き止まりである。行き止まりとて駅員達に物置代わりとされ、廃棄処分の連絡掲示板が何列にも押しこまれ、さながら大なるドミノ〈牌〉《はい》の群れ。の下に這いずりこんで、肘で掻い進めば埃が鼻腔を刺すけれど、少年には嗅ぎ慣れた臭いの、むしろ自分だけの秘密の中に戻っていくような快味さえ喉にこみあげてくる。そんな風に尺取り虫はだしで掲示板の下を這い進んでいったところで、結局は通路の端、行き止まりの壁にぶつかるのが関の山だろうに、実際、通気用なのか壁面の下方に切られた格子枠に少年の頭がぶつかった。  と思いきや、彼が額でぐい、と押しこんだと見ると、格子枠はかぱんと向こうに倒れて人一人が〈潜〉《くぐ》り抜けられる程度の口を開ける。  〈潜〉《くぐ》り抜ければそこは、駅内でも忘れ去られ打ち捨てられた、長い長い吹き抜けの廻り階段で。電気など通っていないにもかかわらずうっすら明るいのは、見上げれば上方高い所に設けられた採光窓から、外の陽差し、斜めなりにぐるぐる螺旋に差しこんでいるから。  この吹き抜けの廻り階段、少年がひょんな機縁に見出して以来余人を見たことのない空間で、陽の投光線の中に〈細塵〉《さいじん》が浮遊している様などは、ゴシック教会の内陣をさえ思わせた。一応の用心に、外した格子枠を〈嵌〉《は》め直して体の埃を払い、少年は昇り始めるが上へ、長い階段の〈天辺〉《てっぺん》目指して。  といって容易な道筋ではない。駅の者達がこの吹き抜け階段の存在自体を忘れ去るまでの数えきれない程の世代の移り変わりの間、適当な倉庫代わりとみなしたのか運びこんだまま置き去りにした、大小様々の不要品が、踊り場はおろか踏み面にまではみ出しているせいで、所によっては少年が体を横にしてようやく通れるくらいの隙間しか残していないくらいである。陽光の侵入が様々な品々を曖昧な形に浮き上がらせていたが、闇を散らすまでには至っておらず、ともすると段やガラクタに足を取られそうにも。  ただ少年は、そういった駅の数世代に渡る不要品、多くの書類を詰めた箱、破損した事務用机や椅子の数々、開いた孔から処分済みの切符を〈零〉《こぼ》す大袋、そんな遺物達の狭間を抜ける道筋を、狩猟民族が〈灌木〉《かんぼく》の狭間に獣道を熟知するが如くに心得ており、じりじりと、それでも着実に上へ、古い〈反古〉《ほご》の山の中に一代集合住宅を造り上げた鼠達の物音にも怖じず、昇りつめていく。積もった埃は官能的なまでに柔い、鼓動が少年の秘やかな昂奮を示して胸拍つ。  差しこむ光に様々なポーズ、浮かび上がらせて、進む。  鉄扉は、氷原に〈亀裂〉《クレバス》が走る程にも大仰かつやかましく〈軋〉《きし》み、押し開けるにも少年が肩ごとぶつかっていってやっと、という重さ。  それだけに───視界の転換は、劇的とさえ言えた。手垢に〈粗〉《あら》び所々に〈緑青〉《ろくしょう》噴いた裏面を返せば、表は思いもかけない程冴えて澄んだ鏡の反射に目を射られるも同じだった。世界を満ちる光に〈眩〉《くら》んだ目が、〈眩〉《まばゆ》さに馴染んでいくまでの、むず〈痒〉《がゆ》いような時の刻みの果てに。  広がっていた。拓けていた。伸びていた。展開されていた。立ち並んでいた。埋めつくしていた。鳴っていた。響いていた。どよめいていた。全てが少年の立つ、高所に張り出したテラスの眼下に───  そこは、駅の管理部ですらその本来の存在意義を見失って久しい、遠い過去から〈佇〉《たたず》み続ける高台の上の塔。かつてはなんらかの観測施設とも、電波の中継塔であったともいうが今は定かではない。少年も廻り階段の最上階まで昇り、鉄扉を押し開ける際も物陰に腐食しかかった機械群を見たが、さしたる興味も抱かず、そんなガラクタよりもこの眺めだと、テラスの柵に手を掛け深々と、眼下の情景を飲み尽くすように風を吸いこんだ、時刻は陽が地平の〈稜線〉《りょうせん》離れて間もない、朝まだき。  少年の足下すぐの地域では、好き放題、雨後の〈羊歯群〉《しだぐん》の生命力で築かれた大小無数のバラックの連なりの狭間の、ぞんざいな軒先すれすれ掠めて引き込み線が普通軌道と合流し、彼方では〈単軌鉄道〉《モノレール》が、凹凸だらけのピラミッドの様に段状に重なった、木造のセットバック建築の谷間を弧を描いてゆったり進み、かと思えば〈索道路線〉《ロープウェイ》も張り巡らされ、普通鉄道を眼下に眺め〈単軌鉄道〉《モノレール》の高架の下を〈潜〉《くぐ》りして中継ホームから中継ホームへ渡っていくのだ。  走っている車輌も様々、戦争の鉄鋼不足に鋳潰されもせずしぶとく生き残った蒸気機関車が〈煤煙〉《ばいえん》たなびかせ、電車はパンタグラフと送電線の間に火花瞬かせ、ディーゼル機関式車輌だって特有の駆動音撒き散らして操車場に〈滑〉《すべ》りこむ。  無数のホーム、無数の線路、それらに付属する無数の構造物。過剰なまでに溢れかえって地表ばかりでは足りないとばかりに積層している。  鉄道ばかりではない。ホームや線路を血管とするならば、こちらはリンパ管のように、併走したり隔たったりしながら地表に分布しているのは運河だ。とろりと鈍い水は、大型貨船を三〈艘〉《そう》並べてもまだ余る程の幅まで広がりもするし、あるいはゴンドラ一隻がようやく取り回せる程度の水路となって建物の〈廂間〉《ひあわい》を縫う。建物の間に張られた物干し綱と洗濯物の重ね幕の下、細い水路は細長い小舟を運ぶ。  早朝の光が次々にと照らし出していく。しばらく雨や曇りが打ち続いた後の、久方ぶりの晴れの朝は、洗われたように澄み渡った。  それら下界の、物音についてはあまりに多様であり、かつ少年の立つここでは距離が開きすぎて、原初の海の有機成分の様に溶けて混じり合って一々を聴き取るというわけにはいかなかった。けれど、きっと、千、否、万もの音がひっきりなしにひしめいているに違いない。始発列車の発着を告げる案内放送もあるだろうし、機関車の警笛もけたたましいだろうし、線路を手入れする保全部員達の作業音もスタッカートを刻んでいよう。人声や鳥の〈囀〉《さえず》り、足音、建築物の〈軋〉《きし》みなどはそれこそ無限といって差し支えなかろう。  これら諸々の全て、満ち満ちた全て、地表に留まらず宙空まで広がった全て。  それらの巨大な総体が、この『駅』なのであった。  大陸辺境の大荒野に〈佇立〉《ちょりつ》して、一つの都市程の規模を有した駅。  版図には流石に限りがあるのだが、それでも駅から荒野へと伸び出す軌道は大地上を毛細血管のように這い、大陸各地方にまで途切れる事なく続いている。  そういった意味では大陸の辺境に孤立していると同時に各地方と連結して、既知文明世界間の人と貨物輸送の、一大〈要衝〉《ようしょう》地点となっているのが、この巨大な『駅』なのであった。  夜ともなれば、いまだあの虚しい停電の時間が訪れる地帯があちこち残り、その一帯は黒染みとなっても、〈光電管〉《ネオン》の彩りは日毎に増して、駅は戦前の不夜の城の相を取り戻しつつある。列車の運行は一時休んでも、駅そのものは活動し続け眠りを忘れて夜明けまで。そんな夜の時間のここからの眺めは、星の井戸を覗きこむ贅沢にも匹敵しよう。  ただしこの今、〈昧爽〉《まいそう》を過ぎて、転変万化の曙光から透明にと強まり始めた光の下での駅景は、まだ夜の名残を惜しんで薄らぼけて動きが鈍い。  どうにも統一された美観に欠けて、乱雑でまとまりがない、〈俗臭芬芬〉《ぞくしゅうふんぷん》と立ち籠める、細部を目で追おうとすると混乱さえしてしまいそうな程。  けれど少年は、ここからの眺めが好きだった。  駅の人々の営みの上に遍在した〈長閑〉《のどか》さを、前髪風に〈嬲〉《なぶ》らせながら見下ろす時間を愛していた。  この廃塔よりも、視界の彼方に望む、駅の北部を東から西へと横断する丘陵のような北大高架ホームの方が高度は上ではあったが、このテラスは目下のところ彼独りが見出した彼だけの高所であるが故に〈愛惜〉《あいせき》していた。  目に映る限り全ての駅の情景へ向けて悠然と手を差し延べ、帽子を取って深々と一礼する、仕草はまるで、駅の全てを観客に見立て拝礼する芸人はだしに流麗で美事、なんの、はだしどころではない。  この少年。名はオキカゼ・〈B〉《バーナム》。  まだ若輩者ながら、大陸各地を遍歴してきた旅のサアカス団『バーナムトラベリング曲馬団』の座長であり、その居城『移動舞台』の主である。れっきとした芸人である、少なくとも本人はそう言い張る。  そんな経歴が、彼を年若いにもかかわらず、いっぱしのすれっからしに仕立てあげてはいたけれど。  こうして駅の全土に向かって〈恭〉《うやうや》しく礼の型を取った姿は、芯まで〈悪擦〉《わるず》れしていると見なすには、どこか夢とか希望とか、年相応に青臭い憧れを滲ませてはいなかったか。  ただそういった世故に長けた物腰の底から浮上した憧憬は、暫時の〈徒花〉《あだはな》だったといわんばかりに、一陣の爽風のざっと吹き抜けた後には消え去り草の。胸に抱えこんだ帽子の中をば、何故この大見得に白鳩の一つも飛び出てこないと覗きこんだ顔は、大げさに造ったのがあからさまな不審顔。  いかにも芝居めかして、またあの浮き世擦れしたオキカゼに立ち戻っている。  〈山高帽〉《ボーラーハット》を、裏を返し表に戻して〈撓〉《た》めつ〈眇〉《すが》めつする眼差し引ん剥かれ、眼力が凄い、白目血走って、繊維の微妙な織り目から未来を読もうという占い師にでもなろうでもあるまい、何のつもりやら。  帽子の中に拳を差しこんでみせたのだって、〈無言劇〉《パントマイム》演じて夢中の有り様、仰々しさが過ぎようもの。帽子の中に突っこんだ手が何かを掴み取ったのに、引き抜けない、硬く張りついてしまっているとうんうん〈呻吟〉《しんぎん》して、観客がない独り芝居をひとしきりの果てに。不意にすぽんと抜けた、と〈外連味〉《けれんみ》たっぷりの仕草で掴みだしたもの、鳩ではない、手のひらの中にはこっとり円い煮玉子の一つが、まだほんのりと温かかった。  手品の種を明かす不粋は避けたい。その出処だけを語るなら、オキカゼが地下連絡道で立ち寄った屋台の売り物である。小腹満たした際、抜け目なくくすねてきていたのである。  オキカゼは玉子を朝まだきの空に〈翳〉《かざ》して太陽と重ねてから、芝居気たっぷりに口づけして、おもむろにテラスの柵に打ちつけて〈罅〉《ひび》を入れ、手早く殻を剥いて手早く食いついた。早食いも芸の内、さっさと食い尽くして、固茹でなのに水も無い、喉の辺りでもぞもぞ詰まり気味なのを構わずに、もうたっぷり〈堪能〉《たんのう》した、と眺めに背を向け、廃塔の〈裡〉《うち》へ舞い戻る。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  廻り階段を、昇ってきた時と逆回しに降りる、道筋は基底部までは戻らず途中で止まって踊り場の、壁面の前に縦置きに放置された、オキカゼの背丈よりも大きい駅名標の背後に回りこむ。   『〈甘夏省景光河北部第一衝合駅内蒼猫小路前〉《かんかしょうけいこうかほくぶ・だいいちしょうごうえきないあおねここうじまえ》   〈御多禰ヶ池〉《おたねがいけ》       〈竜苑義眼店〉《りゅうえんぎがんてん》 』    と陽焼けし色褪せた駅名標は、他のガラクタに支えられて期せずして〈衝立〉《ついたて》代わり、その後ろの隙間に〈潜〉《もぐ》りこめば扉がそこに、知らない者ならまず見過ごすだろうに、オキカゼもいかにして見出し得たのだろう。  抜けた先にはキャットウォークが薄明かりの中に浮かんで、鋼の冷ややか色。廃塔に接した高さの異なる別建築の、天井近くに吊り下げられている鋼の網の通路を迷いなく進み行く、少年の足の下方には、元はなんらかの工廠であったのか、打ちっ放しのコンクリートの床がだだっ広くて薄汚れ、加工機械の設置跡か、所々くすみが点在している。  足元の空隙から這い上がってくる、ひんやりした空気が少年の下腹をやんわりと絞った。ふと催してオキカゼは、乗馬ズボンの前のボタンを外してキャットウォークの柵越しに、打ちっ放しの床面の設置跡の一つに狙い澄まして尿意を解放した、放水線が薄白い。  この様に少年は、この悪たれオキカゼは、自分が行儀もへったくれもなくやらかした一斉射が、コンクリート下の地中で一七年の忍耐の歳月を越えてようやく羽化の日を迎えた蝉の幼虫に、降り注いで溺死させていた事など関知もせず、廃工廠を後にする。蝉の幼虫は、コンクリートの床にかろうじて開いていたひび割れの隙間を、必死に身をくねらせ、やっとの事で這いずり出る寸前だったというのに。  廃塔の高みから遠景を〈俯瞰〉《ふかん》しただけでも、数える、という行為にある種の虚無主義を〈啓発〉《けいはつ》されてしまうほど、駅の建築物の数は感覚的無限の域に達してある。よって駅内のある地点からある地点へ移動するために、『駅』の中に駅を設けて列車を走らせるといった、どこかメタフィジカルな手段が発達したのは当然の帰結と言えた。  にもかかわらずオキカゼは、それら路線を一切頼らず、彼が独自に編み出した、彼しか知り得ない道筋のみ辿って移動する。否、建築群の屋根裏空間、屋上、排気ダクト果ては渇水した地下水路の河床まで用いた道行きは、もはや道などと称するにはいささかの躊躇いさえ覚える。  ここは慎み深く獣道、と言いたい。地下に〈潜〉《もぐ》る事三回、今度重厚なマンホールの蓋を、巣から顔出す〈戸立蜘蛛〉《トタテグモ》よろしく押し上げ、オキカゼが這い出たそこは、線路ばかりが幾列も幾列も連なった、端から端へ横切るだけでも足裏に〈肉刺〉《まめ》こさえそうな程広大な操車場。様々の列車が一時停車して、次の出番を待っている。  オキカゼは頭を巡らせ、列車の一個連隊さえ駐留可能な規模の大操車場の片隅に、ぽつんと一両だけで停車している車輌を認め、唇の端にやりと吊り上げる。今朝はまだ『巡業』に出発する前だったようで、少年にとっては楽しみの種が、もしかしたら新しく一つ二つ増えているかも知れない。まだ彼女は眠っているのかも知れないが、その時は優しく叩き起こしてやろうかな……。  近寄ってみるとその車輌が、駅内で通常運行している同型車両とは趣が異なっていることが認められよう。ディーゼル機関の単行列車なのだが、駅内の同類がリベットもごつごつとした無骨な車体をしているのに引き替えこちらは、ごく控え目ながら端々に劇場を想起させる装飾が施されてある。車窓の内に降ろされたカーテンも細やかな刺繍地の、ただ全体的に、どうにも意匠の感覚が古くさい、老嬢の、かつて華やいでいた時代を今に引きずり出して無理矢理に引き留めているかの、裏侘びしさがつきまとう。  あきらかに他の列車と異質なこの車輌の正体は、車体の横に〈嵌〉《は》めこまれ、前面の、本来なら行き先表示標が有る位置に下げられた真鍮プレートを読めば安易平明に判明する。曰く。   『  甘夏省景光河北部第一衝合駅公認      公共映像情宣活動車輌        シネマトレイン  ニューパライソ  』    ……訂正したい。駅管理部のお役所用語では安易平明どころかますます混乱を招きかねない。この一両だけの車輌、要は移動式の映画館である。駅内広報局の外郭に属し、駅唯一の移動型映像施設として、駅の利用者や駅内に居住する者達への情報宣伝活動や娯楽提供の任を負うている。  その上映はほとんどが屋外映写式。駅内のあちこちをぐるぐる巡りながら、線路沿いの広場の柱に掛けられたスクリーンへと、車内から牽き出した映写機でもって投映する。観客達はシートを広げるなり携帯椅子を持ち出すなりして観覧し、音声は上映技師より配られた小型ラジオからイヤホンにて受信。  この方式だと野外が上映に耐えるくらい暗くなる夕方以降に活動時間が限られそうなものだが、オキカゼが先ほど懸念したように、映画車輌は日中も定められたダイヤに従って、駅内各地で巡回上映を行っている。一応車内にも客席は設けられ、少人数に限られるのだが内部でも上映は可能なのだ。  とはいえ客室の面積、観客席の数が云々言う以前に、この映画車輌はそもそもからして、巡回を待ちわびているような客など少なく、日中の客席も夜間の広場でも、人の客より閑古鳥の格好の休憩場となっており─── 『        休業日     本日の上映は ありません    』    と、乗降口の扉にぶら下がる上映予定の黒板の書き付けの字体は、見るだけで心がささくれ立ちそうに線が細く棘々していて、白墨で記された文字というより、釘で憎悪を籠めて〈彫〉《え》りつけたのではないかと疑わしくなってくる。オキカゼ少年は映画車輌の管理人の手になると思しきその字の、いつも通りの個性的な悪筆に半ば感嘆の苦笑漏らしながら、留守なら仕方なし、まだ眠っているならこれで起きるだろうとて、革手袋の拳でがんがん扉を叩きつけようとして、ふっと途中で手を止めた。  車内から何事か聞きつけたのだろうか、風に兎の気配を嗅いだ狐の顔つきで扉へ眼を細め、やおら、上着の隠しから引っぱり出したのが、銅製の円盤の、軽く振り出せば拡声器を〈縮〉《つづ》めた形に伸びる。驚くまいてや、まあ今時どんな医者でも使わないような、単耳式の〈聴診器〉《ステート》である。そっと慎重に、サアカスの座長から盗人へ鞍替え式の身のこなしで聴診器を扉に当てて、端を耳に宛がう、と。  一方、映画車輌のその中では。  ひたすらに。  一心に。  書物の世界に没我する娘の姿は、〈玻璃〉《はり》の瓶の中に封じこまれた星々の光と等しい価値の、それ一つで美しく完結した貴さを、〈佇〉《たたず》まいの中に宿している。  生真面目さが余って、やや権高な印象を与える水色の眸も、鼻筋や頬に散って野暮ったい〈雀斑〉《そばかす》も、綺麗に磨かれてはあるが、同時に堅物そうな印象を与えてしまう眼鏡も、真剣に読書する娘の凛とした精神性をいささかも減ずるものではなく、気高さをさえ漂わせた。  朝の映画車輌の中の客席。  かつての華やかさを〈老残〉《ろうざん》に替えた車体の外観と同じく、車内の客席も一見して劇場を切り取ってきて〈嵌〉《は》めこんだかの感はあるのだが、改装前の地金は所詮は三等席で、椅子は板張りの、〈猩々緋〉《しょうじょうひ》の〈毛氈〉《もうせん》が張り敷かれていても申し訳、座り続ければ尻に〈堪〉《こた》えるだろう。  その片隅に座して読み耽る娘は、そんな椅子の硬さなど意に介した風もなく夢中。座る形だって、列車の木椅子にわざわざ正座の。  顔の前に片手で〈翳〉《かざ》した書物は廉価な文庫本だけれども、書物の価値は装幀にあるのではなく、どれだけ人に愛好され読まれるか、にある。その点でいえば文庫本は角が擦れて綴じも緩んで、さぞや娘に何度となく読み返された事だろう。 「ああ、ドミートリィ様……」  不乱に。  専心して。  呼びかけた声は、黙読を続けていた唇が彼女自身の内圧に耐えかね〈零〉《こぼ》してしまった音。それだけに純粋で、限りない感嘆それだけが〈析出〉《せきしゅつ》されていた。その名は寒い国の文豪の代表作の劇中人物のもの。人間存在の信仰や死、兄弟間の骨肉の葛藤をまざまざと活写した物語は、なるほどこの娘の魂を夢中にさせるに余りある。  〈堪〉《こら》えきれず呟いてしまった声の他は、〈繰〉《く》られる頁のあえかな響きだけ。それさえも耳に迫るほどの〈静謐〉《せいひつ》、娘は背筋にぴんと芯を通して書物に真っ向から対峙している。  その集中は、薄氷で造った薔薇と同じく、触れただけで粉々に砕け散ることだろう。妨げはすまい、と息を殺して見守りたくさせる真剣さと、同時にいっそ砕いてめちゃくちゃに壊してしまいたい、と発作的な衝動抱かせてしまう危うさを、娘は同時に内在させていた。  この赤金のおかっぱ髪の娘、年の頃ならオキカゼより二つか三つ上くらいの年若な彼女こそ、映画車輌ただ一人の管理人なのであった。 「ドミートリィ様……」  〈静謐〉《せいひつ》の中に、また、声を漏らす─── 「あたしも……あなたの……」  娘の魂を共鳴させるのは、劇中の青年の苦悩か、絶望か。 「あなたの、〈逞〉《たくま》しくて、ぶっとくて、おっきなアレに、ずんずんて、突かれてみたいよう」  ───なんだとて? 「どんな感じなんだろ、男のアレを挿入されるのって。気持ちいいのかな、気持ちいいんだよね、だって」  一度堰が切れてしまえば後はもうどろどろどろどろ、噴き〈零〉《こぼ》れる鍋の汁のように止まらない、止められない。  よくよく耳を澄ませば、聞こえてくるのは頁を〈繰〉《く》る音に加え、くっちゅくっちゅとな、猫の舌舐めずりとよく似た音が、娘の下半身から。正確に描写すれば、スカートの内側深くに差し入れ、ショーツの〈股布〉《クロッチ》の脇から〈潜〉《くぐ》らせて、なぞり、〈捏〉《こ》ね回し、這わせ、〈摘〉《つま》みあげ、沈みこませる片手の指先で、粘つき弾ける愛液が立てる音である。 「だって、カチェリーナってばレイプなのに、これ強姦なのに、無理矢理なのに、こんなに気持ちよさそう」 「でもそんなにされたら、あたしきっと壊れちゃう……壊れ……る……壊れちゃうほど、気持ちいいのかな……ん、ん、はぁぁ……っ」  淫核を圧したり転がしたり、指〈遣〉《づか》いは実に巧みで慣れきったもの、どういう運指がどのような快楽を自分に与えてくれるのか、それこそ熟練の〈拳銃使い〉《ガンスリンガー》が愛銃の扱いを知り尽くすが如く熟知しきって、彼女がどれだけこの自慰行為に没頭して習熟したのか、実に見やすく物語る。  正座しているのだって、それが彼女のお気に入りの自慰の姿勢だったから、というだけのこと、そうやって〈太腿〉《ふともも》で手首をきつく圧迫して秘部を〈弄〉《いじ》るととっても気持ちいい。背筋をぴんと伸ばしているのは、秘部から突きあげてくる快感に、背が弓を引いたようにきゅっきゅっと反ってしまうから、というだけのこと、とってもとっても気持ちいい。  愛蜜は秘裂の舌肉の形が判らなくなるくらい多量に湧きだして、娘は淫核だけでなく膣口にも指先を〈潜〉《もぐ》らせてみるけれど、あくまで浅く、入口をまさぐる程度に抑える。  膣の奥が、腹の底が、女として子を宿す器官の入口が、もっと深い挿入をねだって〈疼〉《うず》いてたまらないというのに、娘がかろうじて入口周りで指を留めているのは、そこがまだ何者の侵入も許しておらず、それより奥は処女の証で秘やかに守られている故に。 「あっ……あっ……。シたいなぁ……シたいよう……セックス、あたしもシてみたいよ……んぅ……」  映画車輌管理人のこの娘、駅広報局の外郭という閑職とはいえ、曲がりなりにも一つの車輌を任され、外見も生真面目な、学生であったらさしずめ級内のガリ勉嬢か規則に厳密屋の委員長型であろうに、人が見ていないと思えば朝っぱらから頬を火照らせ息を熱く湿らせ、安いポルノ小説に妄想を暴走させ、自慰に夢中。  いかに堅物そうに見えようと、一皮剥けばこれである。エロ方面への願望と妄想ばかりがいつでもはちきれんばかりに肥大して、何時かは自分も〈目眩〉《めくるめ》くセックスの海に飛びこみたいと、〈希〉《こいねが》いつつもこの年まで恋人どころか浮いた噂の一つもなくいまだに処女。もう何といおうか、目を〈背〉《そむ》けたくなるというか可哀相で見ていられなくなるというか。  今朝だって、折角、純白のスーツ凛々しく〈襟〉《えり》の花差し穴に薔薇を差した美男子に、お姫さまのように優しく口づけされて、娼婦のように荒々しく扱われて処女を奪われる、という素敵な淫夢を貪っていたのに、解除し忘れていた目覚ましい時計のけたたましい騒音で、貫通寸前で掻き消された。  おかげで下っ腹に中途半端に昂ぶりの〈燻〉《くすぶ》って、鬱屈も溜まって、それでついついポルノ小説なんぞを手に取ってしまったからもういけない。 「はぁぁ……ぁっ、あたし……イく……もうイく、よ……っ」  来る、じきに来る、性器の一番敏感な部分からちりちり湧き起こる快感が、臨界を越えるその瞬間が、じきに、もう、すぐに。お腹の奥底へと〈兆〉《きざ》した絶頂の波、〈手繰〉《たぐ》りよせようと娘は熱に浮かされたように指〈遣〉《づか》いを、より密に、激しくしてそして─── 「ン───んんぅぅぅー……っっ!」  きゅうう、と子宮が収縮する、膣内が強く〈蠕動〉《ぜんどう》する、娘は絶頂に押し流される。椅子の背板に後頭部を押しつけるように背筋を反らし、体が強ばって、数瞬、やがてふっと弛緩して、快い浮遊感に身を委ねる。 「あァ……イっちゃったぁ……」  スカートの〈裡〉《うち》から手を引き出せば、指先はべっとり濃い愛液にまみれてぬらぬらと、粘膜に覆われた稚魚のよう、指の腹などはどれだけ長いこと自慰に耽っていたのやら、すっかりふやけ皺。〈拭〉《ぬぐ》わないと、と娘はポーチから花紙を取り出そうとする。まだ快感の余韻に浸っていたいけれど、性器だって手早く後始末をつけないと、すぐに冷えてやがて押し寄せてくるだろう一人遊びの淋しさ虚しさを、更に深くしてしまうから。のろのろ身じろぎ始めた矢先に、鳴り響いたのだ。  客車の昇降口がばんばん叩かれる音、あまりに唐突な上にその間の悪さ。〈脊髄〉《せきずい》反射で体が跳ね上がり、思考が頭の中から蹴り出され、恐慌が娘を呑みこんだ。               『おーいアージェント。いるんだろ? それともまだ眠ってやがんのかぁー?』              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 『あっ……あっ……。シたいなぁ……シたいよう……セックス、あたしもしてみたいよ……んぅ……』  ……〈聴診器〉《ステート》を通して盗み聞くだけでも反倫理的な胸のざわめき立ち籠めるのに、加えて声は快感に上擦る女の子の声と来ている。大概の男なら、妖しい衝動に理性が蚕食され、〈身〉《み》の〈裡〉《うち》の雄が勝手に応えていきりたってしまう、というのがまあ当たり前の反応だろう。  しかしオキカゼの、喘ぎ声と聞き分けておきながら、浮かべてみせた顔は、物食ってる人間の咀嚼中の口内をうっかり凝視してしまったときのそれ、曰く言い難くしょっぱげな。 (あいつぁまぁたせんずってンのかい……)  客車の〈裡〉《うち》から伝わる気配に、なかば予想はされたことであったが、改めてそうと確認してしまうと、何やら〈憐憫〉《れんびん》に近い情さえ催すオキカゼの、盗み聞きして置いてなんとも勝手な感慨、ではある。 『はぁぁ……ぁっ、あたし……イく……もうイく、よ……っ』  孤独な自慰なのに、わざわざ絶頂を告げる呟きに、オキカゼはついむらむらと、このタイミングで呼びかけてやったらどうなるだろうと、悪戯心覚えたけれど、どうにか衝動を〈捌〉《さば》いて、終わるまで待ってやろうと首を振る。あまりに勝手すぎるとはいえ、情けは情けとまあ言えなくもない。  やがて切なげに高まった喘ぎ声と、続く虚脱した吐息を聞き届けてやったなら、もう待つ事もない、とオキカゼはがんがん乗降扉を叩いた、それは〈叩扉〉《ノック》というにもいささか乱暴な。 「おーいアージェント。いるんだろ? それともまだ眠ってやがんのかぁー? 起きろ、起きろってばやーい」  たちまち、中に弾ける〈狼狽〉《ろうばい》しきった気配、声なき悲鳴とばたばたと慌てに慌てた足踏みと、がん、ごんと何事ぶつかる振動まで鳴ったは、泡食ったあまりにあちこちぶつけたせいか。  バン! と扉が開かれた勢いたるや、鼻先に空気の塊が軽い当て身とぶつかってきたくらいであり、仁王立ちしてこちらを〈睨〉《にら》みつけてくる〈雀斑〉《そばかす》顔は真っ赤に茹だって、巣を暴かれた〈麝香猫〉《ジャコウネコ》だってここまではないだろうという形相は、しかしオキカゼにはただ怒気だけに根差しているのではないとよくよく〈諒解〉《りょうかい》されてある。 「おはよう、アージェント。いい朝だな」 「……何の用っ!?」  鋸刃のギザギザより尖りきった声音と、眼鏡という間仕切りを一枚置いているにもかかわらず、肌を灼くほどの視線の憎悪熱、を少年は平然と流して、 「そりゃああんた。客が〈映画〉《シャシン》屋に用事つったら、〈映画〉《シャシン》を見に来る以外に何があるってかい」 「ここになんて書いてあるか見えないの? お前の目はビー玉か何かな訳? ああそういえば読み書きも習ってなかったんだっけ? だったら〈映画〉《シャシン》なんて観てないで、字の一つでも覚えたらどう!?」  休業を告示している案内板をばんばん叩いて示す手つきも〈捲〉《まく》したてる声も荒々しい、肩口からは怒気が陽炎めいて立ちのぼってもわもわもわ。〈雀斑〉《そばかす》の娘としては憤激の炎も当然なところ、その上オキカゼが、彼女より年下の子供が、唇に貼りつけているにやついた笑みで油を注いでくれたものだから、発作的に平手を喰らわせてやろうと振り上げたところに、 「まあまあ、そう言うない。〈映画〉《シャシン》っつってもそっちの方じゃないんだよ。……そろそろ、新しいのが入ってる頃合いじゃないかって思ってさ」 「『ブルートレイン』の方のな。  な、アージェント・〈猫実〉《ねこざね》・ヘッポコピー?  そっちは休みとか関係ないだろ?」 「……。……。……」  少年の問い掛けに、娘は押し黙って顔を〈俯〉《うつむ》けて、すればオキカゼの頬がすうっと涼しくなった事が、彼女から発せられていた怒りの熱の程を示していよう。そして、視線を降ろしたからといって娘の怒りが減じたのではない事を、震える肩口、固く握りしめられた拳が示していよう。  次に顔、〈屹度〉《きっと》と振り上げた挙動を、引き上げられる撃鉄と見たオキカゼは全く正解で、首筋ひやりと冷やした殺気に身構えておらなんだら、次の瞬間に娘の、スカートの〈裾〉《すそ》のフリル巻き上げ撃ち上げてきた膝頭が、睾丸辺りに深々とめりこんでいたに違いない。  寸前で飛び退ってかわしはしたものの。  オキカゼの睾丸は古漬けの梅の実よろしく縮み上がり、内心ではちびりそうなところを抑えるのが辛うじて、だったとか。 「あっぶねえ……」 「くっそう避けられた!  てかさ、ブルートレイン言うなって、  何度もいったよねあたし。  それからあたしの事、  フルネームで呼ぶんじゃねえってのも、  何度も言ったよなあああっ?」 「えー、ナニをそんな気にしてるんだ、ヘッポコピー。それに〈ポルノ〉《ブルーフィルム》流す列車だろ、ここ。やっぱりブルートレインで合ってんじゃないか、な?」 「言うなあああっっっ」  映画車輌管理人、アージェント・〈猫実〉《ねこざね》・ヘッポコピー。何故かは知らねどフルネームあるいはセカンドネームで名を呼ばれると、途端に機嫌を悪くして怒りだす。駅の住人達は、どうしてなんだろうねーとそれは不思議そうに首を傾げる、その口元が、笑いを〈堪〉《こら》えきれずにひくついている。  アージェントの名前は変えようもない厳然とした事実であるし、そしてブルートレイン云々に関してもまた、〈粛々〉《しゅくしゅく》たる現実なのであった。  映画車輌『ニュー・パライソ』が普段上映する映画というのは、駅の広報局が製作した退屈な、駅の宣伝利用案内映像か、さもなくば一世代も二世代も前の版権切れの古い映画ばかりで、終戦直後の娯楽に飢えていた時分ならともかく、もう今となっては一部のマニヤ以外には需要的に相当厳しい、客足はどんどん減っていく一方の、さびしい限り。  それらの映像映画に関しては、基本的に駅から映画車輌に配給され、サービスの一環として無料で上映されている。ではアージェントがいかにして日々の糧を得ているかというと、それは駅からの棒給に〈拠〉《よ》っている。  ただ、その棒給も、ようやく食っていけるかどうかの微々たる代物で、アージェントととしてはなんらかの副収入を得ない事には、嗜好品もろくに〈購〉《あがな》えないような、潤いに乏しい生活を強いられる。〈蒲公英〉《タンポポ》の根っこを煮出した代用珈琲を、おつな風味と言えるのは、本物の珈琲の味に慣れた者の傲りであろう、の、ともあれだから、アージェントは駅から配給されたフイルム以外の映画を秘かに流し、そちらで金を得る必要があった。それは。  一つの〈媒体〉《メディア》として、人心に訴求するに何が手っとり早い手段といって、言うまでもなく性欲を刺激する事である。これは何時如何なる時代であっても普遍する事実であり、アージェントはその則に従って、駅からの配給映画の裏でこっそりと、各種ポルノ映画を提供して金を取っていたのであった。 『〈ポルノ映画〉《ブルーフイルム》』を流す車両、だから『ブルートレイン』。非常に理解しやすい通称である。  もちろん駅管理部側に発覚してしまえば映画車輌は公認取り消しに処されること確実で、そうなってしまえばアージェントは身の置き処を失う故、ポルノを上映するにも当然客車の中に限って、場所と時間もまた秘密。上映地点と時刻は映画車輌の裏の顔を知る者達にしか報せず、口外法度を彼らに言い渡してある。  ……とはいえ。  人の口には戸を立てられぬがなんとやら。  駅側も、アージェントがあまり派手にやらかさない限りはと、その小遣い稼ぎを黙認している節が見受けられなくもないであるが。 「まあそんなことよりさ、実際どんな感じ?  新作、ないのか? 俺さ、今度のは金髪令嬢ものとかがいいんだけど」 「知るかぁっ。だいたいああいう〈映画〉《シャシン》はそうぽんぽん新しいのが入るものじゃないし、なんであたしがお前の趣味なんぞを優先してやる筋がある」  そしてこのオキカゼも、アージェントの秘密上映会の噂、何処で聞きつけてきたものか、客数に混ざるようになっていて、気がつけば今ではすっかりと常連の一人だ。客席の暗がりの中、目を助平根性に〈絖〉《ぬめ》らせてスクリーンの痴態に見入る客達の中でも、やはりと言おうか最年少。発情期に合唱する蛙たちにまだ尻尾も取れてないような〈蝌蚪〉《オタマジャクシ》が混ざっているような塩梅で、さしものアージェントも困惑したものだし、始めのうちは何度か追い出しもして、他の客には次の上映予定の口止めを徹底させた。なのに気がつくと毎回客席の片隅にちゃっかりまぎれこんでいる始末で、アージェントとしてはいまだ認めたつもりはないが、根負けした形となっているのが現状の。  彼の如き少年が〈猥褻物〉《わいせつぶつ》に触れる事の倫理的是非などは、アージェントにとっては余所の国の小豆相場の上がり下がり並みに興味のない事柄なのではあるけれど、それでもオキカゼの、エロ映画をのこのこ眺めに来るという行為を、認められない許せない〈理由〉《ワケ》が彼女にはある。 「……てかなんでまた観に来てるんだか。お前には〈沙流江〉《シャルーエ》って〈情婦〉《イロ》がいるんでしょうに。ちゃんとセックスする相手がいる奴は鑑賞禁止だ〈帰〉《けぇ》れ〈帰〉《けぇ》れ」 「……はん? そんなこと誰が決めたって? 五月蝿いな、あたしがそうだっつったらそうなの。ごちゃごちゃ抜かすとまっ〈裸〉《パ》になって屋根に登ってげらげら笑うぞ。根暗の処女を舐めんなよ?」  爆発したのは陰湿で手のつけられないほどの〈悋気〉《りんき》、アージェント、映画車輌管理人の娘。  だいたいエロ映画好きで性欲過多のブルートレイン常連客とこれまで触れ合ってきて、一度たりともその手の悪戯も口説き誘いも受けたことなくいまだに処女というのは、見た目はともかくとしてこの性格が災いしている事は今更論を〈俟〉《ま》つまでもなかろうて。  セックスへの異常なほどの妄想と執着は、元々の性質なのかも知れないし、あるいはただ一人の映写技師も兼ねているから、ポルノを掛ける際はどうしても付ききりで映像を見つめ続けてきたせいかも知れない。数えきれないほどの〈猥褻〉《わいせつ》映画を目の当たりにした過程で、より一層深く濃く、彼女の中の性的事柄への悶々と鬱屈は煮詰められていった事だろう。  操車場の線路と線路、停車していたり軌道を転換していたりの列車の群れ、の輪郭を澄明な線に磨き上げている朝の輝きも、アージェントの陰気な〈悋気〉《りんき》の前には退散し、〈喚〉《わめ》き続ける彼女と映画車輌の周りだけはアッシャー家に面した沼地の〈障気〉《しょうき》に取り巻かれたかの空気の悪さ、明かりが〈澱〉《よど》んで気圧まで下がっているのであるまいか。さしものオキカゼも苦笑いでなだめにかかったがもう遅きに過ぎて、余儀なく退散する他なく。  それでも逃げ出しながらも、足取りは軽い。それもそのはず、オキカゼは今日ようやく、以前からあちこちに根回ししていた、念願の品を手に入れていたから。それが背中の袋の中で踊っていたから。  なおオキカゼの為に、アージェントが先だって仕入れてきた作品中には彼お目当ての金髪令嬢物はなかった事を記しておこう。ちなみに今回のブツは『温泉みみず芸者』『温泉こんにゃく芸者』『温泉スッポン芸者』『温泉おさな芸者』といった、笑えばいいのか欲情すればいいのか判断に困る一連のシリーズであったというが、ま、それは〈却説〉《さておき》───  アージェントが仕入れてくるポルノ映画は、前述のようにその手の〈本職〉《プロ》達が製作したフイルムも有るのだが、相当数の割合で、素人が撮ったと思しき、〈所謂〉《いわゆる》盗撮物が入り交じる。  それだけならまだしも、それが駅の住人達の性生活の赤裸々な実態映像を専らとしているとなると穏やかでは済まされない。  つまり好き者がポルノを覗きにいってみると、そこでは自分の赤裸々なあれやこれやが丸写しになっている、と言うことが有り得るわけだ。  アージェントも流石にこれはまずいだろうと、掛けていたフイルムがそれだと判明した時は上映を差し止めたのだ。が、客の方がアージェントが唖然とするくらい食いつきを見せ、しつこく再上映を強請ってきたのに押し切られ、以来駅のプライヴェート盗撮フイルムはブルートレインのポルノの中でもかなり需要の高いジャンルとなっている。  事はアージェントの映画車輌に限られた話ではない。彼女がエロ映画を仕入れる際は、馴染みの業者からまとめ買いして値引きさせているのであるが、その束の中に必ずといっていいほど件の盗撮物が混在する。つまりは駅のアンダーグラウンドではそれは相当数出回っていると言うことで、駅の住人の中にもこの〈尾籠〉《びろう》な事実を知る者はそれなりにある。すなわち、自分達の性生活を何者かに〈窃視〉《せっし》せられている、という事を。 (それどころか、駅の住人の中には、それらを〈諒解〉《りょうかい》した上で、セックスのスパイスとしている強者すらあるとかなんだとか)  もちろん駅管理部側も、事が駅の住人、利用客の私生活に及ぶとなると、これを問題として扱わざるを得ず、捜査の手を伸ばした事もないではなかったのだが、まず一体いかなる何者かがどういった手段を用いて盗撮行為に及んでいるのか、という段階でいきなり手詰まりを迎えた。その流出規模からしてなんらかの組織が関与しているとしか考えられないのに、その活動状況についても規模についても、なんら痕跡というのがない。  取り扱っている業者自身も、進んで仕入れた覚えはなく、いつの間にか自分達の商品の中に混ざっているのだと、一人だけではなく何人もの故売屋が、口裏合わせた訳でもないのに揃ってそう言い張るのはいっそ奇怪ですらあった。  そればかりか押収した盗撮ポルノのフイルムのことごとくが保管庫の中から一夜にして消失するという異常事態まで続発した。為に駅管理部側も、手をこまねいている、というか放置するしかないのが実状の、そんな訳でアージェントの映画車輌も、泳がせる、という名目もあってか放置されている……。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  駅は、その地表の多くが石灰と粘土に砂、小砂利などの混合物、つまりが〈混凝土〉《コンクリート》や煉瓦あるいは木板などで覆われ固められ、土埃が発生する要因は少ない。とはいえ地域によっては地面が露出している部分もあるし、駅を取り巻く周辺は彼方まで広がる〈索漠〉《さくばく》とした土の連なり大荒野、列車や人の移動に伴い土埃は運ばれるし、季節によっては大風が巻き上げ吹き寄越す。そういった土埃は、もちろん駅の清掃局や居住者達が大半を掃き清めるのだが、風、気流が吹き散らしていった先が、駅の活動にほとんど関わりのない無用地であったり、無人無住の区域であったりした場合、わざわざ清掃の労を費やすまでもなく放置される。  その一画がまさにそういった場所で、そちこちの隅に溜まった土埃を、物好きな地質学者が分析してみれば、幾世紀も前からそこに溜まっていた事が案外明らかになるかも知れない。とはいえ塵芥などは無視する気になればなれるもの。  あまりに駅の奥まった区域にあるそこを知る者はほぼ皆無といって過言ではなく、〈慮外者〉《りょがいもの》の侵入の気遣いがない、かつ雨露がしのげる、という二点を見るなら、多少の埃っぽさなどはある種の要件を求める者にとって卑猥な形に育成されたトマトのようなもの、戴くにあたってなんら差し支えはない。  ある種の要件、すなわち、そこで起き臥しする事。  三方を〈遮蔽〉《しゃへい》する分厚い壁には窓の一つもなく、それぞれが全て異なる建築物の背中であり、天界の気紛れによる組み合わせがひねり出した、奇跡のような駅の隙間めいた空き地の一つであった。壁ばかりではない、上方に張り出してきている陸橋などは〈誂〉《あつら》えたかのように格好の屋根。屋根とはスレートや瓦などで〈葺〉《ふ》いてあるものであり、車輌が通過して行く度、けたたましい騒音や腹に〈堪〉《こた》える振動を降らせたりはしないものだ、などと抜かすゼイタク者は、虚栄心の底知れぬ深淵に我が身を投げ入れて〈藻掻〉《もが》き苦しむがいい。  そんな駅の隙間に、女が一人。  大なる洗い桶を引き出してきて、その前に膝をついて洗い物の最中、といえば所帯めいた仕事の最中だというのに、華やかさと不思議をまとった女だった。  国から国へと流れ渡る放浪民族を思わせる、艶やかな色合いの衣装に包まれた肢体は美事に均斉取れて、手足も若木のようにすらり長く、一方乳房や腰などは、男を惑わして止まないくらいの〈艶麗〉《えんれい》な肉感を描き出してある。  伏し目がちの双眸と〈睫翳〉《しょうえい》は、暗さよりも〈濃〉《こま》やかな情愛宿して、優美な〈貌立〉《かおだ》ちに物柔らかな潤いを添えてある。  ただ───その女はやはり、美しいだけでなく不思議で。  見るがいい、彼女の額に開いた、第三の眼を。円く、湛えているのは澄んだ光であるけれど。周縁に施された刺青紋様と〈相俟〉《あいま》って、風変わりな宝飾物のようにも見えるけれど。  それでも───どうしたって人体部位の過剰と欠損はフリークスの条件なのである。  駅から東方に隔たる事数百万里、〈睿庫〉《ルイクゥ》省の〈淵〉《ユァン》山脈の奥地に住まう、始祖は石から生じたというとある民族では、百代おきにこういった三眼有する子供が産み落とされ、聖仏として貴ばれるとか。かくの如き伝承も残されているが、そんな辺境世界の変異人種など、駅の人間にとっては上弦の月を喰らうとされる獅子神と同程度の神話存在に等しい。そんな第三の眼を現実に備えているこの女は、〈人間〉《じんかん》にあってはどうしたって異人扱いは免れまい。  事実この女は、見世物、なのだった。  オキカゼ・B少年が主宰するサアカスの、見世物。  それがこの三眼の麗女、〈沙流江〉《シャルーエ》の現在なのだった。 「しばらく雨やはっきりしない空、続いたからね。うん、今日のうち、晴れ間のうち。汚れ物は片づけちまおう」  ごしごし洗ってざぶざぶ〈濯〉《すす》いでぎゅうと絞って水気を切る、一つの洗い物を片づける流れは〈滑〉《なめ》らかに遅滞なく、正しい所作の儀式をさえ思わせる。腕や首筋に散った雫はころころと珠となって転がり落ちていく、肌の張り、見たところ二〇代の半ばくらいの姿なのに肌などは一〇代の娘にも匹敵している。  それでも、別の汚れ物へと頭を巡らせるとき、双眸の目運びと連動する額の眼が、本来ない筈の部位にあるというだけで、どうしても異妖、の気色を振りまいてしまう。 「オキカゼが戻ってくる前に終わして、ガラ山の向こうに干したなら、きっとお昼になる前に乾くよ。よく乾いた、お天道さまの匂いは、焼きたての〈麺麭〉《パン》と同じくらい素敵さ」 「オキカゼだって嬉しいよね、綺麗で良い匂いの肌着は……オキカゼ、わたしが寝てる間にどっか行っちゃったみたいだけど……」  少年がふらりと、時間を問わずいなくなるのはいつもの事。時には数日にわたって〈塒〉《ねぐら》に戻ってこない事さえあったけれど、それでも最後にはちゃんと帰ってくる。だから沙流江にも彼の不在は慣れたもの、そして慣れてはいても、彼が〈傍〉《かたわ》らにいないという淋しさは、〈惻々〉《そくそく》と沙流江の〈身裡〉《みうち》に細波を置いていく。  別の洗い物を取って、洗い水につけようとすれば桶の水面には逆映しに女の〈貌〉《かお》、三眼の〈貌〉《かお》、だ。その麗しい〈貌立〉《かおだ》ちと姿に、異妖の付随品がある事は、彼女の美を良くも悪くも悪目立ちさせ、その生涯を平坦に送らせてはくれまい。  洗濯の手が、ふっと止まる、水に映った〈貌〉《かお》に思うは、他の人間と同じであったなら、どのような生を過ごしただろうか、との物想いにあらんか。けれどそれは哀しく虚しい想像の、沙流江はどうしたところで三眼の女、たとえ額の眼を〈抉〉《えぐ》り出したところで、三眼を〈喪〉《うしな》った女になるだけ、二つの目の常人になれるわけではない。  沙流江は、汚れ物を手に取ったまま、ふさりと両目を閉ざし、瞼を震わせた、〈身裡〉《みうち》に訪れた戦慄は、晩秋の葉を散らす雨の冷たさの、我が身の有り様を嘆く悲哀で───はなかった。 「オ……オキカゼのシャツ……。  ちょっと臭くなってるけど、  けど───いい匂いぃ───」  ちなみに沙流江は、別に桶に映った己の〈貌〉《かお》を見ていたわけでもなかったのである。彼女の視線はただただオキカゼの下着に向けられていて、するうちに眼差しに油のような照りが湧き起こるわ、小鼻が広がるわ息〈遣〉《づか》いが荒くなるわ。  遂に〈堪〉《こら》えかね、がば、と少年の下着に鼻面埋めたのが蜜を嗅ぎつけた熊のような猛然たる勢い、息が続く限り吸いこんで、味わって、〈堪能〉《たんのう》して、息継ぎの間もさえもどかしげにまた吸いこんで。 「すぅー……はぁぁぁぁ……すぅぅ……、  あ、これ……効っくぅ……、  なんか頭の鉢の蓋とか、  ぱっかり開いちゃいそなくらいだよぅ……。  う、うひ、いろんな汁、だだ漏れになりそ」  〈木天蓼〉《またたび》で一杯の樽の中に放りこまれた猫だとて、これほどまでには蕩けまい、沙流江は鼻孔から脳に〈衝〉《つ》きあげ、次いで尾底骨まで駆け降りた衝撃に、雷に打たれた如くびん、とのけぞり、臀の底まで降りたと思えば衝撃の、また〈脊髄〉《せきずい》をしごきながら脳天まで突き抜けていく感覚にもう耐えきれず、こてりと横様にぶっ倒れ、海老のように丸まり魚のようにびちびちと痙攣、布地の〈裡〉《うち》で乳首は痛いほど尖り、股の間も早々にぬるつき始めた。  もはや吸うだけでは飽きたらず、汚れ下着の布地、はむはむと唇に〈食〉《は》み、ちゅうちゅうと舌先で吸い、それはそれは物欲しげに夢中に、味わい尽くし、自分の唾液で匂いと味が薄れてきたと見るや、更に別のに、と手を伸ばし、いやはや、こうまで浅ましげなのは、阿片に〈耽溺〉《たんでき》する中毒者でもなかなかない。 「今度は……パ、パ、パンツ……っ。  これきっとさっきより凄い、物凄い。  そんなに凄いと、わたし、  爆発するんじゃないかしらん……っ。  でもいい、オキカゼ、どうにでもしてぇ」  沙流江の背後の、陸橋の補助柱として設けられていた錆びだらけの鉄柱に、しがみついて〈滑〉《すべ》り降りてきた者こそそのオキカゼ当人であったが、彼女は匂いとより密な接触を、と少年の猿股を頭から被ろうとしていたので気づかず。  女の体たらくに唖然としつつ駆け寄ってきたオキカゼに、猿股を〈毟〉《むし》り取られたその双眸、完全に正気が飛んで、彼が誰かも判っていない様子のただのろのろと、取り戻そうと手を伸ばす。  のを、オキカゼは沙流江の髪を鷲掴みにして、ざんぶと漬けた、〈傍〉《かたわ》らの洗い桶に、容赦なく。  しばらくは小さな泡が立っていたけれど、それがやがて止まって、沙流江の背筋がぶるぶる苦しげに振動し始めた頃合いを見て、押さえつけていた力を緩めて引き上げる、と、 「……どうにでもして、つったから好きにやってみたぞ。で、どうだ?」 「ぷはあああぁ……ああ、苦しくって、気持ちよかった。あ、オッキー、お帰り」  酸欠に白目を血走らせているというのに、表情自体は恍惚とさせていた辺り、この女がどういった性癖を有しているのかが透けてくる。〈貌〉《かお》をずぶ濡れにして沙流江の、〈莞爾〉《にっこり》の満面の笑みは、朝露を乗せて開いた花の輝き〈零〉《こぼ》れんばかり、なのにオキカゼが彼女を見返す眼差しは、どこか虚無的な。 「お前な、洗濯ッつって人の汚れ物に発情するの、もう何度目だよ……ま、いい」  あっさり気持ち切り替えた〈貌〉《かお》には、この少年らしい不敵な微笑が浮かんであり、 「沙流江、俺達がこの吹き溜まりにはまりこんでから、ずいぶん経っちまったよなあ。あいつも動かなくなってさ」  あいつ、と少年が視線を巡らせた先、沙流江も追って振り返る、この建物と建物の狭間の奥、北側の壁際のそこに。  うずくまる巨獣のように、ひっそりと停まっていたものこそが、オキカゼと沙流江の夢の城、二人の希望の筏、少年と三眼の女の未来への道標なる、それなるが、移動舞台───  外見としては、かつて映画やテレビジョンが勃興する以前、町々を〈経巡〉《へめぐ》っていたサアカス団の荷車に似通う。あるいは木造の貨物車を想像していただきたい。   『    史上最大の驚異とショー       バーナム トラベリング 曲馬団   』    と今はくすんでいるが、かつてはけばけばしい色彩に塗装されていた、一方の側面が展開して張り出し舞台となる仕掛けの車輌に、機関部を繋いだ、単行車輌だ。  アージェントの映画車輌は、映画館の体裁に似せるにあたってどうにも古くさい感覚に形造られたものだが、こちらの移動舞台は時代の流れに取り残されつつも生き残った正真正銘の古きモノ、そういったモノ特有の、しぶとさと哀愁が〈綯〉《な》い〈交〉《ま》ぜになった気配をまとい、今はただ静かに〈佇〉《たたず》むのみ。  思えばと、オキカゼは湧き上がる追想の波に〈暫〉《しば》し意識漂わせ、胸の〈裡〉《うち》に蘇らせるは、大荒野を越えてこの『駅』まで辿り着いた時のこと、つまりが、閉塞の日々の始まりの事。  新たな団員とショーの種を求めて、人と輸送の一大〈要衝〉《ようしょう》であるこの巨大な『駅』ならばその両方を見つける事も容易だろうと流れてきたのは顧みれば失敗だった。 (なお、申し加えるならば、その時オキカゼのサアカス団には座長の少年と見世物役の沙流江の二人しか団員はいなかった。かつてはもっと仲間がいた時期もあったが、〈紆余曲折〉《うよきょくせつ》の〈裡〉《うち》に離散して、オキカゼの他、結局残ったのは沙流江一人)  面倒なお役所廻りと余計な出金を〈厭〉《いと》い、駅管理部に興行の認可も取らず、通関も通らず、密入国に近い、というよりそのもののやり方で駅に〈潜〉《もぐ》りこんだものだから、まずは移動舞台をどこかに一時的に隠す必要があった。廃線となっていた軌道を辿り、この駅深くの空隙を見つけた時は、格好の隠れ処だと沙流江と二人、雀踊りに喜んだもの。なぜこんなところに線路を引き込んであるのか、その詮議立ては喜びに水を差すと捨て置いた。いずれこの空き地を資材置き場か何かに用いるつもりだったとか、その辺りだろう。  ただし二人の喜びも、ここまで移動舞台を押しこんで、一度停車させたきり、その後何をどうしようとも二度と機関に火が入らなくなってしまった事が判明するまで。  それまでも怪しい挙動を見せる事は多々あったが、こんなどん詰まりで動かなくなられては、と、オキカゼはそれは必死で機関部にあれこれ手を尽くしたものだ。しかし結局は機関停止の原因は不明、あくまで彼は座長なのであって機関整備士ではない、犬が鳥の真似したところで飛べる筈もない。そもそもこの移動舞台の機関部は、現在の所有者であるオキカゼ自身、完全に機構を把握し切れてはいなかった。 「直し屋さんとか、呼んでみればよかったンかねえ……今思うと、さ」 「そんなん呼んだところで、直るかどうかなんざ怪しいもんだし、代銭だって払いきれたかわからねえ」  そう粋がってみせたものの、すぐに、はあ、と情け無さげに肩を落として、 「……と、渋ったのが、やっぱり裏目に出ちまったんだよな……なんしろよう……」 「うん、だね……ここに舞台を停めてから、割りとすぐ、だったよね」 「ああ……あの、くそったれな橋が崩れてきやがったのは、よ」  と二人が移動舞台から次に目線を巡らせた先は、舞台の乗った線路が延びている方、この三方を壁で囲まれた空き地の西の一画、そちらは壁面も建築物もなく、唯一外界に続いている───否、かつては続いていたと言い換えよう。今はその一画は瓦礫が山と〈堆積〉《たいせき》し、完全に移動舞台の進路を塞いでいたのである。  また憎たらしい事には、瓦礫の山は両脇に人間程度なら迂回できるくらいの隙間を開けてある。しかし移動舞台にとっては、線路をがっちり塞いだ〈塞之神〉《さえのかみ》、動く動かない以前の問題として立ちはだかった。他三方が壁とあれば、もう移動舞台はがっちり〈雪隠詰〉《せっちんづ》めにされたに等しい。  行きはよいよい帰りは怖い、とは童歌にも歌うがここは天神様の細道などには〈非〉《あら》ずして、何故このような、〈奇門遁甲〉《きもんとんこう》で表すなら死門にも比すべきのっぴきならない窮地に〈嵌〉《はま》りこんだかというと。  この空き地には、アーチ様式の水道橋の下を〈潜〉《くぐ》り抜けて入りこむのだけれど、その水道橋がある夜突然、巨人の断末魔めいた轟音と共に崩壊したのである。  水道橋自体は既に遺棄されて久しく、周囲が水浸しにならずに済んだのはせめてもの幸い、などと達観できる状況ではないことは、二人にもすぐに理解された。  たとえ移動舞台の機関が何時の日か再起動したとしても、この瓦礫の山をどうやって越えて外界へ抜けろというのか─── 「アレからがっちりここに〈嵌〉《はま》りっぱだったなあ。けどよ、ようやくこっから出る〈手段〉《テ》をな、一個めっけてきたぜ……」 「えっ───それって───」  〈瞠〉《みは》った双眸ばかりでなく、額の目もまた心なしか径を増したような、沙流江の吃驚顔は少年の〈矜持〉《きょうじ》を満足させるに余りあり、大人の振りして平然を、装ってみても唇の端が得意気にひくついていた。 「こいつだ」  担いでいたずだ袋の口を解いて中身を見せる〈手捌〉《てさば》きには、火を盗んできたトリックスターの風格の幾分かさえ降臨してあり、魅せられたように沙流江が覗きこめばそこに。  薄茶色の、蝋引きされた樹脂材で包まれた円筒の何本か、〈一瞥〉《いちべつ》では蝋燭の親分格に見えなくもないが、沙流江はそんな呑気な代物に〈非〉《あら》ずと、もっとずっと剣呑なものだと本能的に感じ取った。 「オキカゼ、これ、もしかして」 「おうとも、マイトだ。〈伝〉《つて》を作るのにえらい苦労したが、やっと、どうにかな」  ダイナマイト、と知るとようやく沙流江にもオキカゼの意図が呑みこめてきて、胸元まで〈兆〉《きざ》していた不安は依然恐れの尖りを保ちつつも、少しだけ頼もしさの〈錘〉《おもり》が付いて、腹の底へと落ち着いていく。  何処かへと出かけていた、昨夜の夜半からの一走りだけではあるまい、おそらくオキカゼは、随分前からこの爆発物を得る為に駅中を駆けずり回ってあれこれ画策していたのだろう。 「じゃあオキカゼ、これであのガラ山、吹き飛ばそうって?」 「おうとも。けどさ、こいつのために、今までけちけち溜めてきた銭、あらかた吐き出すことになったが、いいよな……?」  オキカゼは心中に温めていたこの目論見、これまで沙流江に告げていなかった。それは爆破物の用意の当てが最後まで不透明だったからで、結局不首尾と終わった場合、彼女を糠喜びの壺に漬けこんでしまうのでは、と懸念したせい。  この年上の女に対してそんな憂慮を抱く辺りが、オキカゼ少年の心の機微を物語っているけれど、だからといってそれを、二人でこれまで蓄えてきた金を、断りもなく費やした事への言い訳としていいものかどうか。  そんな少年の危惧を─── 「そんなんいちいち訊かなくたって。だってオキカゼは座長じゃないか。一座の稼ぎをどう使おうと、そいつは座長の自由ってもんだもの」  少年の危惧、沙流江は実に呆気なく呑みこんでみせたのだった。  恐る恐る、細目に開けて外を窺う、扉の隙間から一瞬にして中に吹きこんで、部屋一杯を清爽とした心地好さにたちまち満たす風だった。  そんな、女だった。 「……話せるじゃねえか。そういってもらえりゃ、張りこんだ甲斐もあったってもんだ。軍用の高性能のヤツなんだとよ。起爆機はなんと無線式だ。そっちの電池の分は負けさせた」 「すごい、すごい、やっぱりオキカゼは凄い。  わたしができないことでも、何だってやってのける。やっぱり座長だよ、あんたはわたしの。  そうかぁ……これでようやく、なんだ」  二人の力だけではどうにも及ばなかった瓦礫の山の始末、マイトがあればけりがつく、と知った沙流江には、これまでガラ山が漂わせていた、冥府を監視する五十頭百手の巨人が意地悪く座りこんだような圧力があっさり減じたかに思われた。  相対的に、〈傍〉《かたわ》らの、彼女の背丈に満たない少年の、偉大さ、貴さがいかなる将軍、王族にも増してふくれあがった気がして、沙流江はオキカゼの前に膝を突き、その腰を思いの丈全てを籠めて抱擁した。 「オイなんだよ、感激しすぎじゃねえのか」 「そんなこと、ない。オキカゼは最高だ……」  この時だけではない。沙流江にとってオキカゼは、何時だって何処だって最高の、この身、我が心全てを捧げ尽くして悔いる心一欠片もない、ただ一人の存在なのだった。  あの日あの時、苦界で絶息しかけていた彼女を救ってくれた時から。  ……早い話がこの三眼の麗女、年端もいかない少年に、ベタ惚れもベタ惚れのだだ甘、もし今彼女の胸の中に充満している好意を匙で〈掬〉《すく》って舐めたなら、ほんの一匙で確実に糖尿病を発症しようという勢いである。 「いやまあ、まだ舞台の方が動くかどうかがわかんねえだろ。ま、とはいえそっちの方は、ガラ山さえ除けちまえば、適当な機関車なりを借りてきて、そいつに引っぱり出してもらえば済む話だ」 「とにかくこのどん詰まりから、おん出ることが先決だもんな」 「じゃあ早速、といきたいとこだが、昨夜からこっち、あちこち駆けずり回ってきたせいで体中汗でべとべとだ。先に流しておきてぇ」 「だからルーエ、いい加減離せってば。感激したふりでお前、また人の汗臭いとこで、すうはあ喘いでるなよな」  ばれた、と照れた笑みを漏らすも、腰に乳房たわませ柔肉の圧押しつけてくることを止めようとしない沙流江をどうにかもぎ離し、オキカゼは空き地の片隅、移動舞台が停まっている側とは反対の、南の壁際に張られた天幕へと足を向ける。 「俺は体流してるからよ、沙流江、その間にマイト、仕掛けておいてくれ」 「袋ン中、雷管がいっしょに入ってるだろ、そうその、麦わらみたいな奴。そいつをマイトの端っこにちょっと開いてる穴に差してな」 「あ。わたしも水浴び、一緒に───」 「いいから、言われた通りにしろっての」  隙あらば身を擦り寄せてこようとする沙流江から、意に沿わぬ抱擁の手をするり避ける猫のように身を逃す。  体を流す、というのは沙流江をかわす方便ではなく、思いついた時からオキカゼの頭の中一杯を占め、ほかの考えを追い出すくらい膨れあがった、それくらい、肌着をべとつかせる汗の悪心地の、酷さといったら。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ゴムホースに繋いだホウレン草缶の空き缶を、頭上に据えてバルブを〈捻〉《ひね》ればしょろしょろと、日向水程度の〈温〉《ぬる》い流れが、缶の底に幾つも〈穿〉《うが》たれた穴から流れ落ちる。高級ホテルのシャワーに比べれば、どうしたって〈浅蜊〉《あさり》の潮吹きのように弱く辿々しい水流の束なれど、駅の宿泊施設などに金を支払うなど慎むべきオキカゼ達にとっては、充分すぎるほどの洗浄器具である。今日などは雨続きの後だから、これでも水の勢いは強い方なのだ。  ゴムホースの端は、南側の壁の一画にのたくっている配管の一本に接続されている。流水抵抗や重力といった物理法則などを怪奇にも無視した、無駄な複雑さで曲がりくねる管の中に、どこかの貯水タンクから引かれているものがあると判明するに至った契機は、沙流江が行った水脈占いにあった。まだかつてこの空き地に辿り着いたばかりの頃、一番近い水場でも往復に小一時間はかかる地下水路くらいしかなく、天秤棒を担いでの階段の上り下りに愚痴を隠しきれなかったオキカゼに沙流江が持ちかけたのが、彼女の故郷の女なら誰でも覚えるという、その水脈占いとやら。  ただその、占いに用いる二股の枝の先が示したのが、地面ではなく南側の壁面であった時にはオキカゼも、うっかり信じて当てにしていた自分を笑い飛ばしたくなったものだが、沙流江が何時になく熱心に食い下がるのに負けて、なだめるつもりで、配管を中途から金鋸で挽き切ったところ、果たせるかな、本当に水が噴き出したのである。  ……赤錆で真っ赤で、最初は血でも噴き出したかと二人で大騒ぎしたものだが。  対策としては、〈棕櫚〉《シュロ》の繊維、木炭、竹炭、砂、砂利、小石、等々を層分けに詰めこんで濾過器と為したブリキ缶を、配管の途中に接続するという丸二日に渡る重労働で事足りた。以来、日照りが長く続けば枯れるというムラ気はあるにせよ、飲用、洗い物その他の生活用水として存在を確立するに至った。  そしてこの水場を得て、それまでは移動舞台の中で寝泊まりしていた二人は、水場を中心に天幕を張り、徐々に生活の場をこちらに移すようになる。移動舞台内には二人分の寝台くらいはあったのだが、オキカゼがあちこちからかき集めてきたボロ家具や日用品を置くには少々手狭であったし、やはり水場がすぐ〈傍〉《そば》にある方が、色々と便が良かったので。  足元に敷いた簀の子へ〈水飛沫〉《みずしぶき》を跳ねかしながら、汗を流す心地好さにオキカゼは吐息を漏らす。どれだけの時をこの駅で、この駅の奥深くの隙間で過ごしたろう。  少年が、駅の地理のおおよそを熟知するようになるくらい。三眼の女が、始めは顔をしかめていた、頭上の陸橋を行き過ぎる車輌の轟音と振動に、灯台守にとっての海鳴りと同様に、慣れきってしまうくらい。  それは、純理論者の見地からすればともかく、観念論者の立場からすれば星々の時間に等しくて、二人とも口にこそしなかったものの、移動舞台は二度と動くことはなく、やがて自分達はこの巨大な駅の猥雑さの中に埋没してしまう日が来ることを予感せざるを得なかった。  と、洗い場を区切る有り合わせの布地のカーテン越しに、沙流江の気配だ。下手にカーテンを開けっ放しにしておくと、沙流江が欲情して洗い場まで入りこんでくるのでそういう気遣いは欠かせない。これから派手な爆発なのだ、サアカス団の復活の狼煙なのだ、という矢先に下手なエロ気を考えているようなら、拳骨の一つでもくれてやる、とオキカゼは空き地に戻る前に映画車輌でポルノの新作をせびった自分を棚上げにして待ち構えていたのだが、沙流江は天幕の〈裡〉《うち》で〈暫〉《しば》しごそごそやっていたものの、やがて出ていって、少年に拍子抜けの感を抱かせしめた。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ───起爆装置は掌中に収まるくらい小型で、大破壊力の兵器の一部と言うよりは、なんらかの文房具とか知育玩具めいた軽々とした手応えで、オキカゼは少々頼りない念を催したけれど、何、すぐに判る、ちゃんと作動するかどうかは、すぐに。  ───いよいよ瓦礫を吹き飛ばす、という段となり、二人は瓦礫の山を迂回し、その向こうに出て、充分距離を置いてから、早速起爆させようと無線式装置のボタンに指先かけた時。  何事か気づいたように、慌てて言い差す沙流江の、焦りの意味をオキカゼ〈俄〉《にわか》には判じかね。 「え。ちょっと待ってオキカゼ」 「今さら何を待つ。やっとじゃねえか。ああそうだとも。躊躇うこともねえだろ」  水を差されるもどかしさ、お預けされて喜ぶ趣味はないとオキカゼ、沙流江をせっついたところ、言い出した台詞に少年は、反射的に起爆装置を投げ捨てそうになった片手、もう片手で押さえつけるのがどうにか間に合った。  下手に打ち捨てなどしようものなら、その衝撃でスイッチが入ってしまいかねない。  何をしてオキカゼをそのような発作的な挙に走らせたのか。  沙流江の本来の出自は辺境の〈蟲毒師〉《こどくし》の一族で、オキカゼを留めようとする想いが言霊に載り、手の中の起爆装置を毒虫に化体させた、などという裏事情は〈蚤〉《のみ》の頭ほどもない。  〈爪弾〉《つまび》き出された彼女の台詞はある意味、そのような呪よりも性質が悪かった。 「そうじゃなくって、あのダイナマイト、わたしガラ山じゃなくって違うとこに───」 「んだとう!? こ、このバカ女、このガラ山以外のどこに仕掛ける用事があるんだよっ。おお危ねえ、だが寸前で気づいてよかったぜぇ……」  ……まだ直前で判明したのが幸いもので、やれやれと仕掛け直しに戻ろうとして。先ほど体を流した〈微温湯〉《ぬるまゆ》程度の水だったけれど、心が急くあまりしっかり〈拭〉《ふ》いてこなかったのがまずかった、体が冷えてしまっていたのだろう。  オキカゼの鼻の奥に不意に走った〈痛痒〉《つうよう》は、さながら通り神の〈出来〉《しゅったい》にも似て、〈堪〉《こら》えようと身構える暇もなく、 「───にっ……きしっっンん〜〜ッッ!!」  まず爆発したのは、オキカゼの体躯には見合わないくらいの音量派手な大くさめ、至近で浴びた沙流江が思わずのけぞったくらい。  そして二発目、オキカゼのくしゃみなど、〈田螺〉《たにし》のおくび以下に下落させるくらい、爆発というのはこういうモノだと酷薄に突きつけてせせら笑うくらいの、正真正銘掛け値無しの本物だった。  手に、起爆装置を握りしめたままのくしゃみで、ボタンを思い切り握りこんでしまった事が招いた爆発だった。  瓦礫の山の向こうで。  二人が〈塒〉《ねぐら》としていた空き地の中で。  轟音と激震と閃光と、そして白煙。  それらが一瞬間の〈裡〉《うち》に同時に発生し、混在して二人の五感に襲いかかった、その衝撃たるや。  目と耳を〈劈〉《つんざ》き、ばかりか肌にまでびりびり応え、二人を瞬間的に凝結させる。  次いで数拍遅れて流れてきた硝煙が鼻腔と驚愕の形に開けていた口を侵した時、差すような火薬臭は呆けていた二人にはむしろ〈賦活〉《ふかつ》となり、硬直状態にヒビ入れて、だっと駆け出す、衝撃にまだ痺れたような四肢を無理矢理に動かせば、薄皮を引き剥がすような痛みさえ走ったけれど、それでも走り出す。  沙流江がダイナマイトをどこに置いていたのか、最悪の予感に戦きながら。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  例えば一本の針があるとして。  天使ならばその針の先に何人乗れるかという命題があり、その答えは無限数、彼らは物質的肉体を有さず、存在はしても空間は占有しない故に、だという。  では人の運命というのも物質ではないから、一つの針先に幾つも乗せられるだろうというのは〈演繹〉《えんえき》としては正しいのかも知れないけれど、しかし前提条件として運命というのは天使ほどの小器用さは持ち合わせてはいない。大体針の先端などに乗っていようものならその緊張と痛みに耐えかね、均衡を取るのは非常な困難事となる。  何が言いたいのかというと、針の先に乗っていた二つの運命のうち、一つは早々に脱落し、一つは今回辛うじて残ったとはいえ、それもそのうち転がり落ちるのであろう、という悲観的な観点にこの時のオキカゼ少年、至りつつあったと言うことである。  結果として、移動舞台が爆砕されるという最悪の事態だけは免れた。が、それまで彼らの起き臥しの場となっていた天幕が、天幕は。  もはや天幕ではなくなっていて───  オキカゼと沙流江は、壁の巨大な多毛類の這いずった跡が如き筆致の、   『     〈陸橋下辺的臭気〉《がーどしたのにおひ》     』    なる落書きと久方ぶりに再会していた。  壁布代わりに吊していた〈綴れ織り〉《タピストリー》〈絨毯〉《じゅうたん》の安い贋品の陰に隠され、そんな落書きの存在などすっかり忘れきっていたから、改めて眺めるとなかなかに新鮮ではある。  まあ二人にとっては新鮮というよりは、卓上に放り出された犬の胎児の死骸程に、いささか露骨に過ぎた事だろう。  なにしろその落書きが剥き出しになっているのは、すなわち〈絨毯〉《じゅうたん》が吹き飛んだ為にである。  〈絨毯〉《じゅうたん》どころか、天幕ごとである。二人がこの閉塞の日々、窮じながらもそれでも営々と積み上げてきて、それなりに馴染んできた身の回りの品一切合切が、である。  そして見ている間にも、件の落書きに亀裂が生じ、たちまちのうちにがらがらと崩落して壁内部の鉄骨を晒した、火葬後の骨を見せつけんばかりに。  オキカゼが手に入れてきたダイナマイトは、周旋した特攻隊崩れの隻眼の男の売り口上通りの破壊力、証明してみせていた。  沙流江は、瓦礫の山ではなく二人の天幕内部にダイナマイトをしまいこんでいたのだった。 「あー……そういやこんな落書きもあったよな。すっかり忘れちゃってたよ、はは……」 「うん……」  オキカゼの呟きは、日に焼かれて乾ききった鳥糞並みに〈乾涸〉《ひか》らびた笑いを伴って、一方相槌を打つ沙流江はといえば、枝振りの良い枝からぶら下がった縄とか大量のバルビツール酸系錠剤、はたまた紙を宛がって軽く引くだけですっぱり切れてしまうまでに研ぎ上げられた〈剃刀〉《かみそり》などが、実によく似合う風情に〈消沈〉《しょうちん》しきっていて、挽歌の類を歌わせて通りを歩かせれば、多少なりとも共感力のある人間なら、ぞろぞろ彼女の後をついて歩いて、終いには踏切を通過していく急行列車の前に進んで身を投げてしまいそう。  爆破の爪痕もありありと、それこそ特撮映画の大怪獣あたりが月経の苛立ちでもぶつけたが如き惨状に(どうやら雌怪獣らしい)、オキカゼは、この浮き世擦れして世間の憂き目というのも色々見飽きてきた少年にしてはあるまじき反応を示した、という。  すなわち現実逃避だ。例えば今日は〈薄靄〉《うすもや》が官能的なまでに垂れこめた駅の〈暗渠〉《あんきょ》に〈潜〉《もぐ》りこんで日がな一日釣り三昧に耽るのもいいじゃないか、とか。それとも今日は、〈人気〉《ひとけ》のない鉄橋に陣取って、穏やかな陽差しを満喫しつつ眼下を行き過ぎる列車を眺めてのんびりするのはどうか、とか。  なにしろついぞ今しがた文字通りの瓦礫と化した二人の生活の場であった天幕には、少年にとり想い出というて火の気も〈啜〉《すす》る粥も切らした厳冬の夜、抱き合って暖を取る積もりが欲情した沙流江に一晩中求められ、氷柱の寒気しのいだはいいものの翌朝オキカゼだけが妙に〈面窶〉《おもやつ》れしていたり───  あるいは腐りかけの廃棄弁当に中って動くもならずうんうん二人して〈呻吟〉《しんぎん》していたところ、かろうじて被害の度合い少なかった沙流江が甲斐甲斐しく汗を〈拭〉《ぬぐ》う下の世話する、うちにいつの間にか上に乗られて精〈搾〉《しぼ》り取られ、やはりオキカゼだけがただ食中りで消耗したというにも妙に影が薄れていたりなど───  斯様に過ごし日々の想い出は、どうにも〈尾籠〉《びろう》な残り香の、肉をくるんだ経木のようにまつわりつく。がそれでも総体の印象としては、やはり積み重なってきた時間に相応する思い入れというのがなきにしもあらず、であったのに。眼前に現出した爆発粉砕の情景は、呑みこむにはいささか角が尖りすぎていたし、受け容れるにも唐突に過ぎた。海千山千とはいっても所詮は小僧であるオキカゼ君が、巻き煙草の先がほろり灰となって落ちるほどの時間、声もなく放心いたしていたとしてもこれはやむを得まい。 「あの……さっきオキカゼ言ったのって『仕舞っておいてくれ』っじゃなかったっけ?」 「俺は、『仕掛けておいてくれ』、と」  ……二人の頭上一尺ばかり上で、恐ろしいくらい間抜けて白い空気が〈暫〉《しば》し滞留し、二人の額を〈澱〉《よど》んだ影で〈翳〉《かげ》らせる。  その聞き違えが単純でありがちなのかどうか、今のオキカゼには〈弁別〉《べんべつ》するのも面倒で、返した声音は機械的。  宙に漂い出しかけていた、オキカゼの魂的な不定形の気の塊を口の中にしゅんと引き戻したのは、ごすん、と〈傍〉《かたわ》らで鳴った鈍い音。弱めではあったが、柔な新兵の〈腑抜〉《ふぬ》けた性根を修正する為に振り下ろされる鉄拳あたりを想起させる響きだったから、で見れば沙流江は。  土下座であった。  人間の気高さとか魂の高潔性に痰を吐きかけて、糞尿の中に叩き落とすような。  それはそれはもう完璧なまでの、卑屈さで芯を作り、惨めさで肉付けして、隷属根性の皮を被せて完成させたような土下座なのだった。 「う、うあああんっ、わたしってばなんでこう、愚図で駄目で屑で無能でのろまのカメムシ以下の女なんだろっ、ふえええん、だからせめてオキカゼにはこの身体でもって尽くして奉仕するようそれしかないよう、好き勝手に肉人形として使ってくれれば、もうそれでいいからさあ、オキカゼ、オキカゼぇ……っ」 「……やめろよ、いいよ。俺も悪かったよ。ちゃんと確かめないと駄目だったんだ……」  実際この件の責任の所在に関しては、オキカゼも少なくとも半分は背負っているだろう。  それはオキカゼ自身認めざるを得ないところであるのに。  ごっすごっすと額を地に撃ちつける度、沙流江の艶髪が舞い乱れながら埃にまみれていく様は、オキカゼの心を〈寛恕〉《かんじょ》の気持ちで解きほぐすどころか、自分の奥底から卑賤な部分を掴み出される心地にさせた。 「ひぐ、ひぐっ、なんでもしますう、おしっこ呑めって言われたら上の口でも下の口でも一升だって呑み干すし、鼻フックと開口マスクつけっぱで豚鼻よだれ垂れ流しの毎日でいいし」 「汚ぇ!」 「あそこに輪っかピアスたくさんつけて鍵も通して、孔っぽこの管理はオキカゼにやってもらっても構わない、ううんして、ていうかそれで是非お願いじまずぅぅぅーーっ」 「聞いてるだけで痛ぇっ! そもそも俺にそんな趣味はねえ! 沙流江、お前俺の事なんだと思ってるんだ」 「じゃ、そんなら、そこらへんの犬っころ捕まえてきてその子と〈番〉《つが》うから! もう雌犬暮らしでいいから! あ、なら人間様の言葉なんて喋っちゃ駄目ってやつだ。わん、わんっ」  この被虐嗜好と隷属趣味が〈横溢〉《おういつ》した哀願の長広舌を、沙流江は〈嗚咽〉《おえつ》のスタッカートを差し挟んだ他は、実に〈流暢〉《りゅうちょう》に繰り出して、二人の関係性を知らぬ者が聞いたとしても、すぐさま結論づけるはず。  このオキカゼという少年は、まだ子供の癖に年上の女を徹底的に凌辱調教施して、身も心も性奴として〈躾〉《しつ》け終えてしまっているに違いない。  そうでなければこんなにも浅ましい土下座姿を晒しまでして、あれほど苛酷な罰を自ら願い出る理由が判らないから違いないそうに決まった。  ───事実は、さに〈非〉《あら》ず。 「てめえいい加減にしやがれえ!」 「きゃうーんっ」  誤爆の件についてはオキカゼ自身、反省も後悔も山盛りに積み上げられ、考えるだけでも肩にのしかかって重いというのに沙流江は。  まさにお犬様よろしく、仰向けに転がって腹を見せての屈服の体勢を取った、またそれがあまりにも嬉しそうで楽しそうで、オキカゼの心のどこかで苛立ちの泡が弾けた、ら、もう止まらなくなった、体が勝手に動いた。  とにかくこの女を大人しくさせない事には、自ら全裸となってこれまた自ら〈猿轡〉《さるぐつわ》を噛んで、首に『わたしはオキカゼ・〈B〉《バーナム》の奴隷で所有物です』とか書かれた板切れぶら下げて、駅内の主だった連絡通路を北から南に縦走してのけるぐらいの事は平気でやりかねない。  それはそれで、ある意味一旗揚げる一つの手段と言えなくもなかろうが、裸の女一人が走り抜けたくらいでは、駅の雑多過ぎる出来事の洪水の前では時を置かず風化してしまうだろう、却下だとオキカゼは沙流江を抑えこむべく掴みかかった。  掴みかかったつもりがむしろ待ち焦がれたように受けとめられて、沙流江の長い手や足がオキカゼに巻きついたのは柔らかな虎挟みか、逃れようと空き地の埃にまみれながら上になり下になりするうち、背中から地に押さえつけたのは少年も覚えている。  そこまでしたのに、女は押さえつけられ、自由の利かない手を動く限り届く限りと背後に回して〈藻掻〉《もが》く暴れ猫、そうやって少年の腕に足に爪を立てようと暴れているならまだ増しだ、沙流江はそこまで手荒に扱われながら、もっときつく強くとせがんできていたのである。  〈慄然〉《ぞっ》となった───そこまでは覚えている。  押さえつけるだけでは足らないか、と、燕尾服の隠しの中から細縄を扱きだして、小麦の肌に縄の朱色を重ね、戒めたのも覚えている。  そうするうちに、手首や〈踝〉《くるぶし》を飾っていた輪が外れて地表で弾け、あえかで華やかな、鈴のような音を立てたのだって覚えている。  けれど、けれど。  オキカゼには、一体どのようにして、このような体勢に持ちこまれたのか、その順番だけがどうしても判然とせず、まるで脳が理解を〈拒〉《こば》んだ、とでも言いたげな。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ぴちゅ、ぴちゅと粘い響きは、オキカゼの足元と、鼻先で、〈濃〉《こま》やかに、湯気までうっすら湧くくらいの熱を伴いひっきりなしに。  こういう粘ついた何かをかき回す類の音は、口を開けたままの咀嚼などの、人の生理的嫌悪を呼ぶような音の筈なのに、この今は、聞くだけで首筋の産毛を撫で上げられる様な絶妙な感覚をもたらす。  ちゅくり、と秘やかで、なのに〈裡〉《うち》に途方もない淫靡を含んで鳴る音は、オキカゼの鼻先にで〈跨〉《またが》る形となった、沙流江の〈内腿〉《うちもも》の中心から。もとより臀を辛うじて覆う程度の際どい意匠のショーツは、最前の彼女の躍動で恥部に深く食いこんで、ほとんど下着の用を為していない。  そればかりか、くなくなと、腹の底に〈凝〉《こご》る〈疼〉《うず》きに耐えかねたか、臀をくねらせる度に更によじれ、秘裂の肉の形を浮き上がらせる。  そればかりか、ショーツの〈裡〉《うち》で湧きだした〈夥〉《おびただ》しい愛蜜によってべっとりと濡れて、なかば透けてしまっている。  布地を通してさえ、微かに酸い、発情した女の生々しい匂いがオキカゼの鼻先に漂う。  うねらせる臀も、布地通して滲み出すほどの蜜も、沙流江の昂ぶりと、求める情火をありありと示して、途方もなく淫らだった。 「んふ……ちゅ……あ……む……」  足元からの濃く熱い音は、彼女の肢体に〈遮〉《さえぎ》られて鳴らしている様子までは見てとれなかったけれど、何をしているのかは伝わってくる。  足の指をくるみこむ、濡れて熱い粘膜の感触で、沙流江が自分の足先にしゃぶりついているのだと、オキカゼは脳髄が煮えそうな熱の中、ぼんやりと思う。  熱い。頭の中が熱い。顔が、沙流江と密着している下半身が、上着は脱いでいるというのに体が、吐く息だって熱い、のは、沙流江の情炎に引き〈摺〉《ず》られたからなのだろう。 「ぇぅ……レ……ぅ……じゅぅぅ……っ」 「お……ぁ……っ」  何時しか全身に細かく汗を帯びて、頬に情の紅で〈刷〉《は》いて。  足先、親指と人差し指の股に〈潜〉《もぐ》りこんできた沙流江の舌、肌と肌とで触れ合うのとは全く異質の感覚、不安になるほどの柔らかな蠢きに少年は声を漏らす、抑えられない。  普段なら、地表の硬さを踏み慣れている足が、こうして柔らかく生温かな粘膜に包まれていると、奇妙な頼りなさがじわじわ足先から這い上がってくるかのようだ。  熱い軟泥の中で溶かされながら、どこまでもずぶずぶ沈みこんでいきそうなのに、そのまま身を委ねてしまいたくなるような曰く言い難い感覚───いや、この感覚は快楽なのだ。  そう意識してしまうと、オキカゼは、沙流江の舌〈遣〉《づか》いについ集中してしまう。求めているのだ、快感を引き寄せようとして。 「んっ……ちゅ、ぅ、……ちゃぷっ……。  はぁぁ……オキカゼ、  さっき体流しちゃって、綺麗にしちゃって。  でも、よかったぁ……」 「残ってたよ、足には、まだ、さ……。  ふぅ、すぅー……。  ああ、オキカゼ、あんたの匂いぃ……」 「ちょ、おい沙流江、お前なに嗅いで……っ」  舌がにゅるり、と指先を舐りながら離れて、今度押し当てられたのは張りのある柔らかさ、沙流江は少年の足に頬を擦り寄せ、陶然と眼差しを和らげ、深く吸う、また吸う、オキカゼの足の匂いを、〈精髄〉《エッセンス》のように味わっている。  それがオキカゼにとって、少年らしい潔癖に根差した罪悪感の、ざらついた棘で理性をこすり上げる事になった。そう、先ほど水浴びした時は、足先までには気が回らなかった。多少は水がかかったかも知れないが、一晩駅中を走り回った汚れと脂は、その程度で洗い流せるものではない。  自分の体の中の、汗染みて汚れた部分を目の当たりにされるに留まらず、舐められ〈頬摺〉《ほおず》りされているという現実が、オキカゼの意識を塗り初めていた肉色の〈靄〉《もや》を追い払った。 「腹とか壊すだろ、止めろってのそんな事」  少年の下半身へ自分の体を、密にきつく押しつけていたから、〈兆〉《きざ》しを敏く感じ取れたのだろうか、オキカゼが足を引こう、とする枕を押さえて沙流江の顔が下がって、また足先に唇が吸いついた。  口を離していた僅かな間にも冷えていたのか、再び包みこむ、沙流江の口内の得も言われぬ温もりにオキカゼの動きが鈍る。罪悪感が溶かされる。 「は……む。ふ……むぅ、ん、ん、ちゅ、ぅ」  先ほどに増して舌さばきは丁寧に執拗に、指を二・三本まとめて深く含んで、縦横無尽に舌を這い回らせるそれは、オキカゼの足先に残った汚れを、むしろ稀少なもののように熱情もって探し求めるぞよめきだ。 「ず……ぅ、えう、る、ちゃぷ、ちゅ……っ、  んふぅぅ……んー……はむぅ……ぅ」  凄まじかった。足先に沢山の粘膜の群れが押し寄せてきたかのよう。ただ一つの唇と一枚の舌がやっているのが嘘のような、複雑で、妖しいまでの乱舞。  両腕は後ろに縛り上げられているから、自由になる唇と舌とに全神経を注いで、沙流江はオキカゼの足にむしゃぶりつくのだ。  特に重点的に〈舐〉《ねぶ》り上げられているのが指の股、沙流江が汚れを求めていると覚った少年は、足の指に力入れてたわめる。  舌の侵入を防ごうと縮こまらせた、指の股に覚えた僅かな異物感は、皮脂と靴下の繊維のほつれが混ざったものか、沙流江も〈目聡〉《めざと》くそれを見つけて、その指の隙間に舌を集中させる。  これが硬い棒などであれば、オキカゼがきつく締めた指の間に〈潜〉《もぐ》りこむ隙間を見出せなかったのだろうが、軟体動物は到底不可能としか思えない狭い隙間に、異様なまでに我が身を変形させて這入りこむ。  沙流江の舌先も同じ事。始めは指の隙間の上を探るように蠢いていた、舌の力は穏やかなもので、こじ開けることなど叶うまい。 「ふぅ……むぅ……んぉ……ん、くむ……っ」  実際、こじ開けることはしなかった。  そんな事などせずに、沙流江の舌は、貝が岩の割れ目に、粘液の力を借りて触腕を〈滑〉《すべ》りこませていくのと同じに、指の隙間へ、たっぷりと溜めた唾液をとろとろ〈零〉《こぼ》しながら、じんわり焦らず、そして〈倦〉《う》まず、舌の圧を強弱自在に替えながら探り続けているうちに。  ぬるり、オキカゼが力を抜いてしまったのが先か、沙流江の舌が侵入に相応しい角度を見出したのが先か判らない、確かなのは三眼の女がとうとうお目当てのモノを捕まえてしまったという事。  オキカゼは、もうどうなとなれ、式の〈自棄〉《やけ》な心持ちに陥っていた。結局は沙流江の舌にここまで好き放題に〈嬲〉《なぶ》られてしまった後では、今更抵抗などポーズ以上の意味はない、と彼女の舌戯と口内粘膜がもたらす快感に抗う事を止めた。  自堕落に流されてしまう罪悪感もまた、快感に彩りを添えて少年を足元から呑みこんでいく。  指の隙間に残っていた汚れを、ここぞとばかり、喜びに鼻息熱く荒くして、舌先で隅々までほじって、最後に指、強く強く吸い立ててからようやく離した時、コルクを引き抜く時を小さくしたような、〈滑稽〉《こっけい》とも聞こえなくもない音を立てた、沙流江は、じっくり口の中で味わって、 「おいし……あぁ……さいこぉ……」  ……オキカゼからは沙流江の顔は見えない、それでも彼女がどういう表情を浮かべているのか、その吐息まじりの囁きだけで脳裏にまざまざと浮かび上がる。  蕩けきっているのだろう、眸も口元も頬も、無上の満足を得た者が浮かべる、優しげな痴呆じみた〈貌〉《かお》で、余韻に浸っているのだろう。  実際、オキカゼの想像と大差なかった。差があるとすれば、少年が思っていたよりも沙流江の満悦の度合いは深く、表情もまた予想よりもだらしなく呆けきっていたという事。 「ありがと……ね……わたしの……座長さま。  久し振りに縛ってくれたの、嬉しい、よ」 「……きれいに、させて……」  やがて恍惚境から立ち戻ってきた沙流江は、これだけの喜悦を与えてくれた少年の足に、感謝と恭順の心を表して、再三足先に舌を乗せる。  ただ今度は己の劣情のまま貪る舌〈遣〉《づか》いではなく、足先をべとべとにした唾液を〈拭〉《ぬぐ》い去り浄めていくような、〈傅〉《かしず》きつくす口戯だった。  伸び加減の爪の裏側にまで丹念に舌を伸ばして献身的な沙流江を、余人が見たならやはりこう言うのだろう。この女はどう考えてもこの子供に身も心も〈躾〉《しつ》けられ、肉体で奉仕するように造り替えられてしまったに違いない、と。  ───事実は、さに〈非〉《あら》ず。  そもそもオキカゼは足に吸いつかれている間、一度たりとも、沙流江に行為を強いたり命じたりはしていない。彼が口にしたのは真逆に、留めようとする言葉。  大体今二人は、三方囲まれた空き地の中の、埃に荒れた床面で絡み合っているのだが、直に横たわっているのではなく一応は布地の上、燃え損ないの薄汚れた布切れだが、敷布代わりにはなる。  そしてそもそも少年は、こんな布など敷いた憶えはなかったから、となると用意したのは誰なのか、自ずと明らかになる。  何処から何処までが、オキカゼの逆上で、沙流江の導きだったのか。  オキカゼと沙流江が出会って数年───  沙流江はともかく、いかにオキカゼが、まだ年齢的には思春期のただ中にあるような少年ではあるといえ、それでも二人が男女としての仲となるには充分すぎる時間である。  実際オキカゼが沙流江を相手に初体験を迎えるまで、それほど時間を待たなかった。当時からませた性格は現在と大差なかったけれど、流石に男として機能するようになったばかりの頃合いだ。  それ以来、二人が体を重ねてきた時間の中で、オキカゼは沙流江の性情を〈諒解〉《りょうかい》するようになったのだが。  かつて苦界に沈んでいた頃、沙流江がどのような日々を送っていたのかオキカゼは深くは知らないし、事立てて掘り下げるつもりもない。  そしてその時代に彼女を通り過ぎていった出来事が影響しているのかどうか、これもまたオキカゼにはさしたる興味はない。  いずれにしても沙流江の性的嗜好は、フェティッシュかつ被虐を好む傾向がある、と〈諒解〉《りょうかい》するに至った。  その被虐趣味も、ただ座して、加虐を待つようなのではない。隙あらばオキカゼが自分に対して荒々しく責め立てるようにあの手この手で仕向ける、いわば〈積極的〉《アグレッシヴ》な被虐嗜好者が沙流江という女なのである。二人が出会った時からそうなのである。  たとえどれだけ〈悪擦〉《わるず》れして浮き世慣れしていようと、オキカゼはまだまだ大人の男とみなすには未熟の〈誹〉《そし》り免れない少年の、だから二人の情交は、このようにしていつの間にか沙流江の方から誘いこむようにして始まることがしばしばだ。  今日も、貴重なダイナマイトの空費と二人の〈塒〉《ねぐら》の爆破という離れ業を同時にこなしてのけたおかげで、自傷の向きに自身を追いこみ始めた沙流江を始めはただ抑えようとしただけのつもりだった筈。  それがどうだろう、の、彼女の後ろ手に戒めた縄法は、高手後手縛りとか確かそう言う。縛られた段でいよいよ沙流江は加速して、結局足先をしゃぶりつくされている。そもそも、とオキカゼは自答する。何故自分は、下半身を露わに放り出しているのか、ズボンを脱いだ覚えなどないというのに。  無論オキカゼとて、思春期は性欲がもっとも活発になる年代で、性の快楽を敢えて排するような禁欲主義者であるわけでもなく、沙流江の舌戯に快楽を得てしまったのは否定できない。  そう、気持ちよかったのだ、今こうして獣が同族に施してやる〈毛繕〉《けづくろ》いのような舌運びだって心地好い。  けれども、それは、どこかこう、オキカゼの中に鬱屈を溜めていくような快感だった。  沙流江の舌〈捌〉《さば》きは、ペニスまで響いて、〈疼〉《うず》かせるくらい快感なのに、どこまでいっても肝腎の芯には届かない、そんなもどかしさがひたひたと押し寄せ、いよいよ少年の雄のモノをいきりたたせる。 「ふぅ……る、ふ。  はぁ……オキカゼ、綺麗になった」 「ふふ、オキカゼの足の指、  わたし、とっても好きみたい。  何時までもこうしてたくなるもの」 「…………」  ちゅ、指先に降りた口づけは、よかったら続きをいかが? と訊ねてくるように思わせぶりで、望めば望んだだけ、沙流江はオキカゼの足に奉仕し続けるだろう。  それはそれで、風変わりな快味がある事は事実。沙流江も、こうして足先を好きにさせているだけでも満足なのかも知れない。  ただ、オキカゼ自身は─── 「オキカゼ?  あの……もしか、いやだった?」 「あのなあ……ここまでやっておいて何を今更……ここまで、やらかしてなぁ……」  沙流江は良いとしても、オキカゼ自身は物足りない。もうこのおんなの肉の味はこれまで幾度となく味わって、その快も悦にも馴染んだ、馴染んだ分だけ快味が増していくような、素晴らしい肉体だという事も知っている。  女の肉を求めて、張り詰めきった雄のモノが何よりよく知っている。  今だって、沙流江の腹の下になっているだけでも、雄のモノは痛いくらいなのだ。 「お……っきぃ……。  あんたの、凄いおっきくなって……ん……」  これだけ密に体を合わせているのだもの、陰茎がどうなっているのかなど、少年が言葉にするまでもなく、沙流江に伝わっているだろう。  下腹部を圧する肉の塊の、雄弁さ、沙流江の女の芯まで〈疼〉《うず》かせる。  今度は足の匂いや味わいではなく、少年の雄自身を求めて、なかば勝手に沙流江の体がうねり始める。 「こんだけひっついてんだ、〈勃〉《た》つのが当たり前だろ……くっ」  オキカゼの味と匂いに酔い痴れた体は、まだ思う通りに動いてくれず、沙流江はだから懸命に、少年の上で体をくねらせた、下腹部を押し当て、肌で愛撫しようとした。  〈凝脂〉《ぎょうし》の肌と、一片の無駄肉なく引き締まった下腹部が雄のモノを押しこみ、擦り上げてくる刺激は、〈滑〉《なめ》らかなのに、吸いついてくるような。肉の弛みはないのに、隙間なく密着して覆い尽くしてくるような。  足に降りしきった舌戯より遙かに直接的な快感を少年に〈刷〉《は》いて、たちどころのうちに彼を昂ぶらせていく。 「ま、待てよ、そんなのありか、腹でなんて。  お前、腹で俺のを〈搾〉《しぼ》り取るつもりか、  おいルーエってば!」  足への淫戯で、腰の奥には既に射精感覚が重く〈蟠〉《わだかま》っていて、下腹部で揉み込まれただけでも放ってしまいそう、このままではまた沙流江の情火に流されてしまうだけ。  オキカゼはとにかく彼女を遠ざけようと、身体の下に片脚を割りこませ、膝頭で下腹部を押しのけようとした───途端。 「あ───ひ、あ、な───うぅ!?」 「お前、なんて声……」  細く紡がれた声、上擦って、震えを帯びて、声だけではなく、沙流江は背筋と〈内腿〉《うちもも》を細かく震わせた。  蹴り放した訳でもなく、少し膝頭で押したばかり、が、沙流江の子宮の位置と重なっていた。腹の上から軽く押しこまれただけで、背筋を貫いた。  激しすぎる反応に、語尾を詰まらせた少年の前で、沙流江のショーツの中心から、とろとろと、溢れだしては滴り落ちていく蜜の筋。  腰の奥で快感を〈燻〉《くすぶ》らせていたのは沙流江も同じで、膝頭の圧力だけで軽く達してしまっていたのだった。 「あんたぁ……オキカゼぇ……」  沙流江の、オキカゼを呼ぶその声は、二人きりのサアカス団の座長への〈愛敬〉《あいけい》ではなく、共に暮らす年下の少年への家族愛ですらなく、ただ、ただ、おんなに過ぎた。  芯を貫いて欲しいと願う、女の、連れ合いの肉の形を求める声だった。 「もうあたし、たまんないんだ、  こらえらんない、欲しい───  欲しい、欲しい、あんたが───  欲しいよう───!!」  透けてしまうほどに濡らした、ショーツの薄い薄い布地の〈裡〉《うち》で膣孔を、飢えきった魚の口のようにひくひくと収縮させながら─── 「どれだけなんだよ、  何でお前、そんなにいやらしいんだ、  この、くそ───っ」  彼女の座長として、その肉に溺れてしまうのはいけないと戒めている心こそが、オキカゼが〈奥処〉《おくが》に押しこめている少年らしさなのだろう。  だがそんな禁忌など、目の前の女の肉の淫らにはあまりに〈脆〉《もろ》い。  オキカゼは、沙流江の下から猛然と這いずりだして、食らいつくように女の臀へと挑んでいった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  前戯の必要などなかった。  臀を捧げるように突き出した、沙流江のショーツを剥ぎ取れば、〈股布〉《クロッチ》と股間の間に粒を連ねた糸の橋が幾筋か架かるくらい蜜を溢れさせ、触れてもいないのにすっかり出来上がって、湯気さえ立ちそうな。  後は男を迎え入れるだけ、柔く蕩けきった〈肉襞〉《にくひだ》の〈狭隘〉《きょうあい》に、硬く尖りきった肉の槍を突きこんでもらえれば、もう余計なことは何も要らない待ちきれない。  ただただそれだけを焦がれる沙流江に、尖端を宛がっただけで、オキカゼの陰茎は女の胎内に呑みこまれてしまいそう。  沙流江の秘裂、溶けてしまっているのでは、というくらいぬかるんで。  だがオキカゼは、そこで腰を止めて、涎滴らせる女の芯に、待ちわびの肉の塊を与えること引き延ばした。 「ふぇ……オキカゼ、どうし───」  あの素敵な肉塊が、もうそこまで来ているのに、入口にもう触れているのに。  開きかけた肉の入口が、少年の先走りを欲して吸いついてしまうくらいなのに。  あと少し、オキカゼが腰を進めるそれだけで、二人の体は密に繋がる、という瞬間がじりじり引き延ばされる。  どうしようもない切なさに、沙流江は自ら臀を押し下げ、愛しい愛しい陰茎を迎えにいこうとしたのに、腰は少年の手でがっしり押さえこまれてある。  焦れて問い掛けたとき。  発情の、脂を〈絖〉《ぬめ》らかに浮かせた臀の円みの上で。  炸裂した。爆ぜた。  オキカゼの掌、沙流江の臀の輪郭をぶれさせる勢いで撃ち据えた。 「きひ! 痛いよぅっ!  どうして、こんな……」  突然の痛み、オキカゼの侵入を待ちわびて開ききっていた体に数倍して沙流江を襲い、彼女の頭を何故の嵐で埋め尽くす。 「どうして、じゃねえ。  どうして欲しいんだよ沙流江。  ちゃんと言わないとわかんねえからな?」 「え……あ……あい。  ちんぽが、欲しいよ。  あんたに〈嵌〉《は》めて欲しい。  わたしのまんこに、オキカゼの……」  貫いてもらえれば、そこの肉孔はその為だけに形造られ、潤んで〈襞〉《ひだ》も柔らかく〈解〉《ほぐ》れ、用意整っていることが、非常に判りやすく少年にも伝わるだろう。  言うまでもない事だけれど、一々従順に言葉にした沙流江の臀に。  オキカゼの手が、また閃いた。先ほどよりも強く叩き据えた。 「ひい! 言った、言ったよ、お願いしたよ。  わたし、なのに、なんで」 「恥ずかしげもなにもねえでは、男はそそられねえんだ。ッたく、この阿婆擦れが……っ」 「……だもの。わたし、阿婆擦れだもの。  オキカゼのちんぽが欲しくってたまんない、  わたし、雌犬だもの……っ」 「今だって待ちきれなくって、気ぃ狂いそう。  オキカゼ、どうしたら突っこんでくれる?  どう言ったら、〈嵌〉《は》めてくれる?」 「ううぅ……ふぇ……ぐしゅ……っ」  痛さと罵倒と、その痛苦さえ、じんじんと〈疼〉《うず》くような快感に変えてしまう自分の体の貪欲さ、そしてこんなにされて余計に少年の男根を欲しがる、女の芯。  身も世もない切なさにたまりかねて〈啜〉《すす》り泣きはじめた沙流江に、突然だった。前置きもなかった。  ごん、と頭の後ろにまで衝撃が響いたと沙流江が感じた時には、オキカゼは根元まで貫いていて。 「───あ……は……?」 「そんな、泣くほどしたかったのか。  いやらしい女だな、お前」 「んぅ……入って……これ、オキカゼ、  いきなり……奥まで……ぇ……!」  まずあったのは、子を宿す器官を〈抉〉《えぐ》られるほどに深い圧迫感。臀を押し潰すくらいに密着した少年の下腹部の暖かさ。  衝撃に押し出された息が落ち着くと共に、沙流江の肉体が自分の中の異物をじわじわ認識していく。  ああこれだ、これが何より欲しかった、オキカゼの雄のモノを、と最前までの責めに〈戦慄〉《わなな》いていた〈胎〉《はら》が、内に割り入ってきた形を感じ取る、それだけで沙流江に、涙まで滲ませた。それほどの幸福感だった。 「なにがいきなり、だ。  中ぁ、ぐずぐずのどろどろ、お湯みたいに熱くしてるくせに」 「ふぁぁ! あう! あん! あ、あぁ、あ」  膣内の形がずるりと引き出される、のが、返しのついた針で〈腑〉《はらわた》を掻き出されるかと恐ろしくなるくらい。そんなおぞましさが伴うくらいに強烈な感覚、沙流江にとっては。  そしてオキカゼにとっては、貫いた、のすぐさま陰茎を包みこみ締めつける、粒だらけ、〈襞〉《ひだ》の多い粘膜の感触、その心地好さ。  沙流江は、声では〈狼狽〉《うろた》えたような音漏らすくせして、膣内は過敏に反応し、〈襞〉《ひだ》をぞよめかせ、肉茎に熱い蜜を塗り籠めてくるように絡みつかせてくる、その気持ちよさ。  だからオキカゼの律動は、始めから容赦が無かった。挿入して馴染ませて、快楽を徐々に高めていくという手順など不要なくらい、突き入れたその時から沙流江の中は快楽の〈坩堝〉《るつぼ》だったので。  深く〈穿〉《うが》ち、抜ける寸前まで引き抜き、それを激しく繰り返す。 「だって欲しかった、凄く欲しかった、  はぁ……ふ……だから、なにされたって、  感じる───おまんこ、熱───いぃ!」 「いい、いい! 奥いいよお……浅いとこ、ずぶずぶされんのも、いい、はぁぁ……っ」 「全部、いい、好きぃ……っ、っ、くふう!」 「鼻の奥、つんと来そう……ふぅ、ぁ!  あぁ……く、くぁ……っ」  深く〈穿〉《うが》てば、膣奥で生硬い子宮口が尖端を〈啄〉《ついば》み、引き抜けば肉茎全体を捕まえようと〈舐〉《ねぶ》り上げてくる熱く濡れた〈肉襞〉《にくひだ》の〈蠕動〉《ぜんどう》。  沙流江の女の孔は、少年がどんなに手荒に扱おうとも、〈萎縮〉《いしゅく》するどころか歓びを湛えて快楽だけで応ずる。 「っとにいやらしい女だな! 俺みてぇな餓鬼のちんぽであんあん鳴いて。残念だな、もっとでかいちんぽの方が良かったか?」  〈穿〉《うが》たれて、女の膣内は男の形なりに変わって〈躾〉《しつ》けられる、とはいうけれど。  男の逸物もまた、女の柔肉に包まれ〈舐〉《ねぶ》られ変わるのだ、と少年は思う。  自分の体がまだまだ〈逞〉《たくま》しさ骨太さに欠ける事、育ちきっていない事はオキカゼ自身自覚されている。陰茎だって、沙流江とこんな風に体を重ねる前までは、子供の、性器とも言えない排泄器官でしかなかったのに、それが今ではどうだろう。  年に似合わず長く太く、沙流江、大人の女をこうして貫いて媚声〈零〉《こぼ》させる肉の槍にまで育った。  これは、沙流江がそうしたのだと言って過言でない。  こうしてよがる声、ひっきりなしに紡がせていても、全ては沙流江の掌の中にあるような気がしてならず、それがオキカゼの向こうッ気を刺激する、律動の快楽の中、おんなの肉を痛めつけたいとむらむら催させ、また、〈打擲〉《ちょうちゃく》の。 「違……わたし……くああ!」  沙流江の、否む喘ぎをまた〈打擲〉《ちょうちゃく》で封じこめる、性の快楽の紅潮よりも濃い赤が、女のうねる臀に浮き上がっていくくらい、強く、叩く。 「嘘つきやがれ。ちんぽだったら、いいや雄のだったら、誰だろうと人間じゃなかろうと、なんでもいいんだろっ」 「違う───、違う───違うもの!  あんた、だから……だよ」 「ひどいこと言われるだけで、まんこ、ひくひくするくらい響く。叩かれるたんびに、腹の奥がきゅうきゅう〈疼〉《うず》く───からだが、嬉しくってたまんない」 「ならないよ……ああ……他の、誰かじゃ、こんなになんて……は……ぅ……っ」 「はぁ、あん! オキカゼが言うんなら、そこらの男と寝たっていい。でも───こんなには、ああ、わたし、ならない、嬉しくなんてなれない、だから───いぅ!」  沙流江の切なる訴えは、真実の、心からの吐露であり、何より肉の管が、倍するくらい激しく複雑にぞよめき締めつけ、少年に口元がだらしなく呆けそうなほどの鮮烈な快悦を擦りこんできているでないか。  こんなにいたぶられているのに、沙流江の肉体は心根からの少年への恋慕と服従を示して、ひたすらに悦んでしまうだけ。  臀を突き出した体勢は、それだけを見るなら、人としての〈矜持〉《きょうじ》を放棄したように見苦しいのに、汗と〈膏〉《あぶら》でぬるつく肌は炭坑で苦悶する者のように〈腥〉《なまぐさ》く見えるのに。  貫かれる沙流江の肢体はどこまでも淫靡で、美しい。  責めれば責めるだけ、いたぶればいたぶるだけ、淫らな美しさを増していく女が、その体も心もお前だけのもの、と咽び喘ぐ様に、日頃はどれだけすかしていても、オキカゼの胸のうちに征服感にも似た喜びを抱かせずにはいられない。  だからオキカゼは、〈衝〉《つ》きこみながらまた沙流江の臀を叩いた。 「馬鹿。誰が客なんて取らせるか。それやったらお前は娼婦だ。お前は芸人であって、娼婦じゃねえ」  芸人としての建前の言葉を使っても、憑かれたような〈打擲〉《ちょうちゃく》と腰の〈遣〉《つか》いようが、少年の溺れる内心を浮き彫りにする。 「ひあ! あっ! あは───ァァァ!  うん、うん、わたしはあんたの───」 「ああ、いい───気持ちいいよ、好き、  これ好きぃ、オキカゼに〈嵌〉《は》めてもらうの」 「たまんないよぉ……ぐちゃぐちゃになるよ、あそこ、溶ける、溶けちゃう……ふぁぁっ」  膣の中に陰茎を挿入して、腰の動きで粘膜の中に前後させ、あるいは蠢かせる。  動作としては単純な行為なのに、熱く濡れた粘膜が奏で出す〈愉悦〉《ゆえつ》は、これで身を持ち崩す大人がある事を、オキカゼに深く〈頷〉《うなず》かせる。  性に奔放な沙流江は、事ある毎に少年に媚態で擦り寄ってくるけれど、オキカゼは素っ気なく流してしまう事がしばしば。  ただそれは、オキカゼ少年が禁欲的であり情交に関心が薄いからではなく、一度崩れてしまえば際限なしに彼女の肉に溺れていってしまうだろうと自覚しているから。  実際、沙流江の淫熱に当てられて始めたようなこの交わりの、悦楽は凄まじいほどで、オキカゼの頭の中は女の〈肉襞〉《にくひだ》の素晴らしさとそれを高める事だけに夢中になってしまっている。  〈穿〉《うが》つ、引き抜く、角度を変えて〈抉〉《えぐ》る、擦り立てる。時には臀を叩く。すれば。  肉茎全体を、締めつける、しゃぶり上げる、吸いつく、絡みつく、揉みほぐしてくる。  おんなの肉の管だけが生み出せる快感が、オキカゼを押し包み、夢中にさせる。 「ああ……こんなにされたら……、  うぅ……わたし、変に……なる……」 「でも、でも───なりたいよ、はひ……ぃ、  あんたに……あんたで、変に……、  おかしくなって……されたい、  ……きもちいい……っ」  沙流江もまた、〈胎〉《はら》の中で律動する少年の肉の塊に、それ以外の全てが塗り籠められてあった。  今の自分の〈貌〉《かお》、鏡で見たなら叩き壊してやりたくなるくらい、だらしなく、浅ましく見苦しい〈虚〉《うつ》け顔を晒しているだろう。  でも構わない。こんなにも気持ちいい、頭まで響く、中に少年が入るのが幸せ、〈抉〉《えぐ》られる、声が止められない、掻き回される、お腹の栓? が馬鹿になってしまいそうに素敵、自分では届かない深いところに〈凝〉《こご》り固まったもやもやを突き崩されるのが良い、良い、何度も何度も快感の波が押し寄せて、もうこれだけで良い。  女の身体というのは、男にこうして貫かれて〈蹂躙〉《じゅうりん》されるためだけに造られたのだ、と最上の喜びで認めてしまおう……。  悦美に酔い痴れる沙流江は、少年の律動が単調で、切羽詰まった動きになりつつある事を感じ取り、更なる喜びに意識を〈眩〉《くら》ませる霞も一時晴れて、陰茎の感触に心の全てが集中された。  少年の絶頂が近い─── 「うあ……〈膣内〉《なか》で、オキカゼの、  ふくらんで……これ」 「ああ。じきだ。もうすぐ出すぞ、出しちまうからな」  肉の昂奮が最大に高まり、噴き出そうとしている。その為に自然が造型した肉の管は、〈過〉《あやま》たずオキカゼを絶頂に導きつつある。  少年も、性器から押し寄せる快感に、もうそれ以外の事は何も考えられなくあり、 「あい……! ちょうだい、わたしに。  たくさん、お腹に呑ませてぇ……っ」 「凄……硬ぁ……響く……ずんずん……って」  沙流江の、少年の絶頂の〈兆〉《きざ》しに研ぎ澄まされた感覚へ、杭打ち機のように重く激しく何度も何度も律動が叩きつけられ、その衝撃がふっと止まった見るや、膣内の圧迫感が膨れあがり─── 「───あ」 「……くぅぅ!」  解き放つタイミングも、脈打つ圧力の強烈さも、噴き出す精の液の量の〈夥〉《おびただ》しさも、何もかもが最高の射精、だった。  その瞬間は女の〈胎〉《はら》の中に深々と埋められ、二人には見えなかったけれど、視覚よりも鮮烈に、二人の体全体が感じ取る。  繋がって、流しこみ、流しこまれる快感の極みを。 「あ……あっ、今、出て───っ」 「わ、わた───わたしもくる、  来ちゃ───」 「あ〜〜〜っ、あーーーっっっ!」  オキカゼは、沙流江の臀がたわむくらい強く、彼女の子宮口に尖端をめりこませ、精を生のまま流しこみ、絶頂を貪り続けた。  そして沙流江もまた、腹の底で脈打ちながら広がり、溜まっていく粘ついた熱さに、子宮が収縮し意識が白く弾ける───射精に引き〈摺〉《ず》られて絶頂に叩き落とされる。  奥で吸いつき、根元を絞る、沙流江の絶頂の〈蠕動〉《ぜんどう》に、少年は精の最後の一雫までただひたすらに心地好く絞り出され。  絶頂の硬直が長く続き。  そして、二人の体、最後にふっと〈解〉《ほぐ》れた。 「はぁぁ……は、ふぅぅ……。  なんでかな……今日は、出された時、  いつもよりはっきり判ったよ」 「オキカゼのちんぽがびく、びく、  てなるのも、  びゅっ、びゅって飛び出してくるのも。  今だって、お腹の奥に浸みる感じ、してる」 「しおらしく、余韻に浸りながら、  まんこ、ひゅくひゅくしめてんなよ……」  少年とて、女の膣の中に何も〈遮〉《さえぎ》るモノのないまま精を流しこめば、どういう結果が生まれるかくらいは知っていたけれど。  元々避妊具の用意など出来ない暮らしぶりだったし、沙流江の方も少年の生の肉茎の味を好んで、ゴムの薄っぺらい膜に〈遮断〉《しゃだん》されるより、膣奥に直に脈打つ射精の感触を求めた。  幾度か避妊具を用いた情交もないではなかったが、その後に決まって沙流江は、行為の後で眠るオキカゼを、不実を〈詰〉《なじ》るように隙をついて、口で陰茎そそり立たせて夢魔のように〈跨〉《またが》って、〈胎〉《はら》の中に直に精をもらうまでは離れず。  少年の〈夢寐〉《むび》をぼんやり破るのは、沙流江の膣内に生のまま精を漏らす快楽、という事が何度も続いて、しまいにオキカゼも諦めた。  こうまでしているのに、沙流江が孕む事がないのは不思議だったが、それをいい事に二人の情交はこうした『種付け』でばかり終わるのが常だった。 「だってオキカゼの、まだ硬くておっきいし……だからわたしのも、美味しいって、すぐにしまっちゃうんだ……」  沙流江の、この快楽以外の事は考えられないと、〈虚〉《うつ》ろげに緩んだ声音とは裏腹に、膣の奥では、子宮口の蠢きが、断続的だが長く引き続いてオキカゼの尖端に〈頬摺〉《ほおず》りしていた。  それは、〈泥濘〉《ぬかる》むくらい吐き出された子種を吸い上げようと、そしてお余りがあったら頂戴と、絶頂した女の身体だけが為しうる、子を為す袋の入り口での後戯だったのだけれど。  〈強〉《したた》かに撃ち放って、芯に硬さを残しつつも軟らかになりつつあった少年の陰茎には、〈煽〉《あお》るような悪戯だった。  射精直後は心地好かった子宮口の動きは、やがてオキカゼに、その先をもっと欲しがらせるような挑発となり、〈萎〉《な》えかけていた陰茎がまた憤然といきりたち─── 「……なんだって好きモノなまんこだぜ、ホント……ふぅぅ……」 「ふぁ……っ? オキカゼ、また動い───」 「くふっ、んくぅ……っっ」 「嬉しいな……幸せだよう……またすぐに、してくれるなんて……」  一番性欲と精力が盛んな思春期の少年の肉体と、性の快感が開発されつくし、かつ体力も旺盛な二〇なかばの女の肉体というのは、底無し沼のような組み合わせと言える。  繋がったままの〈肉襞〉《にくひだ》の心地好さが、陰茎の〈生硬〉《せいこう》さが、二人にずるずると快楽を求めさせる。結合部から溢れて股ぐらを汚す、精と蜜のどろどろの始末もつけていないのに、また二人は腰を振り立て、臀をくねらせていって。 「……何度抱いても、すげえよな、お前の身体は」 「ふあ……?」 「こう、胸とかけつとか、やたらでかくてよ」 「うぅー、わたしだって、好きでこんなお乳やお尻、でかくなったわけじゃ……」 「あ。やめておくれな、ばちんってしないで、  よして、爪、立てないで、痛い、痛いっ、  ……痛……きもちイイッ、も、もっとぉッ」  沙流江が〈打擲〉《ちょうちゃく》や爪での責めに鈍感というのではけしてない。オキカゼが叩き、爪を食いこませる度に痛々しく悲鳴を上げ、身を〈捻〉《ねじ》る。  けれどそれがすぐさま喜びに声を蕩かして、より求めて体を押し出してくるのだから、この女もよくよく〈嗜虐〉《しぎゃく》の〈病膏肓〉《やまいこうもう》に〈入〉《い》っている。  戒めた細縄の食いこみに吐息を甘くして、より〈濃〉《こま》やかに臀を〈遣〉《つか》って少年に、〈抽送〉《ちゅうそう》させる快を高めさせる。  臀をねじ切るような爪の痛みに、反射的に起こる膣の収縮を、その後は意識的に続けて少年の性器により淫らな〈愉悦〉《ゆえつ》を塗り籠める。  そしてそうする事が、沙流江自身の喜悦を果てしなく高め、乳房が潰れるくらい地に押しつけてしまう、蜜をもっと溢れさせ、聞き苦しいくらい弾ける音を立てさせてしまう。  オキカゼが舌を巻くのは当然だった。 「……なにされたって、すぐによがるし。  ほんっと、マゾで淫乱で───」 (ま、そういいながらこいつを抱いてる、俺も大概だけどさ……)  別段、わざわざ痛みを与えず当たり前に抱くだけでも、沙流江の肉体は夢心地のような悦楽をもたらしてくれるだろう。  なのにそれを責め、言葉でも〈嬲〉《なぶ》りするのは、そうする度に彼女の蜜壺が一々過敏に反応し、〈抽送〉《ちゅうそう》するオキカゼに膝が笑えそうなくらい、快感を高め、そしてそれはどれだけ重ねても鈍磨することなく、だからオキカゼは沙流江を叩いてしまうのだけれど。 「あはぁ! そうだ、ねぇ……っ、  わたし、マゾの変態……ひぅぅ……あっ」 「なか、とろとろにしてる……。  わたしのつゆと、オキカゼの、混ざって、  どろどろにされて、よろこんじまう……」 「お……ぅ、んあぁっ!」  立て続けの二度目だというのに、〈倦〉《う》みも疲れもせず沙流江の肉の〈襞〉《ひだ》、陰茎に絡みついて快感に舌鼓を打ち。  もっと、と強請って、奥へ奥へ引き込んで、子宮口で口づけして膣壁の充血しきった熱で少年の快楽神経を灼いて。 「わかってるじゃねえか。  だったら、もう一度、出してやるよ……っ」  間を置かずの二度目である故に、少年の陰茎は刺激に敏感で、再びの射精の訪れも早い。  膣内は、流しこんだ精で、金持ちが使う媚薬入りの香油を塗りたくったように〈潤滑〉《じゅんかつ》され、なのに〈襞肉〉《ひだにく》の感触が薄れる事もなく、粘ついて締めつけてくる。 「また……くれるんだね……素敵……ぃ」  膣内を押し広げる、〈不遜〉《ふそん》なまでの圧迫感、その形を、立体的に感じ取って沙流江は、その尖端がまた硬く膨れあがった事を知った。  また───近い───もうすぐ。  嬉しい───惚れ抜いた男が、自分の体でこんなにも昂ぶってくれる事が。  心地好くて、愛おしくて、沙流江の秘肉はより一層の蠢きで、少年を絶頂まで押し上げる。 「ああ、出して……好きなトコにして、  わたしも、もう……ぁっ、ふぁぁっ」 「うぅ……くぅぅ……我慢でき───」 「またイく、イッちゃうよ、オキカゼ───」 「俺もだ、今度は臀に───」 「うあっ……は……、あ───」  ───オキカゼが最後に引き抜く、その刺激だけで沙流江はまた達したし、少年の二度目の噴出も間髪置かなかった。 「くぅぅぅ───っ、ぅー…………っ」 「うううう!」  〈呻〉《うめ》きとともに撃ち出された精の〈迸〉《ほとばし》りが、沙流江の臀に降り注いで、その熱さ。 「かかって……びしゃって……おしり……熱いね……」  二度目というのに、衰えない射精、脈動は何度も続いて、女の小麦色の、染みもくすみもない肌に濁った液塊をぶちまけていく。  降りかかる度に沙流江、体が打ち震えてしまう事押さえきれずの、精液の感触だけで快感が鼻の奥を痺れさせるくらいだった。 「とろとろ、だねえ……。  ───ひゃん……っ!?」  オキカゼが沙流江の臀に浴びせかけたのは、今さら孕む事を〈厭〉《いと》うたためではない。  さっきはこの女の身体の中に自分の子種染みこませたから。  今度はその、いかなる芸術品にも勝る〈肌理細〉《きめこま》やかな肌に、自分のにおいを擦りこみたくなっただけの事。  絶頂直後で敏感になっている沙流江の臀に、オキカゼ、放った精液を、掌で伸ばして塗り籠めていく、擦りこんでいく。 「まだ、イッてるおしりにぬるぬる……。  オキカゼが匂い、つけてくれてる」  沙流江にも、少年がそうまでして、彼の印をつけようとしているのが幸せだった。  〈随喜〉《ずいき》の涙が〈零〉《こぼ》れてしまうくらいに。  見るだけなら〈尾籠〉《びろう》窮まる、まさに生臭さが鼻をつくような行為なのに、沙流江にとっては、そのまま意識が溶けて流れていってしまいそうになるほどの、素敵で素晴らしい情交の仕上げだった。 「さっきはまんこの中に、たっぷり擦りこんだからな、今度はこっちにだ……」 「ぅ……ぁ……それだけで、また……っ」 「ふぅぅ……ぅ……あ、は───」 「あは……幸せだよ……すごく……」  精を塗り広げられ、ぬるつく感触で至上の〈愉悦境〉《ゆえつきょう》にたゆたう沙流江の、満たされきった囁きが、オキカゼの〈耳朶〉《じだ》を柔らかく愛撫するようだった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ベルトを留め直して〈身繕〉《みづくろ》い一通り、〆に手首の返しを利かせて肩に当てた、乗馬鞭の風切りと〈打擲〉《ちょうちゃく》の音を聞いて、小さく身を震わせた、沙流江に〈一瞥〉《いちべつ》くれて、オキカゼはぼそり。 「……もう叩かねえからな?」  わざわざ念押ししたのは、ちょこんと正座して〈項垂〉《うなだ》れる沙流江を、〈怯〉《おび》えさせないよう気遣った言葉とも取れたが、他の人間ならともかく、こと沙流江が相手となると、意味合いが異なってくる。  〈項垂〉《うなだ》れた頭の下では、鞭のしなりに、肌に血の華咲くまで鞭打ってもらえたならどんなに素敵だろう、とか期待に小鼻、ひくつかせているようでは、〈悄気〉《しょげ》かえった形どころか贈り物を待ち侘びの子供のようだ。  それでも声音だけは殊勝げに、 「でも……わたしのせいで、オキカゼが折角持ってきたマイトが、無駄になっちゃったのはホントだしさ……だからあんたは、わたしを叩いていいんだよ……?」 「吹っ飛んじまったもんは仕方ないやな。  まあそんじゃあ、  気ぃ取り直して次行ってみよう!」  お仕置きを受けるべきと覚悟したのも、幾分かは趣味があったにせよ、誤爆の責は本気で自分にあると考える馬鹿正直者、の沙流江の、次の〈貌〉《かお》こそ見物で、何となればオキカゼが上着の隠しからそれぞれ片手に一本ずつ、さらりと引き出してみせたのがダイナマイトである。 「あれ!? あれえ!?  それって、オキカゼ?」  かくんと下顎落としたのが腹話術人形じみた、沙流江の鼻先にオキカゼが突き出してみせたのは、よくと見て確かめろ、程度の意味合いだったのに。  彼女が棒飴にでもしゃぶりつくように、唾一杯舌に乗せて〈咥〉《くわ》えてこようとしたから慌てて引き戻した。 「おいこら、何するつもりだ」 「あ、ごめん、何時もオキカゼにしてるみたいについうっかり」 「……そういう事は言わなくっていいから。  ま、マイトは食ってみると甘いらしいが、  こいつまで台無しにされちゃたまらねえ」 「予備だよ、予備。  何事もホケンは大切だよな。  実際とっておいて正解だった、いやホント。  さ、やり直すとするか」 「なんかわたし、先走ってまた馬鹿やっちゃった? でもまあ、気持ちよかったからいいんだけど」  瓦礫の山に向かうオキカゼを慌てて追いかけようと、して沙流江は少年を後ろから思い切り押し倒した。慣れない正座で足が痺れ、〈縺〉《もつ》れた。  これが為に沙流江は今度こそ待望のお仕置きをもらったのだが、残念ながら鞭ではない。  そのままその場で引き続き正座待機を申しつけられ、放置されるのもそれはそれで素敵かも、と足の痺れを〈堪〉《こら》えながら沙流江わくわく見守る間に、オキカゼは手早くマイトを設置し終えた。  設置、退避、点火の手順は今度こそ誤りなく、オキカゼは起爆装置を無事に作動させる。  轟音と激震と閃光の、瞬間に五感を叩く衝撃も二度目であり、破壊力の程も判っていたとはいえ、白煙が収まったそこ、視界も進路も拓けて外へ、を眺めた二人はやっと、悪質の〈根太〉《ねぶと》をようやく退治たかの爽快感で、互いの片手と片手、高く〈翳〉《かざ》して打ち鳴らしたという。  かくて念願の、障害物の排除の達成は、しかしまだ第一段階、まだ面倒なのが残っている。 「後はこいつをどうやってこっから出すか、か。もう一度機関部の方、いじるだけいじってみるか。こないだ見た時ゃ、〈燃料〉《フィール》はまだ腐ってなかったが」  少年、ふとにやりとして、 「おい沙流江、お前ちょっと、後ろから押してみたらどうだ? もしかしたら、上手くいけば、それがきっかけで機関に火が入るかも……なんてな」 「あいよっ!」 「……なんてな、それで事が運ぶんなら何も手間はない……沙流江?」  オキカゼとしては普段の戯れ合い、軽い冗談のつもりでけしかけてみたつもりなのに、沙流江の馬鹿正直な〈頭〉《おつむ》には、少年の言う事をまず疑ってかかるという選択肢がない。  言われた通り言われたままに、移動舞台の後ろに取りつき、両手を後部扉に掛けてうん、と息んだ、その腕にかかったショールは天衣の類とも見えなくもないが三眼の娘はどちらかといえば弁財天寄り、金剛力士の〈膂力〉《りょりょく》はあるまいと苦笑の腕組みのオキカゼは、ぎょっと後退る事になる。  それくらい、次の展開は少年の虚を〈衝〉《つ》いていた。  ごとん───と。    移動舞台、動き出して。    ごとん、ごとん、と。    移動舞台、進み出して。  これまでオキカゼが如何になだめすかそうとも、どんな頑固馬より頑として、再起動の気配すら見せていなかった移動舞台が、である。 「沙流江、お前すげえ力強かったんだなあ……今度から、アレの時も気ぃつけねえと、サバ折り殺されかねねぇぞ俺……」 「ち、違う、してない、わたしまだ力入れてないんよ。踏んばろうってしたんだ、でもさっきまでオッキーのオッキなので一杯してもらったせい? 腰からふらふら〜って、力抜けちゃって……」  沙流江だって、オキカゼに負けず劣らず〈虚〉《うつ》けた態で進み行く移動舞台を眺めるしかできない。 「なにい!? ならこいつが動き出したってことは───まさか」  この時オキカゼが浮かべた奇妙な表情の意味を三眼の女が知るのは、これから始まる、駅の大半を巻きこんだ移動舞台の暴走の、その果て、最後になってだった。  〈愕然〉《がくぜん》と見守るうち、寝ぼけたようにのろのろ動いていただけの移動舞台が、一つ身震いをする、鼓動が復活する。  今まで仮死状態にあった機関が、突如として、少年の操作にもかからず、勝手に再動していたのだ。 「うそ、今、動力、勝手にかかって……?」  機関の拍動徐々に強まって、移動舞台は軌道上を進み行き、空き地から外へと進み行く。 「まあいいや、手間が省けたってこった。乗るぞ沙流江、置いてかれてたまるけえ」 「あい!」  移動舞台の進行は、二人が駆け寄って飛び乗るまでは、人の歩みより鈍かったのに、運転台に這い上がると速度を増していく。 「『さて ここいらが   監獄破りの 潮時    相棒は 戦帰り 鬼軍曹   お先に失礼 地獄でまた会おう』  っとくらあ」  少しずつ遠ざかる三方壁の空き地の奥、二人がそれまで仮の宿りとしていた〈塒〉《ねぐら》は、もはや残骸しか残っていなかったけれど。  オキカゼも沙流江も共に運転台の窓から身を乗り出し、別れを告げたのだった。 「さいなら……わたしとオキカゼのお家。  さいなら、今まであんがと、ね……」 「最後にゃ粉微塵と吹っ飛んだがな。  誰かさんのせいで」 「ううう……オキカゼがまた虐める……」 「湿気た顔すんなって。ああまでなっちまえばかえって未練も残らない。むしろ好い景気づけになったよな。な、沙流江」 「え? 虐められるのがよくって、ぞくぞくしてたんよ、今のは」 「ああそうかい……」  ともあれこれが、移動舞台が再び動き出すに至った、その一部始終である。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  あるいは、二人の歓喜は結局糠喜びに終わったとしても、あの三方壁の空き地から〈出〉《い》でてばかりでさっさと停まってしまうくらいの方が、まだ増しだったのかも知れない。  というわけは、動き出した移動舞台は廃線路だけを走っているならまだともかく、何時しか切り替えポイントを越えて、現在運行中の路線にまで入りこみ、移動舞台とオキカゼと沙流江は、期せずして駅の衆目を集めてしまうことになったからである。    それも、悪目立ちという奴だ。  例えば───  進む、進む、移動舞台が進む。  いまし乗りこんだは、駅南南東の〈鐡道飯盒〉《えきべん》付け合わせの汽車茶瓶を作する陶工房通り、その最寄り駅の相対ホームのただ中。それぞれのホームに軍艦巻きの魚卵の如く〈零〉《こぼ》れんばかり満載されているのは、『即席麺は醤油味をもって至高と為す派』と『いいや塩味こそが究極である派』の、相互理解可能なようでいて永遠に隔たった二派───なおかつては第三勢力の『味噌味派』も存在していたのだが、こちらは両派によって既に潰滅寸前にまで追いこまれている。  この対立する二つの勢力、辺境より駅に湧出する鉱泉まで慰安旅行に来訪していた、まではいい、悪かったのは巡り合わせというやつで、これから一行東と西に向かって帰途に就こうとしたその待ち時間で、軌道一本隔てただけのホームでお互いを認めてしまい。  今や、間の空気にオゾン臭立ち籠まらせんほどの眼力で〈睨〉《にら》み合いの、浮遊する羽虫などは残らず死滅に追いこまれている。  気の荒い者などは、はや〈匕首〉《あいくち》や〈拳鍔〉《ダスターナックル》、義足に仕込んだ短機関銃果ては破壊用呪術公式まで展開させる者さえあってときた。  移動舞台が乗り入れたのは、これなる思想的力学的緊張の真っ最中の、また間の悪いことに速度が鈍くさ落ちている。 「オキカゼ、オキカゼ、見られてる、わたし達めちゃくちゃ見られてるって……っ」 「いいじゃねえか、〈俺〉《おい》らは客の目を集めてなんぼの商売だろうが」 「それは、言う通りなんだけど、でもあン人たち、みんながみんな、えっらい殺気だって、得物までぶら下げて」 「早く通り過ぎちまおうってば、こんなとこ。なんかわたし、背筋にちりちりきてるよ」  さして気に留めるどころか、修飾的な愛想笑いまで両脇に振りまくオキカゼの神経の方がいささか頑丈に過ぎるのであって、脇でおろおろ手を揉み絞り胸かき抱く沙流江の方が正常、なのかどうか。  よくよく見ればこの三眼の女の、鼻息の粘液質な温度とか首筋に走る粟粒などは、どちらかというと視姦の〈愉悦〉《ゆえつ》への反応というのが適当だ、むしろ。 「ん〜、それなんだがな、沙流江。なんか、マスコンがちいとも利かんのだわこれが。さっきからあれこれいじくっちゃあいるんだが」 「もしかして、動き始めたときからずっとそう? じゃあこのコ、勝手に〈動〉《いご》いてたってわけ?」 「そうなるなぁ……どういう事だ、これは」  とはいえ沙流江も。  実は動き出した移動舞台、ろくな制御もままならないことを今さら知ってしまったとなると。  このまま二派閥の視殺圏内に留まり続けては、オンボロ造作の車体など激流の中の枯れ枝のように圧壊しかねないとあっては。  よし死ぬほどの痛さが彼女にとっては喜悦であったとしても、本気で死んでしまっては二度とその喜びも味わえぬ、ここは沙流江の、その血管に営々伝わる名も知れぬ民族の、古式正しい対処法を取る他ないと悟るに至った。  すなわち〈匈奴〉《きょうど》の如く速やかかつ大胆な逃走戦術である。  舞台の制御はオキカゼさえお手上げ状態のようだが、自分でも試してみない事には気が済まない、とて制御桿に手を伸ばそうとして、沙流江の、美事に発達した腰骨廻りが何やら別のスイッチを入れてしまったのは、だから純然たる過誤であり、彼女に他意あったわけではない。  無いのであるが。  途端、〈蛟精〉《みづち》の吐き出す香気と宙に舞い上がった、移動舞台の屋根部に仕掛けられた装置から、白々した蒸気の。  途端、羽化したての蝶の〈翅羽〉《はね》の展開を速廻しに掛けたように宙に奏で出された、賑々しいと同時にどこかしら哀調帯びた旋律の。  沙流江が〈粗忽〉《そこつ》に、うっかり押されたのは移動舞台の〈自動手回しオルガン〉《カライアピー》の演奏スイッチで、たちまち流れ出す、ジンタの響き、それは本来ならばカーニバルの到来を告げる音であったのに、ここでは。  蝸牛の歩みで対立に割りこんだ移動舞台を処しかねていた、二派閥の耳元で撃ち鳴らされた号砲となった。  緊張、〈睨〉《にら》み合いの均衡は塩柱より〈脆〉《もろ》く崩れ去り、二者が〈迸〉《ほとばし》らせた甲声のけたたましさそして、〈喚〉《わめ》き散らしながらホームから飛び降りては相手側のホーム目指して走り出した勢いといったら。  ……始まった大乱闘は、局地的ではあるが黙示録の天軍魔軍の激突に匹敵した。 「……いいタイミングで鳴らすから。連中の背中、押してやったようもんだぞ、アレ」 「あわわわ、大喧嘩になっちゃったよ、どうしよう、どうしたら……」 「今更どうしようもねえな、アレは」  この突発的争闘における二派の人的損害は、第三者からすると虚無的感傷を抱かしせめる域に及んだほどであったけれど、当事者達にはそんな巨視点など糞喰らえである。子々孫々に連なる新たな遺恨の、ある種記念碑的事件として長く記憶された。  そして沙流江は、このような事件の引き金となった女としてはある意味で適切な反応を示してある。  湧き起こる怒号と血風に、〈生贄〉《いけにえ》を捧げられた〈蕃神〉《ばんしん》の態で、全ての目を〈絖〉《ぬめ》光らせながら腰までくねらせていたものだから、オキカゼに〈強〉《したた》かに臀をつねられまた喜びの悲鳴を上げていた。  かと思うと。  争闘の場を後にした移動舞台は、今更ながらに速度を上げて、駅の畜産家地帯に〈滑〉《すべ》りこんでおり─── 「オキカゼ、ブレーキ、  ブレーキを早くだよ!  豚が、豚が、行列つくって踏切渡ってる!」 「ん〜、それなんだがな、沙流江。どうにもブレーキレバーが利かんのだわこれが。さっきからあれこれいじくっちゃあいるんだが」 「わあ! 今度は〈家鴨〉《アヒル》の行進だ」  その辺りを運行する列車は、日頃は家畜達の交通に配慮して速度を落とす、ところを制御不能の速度で突っ切っていき、結果、恐慌を〈来〉《きた》して暴走した家畜の群れがきっかけとなって、駅内工廠調味料部門の一つが大爆発を起こした。  高々豚や〈家鴨〉《アヒル》の暴走が、各種化学薬品と機械群の破滅を呼ぶに至るまでの過程は、〈牧神〉《パン》の〈醜態〉《パニック》で済ますにも複雑怪奇な順を踏んでおり説明しがたい。  ただ駅内のローストポークとチキンソテーの相場を崩し、各種ソースの供給を一時遅滞させるほどの被害を巻き起こしたのは確実。  移動舞台後方遠くに隔たっていたから、二人は舞台の暴走がその爆発を引き起こした事を残念ながら関連づけられずにはいたが、それでも何故かその爆発に、背を冷えた汗が伝わっていった、という。  つまり───動き出したはいいものの、移動舞台のそれは、全く制御の利かない暴走なのだという事実が、じわじわ二人に染みこみつつあった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  移動舞台の暴走が、この様にまだ午前も早い時分から各方面に徐々に無用の被害を波及させるようになっていったとしても、だとしても駅公安局の動きは、日頃の官僚的機構の歯車の四角四面な運行にしては迅速に過ぎた。  何故といって要は、普段より駅内の要注意不法滞在者として移動舞台とその二人を注視していた眼があったという事で、その〈慧眼〉《けいがん》、というよりは偏執狂的な視野の持ち主は、上司の執務室でがなりたてているところ。  駅中央管理棟の、駅の中でも見る人間に対して徒労感、〈倦怠感〉《けんたいかん》、憂鬱感を与えて〈甚〉《はなは》だしい、無味乾燥で人間的潤いへの考慮一切欠けた灰色の建築群はその一画、中でも公安局の主官庁は駅の人間達、ややもすれば駅員側からさえ毛嫌いされている部署である。  その内部は官僚機構的にも建築概念的にも迷路に等しい、中の奥も奥。  移動舞台をかねてより危険視していたとある一人の公安官は、口角泡を飛ばして上司に具申し、彼の危機管理能力を問うべく必死であった。 「ん〜……僕はまあさして大事とは考えていないのだけど、やはりね、ほら、体裁ってモノが大切で……おっと」  公安局の歴史は古い。駅が現在の体裁を為す以前からその原型は存在しており、治安の維持に役してきたところ、史書に落とせば数十冊の大部にもなろう。  ただ長く続いた〈官衙〉《かんが》としてありがちな怠惰と腐敗からは免れ得ず、この上司などは無能と事なかれの主義の権化として、部下からは軒並み〈蔑称〉《べっしょう》の対象とされている。  が、公安官としてはそれでも上司は上司、通すべき筋と手続きは外せない。その精神に縛られている辺り、やはりその公安官も見えざる精神的疾患からは逃れられないものと見えた。 「部長! なにを悠長な事を抜かして……いや、おっしゃっておいでですか! 自分はかねてより進言していたはずですよ? あのオキカゼ某とその情婦は、駅の風紀上好ましからざる人間であり、その上不法滞在者。速やかに退去させるべきだと自分はもう何度も何度も……っ」 「え〜、だってそのオキカゼ君とやら、まだ子供じゃんさ。情婦っていうのも保護者のお姉さんみたいなもんでしょ? 彼らの移動舞台だってポンコツも良いところ。まあ運行中の軌道に入られると、そりゃちょっとばかし邪魔だけど」  上司は、紫檀製と伝えられている内実、抜け目ない掃除夫によってある時期を境に売り払われ、合成材のそれにすり替えられた執務卓の陰で、公安官に見えないよう、のんびりと鉛筆の芯を削りながら。 「大問題ではないですか。いずれにしても出動命令が下ったからにはこの自分、二級監理官B区分権限保持者としての職責にかけても、全力で彼らを排除して参りますとも! D式市街戦闘用装備の使用許可を申請します」 「D式市街戦闘用って君、それパルチザン殲滅用の戮殺装備でないの。ダメダメ、なに考えてるんだかなぁ、もっとこう、穏便に行こうよう」  地獄の番犬にも噛みつこうという勢いで迫る公安官に対し、上司は執務卓の陰で今度はメモ用紙を一鋏でチンドン屋の行列に切り取る紙細工に熱中し始めた。 「部長! 彼らとその乗機が当駅にいかなる損害をもたらすか未知数なのですよ!? ここは初動より最大火力をもってですね……」 「だーかーらー……どうしてそう安易に火力に頼るのよ。なんにしたってD系装備あたりの火器は終戦以降凍結になってて、解除にも色々手続きとかで時間かかるの。そんな手間を食ってる間に、移動舞台が君の言うような損害を出したら本末転倒でしょ? 普通の装備で行きなよ、ね?」 「くっ。これだから背広組のお役所仕事は……仕方ない、了解しました。ただ発砲許可は出しておいて下さいよ、それだけは頼みますから」 「それはまあ、君の権限の一部だからしょうがないけど。でも鉄砲は最後の手段だからね。使っちゃ駄目だよ」  この辺りになると、公安官の剣幕と正しく反比例して上司の情熱は著しく下がり(そのようなものなど元々無かった、というのがむしろ定説である)、最早隠そうともせず執務卓上で、部下の登録名簿から、今夜一時の堕劣な性交欲の〈捌〉《は》け〈口〉《くち》として〈籠絡〉《ろうらく》できそうな、従順な若い女子職員の品定めを始めている有り様。  公安官はそれでも一応の許可を取り付けたと、湿って埃臭い執務室を後にした、憤然と叩きつけた扉の振動は、室内を囲む駅代々の隠微な秘密を満載した〈書類棚〉《キャビネット》に吸いこまれて沈んで終わり、何も変化をもたらさぬ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  その後公安官が、出動も速やかに、両足元に火輪を踏むかの気組みで駆け出し、首尾良く移動舞台がほぼ停止寸前まで速度を落としている現場を捉えたのが、あの陰湿でだらけた、老〈鼬〉《イタチ》の〈窖〉《あなぐら》めいた執務室とは打って変わって青空の下であったとしても、その激憤をなんら鎮めるものではなかった。 「……君達は、駅の通行と治安を著しく〈紊乱〉《びんらん》している。よって駅外退去命令が発令された。本日より二日の猶予を与えるので、その間にこの駅から私物等撤去して立ち去るように」 「まーまー、お巡りさん、言われんでも、すぐに出ていくって」  とオキカゼ少年も、一見聞き分けよく聞く振りをして─── 「バーナムトラベリングサアカス公演───!  ジェイムズ・ベイリー率いる、  不可思議玄妙のマリオネットショー、  クガー・アンド・ダーク魔術団合同出演の。  開演が、さあ皆々様、迫っているんだ!」 「数多くの呼び物の中から、ここに一つ、  種目を前披露いたしましょう!  題して─── 『大陸最高のダンサー』!!」  公安官の話など聞いていて半分、いや三割程度、残りは振り返って朗々詠ずるが背後に、駅の中の四つ辻に、展開した張り出し舞台に。  ……駅内の、輸送の重要地点と言うほどではないが、アーケードも拓けて程良く日が差しこむ、汽車のダイヤを忘れてそぞろ歩きするにもってこい、立ち並んだホテルと旅館と呑み屋の様々な言語の看板が旅情を思わせる四つ辻である。路面には一応軌道が敷設されてはいるものの、数年おきの駅内地下第五電鉄開通記念式典くらいにしか用いられず、ターンテーブルのある辻は普段は小市場として賑わっている。  その真ん真ん中。  衆目の物見高きは、駅の公安官を前にして〈怯〉《ひる》みもせぬ少年の口上と、それ以上に側面を展開させた張り出し舞台上に注がれて、何時にも増して麦酒の泡を弾けさすよな、浮ついた。  もちろん、オキカゼ少年がぶちあげた合同の興行者達など衆目だって半信半疑、移動舞台は一両きり、だとしても。  華やぎはあった。『大陸最高のダンサー』なる口舌を、もしや真と期待させる〈艶〉《つや》が舞っていた。あの相対ホームでは物哀しい結末を引き起こした〈自動オルガン〉《カライアピー》の旋律も、この時はシャンパンのように金色だった。 「さあさ! バーナムズ・トラベリングサアカスの御到来だよゥ! 地上最大のショー、驚異の数々。大公演はもう直さァ!」  掌のように狭い張り出し舞台を花の沃野の様に広大に見せ、かつその広がりを数歩で踏み〈跨〉《また》ぐほどに見せる跳躍は、巧まぬ粋か入念な身体操作か、どちらにしても女は華やかに〈艶〉《あで》やかに肢体を拍動させてある。  女。  美しく実り、〈艶〉《なま》めかしく引き締まった。  異国情緒の衣を〈翻〉《ひるがえ》して。  三眼の───  誰かが叫んだその名の通り。  流れて留まらぬ河の様に。 「沙流江!」  あいよゥ! と向き直って踏んだ〈足捌き〉《ステップ》に、彼女の女の輪郭が弾む〈太腿〉《ふともも》が閃く。 「日にちはおってお知らせいたしまァす!  坊ちゃん嬢ちゃんだけではなく、  紳士淑女、お年寄りまで乞う御きたぁい!」  少年の口上を受ける舌も別段打ち合わせたものではなく流れのままに、合図だって目配せの一つ二つで〈詳〉《つまび》らかな弁はない、なのに沙流江は百の打ち合わせを交わすよりもオキカゼの意を汲み取って、踊る、舞う、跳ねる、これでは。  いかにも公安官が厳めしく通達したとて、少年が聴いている振りしたとて、全く説得力がない。 「……本当に、猶予は二日間だけだからな。  なお質問や異議などある場合は、駅管理部居住課二番窓口まで申し出るように」 「……公演する気満々のようだが、私の言うことが理解できているか? 退去命令なんだぞ、勧告ではなく」 「もちろんでさあ、お巡りさん」  差し出して、〈宥〉《なだ》め〈賺〉《すか》す手振りがなんとも空々しい、むしろ官憲とのやりとりすらも漫談めかして、沙流江の踊りの脇芸として見せてしまうくらい、この少年は、少年というには練れ過ぎていて、いかなる成長時代を送ったのかが空恐ろしくなるほど。  見物客の一人が、沙流江の巧みに振り撒く〈婀娜〉《あだ》っぽい〈秋波〉《ながしめ》やウインクに見惚れながらも、やはりそれより気になる、肝試しに入った衛生博覧会の液浸標本の内容物を訊ねずにはおられない心地で投げかけた。 「おい〈姐〉《ねえ》さん、どうしても気になるんだがよ、  そのでこの目、そいつぁ本物か?  見えてんのか?」  どれだけ派手やかに踊っていたとしても、体の異常、欠損を見世物芸とする者への詮索からは逃れられない、所詮は一日の興行の後で悪どい好奇に鈍磨した感性で濁酒を〈啜〉《すす》る見世物女、式の暗さを覗かせるタマではなかった。  オキカゼもまた、沙流江をそのようないじけた見世物として〈躾〉《しつ》けて満足するより、もっと貪欲だった。  客が乗ってきたなら持ち上げろ、と、教えて、だから。 「どうだろうねえ! なんだったらお客さん、試してみるかい? ほら、わたしはこうしてお目々ふさいでいるから、なんか紙に字ぃ書いて見せてごらんな」  沙流江も舞踏の中に双眸を隠す仕草を織り込んで、足元も目塞ぎに怪しくなった……というのすら彼女の〈足捌き〉《ステップ》の〈裡〉《うち》である、演技である。眼閉ざしたくらいでは、踏み慣れた舞台の歩度は〈過〉《あやま》たぬ。 「じゃあ〈姐〉《ねえ》さん、こいつは何と読む?」  ともあれ、見物客が手早く立ち食いの揚げ魚の包み紙を〈展〉《ひら》いてケチャップの〈啜〉《せせ》り残しで書きつけた、文字というのが。 「え……」  客に挑んでおきながら、文字の読み書き習い覚えてこなかった、という事を今更思い出した〈文盲〉《あきめくら》の〈粗忽〉《そこつ》哀しさではない。  その辺りなら、オキカゼに一通り仕込まれてある。にもかかわらず、彼女の踊りに寸刻水を差し、頭上に黒猫の戸惑いの尾の形の疑問符浮かせた文字、というのは。   『潴』。 「なぁんだ、やっぱ見えてねえんじゃねえか」 「ヒ、ヒントをおくれな、そしたらすぐに読んでみせるから!」 「ようしじゃあこうしよう。ヒント一つに付き、〈姐〉《ねえ》さんがそのおべべ、一枚ずつ脱いでくってのはどうだ!」 「乗った! じゃあまず───」 「沙流江、時間があんまり無さそうだ、勿体はつけんでいいぜ」  下品なのは、昼日中の往来にもかかわらず裸踊りをやっつけろと強請る客なのか、端から踊り〈生一本〉《きいっぽん》で渡っていける気取り女であるまいしと割り切っている沙流江なのか、はたまたただ一人の〈座組〉《ざぐ》みなのに、勿体を付けるどころかより際どく攻めろと指図のオキカゼなのか、まあこの際はあげつらうのは控えておこう。 「あいよう!」  〈金〉《かね》の〈盆〉《ぼん》を打ち鳴らして威勢良い、居合わせた者を〈身裡〉《みうち》を心地好い痺れで貫通していく冴えた声だった。  額の三眼照り映えて、〈颯爽〉《さっそう》の中にも〈練〉《ね》り〈紅〉《べに》めかした匂い含んだ風が見物の衆の鼻先にまで届いて、高く掲げられた異国の衣、解き放たれてなお張りに満ち満ちた紡錘型の弾力は、天然自然美にまで通じる爽麗まで宿した。  否やも〈外連〉《けれん》もない、発つ寸前の〈翡翠〉《かわせみ》の羽根が輝くのが当たり前であるのと同じである。  こうまで潔くされては、鼻の下を伸展させる湿った淫靡より〈凛冽〉《りんれつ》が勝る。持ちかけた客も、心臓の上に差した〈手巾〉《ハンケチ》を剣尖で美事に落とされた〈決闘者〉《デュエリスト》さながらの心地した事だろう、見物客達も、わっと湧いたとも。 「……えれえ潔いこったな。  ヒントは、そうだな、二・三日前まで雨だったろ? 雨の後にできる……」 「貴様、不法滞在と通行法違反と秩序〈紊乱〉《びんらん》の他、〈猥褻物〉《わいせつぶつ》陳列までつけてほしいか罪状に!」 「まーまーそんな〈疚〉《やま》しいもんじゃないでしょ、おっぱいくらい、御婦人ならみんなつけてる」 「そういうことではなく!」  沙流江が舞い見物客が囃したてる舞台の、その縁では別口の熱が盛り上がってある。この公安官、堅物で融通が利かず何事も規則規則の遵法論者というより単なる権威主義者で、どこぞの妖精境の放浪のハモニカ吹きなぞは、まっ先に敵と見なしてハッティフナットの種を投げつけようという手合い。  〈手下〉《てか》として平駅員を数人率いているけれど、彼らも心情としては公安官への反感か単なる面倒臭さか、どうにも熱心さには乏しい。〈喚〉《わめ》き立てているのもほとんど公安官独り。  ただ実は公安官の性情、そうやってただ堅苦しい四角四面の〈賽子〉《サイコロ》コロ助に留まらず、更に始末の負えない面を抱え持っているのだが、ともかく、公安官には往来での乳出し踊りなど許すわけもなく、顔半分を口にして吼え散らし〈舌火〉《ぜっか》の、きんきん刺々しいより清涼な音が差しこまれる。  〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の指を笛にし喝采だ、公安官の叱責など知った事かの。 「沙流江! 久し振りにストリップか? あいっ変わらずエロくて綺麗だなあ!」 「おやまあ〈瑛〉《エイ》! 近頃見なかったじゃないか。相棒のあのコはどうしたの?」 「あいつなら天文台で日雇い仕事。ボクもこれから花売りのつもりだったが、良いもの見せて貰ったお礼だ、全部アンタにあげるよ!」  〈朋輩〉《ほうばい》は駅の天文局の大望遠鏡の磨き仕事にありついているから、今日の食い扶持には困らないだろう。  この大きな黒目がちの眼差しした、沙流江と顔見知りの〈瑛〉《エイ》は、売り物の花を、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》が〈吝嗇〉《りんしょく》と同時に兼ね備える気前よさで、籠を逆さに全部、三眼の女へ。  それを両手で受けようなど、酒神の酒樽を猪口で受けように等しい、持ち余りするその〈嵩〉《かさ》を、沙流江は躊躇わず巻きスカートをくるくる取って広げて受けとめて、から、二度三度弾みをつけて、ぱあんと宙に放ったさ、景気の良さといったら。 「あんがと、〈瑛〉《エイ》! あんたの一日が幸せでありますように!」  鏡より明るい、心からの笑顔を浮浪児への礼にして、スカートを振りながら、花を次々に撒いていけば、沙流江の、当然、乳房だけではなく脚も露わに、〈下履き〉《ショーツ》一枚に。  実用、よりは見せるために特化した、面積少ない布地から、〈太腿〉《ふともも》も臀も大いに勇ましく露出していた。  踊る沙流江の身のこなしは、生のままの命の躍動に裏打ちされて、〈所謂〉《いわゆる》正統的な技巧を欠いていたけれど、なに教えられずとも鳥は歌うし山猫は跳ぶ、肉体それ自体の〈艶麗〉《えんれい》もさりながら、体幹がぴしりと通って、見る者に陶酔感さえ波及させた。 「佳い足だなあ、綺麗だ沙流江。ほんとにサーカスやるんなら、絶対見に行くよ、あいつと二人で」 「おお、イイ感じだぜルーエ。ほらお客様にもっとサービスしてやれ───ん? なんだよ、うるせっえな……?」  小さな〈瑛〉《エイ》だけでなく、衆目は大いに騒いで〈甚〉《はなは》だしきは釣られて脱ぎ出し足踏みし、この瞬間は確かにオキカゼは曲馬団の〈座頭〉《ざがしら》の面目躍していたし、沙流江もまた花形への梯子段を駆けのぼり、移動舞台だってそれまで沈みこんでいた閉塞の鬱屈の反動のように、力強く生命を脈打たせていた。  それは長く続いた雨の残した湿りッ気を払って余りある新鮮な〈熱狂〉《フィーバー》。  が、浮き沈みが激しいのもこの業界の常である。オキカゼ、しつこくつついてくる鬱陶しい手に振り返れば。 「……。……。……」  眼中の眸が上縁に寄って、残る三方を白々とした敵意で埋め尽くすから三白眼という、これを言語より角立つ〈恫喝〉《どうかつ》として使いこなすのは、暴力を服としてまとう人種で犯罪者かさもなくば監吏、その〈職掌〉《しょくしょう》の象徴である手錠を、かちゃりと取り出して公安官の、 「どうしました、穏やかでない。そんなの取り出して、誰を捕まえるおつもりで」 「お前たちの他に誰があるかーーーっ」  手錠が銀蛇の舌と〈奔〉《はし》って、オキカゼの手首に噛みつく、噛みつかんとした手首がふっと流れた。 「うわ! アブラカダブラ!」  それは古く広く用いられていた魔術の〈宣詞〉《ノリト》。  ばこん、と〈滑稽味〉《こっけいみ》帯びた乾いた音、響く。  オキカゼの姿、一瞬にして影も形も無く掻き消える。 「はいここでお立ち会い!」  オキカゼの姿、刹那に車輌内部の床下から迫り上がり。  彼がそれまでしゃがみこんでいた張り出し舞台の縁で、老朽化から閉じ損ねていた、瞬間移動の奇術の仕掛け蓋がいささか間抜けではあったが───  それでも公安官の神経を剣山で逆撫でするには余りあり、 「な……!? 〈巫山戯〉《ふざけ》た真似を!」 「アブラカダブラアブラカダブラ……」  その奇術の掛け声は、古く根を辿れば、熱病を鎮めるための呪詞であったとも言うように、四つ辻を見舞った一時の熱狂に終わり告げる合図でもあったのだった。 「えー……てなわけで、バーナムサアカス団からのお知らせでした。後は皆様、大公演のその日まで、〈暫〉《しば》しのお別れでござい───」  移動舞台も、この場の気配を察したのだろうか、停止寸前であったのが一つ大きく身震いして、速度を上げて、広場から動き出して駅の中へ。〈自動オルガン〉《カライアピー》の蒸気は名残惜しげに流れたけれど。  そして公安官だ、あまりに陳腐な遣り口がかえって奏効したのか、まんまとやられて、移動舞台に取り付く機を逸した。 「おのれーーっ、官憲を侮辱したなあ!  停まれ、停まらないと撃つ、  警告はしたぞ、したからな!」  しかし呆気に取られていたのも寸時、離れていく移動舞台へと猛然と地を蹴って、手下が追いすがる間もない、だから〈銃帯〉《ホルスター》から拳銃抜き放つのも止める手など当然ない。  空を裂いた銃声の、周囲に残っていた者が皆、地に身を投げ出した辺りの素早さは、駅が戦火に晒されていた時代のほど近きを物語る。  ただ発砲に関しても一応規則というのがあるので、さしもの公安官も一発目は空に向かっての威嚇射撃だった。 「本気で撃ってきたよあのお巡り……オキカゼ、大丈夫だった……?」  移動舞台の再加速に合わせ、内陣へと引っこんだところへ銃声の、これも伏していた顔をそろそろ上げる沙流江の前で、オキカゼは。  オキカゼが。その胸元が。 「しくじった……。  まさか。こんな、トコ……で」  胸から血を噴き上げて。からだ、ぐらりと揺るがせて。  ばったりと、仰向けに─── 「え……オキカゼ……?」  きょとんと呟く沙流江の、双眸は目の前の事態を処理しかねて瞬きを繰り返し、ただ額の三眼が、磨き上げられた珠の如き三眼の鏡面が、〈精緻〉《せいち》巧みに写しとってあった。現実を。  だくだくと、脈動と共に胸元を濡らしオキカゼから流れていく血の量〈夥〉《おびただ》しく、致命傷に達していよう、の冷たい現実を───  ───誰よりもなによりも仰天していたのは発砲した当の公安官である。 「え? いやそんな。私は空に向かって撃ったぞ? な、何故だ。何故そんなことに」 「うわー……公安官殿、いくらなんでもやりすぎ……僕、引くわー……」 「いや待て、有り得ないだろ威嚇射撃で」 「公安の人が言い逃れなんて、僕信じられないよっ。あのコ、そんなにいけない事したんですか!?」  引き連れていた平駅員達、皆〈慄然〉《ぞ》っ〈引〉《ぴ》きの、無理もあるまいてや、移動舞台は確かに陽差しの中で〈昂然〉《こうぜん》と風紀掻き乱したとはいえ、その程度で一々射殺されていては、駅の下層階級の大半が〈粛清〉《しゅくせい》の憂き目に合う。ならば駅は駅などではなく、末期の共産主義社会の指導部御用達の〈収容所〉《ラーゲリ》に全面改築した方がよほど話が早い。 「だから違うって───」 「言い訳は、あの人にどうぞ」  見れば。移動舞台の後部扉をばん、と〈滑〉《すべ》りこむ勢いで蹴り開けたものか、臀を落として身を低くし、沙流江の、足の間に構えられたもの、古い時代の工芸品めいた優美な印象を備えていたけれど、紛れもない鋳鉄と火薬技術の結合、それマスケット銃、長き銃身の筒先が、ぴたりと公安官に据えられていた。 「なんで───なんで撃ったぁ!」  〈喚〉《わめ》く沙流江の形相は、どこまでも哀しく口惜しく、そして〈深甚〉《しんじん》なる怒りに白熱し、駅の悪漢ならず者を相手に立ち回るのが日々の仕事の公安官をして、たじろがせるに充分以上。 「いや、撃ったは撃ったけどな、あんたもみんなも勘違い───」 「言い訳、するなぁぁぁ!」  たとえ公安官がどんな理を尽くしたとて沙流江の耳は締め出しただろう。  底知れない嘆きと激憤が甲声となって〈迸〉《ほとばし》り、発砲。マズルフラッシュ、硝煙。  しかし、激しきった気勢はむしろ狙いを曇らせるのか、弾はどこへと飛んだやら、公安官にかすった気配もない。 「なぁぁ!? う、撃つな、おい落ち着け!」 「オキカゼだってそう思ってたはず!  なのにあんたは、オキカゼを。  わたしのオキカゼを───」  新式の拳銃よりも劣る技術の産物であり、硝煙の多さは、爆発力を空費している事を示す、など言う理屈より、濛々たなびく派手さは威圧感を人に食いこませて〈甚〉《はなは》だしい。  ひっと身を〈竦〉《すく》めて恐怖と闘う公安官だが直ぐに気づいた。あの形式の銃は先籠め単発で、初弾を撃ってしまうと二の弾に繋げるまで、よほどの習熟者でなければ間隔が開く。  ならばその隙に、どこかの〈遮蔽〉《しゃへい》の影に退避、と周囲へ目を放つ公安官は、ぎょっと身を〈竦〉《すく》めた。  何となれば、沙流江に次の銃が手渡されていたから。  しかも装弾済みであったと思しく、構えざま、おもむろに発砲、人を撃つのに躊躇いがない、がなくしたのは公安官なので、これは因果応報なのだろう……。  そして二の弾も外れたのも、一思いでは楽にせぬ、じわじわと魂に後悔と恐怖を刻んでから〈彼岸〉《ひがん》に渡るがよいと、因果の則が苛酷に申し渡しているからなのだろう。 「うわあああっ! な、何かの間違いだって言ってるのに!」 「間違いなら、なんで死んじゃったの、オキカゼはどうして死んじゃったのよ、間違いで人を殺さないでよう!」 「次!」  公安官は上昇志向も強くあったが、昇進の手段として殉職して階級特進するのは問題外に置いてあったというのに、それが否応なく訪れようとしている。  それだけは避けたく、いかにしてこの狂気の現場を放棄すれば服務規定から逃れられるかと、必死で思考を巡らせる公安官をよそに、ほらよ、とまた手渡されたのが次の長銃。 「それが最後だ、外すんじゃねえぞ」 「わかってる! 絶対当てる、仇をとる!」 「は、話が通じん……ここは撤退しか───」  身を〈翻〉《ひるがえ》しかけた、公安官の背中に向けて、沙流江は狙い定めて引き金を絞り───発砲。  そして、とうとう公安官の体を貫いて、衝撃の─── 「ギャアアア、撃たれたぁぁ!!」  その姿が、一瞬にして白煙に呑まれ───  次に姿を現すと。 「ギャアアア、恥っずかてぃいいいい!」  公安官の制服は、エナメル製で、股のカットが深くて、タイツはバックシームの網網で、臀にはぽんぽん丸い尻尾が生えて頭にはひょこひょこ双耳、カフスとカラーにはぱりっと〈糊〉《のり》が利いていた。  どこのレビューに出しても恥ずかしくない、一揃え、欠けたところのないバニースーツに早変わりしてあり─── 「……うっえー……似っ合わない〜」 「うーん、どうだろ。  これはこれで、ありかも?」 「似合ってたまるかこんな格好!  なんだこれはァァァ!」  口一杯に洗剤でも舐めさせられた顔の平駅員に、思い切り怒鳴りつけた向かっ腹。  先程まで見苦しく〈怯〉《おび》えきっていた自分への怒りが他人への転嫁という、情けない形で噴出している上に、兎の姿では全くもって迫力に乏しい、どころか、物笑いの種でしか無く。 「なんだ……って、手品だよなあ。サアカスがなんだって実銃を装備してなきゃならんのか」 「うん……殺られたからって殺り返したりしても、オキカゼは喜ばないし……でも、でも。  オキカゼ、なんで死んじゃったんだよう」 「で、誰が死んだって?」  はへ、と見上げた沙流江は、もちろん愛しい愛しい少年がと泣きの涙で訴えて、せめて一緒に泣いてあげてよ、ちょっとすれっからしだったけれど、良い子だったあの子の為にさ、と鼻水を大きく〈啜〉《すす》った、相手が元気に立っているオキカゼである。  首筋が、瞬時にして逆立って膀胱が締まり、朝方の情事の後の〈身繕〉《みづくろ》いついでにちゃんと用を足しておらなんだら、どんな目出度いザマを晒したものだか知れたものではなかった。 「へ? ……きゃーああーあああーっっ。  オキカゼが化けてでたぁ!」  ばたばた大騒ぎする沙流江の前で、オキカゼは懐から〈血糊袋〉《ちのりぶくろ》を取り出し、破ってみせれば、ぴゅううと噴き上がるのは紅い〈飛沫〉《しぶき》それも、時間が経つと脱色される式のようで、胸からはさっさと赤い色が薄れて消えていった。 「初歩的もいいとこのトリックだが。  しかし沙流江……、  お前、怒るとおっかねえよなあ」 「……わたし……勢いで、まずい相手に喧嘩吹っかけたような、そんな気がしてならないよ……」  かくして、バニースーツで地団駄を踏んで〈激昂〉《げっこう》する公安官を残し、移動舞台は加速して遠ざかっていく。 「おのれおのれ、こここここの私がこんな恥辱を被るなど許せぬ、もはやド許せぬ。お前たち二人とも銃殺決定な。決まったからな!?」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  さて視座を駅の一画、セットバック階層の基底部で地に脚着けた位置から大きく高度を、そうさな、投石機なり鳥の翼に乗せるなりして一気に上げてみよう。  視点の上昇は、胸の蝶番を開けて風を呼びこむような、〈幾許〉《いくばく》かの恐れと、そしてやはり替え難い心地好さで感覚を慰撫する。  ああ豊かに展開されていく駅の〈展望〉《パノラマ》よ。  今朝がたオキカゼ少年が味わっていた一大〈展望〉《パノラマ》は、王侯貴族の葡萄酒蔵の逸品どころか〈神霊酒〉《ネクタール》にも匹敵する。  その上この美酒は眺める角度を変えるだけで味わいを千変万化させ、実際オキカゼの廃塔からでは視野角的に積層建築群に覆い囲まれていた一大岩塊がほら、その偉容を現すだろう。  それ駅の中央部に〈臍〉《へそ》のように突き出して、ある古い民族の言語なら差し詰め『〈世界の中心〉《ウルル》』とでも称えられそうな巨大な岩塊、この駅では一名『キヲスク砦』という。  その元々は遠い遠い過去。  この岩塊内には広大な空洞が〈穿〉《うが》たれてあったものの、当時は駅各局は維持管理が面倒とて、ただ駅購買局が倉庫として利用していた。  そんな過去から現在に至る長き歴史の中で、駅は荒々しい時代を迎えた時の事。  例えば大地上各文明世界の政情の乱れによる幾度かの難民流入。彼らという余剰人口を抱える事で、駅はどうしても治安不安定となり、駅内の購買部、商店や備蓄倉庫は度重なる収奪に遭う事もしばしばで。  そして難民達からの被害に〈困〉《こう》じ果てた駅購買局、商工会議連が、当時まだ単なる巨大倉庫としか見なしていなかった大岩塊に、〈究竟〉《くっきょう》の防塞拠点として機能を見出すまではさしたる時間もかからず。  後は、多少の陣地構築作業を施すだけで事は足りたし何より必要に迫られていたのだ。  以降、難民や彼らに乗じた暴徒が掠奪を重ねる毎、各購買部各商店はこぞって大岩塊内に避難、立て籠もり、これ防戦に努めるようになり、何時しか大岩塊は一大要塞化するに至った。  これが『キヲスク砦』なる、親しみやすいのか大仰なのか微妙な名称の由来である。  やがては難民達も帰郷するなり亡命先を見出すなりで駅から立ち去っていったが、その際彼らと駅側の間に〈蟠〉《わだかま》りなし、とはいかなかったものの関係が無駄にこじれず済んだのは、駅管理局側が難民達への武力鎮圧を、ほぼキヲスク砦での防御戦闘のみに限定させ、苛酷な弾圧行為を避けた為とされている。  これを亡国の民への穏当な人心調節と見るのはいかにも妥当であろうが、駅史編纂室はその争闘の陰に、『〈散月会〉《さんがつかい》』なる奇妙な一集団の暗躍を認めている。 『〈散月会〉《さんがつかい》』は駅内〈粛清〉《しゅくせい》機関であった、という。  広義にあっては信仰の集団と言えた、そうな。  女性のみで構成され、幹部を絶大なカリスマと崇めて〈憚〉《はばか》らず、堂々たる自己目的化の末、〈絢爛〉《けんらん》たる自壊に果てた、と伝えられる。  らしい、伝えられると〈仄聞〉《そくぶん》の形に終始するのは、彼女達の足跡行状の記録がいずれも断片的な書き付けの域を出ず、後は曖昧、矛盾だらけの口伝えばかりに頼るしかない故に。  しかしそれでも、この一団の〈妖艶〉《ようえん》はいまだ人を惹きつけて止まない。    が、話の筋には全くもって関係ないのでここでは詳細を省く。  〈閑話休題〉《シャンファジィウチ》───  駅内の購買部、商店の多くは難民達が去った後、それぞれの商っていた地域に三々五々戻っていったが、砦内に留まったも者達も多い。かつまた後代でも、駅内が戦火に晒される危難は幾度か訪れ、その都度そこは商人達の防衛拠点に立ち戻った。  結果として現在では、岩塊はキヲスク砦の名称と共に、内部の大空洞に恒久的な一大商店集合地帯が定着して久しい。  まあ、その岩塊内部の空洞は、どう見ても人工的な掘削による物なのにもかかわらず、一体いつの時代いかなる者が、そのような巨大工事を行ったのかが判然としていない、という『〈散月会〉《さんがつかい》』以上の謎が依然として残されている、という問題があるにはあるのだが。  いずれにしてもこのキヲスク砦は堅牢堅固の概念を形態として地上に現出せしめたような大要害である事には変わらず、故に砦に常駐している平駅員達は、移動舞台暴走の報を聞いても、それの進路が砦に向かっているの続報が入っても、特に動揺もない、故に危機感も薄い、水が八分の粥の方がまだ増しというくらい。  キヲスク砦の堅牢性の要因というのは幾つかある。  例えば岩塊の規模としては内部への通行口の数が極めて少なく、かつ軌道が敷設されている〈隧道〉《トンネル》においては、その直前の切り替え点を、砦内の駅員が駅の運行表如何にかかわらず自己の判断で操作して良い、との権限を与えられている事にも〈拠〉《よ》っている。  よって公安局からの報せを受けた砦内部の駅員達は、まず移動舞台の進路である軌道を砦への〈隧道〉《トンネル》から逸れるように切り替え、その上で〈隧道〉《トンネル》直前にもバリケードを張り、侵入を阻まんとしていた。  とりあえず砦内部に侵入させなければいい、後の対処は他部署へ任せる、という少なからず砦本位の退避策だと言ってしまえば身も蓋もない。それでも砦の歴史的経緯上、そうした独歩の気風は駅の中ではなかば公認されていた。  まあ……独立独歩……とはいっても、だ。 「土嚢詰むの、こんなところかなあ」 「ん〜……ちょっと低いような気がするけど、まあいいんじゃないの? だいたいバリなんて、あくまで念のため、だし。軌道はしっかり切り替えてあるし」 「にしても面倒臭いよね。まあ公安さん達の顔も立ててあげないとってのはわかるけど」  〈隧道〉《トンネル》内部から定規で揃えたように等間隔、灰白色の土嚢を〈中継〉《リレー》に手渡している一連の流れ、そのまめまめしさと弛まぬ仕事から、蟻が巣から余分な土くれを運び出している図を想起させる。  蟻、という個よりも全体性の生き物を連想させるのは、彼らの働きぶりもそうだし、制服は駅内で揃いだからまだしも、〈貌立〉《かおだ》ち体つきが一つの雛型で統一されているのが手伝った。  よって独立独歩とはいっても、ただ見た目からでは駅の余所の同僚とほとんど判別は付かず、裸に引ン剥いてみない事にはどの子が女子で男子やら、見分けが付かないのもまた同じ。  キヲスク砦のスケールの前では、彼らが営々積み上げる土嚢など砂粒にも等しかったけれど、それでもその勤勉振りからは、やがて見上げるような塚にもなろう、の、土台を築いた辺りであにはからんや、止まった。  現場監督役なのか、一人が首に下げていた〈合図笛〉《ホイッスル》を桃の唇に当て頬ぷっくり、鳴らした音は、高空で悠然と気流に乗る〈鳶〉《トンビ》の声のおおどかさに緩んで、笛の本来持つ筈の鋭い音は、どこへやら。  そんな呑気な合図が、皆の耳を悠揚と撫でると、全員の手が止まり、皆ぞろぞろ〈防塁〉《ぼうるい》の前集まってみると、厚みも高さも中途半端な、のにこれで作業は終了という事らしい。  輪になって、早速弁当やウィッカーバスケットを寛げて、めいめい持ち寄りのあれこれが、こちらの手で分けられあちらの手で交換される、なんとも仲のおよろしい、睦まじい、がちと〈鷹揚〉《おうよう》に過ぎやしないか、移動舞台が程なくして迫るというのだろうに。 「まあたまには、こうして外で体を動かすのもいいよ。僕ら、うっかりするとずっと砦の中にこもりっぱなしになるからさ。はい、君もお茶どうぞ。君はクロスグリのジャムつけるんだっけ?」 「ありがとー。じゃあお返し、って訳でもないけど、君も食べなよお茶請けに、ほら、便所エビの唐揚げだ」 「便所エビって言わないでよ……美味しいからもらうけどさ」  その〈風貌魁偉〉《ふうぼうかいい》なる事、駅の呪符売りが魔除けの意匠として採用しているくらいの名物親爺が商っている、駅の地下運河沿いの、公衆便所近くの支流で取れる〈川蝦〉《かわえび》の唐揚げ、なので〈綽名〉《あだな》も便所エビ。親爺の前でうっかり口に上せようものなら拳の鉄槌振り〈翳〉《かざ》される。  もちろん汚水が直接流入しているわけでもないのだが、何故かその身はころころと肥え、味も甘くて美味なため、駅の知られざる名物の一つになっている。  〈川蝦〉《かわえび》の唐揚げの他にもちんちん焼き、屋台の店主と賽を振り合い大きな目が出たら一本おまけの〈煙腸〉《ソーセイジ》、別にゼリーが入っているわけではないゼリー揚げ等々の食べ物は、どれもこれもが砦内の屋台から買いあさってきた物ばかり。  みな庶民的というか、気軽につまめる食べ物が〈殆〉《ほとん》どの、平駅員達は何故か揃ってこの手の簡便で駄菓子的な食物を嗜好する〈癖〉《ヘキ》があり、貧乏舌で安上がりというより、慎ましやかな幸せを知る者達と評したい。  とまれ、彼らがそうやって輪に並んで〈間食〉《けんずい》さんをば仲良しこよしで取っている様は陸に揚がった〈鴎〉《カモメ》の水兵さん、〈長閑〉《のどか》な眺めではあったけれど、やがて来る来る黒風魔風、ぎしぎし〈軋〉《きし》みが、軌道の彼方から。  キヲスク砦に程近い軌道の、上を〈斜交〉《はすか》いに〈単軌鉄道〉《モノレール》の軌道、更にその上を〈索道路線〉《ロープウェイ》が通ってX字を為しているという、ちょっとした景観を〈潜〉《くぐ》り抜けて、接近してくるのが過去の遺物ながらもしぶとき移動舞台、騒々しきは移動舞台、何を企図して駅を平穏を〈撹拌〉《かくはん》するか。  いや〈撹拌〉《かくはん》する、というにはどうにもメートルの上がらない走り振りではあったけれども。 「あ、きたきた。実は僕、アレが駅に来たその時、一回だけ見かけたんだけど、その時と相変わらずにボロッちい」 「て言っても、とはいえあんなのでも、下手に勝手に砦の中、走り回られるとそりゃ厄介そうだけど」 「だいじょぶでしょ、よほどのことがないかぎりは……って、なにアレ?」  移動舞台は駅員の目測にして現在の時速二〇キロといったところ、つまり並みの大人なら真面目に走れば追いつき追い越す事も可能な速度で、あの程度のままであれば、よし砦駅員達の半端仕事の〈防塁〉《ぼうるい》であろうと押し留める事もできよう。  馬力も問題となってくるが、あのような古物の機関がどれだけトルク振り絞ろうと程度が知れていると、砦駅員達は身構えつも高を〈括〉《くく》った。  が───移動舞台の〈軋〉《きし》みを追いかけてきた異音に一人の駅員が眉を〈顰〉《ひそ》め、〈踵〉《かかと》浮かせて軌道の向こうを覗きこんで、い!? と絶句に固まった、同僚に怪訝そうに、何を見たのかと〈倣〉《なら》って覗きこんで、こちらも、い!? と絶句に固まった。  徐々に近づき始めた移動舞台の背後に続いて姿を現したものそれは。 「嘘、アレ……確か、前の戦争の終わりくらいの時に造られた急造兵器……あんなのまで引っぱり出してきてるって、何考えてるの!?」  まだ発達を見ぬ幼児の手が、手近な〈燐寸〉《マッチ》の箱だのナットだのを〈出鱈目〉《でたらめ》に寄せ集めましてございの不均衡を体現した、それ。  数人乗りの手動式トロッコに、申し訳程度の装甲板を着装し、かつ不格好な旧式の迫撃砲を無理矢理搭載したそれ。武装トロッコとも言うべき代物だろう。  移動舞台が前世紀の遺物なら、こちらの武装トロッコは前大戦末期、物資も理性も乏しくなった頃の鬼子である。  移動舞台に対しては心の構えができていたとしてもこちらには。呆気に取られた砦駅員達の耳を〈劈〉《つんざ》く、武装トロッコからの拡声器の怒鳴り声は、割れてハウリングして鈍器の衝撃と針先の痛みを持ち合わせて。 『あー、あー、停まれ、停まれッつってんだそこの不法車輌! これ以上の暴走は、駅管理局への宣戦布告と見なす! こちらも断固たる対応を下す! わかったら停まって両手を壁について動かずに───!』  砦駅員達には、移動舞台の二人から被った恥辱に怒り狂った公安官が引っぱり出してきた、などいう経緯は伝わりようもない訳だし、馬の臀に〈集〉《たか》った蝿の性別並みにどうでもいいこと。  むしろこの武装トロッコの登場は、狂犬の遠吠え並みに荷厄介な事態を予感させて、砦駅員達の血の気、嵐の前の気圧計の針の様に下がり、 「こ、公安官殿、も、これ以上は速度、上げられな、僕ら、も、限界……っ」 「腕、ちぎれそうです……背中、折れちゃいそうですぅ……っ」  武装トロッコの筐体の中では。  タールとグリースが〈混淆〉《こんこう》された臭気に頭痛を催しそう、などいう柔弱な弱音は、筋骨がよじれる、より深刻な刻苦に地平線の彼方まで蹴り出されてある。  手押し式の推進クランクを必死に漕ぐ、部下の駅員さんは、バランス無視の武装による車輌重量で息も絶え絶え。 『いいから漕げ!』  なのに公安官の叱咤は空を裂く〈牛追い鞭〉《ブルウィップ》の鞭先、苛烈ににべもなく。  トロッコの筐体の中は、移動舞台に追いつくまで漕ぎ疲れた平駅員達で、〈惨憺〉《さんたん》たる有り様で。ちなみに公安官は予備の制服に着替えてあるので、残念ながら例のバニースーツ姿ではない事を申し添えておこう。 「はぁ、はぁ……ようやく追いついたけどぉ、ぜ、はぁ……あたし、きっと明日筋肉痛で死んでる……はぁ……」  筐体の側板にずるずるなりに崩れこんだ平駅員の、ようやく交替してもらえたのも稼動限界を遙かに越えた後。〈詰〉《つ》め〈襟〉《えり》の大きく開けた、〈襯衣〉《シャツ》の胸は慎ましく膨らんで頂まで透かせているあたり、この子は女子駅員なのだろう。  ブラジャー日頃から着けない派なのか、着ける暇もなく公安官に徴用されてきたのかは定かではないが、最早そんな事を気にしていられる余裕はない、切なげに肩を上下させる度排熱された〈温気〉《うんき》がゆらゆらと。 「はひゅ……ずるいよ、向こうはディーゼル式? ……それともなんだろ、辺境には僕らも知らない推進方式あるから……なんにしたって、原動機付いてるのに、こっちは人力……かひゅう……っ」 「…………僕、なんか、吐きそう。  ……おぅぷっ」 「わああ! 駄目ぇ! ここで戻さないで、せめてこれの中にしてぇ!」 「ちょ……それあたしの帽子ぃ!」  筐体の床にぶちまけて、小間物屋を店開きされるより増しだと、平駅員達が見せた連携こそ、手足に鉛の重さで絡みついた疲労にもかかわらず目覚ましい。  一人が女子駅員の制帽を、撃ち出されるカメレオンの舌よろしく俊敏に取り去り、一人がしゃがみこんでえずく同僚の肩を掴んでくるりと回転させ口元向けた先がその制帽、そして一拍の間、たまらない間。  そして配水管の詰まりモノが高まりに高まった水圧に弾け飛び、〈絞り器〉《スクイーザー》に掛けられて水蜜桃の果汁が噴出した(〈暗喩〉《あんゆ》的表現)。  ───制帽を受け皿にされた女子駅員の前髪の下より流れ伝った涙に満ちた悲哀は、彼女がちょっとした事故によりモップの柄で処女膜を〈喪〉《うしな》った時のそれに匹敵した。  このような貴い犠牲を払いながらも反吐の臭気は防ぎようもなく、たちまち筐体内の機械油の臭いと混ざり合ってより悪化して他の駅員達を直撃だ、これでかえって嘔吐の連鎖が発生しかねない。  筐体内部ではこうして相当に窮まった状況ではあるからして、トロッコの速度は上がらず、といって移動舞台も今のところはまだ先ほどの鈍足を保ったまま。  加速の様子も見えないけれど、二者の足は似たり寄ったり付かず離れず、ペンギンとチャボのおいかけっこじみた、はたから見ると緊迫感にはちと味足りない。  しかしいっかな停まる気配のない移動舞台に、公安官はあっさり沸点を迎え、 『……再三に渡る勧告にもかかわらず、一向に停車する気はないようだな……ようし、それならそれでいい。こっちも実力行使に出るまでだ。貴様等、キヲスク砦内に侵入などさせないからなぁぁ……』 「おい迫撃砲、撃ち方用ー意!」  血走った白目は重度の阿片〈耽溺者〉《たんできしゃ》が描き出した太陽の似姿のよう、軍式の〈手信号〉《ハンドシグナル》で指した、筐体内へ無理矢理に搭載されたのがあからさまな旧式の迫撃砲の、樫へ〈欅〉《けやき》を接ぎ木したってこうも不格好ではあるまい。 「え……待って下さいよ三条さん、実射はやらないって、そういう条件でこの車輌、出動させたんじゃないですか」 「それに、大体僕らだって、こんな大砲撃った事なんてあるわけないし、出動前に教本ぱらぱらめくっただけなんですよ? 無理に決まってますってば……」 「あのな、実戦では状況なんてころころ変わるものだし、撃たない使わない火力に意味はないんだよ。火力の抑止性なんて、クソ喰らえだ」  たちまち色めき立つ平駅員達に上から被せるようにねじ伏せる、公安官の顔色というのは一見冷静なようでいて、完全に常軌を逸している。  この公安官、規則遵守、権威主義の偏執的な原理主義者だけであるならまだいい、その根はまだ秩序に属して生真面目の一変種といえる、けれど同時にこの公安官、火器火力への狂信者でもあったりするから、これはいけない話にならない。  好きなのである。理由もなく。兵器の姿形、匂い手触り重量感、その黒鉄の冷たさを想ううだけでも性的興奮を催すほどでありその硬さに触れると美味を前にしたかのように口内一杯に唾が湧き上がりその発射の衝撃を手の〈裡〉《うち》に受けたなら軽く〈随喜〉《ずいき》に失禁しかねない。  もし戦闘で制圧されて、銃口を口の中に押しこまれでもしたら、死の恐怖と闘えばいいのか発情すればいいのか、錯乱するような手合いなのである。  だから制止してきた平駅員の前で、公安官は見せた奇妙な挙動、左手でぐっと右手首を押さえこむという。平駅員が股間に異様な戦慄覚えて〈竦〉《すく》んだのは故なき事ではなく、公安官はそうでもしない事には、発作的に部下の睾丸を握り潰してしまいかねなかったからで、恐ろしや恐ろしや。  努めて声を押し殺し、 「……それとも何か? お前は犯罪者に協力するつもりか? ここで私の命令を聞かないんなら、そうだな……」 「利敵行為と見なして、査問会議にかけるぞ。判事と検事と弁護士は私が務めよう。これ以上の異見があればそこで聞こうか……?」  胸の中に部下を抱き寄せた手の優しさは、理性の爆発を必死に押し殺して、危険な震えを孕んでいたし、抱擁は一見倒錯的にも見えたが、それを言うなら〈羆〉《ひぐま》だって獲物を抱きかかえてその背骨を砕く。  抱擁は平駅員を大いに後悔させた。この公安官に強制徴用された段階で、何故〈襁褓〉《むつき》を着用してこなかったのだ、という。  尿意を抑えこむための呪術公式でもあらんか、おむつおむつおむつおむつとただぶつぶつ唱え始めた、公安官の腕の中の同僚から目を逸らすと共に、 (あー……この人に目を着けられた、向こうのお二人さんに同情するわ僕)  追跡対象にかかる共感さえ寄せつつも、トロッコ内の平駅員達は迫撃砲の砲弾を用意し、発射の準備を整えるしかなかったわけで。元元がそこまで〈土性骨〉《どしょうぼね》の据わった連中ではない。  慌てふためいたのは砦側の平駅員達で、始めは割りと呑気していたところに、にわかに立ち籠めた鉄血の匂いに皆血の気が引いた。 「なに考えてるのあの人達……! 放っておいてもあのオンボロ車輌、軌道は逸れてるし、砦の前にはバリ張ってあるし」 「通達とかいってないわけ?  やーめーてー!」 「そっちの舞台車輌の方も!  停まって、お願い、僕らのために!」  砦前の平駅員達は、大声、手旗信号、拡声器等々、手近な手段共の全て使って移動舞台と武装トロッコに思い留まるよう急ぎ必死に信号を送るも───両者一向に聞いた風もなく。 『準備いいな? よーし発射ーーっ!』  聞こえてきたのは、砲火の予感に打ち震えた公安官の蛮声。 「だめだ、両方とも全っ然聞こえてないよ、みんな、ここは廃棄、退避だ退避ぃぃ!」  移動舞台は進み続けた。  砦前の平駅員は、安政の大地震から逃げ出す町民の如く両手を振り回しながら逃散した。  砲口が閃光を吐く。  轟いた雷音は、雹や火の雨の一軍が、すわ出番かと勘違いして緊急出動してしまいそうな、あの〈喇叭〉《ラッパ》めいていた。  ───結果は〈惨憺〉《さんたん》たるものであった。  ただし、いかに光と音が派手であろうとも。  所詮は、倉庫に仕舞い込まれたきりでろくに整備もされていなかった上にもともとが急造のいい加減な兵器の武装トロッコである。  おまけに操作しているのは軍人などではない駅員である。  砲撃の結果は〈惨憺〉《さんたん》たるものであったとも。  撃ち出された砲弾は移動舞台に正しく向かっていた。そして正しかったのは方角だけ。射角がまるで合っておらず、砲弾は移動舞台の天井の上をやすやすと飛び越えて、着弾、砦前の駅員達が構築したバリケードに。  噴き上がった爆煙と、〈毫〉《ごう》の単位の間を置いて着弾点を中心に破壊力が撒き散らされる。〈特火点〉《トーチカ》でもない〈急拵〉《きゅうごしら》えのバリケードなどたまったものではない。  一発で全壊の憂き目を見て、砦内への〈隧道〉《トンネル》への侵入を阻む筈であった〈防塁〉《ぼうるい》は、たいそう後処理が面倒な様と成り果てた。  それでもこの〈防塁〉《ぼうるい》は次善の手段であった筈、砦駅員達は軌道をちゃんと切り替えて、移動舞台の進路を〈隧道〉《トンネル》から逸らしていたから、〈防塁〉《ぼうるい》なくとも結局はオキカゼ達は余所へ向かってしまう……。    その筈だったのにそれなのに。 「さ、三条さん、見当違いもいいとこに着弾してるじゃないですかッ」  武装トロッコ内、撃砲の衝撃は筐体内も薙ぎ払い、迫撃砲に係り付いていた平駅員達は重度のアルカロイド中毒者の如き珍妙な格好でそれぞれ伏していて、中の多少強靱なのがどうにか起きあがって公安官の腰にすがりつき、の抗議は無情に棄却された。 「気にするな、測距だ測距、一発目なんてそんなものだ。もう大体判った。というわけで続いて二発目用ー意!」  むしろまた撃てる事を喜んで、三十路近い公安官の顔は少なくとも五つは若返り、声なんどは恋人に呼びかけるように〈溌剌〉《はつらつ》と。 「まだやるの!?」 「…………査問会議」 「うあああん!  砦のみんな、ごめんなさい……っ」  性懲りもないもいいところで、砲身の余熱覚めやらぬ間に二発目を籠める、も。  作業する平駅員達の手は砦側の同僚への罪悪感で鈍っていたし、知覚の方だって第一射目の衝撃で強打に酔った拳闘家のよう、ぐにゃんぐにゃんである。  まいてや迫撃砲は固定が緩み、筐体自体が今の一撃でよくまあ分解しないで済んだのが不思議なくらいの有り様では、狙いなど、神話中の九つの太陽を撃ち落としたという射手が照準手を務めたとしても定まる筈もない。  轟音、閃光、二撃目はさらに大きく逸れて砦前の軌道切り替えスイッチに命中して破壊した。だけに留まらずその際の衝撃で逆に切り替わり、軌道は移動舞台を〈隧道〉《トンネル》へと導いてしまう事になり。  着弾の被害は、幸いというかこの場合不幸というのか、軌道を破壊するまでには至らず多少歪めた程度。移動舞台の鈍足では脱線する事もなく、通過の際多少揺らいだくらい。  右に左に傾ぐ車輌は、足元にぱっくり開いていた穴を運良く踏み越えて、偶然に事なきを得た老婆の歩行を思わせた。  この一幕の本当の不幸中の幸いは、人的被害が出なかった事にある。  武装トロッコの〈暴戻〉《ぼうれい》に、〈防塁〉《ぼうるい》の〈傍〉《かたわ》から脱兎の退避、活劇映画中の人物よろしく地に身を投げ出して頭を抱えこんでいた平駅員は、砲撃が止んだと見て怖々顔を上げれば、移動舞台は砦内へと悠然と侵入を果たすところ。  キヲスク砦からは前大戦時には再設されていた各種〈堡塁〉《ほうるい》も現在は取り払われて、舞台の進行を阻む術はない。  〈暫〉《しば》し呆然としていたが、はっと周囲を見渡して〈朋輩〉《ほうばい》達の安否に気を揉むも、幸い皆土汚れまみれだが無事の様子の、 「ひぃ……ひぃぃ……みんな、無事?」 「ううう、どうなんだろ……あっ! ぼ、僕、お腹のトコべったり赤黒いの、これ血……うああ、ダメだ、なんかもう意識も遠く……これ、もう僕、死んじゃうんだね……さよなら、みんな……」  制服をべっとり汚した濃い色に容易く目を回しかけたものの、利け者の仲間は〈目聡〉《めざと》く本物の血潮の色合いとの異なりを見て取る。  指を伸ばして〈一掬〉《ひとすく》い、匂いを嗅いで、 「落ち着いて。これ、さっきのジャムだよ。とにかく大怪我したのはいないみたいなのはよかった、けど……」 「あー……行っちゃったね、移動舞台。  ……ポイントの切り替えも、バリも。  なんもかもが全部台無しで……」  かくして移動舞台はキヲスク砦内に侵入を果たしたけれど、さてそれがオキカゼとしては意図していたところであったのやら。 「うおお、おっかねえ。大砲までぶっ放してきやがったぞあいつら。おまけに仲間に向けて、ときた。頭おかしいんじゃねえかあの公安」 「……うう、耳がぐぁんぐぁんするよ。大砲ぶっこまれたところなんか、もうひどいことになっちまってるじゃない……でもさすがにこれ、わたし達のせいじゃないねえ、オキカゼ」 「おうともよ。キチガイに鉄砲持たせっと、ろくなコトにならねえっていい見本だ」  ……ただ、移動舞台の運転台にて、賢しげ顔を見合わせていた二人を平駅員達や公安官に見せてやったなら、虚脱して二・三日寝込むくらいはあったかも知れない───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  キヲスク砦への列車に乗りこむ者は、内部へと通ずる〈隧道〉《トンネル》を通る際、車輌の車体を擦らんばかりの僅かな〈狭隘〉《きょうあい》と見て肝を冷やすのが多い。  そして閉塞感に握りしめられた分だけ、〈隧道〉《トンネル》を抜けた時の解放感は〈目眩〉《めくるめ》くよう、認識が軽く混乱してしまうほど。  それがキヲスク砦の内部大〈穹窿〉《ドーム》。見上げた視線が天井にぶち当たるまでの距離感は、人をして己を大伽藍の中に迷いこんだ小虫かと錯覚させてしまうくらいに高く遠い。  湾曲した壁面にも軌道廻廊が幾重にも張り巡らされ、無数にも等しい灯火は永遠の星空の瞬きかとさえ見ゆる。  人間はこうも広大な屋内にあっては、区切のない荒野に投げ出されるよりも、かえって身の置きどころをなくすもの。乗りこんだ列車の車席に背を押しつけ縮こまりたくなるかも知れないけれど、それも〈穹窿〉《ドーム》内の暗がりに目がなずむまでのこと。  見上げた視線を等身に降ろしてみれば、〈穹窿〉《ドーム》の基底部は、幾多の〈購買〉《キヲスク》の建て屋、屋台、露店の数々が押しめきひしめき、異国の〈市場〉《バザール》と観光地の土産物屋街と駅地下の売店並びの要素全てが入り交じり、なんとも心楽しい気分にさせてくれる。軌道はまるで降誕祭の贈り物一杯のプディングに〈潜〉《もぐ》りこんでいくようなものだ。  通い慣れている者でさえ〈隧道〉《トンネル》を〈潜〉《くぐ》り抜ける度にこの〈感興〉《かんこう》を新たにするのだから、初見の者の昂奮はいかばかりなものか。  また店は〈穹窿〉《ドーム》基底部だけに集合しているのではない。なにしろこの大〈穹窿〉《ドーム》でさえ、岩塊全体の容積においては幾割りかを占める程度であり、岩塊内部にはチーズを〈刳〉《く》り抜いたような坑道が幾つも幾つも。岩塊内部にはそれら坑道を通じて蟻の巣の房のように商店を始めとした各種施設が散在していて、全体の見取り図は一応あるにはあるものの網羅はしきれていない。  〈穹窿〉《ドーム》内壁の軌道廻廊が枝分かれして岩塊内部に〈潜〉《もぐ》りこみ、それら坑道中の商店や各施設を繋いでいる。大〈穹窿〉《ドーム》の店屋のひしめきあいを好む者はもちろん多い一方で、裏路地の散策を嗜好する向きは坑道内の商店を巡る方を喜ぶとか。  そういった坑道内の、数多い小店の一つ。  床と天井は板組みだが、壁は〈刳〉《く》り貫《ぬ》かれた岩盤が剥き出しにごつごつと、彫り抜かれた当時の窪みを適当に棚にして、積まれていたり並んでいたりする売り物は古本。  これでそれらが業界の書誌目録にも稀書・奇書として扱われるような代物であれば、店の、ゴシック聖堂の聖遺物秘蔵庫めいた〈佇〉《たたず》まいと〈相俟〉《あいま》って、一部の好事家達の知る人ぞ知る伝説的な〈古書肆〉《こしょし》扱いされようところ、置かれているのは安いペーパーバックや古雑誌が〈殆〉《ほとん》どとあってはいかがわしさ胡散臭さが先に立つ。  店主も、史上最古の活版本を持ち出してきて平然と澄ますような、スカルキャップ被った白髪白髯の古強者……などではなく、お馴染みの平駅員さんで、要はこの古本屋、駅の利用者や観光客が捨てていったり忘れていった雑誌、書籍を回収して再販売しているのである。  何もこんな妙に奥まって秘密めいた〈窖〉《あなぐら》で商売せずとも良さげなものだが、この人もあまり通わぬ、という条件を気に入って〈訪〉《おと》のう者もあったりするのが世の中だ。  例えば彼女もそんな一人の。 「なんか外が騒がしいわね。どこの莫迦か、本くらい静かに選ばせろっての」  砦の外での武装トロッコの砲撃音は、厚い岩塊越しでは有るか無きかに弱められていたのに聴き取る神経質、品定めに集中しているからというより、少しばかり身を〈憚〉《はばか》るところが彼女にあった為。  映画車輌管理人、アージェント嬢がその高尚なる趣味を満たすべく、裸電球の裏ぶれた灯りの下、古書を物色の最中であった。  眼鏡をサングラスに替えているのは本人にしてみれば変装のつもりか、ただ古書店駅員君にとっては馴染みの常連であり、鼻柱から頬に散った〈雀斑〉《そばかす》の素顔は砦の外でもしばしば見かける。 「さあー? どっかの出稼ぎさん達が、故郷の記念日とかで花火でも上げてたり、デスカねー?」 (……アージェントさん、これ自分だってバレてないつもりなんだろな。僕も知らないふりしてあげるのが優しさってヤツだよね?)  古書店駅員は、アージェント、平積みにされてある古本の束の中から、擦れた背表紙を見ただけでよくまあ見抜いて抜き取ったものとなかば感心していても、横目に見やるだけで正視はしてやらない。  それでもアージェントが手にした古本の表紙は目に入ってしまって、描かれた、メイドのスカートを〈捲〉《まく》りあげ、貫く形に柳腰を抱えた紳士という図柄に、ああ今日はメイド物なんだねと生暖かく〈頷〉《うなず》くあくまで心の中で。  先だっての来店は四日ほど前という近々だったから、その時は〈放蕩児〉《ドン・ファン》の性遍歴物と令嬢の凌辱調教物だったというのがまだ記憶に新しい。それ以前は一々思い出せない、なにしろアージェントがここで〈猥褻本〉《わいせつぼん》ばかり買い漁っていくようになって長いので。  ただ、恋人もいない〈雀斑〉《そばかす》の娘がその手の猥本を買い漁って、一人どのように読み耽っているのかまでは、詮索を自ら〈遮〉《さえぎ》るのが古本屋の店員としての最低限の礼儀である。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  で、その古書店から、岩盤隔てて一層上にあるのが、駅の〈啓蒙〉《けいもう》施設の一つであり、歴史編纂局管理下の駅内戦史博物館である。  ま、名前は大仰だが、同じ局管理下の『駅内軍史資料館』『駅内歴史博物館』『駅内人文科学館』といった歴々たる館に比せば、規模も重厚さも哀しいかな遙かに格下で、来訪者記帳も書き込み無しを日々更新し続けている。  この閑々、閑職も裏を返せば〈暢気〉《のんき》で平穏な毎日で、ここの係の平駅員達は、すっかり静かな日々に馴染みきり、来客があれば喜び、無くても、穴を掘っては埋めるようなほぼ無意味な仕事に没入する術を心得ていて平気の平左、隠遁生活を望む者には羨ましい限りと言えよう。  そんな彼らだったから、本日運びこまれた『資料物品』については、館としては珍しい、久方ぶりの真っ当仕事であるにもかかわらず、困惑を大いに、それぞれ腕組みで鳩首評定しているところである。  彼らを困惑させている、その資料物品。  整理前収蔵庫の一画で滑車で吊り上げられているそれ。  一部腐食はしているけれど、まだ金属光沢を留めて目方が重そうで、見た目からして剣呑な気配秘めている、それ。  一見しただけで投下型爆弾の類と知れる、それ。 「どうすんのさこれ。僕は前の戦争の資料とは聞いてたけどね、にしたってもこれ、まだ全然解体処理とかされてないじゃんさー!」 「僕だってこんな、信管とかついたまんまのが来るなんて思ってなかったよ! こんなん危なっかしくてそばにいるのも〈厭〉《いや》だ。か、返そう、事務に言ってすぐに返却してもらおう」  どうやら本来は内部の起爆装置や火薬などは抜去処理して弾殻だけが搬入される予定が、何故かそのまま搬入されてしまったと見えた。  まあ駅のお役所仕事の中では割りと可愛らしい部類に分類される過誤ではある。  蒼くなって送り返そうとしている二人とは裏腹に、どこか〈螺子〉《ねじ》の外れた博物館駅員が一人。信管付きの爆弾というのに、妙な興味そぞろを催したようで、周りをくるくる回りながら、ためつすがめつの、獅子の〈欠伸〉《あくび》の〈顎〉《あぎと》の口に留まって〈口蓋垂〉《のどちんこ》を覗きこむ、〈鶫〉《ツグミ》の同輩と見えた。 「へえ、これが不発弾か。初めて見たよ。戦争の時は、こんなのがあっちこっちに落っこってたんだねえ」 「なに呑気なこと言ってるかな君は。  あ、ちょっと、一体なにを」 「や、やめ───っ」  不発弾の外殻をこんこん叩いたりして、西瓜の鑑定でもするかの同僚に、悲鳴引き〈攣〉《つ》らせて博物館駅員は、流しの精神分析医が運良く通りかかってくれる事を希求した。もちろんそんな変人医師などそうそう近くに在ってたまるものではない、二ヶ月前ならまだともかく。二ヶ月前まではキヲスク砦近くを活動範囲としていた目つきが蛇のようで眼鏡を掛けて白衣の、流しの精神分析もあったのだが煮卵を殻ごと丸呑みにして窒息死していた。  もしたとえそのおかしい同僚を逆行催眠に掛けたとしても、判明するのは潜在的な自殺願望とか破滅願望の類は一切持ち合わせていないという事実のみ。問題行動をとるからといって、幼児期に畑の納屋の陰で叔父に強姦された様なトラウマ持ちがそうひょいひょいあるものではないのである。  つまりこいつは平駅員の中で稀に現れる規格外の一人というだけ、行動に理由などない。  だから他の二人は泡を食って床に身を投げ出して伏せた次第だが、ずれた駅員君は特に危機感も抱いてないようで、 「平気だって。これっくらいで爆発なんかするんなら、今までとっくにしてるって」 「その根拠のない自信、どっから出てくるの。 なんでそんなに君はこわいもの知らずかッ」 「あ」 「『あ』ってなにーーーっ!?」  お馬鹿な駅員が小突いたせいばかりでもあるまい。  もともと不発弾の重量を支えるには、固定していたワイヤーの強度が足りなかったのだろう。ぶち、と一筋切れたのをきっかけに残りも次々切れてしまって、固定架から落下して、二人、破滅を覚悟する、間もなく。  不発弾は、床に食いこんだと見るや、走らせた亀裂は規模としては極めて局地的ながら、観念的には大氷原を分割するクレヴァスにも匹敵する。  亀裂は〈呼〉《アッ》と叫ぶ間くらいは与えたけれど、それ以上は博物館駅員に何も術与える隙無く、床を破砕して、下層へと落下して姿を消した。  恐らくは、館には置いておかれないという常識人の博物館駅員二人の願いを何処ぞの神様が汲んでくれたのであろう。たとえ蝙蝠の翼と山羊の角と蹄を生やしていたとしても、崇め奉る信徒がある限りは神様といって差し支えあるまい。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  坑道内を運行する、玩具のような小列車が入口前を通過の震動もないのに、ぱらり、と検分中のポルノ小説の頁に埃が〈零〉《こぼ》れ、アージェントは不審気に鼻先を上げた。  と、どこか遠くで響いた、重たげな物が何かを撃つような微音の出処、上からのような気がして天井を仰ぐ。 「? また変な音、今度は上から変な音しなかった? 全く、エロ本……じゃなかった、参考書くらい静かに見させてほしいものだわ」 (今エロ本って言ってから言い直したよねこの人。そんな気にしなくてもいいのにさ。女の子だってそういうの、興味あるだろうし) (毎回他の関係ない本で挟んで買ってくけど、資料代って領収書まで切ってくけど、そんなコトしなくってもこっちは一々気にしないのに) 「さぁ……? 上は博物館ですからね。なんかおおがかりな整理作業でもしてるんじゃ?」  とかなんとか〈温〉《ぬる》い詮議立て、古書店駅員が天井を見上げたのだって突きつめる気持ちというよりは、アージェントに〈倣〉《なら》ってみた程度。  博物館の整理、と一応は〈尤〉《もっと》もらしい落としどころにアージェントもぼんやり納得しかけた時。  一瞬間の、天井の羽目板が隙間広げたと見えたのが予兆だった、と思った時にはアージェントと古書店駅員の間を黒い鈍い大きい何かが、掠めて消えた、その勢いの凄まじさ。  登場と消失がほぼ同時であり、二人の耳をなかば麻痺させるほどの轟音もあったのだが、瞬時に全てが起きて終わった為、できた事といえば〈脊髄〉《せきずい》反射で身を硬直させる事のみ。  何かが天井を破砕して、その質量、速度のままに床をぶち抜き落ちていったのだと気づいたのと、心臓が危険なほどに乱打しはじめていると意識できたのはどちらが先であったのか。  天井の破砕孔から床のそれを目で追う二人の動きが綺麗に同期していたのが、唐突すぎた事態をどうにか言語化する為の儀式のようにも見えた。  鼻と喉をつつく埃のいがらっぽさが、アージェントにようやく言葉を取り戻させる。 「うぇ、ぺっぺっぺ、埃が……な、な、なに今の、黒くてでかくって!」 「なんかそういう言い方すると卑猥ですね。あ、いえ、お客さん、怪我とか無かったですか」 「あたしは別に……うわ、床、えらい大穴が」  卑猥、というなら、天井と床に開いた大穴こそ、それまでアージェントが通い慣れた古本屋の〈佇〉《たたず》まいを、一瞬にして馬鹿馬鹿しいまでに非日常化させてしまっていたが故に卑猥であり、〈抗〉《あらが》いがたくアージェントの目を吸い寄せた。暗い孔に惹き寄せられるのは、何も男だけでは無いという〈証左〉《しょうさ》である。 「危ないってばお客さん!」  アージェント、〈孔〉《あな》の奥を見通すには暗いと、ほぼ無意識に眼鏡を普段〈遣〉《づか》いの透けたのに戻して、ついうかうかと孔の縁から下を覗きこんでしまったところ、衝撃で〈脆〉《もろ》くなっていた床、縁からさらに崩壊し─── 「わ、きゃわわあああっっ」 「お客さん!? お客さあああんっ!? あああもう、言わないことじゃない!」  不発弾を追うようにして、アージェントもまた落下していって、古書店駅員が咄嗟に突きだした手は、本来の位置なら〈雀斑〉《そばかす》の娘の薄い乳房の辺りを鷲掴みにして、このまま強姦されてしまうのかもと〈徒〉《いたずら》な期待を彼女に抱かせてしまったろう。  今はただ、虚空を掴んだばかりなり。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  そして移動舞台は───今は移動舞台、人の駆け足よりも遅い程度の速度でゆっくりキヲスク砦の中心、大ドームの露店地帯を巡っているところ。  キヲスク砦名物大〈穹窿〉《ドーム》の商店の、目も綾な、色とりどりの灯りの数々が、移動舞台の進行に合わせ回り灯籠のように展開されて、運転台から眺める沙流江の双眸と額の三眼へ不思議な色合いの照り返しを置いては流して。  ここに来ると、ついお大尽気分が浮かれ出し、二人の乏しい財布の〈費〉《つい》えになるからとて、出入りを控えていた沙流江には、久方ぶりの万華鏡だった。  陶然と和らいでいく心地の中に、不安の筋も幾ら引かれているのは、移動舞台のこれからがどうなるのか予想がつかない為に。  あの厄介な公安に完全に目を着けられた今となってはその懸念も当然で、沙流江としてはオキカゼの肌の温みを身近に置きたい。  ……二人で寄りそって、屋台や〈購買〉《キヲスク》の灯りが紡ぐ、光の織物を眺めていたいという甘い欲も手伝って、沙流江は背後を振り返れば。 「キヲスク砦ン中まで入ってきちゃったけど、どうなるんだろこれから───って、オキカゼ? あれ、オキカゼ、どこ!?」  沙流江がぼんやり露店の色とりどりに目を奪われていたのはそれほど長い時間でもあるまいに、オキカゼの姿が運転席から掻き消えていた。  沙流江、心細さに移動舞台の後ろに通じる扉を〈潜〉《くぐ》っても、舞台の方にも少年の姿はなし。そんなところにはいないのがわかりきっているくらいのあちこちを、〈狼狽〉《うろた》えきってひっくり返して回る。 「オキカゼ、こんな時に隠れんぼ?  それとも知らない間に転がり落ちた?  いやだよそんなのは」  オキカゼはまだともかく、沙流江の方はそんな遊びに興じる年甲斐でもあるまい。  そんな彼女の混乱を余所に、移動舞台のやや先、進路上の脇のジャンク機械の露店で、熾烈な値切りのやりとりが繰り広げられてあった。  何かの装置を的にかけ、出来る限り買い叩かんとする客と、どうにか言い値で買わせようとする店主との舌戦だ。 「たいそうなこと言ってるがな、親爺さんよ、こいつはもう使い物になんねえ屑鉄だろこれ。俺が回収代もらってもいいくらいだぜ」 「悪魔みたいなガキだなあんたも。どこが屑鉄だ。これは軍の払い下げで、まだぴっかぴかの新品同様だ。出すとこ出しゃあ、この値の3割り増しでも買おうって客がいるだろうとも」 「どこが新品だよ、こう揺すってみりゃあ中でなんかからから鳴ってるし、お、今〈零〉《こぼ》れたのはネズミの糞じゃあねえか。新品どころかネズミのご家族様の別荘だぁ!」  〈老獪〉《ろうかい》そうな店主に一歩も引かず、どころかやりこめてしまいそうな勢いの遣り手の客、それがオキカゼなので。いつの間にか移動舞台から飛び降りて、先に走ってジャンク屋から何物かを買い叩こうとしているので。  沙流江は移動舞台の中を必死に探すあまり、店主とオキカゼの様子にも気づかないでいるうちに、舞台はジャンク屋を通り過ぎていく。  沙流江のなりに似合わず間抜けな面を、またも露出させているうちに商談は、オキカゼの僅少な有り金ではいくらなんでもやれぬ、その懐中時計を下請けに出すのなら良い、という形で決着した。  少年は身を切る思いもありありと、彼という人間の構成要素として欠かせざるお大事の懐中に、口づけと愛撫で別れを告げて、親爺に手渡し、たと見るや、露台からその装置をひったくるようにして脇にかい込み、移動舞台を追って走り出したのが〈黒貂〉《くろてん》の逃げ足。  その勢いに不安を掻き立てられぬような愚鈍では、駅の物売りどころか最下層の屑鉄拾いも務まらない。  慌てて懐中を改めれば、ムーヴメントが空であったばかりか、一見筋の良いものに見える側でさえ、同じ重さの鉄より値が劣ろうという粗悪品だった。  駅のジャンク屋として長年やってきて、悪どい事にも手を染めた自分に、何時すり替えたのか気取らせなかった手並みは賞賛に値する。が賞賛は賞賛として、着けねばならない落とし前、金も無い、物も無いではこれでけじめるしかなかろうと、親爺が屋台の下から取り出したるは鉄パイプ。  ところどころのドス黒い錆は、その鉄パイプがいかなる不穏な経歴を重ねてきたのかを物語り、オキカゼもおそらくその染みを増やす事になろう。  駆け出した親爺の〈激昂〉《げっこう》の顔は、その予想が現実化する事間違いなし、というくらいの鬼の面と化していた。  僅かに先行したオキカゼと、怒りを速度に変える親爺との追跡が開始された直後、軌道の反対側で駆け出した三つの影がある。  それぞれが、チューバ、ヴィオラ、ギターを抱えた黒背広の三人組で、走り出すや掻き鳴らし奏で出し、少年と親爺の追跡劇に背景楽を添えるのは、金を取るつもりはない、単なる酔狂である。  いきなり湧いたこの三人の流し、元が軍楽隊というのが謳い文句だから、全力疾走しながらでも平気で演奏をこなすのだ。  オキカゼ、かくて屋台並びの喧噪より賑々しく湧きだした音楽に首を〈捻〉《ひね》る余裕なぞない、持ち余りのする装置を抱えてひた走るのは彼にしても死の爪を盆の窪に感じるほどの恐ろしさ、実際背後では親爺が振り下ろしては仕損じていたが、鉄パイプの風切り音を間近に聞いた。  それでもどうにか、ああやっと、移動舞台に追いつくと、その後部扉をばんばん叩いて呼びかける、沙流江へ、息乱して足が〈縺〉《もつ》れたらそれが最期だからと、言葉短く刻みながら。 「おい、ルーエ、ルーエっ、てばよ! 開けろ、ここ開けろ、聞こえて、んだろ!」  そうこうしている内に怒りに燃える店主は猛然とオキカゼに肉迫し、鉄パイプを〈蜻蛉〉《トンボ》の構えに振り〈翳〉《かざ》し、後は振り下ろせばそれで事は済む─── 「あっ。オキカゼの声! なあんだ、外にいたのねえ。早く言っておくれな、わたし、必死に捜しちゃったよ」  沙流江が移動舞台の後部扉を勢いよく開いた瞬間とタイミングは、オキカゼにとっては最高、親爺にとっては最悪。  オキカゼは最後の力振り絞ったダッシュで駆け抜けて親爺はそして。  勢いよく押し開かれた扉にぶち当たって吹っ飛ばされた、その衝突の激しさ、扉の蝶番がいかれて扉板がこっ〈外〉《ぱず》れてしまった事からも明らかだったし、悲鳴も上げず昏倒した親爺の顔の隆起部分が平たく伸されてしまっていた事からも知れよう。  扉がばん、と開いて親爺もばん、とぶち当たったのと機を合わせるように、ヴィオラの弦がばつん、と切れたのが、空恐ろしいまでの小気味よさを湛えていて、流し達は苦笑しながら走り止め、肩を〈竦〉《すく》めて移動舞台から遠ざかりゆき、そしてオキカゼはようよう運転台へと這い上がる。  親爺とやり合い駆けるうち、移動舞台は大〈穹窿〉《ドーム》の端まで進行していて、ふっと周囲の光が弱くなる、見ればキヲスク砦奥へと向かう坑道の一つに入ったところ。  この辺りはまだ賑やかさは残っていても、やがては店も〈疎〉《まば》らになる、岩壁だけの隧道となる。  その、〈窖〉《あなぐら》の奥へと入りこんでいくというのが、現在の沙流江の浮かない気分を反映しているようで、彼女の声に湿った色調を置いた。 「ああ……壊れちゃった……後ろの扉の一枚。  どうしよう、オキカゼ、降りて拾ってこようか、わたし……」  舞台内に装置を下ろし、息を整えるオキカゼ汗だく、脂と汗を〈拭〉《ぬぐ》ってやりながら沙流江は、半分が開きっぱなしとなってしまった後部扉を見て、物哀しげに呟いた。 「いいよわざわざ降りたりしなくっても。仕方ねえわ、この状況じゃ。戸板くらい、適当にどっかから持ってきてやるよ」 「そう……ならいいけど。  けど、もうオキカゼ、なにしてたんだか。あー、また口八丁で何かを詐欺ってきたんだね。そういうことばっかしてると、何時か手ひどいしっぺ返しを喰らうよ……」 「置けやい、今はそんなこたあよ。にしても、はぁ重たかった。うまいとこ動いてくれるといいが」 「ていうか、それ、なに?」 「通信機だ、軍用の。ここらのジャンク屋で置いてるトコがあるって聞いてたからな。公安があんな武装車輌まで引っぱり出してきたとなっちゃあ、ちょっとは駅の中の電波通信、聞いておいた方がいいか、ってさ」  オキカゼが詐欺同然に奪い取ってきたのは通信装置の、旧型であちこちボロボロだが、とにかく移動舞台に積んであったバッテリーに繋いで試してみようと、二人ががさごそしていると───不意に、沙流江の表情が失われ、眼差しが無機的に、遠くを見やるようなものとなる。  移動舞台の天井を眺め、奇妙なことを口走った、声音までが常の彼女とかけ離れて。 「推進起爆剤───その代替となる燃焼材、  位置確認。  本機への補充機材として召喚───」 「……あん? 沙流江、おいルーエ。お前何を言って」  人間の生の喉にて構成された声の筈なのに、沙流江の台詞はその様に音を連ねるよう調整された機械じみて、オキカゼ少年にも彼女との付き合いの中でそんな声音は初めて聞いた。  何時だって、少年が声を掛ければ、たとえ声にはせずとも身じろぎなりで反応を示す女がこの時は完全に〈黙〉《だんま》り草、仕方なくて彼女の視線を追って見上げた天井、無言で振り仰ぐ姿が二つ、殉教者の姉弟めいて、実際オキカゼの方はすんでで天に召され損なった。  なんの、この悪たれを召す天などあってたまるか、その遍歴中の善悪を勘定して門を閉ざすわ、ともかく、見上げた天井をぶち破り、オキカゼの視界を瞬時に塞いで床にぶち当たった、黒い、大きい。  身をかわせるような隙など無い、まさに髪一重の差で済んだのは偶然に、オキカゼは鼻先を掠める風を嗅いだし、帽子は〈鍔〉《つば》を弾かれ跳ばされた。  それが床に突き立つ衝撃は足裏に不気味なまでに、この神経が〈鋼索〉《ワイヤー》並みに強靱なオキカゼをして睾丸がつれるほど〈竦〉《すく》み上がらせる。  恐怖に都合良く砕けてしまおうとする、状況を正しく把握せんと認識する、心と思考が頭の中で始めた取っ組み合いを、どやしつけて沙汰止みにしたのは同質の驚愕である。  今度衝撃は移動舞台の後部から、一撃目よりもやや軽かったが、〈融〉《と》かし伸ばした硝子と引いた悲鳴の尾が、オキカゼを正気づかせた。  ……今更述べるのも何やら不粋な半畳やも、しかし念のため。坑道内で移動舞台が差しかかった位置は、例の戦史博物館と古本屋のほぼ真下であり、始めに落ちてきたのは件の不発弾となれば、次に続いたものの正体は読書子には自明であろう。  とはいっても、オキカゼにとっては、何か黒くて訳がわからないモノが落ちてきてくたばり損ないの矢継ぎ早、もう一弾続いていよいよわからない、こみあげてきたむかっ腹が天竜寺時の鐘、虚脱感を速やかに叩き出し、振り向き見れば。 「あっぶねぇ……もう少しで直撃喰らうとこだったぞ俺ら二人───あっ」 「ななな、なに、何事、今度こそあの公安の大砲が命中!? ───あっ」  不発弾の落下には〈寸毫〉《すんごう》も動じなんだ沙流江も、二発目でようやく眸に人めかした色取り戻して体を返せば。  先ほど片扉こっ〈外〉《ぱず》れて風通し良くなった、移動舞台の臀っぺたの柵の〈手摺〉《てす》りに。 「足───オキカゼ!   後ろの柵、引っ掛かって、誰かが!」 「見りゃわかる!  ルーエ、手伝え、助けねえと!」  思えらく、それを奇跡と言おうが、地蔵菩薩が開掌の、小指の爪の先に引っかける程度の慈悲と形容しようが、人知を超えた偶然というのは確かにあって、まず移動舞台の速度、そしてジャンク屋の親爺とのすったもんだの挙げ句剥き出しになっていた後部の柵、更にアージェントが腰に革鞄を着けている事、それらの一致というのがどれほどの確率で成り立つのか考えてみるに明らかな。  後は人の理だが、崖の端に立つ親の仇を見つけ、突き落としてくれるの〈心算〉《こころづもり》だったとしても、そ奴が落とすより先にうっかり足を〈滑〉《すべ》らせたと見るや、突き出した手を掴む掌に替えるのが人というもの。  沙流江は言うに及ばず、悪童オキカゼでさえ、胸に飛びこんだ窮鳥には余計な勘定より先に暖かな手を被せる。  この時、撃ち出された〈鏃〉《やじり》の如く飛びついたのも、相手が誰であろうとそうしたろう。  相手は、頭を逆さに背をこちらに、くの字に曲げたひかがみと腰の革鞄で辛うじて柵に引っ掛かってと、相当に珍妙な姿勢を晒しているという以外はオキカゼも沙流江もまだ判別付かず、それぞれ片脚を掴んだ時の、 「うういってぇ、なにが起こった……って」  自分がいかなる体勢にあるのか、頭の直下で高速で過ぎ去っていく枕木の危うさ、それらを認識するより先に、〈天骨〉《てんこつ》を〈嬲〉《なぶ》る風圧の酷薄が、アージェントの恐慌の引き金を引いた。 「アーーーーーーァアーーーーーッ!!」  類人猿に育てられた密林卿の木の蔓伝いの跳躍の雄叫びを真似ようとて、完全にこれ以上ないくらいに失敗したような、それは〈歪〉《ひず》んだ声であったけれど、オキカゼは聞き分けた。  彼女に対して奇妙な親近感を抱いているオキカゼならでは、か。 「いぃ!? こいつぁアージェントだ!  沙流江、絶対放すな!  こいつが死んだらポルノが見らんなくなる」 「ホントだ、アージェントちゃんじゃないか、ニューパライソの! 合点! 待っててね、すぐに───んーっっ」 「っ!? その声、オキカゼに沙流江……?  あたし、いったいどうなってるの……?」 「あんたァ、俺らの移動舞台のケツに引っかかってんだよ。安心しろ、目の前で煮込んだトマトみたいになられちゃ目覚めが悪い。すぐに引き上げてやっからさ」 「想像させないでオキカゼってば。アーちゃん、待ってて、すぐに───若いコのあんよって、なんでこう、こんなにむちむちなんだろ、いーなぁ……それに」 「へえ……あんたってけっこう凄いパンツ履いてるんだねえ」  逆子の馬の仔を取りあげる形に取り付く二人が覗きこむ、するとスカートの〈裳裾〉《もすそ》びょうびょう〈靡〉《なび》いて〈臍〉《へそ》まで〈捲〉《めく》れかえって、手で押さえようとて風の前に押さえきれたものでない。  繊細で修飾的なショーツ、アージェントの乙女の意気地をそこに集結させたような〈艶〉《つや》なるガーターベルト、こういうのは〈松露〉《しょうろ》とか〈海燕〉《ウミツバメ》の舌の類の美味佳肴と同じで、大口一杯に頬張るものでない、僅かに味わうからいいのだ、などて評論していられる状況ではない。 「そりゃあ沙流江、普段はあんだけツンケンしてても、さすがはブルートレインの映画屋ってだけはあるってことだ」 「お、お前ら、じろじろ見てんな! それからブルートレインって言うなぁっ」  二人、軽口を叩き合いながらも引き上げようと息を合して精一杯、なのに恐慌に陥ったアージェントが変に体の芯を強張らせるので、力の向きがずらされる。  苦戦するうち、アージェントの鞄の蓋がずれて、中に入っていたインク〈壜〉《びん》が〈零〉《こぼ》れ落ちる、〈脆〉《もろ》く砕けた硝子の〈暗喩〉《あんゆ》するものが恐ろしい。  線路上で砕けて、黒々とした染みを広げるもすぐさま遠ざかって見えなくなる、その様子がアージェントには自分の末路に思われたし、いい加減頭に血ものぼるわで、より混乱は加速した。 「ぎゃあああ、ぶ、ぶつかる、頭、ぶつかって鉢割れて中身出る、脳が飛び散る、助けて、早く引き揚げてぇぇっ!」 「アージェント、暴れたら駄目だってば。  そんなに暴れたら───や、〈滑〉《すべ》っ───!」  身悶えの、弾みにストッキングを吊っていたガーターの留め具が弾け、沙流江の手の中で、薄い布地が〈滑〉《すべ》る、途端にずるっと。  沙流江の腕の中からアージェントの足がすっぱ抜けそうになり、その頭もがくんと、飛ぶように過ぎていく線路の枕木へ、一段と近づいて。 「ひい!? お、落ちる、落ちちゃ……、  怖いい!! 死にたくないよおおッッ、  あ、あ、あ〜〜〜っっ」  アージェントのパンツの股間に、じわりと広がった舟形の染みの、恐怖に収縮した膀胱が示したその程度の反応、生き死にの瀬戸際の前では沙汰にもならない。  だからオキカゼも、ただ見たままを口にして〈嗤〉《わら》うつもり毛頭無い、がこの場合見たまま口にするだけで可哀相というもので。 「あ。おしっこ」 「見ないで、見ないでよお……っ、  うぅ、うぁぁ、馬鹿ぁ……っ」 「そんなコト言われても無理だってば……だいじょぶだよ、女の子にはよくあることなんだから。後で良い洗濯の仕方、教えてあげるし」  しゃくりあげる、泣きの涙もまた風にちぎり取られる。  アージェント、今度は〈啜〉《すす》り泣きに身を強張らせたけれど、振り落とされまいと下手に力まれるよりオキカゼと沙流江にとってはまだ〈力〉《リキ》の作用点を取りやすい。  結果的に涙が乙女を救ったといえば、いささか詩的でアージェントの面目も立つ瀬があろう……。  とにかくどうにかやっとこさ、二人、移動舞台の中にアージェントを中に引きずり挙げる、と。  〈雀斑〉《そばかす》の娘を引きずりあげた直後に、移動舞台の速度が緩んだというのが、またなんとも皮肉ではあった。 「ぐしゅっ……ひっく……パンツ、全部見られて。それだけじゃなくって、あんな瞬間まで……あたし、もう生きてけない……」 「まずは自分の命冥加を喜べって。そもそもなんだってブルートレインの管理人がこんなとこで降ってくるんだ。訳がわからねえ」  ぽんぽんと、恥辱の涙に打ち震える肩を叩きながらの慰め、だけに留めておけばオキカゼも〈大人〉《たいじん》の風格の、なのにまた余計な言葉を継いでみるから、やはりオキカゼは何処まで行ってもオキカゼなのだろう。 「まあいいや。とりあえずあんた……その。なあ沙流江、替えのパンツとか、さもなきゃ濡れ〈手拭〉《てぬぐ》いとか、用意できないの?」 「そのあたりのは、空き地出る前に、ねぐらごと全部、吹っ飛んじまってて……」 「いいから! そのあたりのことは忘れて! 見なかったことにするの二人とも! いいね、さもないと───膀胱ン中に残ってる分、今ここで全部ぶちまけてやるんだから」  もう悪態で返している辺り、〈逞〉《たくま》しいと評すべきか、それとも意地を張っているだけか。 「……だいたい、そっちこそ。お前らこそ、なんでこんなところ走ってるの。あたしは上の本屋にいたら急に、なんか落ちてきて、孔が開いてそれで───」 「おう、それだ。その落ちてきたなんとやらか、俺らの舞台の天井桟敷に大穴こさえてくれよったのは。なんなんだ一体。その前に沙流江、お前、さっきなんぞ妙なことを口走っていたな? ありゃあなんだ、一体」 「はへ? なんのこと?  わたし、何か言ってたン?」  もとより、雨が続けば長の歳月に溜まった汚れで薄濁りの雫が伝うような普請ではあったとはいえ、それでも開いた孔は余りに尊大に過ぎた。  この大穴開く直前の様子を思い出してオキカゼが、見やる沙流江は今はいつも通りの彼女に戻っていて、最前の事など欠片も覚えていない風情だった。  奇妙奇態としか言いようがないが、覚えていないものはオキカゼにもそれ以上は深く追求もならず、改めて舞台の床に半ばめりこんだブツを確かめる三人の、やがてアージェントの顔が音を立ててひきつる。 「それ……〈映画〉《シャシン》で見たことある。戦争の記録のやつで……それ……爆弾じゃないの……!?」 「はん? 爆弾、だぁ? なんぼなんでも揃ってございのキヲスク砦の中というたかて、そんなものがまでほいほい転がっていてたまるかい。それこそ、なんかの映画の大道具あたりだろ、どうせ」  オキカゼが根拠もなく笑い飛ばした時、最前までいじっていた通信機がようやく起動し、拾った音声というのが。             『緊急通信───緊急通信───先ほどキヲスク内部歴史博物館から、不発弾が脱索し、床部分を損壊して下層に落下した模様。博物館に搬入された六〇キロ級投下弾である。付近の公安官は直ちに急行し、現場の避難と誘導を───』  三人、ぎょっと見合わせた顔の色、頭上の大穴から差しこまれては過ぎる坑道内の灯りになんとも薄鬼魅悪く。 「ま、まさかこれ、ほんとに……?」 「いや、なんかの勘違いだろ? だってマジモンの爆弾なら、もっと大騒ぎになってるはずだ」 「今の通信周波数帯、公安のだった……あいつらがこんな事、冗談で流すなんてないでしょうが!」  沙流江とオキカゼはまだ半信半疑でいるが、そこに今度は砦内要所要所に設けられたスピーカーから流れ出した放送がある。             『お知らせします。当キヲスク砦をご利用になっている皆さま、並びに従業員一同へ。これより臨時ではありますが、避難訓練を開始します。直ちに係員の誘導と指示に従って、御退去下さい───繰り返します、当キヲスクを……』  ……放送が流れて程なくして。移動舞台が入りこんでいた〈隧道〉《トンネル》でも、そちこちの保線用出入口や非常扉から平駅員達が飛び出してきて、線路脇の歩道を大〈穹窿〉《ドーム》方面へと駆け出していく様、緊迫の硬さが滲み出て、この分では〈穹窿〉《ドーム》内は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていよう。  これは〈端倪〉《たんげい》すべからざる事態の到来は確実、と舞台内の三人は身を強張らせる、も。  車体の震動が重苦しく強調される沈黙の中、水面に閃く魚の銀鱗のように、浮かんではすぐに消えたけれど。  オキカゼが一瞬間だけ漏らしたのはほくそ笑み。  沙流江だけが〈見咎〉《みとが》めて、彼女を怪しく胸騒ぎさせたのは、少年がそんな笑みを浮かべる時は何事かペテンの術に関わっている時だ、と見覚えていたからなので。なぜこんな時にその顔なのだと。  アージェントは血相変えて移動舞台から飛び降りてでも離れようとした時に、後方から近づいてくる高圧的な拡声音とクランクの響きがある。公安官の武装トロッコだ。  仔細は知らねど公安の〈居丈高〉《いたけだか》な切り込み調からして、移動舞台の二人が官憲の手錠と取り調べ、その他牢屋や懲役諸々から尻に帆かけて逃走の最中なのはアージェントにも窺えた。彼女とて例の副業故にお巡りは関わり合いになりたくない人種の最たるものであるが、いつその威力を撒き散らすか知れたものではない六〇キロもの死と破壊の塊の前では、それをさしおいても騎兵隊のご到来には違いなく、早速公安に身を委ねようとしたのに、オキカゼはこれっぽっちもその気はないらしい。  だから沙流江も、もとより彼女自身お役人衆を好まぬ性質だし、そもそも心酔する座長の少年が投降する気がないなら、もちろん彼に従うまで、と公安の呼びかけを無視する構え、そんな二人がアージェントには理解不能の精神異常者と映った。 「何やってるの。なんか官憲に追っかけられてるみたいだけど、でも命あっての物種でしょうが。こんな危険物と運命を共にするつもり? 馬鹿なの? 死ぬの?」 「いやまあ、そうは言ってもこの舞台は俺らの城だしよ」 「オキカゼがそうなら、わたしだっておんなじだし」 「ならお前らは好きにすれば。あたしは降りるから」 「まああんたをこれ以上巻きこむと、後でエロ映画とか見せてくれなくなりそうだしな。沙流江、降ろしてやんな」 「あい」 「あんたはそっちの、床にちょっとバミってあるところに寝っ転がれ。大脱出の手品の種でな」  オキカゼに促されるままに、沙流江は仕掛け───床の一部が開いて、移動舞台外部へと脱出させる仕掛けだ───の開閉桿を引こうとするのだが、彼女はなんだかんだと打ち続く事態に動揺していたのだろう。作動させて、しまった装置は大脱出の仕掛けではなく。  それもまた移動舞台の小道具の一つ、あちこちに仕掛けられていた爆竹の点火線で。  〈暫〉《しば》しの間があっても止めようがなかった。  炸裂する爆竹は、景気が良いは良いといええたが、この状況では要らぬ誤解を呼びこむ事必至。 「やっかましいい! 正月じゃあるまいし、うちの中で爆竹鳴らすなんてどこの馬鹿?」 「あ、あれえ!?」 「ルーエ、お前今日一体どうしたんだ。お前、そこまで手際が悪い女じゃなかったろうが」 「わかんない、なんかわたしもおかしいって思うは思うんだけど……」  沙流江、塩を〈塗〉《まぶ》した青菜と〈悄気〉《しょげ》かえり、武装トロッコの方では。 「なにい! 奴ら発砲してきやがっただとう! そうか、徹底抗戦の構えか。それならそれでいい。こちらも撃ち返すまで!」  舞台の外まで響き渡るような大仰な炸裂音、を、武装トロッコ側は発砲してきたと勘違いしたのは、この状況ではやはりやむなしといったところ。 「えーでも公安官、今のはなんか、違うような……」 「五月蝿い五月蝿い、問答無用だあ!」  ここで迫撃砲を用いなかったのは、砦内では流石に誤爆を恐れた、といった殊勝げな理由などではなく、先の二発の撃砲で、砲身にあっさり〈罅〉《ひび》が入っていたのが確認されたため。  火力大好きの公安官も、撃てば自殺と判っていて兵器を用いる趣味まではない、それだけの事。  しかし拳銃を使う事にはなにも躊躇いがない、どころか刻まれた屈辱の返上の為、喜々として安全装置を解除して、もうこの度は威嚇射撃すらなかった。  たちまち撃ちこまれる拳銃弾、武装トロッコと移動舞台の間の空気を〈釣瓶〉《つるべ》撃ちに斬り裂いて、銃口の閃きがコマ抜きの連続写真のように〈隧道〉《トンネル》内の瞬間瞬間を照射する。  元は派手派手しい塗装が今では貧乏たらしく褪せた、移動舞台の後部扉程度では〈遮蔽〉《しゃへい》にもならないし、その上扉板の一枚は外れてしまっているとくる。  公安官の憤激がたっぷり籠もった銃弾は、無慈悲に舞台内を〈蹂躙〉《じゅうりん》し、板壁を〈穿〉《うが》穿ち、それだけでも恐怖で総身の肉が凝結しそうなのに、傍若無人にも程がある、中には床にめりこんだ不発弾に跳弾する弾さえある始末、金属質の音の苛烈な鋭さよ。  とにかく必死で床に伏せてやり過ごそうとする三人、アージェントは半狂乱になりながらも通信機に飛びつき、先ほどの周波数に合わせて訴える。 「やめてよおおっ。そうばんばん撃ってくるな! あんた達は知らないかもだけど、こっちには不発弾がのっかってんのよ、さっき公安の通信でも流してたでしょ!?」 「アレが、ええと、まあその色々あって、このオンボロサーカスの舞台の床に刺さってるの!」  しかしアージェントの懸命の訴えは、公安官には真逆に作用した───  公安官は移動舞台内の不発弾の存在を確認すると、乗りこんでいる者達───アージェントも含めて───を不発弾を奪い駅を破壊せんとするテロリストと決めつけたのだった。 「うおお、そのようなテロリズムには屈しない! 断固として貴様等を抹殺するぅ!」 「ちょ……なに、なんであたしまでテロリスト扱い!?」 「はっはっは、世の中ちうのはげにままならねえもんだなあアージェント・〈猫実〉《ねこざね》・ヘッポコピー」 「今度あたしをフルネームで呼んだら、ちんこの鈴口に紙のはしっこ差しこんですーって引くからなてめえ。あと上から目線で悟ったような事抜かすなや」 (どうなんだ、このくらいの速度なら……頭〈庇〉《かば》って、飛び降りれば……怪我で済むなら)  それでも往生際悪く、アージェントがどうにか移動舞台から飛び出そうとした時、移動舞台が大きく揺れて、それまで徐行程度の速度であったのが突如速度を増していく。 「お。なんか調子でてきたな、俺らの舞台。いいぞ、あの官憲共、一気に引き離しちまえ」 「速い、速い。周りの灯り、溶けた色硝子みたいに流れてく」 「ああ……ぐずぐず躊躇ってたら、飛び降り損ねたじゃないっ」  いかに公安官が敵意に破裂しそうだろうと引き金が軽かろうと、クランクを漕ぐ手が平駅員達の人力では移動舞台の加速に追いつく足を伴わない。  武装トロッコは引き離されていったが、そんなのはきっと一時だけの命逃れ。ならこの隙に移動舞台から飛び降りて、〈隧道〉《トンネル》内の保線用扉にでも逃げこもう、と柵から身を乗り出したアージェントは、飛び去っていく枕木の列に、宙吊りになっていた時の恐怖が蘇って〈怯〉《ひる》んだ。  その〈怯〉《ひる》んだ間にも移動舞台の速度は増して、無理に飛び降りようものなら骨身砕けること確実となり、結局アージェント、降りる機会を見失った事である。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  速度を増した移動舞台に引き離され、公安官がまた失意と〈瞋恚〉《しんい》で卒中の危機を迎えているかというと、さに〈非〉《あら》ず。  〈激甚〉《げきじん》が一時理性の下に〈沈潜〉《ちんせん》してみると、移動舞台が抱えこんだ劇物は、看過しておけたものではない事はさしもの公安官にも把握された。  ……それまで躊躇いなく銃撃を加えた事は、まあ一旦は非難の〈埒外〉《らちがい》に置くとしよう。  どれだけ火力嗜好の銃火器馬鹿であってもさすがに不発弾が転がっている移動舞台にそれ以上の発砲と追跡は中止して、他の駅員達と協力して砦内部の住人を、可能な限り避難させる作業に注力するあたり、最低限の職責というのは心得ているらしい。  らしい、が。  避難誘導とともに、砦内部のあちこちに、有線、無線、〈徒走〉《かちばし》りによる直接連絡等を飛ばし、下している指示は、避難とは関係が無く。  それは移動舞台が走り去っていった軌道上に存在する切り替えポイントを操作し、ある方面に誘導することだった。  公安官の目論見通り、切り替えに切り替えを重ねて移動舞台が誘導されていくとして、さてその向かう先は、さて。 「え。あの。公安官、いいんですか? そのまんまだと、あの移動舞台、どんどん砦の奥に行っちゃいますけど」 「いいんだ。向こうの現在速度には、この人力トロッコではすぐさま追いつく事は困難だし、かてて加えて危険物まで積載したとくる」  避難誘導が一段落し、さて次はどんな無理難題だと身を硬くしていた平駅員達だったが、下されたのは各処のポイントの切り替え指示くらいで首を〈捻〉《ひね》り、説明を求めたところ。 「よって我々は、あのテロリストどもの始末と爆弾処理を同時にこなさなくてはならない」 「……爆弾の方は専門の処理班を呼びましょうよ」 「いいから聞け。奴らはいい気になって暴走しているようだが、所詮は列車、定められた軌道上しか走れない。そして、こうして誘導していくと、その先にはなにがあると思う?」 「ええと……キヲスク砦の奥……あ」  公安官が引っぱり出して、指し示した軌道図の行く先を最後まで辿るまでもなく、平駅員の脳内には砦内部の構造がぼんやり浮かび、移動舞台の行く末に何があるのか思い至った。  彼が記憶する限りでは、キヲスク砦のその奥、いまし移動舞台が誘導されていく先には、放棄された『深井戸』が存在していなかったか───  井戸というよりは底無しの縦坑で、その径は列車なら数両連ねてもまだ足りないほど。  キヲスク砦二度目の防衛戦の際に発見されたその縦坑は、いつの時代なにものかが〈穿〉《うが》ったのかは判然とせず、汲水装置も当時からあった物が、由来も定かならぬまま流用された物。深さは底知れず、果てまで〈潜〉《もぐ》った者もいないとされている。 「つまり……あなたは、あそこに、移動舞台と、乗っている三人を……」 「了解したようだな。こういうのを一石二鳥というのだよ、ふっふっふ」 「いやちょっとヒドイでしょそれは」 「テロリストの末路など、古今東西そんなものだ。むしろ優しいくらいだな、私は。一族郎党全て見せしめに処刑したっていいのに、この程度で勘弁してやるとは」 「あ、もうテロリストは確定なんだ」 「さあ、後はじわじわ追いつめよう。万が一にも奴らが、予定の進路を逸れたりしないように監視しながら、な」  公安官はその『井戸』に移動舞台を不発弾もろともに叩き落として始末をつけようというのだった。当然中に乗った3人もまとめて。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  現在移動舞台はキヲスク砦内のどの辺りの階層、位置にあるのだろうか、とオキカゼ、坑道の左右の壁面へ視線を巡らせて、案内板の一枚でも見えないかと掛けた期待は、〈突兀〉《とつこつ》とした岩壁と電灯と、梁材との繰り返しばかりの情景に儚く散らされた。  キオスク砦内部の坑道はやちまたにして数多く、その全てに一々要所の案内板を設置する事など無理であろう、事に深部、商店や施設もなく、人の往来が途絶えるとなれば余計に(そんな最深部でひっそりと営む秘密酒場もあるという伝説もあるが)。  待てよ、とオキカゼは案内掲示板を見なくなってからどれくらいが経つかをざっと思い計る顔、外の暗さに影となった窓硝子に影ずる。不興げに眉を〈顰〉《ひそ》め、唇を尖らせた顔だ。  少なくとも三つの切り替え点を通過する間、そして現在も見ていないという状況が渋面を作らせた。 (これぁ相当奥の方に追いこまれてっぞ、おい……)  速度を増した移動舞台から飛び降りる事は危険で、これまで切り替え点の導くままに移動舞台を進行させてきたが、その果てはどこへと向かう。砦内部の坑道が、必ずどこかに繋がっているとは限らないと、それくらいはオキカゼも聞き及んであるし想像もつく。   『やっと再び動き出した移動舞台の行き着く先が、岩塊の中のどん詰まりであるなぞ、有り得ないし有ってはいけない──────』  だとしても。  軌道任せに突き進むより、なにがしか己が手で、行き先に対し働きかけてみるべきではないか。  そんな迷いとも焦りともつかぬ念が、少年の中の一つの映像と相反し、せめぎ合う気持ちが手にまで伝わったか、指先が動く無意識のうち。  オキカゼが、自身気づかぬまま指をひくつかせて〈幾許〉《いくばく》かの間。  周囲の状況が僅かだが変化を見せた。  坑道の眺め自体はそのままだけれど、動輪の軌道を噛む震動の間隔が、やや間遠になったような、ようなではなく実際に、運転台の両脇を過ぎる岩壁の流れ、目に捉えやすくなっている、という事は、速度がまた減じている……?  錯覚か、確かめるために動いた指先は、この時は無意識と自覚が半々に混ざり合い、それでもオキカゼが望んでいた通りに速度、また減ずるを見せて。  そこでようやくオキカゼは意識した。  自分の手がマスコンのカ行を下げ、下げた通りに移動舞台は減速している。 「お……? よし、マスコン、ちったあ言うこと聞くようになったみたいだ」  それまで幾度か試して無駄だった為、操作の事は頭の外に追いやっていたのに、試す意志がない時に制御が戻るとは少しく皮肉めく。  ブレーキレバーを試せば、こちらも操作桿から車体へと伝わる感、失われていたのが戻ってきておりより減速の、とりあえずは一旦ぎりぎりまで減速させ(完全に停止させてしまうとまた動き出すかどうか怪しいから)、今後の行き先を考えようとしたのに。  オキカゼは坑道前方の奥に見えたものに舌打ちし、げに運気の流れとはまさに深い〈窖〉《あなぐら》のようなもの、〈抗〉《あらが》い這い上がるには多大なる験力を要すらしい、と首の関節を鳴らしていると、背後の扉を〈潜〉《くぐ》ってきたおかっぱ髪、気配は相変わらず尖っていた。  映画車輌管理人の娘は、この移動舞台があった事で生命よろしく長らえた事、かつまた移動舞台に乗り合わせてしまった事で公安のお尋ね者になった事、両者天秤に掛けて感謝か憎悪か計っている間に気分を悪くしたものと見え、車両後部の舞台内の隅でしゃがみこんでぷつぷつ泡めいた〈呪詛〉《じゅそ》を漏らしていた。  が、本来の根城、映画車輌と異なる殻に籠もった〈寄居虫〉《ヤドカリ》は落ち着きを得ず出てきたようでござる。  オキカゼを〈刺蛾〉《イラガ》の幼虫めいたちくちく棘のある視線で〈一瞥〉《いちべつ》したきり一言もなく、運転台の窓から周りを己が眼で確かめ終えてからやっと、 「ちょっとオキカゼ、今はスピード緩めないでよ。このままじゃあの坂の処で立ち往生しそう。その間に、あの公安に追いつかれでもしたら」  そう、それ。オキカゼが坑道の先に認めた状況、減速した今もゆっくり迫るそれ、登り坂の傾斜が、獣が喉の奥に丸めた舌じみて盛り上がってある。  それも、現状の速度では登り上がる事が困難そうな、車体にとってきつい角度で、速度を下げてみればこうというのは、オキカゼの運気、今のところ〈窖〉《あなぐら》の底近くで羽根をばたつかせているのらしい。 「そいつは〈俺〉《おい》らかてご免だけんども。  いやあこの移動舞台、今までどうにもカ行の調節が利かなかったんだわこれが」  もちろんオキカゼにしても、ここで時間を食っている間にも、あの公安の見境ない鉄砲好きに追い詰められているやもと、神経磨り減らすのは下策だと承知の〈助座〉《すけざ》、先行きの検討はあの坂越えてからでも良かろうと、マスコンのカ行を上げる。 「今ようやく、多少はこっちの自由になったが、それまでは勝手に加速したり減速したりでな」 「なんだとて!? さっきから妙に〈鈍〉《のろ》くさくなったり、いきなりスピードが出たりしてたのはそういう……」  オキカゼは、頬に乾いた笑い張りつかせたアージェントを横目に眺め、彼女から先ほど粗相した臭いでも漂ってこないかと何故か動物的な本能が動きかかったけれど、車体の制御、先ほどようやく引き戻した矢先に、そういう余所事に気を取られては要らないケチまでつきそうで、と験を担いで止めにした。 「とにかく、あんたの言う通りだ。もたついてても仕方ない。ここは一気に昇りきってやっつけようかい」  お祈りの習慣など持たないオキカゼであったが、今マスコンを握った力はそれにいくらか近い。  ぐい、と上げてみた、さて───  機関の身震い車体に伝わって、速度は無事に上がっていって、アージェントだけでなくオキカゼも内心胸を撫で下ろした、幸い加速に必要な距離も足り、移動舞台はその老体、頼もしく揺すりながら傾斜角を上がり始め、上がり行き、上がり終わり、そ・こ・に。  傾斜を上がりきって開けた視界の中、移動舞台の前照灯に照らし出された軌道、中途で鉄橋となり、砦内の運河に架け渡されていた。  崖の縁から突き出した直後で、過去いかなる事態が見舞ったのか、破壊されてねじくれた尖端を晒した、かつての橋だった。  対岸までの距離は、どう甘く見積もってもこの移動舞台の全長以上に及ぼうか。  底までの深さは知れないし、水が流れているかも定かでない。このまま進めば墜落すること請け合いの。  声は喉の奥で引き〈攣〉《つ》った息に圧殺された、凝結した二人の気配を感じ取ったか、今度は沙流江が扉〈潜〉《くぐ》って慌ただしく、 「あの、オキカゼ、雑音ばっかでよく聴き取れなかったんだけど、なんか妙な事に……って!」  沙流江は通信機に番ついて、公安達の無線を傍受する役割を負わされていたのだが、言い差してわななかせた口元、オキカゼとアージェントと同じ形、人は共通の危険に際して、選べる表情はそう多くないのだろう。 「オキカゼ、ブブブブレーキ! 止めて、速くこれ止めて!」 「ブレーキレバーもイカれてんだってのずっと!」 「それにここは、ブレーキより、こうするのが正解だ!」  制動を掛けるどころか、移動舞台を加速し壊れた橋へと突進させるオキカゼに、アージェントが幻視したのは、発情期の雄牛の群れに、赤い布を振り回しながら突っこんでいく馬鹿とか、時計台の大時計の歯車に乗ってタップダンスを踊らんとする阿呆とかそんな類の勇者達。 「ヒィィ何してるのお前はーーーっ」 「……ううん、アージェント、ここは、オキカゼので合ってる! あんたはこっちに、わたしの後ろに」  沙流江、アージェントを後ろに〈庇〉《かば》い、手近な物に捕まらせて衝撃に備えるよう、〈口迅〉《くちど》に言い含め、唇引き締めてその瞬間から目を逸らさず待ち構えだ、オキカゼの狙いをすぐに覚ったから。  加速した移動舞台、橋に突撃し墜落───    ではなく跳躍で、対岸に、降り立った車体の、最後輪は至らず虚空に空転し、それでも他の車輪が軌道に乗って、慣性が最後の後押しを。  対岸が〈此岸〉《しがん》よりいくらか高度が低かったのと、速度を可能な限り乗せた事が幸いしたのだ。さもなければあえなく墜落の憂き目花、日の眼当たらぬ地の底で咲かせていたに違いない。  後は接地点から突きあげた衝撃に、車輌が持つかどうかだったが、後部の舞台の方で何かが引き裂ける音がした他は、車体が走行しながらばらばらばらと分解していく事もなく。  胃袋を直に突くような感覚に、アージェントは〈暫〉《しば》し吐き気を〈堪〉《こら》えて、どうにか喉の奥に押しこめて、弱々しく、 「…………もう〈厭〉《いや》。線路に落ちて爆ぜた〈柘榴〉《ざくろ》みたいになるのを、助けてくれたのにはお礼言うけど、もう〈厭〉《いや》よこんなの……生命が幾つ有っても足りないじゃない、お前らに付き合ってると」 「泣かないで、アーちゃん。ええとほら……そうそう、さっきオキカゼ、マスコンが利くようになったって言ってなかった? だったらさ、ここで、速度落として、降ろしてもらえば」 「そいつあダメだ。ちぇー……今、飛び越えたショックか、なんかマスコン、また利かなくなっちまったぞ……」 「悪魔か、この移動舞台はっ。うう、でもきっと今度こそ、降りるチャンスが……」  ……折角取り戻したばかりの制御を早くも失い、移動舞台はまた砦の奥の闇へ、闇へ、公安官の企図通りに。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  キヲスク砦の深部は、〈殆〉《ほとん》どが坑道とその中継・整備の小規模なホームが有る程度だったが、中でもその深井戸の位置する地点は、大〈穹窿〉《ドーム》には及ばぬものの、ちょっとした競技場級の広がりはあった。  そしてその面積の大部を占めているのが、『キオスク砦』の『深井戸』なる、岩塊の暗がりの最果ての大暗黒。  深井戸とは呼ばれて、一応は汲水装置も設けられてはいる。がしかし、砦内部に籠城戦を強いられたとしても、この最奥部まで水を汲水に来るほど補給が〈逼迫〉《ひっぱく》するとも考え辛く、この深井戸、如何なる意図でこのような地点に設けられているのか今もって不明であり続けている。  幾つかの坑道で他と繋がってはいる。ただ歓楽施設があるわけでもなく、訪れる者も滅多にないが、それでも敢えて足を運ぶなら、一つの奇観に出逢えるのは確かだろう。  ほぼ円形の大〈穹窿〉《ドーム》とは異なり、形状は〈俯瞰〉《ふかん》すれば〈歪〉《いびつ》な多角形。壁面や天面はなんらかの幾何学的意図に則った繰り返し紋様が全面彫り抜かれている。この空間内を、広がりに比して余りに少ない電灯柱が点在し、薄暗がりをより強調する中、中央部に開いた巨大な縦坑、大暗黒。  円周に沿って電灯柱が設置されてはいるが、その光は縦坑内を照らし出すには完全に力足らずで、床面に漆黒の、光を吸収する塗料でも塗りつけたかと見まごうほど。    砦岩塊内の闇の中の最暗黒、それがこの『深井戸』だ─── 「よし、よし。こちらの意図の通りに進んでるな。速度を落として投降すればよし、そうでなくとも、もう奴らには先がない」  深井戸空間の縁、内部に通じる坑道の端に武装トロッコを止め、灯りを小さな懐中電灯に絞って待ち受ける、公安官は妙に〈溌剌〉《はつらつ》として、顔には脂が浮いていた。 「……今更投降したって、その場で処刑とか考えてる顔だよ、この人……」  平駅員達の口に遠慮がなくなりつつあるのはまあ当然の、本来は公安官の直接の部下でもないのに強制徴用にあった者の方が多いからで、おまけにこんな闇の〈奥処〉《おくが》までろくに休憩ももらえずトロッコ漕がされ、筐体の中で汗みずく、疲労に〈呻吟〉《しんぎん》しているとあっては。  これでは反動として、移動舞台に同情的な態度を示す者が出てきたとしても仕方ない。公安官は移動舞台の到来を待ち望み、平駅員達は叶うならば進路を変更して、ここまで進行してこないでくれよと願うという図式が出来上がっていたが、残念ながら、だ。  暗がりに〈潜〉《ひそ》んで、移動舞台の予想進入路である坑道を見張っていた平駅員が、あ、と漏らした声に浮かぶ気の毒な色、で他の同僚は物哀しい事態を早くも覚悟していた。  果たせるかな、そちらの坑道の奥に見えた光、移動舞台の前照灯の光。  こんな終末への路を選んだのみならず、おまけにここに来てまたも速度を上げているなどは、狂気の沙汰としか平駅員達には思われなかった。 「あっちもそれが判ってるのかな……カ行、全然落とさないや……でもそんな事したって、お終いに向かって突き進んでるだけなのに」  移動舞台が深井戸空間に進入を果たしたのを見届けてから、公安官は武装トロッコを再動させて、予めその様に切り替えていた軌道を進み、移動舞台の背後に回りこんだ。  停止するなら良し、せずとも良し、このまま追い落としてくれるの残酷な意志をありありと、突きつけるように公安官はトロッコの前照灯を灯した。  これで移動舞台にも、公安官の意図は伝わっただろう……。  ……もちろん伝わっていた。  移動舞台の旧式の前照灯なぞ容易く呑みこみ尽くす闇の孔、前に迫る、近づく、軌道は向かう一筋だけ、避けようもない。  前には見つめ続けると視力が奪われかねないほどの暗黒の縦坑、後ろには執念深さ、劫経た〈鼈〉《べつ》の精でも憑いたかの公安官の武装トロッコ、拡声器からの音声が無いのは、この期に及んでは会話も要さず、ただ排除するだけと、言語など切り捨てたか。  こうまでされては、いかな楽観論者とて宗旨替えしそうなもの、泣くにしろ〈喚〉《わめ》くにしろ、人生の最期が迫っている事を認めるしかなかろう。  ところが移動舞台の運転台で、オキカゼは迫る縦坑を前にして泰然としたもの。それは一つの覚悟の形態というより、生存の手段を講じる事を放棄したように思えてならず、アージェントが毒舌混じりに訴えたのは、自分より年下の少年のそんな糞落ち着きへの反感も大いに手伝っていた。 「どうすんのよこのませエロ餓鬼。このまんまじゃあたし達、不発弾が爆発どうこう言うより先に墜落死するしかないぞ!?」 「んー……いやまあそうはならないのでないの?」 「なんでそう落ち着いてられるの……ああもういっそこうなったら、今からでも飛び降りた方がまだ生き残るチャンスが……」 「おやめよ、この速さだと、きっと怪我だけじゃあすまないってば」 「そこの駄巨乳、あんたもよくまあしれっとしてられる。これもう棺桶に足突っこんだのと同じだっつーのに」  見る間に近づく、井戸は井戸でも暗黒物質の溜め井戸ではないかというくらいのか黒い縦坑へ、魅せられたように据えていた眼差しを、毒づく〈雀斑〉《そばかす》の娘へ向けて沙流江は、 「アーちゃん。人を信じるって言うのはさ、その人の綺麗なとこ、できるとこだけ見て頼る、ってのとは違うんだね」 「もうその人のやることに巻きこまれて、くたばったっていい。そこまで想って初めて信じる、ってことなんだ」 「そしてわたしはといえば、オキカゼのこと、なにからなにまで全部信じてる!」  〈白銀〉《しろがね》の戦装束まとい、暗妄の霧を斬り祓う、騎士の〈戦斧〉《せんぷ》の〈赫奕〉《かくやく》とした輝きに放たれた沙流江の、宣言を─── 「てめえいかにも素晴らしい人生哲学語ったつもりになってるみたいだけどね、そんななぁ単なる依存って言うのよ。……くそう、男も知らないうちにあたしゃこんなところでくたばるのかよう……」  アージェントは、蛆が〈集〉《たか》ったもぐらの死骸に、後ろ脚で砂引っかける猫ちゃんよりうんざりした顔で切り捨てた。 「あたしは、自分が堕ちてく孔、眺めてるなんてごめん〈蒙〉《こうむ》る。後ろに引っこんでるわ……」  拳に強く強く握りこんだ沙流江の心意気、さっさと車両後部へ引き返していったアージェントに敢えなく虚しく行き場を失い宙ぶらりん。  この温度差に沙流江はたたらを踏んだが、それでもアージェントが心配で、彼女を追って引っこんでいき、そんな女達二人にオキカゼは、背を向けて前を〈睨〉《にら》んだままではあったけれど。  その頬が、少ぅしばかり赤くなっていて。  移動舞台はこうとなっても速度を落とさず。    またたとえ今更減速したとしても。    その酷薄なること〈咎人〉《とがびと》を血池に叩き落とす〈獄卒〉《ごくそつ》の〈刺叉〉《さすまた》、武装トロッコはいよいよ無慈悲に後方から間合い詰めてきて。    移動舞台の軌道の先に縦坑の、異様な黒淵いよいよ大きく口を開け───  光さえ永遠に捕らえるような縦坑である。  移動舞台などひとたまりもあったものか。  机から消しゴムが転がるよりあっさりと。  落ちて見えなくなった移動舞台。  武装トロッコ、拍子抜けするほど。 「あ〜〜〜〜〜っ、死んだ、今度こそ本当の本当に! あたしをこんな最期に追いこんだ、全てを怨んで憎んで呪って死んでやるう!」  悲鳴は、がくんと縦坑に落ちこんだ移動舞台の角度なりに床を〈滑〉《すべ》ったアージェントから、あらん限りの怨念と共に伸びあがる。 「オキカゼ───最期まで、一緒にいられるのが、わたしはなにより嬉しい───」  事ここに至っては、運転席に着いている意味も無しと諦めたのか、運転台から這いずり上がってきたオキカゼを、哀しい喜びに満たされて抱擁する。 「怨みがましい奴も辛気くさい女も、後ろから舞台の外に放り出されないよう、それだけは気ぃつけろ、な?」  身を擦り寄せてきて、〈頬摺〉《ほおず》りしてこようとする沙流江を適当にあしらいながら。  三人を押し包んだ墜落感の、長い長い。  発狂しそうな瞬間が引き伸ばされるが、それもやがては───無惨な最期で閉ざされる。                      ───と思いきや。            長の歳月の間停止され、一度も稼動される事の無かった装置がこの時息を吹き返し、動力源を稼動させ、各種の回路に生気を蘇らせる気配が。  機関部から逆さに落下していた移動舞台の角度が、何時しか平らかに復していた。  寸前まで車体の表で渦巻き流れていた闇の気も、猫の女王の寝処を満たす暗がりの穏やかさに鎮まった。  底知れぬ〈闇淵〉《やみわだ》に墜ちいき、最果ての底に激突するまでの僅かな間、天地上下の別が曖昧となり、残酷なまでの平穏が移動舞台に贈られたとでも?  否。失墜感覚の喪失というよりはこれは。  確かに、確実に。  移動舞台の落下は中断停止されていたのだ。  縦坑の中途に岩棚でも張り出していて、その手に受けとめられていた、さもなければ、実は転落防止用の網を何時とも知れない時代のお優しい誰かが張っていた。  どちらにしたところで運転台を下に落ちていたのではなんらかの衝撃を受けていた筈、それらの損傷も一切無く。  どれぐらい墜ちたのかは知れず、それでも移動舞台は、縦坑内の虚空に静止してあったのだった。 「殺せぇ……もう一思いに死なせてよぅ……。  何時まで堕ちればいいのこれ」 「ね、オキカゼ、もしかしてわたしらさ、ホントはずっと前に死んでてさ、くたばるその時を、こうやってずぅっと繰り返しているとか……」  移動舞台内では、車輌が今どういう状態にあるのか把握しきれずにいた女達の、直面した死に当たっての間の姿態それぞれに二態、やっているのが舞台だから、いささか新派の芝居めくが、当人達は極めてリアルにシリアスに真面目そのものの。  その体は今、長い落下の最中の浮遊感とも異なる感覚に包まれてあった、のに、思いこみというやつの、そこはそれ。  なにしろ僅かの〈痛痒〉《つうよう》さえ伴わず、落下の運動力が瞬時のうちに停止する感覚など、この時代この地の人間に知る者も教える者もないのだから。  彼らの背後で、梟の羽ばたきの柔らかさで広がり落ちたのは、移動舞台をくるみこんだ不思議な感覚になんともそぐう星空の景色、天井に仕込まれていた〈背景幕〉《ドロップカアテン》が独りでに降ろされていて、よりにもよってこの機にその童話めいた画が選ばれたのは、偶然にしては出来すぎていた。  移動舞台内にある者の体は、落下中に得られた疑似無重力に舞台の床から離れ、宙に浮き上がったまま、更に別の状態に移行してあった。  それは、質量が消え失せた状態。  ───慣性が中立化されてある状態。  この時代の技術水準では、有り得ない状態。  待ち構えている筈の墜落死を、それぞれの態で迎えようとしている二人と引き換え、オキカゼ少年は平然としたもので、車体内の木枠を掴んで体を運転台への扉まで導き、浮かんだまま器用に〈潜〉《くぐ》り抜け、 「アージェントも沙流江も、えらい神妙なこったが、ちょっとおんもを眺めてみようぜ」  運転台の張りだし舞台の開閉器を操作してから、また舞台内へと戻る。  と少年の操作で開いてゆく、移動舞台の側面から、さてご開帳なった外の情景、それは。  残念やっぱり鼻先一面に〈炭団〉《たどん》を隈無く〈擦〉《なす》りつけたようで、舞台内のしょぼい灯りでは、〈光明赫耀〉《こうみょうかくやく》と照らし出すには深海の電気〈鮟鱇〉《アンコウ》の提灯ほどにも用足りない。  沙流江もアージェントも、オキカゼがなにを見せようとしたのか、折角の少年の〈外連出〉《けれんだ》しに首を〈捻〉《ひね》ったのがなんとも抜けた次第で、それでも二人ともようやく自分達を取り巻く状況を把握する。 「これ、わたしら……落ちてなくって、  浮いて、今?」 「ようやっと判ったかい」 「ああもう、なんか体がふわっふわ浮いて、動きづらいったら。だいたい外見てみろって、暗くってろくに見えないじゃない」 「ま、動きづらい見づらいも、この孔のどん底で叩きつけられて、〈磯巾着〉《イソギンチャク》のジャムだかなんだかみてえになってちゃあ、言えないことだよな、アージェント。まあ見てなって」  先程まで自分が晒していた醜態を〈糊塗〉《こと》するように、務めて何時も通りに毒づいたつもりのアージェント、自分を見つめる少年が訳知り顔に〈頷〉《うなず》いたのに、ひっ叩きそうになった、その眼鏡の硝子面に映じた光がある。 「光───? 今向こうで、なんかが」  光は、開け放たれた舞台の外から。  手を突き出したら肘まで黒インキで染まるのでないかというほどに濃く、距離感を損なう闇の奥に、ぼう、と点じられた光だった。  始めは〈幽〉《かす》かな点、それが幾つも闇中に生じ、上下左右、斜めにも伸長して、闇の中に走る線条となる。色は青緑色の、人工的な。  青緑の光の線条は〈輝滅〉《きめつ》しながら範囲を広げていきそして─── 「……なに、これ……」  三人の目がなずんできたのもあろう、〈磨墨〉《するすみ》の闇の中に滲み上がる輪郭を認めた。  夜を迎えて、海底の光る生き物達が、燐光のうちに群塊の輪郭を示すように、浮かび上がっていく情景。  縦坑の深奥部の内壁一面を、埋め尽くしていたのはある種の構造物。電算装置の基盤を巨大化させたような。  青緑の燐光は、その構造物の輪郭に沿って明滅し、少しずつ三人の目が慣れてくるに従って、その桁違いのスケール感を浮かび上がらせていく。  なんにしても、この時代の科学技術からかけ離れた構造物だった。  この時代にその概念をもし知る者がいたとしたならば、円筒形の宇宙コロニーを内部から眺めたような、と評したかも知れない。 「すげえ景色じゃあねえか、二人とも。見たことあるか、こんな眺めをさ……」 「わたしは生まれがど田舎だったもの。こんな凄い機械がこの世にあるなんて、思う事さえ、なかったねえ……」 「特撮モノの〈映画〉《シャシン》なら、似たような機械が……ううん、流石にここまでのモノなんて、ない」 「この駅に、こんな場所があったなんてなあ」  密集した建築物に埋め尽くされる、駅の風景も充分以上に驚嘆すべき景色だが、それに慣れている三人共に、驚異の溜め息漏らす他ないような、形容不能なまでの情景。  キヲスク砦の岩塊の最奥に秘されたこの偉容、幾世代も幾世代も経る中で目の当たりにしたのは、実にこの三人だけであったという。  いかなる意志がこんな偉容を造り上げたというのだろう。  いかなる技術の名残だというのだろう。  慣性を制御してゼロに、ことによると質量までも消失させる為の───慣性中立化の為の巨大な装置、一体『駅』はいかにしてこんな縦坑を秘めるに至ったのか。  それは、かつて駅が。  今とは異なる役目を負っていた時代の。  今はそれを、駅の中で語る者はいない。  だから三人が知る術もない。  ───本当に?  少なくともオキカゼは───  先ほど張り出し舞台を展開させるため、運転台に戻った際、その壁面に配されている各種配管が、縦坑内壁に浮かぶ光と同じ質の燐光を発している事を、見なかったとでもいうのだろうか。  その意味にこのはしこい少年が、洞察の一つも巡らさなかったというのだろうか。  オキカゼは、何も語らず。  この驚異に三人がただただ眺め入るうち、景色が視界の中を下方にと流れ始めて、舞台が上昇の動きにあることを示した。  虚空に静止していた移動舞台は、墜ちてきた時とは逆に、そして遙かに穏やかに縦坑内を上昇していく。 「オキカゼ、わたしら、これ、昇っていってなぁい……?」 「今度は、何がどうなるのよ一体」 「───ま、奈落の底でくたばらずに済む、って事じゃねえの?」  やがて縦孔の真上まで昇り、暫時虚空に留まってから静かに宙を〈滑〉《すべ》って、落下した際とは対面の軌道にふわりと降りる様、見えざる優しい手で降ろされるよう。  動輪が軌道に乗った時などは、この深井戸空間に追いこまれる途中で破壊されていた鉄橋を飛び越えた際の、車体が分解しそうだった着地が笑えてしまうくらいの、静かなものだった。  強打者の冴えた一撃を頭部急所に喰らった拳闘家のように、膝から崩落しそうになったのは公安官である。  さんざか己を〈虚仮〉《こけ》にしてくれた移動舞台と、悪童にふしだらな渡り女の始末も着いて、性的絶頂にも近い快に浸りながら縦坑を眺めていればそれである。  起重機に吊られたわけでもないのに、移動舞台が縦坑のうちより舞い戻り、安穏と孔の向こうに降ろされたのを見届けた時には、天の頂きに手の先掛けて、よし掴んだと思った瞬間に転がり落ちた堕天使の長にも通ずる絶望と〈怨嗟〉《えんさ》で脳溢血を起こしかけたほど。  孔の向こう岸に降りて、何事も無かったように走り出した移動舞台の軌道、それはこの深井戸空間から砦外部へと抜ける唯一の軌道だった筈。  よもや移動舞台がこのような手段で逃れるなど予測しろという方が無理な話で、そちら方面の封鎖など行っていなかった。  悠然と去りゆく移動舞台を震える指先で差しながら、平駅員に食ってかかるが八つ当たりとは知りつつも、止められない。 「な、なんだアレは。おい、どういう事だ。てかあんなのって、有りか? ずるい!」 「じゃあ僕達も向こうと同じに、〈縦坑〉《シャフト》の中に落ちてみます? 上手くいけば、同じように反対側に出られるかも」  平駅員の方は、公安官のぎらつく執念に〈困〉《こう》じ果てていたところであったため、美事逃れた移動舞台に拍手の一つも贈りたいくらい、まあ流石にそれは控えたけれど。公安官に応じた言葉がシニカルで。 「……引き返して、迂回路を探してあいつらを……いや、もういい加減、こんなトロッコで追跡してては〈埒〉《らち》が開かない」 「もっとだ。もっと絶対的な火力が必要だ。今度こそ、他のどんな異常事態が発生しようと、必ず殲滅してくれる……っ」 「三条さん───ひっ!?」  いい加減諦めるどころか公安官は、落胆の苦味を更なる憎炎の薪としていた。その浮かべていたどす黒い表情に、平駅員は〈慄然〉《りつぜん》と短い悲鳴、詰まらせる。  呆然としていたのは移動舞台の面々も同じ。 「命が助かっただけでもめっけもんだから、とやかく言いたくはないんだけど。でも。でも! なにこれ、なんなの一体!?」 「きっとアレだな、沙流江」 「うん、アレだよね、きっと、オキカゼ」 「なに二人だけで納得しあってるかいやらしい。知ってるなら説明して」 「あーつまり、井戸魔神のげっぷとか鼻息とかで吹き飛ばされた、ってとこだろ」 「うん、深い井戸には井戸魔神が住みついてんのは常識だもんね。よかったよかった」 「そんな常識聞いた事もないし、ていうかいないから! 井戸魔神とかいないから!」 「あんま深く気にしてっと、処女がこじれるぞ、な、処女」 「くそおおおおおもう死なスーっっ!」  指先を怪鳥の鉤爪の形にオキカゼの首筋へ掴みかかっていく娘を、困ったように、それでいてどこか微笑ましげに見つめる沙流江、するりと攻撃を外して舞台内を逃げ回るオキカゼ。  そんな三人を乗せ、移動舞台は縦坑に墜落するという末路を逃れてキヲスク砦の中から外界に飛び出していくのだったが。  その腹には、いまだ不発弾を飲みこんだ、まま。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  駅は午後を区切った時間の、半ば過ぎを迎えて───  この頃になると、駅内のよほど〈僻地〉《へきち》に勤務する者以外の〈殆〉《ほとん》どの平駅員が、移動舞台の引き起こした騒ぎを無線有線それに伝令、果ては早刷りの回覧板で聞き知るに至っており、それ以外の駅の者、住人や客の〈幾許〉《いくばく》かも騒動の気配、風の中に嗅ぎとっていた。  何しろキヲスク砦前の砲撃音と、砦内での不発弾だすわ避難、が効いている。  ほぼ都市一つに匹敵するほど広大な駅の中で、これほどまでに速やかに騒ぎが波及することは、戦時を別にして希有であり、目下展開されている程大がかりなバリケードが築かれるのも滅多にない事態であった。 「五重の防御ネットに、土嚢の壁が三重、そしてその後ろには、緩衝材山盛りの鋼壁……」 「これだけしておけば、最大速の弾丸列車相手でもないし、機関車一台程度止めるのには充分、だよね?」  駅の一画、移動舞台の進行している軌道上に設けられた、その物々しさ。  住民達の建築物が、〈廂〉《ひさし》を隣接させ、それぞれの屋根をそれぞれの床面にと〈長閑〉《のどか》になにも考えず積層させた〈直中〉《ただなか》に忽然と、着艦装置が壊れてしまった空母の甲板に、とにかく代替の飛行機強制停止用の〈防塁〉《ぼうるい》を積み上げたかの感が漂う。  ……もっとも『駅』の平駅員達はこの場処に何時しか湧いて居着く妖精のような存在であり駅からは離れられず、その様な巨大兵器はおろか海さえ眺めた者など無かったのだけれど。 「私としては、バリケードに突進されるより、その前に自主的に停車してくれるよう、そう望みますけど」 「……人命というのには、どれだけ配慮したところで足りませんから……」  同僚に〈頷〉《うなず》く平駅員へ、話しかけてきた方は平駅員達の中でも標準的な男の子タイプであるが、こちらは女性で、更に物腰丁寧で、心優しい性質であるらしい。ただ別に彼女ならずとも、平駅員達というのは、基本的に人の傷つくところ、命を散らすところを見る事を好まぬ、穏和な連中なのである。  バリケードを築くにあたっても、できる限り中の人間の安全を優先しようとしているところからも、それは窺えよう。  その上彼女は本来なら本日非番で、サフラン香味料の色した午後を、お気に入りの〈白粉〉《おしろい》屋で唇染める紅の品定めしようか、それとも同じく非番の同僚が先日飼い始めた仔猫でもあやしにいこうか、何だって出来る、午後は限りなく長い……とか、頬を期待に緩めていたところを強引に引っぱり出されていたりするのだ。  基本的に平駅員達は、駅に絶え間なく往来する列車の運行とその〈時刻表〉《ダイヤ》の遵守を至上命令としているが、なにも一日中それぞれの担当部署にへばりついているわけでない。  交替制で食事も取れば休みもする、時間さえ取れればおやつや〈午睡〉《うまい》だって楽しみもして、それなりに充実した勤務体制を組んでいるのだが、この大仰な〈防壁〉《バリケード》をば、移動舞台がキヲスク砦から脱出してこの進路、と予測されてからの短時間に構築するまで、それこそ戦時中並みの緊急動員が敷かれた。  このお陰で多くの平駅員が駆り出され、彼らとしては、三路線ばかりの列車の非常停止を余儀なくされるという恥辱を被った次第だが、それでも彼らはまず移動舞台内の人間の安否を気遣うのである。  どれもこれも〈等〉《ひと》し〈並〉《な》みに同じ顔形をしていて駅の何処にでもいる為、かえってその存在が〈閑却〉《かんきゃく》されるきらいがあるが、どうしてどうして、彼ら彼女達こそこの駅の顔であり、良心といえるのだろう。  もちろんそんな平駅員達の気遣いなど、移動舞台運転台の三人にあっては手入れ怠りぐずぐずに溶けた糠床に釘を押すより甲斐が無く、今彼らにあるのはただ。  前方に築かれた仰々しい〈防壁〉《バリケード》という、非常に明快に迫る危機への絶望感、それあるのみ。  なんとも自己中心的な事だが、〈煎炒〉《ジァンチャオ》の平底鍋から飛び出したと思った川海老の、次にぐらぐら煮立つ湯の中に身を投じそう、とあれば、ま、危機感あっても他を気遣う心など針の先程無くともむべなるところ。 「あちゃー……。やっぱりそういう手でくるかー。芸がない、といえばそれまでだが、確実な手ではあるもんなあ……」 「もうあのバリまで、切り替えポイントもない一直線だしよ。さてどうしたもんだか」  築かれた〈防壁〉《バリケード》を、見る間に迫り来る〈防壁〉《バリケード》を眺めては、さしもの不敵児オキカゼも、頬を引き〈攣〉《つ》らせるしかなく。 「オキカゼ、あのさ、もうマイトを隠してたりとかは、ない?」 「いや、ない、さすがにない。品切れだ。あったとしても、ああがっちり固められると、マイトだってどうにもならないだろ」 「そっか……で、舞台の方もまだ止まる感じ、全然無い?」 「ああ」 「そう……」  沙流江の、オキカゼを信ずる心には猫の柔毛一筋の傷もいまだに入らないままではあれど、だからといって〈防壁〉《バリケード》が酒精中毒者の幻影の如く消え去ってくれるものではない。  とうとうここまでかと、避けられぬ〈どん詰まり〉《デッドエンド》を予感したか、言葉短くオキカゼの肩、抱きしめる腕の強さに悲愴が滲んだ。  そしてオキカゼ少年は、暑苦しい、と沙流江の抱く腕にどれだけ哀しい強さ籠もろうと、横頬に乳房がどれだけみっしりと柔らかろうと、無下にも肘で押し返そうとして。 「で、アージェント、あんたも難儀な奴だな。そんなおっかねえなら、舞台の方に引っこんでりゃいいだろうに」  わざわざ見晴らしのいい運転台に出てきておきながら、前面の窓から顔を〈背〉《そむ》けてしゃがみこみ、ぶつぶつとな、呟き続ける目つきも危うし、アージェント。何事を呟き続けているかは知らねど何がやりたいかはよく判る。現実逃避だ。 「おっかないから前に出てきてるのよっ。キヲスク砦の〈縦坑〉《たてあな》の時は、おっかないからって後ろに下がってたら、余計に怖かったんだから!」  あの落下は不可思議な浮遊に救われたけれど、それでも墜落の、恐怖の瞬間は目に入らないようにとずっと瞼をきつく閉ざし続けていたのがこのアージェント、したらば、かえって恐怖の倍増を体感していたらしい。 「ほんで出てきたは出てきたが、それでもやっぱりおっかない、と。アンビヴァレンツな事だ」 「うるさいなあ。あたしのこと笑ってる暇があるなら、これの暴走どうにかするか、あのバリケードをどうにかしてよ」 「んな事言われたって、さぁ。相変わらずマスコンもブレーキレバーも反応しねえし……い!?」  なんだ今の、と少年が眼をきょろきょろ走らせたのは、軌道から移動舞台に伝わった、振動? 異音? 聞いたせい。  彼以外には聞こえなかったのか、二人の様子に変化はなく、ただ彼女達もすぐさま、一層顔色の温度を下げた。  移動舞台の速度がここに来てまた上がったのだった。  そして少年には、その加速が、ついいましがたの軌道からの異振動に呼応した為としか思えなかったからである。  この、全身にバターを塗りたくった子豚があんぐり開いた獅子の〈顎〉《あぎと》に自ら進んで飛びこむかの急加速に、顔色失ったのはむしろ外の平駅員達の方の、彼らもまた舞台の三人と同じくらい動揺していた。 「やっぱり、止まる気なしかー……。というか、止まれないんだねアレきっと。制御部の故障かなんかだろうけど」  移動舞台の接近を、平駅員達はそれはそれは気を揉んだ面持ちで見守って、にもかかわらず向こうは速度を落とす気配全くない。  この加速ではたとえ今すぐ急制動を掛けたとしても、舞台は〈防壁〉《バリケード》を揺るがさんほどの勢いで激突する事必定だろう。  どれだけ対衝撃の備えに工夫を〈凝〉《こ》らしたと言っても、事前に実験しておけるような時間的経済的余裕があったわけではない。  移動舞台の面々が、せめて衝撃が集中する運転台から後部へ退避していてくれればいいものを、三人が三人とも船と運命を供にする船長気取りか、運転台にへばりついたままだ。 「こうなったら、激突のショックがなるべく軽くて済みますように、と祈るばかり。まあ、三条さんの手にかかるよりは、被害も少ないでしょう。それがせめてもの慰め、ですかね」 「あれそういえば、その三条公安官は?」 「あの方でしたら、キヲスク砦から出てきたすぐ後で、公安局の上の方から出頭命令が下ったとかで、現場から抜けていきましたっけ」 「あー……とうとう上から呼び出しきちゃったか。僕、あっちにはいなかったけど、相当無茶やらかしたみたいだし、当然かなあ」 「青い顔してましてね。あの調子では、なんらかの処分は必定、下手をするとその場で解職というのもあるかも知れません……」 「力押しばっかだったもの……って、なんで? 向こう、止まるどころかカ行を上げた!?  なに考えてるのお!?」  あの公安官の先行きを案ずる心など、移動舞台が次に見せた挙動に、嵐に巻きこまれた笹の船よりあっさり吹き飛ばされた事である。  なにしろ更に。  その瞬間だけ見れば専用の高架を走る高速弾丸列車にも比すべき加速度で。  移動舞台も突如としてさらに速度を増したとあっては。  これでは平駅員達がどれだけ向こうの安全面に腐心したと言っても意味がない。  破壊力とは速度と質量の乗算である。  移動舞台は鉄道車輌としては軽量なようだが、それでもあれだけ速度が出てしまっているとなると─── 「た、退避ぃ! みんな、急いで、安全帯の向こうまで!」 「あなたも、速く!」  他の同僚達に叫んで、〈防壁〉《バリケード》から可能な限り遠くと退避させようとしたのだが、二人の方は移動舞台の急接近に魅せられたように足の裏に〈膠〉《にかわ》、動くもならず、惨事が最小限に留まってくれる事を祈りながら見つめ続けることしかできなくなった。  次の瞬間、唐突に、足元から突きあげてくるような振動が〈防壁〉《バリケード》前面の軌道あたりから走った。    そして、更に次の刹那。    全く唐突に。  なんら先触れもなく。    移動舞台は、その姿を消失させたのだった。    ───平駅員達には、移動舞台は一瞬時に消失したとしか思えなかったのだけれど。  舞台内の三人には、今少し事態の推移を観察できる目があった、というのは彼らが一心不乱に進行上の〈防壁〉《バリケード》と軌道を〈睨〉《にら》み続けていたからなのであったが。  かといって、何が何故そうなったのか、それを説明できる口はないのであった。 「こりゃあいよいよか……っ。ルーエ、これが空を飛んでバリを一〈跨〉《また》ぎとか、この期に及んでそんな期待はしたって無駄だぜ!」 「わかってる! だからいるんだここに。どうなったって、わたしはオキカゼと一緒に最後まで!」 「やだやだやだやだ、死にたくない、死ぬのいや、助けて、誰か助けてよぉっ」  オキカゼと沙流江はある種覚悟を決める一方、アージェントは見苦しく呟き続け震えるしかなかったが、どちらもそれはそれで危地を目前にした人間として正しい反応である。  移動舞台の前面硝子窓の中、〈防壁〉《バリケード》はいよいよ迫り来たり、たとえここでブレーキレバーの制御が戻ったとしてもなんの意味もないという間境まで至った時。    起こったのは───    舞台の前方の軌道が、ばこん! と。  どこかしら〈滑稽〉《こっけい》な風情さえ伴って。  地下に向かって、傾斜して。  落とし穴の如く開き───  黒々とした闇を湛えたその開口部に、移動舞台は───吸いこまれるように。 「すげえ! なんだかさっぱりわかんねえけどとにかくすげええぇぇ〜〜……」 「ひ、あ、下がる……っ? 股ぐらがすうすうするようぅぅ〜〜……」 「なになになになに!? もうやだ、今度はなんなの、何がしたいって言うのおぉぉ〜〜」  失墜感は、オキカゼの陰嚢を瞬時に〈萎縮〉《いしゅく》させ、沙流江とアージェントの膀胱をいたく緊縮させたが、同時にそれは、胸が透くような爽快感をももたらした、と言えば言えない事もなく。  三人の輪郭も声も下方にぶれる、一瞬にしていなくなる、音と震動の余韻だけ置いて、移動舞台は〈防壁〉《バリケード》の前から姿を消したのだった。  これがその一瞬に起こった事、平駅員達の視覚が捉えきれなかったのも、彼らの双眸が前髪に覆われていたせいに非ず、人間の視界というのは上下の瞬間的な移動には対応できるように造られていないからである。  と、そんな種明かしがあったところで。待ち構えていた平駅員達一同、〈愕然〉《がくぜん》と立ち尽くす以外に何が出来たろう。  〈軋〉《きし》む音を立てて、地下にと開いた線路は戻っていき、閉じた時には最前までと変わらない、澄ましかえって地上の変哲のない軌道の振りしていたのが、またなんとも〈小面憎〉《こづらにく》さよ。 「おいいいい!? この軌道が地下に続いているとかそんな仕掛けがあるとか一切聞いてないってばぁ!?」 「私はあれ、知ってますよ。前に男の子達の遊びに混ぜてもらって。ほら野球盤ゲーム。その『消える魔球』の仕掛け」 「アレ卑怯すぎて、ローカルルールだとよく禁止になっていたんですよねー」 「言うてる場合かぁ!」 「どう反応すればいいのこれ……移動舞台をまた取り逃がしましたって困ればいいの? それともあの人達の激突シーン、見なくて済んだって?」 「いずれにしても、もうこれ以上は、ここで私達ができることはないです、って事かしら。  ……バリケードの、撤去作業以外は、ね」  突貫で組み上げたバリケードが役に立たなかったことをどう受けとめたものか、困惑する平駅員達の中で、ただ一つ確かなことそれは、他の列車の運行もある、バリケード、障害物は可及的速やかに撤去しなければならない、その作業の労苦だけ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  〈愕然〉《がくぜん》となる平駅員達を尻目に、移動舞台が地下に〈潜〉《もぐ》っていった先は、地理的には駅の中央を横切る運河本流の地下あたり。  それなりに駅の事情に通じている三人は自分達が駅の伝説の一つに入りこみつつあるを予期してある。  それは、文字通り『河の下』。  そしてそれは、文字面を越えて不穏な意味を孕んだ単語、駅の暗黒面を指し示す。 「……また意味不明の偶然で助かったけど。いや助かったって言っていいのかな、これあたしにとって。周りの様子と上の地理からして、あたし達多分、河の下に〈潜〉《もぐ》ってくみたい」  周囲は闇。オキカゼが灯した移動舞台の前照灯に照らし出されたのは、水が滴り落ちる煉瓦組みの地下の〈隧道〉《トンネル》だった。  ……この時は移動舞台、先ほどの急加速で息が切れたと言わんばかりにまた速度を落とし、人の早足程度になっていたお陰で、周囲の事情はいやでも見てとれて、そしていやが上にもアージェントの口元を〈憮然〉《ぶぜん》と引き結ばせるのである。 「……で、どーすんだよ。あそこは素人とか堅気にはすっげぇやばいトコらしいのに。〈迂闊〉《うかつ》に入りこむと、〈強姦〉《レイプ》とか生き肝を引き抜かれるとか、快楽殺人者の慰み物にされるとか」 「或いはそれを全部一遍にされちゃうようなトコだって聞いてる。この腐れ舞台はどこまで〈酷〉《ひど》い状況に噛みこめば気が済むんだか……」 『河の下』は駅の地下運河の、そのまた下に位置するとされる暗黒の無法地帯なのだった。数世代前の煉瓦造りの遺構からなる地下空間で、一般人にはあくまで駅伝説中の存在として認識されている程度、実際の位置を知る者は少ない。  正確な規模は不明だが、駅の暗部として不気味な存在感を保ち続けており、相当数の犯罪者、思想犯、食い詰め者、逃亡者、無国籍者等々さまざまな日陰者が雌伏、閉塞の日々を送っているのはどうやら事実である。 「だ、そうだが。どうする沙流江。アージェントの言うことがほんとなら、お前ら女二人は肉便器とかにされて、俺あたりは人間犬とかに改造されたりとかだが?」 「アーちゃんのせっかくの初めてが輪姦ていうのは、ちょっとだけかあいそうだねえ……わたしは〈安女郎屋〉《やすじょろうや》の水揚げって事で、そんなかんじだったけど」 「さらりと重たいこと流すよねあんたも」 「ま、でもそうはならないって思うよ」 「そうそう都合いいことばっか続くわけないやい。そんくらいあたしだって判るっつーの。根拠があるなら言ってみんしゃいよ、ちくしょう……」  窓から入りこむ、湿って〈饐〉《す》えたような臭気に陰々滅々とした地下〈隧道〉《トンネル》の閉塞感を、団扇で蚊を追いやるように〈暢気〉《のんき》なオキカゼと沙流江のやりとりは、この時はアージェントの心を慰めるどころか。  二人を縛り上げて頭に熨斗を付け、まだ見ぬ地下の悪漢連れに謹呈してやりたくさせる程、気持ちを陰に暗く〈逸〉《はや》らせたという。 「ところが、今度ばっかりはちっと種がある、ね、オキカゼ」  二人に掴みかかろうとむずむずする手を、健気な努力で抑えこんでいるアージェントに沙流江、〈左袖〉《ひだりそで》をまくり上げると。  その手首の内側、掌に続くやや下当たりの肌に施されていた。  黄色人種の〈肌理〉《きめ》の細かさと胡人の小麦色が異国情緒の融和を見せる肌に、不可思議な装飾の如く、紋様の刺青だった。 「『河の下』には堅気の連中は出入りできない。符号とか目印とか、そういう『お作法』を知らないと、途端にバレちまうからね。でもこれを見せたなら、危ない事なく通れる筈」  沙流江の手首に彫りこまれていたのは、河の下での通行印に相当する紋様らしかった。  裏の社会でもこれを持つ者は少ないとされている、らしい。 「あんたがなんでそんなもんを……」 「昔オキカゼに会う前にいた阿片窟のボスに、こう動けないように縛られてがりがりと。ああ、あの時はぁ……痛かったぁ……」 「こんなちょっとの墨なのに、三日くらいえらい熱出てね。後から聞いたら、なにも彫り物にしなくっても、服の〈袖〉《そで》とかに刺繍してるだけでもいいんだってきた」 「そん時ゃこの印の意味なんぞ知んなかったけど、こんなとこで役に立つなら良かった良かった」  〈莞爾〉《にっこり》と微笑み頬に輝かせ、オキカゼと見交わしあってはうんうん〈頷〉《うなず》き合う三眼の女の、芝居ッ気、〈外連味〉《けれんみ》の躍如といったところの、なんの、アージェントにとっては砂鉄を日々の滋養にと常用する異人種を見た心持ち、勘弁してくれん鐘の〈音〉《ね》が脳内に響いて、ついつい沙流江から背を反らすように身を遠ざけててしまうのだった。 「良かったけど、良かねえだろ、痛え、話が痛くて重いわ。あたしはあんたと違ってマゾじゃないから、痛いのは勘弁だかんね」 「そりゃあ、わたしだって惚れた男以外には、鞭とか蝋燭とか針とか山芋のおろし汁とか一リットルシリンジの炭酸水とアルコールのブレンドとか勘弁さ。でもねつまりこれはオッキーにならそうされてもいいって言う───」 「……あんたがそうやって脳が湧いてるのは、ある意味で救われるわ、いやほんとに」  どうにも噛み合わない会話続けるうちに、移動舞台は闇中の関所めいた建築物の中に入りこみ、気づくと黒いゴム引きの、雨合羽をまとった何者かが早歩きに移動舞台の脇を往くを見る。  手に持つ灯りは〈角燈〉《カンテラ》の類と見えたがさに〈非〉《あら》ず、手製の火炎放射器で、移動舞台の進路に、投げかけてきた炎の、いきなりで強烈な。 「うおおっかねぇ……っ」  速やかな有無の言わせ無さ、平駅員どころかあの公安官にもなかなか無い威力を伴っていて、オキカゼ達の肝を潰させた。  ところが舞台は、前面を焼かれる寸前に急制動を掛け、中の三人はその都合の良さに、地上でのバリケードの際も、それくらい物分かりよく止まってくれたら、と思わなくもなかったとか。どうにも身勝手ではあるが。 「あんた、河の下の門番さんだね。  わたしら怪しいもんじゃないよ。  ほら……」 「──────」  衣装の〈袖〉《そで》ずらし、沙流江が手首の刺青紋様を示すと、門番の男は〈左見右見〉《とみこうみ》、してから親指を奥へと跳ね上げた、通って良しとの仕草は、無言のままで。 「あンがとさん。こんなじめじめしたトコで、体とか壊さないようにしなよ。そんじゃあ行かせてもらうから」  このように沙流江の刺青紋様の霊験もあらたかに、移動舞台は河の下の住人の検閲も合格して、関所と思しき煉瓦組みの〈弓張り〉《アーチ》橋の下を〈潜〉《くぐ》る、と、門番の男は橋の〈袂〉《たもと》の番屋に入りて、中のソファに寛いでいた、闇より黒々とした塊に深々と一礼の。  通り抜けていく間に三人は、その塊が身じろぎして伸びをするのを見る、すればそれは。  中型犬にも匹敵しようかという大きさ。  黒く分厚い体躯の、四肢に筋肉満ち満ちて、漆黒の中に白い毛を僅かに、闇の中の雨のように幾筋か散らした毛並み〈艶々〉《つやつや》と、双眸は〈炯々〉《けいけい》と、〈宇宙開闢〉《うちゅうかいびゃく》時の炎をそのまま閉じこめたかに、光強かった。  門番はこの偉大なる黒猫の僕であるらしいのが、二者の態度からもありありと。  かくして黒い門番と黒い大猫に見守られ、移動舞台は駅の暗黒世界に入りこんでいったのである。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  河の下の、とある一画で。  元は安価な電気式ながら、具合良く古びて、正の古物と似通った光を灯らせる〈角燈〉《カンテラ》の灯りの輪の中。灯りに誘き寄せられて〈翅羽〉《はね》はためかせる白蛾を思わせ、暗がりの中に蠢く肢体のある。  肉付きは華奢、骨も〈脆〉《もろ》そう、肌も透けるほどに薄い、けれど男をしなやかにくわえこむ肢体だ。  ここなるは『河の下』の少女の寝所。『河の下』は基本的に不潔で陰湿な地下区だが、彼女の寝所はその中では比較的清潔に、そして見た目だけではあるが豪奢に整えられ、寝台は〈天蓋〉《てんがい》付きだし寝具もいささか〈黴〉《カビ》臭くはあるが絹が用いられている。  いうなれば〈竈〉《かまど》の〈煤〉《すす》と〈脂膠〉《やに》の奥底を覗きこんでみれば龍宮の〈閨房〉《ねや》に通じていたような塩梅で、〈人間〉《じんかん》の憂き事を避けて退いたような心地好く秘密めいた一室に、およそそぐわない風の、肉体労働と荒くれ事を専らとし安酒と安煙草を日々の糧にしている事見やすい、太り〈肉〉《じし》の男が今、少女を抱いている。  少女の名を、ヒプノマリアという。  駅の至るところに出没する〈浮浪児〉《ステーションチルドレン》の一人で、普段はそっくり相似のゼルダクララなる片割れを伴った双子の姉妹なのだが、今日はヒプノマリア一人と見えた。  およそ子供達が為しうる限りの、あるいは大人顔負けの様々な〈生業〉《たつき》に手を染めている〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の中でもこの双子は、普段は駅に迷った者相手に〈案内役〉《ガイド》めいた事をやっている、というのが表の〈貌〉《かお》。  裏向きでは、これ、このように。  その未成熟な肢体でもって男達に一夜の春をひさぐ、少女娼婦としての〈貌〉《かお》を持っている。駅には公娼地帯もないでもないが、流石にこのヒプノマリアの年代にあるような売笑婦というのは認められておらず。  しかしここは駅の悪処『河の下』。〈穢濁〉《わいだく》と堕落を〈煮凝〉《にこご》らせた暗黒の地下街。その懐に呑みこんだ千の悪弊と万の悪徳の数々の前では、このような少女姦など、春の陽差しうららかなる下のままごとのようなものなのかもしれない。  ただだとしてもやはり。足の間に四つ這いに〈跪〉《ひざまづ》かせ、男根に奉仕させている男にとっては、背徳感がじわじわと股間から湧き上がってくるのだった。 「ふふ……相変わらず、〈逞〉《たくま》しい、素敵な持ち物ですこと。お前さまのは───」 「相変わらずって、お前、オレの事、覚えているのか」  しゅる、と衣擦れも〈淑〉《しと》やかに見上げるヒプノマリアの、その〈面貌〉《めんぼう》は〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の不敵な〈逞〉《たくま》しさ、〈世故擦〉《せこず》れとは隔たった典雅さ、余りにも整って麗しい美質、古めかしく厳めしい物言いと〈相俟〉《あいま》って、少女の前身が中央での政争の果てに瓦解零落した貴族家の姫君だと噂されるのもなるほどと〈頷〉《うなず》かされる。  いま身に〈纏〉《まと》うのは、絹の薄い肌着と透けるほど薄い〈面紗〉《ヴェール》だけ。肌着は練れて手応えを感じさせないくらいに柔らかいのに、着崩しの毛羽一つも見せず、〈面紗〉《ヴェール》には人の脂、汗染みの一つだに無く、古城の化粧台を思わせる薫りが床しく通うだけ。こうして男根に舌と唾液を絡めさせていても、目の当たりにしていても、男にとっては肉質の肌触りというのがどうしても薄い。  けれど。男は覚えている。視覚より、体の芯で、腰の奥で覚えている。あの時の快楽を、朦朧とした意識の中でそれだけがくっきりした〈愉悦〉《ゆえつ》を。  それだけで先走りの腺液が、膨れあがった尖端にじわり、滲むほど。  あの時は確か、悪酒を喰らい酔い、駅の地上の運河に転がり落ちたのだ、と思う。事によったら悪酔いに無くした自制で拳の応酬くらいもあったやも。ただ全てが曖昧で、どうにか記憶に残っているのは、酒精が抜けていく体に水気がひどく冷たく浸みていたこと、そして寄りそう小柄な体の温もり。  そんな人めいた〈温気〉《うんき》とは無縁なようでいて、〈確〉《しか》と人肌の温もりを宿していたこの少女の。  運河に落ちて流されるうち、どういう弾みでこの暗黒街『河の下』に行き着いてしまったのか、その手にそんな力があるとは信じられぬのに、少女が〈如何様〉《いかよう》にしてその寝処まで自分を運んだのか、仔細は男には全く判じられない。  ただそれでも。  始めはただ生命の熱を求めて這わせた掌に、吸いつくような少女の肌が、儚げな膨らみが。  命の瀬戸際に追いこまれ、本能的にいきりたった男根に重なった少女の下腹部の、肉とも言えない、脂とも言えない弾力が。  死に際において、生と性は重なるのだろう。無意識に〈摘〉《つま》みあげた膨らみの頂きで、薄色の乳首が硬く芯を孕んだのに、男の本能は猛った。握りしめた臀の肉は手の中にすっぽり隠れてしまうくらいたわやかだったのに、〈双臀〉《そうでん》の〈合〉《あわ》いに〈潜〉《もぐ》りこんだ指先が少女の芯に触れたとみるや、慎ましげに、けれどそれだけで蜜を〈零〉《こぼ》してきたのに、男の雄がどうしようもなく狂った。  意識がどうにか霧を払ったのは。  少女を組み敷き、〈臓腑〉《はらわた》を裂かんばかりに深々貫いて。  尖端がぬるつくくらいに大量に。  撃ち放った後で。  〈狒々〉《ヒヒ》が仔兎を貪り食ったようなものだったろう。男にとっては己の娘よりまだ幼い肢体だったのに。とてもこんな荒々しい、雄の欲剥き出しの交接には耐えられない筈の性器だったのに。  なのに少女は、ヒプノマリアは、男の精に〈胎〉《はら》を灼かれて、恍惚と微笑んで、頬に手を差し延べまでしたのだった。全て受け容れる証として。  だから男は狂った。始まりは生にしがみつきたい一心だったと弁明も出来るが、二度・三度と立て続けに犯してしまえばそれも虚しい。それくらい、人心地を取り戻してしまうと、少女の抱き心地はただただ素晴らしかったのだ。抱きしめれば折れてしまいそうな背筋も、頬をくすぐる細い髪も、男のモノを全て呑みこんで絞ってくる〈柔襞〉《やわひだ》も何もかも。  熱く締まる〈肉襞〉《にくひだ》にしゃぶり上げられ、流しこむ、というより絞り出すというのが適当なほど、濃く粘ついた精汁を何度も何度も、少女の膣内に、何も考えずに。  ……少女が、男が『河の下』の小流れの岸に流れ着いて〈半死半生〉《しにかけ》だったこと、凍りつきそうだった体を肌で暖めたことなどを語ったのは、男の獣欲が放精の連続の挙げ句にようやく鎮まってから後のこと。  河の下という悪処にあっては行き倒れを救うなぞいう破格の厚情はそこまでで、肉の交わりの分はきっちり代銭を要求されたが、男はそれにきちんと支払いの、ベルトの隠し処の中に収めていたへそくりが無事だったのもあったし、何より、少女の肉体は文句のつけようもないくらい素晴らしかったので。  男はそれまで抱くなら乳も臀もしっかり張った大人の女が良いと公言しており、少女性愛の嗜好はないと断言できた、筈なのに。ヒプノマリアの案内で地上に戻った後も、その華奢な肢体が紡ぎ出す快楽に中毒したようになっており、以来苦労に苦労を重ね、ようやく河の下の印を手に入れ、再び少女娼婦としてのヒプノマリアの下を訪れるまで、もう随分と時間を隔てている。 「それはもう、もちろん。  あ……む……。ちゅ……る」  抱いたのはそれ一度きり、男はそれを想うだけで男根の芯を重く辛くするほどの劣情に囚われてあるが、ヒプノマリアにとっては幾多の客の一人、一々記憶せられている筈もない、そこまで夢見がちな〈渡世〉《とせい》ではない。男自身、娼婦の商売口上とは了解されているというのに。  大型の〈李〉《スモモ》を〈食〉《は》むように、男のモノの尖端に被せてきた唇と舌は、真の籠もった〈濃〉《こま》やかさで快感を優しく〈刷〉《は》いたのだった。 「う……」 「一度なりとも、肌を重ねた殿方を、女は忘れたりはいたしませぬ……はむ……んっ」 「はふ……素敵な……そして、いけないお子です。あの夜、わたくしを、散々に虐めてくださいました……ん、れろ……っ」 「お、ぅ……お前そんな、  ベロ、吸いついて……っ」 「そんなお前さまが、  またわたくしのもとにいらしてくれた事、  嬉しゅうございますよ……」  少女の口では男の男根は全ては含みきれない、小さな熱い隙間で尖端を擦られているよう。もどかしいといえばもどかしいが、口唇を自在に這い回らせる技巧は男がかつて味わったいかなる〈娼妓〉《しょうぎ》に増して巧みで、それだけで腰が跳ねてしまいそう。  なのに、腰がどれだけぶれても、ヒプノマリアの口は男根から外れることはなくしっとり吸いついて、鈴口を優しくほじる、雁首を上手になぞる、尖端を含んで〈啜〉《すす》りあげる。  触れ合っている部分は指で作った輪よりも狭いだろうに、その粘膜と粘膜の密着が醸し出す快感は、早くも男に多量の腺液を滲み出させていた。  息継ぎにと離した尖端と唇の間にかかる粘液は、少女の唾液よりも、〈殆〉《ほとん》どが溶かしきれないほど多くの男の粘液だったろう。  いかに大人びた物腰、古めかしい物言い、だろうと、こうして唇で奉仕させるヒプノマリアは、やはり童女のようにしか思われず。それも極めつけに可憐で美しい、物語の姫君のような。  そんな少女に、性に手慣れた女相手にしかやらせないような、隠微でいやらしい口淫でつくさせているかと思うと、男がついぞ覚えたことのないほどの罪悪感がこみあげてくる。そしてその背徳感すら、男にとっては性の〈愉悦〉《ゆえつ》の彩りとなって。 「……オレには、お前より幾つか上くらいの娘がいる。娘よりまだ小さいお前に、こうしてしゃぶらせて。ひどい男って思うか?  ……つっ」 「こら、噛むなって」  尖端に降りた歯の感触は、痛みどころか、弱わ弱わとしているのに鮮やかな快感でもって男を〈呻〉《うめ》かせた。女の膣孔に突き入れた時の、入口の締まりと似て、それよりも輪郭のはっきりとした快楽。  男の〈不埒〉《ふらち》な言葉を〈詰〉《なじ》っているように見え、これでは心根を正直に吐露した事へのご褒美のよう。 「……いけないお方じゃ。こうしてわたくしと、臥所を供にしているというに。他のおなごを口になさるとは」 「む、娘の事じゃねえか」 「お前さまにとっては娘御だろうと、わたくしには見知らぬおなご。おなごには、変わりませぬよ……」 「それとも、わたくしにはこの子を〈舐〉《ねぶ》らせておいて───お前さまは、胸の中で、別のおなごを想うて〈舐〉《ねぶ》らせるが、お好みかや?」 「殿方というのは、贅沢ですこと……わたくしの方は、意に染まぬ殿方のこれに、口づけするような事好み、ありませぬのに───」 「妙なことを、言うなよ……娘相手に、やばい想像がいっちまうだろうがッ」  男は地上では、女房も娘もある暮らしぶり。生計は路線の保全の下請けの、稼ぎ振りは下等の方、宿六と呼ばれる亭主振りで、〈盛〉《さか》りの頃にある娘には〈煩〉《うるさ》がられここ数年はまともに口も聞いてもらえない。まずありふれて、それ故に健全な家族の形と言えて、娘にだって自分の血を引いた娘、以外の感慨を持ち合わせたことなどない。  なのにこうして、ヒプノマリアに雄のモノをしゃぶらせて、娼婦の〈怨〉《えん》、というより〈艶〉《えん》を噛んだような言葉を交わすうち、暗く湿った想念が娘に向かってしまう事を押さえきれず。そういえば娘は、〈盛〉《さか》りを迎えてめっきり女らしくなった。棒杭のようだった胸も腰もいつしか柔らかな円みを帯び、自分と女房の間の子としてはまずまず以上の器量も、どうかするとはっとするような艶を漂わせるようになって。  古女房どころか、そこらの娼婦より瑞々しい肢体をしているのだろう、臀などは、男の種付けを待ち受けるように張り詰めているのではないか───男はそこまで想いかけて、毒虫のように自分の中の感情を噛み潰した。  〈慄然〉《りつぜん》としていた。なのに背筋を冷やすような危うい感覚の中、肉茎に絡まり緩く〈扱〉《しご》きあげる繊指はやはり心地好く、〈啄〉《ついば》んでくる少女の唇はどうしたって気持ちがいい。  少女の肢体と同時にこのヒプノマリアは、河の下に相応しい〈媚毒〉《びどく》を含んだ蝶である事を痛感する。  すこし考えを逸らしただけでも、舌先に淫毒を乗せて男を蝕んでくるのだから。  だから男は、ヒプノマリアだけに集中する事にする。少女が、自分だけに溺れさせる技計を使ってきていると知りつつも、その結果どれほどの快楽の淵に溺れる事になるか、空恐ろしいほどと判りつつも。 「それに、お前みたいに巧いのは、大人の売女にだってそうはいねえ……」 「なら、わたくしだけを見ていて下さいまし、ね? 及ぶ限り、お尽くしします故……はむ」  嬉々と、笑みを溜めて、尖端に絡ませてくる唇と舌の〈愉悦〉《ゆえつ》といったら。  粘質の水音〈啜〉《すす》りあげ、〈舐〉《ねぶ》り上げてくる舌〈遣〉《づか》いの熱く濡れた心地好さといったら。 「ちゅ……ぅる……ちゅ、ちゅも……っ」 「う……すげ……な、なあ……?」 「───ちゅぅ……る……はい?  なにか、至らぬ事でも……」 「違う。その、さっきの軽くかぷってやる奴。  あれ、もっとやってくれねえか」 「……くふふっ。お気に召したのなら、嬉し。  ええ……何度でも。お望みのままに」 「は……ぷ。かぷ……あむぅ……ん」  〈面紗〉《ヴェール》をかき上げる仕草は、高雅な〈躾〉《しつ》けよろしく仕上げられた深窓の令嬢の〈淑〉《しと》やかさなのに、時に唇で、時に舌で、時に軽い〈愛咬〉《あいこう》で、奉仕するヒプノマリアは、大人の〈娼妓〉《しょうぎ》顔負けに淫らで、男の快感の在り処を知り尽くしたかに巧みで。  ヒプノマリアが奉仕するたびに、男は〈内腿〉《うちもも》を震わせ、だらしない溜息を漏らすしかなく。  こうして奉仕させている男は、その相手が年端もいかない少女だという点を除けば、〈娼妓〉《しょうぎ》に優しく実直げに見えなくもない。が、下層の肉体労働に従事し、日々の稼ぎの浮いた分を酒と女に費やすという〈泡〉《あぶく》暮らしにある以上、やはり粗暴で荒々しい性情の持ち主なのである。河の下の悪漢ほどではないにしても。  なのにヒプノマリア相手では、日頃の粗暴な感性は鳴りを〈潜〉《ひそ》め、少女に〈傅〉《かしず》かせるにしても、脅しや腕力にものを言わせるというのはない。  彼だけではなく、ヒプノマリアの元に通う客は、誰しもがそうなる。  それがこの少女娼婦の不思議な通力なのであった。  可憐で典雅な〈麗貌〉《れいぼう》の、〈裡〉《うち》に成熟と達観の感性を〈具〉《そな》え、同時に限りなく淫らで男を巧みに快美の極みに導く娼婦でもある、不思議の少女───  そんな少女に背徳を秘めた肢体と唇でもってひたすらに、快楽の奉仕を受けるというのはいかほどの〈愉悦〉《ゆえつ》だろうか。 「ん……ちゅ……ぷ……あ」 「う……ぅ……凄っげ……ぁ、こんなっ」 「強い……殿方の匂い……ああ。吸うだけで、目が〈眩〉《くら》むほど……今宵もわたくしを、これで」 「たくさん、たくさん、責めるおつもりなのですね……はぁ、ぁ……」  小さな舌先一つだけとは信じられない、それくらい〈稠密〉《ちゅうみつ》な淫技、尖端は無数の触手の中に取りこまれたよう。  それ以上粘膜の渦の中に〈嬲〉《なぶ》られていては、〈堪〉《こら》えようもなく放ってしまうだろう。そんなのは惜しい、もう少し長く味わっていたいと貪欲に快美を求める男の心、頃合いをも〈敏〉《さと》く見抜くか、ヒプノマリアは一旦唇を外して、男の肉から立ちのぼる生々しい臭いを深く吸いこむ。  臭いを味わうばかりか、 〈肌理〉《きめ》細かな〈絖〉《ぬめ》より密な頬に、いかがわしげな粘液を塗り籠めて、怖じるところもなく。 「うぅ……はぁぁ……いやか?」 「いやなら……こうは、なりませぬ」  少しだけ体をずらして、男の手を細い〈腿〉《もも》の付け根に導けば、男が指先にまず感じたのは、触れただけでも崩れそうなほど繊細な、幼い秘裂、が、すぐに開いて、とろとろと〈零〉《こぼ》してきたのが蜜。陰花は、〈蕾〉《つぼみ》だというのに虫を誘う蜜をたっぷりと滲ませる。  指先に絡んだ少女の愛蜜は、男に初めて女のあそこに触れた時にも匹敵するほどの衝撃を及ぼした。 「もうこんな、ぬるぬるにしてんのかよ……」 「ええ……はしたなき、とは想うても。お前さまのお子を〈舐〉《ねぶ》り、その汁を吸いますだけで」 「わたくしは、こうなって、止められないのですよ……」 「な、なら、もう……っ」  こんな肢体なのに。同じ年頃の少女達は、男を知るどころか少しずつ変わり初めていく自分の体に戸惑うのが精々、性の交わりという事柄を誰かから手解きされても、昂奮どころか不安を覚える子も多いだろう。  なのにこのヒプノマリアは。  男根を〈舐〉《ねぶ》りながら、小さな臀を蠢かせていたのは見えていたけれど、それは舌〈遣〉《づか》いの拍子で動いてしまうだけと思っていた。  けれど少女は、口の中を圧する男根の感触に、雌として応えて昂ぶっていたのだ。  つまり少女は、こんな、掌の中にすっぽり収まりそうな細臀の奥に、男を呑みこんで精を絞る肉の孔を秘め、男根を煮溶かすような愛液を湧きださせていたのだ。  それと気づいて男は、発作的に少女を引き〈摺〉《ず》り倒し、背後から犬が〈番〉《つが》うように細臀の中心を貫く───貫こうとして、 「もう突っこんじまうからな───おう!?」  漏らした声はいささか上擦って、それくらいの快感を語っていた。  ヒプノマリアが、男の指先に蜜の〈滑〉《ぬめ》りと膣孔の締めつけだけ残して、また尖端に吸いついていたから。 「……飲ませては、いただけませんの?  子壺にたまわるだけでは、  わたくしは、淋しい───」 「それとも、わたくしのお口に、もう飽きられましたか」 「そんなこたぁねえよ……続けて欲しいさ」 「なら、今少し───むぅ……ちゅ」  男の情動はまたヒプノマリアに逸らされたけれど、それは〈反撥〉《はんぱつ》を呼ぶというより、いよいよ期待を高めるのだ。  この少女の口に放つ───肉の秘壺の中に放つのだけが快絶の極みではないと知るくらいには、男も女を抱いてきていたし、肉体労働で鍛えられた精力は、一度や二度の放精だけでは〈萎〉《な》えやしないと自ら心得ていた。  だから男は、一時見舞った獣欲を押さえ、また少女の口唇奉仕に身を任す。 「はぷ……る……る、っぽ……っかは」 「はああ……っ!?」  ヒプノマリアの繊細にして執拗な口淫は、時には別々に雁首と鈴口を刺激し時には合して尖端全体を〈啜〉《すす》りあげてと、なまじな女の、技巧も知らず生来の〈括約筋〉《かつやくきん》の〈蠕動〉《ぜんどう》だけで男を高めようとする膣より、よほど変化に富んで素晴らしい。  それでも流石に彼女の口の深さでは、男のモノを全て含むまでには至らず、肉茎に舌が這わされ、唇で挟まれる事はあっても、全体が愛撫されるまではない。  なのに。  今男を押し包んだのは、男根どころか下半身全体が肉の室にすっぽり埋まったかの悦楽。  慣れた娼婦ならどうにかこなせるくらいの、喉まで使った口淫のような、否それにも増す、粘膜の快美だった。 「今……お前、喉まで……?」 「ふふっ……さて……ほんとにそこまでいたしたなら、わたくしの唇、裂けてしまうやも……るぅ……」  ヒプノマリアは、言葉ではぼかして見せたけれど、その稚げな〈貌立〉《かおだ》ちには有り得ないほどの〈妖艶〉《ようえん》な微笑が、彼女の底知れぬ性技の一端を男に語っていた。  また、すぐさま尖端を含み、 「ちゅ、ぱ……れるぅ……」 「くふ……ああ……大きい……。  ほんに……素敵な……」 「んぅぅぅ……んっ」 「お……お……っ」  影の角度か、少女の口技か、入るはずはないのに、男にはヒプノマリアが喉まで使って奉仕する瞬間があるように想われてならぬ。  その度ごとに快感は積み重なって───  ヒプノマリアが、ただ快楽を与える技巧ではなく、男の精を撃ち放たせる舌さばき、口〈遣〉《づか》いを用いてきている─── 「れる……ちゅっ、ちゅこ……ぴちゅっ」  唇の輪が鈴口から雁首までを〈舐〉《ねぶ》り上げる、扱き下ろす、その快楽の質は判る。  無数に枝分かれしているように思えても、尖端を這い回るのは絶妙な舌〈遣〉《づか》いなのだと、それも判る。  けれど、肉の茎全てを締めつけ、根元まで熱く包み、尖端が吸いこまれるような、吸い出されてしまうような、こんな快絶は男にも判らない、何をどうしているのか─── 「駄目だ、こんなの、我慢できるか、  出す、ぞ、もう───っ」  少女娼婦の肉体に全て意地汚く吐き出すために、男は長い事性の処理を行っていなかった。先ほどまずは彼女の口に吐き出すと心決めしたつもりではあっても、自分でその瞬間を選べると考えていた。  ───甘い考え。  ───甘く見ていた。 「ん……ふぅ……ず、ぢゅうぅ……っ」  大の男が、完全に少女に、その形をしたモノに〈翻弄〉《ほんろう》されていた。  随分と射精していなかったというにしても、絶頂感の堰をこれほどいいように破られてしまうのは異常だった。  それくらい、異常なくらいの快感の極みが男を襲う。 「んお……っ、おおお……っ」 「んぅ…………っ」  びゅる、と男は自分の中に〈迸〉《ほとばし》る、煮詰められて濃い響きを聴いた。  茎の中に溜まっていた先走りを押し出す、最初の脈動だけでも、少女の舌の上から溢れてしまうくらい多い、精の噴射。  ヒプノマリアの口内はその最初の脈打ちだけで、男の子種が一杯の青臭さで塗り潰され。  その脈打ちの強さにも〈怯〉《ひる》まず、強く吸い、尖端全部を舌のぞよめきで覆い尽くして少女は、男の精を促し───男も、〈強〉《したた》かに。    ───射精する。  撃ち放つ、流しこむ、脈打つ、気持ちいい、また出る、もっと脈打つ、出る、出ていく、何度も何度も、気持ちいい、いい、いいのが止まらない─── 「ん……こく、ん……ん。こく……っ」  普段なら女の口に吐き出すといって、頭を押さえつけてでも最後まで吐き出させないようにするところ、この時のヒプノマリアはそうするまでもなく、男が射精し終えるまで吸いつき、吸い上げて離れず。  男の方も、長いものが脊椎から引き抜かれていくかの喜悦に、手は敷き布の上で〈戦慄〉《わなな》くばかりで。  撃ち放つ男も、受けとめる少女も硬直していて、蠢くものはヒプノマリアの喉の〈嚥下〉《えんげ》の動きばかり。  それも盛んに、正確な機械仕掛けでもあるかのように詰まることなく、何度も何度も、そう、少女は男の欲望の〈凝〉《こご》った、〈滾〉《たぎ》るような汁を余さずに呑みこんでいたのだ。躊躇いの〈一片〉《ひとひら》も見せずに。  吐き出されたモノを、全て口の中に受けとめ、残さず呑みこんでいくのが信じられないくらい、少女は典雅で美しい。  ひとしきり吐き出し終えて。  終えた、つもりだったのに、男は男根を唇から引き抜いたヒプノマリアの、精の味わいに蕩然と漏らした吐息の顔、その〈艶〉《なま》めかしさにまた脈打たせてしまう。  全て呑みこまれたと思っていたはずなのにまた噴き〈零〉《こぼ》してしまうほどの精の多さは、男自身も呆然としたくらい。  名残の射精はヒプノマリアにも予想外だったか、頬を口元をべったりと汚してしまったけれど。 「はああ……なんて、多い……。  お前さま、こんなに子種を溜めて、  辛うございましたろうに……」  口元に粘りつく汚塊をこそ、男がこんなにも心地好く絶頂を迎えてくれた証と、舌なめずりで味わう、その淫靡な顔は、男を射精後の虚脱に浸る暇も与えなかったのだ。  男根が、ひくつきながらも瞬く間に硬度を取り戻す。 「普段は、こんなにでねえよっ。  お前があんまりに巧ぇから……」 「あら……そのような事を仰有って、  わたくしを喜ばせずとも、  ようございますよ、お前さま───」 「お世辞やおべっかで、出したばっかでこんなんなるかよっ」  男が、まだ心地好い絶頂の余韻に包まれてあったが、それをも押し流す劣情に、彼自身不明なくらい焦れきって、ヒプノマリアを腕の中に抱えこむ。  口だけでもここまで素晴らしいのなら。  少女の雌の部分は、さっき触れた時に蕩けきっていた柔らかな肉の管なら。  どれだけの快感、貪れるものか。  もうそれだけしか考えられなくなっている、男のいささか乱暴な力にも〈怯〉《おび》えたりはせずに、少女はむしろ恍惚と身を預けたという。 「あぁ……本当に。  昂ぶっておられます、わたくしに」 「いらして下さいまし、お前さま」  その言葉通り、軽く下肢を寛げて、迎え入れるように。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  身の中に、すっぽりと抱えこんだ事で男も一旦落ち着いたのか、あるいはそのあまりに華奢で〈軽〉《かろ》きに今さらながら後ろ暗さを覚えたのか、尖端を浅く〈潜〉《もぐ》らせただけに留めて、這わせたのが、少女の、薄さというより〈精緻〉《せいち》さを感じさせる乳房の頂きとそして、秘裂の結ばれ、一番敏感な淫の核に。 「……ちっちぇ孔、だよな、ほんとに……」  既に尖端を呑みこませておきながら、今さら戸惑ったように男が、淫核を分厚い指の腹で軽く転がした途端に。 「んっ……あっ、お前さま、なにを……」  反応は即座、敏感で、幼い秘壺の入口がきゅんきゅんと尖端に噛みついてくる、心地好さもあったし、それまで男を〈翻弄〉《ほんろう》していたヒプノマリアに上擦った声を〈零〉《こぼ》させた、意地の悪い喜びも手伝った。 「……ん。ちっとは馴らした方がいいかってな」 「そんな……そんな……あ、あっ、  わたくしはだいじょう……あ、およしに、  そんな、悪戯───きひ……っ」  男としては、ほんの小手調べ、ヒプノマリアの感度、性能を確かめるぐらいのつもりの軽い指〈遣〉《づか》いであったのに。  浅く突き入れているだけなのに、それと判るくらい少女の蜜壺に細かな波が走り、下腹部もまた痙攣した。  軽く〈弄〉《いじ》られただけなのに、細い声〈爪弾〉《つまび》きだして、ヒプノマリアは浅く達していた。  つい先刻まで、熟練の娼婦はだしの性技見せていたのが信じられなくなるほどの、過敏な反応だった。 「え……今、お前……」 「もう……もうっ! いけないお方じゃ。  お前さまにいただくまでは、  と〈堪〉《こら》えておった女をお〈嬲〉《なぶ》りか……っ」 「いや、そんなつもりじゃあ……。  しかし、そうかよ……」  どれだけ言葉で男を〈誑〉《たぶら》かそうとても、肉体の反応を見れば、少女もまた焦れていたのが見やすくて、それが男を底意地悪くほくそ笑ませて。 「……うぅ……え?」 「そんなに欲しかったかよ、  オレの逸物が、さ」  男の雄に、征服欲の火を点けて。  より一層、硬く太く男根をいきりたたせて。 「あの……」  男は、ヒプノマリアを絶頂させた喜びで、意地悪げな、浅ましげな笑みを浮かべ、少女を抱え直しそして。 「それくらいになってんなら、なにも遠慮はいらねえか……やる、ぞ……っ」  もう馴染ませる必要もない、こんなに〈夥〉《おびただ》しく蜜滲ませているのだから。  もう前振りの言葉も要らない。その方が予想外の媚声、少女から絞り出してやれるのだから、と。  男は、かつて娘を〈胡座〉《あぐら》の中に抱きかかえてやったのと同じ体勢で、そしてそんな親娘の情愛とは程遠い雄の欲望を、深々と。  根元まで。  尖端が少女の浅い膣の行き止まりを越え、押し広げてめりこむほど深々と。  雄の欲望器官で貫いたのだった。 「う……!? ん───はぁぁぁぁ……っ」  噴き上がったのは、耳が淫ら一色で染められてしまうくらい、〈艶〉《なま》めかしい、女そのものの喘ぎ声。  まだ声変わりも迎えていないような少女の喉から、なのに、たとえようもないくらい〈淫猥〉《いんわい》な吐息。 「ああ……ああ……わたくしの声、いま……あんなに、はしたなく……」 「っく……こ、これ、こんな……っ」  そして男は、槍でひ弱い獲物を串刺しに、とどめを刺すように貫いたというのに、それきり律動もなく、身を硬くしていた。  こうして、膣を男根に貫かれたなら、あとは雄を象徴する、獣の力強さに満ちた律動が始まるばかり、と自身が紡いだ媚声に戸惑いながらも待ち受ける態であったヒプノマリアには、男が止まってしまったのが不審だった。  あれほどまで昂ぶっていたのに、いざ繋がってみたならば、やはりこんな未熟な体では男には不満なのかと、憂う心はまさに女そのものであったが。 「お前さま……? いかがなされました、か」 「……わたくしの子壺……お気に召さぬ、ような」 「そうじゃねえ……そうじゃない、逆だ」 「なんて孔だよ、一気に突っこんだのに、根元まで呑みこんで、きついのに、柔らかくって、熱くて……最高じゃねえか……っ」  ───不満なぞ。  物足りなさなどあったものか。  男はただ、男根を隈無く包みこんだ快美に、危うくだらしなく精を漏らしそうになって、それを必死に〈堪〉《た》えていただけの事。  女に挿入した瞬間の心地好さは、男にとってセックスを象徴する快感の一つの峰であり、その時はどんな女が相手であろうと無上の満足で身も心も満たされる。  ただでさえそれであるのに。  少女の、ヒプノマリアの膣内の味わいといったら───  少女特有のきつさがある。そればかりではない。  ただ幼いだけでは膣内粘膜は、男を喜ばす〈襞〉《ひだ》の深みや肉粒が発達しきっておらず、貫いてもゴムの皮膜を薄く伸ばしたような、ある種の物足りなさを与えがち。  だと言うのにヒプノマリアの膣内は、少女特有の締まりもさりながら、成熟した女性のそれと同じく、男に快楽を施す起伏と〈襞〉《ひだ》、粒を〈夥〉《おびただ》しく〈具〉《そな》え、そして意識しているのかいないのか、挿入しているだけでもひっきりなしにぞよめき、うねり、波打って。  やはりこの少女は、ただの駅の〈案内役〉《ガイド》であるだけでなく、〈閨房〉《ねや》に目覚ましく練れた〈娼妓〉《しょうぎ》でもあるという事。  男の声と肉体の反応が、ヒプノマリアの女としての憂いを、たちまち氷解させた。 「あ───嬉しゅう、ありますよ───」 「前の時より、きついくらいだぜ……」 「……お前さまも。ここまで、いらしております……」  〈臍〉《へそ》の辺りを撫でるヒプノマリア、その辺りまで届いていると告げるような仕草の、慈しみというより、〈淫猥〉《いんわい》が漂う。  お互いの粘膜が密に、これ以上ない程近く生の感触のまま重なっている。  ヒプノマリアは、こういう商売のこうした情交には付き物の、ゴムの避妊具の使用など端から不要と切り捨てて、男を悦ばせたものだ。 「わたくしの中に、殿方のもの───ああ」 「殿方というのは、ほんにおずるい」 「なにがだよ……」 「これだけで、おなごを溶かしてしまわれる」  ───少女娼婦は、官能に打ち震える声音でも、雄の欲望を狂わせ─── 「わたくしはもう、ただ一つ、それだけしか、考え、られなく───」 「可愛がって下さいまし───お〈嬲〉《なぶ》り下さいませ───ヒプノマリアは、この身は、今」 「お前さまのものとなりました───」  そして身体でも。  その薄い腹の〈裡側〉《うちがわ》に膨れあがる男の肉塊の圧迫感は空恐ろしいくらいであろうに、繋がった部分を絞り、弱めして、雄を〈誘〉《いざな》い。 「そう、かよ」  だから男は。  始めに襲った射精感をどうにかいなして、 「他の女なら、突っこんだだけで空々しいと、ビンタの一つもくれるところだが」 「う、あ……っ」  ぐりゅ、と深く貫いたまま、腰の動きで膣内を容赦なく〈捏〉《こ》ね回し、少女の喘ぎを漏らさせて、共に膣内に溜まった蜜も掻き出して。 「お前の孔の具合は、うそじゃねえ。  今だってとろっとろ、ぞよぞよと、逸物にしゃぶりついてきやがって」 「もらうぜ、お前のからだ。  金は払ってあるんだ、その分だけでも」  〈抽送〉《ちゅうそう》を、最早少女の肉体の快のみを貪るだけの動きを、欲望だけに裏打ちされた律動に没頭していくのだった。 「あ……あはぁ……太い……強い……」 「ひぃ、うぅ……よく……して、差し上げないと……なれど……からだ……ああ」 「とろけそう───」 「いい、いいぞ。お前の孔、どんどん具合良く……っ」  尖端の前に〈肉襞〉《にくひだ》がかきわけられる、肉の粒が弾ける、二人の体液で膣内は葛を煮溶かしたようなのに、粘膜の感触は鈍ることなく、律動の度に男に喜悦を擦りこんでいく。  突き入れる時は肉を割くようにきついのに、ヒプノマリアはただただ悦びに喉震わせ、目線を快美の三昧境に〈彷徨〉《さまよ》わせ、小さな肉体には到底受け容れかねる筈の快美に、ただ〈揺蕩〉《たゆた》って。 「嬉し……や。あ、ぁっっ、熱い……お前さまの……子壺の中で、くふっ、槍のよう」 「お前さまは、いかが、覚ゆ、おいで……」 「これ以上はねえってくらい良いのに、まだ良くなってきやがる……化け物だな、お前は」  激しくなり勝る一方の突きこみに、少女の身体は弾き出されもせず、男の律動に巧みに合わせて背を擦り寄せる、臀をくねらせる、結合はいよいよ深く密に、男は下半身からヒプノマリアの小さな肉の中に全て溶け出し埋まってしまいそう。  そんな錯覚をあたえる程に、触れ合った肌は男の筋肉の隆起とぴったり合い、膣内もまた男根を悦ばせるそれだけのために造られた〈肉襞〉《にくひだ》のよう。 「あは……わたくしが……〈妖異〉《あやかし》と……ふふ」 「なれど、喰ろうておるのは、お前さまのほう……んああ、あん!」  何よりヒプノマリアは、少女の性器では到底持ちこたえられないほどの男の獣欲を、微笑みさえ湛えて受けとめてあり、それが男に、この華奢な肉体を突き崩してやりたい、との破壊欲さえ抱かせしめる。  そんな乱暴な衝動のままに、少女の子宮口を、未来には母となるだろう器官の入口を、この獣交で壊してしまえと言わんばかりに執拗に突き、〈捏〉《こ》ね回し、〈抉〉《えぐ》り抜いたのに。  より深い〈随喜〉《ずいき》のよがりと、膣の奥で小さな口で精一杯に口づけし、もっととせがむような〈蠕動〉《ぜんどう》でもって男の快感を高めてくるとあっては。舌を巻くしかなかった。  突き崩すつもりが、いつしかまた〈翻弄〉《ほんろう》されていると男が気づくまで間は置かなかったけれど、それでもいい、と溺れさせてしまう。 「いい……とうても、いい……はふ、ふくぅ……っ」  男の方が一方的に獣欲をぶつけているように見えて、内実はヒプノマリアの方が巧みに導きじんわり〈搾〉《しぼ》り尽くすような交わりだった。 「信じられねえ……前もこうして〈嵌〉《は》めて、抱きもしたってのに……お前みてぇなガキが、こんなに良いなんてよ……くそ、このっ、たまら、ねぇ……我慢、できねぇっっ」 「よい、のですよ。我慢などなさらずに……わたくしの体、つこうて、存分に〈愉〉《たの》しんで」 「それが、わたくしも嬉しい」 「今宵はゼルダクララが不在故、わたくし一人なれど、その分だけお前さまにお尽くしいたしましょう……ん、ぅっ……」  今が昼なのか夜なのか、河の下ではその別は意味がないが、ヒプノマリアは客と寝る時は何時だって『今宵』と口にする。 『今宵一時を、歓楽の夜としましょうぞ』と。  逆に言えば、男が望むだけ、この快楽の『夜』はいつまでも続くという事。  たとえこの骨の〈脆〉《もろ》そうな手足を縄で戒めて、へし折れてしまいそうな体位に貫いたとしても少女の蜜壺はただ〈愉悦〉《ゆえつ》のみに蜜を〈零〉《こぼ》して雄の器官をしゃぶり上げ、絡みついてくるだろう。軽く首を絞めてやるのもいい、絶息に膣内はそれは心地好くひくつき、〈戦慄〉《わなな》くだろう。  そんな危険な妄想が男の中に育ってしまうのも、ヒプノマリアの肉体と心がそれだけの包容力を秘めているから。  人類最古の職業と呼ばれる、神聖代の頃よりの、ひさぐ女の血脈が営々受け継がれ、結実したかのヒプノマリアならばこその。 「ひぅ……ああ、強う、突いてきて……」 「あん……あ、あぁ、あふぁ……っ。  目の前が、白い……んんぅ……っ」  こんな少女の、少女だけの肉の〈狭隘〉《きょうあい》にこんなにも溺れてしまっては、もう他の女は抱けなくなるのではないか。  〈抽送〉《ちゅうそう》の最中にそんな危惧が男の胸をふっと掠めたけれどもう止められない止められたものか。  普段なら肉の官能に一番敏感な、先端部分の感覚が今や肉茎全体、どころか腰を通して首筋まで男を蝕んでいる。  突きこみ、〈捏〉《こ》ね回し、引き抜く、〈滑〉《ぬめ》ってきつい〈肉襞〉《にくひだ》の蠢き、その快感しかもう感覚が認識できなくなっていく。  しゃぶり上げられ、吸い上げられ、まとわりつかれ、締めつけられ、男の体内がぐずぐずに溶け出して、一点に集中されていく。  凄まじいまでの内圧を秘めたそれは、絶後の絶頂の〈兆〉《きざ》し、に男は、彼自身信じられないほどの精神でもって〈堪〉《た》えた。  〈堪〉《た》えに〈堪〉《た》えた。  〈堪〉《た》えた分だけ精を撃ち放つ快感が増すと、雄の本能が告げていたから。  けれど保たなかった。  男が童貞を喪失した時よりも、記憶にある限りのどんな名器の持ち主と交わった時よりも、〈兆〉《きざ》しから射精までの間隔は短く。 「お……ぅ……っ、だ、出すぞ……っ」  〈堪〉《た》えるどころか、告げる声、押し出すだけでもこめかみがひくつくほどの精神力が必要だった。 「ええ……ええ……何度でも、好きなだけ、お前さまの望むだけ」 「わたくしは逃げたりいたしませぬ。壊れなどいたしませぬ。だから、下さいまし、お前さまの情けを───っ」  射精感が訪れてから放つまでの数瞬までもが、男にとっては余りにも濃密で、それだけで常の情交の絶頂を上回るくらいの快美に神経が焦げそうになって。 「お前、子供、産める体かっ?」  もう、そんな事を訊ねるまでもなく。  それに訊ねておきながら、男は最後を少女のどこにぶちまけるか、一つ以外考えられなくなっていたのだ。避妊具など不要と告げられた時から、少女もそのつもりだろうと思いこんだ。  事実、それを訊ねた瞬間には、男はもう。  僅かに、けれどたとえ相手が初潮を迎える前の身体であったとしても、子宮の奥でひっそり用意された卵まで、容易に届いて受精させそうなほどの、獣じみて強い子種に満ち満ちた雫を、もう漏らしてしまっており。 「そのような、〈煩〉《わずら》わしいこと、  今はお忘れなさいませ」 「お前さまのいいように、好きなように」  漏らされた事は、〈胎〉《はら》の中を異物である男の種汁で汚された事は、たとえその量僅かであろうとヒプノマリアははっきりと感じ取っていた。  なのに彼女は否むどころか、種を付けられる女としての悦びを最大限に露わに、精の先走りなすりつけられた〈肉襞〉《にくひだ》を、肉の粒をより密に愛おしげに絡みつかせて。  へしゃげるくらいに押しこまれた子宮口さえも、その乾麺一本ほどもない隙間を鈴口まで移動させ、ぴたりと重ねて。 「そうか、よ、なら───」  少女の〈胎〉《はら》がひたすらに欲しがっている。  男の生殖器がただ植えつけたがっている。  肉の管と肉の槍が、共に悦びに痙攣した。 「どぉお……うぅぅ───!」 「お……ふぅっ……」  〈面紗〉《ヴェール》越しなのに、ヒプノマリアの髪が〈艶〉《なま》めかしい匂いを帯びたのが男に感じ取れた。  種を付けられる感触、〈胎〉《はら》の中、少女自身の指では届かぬくらい深くに、〈遮〉《さえぎ》るもの無しに流しこまれた精の粘つきと熱さに、ヒプノマリアの全身が感応していた。  男は、ヒプノマリアの狭く華奢な膣の中に、全て撃ち放つ、流しこむ、絞り出していく。  後から後から、尽きる事を知らぬように。 「こんな、こんな……っ。  駄目じゃ、わたくし、おかしく───」 「声、変に───」  膣内を食い荒らされる様な、〈蹂躙〉《じゅうりん》される様な射精圧、に、ヒプノマリアは肌着をきゅ、と複雑な皺寄せて握りしめ、足指までたわませたけれど、その全てを受けとめて、そして絶頂を迎える。  受けとめて、なお男に促すように、肉の〈襞〉《ひだ》と粒と子宮口での、絶頂でのぞよめきが続き、だから男は最後まで、本当に最後の一滴まで。  放ちながらもゆっくりと肉棒を前後させたのは、快楽を意地汚く貪るためであり、かつまた少女の膣内に隅々まで、己の子種を浅ましく塗り籠めるため。 「お前さまの子種で───わたくしが」 「崩れ───溶けて───」  ヒプノマリアも、精の熱さに身を震わせて、絶頂に漂いながら─── 「熱い───はぁぁ……っ、  こんなに、あつい。  こんなにも、おおいなんて」  果てしなく続くかに見えた射精も、終いには脈動を終えて、男が膣の入口まで染みこませてと、引き抜いた弾みに、尖端が抜け落ちる、と。  膣孔は筋を壊されたように〈虚〉《うつ》ろな大穴開けて痛々しい、のも一時の事、すぐさまもとのきつさに締まり、どろり───  逆流してきた精汁の〈夥〉《おびただ》しさ、粘りけよ。 「こつぼの……なか……すべて……」  男がその連れ合いを孕ませた時よりも確実に多量で、濃密で。  溢れだしたその量、〈胎〉《はら》の中に排尿されたかと言うほどの多さだったのに、ヒプノマリアにとっては、その分だけ悦びとなったように、聖母のように安らいだ〈貌〉《かお》と声音だった。 「おまえさまに……」  至上の喜悦に身を浸し、少女は男の汗臭い胸板に、〈暫〉《しば》し憩うて、身体を柔らかく優しく弛緩させるのだった───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「……ぜ、はぁぁ……。  おい、また出しちまったな……」  ───口で、秘壺で、あれだけ射精の快楽貪っておきながら、男はまた、今度はヒプノマリアの〈貌〉《かお》に白濁をぶちまけていた。  ……まあ、それは膣内で男の精を〈搾〉《しぼ》りとって後、ヒプノマリアが脱力している男の、二人の体液でどろどろの陰茎を、お掃除とばかりに口で施した清めが少しばかり念入りに過ぎて、間を置かずそそり立たせてしまったせいもあるから、男ばかりが貪欲だったとは言えないにしても。  それにしても男の精の勢い、再三なのに少女の眉間まで汚すくらいだったというのは、彼が底無しの絶倫なのか、それともヒプノマリアの口技が枯れた老爺さえ回春させる程のものなのか。  ともかく、こうして数度精を放って、男の獣心もようやく鳴りを〈潜〉《ひそ》め、賢者のような心持ちで少女の声に耳傾ける余裕、というのか虚脱感に包まれてある。 「……れる……また、お越し下さいまし。きっとですよ、お前さま。空に瞬くその星の、降りきたるその日まで。わたくしはお前さまの訪れをここでお待ちしていますによって」  なおも熱心に舌を這わせながらの、娼婦の客を喜ばせる口上、社交辞令の類とは男も知るところ。  ただ、今ひとつ理解しきれないのは、その言わんとするところ。 「お前さあ、前にもおまんこの後にそれ言ったがな、いや、娼婦の手管と知っても言われりゃ悪い気はしねえんだが。どうにもよくわかんねえ。なんだよその星が降る日までってのは」 「くふふ。野暮なことをお訊きじゃ。有り得ないこと、の〈謂〉《い》いですよ」  秘密めかした微笑も、舌さばきもくすぐったく、男にはやはりどうしても、少女が何を告げたいのか、その心根までには届かず。  それも娼婦との遣り取りの妙か、と男はまた浅ましく獣欲の復活を感じていた。  またヒプノマリアに挑みかかり、今度は腹の上にぶちまけた、男はその時になってようやく、ヒプノマリアの双眸に宿る光がどこかで見た事のあるものだと思い出す始末の。  その輝きは、夜空の星々とどこか通じた、そんな〈幽〉《かそ》けき、それでいて遙かな光だったのである。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  頭上の水音の騒々しさにもかかわらず、そこにはふて腐れたような静けさが〈澱〉《よど》んでいた。地上から巧みに、そして当然勝手に導かれた電線や〈瓦斯〉《ガス》管により、地下の闇には灯りの塊が群在していたが、それは暗がりの中で不健全な〈痘痕〉《あばた》後を思わせた。  〈静謐〉《せいひつ》と雑音と、寂光と物陰とによって縫い合わされた世界。地下の運河の、そのまた下の、河の下の暗黒街。違法者の〈奥処〉《おくが》、お尋ね者の、敗残者の、逃亡者の、物乞いの、落伍者の、駅のありとあらゆる食い詰め者達の中でも外道達の。  絶え間ない震動と、地下に脈動する、駅の内臓血管、機械や下水道から響く重低音そして、病的に伝い落ちる水の雫に満たされて。  駅の地上でも珍しいほどの、古い古い時代の様式に組み上げられた煉瓦の遺構である、〈弓張り〉《アーチ》様の連結橋、小型の闘技場めいた広場、括弧型の〈奇矯〉《ききょう》な浴場、〈拱廊〉《きょうろう》、噴飯物な事に小聖堂、等々が、闇中に区切りを置き、人々はその中にめいめい勝手に散って灯火を置いているので、闇の中に幾つもの薄気味悪い島が点在しているかと覚ゆ。  それら薄明の島々の中に、河の下の住人がそれぞれの営みに没入している姿が照らし出されている様子は、標本展示の群れそれも屑の生活の見本としての。  暗黒街のあちらこちらに〈剔抉〉《てっけつ》されているのは、如何にして誰かから掠め取ってやるか、陥れてやれるか、苦しめてやれるか、どうしたら楽して寝て暮らせるかの、どれもこれもこの河の下での暮らしに相応しい、裏ぶれて堕落した生活振りであり、地上部に這い戻らんとする奮闘の情景は〈殆〉《ほとん》ど見えない。  たとえば───  大量に売れ残って出版社から差し戻された自著は、積み重ねて寝台の代わりくらいには出来ても、表舞台へと舞い戻る為の梯子にはならぬ。〈畢生〉《ひっせい》の大作となるはずだった叙事詩の中に埋もれて、弱々しい労咳の咳に血を滲ませる女人は、病を得たことによりかえって精神性気高くして、〈薨衣〉《こうい》の如く〈纏〉《まと》っているようにも見えなくはない。  が、オキカゼが間近に見守るうち、軌道沿いの牢獄の中で売れ残りの書物を塁壁と巡らせた女人は、書物を手に取り半生をかけた頁々に何やら薬を塗布していたりするから閨秀作家の悲哀も何もあったものかは。  ああやって本の頁に麻薬を染みこませて密輸する遣り口などとうに廃れたはずだが、まだやっている連中があるのかと少年を呆れさせる。 「……どうにもあまりいい気分はしねえやな、  こういう暮らしぶりを見てると」 「そうだねえ……〈身〉《み》の〈裡〉《うち》が寒々してくるような、そんな心持ちになる」 「あんた達、上では似たような暮らしだったみたいじゃない。それでも割りと楽しそうだったのに。あれは空元気だったってわけ?」 「そうじゃあねえんだ、アージェント。俺らはな、一頃は一座の衆ももっと居て、羽振りがいい時もあった。その時と比べりゃ、ここでの暮らしは確かに、尾羽打ち枯らしたもんではあったが───」 「それだって、ずっと昔に比べりゃ、甘っちょろい大尽暮らしなんだよ」 「ああ、そうだったね、オキカゼ。私と会う前のあんたのこと、細かくは知らない。けど会った時すぐに判った、同類だ……って」 「同類……そうだな。野良犬の仔より、湿気た生き物だったろうよ、俺ら」 「この河の下の様子を見てると、そんな頃を思い出しちまう。ああまずいなこりゃ。芸人のお涙ちょうだい話なんざ、ケツを〈拭〉《ふ》く紙にもならねえ。忘れろ、アージェント」 「……ふん、だ。格好つけてんじゃないわよ。何時までも憶えてて、ねちねちいびってやる。いつもはすかしたサアカスの座長が、昔話で同情引こうとしたって」 「……素晴らしいまでの根性の悪さだな、あんた」 「下手にしんみりされるよりいいじゃない。  ───ん?」  入りこんできた移動舞台に好奇の目を向ける者も〈一瞥〉《いちべつ》をよこす程度、大概は無関心でそれぞれの勝手な妄想や悪どい手仕事に埋没しており、暗がりの中を進む車輌に関心は薄い。  こんな悪処の連中に注目されたところで要らぬ諍いを呼びこむ悪因となりかねず、有り難いといえば有り難い。  こういう日々の起伏に乏しい世界では、出来事は数倍にも拡大されたちどころに各方面に波及するものだが、移動舞台の進入にも反応が薄いというのは、しばしばなんらかの車輌がなんらかの用件でこの河の下に降りてくることを暗示しているが、ともかく沙流江は、河の下の犯罪結社の外面めいた無関心の中で、〈凝〉《じっ》とこちらを見つめ続ける顔が闇と灯りの間に間に過ぎたような気がして、頭をそちらに巡らせた。  昏い光が泡の玉のように連なった中、視線は〈滑〉《すべ》ってやはり誰もろくに舞台には注意を払っておらず、思い過ごしかと唇をすぼめた沙流江の、額の眼が捉えたのは。  彼女の過去の〈残滓〉《ざんし》、記憶の底から浮上し来たる想い出。  目にしたのは一瞬の事だったので、判然とせなんだが、蘇った記憶自体は、泥濘に沈んでなお鈍い角で、時折は沙流江をほろ苦く突く事があるように。根深く残って完全には消えてくれない。  沙流江はとある一つの〈貌〉《かお》を、薄暗がりの中で見かけた、ようなと思っていたのである。  それは、かつて沙流江がオキカゼと出会うことになった阿片窟とは別のそれに沈んでいた頃の昔馴染み、その〈貌〉《かお》。  その世界での先達であったと同時に、彼女を虐げていた者の一人であった女。当時はその美貌と肢体で、無頼の男どもの首領格をさえ虜にしていた。 「どうした沙流江」 「あの……今ちょっと、なんか……。  ううん、きっと見間違いで……」  大地上の辺境の地から売られてきたばかりで、まだ右も左も判らなかった沙流江に裏社会でのいろはを教えこむ一方、沙流江を奴隷の如くいびり倒して〈傅〉《かしず》かせていた。最後に別れるときも、羽振りは上々で、有力政治家の愛妾にもなろうという勢いだった彼女がなぜこんなところに? 怪訝そうに覗きこむオキカゼに、いる筈がないとの思いで首を振ったけれど。  ちらりと見ただけ、本当にその彼女かどうかも判然としないのに、気にかかって仕方なくさせる、過去の亡霊というのはこれだから始末に負えない。  どうしてもそちらに気を惹かれてそわそわ、とうとう無視しきれなくなって沙流江は、オキカゼの顔色を窺うように、 「あの……あの、オキカゼ、わたしその、もしかしたら、かも知れないけど、ほんとはさっき、昔の知り合いを見たような……」 「……昔のって。お前、平気な相手か、それ」 「うん、その人は、わたしによくしてくれた人。そりゃちょっとは厳しかったよ。でも他とは違っててね。だからそれは大丈夫なんだけど」  けれど移動舞台から降りてまで探しに行っては、オキカゼと別れ別れになってしまうかも知れないし、と思い悩んでいた折りだ、暗がりを〈劈〉《つんざ》いて犬と思しき咆哮と、そして悲鳴が響き渡ったのは。 「なに今、死ぬみたいな悲鳴!?」  実際のところ、河の下では悲鳴など珍しくもないのだが、沙流江の耳、その悲鳴をかつての馴染みの声音だと確かに聴き取ったと思った。その様に割れて歪んだ響きでは、真に昔馴染みの声なのか怪しいもの、けれど心は一回そうと断じてしまうとその執着からは離れられない。  ある原因によって沙流江は、一時期を境にそれより以前の過去が曖昧になってしまっている。別段取り戻したいとも思わぬ昔だが、優しげな色合いを、僅かでも帯びた記憶となれば話は別だった。  オキカゼと悲鳴の方を切なげに何度か見比べて結局は、大事にすべきは現在の男と諦め肩を落とした沙流江に、放られたのが例の通信機の無線端末なのだった。 「そいつがありゃあ、どうにか連絡くらいは取れるだろ。いってこいよ沙流江。どんな時でも昔馴染みってのは大事なもんだ」 「オキカゼ、あんがとう! すぐ戻ってくるつもりだけど、アーちゃんのこと、それまでよろしくね」  こんな時でも他人への心配りを見せる沙流江は、渡り者としては甘いのか、あるいはそれ故にというべきなのか。  手首と足首の環が打ち合い鳴る、〈幽〉《かす》かな響きを星の粉のように撒いて沙流江は、運転台から〈滑〉《すべ》り降りた。  踊りで鍛えた足腰でしなやかに駆け出す後ろ姿、暗がりに足を白白と浮かせてそれもやがては闇に呑まれる。  駆け出す沙流江を見送るオキカゼの、ああやって送り出しはしたが、内心では覚った禅匠の境地には届かず、穏やかならざる危惧がないわけでもなかったのだけれど、それは芸子を道具として危ぶむ〈座頭〉《ざがしら》の心か、それとも女を案ずる男の心か、さて、さて。  とはいえさすがに二人とも移動舞台からは離れるわけにはいかない。  アージェントもこの速度なら降りられるのだが、河の下で一人になって無事でいられる保証は皆無なので、仕方なくまだ乗ったままの、オキカゼに後身をよろしく頼まれても、と唇をへの字にした。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  いまだ切れ切れに絞り出される悲鳴を頼りに暗がりの中の煉瓦敷きを辿っていけば、駅のどん詰まりの河の下でも更なる袋小路、〈隧道〉《トンネル》の果てに、女が一人。そして犬が一匹。  〈痩〉《や》せて、骨と鞭縄で構成されているかに見える犬は、その〈痩身〉《そうしん》によって漂わせる、誇り高い猟獣の血統を、その牙剥き出しにめくり上げた口元、垂らした涎で卑しく台無しにしていた。  闇の中でも湿気によって生育した〈羊歯〉《しだ》類が覆う壁に背をしゃがみこみ、懸命に腕を〈翳〉《かざ》して身を〈庇〉《かば》う女、あらゆる意味で孤立して、犬から我が身を護ることすら叶わなさそう。  吠え声に身を〈竦〉《すく》ませ、じり、と間合い詰める前足の、煉瓦を〈穿〉《うが》ちかねない爪に〈怯〉《おび》え、押し寄せる〈腥〉《なまぐさ》い息と牙に絶望し、それでも観念など出来ずに、ただただ恐怖する、程なくして自分に襲いかかる苦痛にまみれた死を前に出来るのは、悲鳴を〈迸〉《ほとばし》らせることだけ。  たとえ知り合いであろうが無かろうが、この時沙流江の中に噴き上がった炎は、純粋にその女に対する哀れみのみを燃料としており、彼女を企まぬ機転と思い切りで〈衝〉《つ》き動かした。 「なんてこと……こ、この、犬っころめっ、  こうだ、どうだ!」  どれだけ〈瞋恚〉《しんい》に奮い立とうとも徒手空拳の見世物女、戦う剣も銃もないのに、沙流江は女と犬の間に身を躍り入らせ、武器ならあるぞと、彼女だけの秘密の〈隠し〉《ポケット》から引き出したのが、色硝子の〈瀟洒〉《しょうしゃ》な小瓶の……武器?  沙流江の登場によって破られた緊張は、犬に食らいつく隙を与えて、三眼の女の足に獣の〈顎〉《あぎと》が〈奔〉《はし》る、牙が突き立つぎりぎりの機に、ばっと鼻先に振りかけられたのが小瓶の中身だった。  上等の香水だったさ、犬には勿体ない様な。  ただ人には芳香でも、犬の鋭敏な鼻には忌避剤並みの威力発揮して、ぶちまけられた犬は酸でも浴びたかのけたたましい悲鳴。  前足で鼻面を狂ったように払いつ、転げ回りながら離れていく犬の、鳴き声が聞こえなくなった辺りで沙流江が息を吐くと、横隔膜がずんと下がって足元から這い上がる震え。  緊張が去ってみると彼女自身信じられないような勇挙だった。  香水は、女芸人なら〈身嗜〉《みだしな》みを取り〈繕〉《つくろ》うのも芸のうちだとオキカゼから贈られて以来、沙流江の宝物となって、たまに眺める以外は試しに一雫を振る事さえ惜しむ大事なお大事。  それも人の生き死に懸かった一番、背に腹は代えられない。ずいぶん目減りしてしまったけれどまだ残っている、おかげで自分も女の命も拾われた、と相手に手を伸ばし、助け起こせば。 「かっ、かはっ、こほっ、あ、有難うございました、本当に───噛み殺されるところだった」 「───あ」 「ああ……やっぱり───」  頭に巻いたショールの〈裡〉《うち》から覗いた顔の、蜂蜜の髪は〈艶〉《つや》を失い肌は〈粗〉《あら》びて、かつての薔薇色の唇はどんな暴力の憂き目にあったものか、輝きも柔らかさも失せ果てて、それでもああやっぱり、沙流江の昔馴染みで。 「あんた沙流江、シャルじゃないか、なんでこんなところに……!」 「〈姐〉《ねえ》さんこそ、そんなに〈窶〉《やつ》れて」  それから後は、二人とも言葉を辿々しく詰まらせる、意想外の再会に感極まった、はあるけれど、それだけでは済まないよそよそしさ、距離感が生じてしまうのは、別れて以来それぞれの歩んできた道がそうさせる。  時の忘却作用は強力で、憎悪の切っ先を鈍らせば、親愛の念も硬化させもするのだろう。  そういうモノだと割り切って、沙流江はとりあえず昔馴染みを移動舞台へ招く事にした。  犬の襲撃から助かった後もあてどない風情ありありと、なかなか歩き出そうとしなかったし、助けておいてそのまま別れてしまうのも不人情に思われたので。  走った道を逆に、移動舞台まで辿る道筋、共に歩むうちに、歩度が女の口を幾らか解したか、〈縺〉《もつ》れた髪を少しずつ〈梳〉《す》くように、沙流江と別れてからの遍歴を語らせた。  革命が、あったのだという。昔馴染みがその権勢の傘に入った政府高官は革新の波に乗り損ねて〈粛清〉《しゅくせい》の憂き目にあった。  その愛妾であった昔馴染みなどは、旧体制の腐敗の象徴のようなもので、刑場の露と消えずに収容所送りになっただけでも幸運だったのだろうが、その後の地獄の日々を思えば悪魔が投げてよこした運だったと言える。  後は有刺鉄線の囲いの内側で、お定まりの虐待の日々。公認された暴力組織による〈莨〉《たばこ》の火と鞭の痛みと、女という性に対しての辱め。  それもこれもあの革命の奴めが……と女はその言葉を口にする度に、獣肉から滴る血のような憎悪を舌先から滲ませていた。 「……それが私のけちの付き始めだったってわけ。挙げ句こういう有り様。落ちぶれたものだこと、私っていう女にしては、ね」  そんな彼女に脱走を唆したのはある監吏の一人だったが、この男が求めていたのは女の美貌や姿態ではなく、女連れであれば色々追跡をかわしやすくなる段があるという実利の方。女もそれで良いと二人まだ欲得ずくでいられたが。  二度の国境越えの危難と、偽造屋に支払う金を稼ぐ為の人殺しの罪まで重ねてから、ようやく〈潜〉《もぐ》りこんだ長距離軌道の貨物列車は、結果的には身を〈潜〉《ひそ》めている間に鶏糞と不潔な羽根によって女に喘息体質を植えつけただけで終わった。否それよりひどかった。  彼女達が〈潜〉《もぐ》りこんだ車輌は、二人を約束された祝福の地へと運んでくれるどころか、駅の『河の下』へ送られるよう裏取引と手筈が整えられていたのである。  貨車から引きずり出された時には、待っていたのは港町の自由な暮らしどころか、暗黒の地下と〈破落戸〉《ごろつき》とそして裂かれた腹から麻薬の薬包取り出される鶏たちと。 『河の下』の印の事など聞き及ぶ事もなかった二人のうち、男の方はその場で実に手早く殺された。  そして女の方は、密売人達の中の犬使いに払い下げられた。  後は収容所のお定まりよりひどい河の下でのお定まり。端的に言えば、印を持たない女は、男が使う犬よりも下に置かれて、そんな日々がもう一年以上続いている。  だから先ほどの犬も犬使いがけしかけたもの。別段女が反抗の愚を犯したわけでもなく、犬使いが昼飯に食った〈紫貽貝〉《ムールがい》の蒸したのに混ざっていた小砂利を、奥歯で噛んでしまった不愉快の腹いせに〈拠〉《よ》っている。理不尽とはいう無かれ、それが河の下だ。 「そんなことになってたんだ……ひどい男に捕まっちまったね……」 「とにかく……とりあえず、わたしと一緒に行こうよ。あの犬だけじゃないんでしょ、ここの危ないモノとか、いろいろは」 「そう、ね。久しぶりに会うなり頼るようで、すまないけれど」 「いいんだよ、それくらいは」  地下暗黒街の煉瓦敷きを、足音偲ばせて辿りつつ、しんみりと語らい合う、女二人の胸に去来していた感慨はなんだったのか。かつては同じ世界にいたはずなのに、二人は、今では。無論沙流江だって、そういう苦界の女が夢見るような贅沢暮らしに身を置いているわけではけしてない。  それでも───  地下水道の〈弓張り〉《アーチ》橋の下を〈潜〉《くぐ》る時、ひどく滴り落ちる雫を浴びて、二人は。  昔馴染みが、かつて三眼の人三化七と〈蔑〉《さげす》み、〈奴婢〉《ぬひ》の如く酷使していた娘は、今では見違えるように綺麗になって、髪に被った水滴さえも、宝石の飾り紐のように燦めいて見える。  沙流江が、何時かは〈姐〉《ねえ》さんと振り仰ぎ、〈謂〉《い》われのない鞭を振るおうとしていた〈破落戸〉《ごろつき》を、〈一睨〉《ひとにら》みだけで〈竦〉《すく》み上がらせ(そしてその男は翌日裏路地で変死体となって発見された)、以来崇敬にも近い念を抱いていた女は、マチ子巻きにしたショールを、雫にじっとり〈落魄〉《らくはく》の涙のように湿らせている。  その差を何より意識していたのは、誰よりも、かつては沙流江より格上に扱われていた昔馴染みの女の方である事は言うまでもあるまい。  昔馴染みの女は、その根城にて首領格の男にも気が向いた時にしか肌にも触れさせなかった一方、沙流江は本人が望もうと望むまいと、男達の気紛れ、戯れによって刺青まで彫られた、家畜に烙印焼きつけるように。  とそこまで思い出して女は、撃たれたように立ち〈竦〉《すく》み、沙流江に怪訝がられたが、務めて平然装い歩を継ぐ、胸中ではこの一年来ついぞ覚えなかった希望が頭をもたげて苦しいくらい。  薄汚く濁った希望で。 「……そういやシャル、あんたさ、あれは昔と同じまま? ほら、左手首の」 「え? ああ、もちろんだよ。あれ、刺青だし、早々薄れたり変わったりしないもの」 「そう……」  女は、沙流江に見えないよう、ショールの〈裡〉《うち》でほくそ笑む、卑しげな笑み、昔の彼女なら鏡を見れば、こんな〈貌〉《かお》は自分じゃないとヒステリーを起こすくらいの。  そんな省察など、この河の下では老爺の〈萎〉《しな》びた男根ほどにも役立たず、女の頭の中に湧いてたちまち膨れあがったのは、沙流江のその紋様を、奪って我が物としてしまえば、河の下の番人に堂々と掲げて逃げ出せるという黒々とした欲望。  たとえ布地の刺繍の様に切り取れずとも、生皮を剥いでしまえばいい、何だったら手首ごと斬り落とした物だって、その元の主が誰であったかどうなったかなど、河の下の門番も詮議立てはしないだろう。それが河の下、駅の最暗部。そんな河の下の暗黒の風に染まりきった女は、沙流江にやや遅れた振りをして、ショールの〈裡側〉《うちがわ》の髪留めを、小刀が仕込んである髪留めを外し、その刃を彼女の背に向けて、漏らす殺気は本物の。振り下ろす、寸前に。  女の殺意を感じ取ってか───  沙流江が身を屈めた! 「……ひっ、違、私はただ……」 「……スカートの紐、解けちゃった……。  ん? 〈姐〉《ねえ》さん、どうかして?」 「……なんでもないわよ!」  手の内に握りこむ、小刀を見られたかどうか、動揺する女を余所に沙流江はただスカートを直しただけ。  気づかれず済んだらしいが。その際、スカートを割って表れた沙流江の〈太腿〉《ふともも》の、〈膏〉《あぶら》が乗っていると同時に若い娘の張りも〈具〉《そな》えた肉に、昔馴染みは嫉妬したという。〈萎〉《な》えかけた殺意の炎、消えず〈燻〉《くすぶ》ったという。  だから再会した昔馴染みは、一度の偶然では諦めず、〈暫〉《しば》し間を置いて沙流江の隙を窺い、再度襲いかかる、かからんとするも。 (今度こそ───シャル、すまないね。  でも、私のために死んで───) 「あ、そうだ〈姐〉《ねえ》さん。ちょっと待っててね。  無線機……渡されてたんだっけ」 「あ、あくっ、も、もう!」 「……なに? どうかして?」  乳房の谷間から無線端末を引っぱり出しながら、沙流江はきょとんと首を傾げてみせたのが、昔馴染みの殺気など察した様子毛ほどもないほど無警戒で。  なのに間合いと機をまた外された、昔馴染みはそろそろかつての〈乾分〉《こぶん》相手のやりづらさ、覚りつつあった。 「……ちょっとね。河の下に来てから、空気と暮らしが悪いせいなんだろう、時々体のあちこちが痛むの」  またも透かされた殺意を、伸びなどをして誤魔化す昔馴染みに、気の毒そうな眼差しを向けて沙流江は、無線端末をいじってみるのだが。吐き出されたのは無為の雑音ばかり、オキカゼの声どころか意味のある音声が全く入ってこない。  ただ距離が離れているだけ、周囲の構造物の重なり具合で電波の状況が芳しくないだけ、そう思いこんで沙流江が、鎮めようとした不安、やはり胸の〈裡〉《うち》で、押さえつけられた蛸のようにしぶとくのたうつ。  こうして、それぞれに胸の〈裡側〉《うちがわ》に晴れない墨を〈蟠〉《わだかま》らせたまま、沙流江、見覚えのある特徴的な噴水像の脇を抜ければ軌道が見えた。  暗黒街の暗がりは物の〈佇〉《たたず》まいを怪しく溶かすが、それでも噴水像の、連れ立つ二人の酔漢が、身を二つ折り、呑みすぎて反吐を吐くなりに開いた口から水を流している、という彫刻家の正気を疑いたくなる造作は他にそうそう転がっていようはずもなく。  なのに移動舞台は、影も見せず、軌道は地下の湿気に結露し、〈蛞蝓〉《ナメクジ》の這い跡のように濡れ光っているだけ。  運転台から〈滑〉《すべ》り降りた辺りから、軌道沿いに前後走って探してもみたのだが、すぐさま追いつけるような距離には移動舞台の姿は見えず、沙流江は己の〈迂闊〉《うかつ》を呪ったがもう遅い。 「なんで……そんなに時間経ってない! また走り出したって言うの? ああもう!」  すがる想いは無線端末をば去りゆく男の〈袖〉《そで》を握る力で掴ませて、呼びかけも真摯にかき口説くよう。そうやって懸命に試すも。 「繋がってね、お願い……。  ……。……。  だめか……離れすぎた?」 (もう、ためらわない。  こいつが、しゃがんでいるうちに)  〈応〉《いら》えの無い無線機に焦る沙流江、そしてもっと焦れた昔馴染みは、そっと瓦礫を拾って叩きつけんとす、今度こそ、もう声を掛けられたくらい振り返られたくらいでは止めないと、そこへ差したのは衣擦れの、〈清〉《さや》かなる、沙流江のものでも自分のものでもない。  あの噴水像の影から。  銀の粉を撒きながら、夜の〈帷〉《とばり》抜けて窓に停まったと見れば、妖精境の舞踏会への招待状に変ずる、薄緑の〈翅〉《はね》のひひるの到来かとも見えた。  その人影が寄り添うと、二人生酔い辻道中の噴水像さえ、巡礼の奉教人が畏敬に拝礼するかの〈佇〉《たたず》まいを見せる。  月の麗しきが〈面紗〉《ヴェール》の表にも〈裡〉《うち》にも〈煙〉《けぶ》る、眸は、〈黄金〉《こがね》とも〈白銀〉《しろがね》ともつかぬ光沢の不思議な鏡面、踏み出した〈黒艶〉《くろつや》の〈沓〉《くつ》、足元は、〈跫音〉《あしおと》の代わりに細かな光の粒を散らさなかったか、今。  まだ三眼の沙流江の方が人めかしく見えるほど、過ぎるほど典雅で端麗な、血肉を備えた人、生き物というより、現界に数刻遊びまた還る精の類かと映る。 「いかがなされましたか。  たいそうお困りの様子」  耳に届く声までも、〈詩情的〉《センティメント》の感性をかきたてるを通り越し、〈禁忌〉《タブー》のように甘やかに、あやしやな、少女、ヒプノマリアの、あやしやな─── 「あんた、ヒプノマリア───」  二人が、呼びかける前に何やら喉に絡むものを呑みこまなければならなかったのは、河の下の〈闇瞑〉《あんめい》にこの銀の少女と〈見〉《まみ》えたそれだけで、背徳の海に沈みこんだような錯覚を得ていたからである。  それぐらい少女の出現は、二人の心を惹きさらう、絶妙の機と間合いを捉えていた。 「今日は双子が一緒じゃないの?」 「本日はゼルダクララは休みじゃ。  じゃによって、  わたくしがお前たちを〈案内〉《あない》してさしょう」  ところが、古城の幽霊姫めいた〈佇〉《たたず》まいながら、申し出は存外に親切な、人外の〈眷属〉《けんぞく》であったとしてもシーリーコートの派閥らしい。 「沙流江は、主人の下へ戻るが望みじゃな?  よろしい。  わたくしはあれの行き先を心得ておる」  沙流江は何故少女がオキカゼと移動舞台の行く先を心得ているのか、いささか奇妙に思わないでもなかったが、さりとて〈撥〉《は》ねつけるには、申し出は厳寒の夜に〈流離〉《さすら》う旅人が見出した一つ屋の灯り、〈縋〉《すが》る心が勝り花。  それに沙流江も昔馴染みの女も、満更ヒプノマリアは知らぬ〈貌〉《かお》ではない。  双子の姉妹は駅のガイドとしては真っ当で案内も丁寧で、無知な旅行客相手に小ずるい小金稼ぎや騙したりはしない事が風聞高く、駅の猥雑な混沌に迷った者にとっての、一種の守護天使のような扱いを受けている。  ……裏の〈貌〉《かお》に関しては沙汰の限りでないにしろ、二人ともそちら方面の客になるつもりはない。となれば贈られた馬の歯を数えるような真似は不粋であり、沙流江はヒプノマリアの申し出、有り難く受ける事にした。  昔馴染みの女も、犬使いの元に戻ったところでどういう目に遭わされるか知れたものではない以上、否やを挟む余裕はない。  こうして沙流江は、ヒプノマリアに案内を任せ、女三人で暗黒街に移動舞台を追いかける道中を、往く事に。  道中、ヒプノマリアを認めた河の下の住人の、〈瓦斯〉《ガス》灯の下で賭け将棋に耽っていたのが あれこれ声を掛けてきたり、 「おおゲンジャ殿か。ご機嫌よう。  お喋りと興じたいところなれど、  今はお仕事中によって、失礼いたす。  別の時、別の機会に、  また声をかけてたもれ」  〈甚〉《はなは》だしきは小礼拝堂の中で何に耽っていたのか、ズボンを上げながら、汗を湧かせた胸毛も露わに、獣心しるけく少女の腰に手を回してきたりの、河の下の〈悪擦〉《わるず》れ共にまで馴染んでいると言えば言え、一々相手にしているようでは道が一向捗らない……。 「くふふ。悪戯はおよしあれ。  今日はお客様が一緒じゃ。  明日は空いております。その時にでも」  捗らない、でもなく、寄せられる言葉やちょっかいを〈捌〉《さば》いてかわすのが実に巧みで。  妖しくも可憐な、その姿にして柔らかに男をかわす手並みは、媚びと引き際の露出調節が抜群という事なのだろうと、それなりに男達に慣れた女二人をして舌を巻かせた。  こうしてヒプノマリアは、あしらえる者はあしらい、それ以上に乱暴な者達が溜まっているような悪所は抜け道や忘れ去られた道を用いて避けて、沙流江達二人を導いていく。  道行きはおおむね順調であったが、他の二人は知らず、昔馴染みの女は、一匹きり犬を撃退しただけで犬使いが『〈遊戯〉《レクリエーション》』をお積もりにするわけもなく、窺い知れぬ物陰から残虐な沈黙のうちにこちらを監視し続けている事を勘づいてはいた。いたからといって手の出しようもなく、不安と恐怖を背中に貼りつけたまま、歩み続けるしかなかったのだが。  恐れを紛らわせようと、先ほどヒプノマリアの口から〈零〉《こぼ》れた、聞き捨てのならない語句を沙流江に、そういえばと引っ繰り返して問い質してみたり。 「主人って───沙流江、お前、新しいパトロンでも見つけたのかい……?」 「パトロンって言うか、ええとその、わたしの旦那さまって言うか、そうなってくれたらいいって言うかー」  言濁しもせず、たちまちくねくねと、照れる事それ自体が嬉しそうに相好を崩す沙流江に、昔馴染みの女は、昔日の、体を切り売りしていた頃の〈苦患〉《くげん》は見出せず、ただ男に恋する女の顔のみ見て取った。 「いい人、見つけたようだね……」  そねみねたみ、今の身の上を鑑みてしまえばどうしようもなく心の中に湧き上がる臭気を声音に滲ませる昔馴染みだったが。  その相手の男とやらを聞けば、ひがむどころではなかった。 「でもちょっと、まだ少し若いんだよね。わたしより七つか八つか下。でもオキカゼはきっといい男になるよ、すぐになるよ」 「だからそしたらね、わたし、ちゃんと言うつもりさ……女房にして、って」 「七つか八つ下って……まだまだ坊やじゃないか、毛がようやく生えてきたくらいの!」 「でもオキカゼは凄いよ、あっちも。わたしのことも上手に虐めてくれるし」  と恥ずかしげもなく〈閨房〉《ねや》の次第まで交えて〈惚気〉《のろけ》る沙流江に、昔馴染みは言葉の接ぎ穂を見失う。 「左様。  沙流江とオキカゼは、  仲良う暮らしておるのよ。  彼は中々に、  女の扱いというのをわかっておる」 「あ、あんた達……ヒプノマリアといい、そのなんとかって男の子っていい、この駅の子たちはどうにもどっかおかしいよ……」  昔馴染みは沙流江を殺しても構わないくらいの気勢であったのが、ヒプノマリアの登場と沙流江の〈惚気〉《のろけ》で、〈萎〉《な》やされてしまっていくのを、自嘲せずにはいられなんだ。  出鼻を挫かれ、収容所を出でてから我が身に厚く積もってきた悪縁を、かつての〈乾分〉《こぶん》を殺める事で払い〈済〉《な》さんとした覚悟も、心の脇から崩されては、〈済〉《な》し崩しもいいところにされてはのめのめついていくしかなくて。  ……ただ、やはり、どうしても。  彼女達の背後には、下卑て下種なかぎろいを浮かべる眼差し、沙流江の昔馴染みを虐げる男が闇の中から浮かび、そしてまた影に入りして、付かず離れず女達を〈追随〉《ついずい》していくのであった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  その頃の移動舞台では。  かたん、たん、と運転台のオキカゼとアージェントに伝わる震動は、今のところ順調な、程良い速度で河の下の暗黒街を走る。  河の下は地上で噂する者の想像を越える範囲で地下の版図を占めていたが、移動舞台はこの調子ならばいずれ何処かに至るだろう。  ……沙流江を置いてきてしまったという事と、何処かに至るとてそれが何処やらさっぱり判じかねる、という大問題を抱えている以外は、至極快調な今のところ。  アージェントは、舞台のこの速度では有り得ないとは理解しつつも、時折車窓から背後や周囲を、沙流江が追いついてきてはいないかと、確かめずにはいられない。  沙流江が昔馴染みを捜しに降りた後で、移動舞台は都合の悪いことに速度を増して、思っていたより遠く離れてしまって、これでは無事合流できるか、〈甚〉《はなは》だ心許ない。  ……アージェントにとっては今回の成り行きは全くもって不本意であり、ましてや今はかの悪名高き河の下にまで流されてきてしまっている。  常に重低音を〈蟠〉《わだかま》らせた暗闇の圧力、滴り落ちる雫に湿気っぽく陰鬱な空気に押し潰されそうになるが、それでもそのアージェントにしても、どうしても沙流江の身が案じられてしまう。  三眼の人外と〈嗤〉《わら》う者も多いが、美とは総体としての調和であり、部分部分の造作の如何ではないというのが持論のアージェントとしては、沙流江は額の目も合わせて充分以上に美しい女であり、かつまたオキカゼという〈番〉《つが》い相手まで揃っている。  よって沙流江もまた、日頃から娘の暗い〈妬心〉《としん》を注ぐ対象なのではあるが、こういう状況では流石にそれは別府の地獄蒸し、自分を案じて離れた女が、戻ってこられなくなるやもとあっては、どうにも目覚めがよろしくない。  なのにオキカゼの方は割りと落ち着いていて、移動舞台の振動に身を任せている風情なのが、アージェントの〈癇〉《かん》に〈障〉《さわ》った。 「どうしてそう平然としてられるわけ? お前、自分の〈情婦〉《イロ》のことが気にならないんだ? なんか〈女衒〉《ぜげん》の女あしらいみたいね」 「あんたもそう、面ぁ生真面目に見えて、言葉遣いに品がないやな。俺らみたいな真っ当な芸人二人つかまえて、〈情婦〉《イロ》だ〈女衒〉《ぜげん》だと」 「五月蝿ぇな、ヤルことヤッてないとは言わせないんだから。はっ! あたしよりまだ年下の癖に、そういうトコだけませててさ」 「おまけにお前の口振りってなんか、  ませてるを通り越してオッさんくさいのよ。  やだやだ」  〈悪口〉《あっこう》が果てはオキカゼの人格攻撃にまで及ぶのは、〈土蛍〉《チボタル》の灯じみて暗がりのあちこちから〈揺曳〉《ようえい》する、河の下の者達の陰惨無頼な暮らしにたじろぐ心よりの虚勢も手伝ったものか。  非難の連弾にやれやれのオキカゼが、口の端に溜めた苦笑、煙草でも〈咥〉《くわ》えさせればいっぱしの〈博徒〉《ばくと》で、帽子を大きくあみだに引き下げ眼差しを〈韜晦〉《とうかい》させたあたりなど、子供の格好付けというには板に付きすぎた。  ……果たして本当に、アージェントの非難したとおりなのだろうか。  娘に気取られぬよう、ずり下ろした帽子の〈鍔〉《つば》のうちから車窓へと配る目には、アージェントなどよりよほど、三眼の女の先回りを千秋に期待してはいまいか。 「そう突っかかるない。まあ俺ら芸人はよ、お客を大切にしねえとなんねえからさ」 「客? あたしが? よしてよ、こんな、好きで乗りこんだわけじゃねーんだから」 「だとしても、だ。成り行きとはいえ、俺らの舞台に乗り合わせたとなったら、あんたは俺らの客さ。この剣呑なスラムに一人で放っておく訳にはいくめぇよ。そんな事しようもんなら、後であいつに怒られちまわぁ」 「はぁん? あたしのために残ってるってか? そりゃご苦労様。ここの連中に本気で襲われたなら、お前みたいなヒョロ僧一人で、何ができるとも思えないけど」 「でも沙流江も確かに言ってたっけ。降りるとき、あたしのこと頼むって。よくよくお人好しね、あの女も」 「お人好しッてのには同感だが。けどな、あいつは、沙流江は佳い女だぜぇ」 「あいつは佳い女だ、本当に。どことも知れねえ辺境出らしいが、そんなのは関係あるか」  と臆面も無しに放られたのには、アージェント、鼻先で〈大蒜〉《ニンニク》臭いおくびをやられるより参った。そして少年への構えをますます硬くした。  売り物を手放しに褒めるは売れない商人の手管であるし、女を手放しに賞賛する男は信用するな、が世の習いである。  粗悪の品を掴まされるのも、少年の口説にまるめこまれるのもアージェントはご免〈蒙〉《こうむ》る、何を聞かされても話半分、眉唾で流そう、と心を硬化させていて、正解だと知った。  オキカゼが、並べてみせた沙流江の過去の欠片は、柔な心をやすやすと斬り裂くほどの鋭さと、阿片の毒にまみれていたから。  無防備に聞いていたなら、どのような傷を負うていたものだか知れたものではない。 「あいつと初めて会ったのは、二年前、〈陀〉《ター》省の阿片窟だ。くそったれな阿片窟だ。くそったれで最低の阿片窟だ」 「そこであいつは、両目を焼き潰される寸前だったんだよ。額の目があるから、そっちはいらないと。両の目は潰れていた方が風情があるからと。そういうクソ下らない理由でだ」 「その上、優しいやね、麻酔のつもりか、阿片を呑まされてたんだが、多すぎてな……息が止まりかけてた。それに誰も気づきやしなかった。俺以外は」 「……ひどい、ね……」  どれだけ他人の過去が劇的に見えようと、どれだけ己の過去が平板で迫力に欠けようと、他人は他人、自分は自分、比べて驕るは傲慢であるし、羨ましく思うのは無い物ねだり。  よって同情には意味がないし、安易な迎合もそれはそれで不誠実、とアージェントが他人の昔話を嫌うのは、実は割りに乙女らしい、青い潔癖に由来しているのだが、その彼女、毒舌の彼女にして、棘も拒絶も忘れた言葉だった。  寸が短く切り詰められている故、かえって痛ましさが実感として強く籠もった、そんな言葉で。 「あの時、あいつを助けるために打った程の博打は、もう二度とねえだろうな。てめえの命をばかりじゃねえ。死んだ後の魂まで術士に取られるトコだった。  ああ、でも違う。あいつを助けるためなんかじゃない」 「俺がな、あいつに一発でやられちまったんだよ。奇跡みたいな女だって想った。あいつが目の前で壊されたなら、俺のほうもきっと壊れてた。だからよ、俺を助けるためだったんだ」 「……この辺りのことは、あいつにばらすなよ? 恥ずかしいから」  オキカゼはまた本音めかした嘘戯れ言を更に裏返した真情、で〈目眩〉《めくら》ましを掛けようとしているが、アージェントは想う。  どれだけ壮絶な光景だったろうか。  賭博室の豪奢も、ひしめく悪意には地獄の景色と二重写しになって歪む。  二重三重と取り囲むは阿片窟の悪鬼だけ、味方は自分以外に無く、三眼の女の生命は刻一刻と〈冥路〉《よみじ》を下り逝く一方。  首領は付き合う義理も無く、大人の世界に出しゃばってきた子供から、踏みこんだ高い授業料を一方的に強奪する事も有り得た。  そこからいかにして賭けまで持ちこみ得たのか。  〈骨牌〉《バカラ》か、〈賽子〉《クラップス》か、〈回転盤〉《ルーレット》か。  いずれにしても、子供の手を〈捻〉《ひね》るのにも躊躇無い〈本職〉《プロ》が盆に立ったろう。  〈一毫〉《いちごう》も隙は見せられないのに、寸刻を争う状況が判断を迷妄に曇らせていく。  魂を削るような危地に、よくカードを、ダイスを〈捌〉《さば》ききったもの。  アージェントが知る限り、オキカゼはどれだけ詐術とイカサマの達人を気取っても、その手管ははっきり言って底が浅く、仕掛けている最中に〈綻〉《ほころ》ぶ事もままある、その程度の〈業前〉《わざまえ》だ。  それは、沙流江を賭けた一世一代の大一番に、全ての運と才を費やしてしまったせいにや、あらん。  一体この少年は、どんな人生を経てきたのか───  と呑まれかかっている自分に気がつき、アージェントは慌てて気を引き締めた。 「……呆れた。お前、当時はまだもっと餓鬼だったろうに、なにそれ。子供の言い草にしちゃあ気持ち悪すぎる」 「そういう重たい人生なんてまっぴらご免だわ、あたしは。そんで、結局なにが言いたいわけ」 「沙流江な、あいつはスターダムにのし上がれる女だと、俺はそう〈睨〉《にら》んでる。俺みたいな屑餓鬼と、いつまでも〈燻〉《くすぶ》ってるのは勿体ねえような上玉さ」 「何かこう、ぱっと人目を集めるようなきっかけさえありゃあ、世間の方があいつを放っておかない。そしたらすぐさ。すぐにでもあいつはのし上がれる」 「お前、それ本気で言ってるの……?」  どちらに掛かる『本気』なのか、といえば無論両方で、アージェントは相対する少年が、どれだけ小生意気で擦れっ枯らしの風でいようと、やはり子供は子供なのだと、彼に対する認識を重ね書きした。  大体、スターだの、きっかけさえあればすぐに、だの、どうにも〈頭天々〉《おつむてんてん》にお花畑咲かせた妄想ではないか。アージェントとてオキカゼより三つ四つ歳が上だ、という程度ではあるが、それでも世の中というのはもう少し複雑であると考える。  そんなアージェントの内心を知ってか知らずか、オキカゼは制御の利かないマスコンを軽く手遊びさせながら、移動舞台の進路に沙流江が、普段遠間から彼を見かけた時のように、大きく手を振って合図しては来ないかと待ち構えているのだった。じりじりと〈焦〉《じ》れながら、目つきばかりはさり気なさを装いつ。 「おお、本気も本気よ。アージェント、あんたにはどう見える、沙流江が」 「そりゃまあ……ちょっとは……ううん、えらい綺麗な女だってくらいは思うわよ。けどさ、それだけじゃあスターになんて……」 「まあ確かに美人なんてのは案外あちらこちらに転がっている。じゃあそこに、こういうおまけが付いたとしたらどうだ」 「───駅全土を大騒ぎさせた移動舞台の、元囲われものだった、ってな」 「お前まさか───  この騒ぎ、最初から仕組んで?   自分達に駅のみんなの注目を集める為に?」  世の中そこまで単純ではなかろうが、一方世の中には流れ、というものが確かにある。前の大戦も、途中までは回避せんと粉骨していた勢力も多かったが、途中からは各国の民衆が勢いづいて戦争に至る流れを止められなかった、という意見がある事はアージェントもポルノ映画の常連から聞かされた事はある。  しかしそれよりアージェントを〈慄然〉《りつぜん》とさせたのは、オキカゼ少年の言葉が、今回の移動舞台にかかわる一連の騒動が、始めから意図されていたと事を暗示しているように聞こえたからである。  彼女自身、考えすぎだ、そんな事を思いついて実行できるのなら、自分は少年の皮を被った悪魔と対峙している事になる、と即座に打ち消したし、 「さすがにそこまではないよ。ただ……」  少年も流石に言下に否みはしたものの、語尾がどうにも不穏な響きを含んだ。 「ただ、移動舞台が勝手に動き出してとまらねえとなった時、ふと思いついたのはあるがな」 「沙流江は……あいつは俺の、夢の女だ。俺なんかあいつの添え物にもなりゃしない。俺があいつを売れっ子にしてやれりゃあ、それに勝る幸せってのはないんだよ」 「……馬鹿じゃないの、お前って」  そうこうしているうちに、移動舞台の周囲の様子が変化を見せていった。地下街の中でも〈辺鄙〉《へんぴ》な地域と見え、光に乏しくなった。  舞台の灯りが及ぶところあちこちに目につくようになったのは、剥き出しの書架。始めはちらほらと、次第にその密度を増して、地下道を構成する壁面や柱までもが、書架で構成されていくようになる。  この暗黒街で見かけるには妙に文化的に過ぎる景色で、書物など売り払って酒代博打代に替えるがならいの河の下にあって収奪にも遭わず無事でいるのが奇妙と、首を傾げていたアージェントだったが、やがて軌道が、地下街の果てで途切れているを目の当たりにして、先行きへの不安に包まれた。  軌道は暗がりの中の壁面まで延びて、それっきりの、だが壁面と見えたのは扉だったのだ。  それも、城門と見まごうばかり巨大な。  扉の表面には何事か装飾が施されていると思しかったが、移動舞台の前照灯では照らしきれぬ。  もしもっと大量の光があれば、大扉に施されていたのは、ある一つの紋様だと把握できたはずである。  それすなわち、沙流江の手首にも刺青された、河の下の印と同じ紋様であったという。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 『河の下』の陰険な灯りも、ほとんど途絶えた地下の奥、闇の溜まりの中を、低きから高きに伸び上がる吹き抜けがある。  高くへ、といったところで地下の中に留まり、やはり地上の陽差し届かぬ空間であるが、今、吹き抜けの内壁に巡らされた石階段を、それでもひたすら上へと目指す〈跫音〉《あしおと》が、三つ。  なにも高望みに陽の光を求めようというのではない、迫る危機から逃れようとしての事。三つの〈跫音〉《あしおと》にやや遅れて続いて、荒く生臭い呼吸の群れがあった、下方から追いすがる獣群の気配があった。 「〈姐〉《ねえ》さん、こっち、早く!」 「ぜっ、はぁ……待って、  待ってよシャル……っ」 「その御婦人の知り合いとやら、遂に焦れてきたようだの」  闇の階段を、駆け上がりながら逃げる三人。  始めはヒプノマリアの案内があることで、ただ移動舞台に追いつきたい一心の早足だったのに、今はもう息も絶え絶え、言葉押し出すのがやっとの全速、〈能〉《あた》う限りの疾走だ、女三人、いや、二人。  ヒプノマリアは、よほど健脚なのかこんな闇の石段さえ慣れているのか、スカートの〈捌〉《さば》きも軽やかに〈滑〉《なめ》らかに駆け上がる。  三人の背後から迫るのは犬の吠え声と、遠く〈幽〉《かす》かに、けれど下卑た心根が臭うような男の〈嘲笑〉《ちょうしょう》。  沙流江の昔馴染みを食い物にしている屑が、犬を集めて〈昂然〉《こうぜん》と女達を追跡にかかったのであった。  それまではそういった〈慮外者〉《りょがいもの》達から隠れおおせていたけれど、一度見つかるともう駄目で、男は執拗に、かつ〈嬲〉《なぶ》るように三人を追い詰めていく。 「ひああっ!! た、助け───っ」  ように、ではなく〈嬲〉《なぶ》っていたのだろう。階下に迫る犬共から、激しくも規則的な息〈遣〉《づか》いと爪が石段を〈食〉《は》む音さえ背中にむらむら、地獄の釜がすぐ脇で開いて〈濛気〉《もうき》かかるかというくらいの間近なのに、その心が端から裂かれていくような間合いを保ったまま。  闇が〈凝〉《こご》り、人を脅かす角度と速度でもって奔出したかのようだった。  遠く距離置く男が命じるままに、脅威を塗り重ねて鈍らせないようにと、断続的に襲いかかる牙と爪が、今、また。  沙流江の昔馴染みの女の〈踵〉《かかと》にかかり、転倒させる、刹那に割りこんだ、閃く手、飾り環が闇に一瞬の光芒を放つ。 「くっ、この、クソ犬っころがっ」  沙流江、残っていた香水を、馴染みの危急に惜しむ物かはで、〈壜〉《びん》ごと段に叩きつける、砕ける硝子の燦めき散開星団を思わせ、むっと香りたった、濃密な〈馥郁〉《ふくいく》の気が、犬たちの鼻を直撃した。  押し殺したような咆哮、犬の群れは一時足並みを乱すものの、追跡を再開まで遅滞なく、引き離すもままならぬ。のに昔馴染みの女の脚がこの時遅れた。 「痛いよ……ちくしょう……どうして私だけこんな……っ」 「〈姐〉《ねえ》さん、まさか……それ、血……」 「……足ンとこ、ヤられちまった……足ごと持ってかれなかっただけましだけど……血が、血が止まらない」  すんでのところで逃れたように見え、犬の牙は予想外に長く鋭く。  ストッキング裂いてマニキュアぶちまけた様に〈滑〉《すべ》らせる血潮も脚を引き〈摺〉《ず》る様も、見ているだけで痛みが伝わるよう、手当てしようにも薬類など持ち合わせず、追いつかれないよう走りながらでは、止血さえ満足に出来ない。 「……今少し、我慢めされよ。されば見えてくるはず、この段の終わりも、な……」 「……ごめんね、ヒプノマリア。巻きこんじまって……」 「なに、案ずるまいて。なんとなれば、わたくしひとりなら、〈如何様〉《いかよう》にも身を〈眩〉《くら》ませらるるもの」 「いざとなったら、其方達を置いて逃げさせてもらうによって」 「そんな……ずるいじゃない!」 「あー……うん、そうかもしんないけどね、ヒプノはそれでいいさ。わたしはその方が気が楽だよ……ひぃ!」  せめて、巻きこんでしまったこの少女だけは逃したい、と案じた身が、案外身軽に追跡の枠外に遠ざかる事できるようだ、ととりあえずの安堵の隙をついた犬の襲撃、まさに悪魔じみていた。  闇の中から飛び出してきた犬の牙が、今度は沙流江の臀に迫る、寸前。 「だめえええ!」  犬の悲鳴、昔馴染みの女が、隠し持っていたナイフを犬の鼻面に突き立てたその閃きは、彼女自身信じられないほど素早くて、なんで他人のためにこんなに早いと彼女を情けなくなくしたほど。  しかしだ、犬は引き下がったものの、その時は女の手は空、ナイフは犬を傷ましめていたとはいえ、その鼻面に持っていかれ、振り払う前脚に階段下に叩き落とされてしまったとあっては、むしろこちらに大損な。 「〈姐〉《ねえ》さん、そんなの隠し持ってたんだ……」 「ぜぇぇ……はぁぁ……。なんてこと……最後まで取っておくつもりだったのに、あんたを助けるのに使っちまうなんて!」 「まあ、あの程度の小刀では、不意打ちが関の山。押しかかられたら、犬共の牙には数で負けよう」 「うるっさい!  〈賢〉《さか》しら口叩くくらいなら、  もっとましな、抜け道、とかに、  案内してようっ」 「……そんな言い方ってないよ、〈姐〉《ねえ》さん」  〈諫〉《いさ》める沙流江に対し、少女はどこまでも〈鷹揚〉《おうよう》に、息を切らせる様子も見せないまま打ち〈頷〉《うなず》く。 「よい……しかし妙じゃの。何故このように、小出しに犬をけしかける……ああそうか」 「なに、よ……っ」 「〈嬲〉《なぶ》っているのだろうて。わたくしどもを。何時でも捕まえられる、と……佳い趣味をしておられる」  得心を確かめるように背後にひらり、肩越しに視線を投げても〈携〉《たずさ》える〈角燈〉《カンテラ》には手ぶれも見えず、その落ち着いた走り脚に、沙流江も昔馴染みの女も羨むべきか〈嫉〉《そね》むべきか怪しくなってくる。 「そん……な……っ、げ、げほっ、ごほっ」  息が切れて咳きこむ、喉からは血が滲むのではないかとさえ、昔馴染みの女の息は悲痛を極めた。ただでさえ河の下で虐待を受け続け、不摂生に蝕まれた身体で、むしろここまでよく走り続けられたもの。それでももう限界が近い。 「ぜはー……ひゅうう……っ」 「も……げんか……い……っ、  走れな……ひふぅぅ……っ」 「ヒプノマリア……〈姐〉《ねえ》さんは、もう走れないようっ。じきに動けなくなる……」 「ふむ。ここまでよう走ったものだけれど。さすがにそろそろ、心気も尽きるか」  こうした局面で、我より他人と、昔馴染みを〈庇〉《かば》い、背を押しながら駆け上がる沙流江もまた、息を散らさずにいるのが困難になって、それくらいの〈苦患〉《くげん》なのに、見捨てる事など天から考えだにしない気だては、美点なのか、きっと美点なのだろう。  たとえ昔馴染みの女が、苦痛の余り敵意の向けどころを違えて、沙流江の手を邪険に振り払おうとする瞬間があったとしても、きっと三眼の女は手を差し延べる事を止めやしない故に、美質なのだろう。  そして天は、美しきものを、言祝ぐ、それくらいはする、極々たまには。  たとえその言祝ぎに、大した効き目は無かろうとも、ちらりと希望を見せるくらいは、するのである。  この時の天恵は、ヒプノマリアの喉を通じて駅の地の底に降りた。 「そしてそういう頃合いで、  出口が見えよった」  沙流江の昔馴染みが、恐怖と疲労でもういよいよ走れないとなった頃合いで、どうにか吹き抜けの石階段を駆け抜けて、飛び出した先に。  沙流江の希望があった、生命があった、替えがたいものが待っていた。  冥府の魔王の城門のように巨大な大扉の前に停車していたのは、移動舞台。  離れてからさほど時間は経っていないのに、沙流江には全身の弦が緩んでしまいそうなくらいに懐かしく愛おしく。  ヒプノマリアはただ逃れる為沙流江と昔馴染みの女に心臓破りの石段上がりを敢行させた訳ではなく、出会った時の口上通り、彼女達を少年座長のもとまで導いていたのである。  とはいえ手放しに喜んで乗りこむとまではいかないのが現実の、辛さ情けなさ、彼女達を追って、背後からは犬たちが追いつき、次いで操っていた河の下の男もまた、移動舞台の前照灯が投げかける光の中に踏みこんできていた。 (もっとも乗りこんだところで移動舞台が悪漢どもを振り切れる程の速度を出すかは全く当てにならなかったのだが)  手飼いの獣達はひとまず抑えて、ただ威嚇の〈唸〉《うな》りは絶えさせず、進み出るが犬使い、河の下の屑。移動舞台の灯りを〈疎〉《うと》ましげに〈睨〉《ね》めつけた風体には荒廃と堕落の色濃く、そして獣臭さをまとわりつかせ、主従の忌まわしい絆が表れたものか、顔もどこやら野犬めいていた。〈嘲笑〉《ちょうしょう》に歪ませた口元から覗く糸切り歯も、犬のように尖って唾液を絡ませている。  そして、女達の逃走など掌の〈裡〉《うち》だったと、意地悪くいたぶりながら〈嗤〉《わら》うのだ、〈嗤〉《わら》いながら持ちかけるのだ、お定まりで安すぎて、〈今日日〉《きょうび》どんな下位の悪魔でさえも吹っかけないような取引を。 「逃げ切れるとは、これっぽっちも思っちゃいねえよな……? にしても手間を取らせる」 「そうまでして河の下から出たいというのなら、替わりに誰かを置いていけ。例えばそっちの人三化七の三眼女とか、な」 (オキカゼ───でも出てきちゃ駄目!)  一時は焦慮で〈身裡〉《みうち》がちりちりしていた、相棒はどうにか帰還してくれたが色々の、余計なおまけ付き、移動舞台を取り巻いた犬共と屑の様子は、オキカゼを安易に迎えに飛び出させる事を躊躇わせ、運転台の窓の下に身を〈潜〉《ひそ》ませる。  なにより、沙流江も運転台から覗きこむオキカゼに、背中に隠して手で合図を懸命に。  これは自分の昔が呼び寄せた厄介事だから、少年に累を及ぼしてしまうのは〈厭〉《いや》、頼りたくない、と。  そんな三眼の女の苦悩に強張った身振りを見抜いてか、それとも知らずか、屑男がにやつきながら沙流江の体に伸ばそうとした手、昔馴染みの女が弾き飛ばした横合いから。 「やめて。私の妹分には手を出さないで。いいわよ、そんなに私にご執心なら、私の方が今まで通り、この腐れ地下街に残ればいいんでしょ」 「おうおう、殊勝なことだな。だが正直言うと、お前には少し飽きてきたんだ。昔はどうだったか知らないが、今は俺や友達にさんざか突っこまれて、あっちの具合も味が落ちてきたからよ。その点こっちの三眼は、これは拾いものだ」 「う……でも許されないんじゃないの。この子は河の下の印、ちゃんと着けてるんだから」 「そんなのは、今は関係ないんだよ。お前がどうしたいか、さぁ。てめえの妹分を身代わりにしてここを出てくか、それともこれから先ずっと俺の玩具でいるか」 「……あんたの遣り口はわかってる。もし私がシャルを身代わりにしても、私を逃がすつもりなんかないってことくらい、わかってるんだから……このゲスめ」 「俺らは確かにゲスかも知れないがな、お前はどうなんだ、え? その女の手首の印、ぶち殺して皮を剥いででも獲ろうってしてたくせによ」 「え。〈姐〉《ねえ》さん、それ、本当?」  〈瞠〉《みは》った双眸と額の目は童女のようにいとけなかったし、そうと聞かされても沙流江はただ驚くばかり、怒りも少しはあったが、それは昔馴染みの女の底意に、ではなく彼女をそこまで追い詰めた河の下の悪風に、であったという。 「……ああ、本当さね。久しぶりに見たお前は、昔よりずっと綺麗になって、幸せそうで、だから憎たらしくなって───でもね」 「あんた! 私がシャルを殺すなら、それは自分の心で決めたことなんだ。人に命令されてこの子を売るなんて、そんなのまっぴらご免だよ!」  およそ矛盾だらけだが、それがこの女に残った〈矜持〉《きょうじ》だったのだろう。だが河の下の屑は、それさえも〈嘲笑〉《あざわら》う。 「また吹いたもんだぜ。だったら、俺がその三眼を犯るのも、俺の心次第、勝手って事で構わないわけだ……おい犬ども、そこの三眼、つかまえて押さえつけて、こいつの目の前でつっこんじまえよ」 「な───! そんなの、許さな───」 「……いい加減にしやがれよ。これでもお前のクソ話に付き合ってやったんだ。これ以上つけあがるんなら、また犬と番わせるぞ……? あん時ゃあ、さすがのお前も死にかけてたな? なんなら、今度は豚でも相手にしてくれるか?」 「ひ……っ」  以前に受けた虐待の恐怖は沙流江の昔馴染みの体に染みついて、たやすく心を凍りつかせる。がたがた震えだしてへたりこむ女を尻目に、屑は悠々と沙流江に手を伸ばし、押さえつけようとして。 「野暮な旦那もあったもんだ。その女はうちの芸人でしてね。芸人には手を触れないってのがお決まりでしょうが」  底の透ける、その場しのぎのインチキ詐術で飛び石伝いに浮き世を渡ってきた少年など、この屑と程度の差こそあっても同類と言われればそれまで。屑の犬使いに口を出せた道理など、突きつめれば無いのだろうが、だとしてもオキカゼにも切り捨てていいもの悪いものくらいの弁別はつけられる、犬使いだとて手飼いの獣を大事がりはしよう。  故に少年は、女達と屑の舞台に敢えて割りこんだ。 「オキカゼ、出てきちゃ駄目って!」  移動舞台から降りてきたオキカゼが割って入って、屑に揉み手しながら、馴れ馴れしく水を差した。まだ子供の癖にその世慣れた口振りと態度が屑の神経を逆撫でしたようだ。オキカゼがいつものように詐術交えて言いくるめようと口を開く、その前に。  ませた子供を〈躾〉《しつ》けるのは、理を尽くして説くよりこれが一番と、屑はオキカゼの〈襟首〉《えりくび》を掴んで横面を拳骨で撃ちのめしたのが実に無造作で効率的だった。害虫を見たなら、のめのめ刺されるを待つは間抜け、叩き潰した方が手っ取り早い。  なるほど、オキカゼの口は〈誑〉《たぶら》かしを吐く前に苦鳴漏らし、よろよろ様《ざま》に倒れそう、になる前辛うじて屑の胸元につかまりこらえたが、咳きこんで、お馴染みの虚言を〈弄〉《ろう》する根性もなく、浴びせたのは鼻血、口の中を切って血混じりの唾。  そんなものを鼻先や喉元になすりつけられ、屑はいよいよ憤然と少年を蹴り飛ばせば、もう耐えようもなくオキカゼは地に転がり、〈炙〉《あぶ》られた伸しイカの態に背を丸め。  沙流江にとっては自らの爪を抜かれる程にも心身を傷める暴虐で、〈狼狽〉《うろた》えきって少年の背に覆いかぶさり、せめて苦痛を紛らわせよう、敵わずとも屑から〈庇〉《かば》おうとかき抱いて、〈番〉《つが》いを護る〈鴛鴦〉《オシドリ》の健気さ。  が、そんな彼女を突き飛ばしたのは屑ではなく、オキカゼ自身なのだった───様子が、おかしい。  力なく立ち上がったものの、目には光なく、口元は緩みきって、伝ってきた鼻血と混ざった涎を止めどもなく顎から〈零〉《こぼ》す。その見苦しい涎を追うように、オキカゼの姿勢が崩れて流れて、地に四つん這いとなったのが、周囲の犬のように、を通り越して、脚の足りない蜘蛛のような、忌まわしい歪曲を漂わせた。  かち、かち、と小さな叩音は意味もなく打ち合わせた歯から。  と見ればかさかさかさっと犬たちに向かって突進したのが、蜘蛛の形のままで不気味なのに、速い、屑が手を出す間もなかったくらいで、凶猛なる犬達さえ撃たれたように身を脈打たせ硬直し、虚を〈衝〉《つ》かれて飛びかかられる、前にオキカゼの方が地の段差に手と足を取られて転倒した。  どたんと仰向けの、埃まみれ血泥まみれのオキカゼの顔から〈軋〉《きし》り上がったのは、悲鳴というより奇声である。けひぇ、えばぁ、れべれれと、まともな人間の喉では耐えられまいという異様な音域と〈抑揚〉《シラブル》の、声というより怪音である。そんなのを撒き散らしながら、少年は跳ねた。  手足をばらばらに痙攣させ、生きたまま〈炙〉《あぶ》られた海老が、酸を垂らされた蛙が跳ねるより不気味に凄まじく、裏返しになっては背中をばたつかせ、表になっては肘や膝でにじりながら、そこらここらを跳ね回って、怪音と血涎と埃で大扉の前の暗がりを掻き乱して果てもなく。  この狂態に中枢を麻酔されたようになっていたのは、犬の群れも昔馴染みの女も同じであったが、いち早く我に返ったのは犬使いの屑の、ただ正気づいた時、彼の脳内では、〈傲慢不埒〉《ごうまんふらち》な悪意は〈萎縮〉《いしゅく》していて、変わりに膨れあがっていたのは。  恐れ、なのであったという。  この餓鬼、黙らせるくらいに強くはしたが、脳味噌が壊れる程は打っていない、なのにこうまでおかしくなるのは、以前から狂の病が潜伏していたところを、拳固が体の奥から呼び覚ましてしまったのではないか、と、そこへ。 「オキカゼ、まさかまさか、あんたに病気を感染してしまってたなんて!」  沙流江が、奇妙な身振りを見せた。  嘆く声が鼻声だったのは、ただ涙に詰まったのではなく。  顔の中央から、優美な鼻梁を、ぽろり、と。  甲虫の頭を引き抜くよりも〈厭〉《いと》わしい。  鼻を、『取り外していたから』。  偽鼻、付け鼻───    たちどころに蒼ざめた、犬使いの背からは悪心の張りが褪せ果てて、彼の瞼にまざまざ浮かんでいたのは、数年前、安い女郎に入れ揚げた挙げ句、業病に〈罹患〉《りかん》して果てた仲間の姿の。犬使いより傲慢だったその男の、溶け崩れて化け物のようになった顔と、末期の、苦悶の余り床を掻き〈毟〉《むし》り全て剥がれた爪、血みどろの指先に、膝の先、胸元まで広がった腐敗で性器などまっ先にもげた。  悶死の床に立ち会っただけで、犬使いは一昼夜の間ヨードチンキで全身を擦り続けたもので、以来男は女を犯す時には、相手の目元口元に病の兆候はないかを観察するようになっていた。  沙流江の昔馴染みも、暴力に痛めつけられてはいてもその兆候はなかったし、沙流江自身も肌の見た目は実に綺麗なもので、だからこそ新鮮で美味な肉と狙い定めたのに。  だが身の〈裡〉《うち》に深く〈潜〉《ひそ》んだ病を、医者ならぬ観察眼で見抜こうなど考えが甘いのである。 「おい嘘だろ……このガキ、そこの化け物女、なんて病気に〈罹〉《かか》ってやがる。まずい、感染ったら俺もこんなんなっちまうのか……? う、うわああああっ、おっかねえようう!」  その類の病は、性交だけでなく、とにかく血や体液が粘膜に触れれば感染する、だというのにさっき自分はどうなった、と犬使いは、オキカゼをぶん殴って返り血を浴びてしまった我が身を省みて、足元が崩れ去り奈落へ転落するかの恐怖に襲われた。  あんな業病の前には無頼としての意地も糞もない、知らず、足が一歩二歩後ろへ下がった、のは屑にとってはむしろいい弾みで、骨肉に差しこんでくる恐怖のままに身を〈翻〉《ひるがえ》し、駆けだした勢いはいっそ見事ですらあった。  それでも戦慄に乱れる呼吸の中で、犬達への合図の笛は忘れず、犬達もまた、主人の精神状態が波及していたから、たちどころに後を追う、鉄砲水を逆回しに見た怒濤、獣臭い息の代わりに静けさが降り下った。  移動舞台の二人と昔馴染みの女に出来した、犬使いと犬達という脅威の、予想外の退散は、隠れて事態を恐々と見守っていたアージェントに、前にも勝って奇形的な危機感を呼び起こしたが。  なおも転がり回っていたオキカゼの、ひょこりと起きあがって埃を叩き落とし、〈手巾〉《ハンケチ》で鼻血と涎を〈拭〉《ぬぐ》った仕草に、隠しきれない得意さ加減の、いかにも場が収まったのを見届けてから、という風であったし。  沙流江もまた。顔からべりべりと、薄手のゴム材と思しきマスクを引き剥がしていたところ。表れた〈貌〉《かお》は、変わらず優麗な鼻梁がちゃんと揃っている。  言い立てるのも阿呆らしいが、病気云々なぞ嘘っぱちである、詐欺である、インチキである、ペテンである。 「くっふっふっふ。なにを愉快な芝居を。沙流江は、それこそ真水のように綺麗な体よ。オキカゼも然り。しかしあの男、こわもての振りしてとんだすくたれものよな」  付け鼻。その下に舞台演目で使うような特殊の偽肉面。その下に元通りの〈貌〉《かお》。  恐らくは、沙流江が蹴り倒されたオキカゼに覆いかぶさり、その背で犬使いの屑の視線を〈遮〉《さえぎ》った数瞬の間に。  これから自分はおかしくなるから。判った巧く合わせる。  あの数瞬間では、言葉ではそんな詳細など通達し合えなかったろう、となればオキカゼと沙流江の間に生じたのは、以心伝心というそれ。  ……アージェントを、驚かせるより柿渋じみた苦味の中に肩まで漬けこんだ。 「また打ち合わせとかなんもなしで、あんたらようもまあそんな小芝居を……。もういっそ結婚しちまえよ二人とも」 「私はまた、ここがこんな〈窖〉《あなぐら》だもの、きちがいガスとかが漏れだしていて、早速中毒にでも〈罹〉《かか》ったかとも思ったわよ」 「ほお。お前さま、存外鋭いな」 「───は?」 「あるのじゃ、本当に。人を狂気に陥れる〈瓦斯〉《ガス》がな、ここには、さ。まあ滅多なことでは作動したりはせなんだが」  アージェントには、もとより沙流江の昔馴染みの女は胡散臭い、言う事もインチキ少年と三眼の女の小芝居にかぶれて、出来の悪い造花の仰々しさに響いたが、ヒプノマリアが請け合ったのには眉根、〈胡瓜〉《キュウリ》の肌に爪で刻んだ跡と皺が深く寄る。  ヒプノマリアはもともと浮世離れした少女、その口振りはアージェントも過去に聞き及ぶ機会はあったけれど、今の発言は限度を越えている。人の気を狂わせる〈瓦斯〉《ガス》の存在など、それがこの場にあるなど、唐突に過ぎて、自分の腰鞄の中に、処女を上手に淫靡にセックスの高みに導いてくれる美青年と、浪漫的な夜の海辺の景勝望むホテルの一室一揃えが用意されてございと告げられたようなもの。  告げてから、扉の前の〈窖〉《あなぐら》の天井へその端正な顎を反らして視線を投ずる少女に、〈倣〉《なら》うように沙流江が見上げたのだって、アージェントと同じ不審に満たされているはず。なのに。  沙流江の眼差しは、眼差しからは。なにも窺えなかった。彼女の双眸は、無機質に鏡面化していた。  ただ額の三眼の〈裡〉《うち》に、自ら蠢くような妖しい渦動が宿り、そして声もまた、普段の〈艶〉《つや》に替えて硬い珠のような響きを帯びたのだった。キヲスク砦内で、不発弾が落下してくる直前のあの。 「推進力場発生用媒介粒子。位置確認。本機への補充機材として接収───」 「ルーエ……お前、また、なのか?」 「……ほお。目覚めておらぬにもかかわらず。  やはりその本性は違えぬ、というところか」  オキカゼには手の中の〈麺麭〉《パン》が冷たい輝石に変わったようなものだったろう。ヒプノマリアばかりが興を催したげに呟いた、その言葉の意味を糾《ただ》す間もなく。  天井を閉ざす闇の中で、響く作動音。  風切り音は軽やか。  しかし続く轟音は破壊的。  刹那、移動舞台の〈天蓋〉《てんがい》を〈穿〉《うが》たれた破砕孔は一つ。  けれど落下して、屋根を破って床に突き立ったのは、一塊にくくられた、〈瓦斯〉《ガス》のボンベの、三本。  その出現は、沙流江の虚空に〈翳〉《かざ》した手が招いたものとしか思えない流れで生じていた。  移動舞台が震撼して、衝撃に分解するのではないかとの危惧に満ち満ちた、凄まじい沈黙が垂れこめたのは暫《しば》しの間。〈耳朶〉《じだ》から余韻が消えても、居合わせた者の胸に曰く言い難い感慨がひたひた押し寄せた。  ただオキカゼ少年が浮かべた顔つきが。 『森の中には何匹の動物がいるでしょう』の騙し絵から、一つの形象を〈掬〉《すく》いとったような顔つきが、この場の中で不釣り合いで。 「……何、今の。ちょっと冗談でしょお……きちがいガスとかさあ……」 「わたくしは嘘はつきませぬ。疑うなら試してみてはいかが。もっともその後どうなっても保証はいたしかねる」 「いい、いい、やめて!」  闇の中に〈玲瓏〉《れいろう》と〈佇〉《たたず》むのが絵のように映える少女の声は透き通り、否定しがたい真実味を帯びたし、わざわざ得体の知れない〈瓦斯〉《ガス》ボンベを開くのは暴れ馬の尻尾の気を引き抜くに等しい、昔馴染みの女が本気で〈厭〉《いや》がる脇で、左右を見回していたのが沙流江だ。  目隠しされて、遠いところに連れ去られた筈なのに、目を開けてみれば同じ場所だった、とでも言いたげな、怪訝そうな顔つきの、何時も通りの沙流江だ。 「あれ……? わたし、また何かやった?  ってあれオキカゼ、わたしらの舞台の天井にまた大穴が開いてるじゃないか! 舞台床にもなんかめりこんでるのが増えてる!」 「やっぱりてめえ自身でもよくわかってないんかよ……どんどん風通しばかりが良くなるぜ」  放置もしておけず、引き抜こうとしてみるも、がっちり舞台の床に食いこんでしまって取り除けやしない。  オキカゼと沙流江がそうやって奮闘している脇で、ヒプノマリアは沙流江の昔馴染みを差し招き、大扉の〈傍〉《そば》、書棚で構成された壁面の一部を示せば。  そこには人の手首が入るくらいの窪みが開いており、ヒプノマリアは手を差しこむように促した。  不審に思いながらも沙流江の昔馴染みは、ヒプノマリアの言うことならばと逆らわず、大人しく従う。 「ちとちくちくするが、我慢してくりゃれ」 「なに……あ、熱っ……な、なに、これ」 「動かしてはならぬぞよ。紋様がずれるによって……」  ひとしきり終わって引き抜くと、昔馴染みの手首には、沙流江と同じように河の下の紋様が焼きつけられていた。 「これ……印、ここの、河の下の……?」 「これで、お前さまも誰にも〈咎〉《とが》められず、ここから出て行かれよう。留まるのが望みなら、それもよかろ。扱いは多少マシになりましょう」 「……本来であれば、印を持たぬ者はこの扉に近づくと排除されるがならいでの。じゃがそこなオキカゼは、人死には望まぬ様子。なればこそ、このようにいたした。お前さま、運がよかったな」  仔細は不明だが、どうにも剣呑な言葉を漏らすヒプノマリア。どうやら地下書庫は、有資格者以外はなんらかの攻撃手段でもって侵入者を排除するように作られているらしい。あるいはそれがきちがいガスだったのもかも知れない。  だが、沙流江はともかくアージェントはおろかオキカゼもまた、河の下に属する印を身に帯びた様子はない。なのに何故、無事でいられたのか─── 「簡単な事よ。印とはなにも目に見えるモノだけにはあらじ───オキカゼ。お前さまなら答えられような。この『ステイション』に伝わる言葉を」 「『空に瞬くその星の、降りきたるその日まで───』」  果たして、オキカゼは。謎かけのようなヒプノマリアの言葉に、淀みなく。 「『此処より星の、昇りゆくその日の来たるまで』」 「『成就のその日まで、我らは眠りに就かん』───けっ。辛気くせえ。念仏の替わりにもなりゃしねえ」  皮肉に頬を歪めるオキカゼではあったけれど。恐らくはこの場で沙流江だけが、少年の皮相の下の、遙かな憧れと想いを見て取っていたのだった。  で、沙流江の昔馴染みの方は、オキカゼ達の様子に当惑しつつも、深入りしないのが賢明と判じたか、ここで皆におさらばの背を向けた。  ただ別れ際、沙流江とそしてオキカゼに振り返り、 「〈姐〉《ねえ》さん───」 「シャル、もう二度とあんたに会わないことを祈るよ。あんたが、あたしなんかにさ。独りで勝手に、幸せになるといい!」 「そっちも、なにさ。まだ子供のくせに、一丁前に女をかばって。いっぱしに、抱いた女に情なんか移して」 「あんたみたいなませた餓鬼の末路は、〈女衒〉《ぜげん》かヒモって相場が決まってるんだ。ふん……さよなら!」  叩きつけた言葉には鼻面に食いこむほどの、それも女の意地と、裏返しの友誼で構成されていた事に気づけるくらいには、オキカゼは人の機微を見聞してあった。  だから、帽子を脱いで丁寧に一礼して。 「───今後も、自分どもの一座をどうかご贔屓に。機会がありましたら、ぜひご観覧にお出で下さるよう───」  さて。昔馴染みの別れとの後で、ヒプノマリアはようやっと鎮まった、と大扉の開封の儀、といって呪文を〈唸〉《うな》ったり手振り足踏みで〈反閉〉《へんばい》の拍子、等はなく、先ほど昔馴染みの女の手に紋様を彫りつけた時と似て、別の窪みに手を置き、その上部に〈嵌〉《は》めこまれていたレンズ様のガラス面に眼差しを据えたばかりの、派手さには欠ける。  反応は、裏腹に重厚で荘厳ですらあった。  大の大人一〇人がかりでも微動だにすまいと思われた大扉が、中央に開けた隙間を徐々に広げていく様子は、異界との門を開くか、であった。  実際、駅において一つの異界だったろう、扉の向こうは。  大扉の奥は、書物や書棚によって通路や〈弓張り橋〉《アーチ》が形成された死せる知識の殿堂。  随伴人は、移動舞台に乗りこんだヒプノマリア、まさに紛うかたなき『駅の案内人』よ。  内部はどれだけの広がりを〈擁〉《よう》しているのか見当もつかないほど。徒歩ではとても踏破はできないだろう。  かつて移動は通路内に敷設された書庫路線で為されていた……らしく内部には軌道、勤勉な蜘蛛がその〈業前〉《わざまえ》遺憾なく発揮したように、縦横無尽と。  ただそれまで移動舞台が移動していた軌道とは規格が異なっていて、また立ち往生するか、に見えて、またも奇妙、移動舞台の動輪が変形し、その路線の規格とぴたりと合致して噛み締めたのである。 「なんでわたしらの移動舞台が、こんなとこ通れるように出来てるんかなあ……?」 「知れた事。そち等の移動舞台が、本来ここで運用するように造られておったからじゃ。……いや、『ここで』ではなく『ここでも』、というべきか」  谷間為す書架の合間、〈経巡〉《へめぐ》っていくうちに、棚の隙間あるいは通廊の壁面あちこちに、隠然としていてかつ奇妙な存在感放つ機械群が配されている事を、三人は認めていた。  キヲスク砦の大井戸の内側に据えつけられていたモノと同様の機械群だった。  おそらくはこの『駅』は、かつては。  ヒプノマリアはそれらについて、殊更に語りもせず、かといってオキカゼ達に見ルヲ禁ズの賢者めかした〈箴言〉《しんげん》も口の端に上せなかったが、それでもある一箇所だけ。  舞台の縁から縁へ、慎み深く歩を移す、そんなふりをして三人の視界から〈遮〉《さえぎ》った物がある。  書庫空間内のある一室の、窓から辛うじて垣間見える程度であったそれは、硝子製とも何製とも判別のつかぬ、透き通った、棺とも寝台とも見える筒型の何かで。  二つ並んで安置された、透き通った何かで。 「……あたしさ、実はこの駅って、地下の深いところとか、誰も行かないような隅っことかに、変なモノ、よくわからないモノがあるってこと、知ってる」 「でも、ここのは、そのどれとも違ってる。  見たことがないよ、こんなの。  ……ああ違うか。一度だけ見た。  ほらあの、キヲスク砦の〈縦坑〉《たてあな》に落ちた時。  あの時、壁にあった機械と、似てない?」 「なかなかに〈慧眼〉《けいがん》でおられる。  アージェントよ、お前さまのその推量は、  間違っておらぬぞえ」 「まあ、古い話故、今更掘り返したところで、詮なき話だがの」  目前に展開される、駅の深層の秘密に関わるであろう情景に、一座として珍奇物をあれこれ〈渉猟〉《しょうりょう》してきたであろうオキカゼと沙流江の二人をして、占い女の水晶球内に〈煙〉《けぶ》る託宣のように魅入らせた。  この時二人の体内、〈識閾〉《しきいき》の奥底で目覚め、呼応した或る感覚があって、沙流江は底冷えしたように身を震わせ、そっと目をやるがオキカゼに。  けれどオキカゼは、そんな沙流江の心持ちを知ってか知らずか、そして己の身の〈裡〉《うち》に頭をもたげた感覚を自覚していないのか、それとも敢えて無視しているのか、三眼の女へ視線を返さず、心の窓を閉ざしたままの。  またヒプノマリアは、戸惑う二人と情景へ等分に、注いでいた眼差しというのが、遠い過去を懐かしむような、悲哀と慈愛を〈混淆〉《こんこう》させた、およそ少女のなりとかけ離れて老成しており、アージェントはアージェントで、情景の驚異からいつしか身を離し、三人からなるべく離れて、隅っこで居心地悪そうに座るようになっていたという。  沙流江は、不可思議な内感覚からふと心づいて、怪訝と問い掛ければ。 「なんでアーちゃんはそんな隅っこに座ってるの?」 「……構うなよ。あんたやヒプノマリアみてえな美形の中に混じると、あたしみてえなソバカス女は肩身狭いんだよ。美形が〈傍〉《そば》にいると落ち着かないって気持ち、あんたらにはわかんねえだろうなあ……」 「アーちゃんは愛嬌あって可愛いって思うよ、わたしは」 「女が女に言う可愛いほど当てにならない言葉はないのよ、沙流江。今度言ったらあんたのパンツ脱がして、生写真付きでうちの客に売るからな」  やはりアージェントはどこまでもアージェント、返したのもやはり剣突、劣等感の縦糸と〈妬心〉《としん》の横糸で〈織綯〉《おりな》わされている。  当然、出来上がった紋様というのは、優しい沙流江をして暗然とさせる、生成りの面の如き険と鬼相を口角に噛んだ。 「お前さま。その性根、適当に改めぬ事には連れ合いなどいつまで経ってもできぬぞえ。  一人で体を慰める夜は、長くて辛かろ?」  また打たれた半畳が、よりにも寄って一同の中で最も秀麗な美貌の主からであり、畳の面には深山の霊水の鉢まで乗っていたと見え、アージェントのささくれた心をまず畳の目が打ち据えてのち、冷水でさぱりと〈灌頂〉《かんぢょう》さ。  氷でも噛んだよに奥歯不気味に〈軋〉《きし》ませた〈雀斑〉《そばかす》の娘に、またオキカゼがよせばいいのにという式で。 「うわあ。女って怖いよなあ、な、アージェント・〈猫実〉《ねこざね》・ヘッポコピー」 「うっるせえええ! フルネームで呼ぶなって何度言わせりゃ気が済むんだこのヒモ野郎! てめえのお大事のこの舞台の上で脱糞してやろうか? あ?」  ……ここで読書子に告げておかなくてはならない秘事がある。  移動舞台が何故暴走を始めたのか、オキカゼと沙流江にまつわる不可思議は何処に由来するのか、彼らの行く末は如何、等々物語に秘められた謎は幾つかあれど、それらはいずれ解き明かされる時も、あるいはあるかも知れない。  けれど、けれどなのである。  何故アージェントがヘッポコピーなる珍妙でへっぽこな名を有しているのか、それだけは開陳される日は───来ない。  少なくともこの物語中ではそんな瞬間は、有り得ない。  理不尽と思われるかも知れないが、事実そうなのだから仕方がナイル河の川流れ、ときたもんだ。  故にアージェントの怒りは、全ての理不尽に対する反抗心が燃え盛ったものであり、まともに相手しようとすれば要らない火傷でかちかちお山の狸鍋であるからして、大人にいなすに限るのである。  一同の中でそうしたのが、なりが一番稚な気なヒプノマリアだったというのは、予想されたにしろ〈諧謔〉《かいぎゃく》の酒の〈香気〉《かざ》、漂わせていた。 「おお、〈汚穢〉《むさ》や〈汚穢〉《むさ》や。女子の陰気な〈悋気〉《りんき》で、舞台を台無しに汚されては、オキカゼも浮かばれまいの。ならばわたくしが降りましょう」 「え。あ。ちょっと待ってよ。それだとなんかあたしが追い出したみたいじゃんかさ」 「一緒にいれば立つ瀬がないという、降りたら降りたで気が退けるという。ほんにお前さまは難儀な子よの」 「ま、お気になさるな。どちらにせよわたくしは昇降機を操作せねばならぬのじゃ」  慌てて引き留めるもののアージェントの手からは、やはり夜の妖蝶の羽ばたきするりとすり抜けて───  ヒプノマリア、舞台から〈面紗〉《ヴェール》とスカートの〈裡〉《うち》の〈裾除け〉《ペチコート》の衣擦れも涼しく、踏み出す足の態も軽やかに降りて、何時しか行き着いていた大型の〈函〉《はこ》のような一画の片隅へ。  据え付けられていた操作盤を繰れば、〈函〉《はこ》は路線用昇降機だったと思しく、ごぅん、と頭蓋に震わす鳴動を大きく一つ、後は余韻に置き重ねてごんごんとくぐもった震動でもって、舞台を上へ、地上へと運んでいくのだった。  そして。上昇していくと共に昇降機の柵の向こうに降りてくる、縦坑の光景は。  基調は書庫空間、あるいはキヲスク砦内の深井戸の内壁を埋めていた〈古〉《いにしえ》の機構群なる、〈闇瞑〉《あんめい》の中に沈んでいるのも同じ。  だがそれらは生きているにしろ死んでいたにせよ、おおよそが往時の姿のまま現在まで長らえていた。  引き換え、上昇と共に一同の前に引き下ろされていった空間は。  恐らくそれは、格納庫、と称される空間だったのだろう。  現在の駅の通廊、階段、上下左右いかなる連絡系統から、厳重に〈遮断〉《しゃだん》され封印された。  格納庫、と一同が見覚えたのは、その空間内に幾多の乗機と思しき機械群が点在していたからなのだが。  そのいずれもが。  壊れていた。  故意による破壊なのか、歳月による破損なのか、ただオキカゼ達は、それはなんらかの意図でもって為された所業ではないかと判じた。それくらい破壊の跡は執拗を極めて、乗機と見分けられたのも、彼らが駅で様々な乗物を見慣れていたから辛うじての事。 「……またなんか、変なのが見えるわ……。  あれ、なんなんだろ……列車でもない、自動車でもない、船でもない」  インチキ少年も、三眼の女も、〈雀斑〉《そばかす》の娘もその正確なところは知らず、恐らくはただ、ヒプノマリアだけが。 「……あれはな。大地上の人々が、もっと遠くにと旅していた時代の〈残滓〉《ざんし》なる」 「彼方と此方、ステイションとステイションを継いで、そして星々を───いや、そういう時代もあった、というだけのこと───」  昇降機の柵に背を軽く〈凭〉《もた》れさせ、紡ぐ声音は古詩を詠ずるよう、雅やかで、けれど遠く遙かな哀調をたゆたわせ。  そのお終いが、霧の中に霞むように曖昧にぼやかされたのも、また古い〈譚詩〉《サガ》の結末と似通った。  人の心に、彼の人は、彼の物語の行く末はいかに、問いを投げかけさせるような言の葉であり、既知の呪術言語のどれよりも古い、始原の言霊めいた呪力さえ帯びて、そんな古を〈手繰〉《たぐ》りよせた、駅の少女案内人を、アージェントは駅とは異なるどこかで確かに見たように思う。  多分それは、中央の図書館より駅に流れてきた払い下げ本の、古聖堂の意匠を写した画集の中で。  〈古〉《いにしえ》の神話中の、英雄に智を説く精霊達の〈眷属〉《けんぞく》の似姿に、アージェントはヒプノマリアを見たように、思う。  だから娘は、少女にそれ以上は言問い出来なくなった。精霊達の心は、人間族には窺い知れないものなれば。 「……そういう思わせぶりに黙るの、あんたみたいな妖精みたいなのがやると、〈嵌〉《はま》りすぎてて、ほんと聞き返す気無くすわよ……ずるいなあ」  柵に上体を預けて、アージェントが漏らした小さな吐息も、ヒプノマリアに誘われてか、遙か彼方を目にしたような感慨が満ちた。  ただ、それらの破壊された遺物を、それまでは痛々しげな沈黙で見舞っていた沙流江が、唐突に身を乗り出す、額の第三の目の〈裡〉《うち》に、躍動するような光を宿しながら。 「あ! オキカゼ、オキカゼ、今見えなかった? うちらの舞台とよく似たのが置いてあったんよ。あっちの隅っこにさ……ほら、あの、奥から四番目の……」 「あんた、よく見えるなあ……あ、あれか。  ええー、似てるかなあ。窓が四枚ってとこだけじゃないの?」  額に手〈翳〉《かざ》し〈目廂〉《まびさし》では、この薄暗い縦坑においてはかえって視界の妨げとなろうに、慣れと思いこみが目を強くして、眼鏡常用者がこの時〈確〉《しか》と峻別していたのである。  〈毀〉《こぼ》たれた乗機群の中から、沙流江が見つけ出した機影、は、そうと言われればそうのようにも見えて、否まれたなら錯覚かと流してしまいそう。  けれど沙流江には、その一機の面構え、四枚に区切られた前面の窓の様子などが、移動舞台の兄弟分としか思えなかったのだ。 「オキカゼは、どうおもう」  自分よりも移動舞台に近しい人間がいるとすれば彼だけの、オキカゼ少年に尋ねてみたものの。 「俺はよく見えなかったよ」  彼は、微笑を浮かべて首を振ったきり。  アージェントには、少年の微笑みが珍しくその年に似合って素直で頼りなげな顔に見え、だから彼のあしらいを素のまま信じたのだが。  沙流江は、オキカゼがそういう子供らしい表情を浮かべる時こそ、彼が内心を〈韜晦〉《とうかい》しにかかっているのだと、長い付き合いの中で覚っていた。  〈尤〉《もっと》もそうと知れたところで、そういうオキカゼから本心を聞き出すのは困難だとも知り抜いていたから、それ以上は、訊ねられず。  ───やがて昇降機は、出発の時と同じ大きな重低音に停止する。  ヒプノマリアは細長い〈隧道〉《トンネル》にと軌道の先を切り替えて、移動舞台を導いたのが駅の中でも知る者の少ない廃ビルヂング内への扉へと。ここを抜ければ地上の路線、と告げて扉を操作する少女案内人は、それきり移動舞台に乗ろうとはせず。 「今回わたくしが〈案内〉《あない》いたすのは、ここまで。  後は其方達で其方達の道を行かれよ。  ……この度其方達と会えた事、  嬉しく、そして面白うあった。  こちらは土産じゃ。  皆で仲良く食べてくりゃれ」  告げられる別れは蛍火の舞いの軽妙と儚さを宿し、手渡される藤製の籠は、一体いつそんな物を用意する暇があったやら、受け取った沙流江の手に持ち応えを伝えた。  それが手の〈裡〉《うち》に残らなんだら、影に身を引いてそれきり気配もなく消えた少女と、真に〈邂逅〉《かいこう》していたのか三人共に怪しくなっていたところ。  ヒプノマリア───駅の案内人にして少女娼婦。今ひとつの〈綽名〉《あだな》を負わせる要がありそうだった。  駅の、古を知る者、と。 「わたし、あのコとあんまりお話ししたこと、なかったけど……なんだろ、不思議な感じがする」 「……あいつも、駅の中のよくわからない人間の一人だよね、ほんと」  沙流江とアージェントは首を傾げるばかりだったが、ただオキカゼが古い古い知己とまた出会ったのか、出会い損ねたのか、判じかねたような、喉に物が詰まったような顔つきで、遠ざかっていく地下への扉を見遣っていたがそれも〈暫〉《しば》し。  すぐさま顔を、前へと振り向ける。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 『河の下』の、人間性の血膿屑の〈煮凝〉《にこご》りの様な闇から出でた目には、樹々の緑は何にも勝る妙薬、香りも芳しく、駅での機械や人々の生活臭はそれはそれで人肌めいた安心感でくるみこんでくれるとはいえ、自然のままの草木の匂いは郷愁ともいうべき感慨に誘う。  また、枝葉の間に間に垣間見る遠景は、日頃は意識の水面下に沈んだ旅愁を浮かび上がらせ、日頃は生活に馴染みきってはいても、駅はやはり遠い旅路の大タアミナルなのだという事を改めて思い起こさせる。 『大高架ホーム』。  駅西端部で北から南に〈聳〉《そび》える緑の巨壁一帯を、駅の人間はそう呼び慣わす。一見すると緑に覆われた丘陵地帯で、他の区域と異なり表を覆う人工物、建築群は乏しい。  実のところ、完全なる自然はこの丘陵全体の高さの六割程度まで。それより標高が高い部分は、巨大な一繋がりの人工物なのである。  駅においてその事実はほとんど忘却されてあり、記憶している者も少ないが、正確にはこの高架ホームは、長く駅に停車している超巨大車輌である。  丘陵の本来の上縁部には、元々駅随一の長大なホームが設けられていた。ところへ、何時の時代かそのホームにも入りきるかどうかの、超長大な大陸間運行列車が到着し、丘陵の本来の高さに加えて、巨壁の相を呈した。  ちなみにこの超巨大車輌、いずれの公有私有の鉄道社から独立して運行されており、かつ運行サイクルも非常に悠長なモノで、数十年、時には百年単位で一つの駅に留まったりする。  当時の『駅』に巨大車輌から着到を告げられた際、管理局上層部では受け入れを巡って大論争、最終的に停車許可へと結論が傾くまで、〈粛清〉《しゅくせい》と〈弑逆〉《しいぎゃく》の血の嵐が全土に波及したとか言う。この裁可にもかの『〈散月会〉《さんがつかい》』がかかわっていたらしいが、それはさておき。  結局は停車許可を出したといっても、駅の側としてはそんな超巨大車輌に大ホームを何時までも占領されたままでは営業に支障を〈来〉《きた》してしまう。ので、この巨大の列車が出発するまで、〈天蓋〉《てんがい》上に線路を築いたりして、本来の軌道の代用と、そんな莫迦らしい妥協案を実行した、のが、もう数世代は前の事。  少なくとも駅では、巨大車輌は百年以上は停車しており、その外殻も半ば自然の森丘状態と化し、車輌上に設けられた仮設の高架も、始めからそれが本来の姿であったかのように『大高架ホーム』と呼ばれ、溶けこんでいる。  そして現在。移動舞台は、その樹木に覆われた外殻に設けられた、高架上部へと続く〈鋸歯軌道〉《スイッチバック》に入りこんであり、要所で転進を繰り返しながら緩やかに上昇していっているところ。  そのジグザグの軌道の傾斜の穏やかな事、牛の背中の〈稜線〉《りょうせん》にも似たり。これが移動舞台に二つの恩恵をもたらしている。まず旧式の馬力の乏しい機関でも途中で立ち往生の危惧無く昇っていかれる事、そして近年では各車輌が大高架ホームに上がるのに、専らここより効率の良い軌道を用いるようになったので、他の車輌と行き会う心配がないという事。  おかげでこれまでの騒動が嘘のような平穏な一時に移動舞台は包まれている。  傾斜した軌道を切り返しながら昇っていくため、移動舞台は傾ぐ右に左に、シーソーに乗ったような有り様ではあるが。  とはいえ多少の尻の据わりの悪さを気にするような繊細な神経の主は乗り合わせず、側壁を伸べて展開させた張り出し舞台の上、ちょっとした店を広げているのが三人。  そう三人。河の下から地上に出た際降りる機会があったにもかかわらず、アージェントはまだ乗りこんで、何故か。  これまでさんざか泣かされてきたせめてもの代銭として、舞台の床上に店のように広げた数々の小鉢を盛んに漁っているからである。  少女案内人が別れ際手渡してきた藤籠の中身で、詰めこまれていたのは、豆と野菜の、香辛料利かせたサラダ各種と、小振りな揚げ物色々と、肉の串焼きが何本か、他にも色々、そしてアージェントには見慣れないパン生地の薄い何か。  ヒプノマリアが一行と出会ってから、これほどの品、用意している暇などあったかどうか、なのに鉢は一々丁寧に保温の呪術公式が施されてあり、どの食物もまだ温かい、どこか不思議に冷えた印象の少女の心尽くしが、ほんのり温かい。 「なんだこれ。パンを押し潰してポケットの形にしたみたいな」 「どれどれ、ああ、こいつはピタだ」 「切れ目が入ってるよね、その間に他のおかず、自分が好きなように挟んで、それで食べるんだよ」 「ふーん。自分で具材選べるサンドイッチみたいなもんね。判った。そうとなったら早速」  怪訝に手に取った、アージェントに身を寄せて教える沙流江の、しなる肩が優しい、〈言〉《こと》掛ける〈頤〉《おとがい》の線がいたわり深い。  ……オキカゼやアージェント、親しい駅の人々は今ではどうとも動ぜぬが、額に流れた髪を払えばどうしたって三眼が〈常人〉《ただひと》と異なる形して、それが為に忌避の目を向けられる事などむしろ当たり前。  なのに、この女は、誰かに寄りそう沙流江は、どうしてこんなにも、情け濃まやかに、柔らかい。  眺めるオキカゼは、目にふっと懐かしげな色を浮かべて、そこで何事か心づいたように、 「ん……なんか忘れてるような」  バスケットの中をまさぐるオキカゼに構わず、アージェント、適当に揚げ物と野菜の和え物を詰めこんだピタを、〈囓〉《かじ》る一口二口が大きく早い、早速一枚目を平らげた。が。 「んー……。悪くないんだけど、なんか、ただパンに具材を挟んだだけっていうか……」 「オキカゼ、これ。これ忘れてる」 「ああそれだそれ」  微妙に不満げなアージェントに差し出された小壺の中には、何やらねっとりしたペースト状のものが詰められてある。 「アージェント、こいつだ。具を詰める前にこいつを内側に塗らないと、味がどうにも淋しくなるんだ」 「ヒヨコ豆を〈摺〉《す》り下ろして練った奴でな」  そういう事は先に言え、と唇を尖らせてアージェントの、それでも言われた通りの手順を試してみると、ぱっと輝いた顔で、舌の喜びが見やすい。 「なにこれ美味しい。さっきのと全然違う」 「でしょう。あと、それを塗ってあるのとないのとじゃ、腹持ちも全然違うンよ。うん、そんならわたしも少しお呼ばれしよう」  という事で、思い思い、好き好きな具を詰めてピタを頬張る三人の。 「このよ、パンの中に飯を詰めるのって始めは慣れなかったんだが、米のボリュームとパンの舌触り、段々オツになってきてな」 「こっちの茸の漬け物も、歯ごたえがしこしこもっちりしてて、わたし、これだけでもお酒のおつまみにしたいくらい」  移動舞台の登攀は、切り替えの度に右に左に緩く傾ぎながら、口の中で異国風味の菜、ヒヨコ豆の〈団子揚げ〉《ファラフェル》とレンズ豆入りの焼き飯の舞踏を伴って。 「〈羊肉〉《ラム》、脂の匂いがちょっと苦手だったけど、この豆のペーストと合わせてみると、いいじゃん、ちょっとはまりそう……」  飯の最中、切り替えの操作にと軌道へ降りるオキカゼの片手に、ピタ詰め握られたままのお行儀悪さは許されよ、だって〈羊肉〉《ラム》のシシカバブの脂の味の豊穣に、茸と玉葱のピクルスの歯ごたえ刺激が合わさるとこれはもう、食べ出してから止められる味覚ではないのだから。  群れ立つ緑と駅の遠景も、目と肌触りから風味を添えて─── 「がつがつがつ。ごくごくごく。  ……ぷはぁ〜〜。あー食べた食べた。  お前たちに引きずり回されて、  一時はどうなることかと思ったけど」  王侯の寛大な饗応にも勝る贈り物を寄越した、少女案内人はもう河の下に戻っているだろうか、今はこの場にいないけれども、〈拭〉《ぬぐ》われたように綺麗に平らげられた全ての小鉢小皿が、彼女への礼の言葉となろう。  一番の健啖振りを示したのは、一番入らなそうなアージェントだった。菜とパンだけでなく、一緒に押しこまれていた白葡萄酒のボトルも、彼女があらかた一人で飲み尽くした。  最後の一杯も自分に注がせてアージェント、若い白葡萄酒の爽やかな酸味で舌を洗い、 「食べるだけ食べたし、この舞台車輌も今は足を緩めてるし。今度こそいい加減おさらばさせてもらうわ。……あんた達は、これからどうすんのよ?」  死にかけて死に損なって、くたばりはぐれて生命を拾う、何度も死の手招きにうなじを触れられかかった、〈厭〉《いや》になるほど濃密な一日の果てに、アージェントは自分がかくも満たされきった溜息を漏らす事になろうとはついぞ思い及ばず。  ただ一度の食事だけで、と軽んじる事なかれ。食べる事は人の生の営みの根源である。  ヒプノマリアがそこまで心得てあの藤籠を三人に手渡したとしたなら、少女は古代の賢聖の智慧を宿しているといって過言でない。  食事が終わった今は、陽差しも柔らかく褪せて、時刻は黄昏へと近づきつつある頃合い、一日の終わりも近い。  けれど移動舞台は? 駅の表と裏を駆け巡って、その暴走の果てを、この満腹にひだるい幸福で迎えるのか? 迎えていいのか?  答えは───  少なくとも、まだ移動舞台は動き続けている、という事。 「さあ?」 「さあってあんた、沙流江」 「だって、わたしらの移動舞台がなんでこんな風に動き出したのか、考えてみたらまださっぱりわかんないし。どうなんだろねオキカゼ」 「俺としちゃあ、もうちっと舞台に人目を集めたいところだが」 「お前はまだそんなコト言ってるかな」 「とはいえ〈移動舞台〉《こいつ》には、もう不発弾やらきちがいガスやらおとろちい代物が積み込まれちまってるしなぁ……」 「下手に人を呼んで、そこで大爆発とかされるのは、えれえ巻き添えを出しそうで目覚めが悪いしなあ。あんま〈傍〉《そば》に寄ってもらうなぁ、ちと困るか」 「人目を集めたい、けれど遠ざけたい。  ……んな矛盾したことが、  そう都合良く〈罷〉《まか》り通るわけないでしょうが。  はあ、なんにしても付き合ってらんない」  アージェントは呆れ果てるも、それ以上は二人に深く関わるつもりもないようで、大高架ホーム外壁森丘を昇る道中の途中、程良いところで降りて、移動舞台も波乱含みの運気の流れも、もういい加減彼女を解放すると決めたらしい。  今度こそ、無事に、降りて、〈雀斑〉《そばかす》の娘、映画車輌管理人は進み続ける舞台から遠ざかる、離れていく、激流に〈翻弄〉《ほんろう》される流木の上に落とされた〈栗鼠〉《りす》は、緩い浅瀬を見つけてようやく岸にと泳ぎ戻る。  背に、最後に〈水飛沫〉《みずしぶき》がかけられた。 「ほんじゃま、お別れだなアージェント。ところでよ、ひとつお願いなんだが」 「『〈厭〉《いや》』よ。  もうお前達に関わるのはご免ッだっての」 「お前、一応広報局の嘱託だろ? そっちの〈伝〉《つて》を辿ってな、今回のこと、適当に駅に報せておいてくれよ。筋書きは、そうだな、全てはこの俺、移動曲馬団座長オキカゼ・〈B〉《バーナム》の仕込みってところで。動機は……駅の底辺暮らしが長くって気が狂ったとかでいいだろ」 「聞かないって言ってるのに───だいたいそれなら、沙流江はどういう役どころなわけ」 「こいつは巻きこまれただけだ」 「オキカゼ!?」  突然の、すげない物言い、業病に〈糜爛〉《びらん》した老婆の舌から漂う臭気よりも沙流江の顔色〈喪〉《うしな》わせ、オキカゼの肩にすがりつかせるも、少年は構わず続けた。  ひもとかれる三眼の女の身の上は、彼女自身初めて聞いた哀話だった。しかもどうにも塩も苦味も薄い、〈腑抜〉《ふぬ》けた、どこにでも転がっているような。 「借金の形に身売りされ、額の目のおかげで因果な人三化七の見世物暮らし、強欲〈座頭〉《ざがしら》が逃がしちゃくれない、ってのはまあ、見世物小屋の座長と売られてきた見世物にはよくある話だろ?」  これなら阿片窟での出会いを語った方がよほど気が利いているだろう、少年自身、ぶちまけるならもちっと脚色もあった方がと思わないでもなかったけれど、客の多くは判りやすい話を好むと知り抜いていたが故の、一山いくらで転がっているようなお涙頂戴話だったのだ。 「わたしがそんな、〈厭々〉《いやいや》オキカゼの〈傍〉《そば》にいたなんて事、あるわけないじゃないか、なんでそんなこと急に───」  肩を掴む、焦りに熱した三眼の女の手をオキカゼは雑にあしらいながら、 「そういう筋書きにするって話だ、ルーエ。信じてくれよ、愛してるから」 「!? !! あ、あ、愛してるってぇぇぇ!」  長く連れ添い、自分なりに練れた女相手にこそ、男としては告げる機が本当に難しくなる言葉である。  それをばオキカゼは、さらりと水でも呑むように口にした。  二人が共にした時間の長さに比して、口にしたその言葉が、さて相応の重みを持っていたのォやァらァ、ときたものだが、沙流江は、全身を貫いた電流に〈身裡〉《みうち》が瞬時に沸騰したという。  処女を無惨に散らされた時より遙かに強烈な激震が四肢の端々まで浸透する、だというのにどうしてこんなにも甘い、苦しいほど嬉しい。  囁かれた言葉は、唐突で、どうにも真実味に欠いていたのに沙流江にとってはそうまで大衝撃だったのだった。  はふぅんとのぼせあがって感極まって、鼻から湿りきった蒸気溢れてしまうくらい蕩けきって、オキカゼにしなだれかかる自分はたぶん発情期の雌の猩々より目が血走っている、でもそんな細かい一々、沙流江にはどうでもよくなっていた。  その様子を眺めていたアージェントもまた、いよいよどうでもよくなって移動舞台に背を向け、軌道沿いの〈小径〉《こみち》を辿って降りていく。 「頼んだぜ、アージェント」 「知らないってば!」  アージェントが振り返る事も別れに手を振る事さえしなかったのは、二人がこの後濃密に愛し合う、きっとセックスする、沢山沢山する、汗だくになって、息も絶え絶えになって、それでも更に続ける、どちらもいっぺんに〈喪神〉《そうしん》しない事には、残った片方が相手を貪り続けるのだ違いないと決めつけていて、そんな連中の面を眺めるなど耐えられなかったから。  ついでに言えば自分にはそんな連れ合いがいないという事実の刃で胸を深々〈抉〉《えぐ》られていたから。  更に言えば、この後自分の映画車輌に戻ったとして、絡み合い溺れ合う少年と三眼の女の図を妄想の具にして、自慰に耽ってしまうだろうと判りきっていたから。  もっと言えば、知己をそんな妄想の種にしてしまう事の後ろめたさや背徳感、しかもそれがあの小憎らしいオキカゼと美しさが妬ましい沙流江であるというのが、どうしようもなく口惜しかったから。  口惜しさに引き〈攣〉《つ》る表情、口惜しさの分だけ自慰の快感は強烈になろうと期待してしまってにやける表情、同時に浮かべる自分の顔はさぞや浅ましく、正視に耐えるものでは無かろうと予想されたから、アージェントは二人に一顧だにできなかったというのが〈真個〉《ほんとう》のところである。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  二人だけに戻った移動舞台は、なおも上昇を続け、やがて大ホームの上辺へと至る。  アージェントが降りてから幾らもたたない時間であったが、その間は沙流江にとっては至福境。初めて告げられた言葉は何時までも 恍惚とさせ、体が勝手にまとわりついたり愛撫してしまう、止められない。 「愛してるって───オキカゼ。  わたしの事。初めて。  こんな───知らなかった。  こんなに嬉しい、なんて。幸せだなんて」 「ねえオキカゼ、今回の事に、一通り始末ついたら、二人で……」  沙流江が望んだのは、けして大それた事ではなかったのだ。  有り合わせの酒と食べ物かき集めて宴会しよう、たまにはきちんと湯を沸かして、二人でゆるり湯浴みしよう、その程度の事を、言い差して辞めたのは、そんな望みを口にしてしまうさえ自分がひどく傲って強欲に感じられたから。  愛の言葉を貰ったのだもの。今まで通り、一緒にいられるそれ以上の贅沢はなかろう。 「ううん、やっぱり、なんでもなかった」 「───そうか───」  移動舞台、高架上辺に出て、オキカゼが視線を巡らせたその景色。  駅の果てまで連なる相対ホームは、駅の中で高処にあって、下界の猥雑さから浮かび上がるよう。まだ時刻表の最後の便にも間があろうに、人も列車も不思議に絶えているのがその印象をより強く。  年に何度か駅を見舞う濃霧の日、ほぼ全土が霧の中に覆い隠される日でも、この大高架ホームは霧の〈帷〉《とばり》より上にあると聞く。その時ここに立ったなら、まるで大地の中で孤立したように覚ゆるのではなかろうか。  オキカゼは高いところが好きだ。だからここだって好みの景色だ。  けれどもその筈なのに、彼の頬によぎった色合いは、景色に酔い痴れる、というのではなく。  例えばまだ世界の広さが期待や可能性と等分である年代の男の子が、大人になるという事が、達成感だけでなく〈寂寥〉《せきりょう》も付随するのだと、初めて知ったような。  ───オキカゼは、かつて一度だけ、大地上の別の大陸にと続く大海に臨んだ事がある。大海に突き出した堤防の、その突端に一人〈佇〉《たたず》んだ時がある。  今大高架ホームに立って、駅を眺め下ろした彼の胸中に来たったものは、その時よりも深い孤独感、〈茫漠〉《ぼうばく》とした。〈傍〉《かたわ》らに沙流江がいるというのに。  少年は、移動舞台から一旦降りて、沙流江を差し招いた。  沙流江は、華燭の門出に立つ新嫁のように、少年の手を借りて降りた。  繋いだ手は、直ぐに解かれて、離れていくのが港に残る人々と、旅立つ船の人の間の飾り紐のようだ、とどうしてか沙流江には思われてならず。  とオキカゼは、おもむろに、ホームの電柱に沙流江の背を押しつけて、懐中から細紐を取り出して縛りつけるが極々自然に、予め定められていた事柄のように。  沙流江もまた、まだ頭の中桃色三昧で、これもオキカゼとのいつもの情交の一環なのだと思いこんだそれは───  移動舞台は歩くより緩やかな速度に落ちているので、手早く済ませれば一度くらいなら情事の余裕もあると、うっとりしたそれは。                    ───大なる、行き違い。 「んんぅ……また、縛ってくれるの? いいよ、こんな高いトコ、誰かに遠見されちゃうかもだけど、わたしはいいよ。オキカゼが抱いてくれるんなら、誰に知られたって」 「いいや。ここでお別れだ、沙流江」 「───え?」  何度か交わされたのは、沙流江以外の者が聞いたならば余りにも明白で、沙流江自身が聞くと全く理解の及ばない、そんな遣り取りだった。  それでも最後には、オキカゼの本気が、沙流江にもとうとう伝わる、伝わってしまう、吊した野兎の首が掻き斬られて、流れ落ちる血の雫が尽きて最期を告げる、そんな残酷さで沙流江に伝わって、しま、う───  いつもならある程度加減してくれている縛りも、今日は容赦なく、沙流江がどれだけもがいても緩む気配がなくって。 「ちょ、え、なんで、なんで! どうしてこの今、お別れなんて、置いていくなんて! ほどいて、ねえオキカゼ、お願いだよう!」 「お前は、今ならまだ、俺の勝手に巻きこまれてた、で済むからな。俺はさすがにどうも言い逃れできねえだろうし、するつもりもねえが」 「なあ沙流江。このすぐ後、お前の事をこの駅全部にばぁんと報せてやるからな」 「そしたら、いやでもお前は注目の的になる。始めのうちは興味半分だろうが、なあにきっかけはなんだっていい」 「一発おもてに出りゃあ、お前ならそれを足がかりに昇っていける」  オキカゼは、移動舞台のこれまで引き起こしてきた騒動を種にして、大衆の耳目を集めようとしているのだと。  そろそろ仕上げにかかるのだと。  アージェントにもそれらしく告げていたけれど、沙流江には全く〈焦点〉《ピント》の合わなかった目論見が、よもやこんな形で結実しようとは、出来ない、出来るはずがない受け容れるなど身を必死に〈捩〉《ねじ》り後ろ手の手首を懸命に力み地団駄を踏み鳴らし髪を掻き乱しわたしは今きっと山婆みたいだけど出来ない聞けない〈厭〉《いや》だ厭だ厭だ厭だお別れなんてどうしてねえどうしてわたしをどうして───!! 「沙流江、達者でな。お前なら、これをきっかけにきっとのし上がれるぜ……」  オキカゼの言葉、聞こえているけれど判らない。そんな事を突然言い出す少年に、これまでの愛情が裏返って〈憤怒〉《ふんぬ》の炎、沙流江の髪を逆立てんばかりに燃え上がった。 「馬鹿ぁぁぁぁ!! オキカゼの馬鹿、すっとこどっこい、女心も知らない屑野郎! わたしだけ、わたしだけが表舞台に上がったってなんも嬉しくないよう! あんたもいなくちゃ駄目じゃないか! あんたがいてこその一座だろ」 「置いてかれてずっとお別れなんて、放置プレイ、そんなのご免だよう! そんならわたし、マゾだって辞めるよ、だからオキカゼ、わたしを、置いていかないで───っっ!」 「わたしの事、やっと愛してるって言ってくれたばっかじゃないかぁ!」  怒鳴りつける、怒気を叩きつける、少年の〈貌〉《かお》がもっと近かったなら、その鼻面に噛みついていたかも知れない。  それほどの〈憤怒〉《ふんぬ》が沙流江を燃やして、燃やし尽くして、後に残ったのはやはり、どうしても、少年を求める心、熱しかなく。  その心が熱ければ熱い分だけ、オキカゼの言葉は冷たく彼女の心臓を苛んだ。 「芸人なら、好きだ惚れた愛したなんだと謳うより、客を湧かせてなんぼと心得ろ」 「お前は俺のものだと言ったな沙流江? なら、サアカスの座長が抱える芸人だというのなら。一人の男に惚れる前に。たくさんの客に惚れさせてみろや」  判らない───  多分オキカゼには、女の胸の〈裡〉《うち》の情炎を、全て判ってやれはしない。 「沙流江。俺が保証してやる。お前なら、スターダムの〈天辺〉《てっぺん》にだって昇っていける。いいや、昇って欲しい」  判らない、オキカゼが何を言っているのか、沙流江には判らない。 「そのきっかけは俺が作ってやる。じきにな。見てろ、駅の連中の目の玉、ひん剥かせてやっからよ」  判るのは。沙流江に判るのは。 「なんで、なんでそん時にわたしが一緒にいちゃあ駄目なんだよう! 一緒にやったっていいじゃないか、一緒ならなんだってする、だから、お別れなんて〈厭〉《いや》だ、わたしはあんたと一緒が───」                生きろ、死ぬな。冷たい肌なんてご免だと、かき口説き願い、頭を抱きしめる腕。  それが沙流江が自分のものだと胸を張って遡れる最古の記憶。  今もこうして、蘇ってくる。  それより昔は、阿片窟で甘美な毒を致死に近く嗅がされて、脳髄を犯した霧の向こうで曖昧の、彼女の経てきた生の時間でいえば大半はそちら側に埋没してしまっている。  けれど、けれども───  沙流江は、自分が本当に産まれる事が出来たのは、あの時だったのだ、と。だから昔なんていらない。                  生きてよ。死んじゃ〈厭〉《いや》だ。あんたはこんなに綺麗なのに。  俺を置いていかないで───!  涙にかき曇って聞き苦しい声だった。乳房に押しつけてきた小さな頬は駄々をこねるよう、彼女の今は場所さえはっきりしない故郷で、〈喪〉《うしな》ってしまった誰かを今更思わせて〈厭〉《いや》だった。                けれどね、けれど。  オキカゼ。    あんたの子供らしい声や駄々っ子ぶりは、あン時を最後に二度と無くなったけど。            わたしはあんたのその声があったから。  くっついてくれたその体があったから。    わたしは。  今ここに。  こうして生きていられるんだよ。    なのにあんたは───  オキカゼは縛られて身動き取れない沙流江に背を向けて、 「ダメだ。そうしたらもう、お前は戻ってこられなくなる。それは、俺一人でいいんだ」  歩み去る───別れの言葉は尽くしたと、もう継ぐ穂もなく、去っていく。 「戻ってこられなくなるって……」 「オキカゼ、ねえあんたまさか。  オキカゼ、なにを考えてるの。  オキカゼ、オキカゼぇぇーーっ」  予感が、沙流江を捉える。  このまま行かせたら、きっとオキカゼは移動舞台と共に、取り返しのつかない、彼女の手の届かないところに行ってしまう、と。  どれだけ半狂乱になって泣き叫んでも、聞いてはくれないだろう。  でもそうするしかない沙流江の声の痛切、風が駅の下界に運んだなら、聞いた者の心を狂わせ、理由不明の絶望の果ての緩慢な死に導いたであろうほど。  沙流江の双眸は、もう涙でひりひり〈沁〉《し》みて、〈殆〉《ほとん》ど見えない。ただ額の三眼だけが少年の姿を写す。  三眼の視界で、去りゆき、移動舞台に独り乗りこむ背は決然として、沙流江が知らないオキカゼであったけれど、そんな姿など見たくもなかった。  ああ自分の叫びに、両手で耳覆った。あんな冷たい背中を見せたくらいなら、〈哀訴〉《あいそ》などいっそ聞き流していけ、捨てていく女の声に今さら耐えかねるような無様を見せるくらいなら、舌を抜いていけとまで呪って、呪った、〈呪詛〉《じゅそ》の絶叫は、現れたモノに別の声に取って替わられた。  耳を塞がずにいたならば、運転台に上がって突っ伏し視界から全てを追い出していなければ、オキカゼも気づいていたかも知れない。  気づいたところでどうしようもなかったろうが、もう少し心の構えというのが出来たかもしれない。  何が移動舞台の周りで生じていたのかというと。  突如唐突忽然と、わらわらと、高架線上で巧みに偽装されていた隠し戸から湧きだしてきた一団があったのだ。  だっと移動舞台に乗り込み、虚を突かれたオキカゼをたちまちのうちに縛り上げ、舞台の進行を数に任せた力で押し留めた者達があったのだ。  奇妙な者達。〈纏〉《まと》っているのは数代前の駅の制服、その挙動や仕草は通俗的な秘境冒険小説中の原始部族じみて、猿と未開民を極端にカリカチュアしたものだ。 「くあ、離せ、  なんだお前ら───もしか、高架族!?」  高架族。  現在巨大列車はほとんど駅の自然景と化し、駅の者達もそれがかつては列車であった事をほとんど忘れ去っているが、かつてはその長く広大な車内は、ほぼ独立した生活系を形成しており、その内部に住まう人々があった。  しかし彼らはここ数十年の間に、駅の人々との交流を薄くし、やがては途絶、巨大列車内部にこもって姿を現す事さえなくなっていった。噂では閉ざされた空間の中で次第に退化していって、原始レベルにまで退行してしまっているらしい、というのが駅の都市伝説である。  それが高架族。その都市伝説中の住人達が、この今突如外界に現れ、オキカゼを拘束して移動舞台を占拠したのである。 「わああ!? 何こいつら、ちょっとあんたら、オキカゼに何するつもり、離せ、離してやってってば、ねえ、ねえ!」  沙流江が叫べどもがけど高架族は聞き入れた様子はなく、奇妙で〈奇矯〉《ききょう》な言葉を〈喚〉《わめ》きながら、オキカゼを担ぎ上げ、さらには高架軌道の一部を操作すると、線路の一部がばかりと陥没として高架内部への通廊が開いた。  目の前で何が起こっているかさっぱりついていけず、混乱する沙流江を余所に、高架族たちは高架内部───かつての巨大列車の内部へ移動舞台とオキカゼを〈拉致〉《らち》し去っていったのだった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  オキカゼと移動舞台が引き〈摺〉《ず》られた巨大列車内は、樹木が鬱蒼と生い茂った密林と化していた。  樹木だけではない。その合間にはこの時代の人々には理解不能なほど高度に発達した装置、機器の数々が見え隠れして、機械と樹が入り交じった異様な情景を作りだしていた。  その中の、ちょっと開けた広場となっている一点で。  かき集めてきた廃材の、レールや鋼板を組み合わせて作られた磔台。  オキカゼは高架族に磔にされ、その支柱の元には薪の山、積み上げられているだけで〈露悪〉《ろあく》的臭気〈芬々〉《ふんぷん》と撒き散らす。  一方、移動舞台はやや離れたところで、こちらは神像のように飾り挙げられ、多くの高架族が〈額〉《ぬか》ずいていた。  移動舞台にひれ伏す面子は、聖地に〈集〉《たか》った精霊信仰一派もかくやの敬虔さを見せてあるのに引き替え、オキカゼの〈磔柱〉《たっちゅう》を囲んだ連中はというと、自己中心的で排他的な、余所者には理解不能の歪んだ怒り、歓喜を混在させた忌まわしい踊りに乱舞し狂っていて、見ているだけで精神が浸食されそう。  その抑揚も均衡も完膚無きまで無視した動作が、腹痛その他でのたうち回っているのではなく、ある種のメッセージ性宿した踊りであると理解できるのは、オキカゼ自身にも奇怪、判るモノは判るとしか言えない。  事実、無造作に輪の中の一人を抽出してみてもそいつの身振りの意味がオキカゼの認識中にするりと溶ける。  果て、遠い、彼方、いかなる車輌も及ばぬくらい向こうのそのまた向こう。  その果てへ。送るもの。跳ばすもの。投げるもの。届かせるもの。  そいつの動きはそんな事を物語っていた。  現実の動作としては、両腕を襲いかかる熊の形に掲げ、腰を激しく卑猥に前後させる、という事を見ていて頭が痛くなるくらい延々と繰り返しているだけなのだが。  別の一人を取りあげてみれば、そいつは。  果て、遠い、彼方、いかなる車輌も及ばぬくらい向こうのそのまた向こう。  無限の闇。無数の光。〈深甚〉《しんじん》なる畏怖と止みがたい憧れと押さえきれない渇望。  閉ざされた。塞がれた。忘れられた。行けなくなった。  しかし。けれど。だから。それでも。  待ち続ける。在り続ける。残り続ける。  自分達。同族達。同じ形質の者達。血を引く者達。  そいつは、片腕を〈猥褻〉《わいせつ》に狂ったように前後させつ、延々頭を右に左に打ち振るという動作、見ていて心ががりがり削られていくような挙動で物語る。  他にもこんな者もある。  移動舞台。動くもの。繋ぐもの。翔ぶもの。  自分達はその為に。そのものの為だけに。  動くもの。繋ぐもの。翔ぶもの。  他はいらない。中にあるのは邪魔。  邪魔。無用。不要。害悪。  取りのける。生きる事を止める。形を無くす。燃やす。火。炎。  しこうして移動舞台は浄められん。  それだけの概念をよくもまあ、片手を股間に〈尾籠〉《びろう》に被せて蠢かせながら、もう片手を頭上に突き出し振り回しながら、小便を〈堪〉《こら》えるように果てしなく地団駄を踏む、程度の動作に内包できるものだと、感心は感心として、やはり見ているだけで目玉が腐りそうになる。  苦虫と屁〈放〉《ひ》り虫と毒虫を同時に噛み潰して汁を吸ったような顔を、したいところをぐっと押さえて笑い顔作ってみせるが芸人の気概、オキカゼは高架族と交渉を計ろうと、手近な者にとにかく呼びかけだ、言葉を交わさない事には始まらないし、加えて大事、笑顔が大事と、 「あ〜、はは……つまるところ、この馬鹿デカ列車がアレで、移動舞台がソレで、あんたらはナニ、ってコトなんだろ?」 「で、俺が移動舞台に乗ってちゃ邪魔だから、引きずり出して焼き殺す、と。はは……っ。 それちょっとおかしいだろうが……だって俺がさあ、移動舞台のホントの、さ、そんで星が……」  肺腑を締めあげるような戒めのきつさから辛うじて〈捻〉《ひね》り出した笑みは、高架族達が揃って一斉に、足を揃えて前後左右縦横無尽、超巨大列車内部を揺るがさんばかりに始めたステップにより微塵に粉砕された。  いかにオキカゼ世慣れた振りをしているといっても、高架族の連中は引き籠もり生活が長さのあまり、半ば気が狂っていて他人の言など〈水蚤〉《ミジンコ》の放屁と同じくらい気にかけない、という単純な事実を見抜けないようでは、やはりまだ練りが甘い。 「ああもう……しゃべりも芸も聞く耳見る目持たないってかよ。甲斐のねえ連中だなおい」 「おかしいなあ、もうちと先がある筈なんだが俺には」  磔台に荒縄でぐるぐる巻きとなり、のっぴきならない状況にある筈だがオキカゼはどこか他人事のようにぼやいて、まだ余裕を残し、切り札の二・三枚も隠しているかに見えた。  しかしそれも高架族が足元の薪に火を着けるまで。燃え始め、立ちのぼり始めた煙に〈燻〉《いぶ》され、肉と水気を残したうちから木乃伊の仕上げ、これにオキカゼ、どうしのぐ、手札の切り時ならば今こそ───あっさりオキカゼ、肌を〈舐〉《ねぶ》り喉を枯らす、熱さ苦しさに上げた声には余裕など一欠片も。  言うまでもなくカード隠しの中身も、空だった。 「げほっ、がはっ、くそ、浮かねえ末期だな。沙流江、〈俺〉《おい》ら、しくじっちまった様子だぜ。ここまでか───せめて、お前は」  肌にも少しずつ火傷が膨れ始め、遂にこの浮き世擦れした驕児も、遂に意識を失うオキカゼ、こんな駅の中の片隅で息絶えてしまったのだった。  うだつの上がらないままで───                   「ふっざっけるなあああああーーーッッ!!」    雷声一閃岩をも割り裂く。  心、意、気、完合すれば、威力八極瞬時に至りて轟かす。  〈火炙〉《ひあぶ》りの包囲を掻き破った〈腕〉《かいな》、仔を奪われた雌虎の爪と〈膂力〉《りょりょく》に、いきり狂って薪の炎を蹴散らした影、猛然と!  沙流江だった。オキカゼの戒めをどう引きちぎったのか、手首から血を滴らせて仁王立ちに、双眸と額の三眼から〈憤怒〉《ふんぬ》を炎と噴き出させたその姿、血と炎の原初神よ。 「わたしの男に───よくも。こんな。お前達、絶対に許さない。覚悟するんだね……」  オキカゼを後ろ手に〈庇〉《かば》いながら高架族を〈睨〉《ね》めつける沙流江は〈凄艶〉《せいえん》ですらあったけれど、それでも所詮は徒手の女一人。  高架族は一時の動揺、すぐさま収めて、口々に〈喚〉《わめ》き散らしながら沙流江にと肉迫してくる、脅威、狂気、殺意、〈奇矯〉《ききょう》な扮装だからと〈侮〉《あなど》った者を、瞬時に〈血糊屑〉《ちのりくず》に変えるだろう。 しかし今更たじろぐくらいなら、そもそもこの場に飛びこみはしない女それが沙流江、一歩も引かず、踏みしめた両足に根を生やして、離れたところに祭り上げられている移動舞台に呼ばわった。  その声には、一種の確信とも言えるべき力さえ漲って。 「ねえお前───オキカゼ・〈B〉《バーナム》の移動舞台。オキカゼのお前。お前の主がこんな目に遭っているんだ」 「お前───それでいいのかい? 主が火にくべられて、殺されそうになって、それでも黙っているってかい───?」  沙流江の声の気迫に押されて、一瞬戸惑う高架族、巨大列車内に満ちる沈黙、しかし答える者のない静けさ、に、高架族は今度こそ。女と少年に下すとどめ、留めるものはない、何も───本当に?  沙流江はオキカゼと共に終わりを迎える事を望んで割り入ったのか? そうなのかも知れない。一人で死なせはしないと、せめて死出の旅を共に、とて。                   ───否  移動舞台から、何事か〈軋〉《きし》り上がる音がある。  移動舞台の中で、床にめりこんだままのきちがいガスのボンベ、床下で開栓口に導管が自動接続され、バルブが勝手に緩み、舞台外へと通じた噴射口から噴出される、ガス。      ぶしゅーーーー、と、な。      音響はどこやら飛び去る風船のように軽薄であった。  広場に居合わせた高架族たちに、満月の夜の底、雄魚の群れが同族の雌の産み落とした卵に一気呵成に放精するように、それはもう盛大に浴びせかけられたのだった。  そしてその結果は軽薄どころで済まされたものではなかったのだ。  いみじくもヒプノマリアがものたもうていたように、その名前は冗談でもなんでもない事が判明して、苛酷なまでに。  たちどころに高架族の精神に作用して、奇声、悲鳴、様々の絶叫を撒き散らしつつ狂乱の態に転がり回り、終いに全員昏倒して、車輌内の密林を醜怪なオブジェで満たしたのである。  周囲からの敵意が消え失せたのを確認してから沙流江は、かつてはやくざな海に沈んでいた事もある女の〈嗜〉《たしな》み、隠し持っていた小刀で、オキカゼの戒めを解いた。  どうやらぎりぎりで間に合ったようで、少年の火傷は大したことはなく、煙もそう多くは吸いこまずに済んだようだ。  戒めが解かれる頃にはオキカゼは意識を取り戻しており、磔台から降り立った少年と沙流江の間に降りた沈黙の、その微妙さ加減といったら。  とりあえずと、磔の場から移動舞台の運転台に乗りこむまでの、歩みは僅かな距離だったのに、その間の空気の重さたるや。  耐えきれず、口火を切ったのはオキカゼの方。生命が助かった事を喜ぶより、どこか決まり悪そうで、目もまともに合わせないまま。 「……もうこれで、いのちの貸し借りも無くなったな、沙流江。俺があの時阿片窟からお前を助け出して、ここでお前が俺を救って」 「………………」 「有難うな、沙流江。しかしお前、隠し剣があったって無理しすぎだ、手首傷だらけじゃねえか」 「………………」 「沙流江……?」  くん、と少年の肩に被さって下に押した手は、男の〈袖〉《そで》引く酌婦の仕草のように〈柔媚〉《じゅうび》でいて、逆らいがたい剛力を秘めており、オキカゼの視界がくるりと転変して映ったのは運転台の〈煤〉《すす》けた天井で。  移動舞台運転席の床にオキカゼを押し倒し、そのズボンを剥ぎ取る手は手早く遠慮がなく、自らの衣服をかき開いた仕草だって、〈艶〉《なま》めかしさと言うより迫力の方が勝った。  乳房を下から〈掬〉《すく》いあげるようにして、少年の腰の上にのしかかり、挟んできた時だって、沙流江の〈貌〉《かお》には彼女らしからぬ、責め気が滲み出ていた。  額の目にも、挑みかかりねじ伏せるような光がかぎろうてあり。 「しゃ、沙流江、今こんな事やってる場合じゃ……っ」 「ん、しょ……」  露わにされた乳房の張りと量感は、大地母神の豊かさ、だけを湛えているならまだ良い、この時は戦神の迫力も備えて、少年を圧倒せんばかり。 「やめろ、沙流江……ていうか、  なんか言えよ、おっかねえよ!」  オキカゼの懇願にも、沙流江はただ無言を返すのみ。  無言で、少年の陰茎を乳房の中に導き、それが力なく〈項垂〉《うなだ》れていると見るや、脇から柔肉で圧してくる。 「……んぅ……っ」 「ふん……ん、ん……んっ」  軽く息みながらも、なお無言。  ただ、その無言の乳圧は、まだ及び腰の少年にとっても素晴らしく、〈怯〉《ひる》む気持ちなのにもかかわらず、少年の陰茎に着実に快感を〈刷〉《は》いていき、彼の心と裏腹に、雄の〈逞〉《たくま》しさに育ててゆき─── 「んんぅ……ふ……んっ」 「はぁぁ……すぅ……」 「おっきく……なってきた……」 「オキカゼの……匂い……してきた」  鼻腔一杯に吸いこんだ、少年の匂いに女が身体に汗の珠を湧き立たせる。匂いだけでも沙流江の身体は、官能に根差した熱を帯びる。  ようやく言葉らしい言葉を口にしたけれど、かといってオキカゼに向けられたモノではない。沙流江は憑かれたように没頭した、まま。 「ふふ……っ、悪いオキカゼ……駄目なオキカゼ」 「なのに、もう、ぱんぱんだねえ……」 「ちょ……おい、ルーエ……?  ぅ、お、お前、  もしかして怒って……ふぅ!」  あれだけの仕打ちで女を振り切ったなら、どのような〈憤怒〉《ふんぬ》の返り矢撃たれても当然の覚悟あって然るべきなのに何を今更。あるいは少年なりに一応はそういう構えがあったのかも知れない。だからこそ、肉茎に降りた、形はないというのに、しっかりと張りと肉の重み感じさせる、強いながらも柔らかな圧が不可解だったのかも知れない。  さらさら〈滑〉《すべ》る肌の感触が、すぐに汗でしっとり陰茎に吸いついて、快感は微妙ながらオキカゼを捉えて逃さない。 「はぁ……こう、かな……んふ……」  少年の臆した声音は柔圧に封じこまれる。  始めは、乳肉で、挟みこんだ剛直を両脇から押し包んで。 「ん……ん……っ、ふぅぅ……ふふ……っ」 「ぐにぐに……わたしの乳……こうして……」  次第次第に、〈捏〉《こ》ね回すように双乳の〈遣〉《つか》い様、複雑に変えていって。 「こう……やって、こねて……ン……」  挟みこまれて〈捏〉《こ》ね回されているだけ、なのにその柔らかな圧力、体熱が、快感と結びついてオキカゼの陰茎から下半身に、背筋を浸食していく。  じわじわ快楽が、オキカゼの〈怯〉《ひる》む心を圧して広がっていく。 「あは……先走りの汁、でてきたぁ……」 「そりゃ、そんな風にされたら……」 「えぅぅ……」  言い訳がましく呟かれた、少年の声がおんなの肌の温もりと柔肉の量感で黙殺される、うちにも哀しいかな、彼の男としての生理が触覚的視覚的刺激に忠実に反応してしまい、じわりと尖端に滲ませた先走りの雫。  現在の少年にとっては、快感への屈服を問わず語りに告げるようで情けなくあったが、沙流江にとっては天与の甘露、乳房に挟みこんだまま、舌先を伸ばし……。 「ちゅ……る……っ」 「お……ふ……」 「熱っ……沙流江、お前、熱でもあるんじゃ」  軽く触れられただけなのに、判るくらいに舌が熱い。舌だけではない。  沙流江の乳房が、体全体が、ぼっと火が灯ったように熱かった。 「れるぅ……ん……ん……」 「あ───はあああ!」  それまで吐息と、呟きだけだったのが、オキカゼの腺液を舐め取り、舌に乗せてじっくり味わった途端に。  沙流江の声が、はっきりした媚声となって伸びあがった。 「そう、これさ……この匂い、味……オキカゼのだぁ……」 「オキカゼの美味し……っ。もっと……」 「もっと、もっと、もっともっと───っ」  腺液を味わって、沙流江の動きがまた変化した。  乳肉で〈捏〉《こ》ね回していただけだったのが、〈扱〉《しご》き立てる動きにと。  上擦った声で。強いかぎろい放つ双眸で。 「んぅ! ふぅ!  ふっ……ふっ……ふぅ!」 「そんな……がむしゃらにされた、ら……っ」 「ちゅ……ぷ。はぁぁ……ん、んふ!」 「んふ! んん! ん、れるぅぅ……!」 「ふぅぅ……ふぅぅ……んん、ふぅ!」  沙流江の動きというのは、この時一切手加減がなかった。  これが手や口であったら、陰茎に痛みが走るくらいの激しさだったのに、挟み込み、〈扱〉《しご》き立ててきているのは柔らかな乳の圧力。  だから、オキカゼは快感ばかりが高まって。 「う……? あ、おい、待て沙流江」 「……んぅふ、んぅ、ふ! ちゅ、ちゅっ、  はぁぁ……れるっ」  密度濃く、圧力の高い流体が少年の性器の根元から尖端まできつく取り巻いて、幾重にも波打ちながら肉茎の中の腺液を押し出していく。  滲み出した腺液は乳房の隙間をより〈滑〉《なめ》らかにしたが、ほとんどは女の唇で情熱的にこそぎ取られ、唇の中に吸い上げられた。肉の茎を管にされ、体液を呑みこまれていく刺激は、切ないくらいの快感をオキカゼに〈刷〉《す》りこむ。 「こう……が、こうするのが……っ」 「聞こえてるんだろ沙流江っ」 「………………やだ」  小さな声で、それでもはっきりと、ようやくオキカゼに返事、一つ。  でもその一声だけで、三眼の女はまた行為に没頭していく。  乳圧で〈扱〉《しご》きあげ、伸ばした舌先で尖端を〈舐〉《ねぶ》り、腺液を吸い上げる。  それがオキカゼを、問答無用で追いこんで。 「……先っぽ、ぱんぱん。鏡、みたいだね。  おつゆもたっぷり。でも、もっと───」 「ン───」 「だ、だめだって───あ!」  このままでは、沙流江を鎮めるべく言葉を探そうとしただけでも、彼女が繰り出してくる快楽刺激にその心の隙を〈衝〉《つ》かれ感覚がそれだけに支配されそう。いけない、とオキカゼが腰をどうにか引こうとするより、沙流江の息みの方が速く、強かった。  陰茎の根元が〈疼〉《うず》いて、それが精の〈兆〉《きざ》しなのだとオキカゼが感ずるより速く。双乳が一際強く〈圧搾〉《あっさく》し、根元から〈疼〉《うず》きを尖端へと押し出した、口が鈴口から吸引して、少年の〈疼〉《うず》きに道をつけ、加速させる───と、もう。  絶頂を認識するより先に、オキカゼの陰茎は実に簡単に。  海綿から水気を絞り出すより容易に。  精を撃ち出してしまっていたのだった。  だというのに射精の勢いは激しく、陽差し色の〈艶〉《つや》やかな乳房にぶちまけて、汚して、少年の体熱で彼女の肌を焼く。乳房に降った熱さ、その嬉しさに、沙流江の臀が〈堪〉《た》えかねたようにくねる。子宮が〈疼〉《うず》いていた。彼女の腹の底から、初めての春機を迎えた雌の獣ほどにも発情させていた。 「あ。出ちゃった───」 「だから言ったろ、なのにお前」  オキカゼとしても不本意なくらい、射精の到来は呆気なく、沙流江の胸の中で吐き出し続ける。  朝方あれだけ濃密に致したにも関わらず、少年の精は指で〈摘〉《つま》めそうなくらいに、濃く、密で、それは液というには濃密に過ぎた。少年の〈臓腑〉《はらわた》の粘膜の層を、直接剥がして掴み出したのではないかと危ぶまれるくらいに。 「いいんだ。こんなのでも。  もっとするのに」 「───え?」 「でも今は、出すだけ、出すんだ」  噴き上げる勢いを強めるように、なおも乳房で〈扱〉《しご》き続けて、 「ふぅ、すぅぅ……あったかいよ……」 「じゅぅ……る……っ。んん……こく、ん」  〈貌〉《かお》に飛んだ精の熱さを肌で味わい、唇に垂れた分を〈啜〉《すす》り、舌で味わい、 「でも───全然足りない」  精にまみれて見上げる沙流江の〈貌〉《かお》の、その情の怖さに、オキカゼは戦慄したという。  陰茎も、あまりに急速に〈扱〉《しご》き出されたせいか、快感と絶頂をはっきり認識できておらず、戸惑ったように硬くいきりたったままであり。  沙流江は、白蛇のような身のこなしで少年のそこに〈跨〉《またが》り───おもむろに。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  沙流江との情交は何時だって、彼女がオキカゼの不興を買って責められるようでいながらその実誘導されて始まるか、さもなければ若い悶々をどうしようもなく持て余したオキカゼが、彼女の身体に戯れるようにして始まるかのいずれで、内実はどうあれ少年が主体を握っていた。  なのにこの今の沙流江はまだ磔による四肢の痺れ、消えやらぬオキカゼを押し倒しのしかかり柔肉の重みで圧して抵抗を封じこめ、彼の意志など無視して繋がろうとしている。  全身をぬらぬらと覆う光沢は、本当に白蛇の〈膏〉《あぶら》と見えたし、事実としても大差はないだろう、の、それは〈身〉《み》の〈裡〉《うち》、その心を高温の情炎が煮溶かして肌えに結ばせた想いの雫。  〈蛇性〉《じゃしょう》の〈淫〉《いん》というのは、強い、怖い、〈深情〉《ふかなさ》けの〈喩〉《たと》えでもあるなら、沙流江の情は今まさに彼女を、恋の余り男を喰らう蛇にした。  こいつは蛇女の演し物、あんなに下手くそだったのに、それがなんで今になってこの〈貌〉《かお》だ、そのものだ、この怖さを舞台で出せれば売れる、とオキカゼは、意識を身体の外にとりあえず都合よく逃避させていたので、沙流江の情痴、〈賞翫〉《しょうがん》していられたのだが。  それも束の間、暫時気を逸らした隙に、沙流江が少年の男根に被せた、秘裂の二枚の〈襞肉〉《ひだにく》が、傷口のように〈爛〉《ただ》れた熱が、オキカゼの意識を身体の輪郭なりに強制的に集中させた。 「うぁつ! お前もしか、アソコに怪我とか……おい、人が心配してんのに……っ」  密着させた、秘裂の熱にオキカゼがたじろいで腰を引かせた弾みに陰茎の角度が僅かに上向く、と、それを狙っていたように沙流江は膣孔で、〈過〉《あやま》たずに捉え。  捉えたとはいえ、入口と鈴口が軽く重なった程度だったのに、ちゅぷ、と入口を押してきた、少年の尖端の円み、沙流江の脳裏に〈精緻〉《せいち》に立体的に投映されて、彼女はその機を逃さずに、臀を落とし込んだ。股ぐらのあわいに男の肉の棒、自ら刺し貫いた。 「ンはぁぁぁああ……っ!」  みちみち響く、肉が割り裂かれる音さえ耳の〈裡〉《うち》に聞いたのに、沙流江の秘壺はいとも〈滑〉《なめ》らかに、一切の引っかかりや傷もなくオキカゼの男を、その膣内に全て収めた。  元々蜜の多い女ではあったけれど、それでもこの〈夥〉《おびただ》しさは常態を逸して、軽く失禁したくらいに濡らしていたのだ。  軽く宛がった時に脳裏に思い浮かべた形と、胎内に収まった圧迫感がぴたりと合致した時の幸福感と言ったら。  沙流江は己が三眼に生まれついた事、呪ったり特別視したりはなかったけれど、この時は自分が女に生まれついた事は大地上中に感謝したい気持ちが溢れだした。  それくらい、女としてオキカゼと交われる事が嬉しくて、気持ちよくて、最高で。 「はぁぁ……あ……あ……これ……」  〈胎〉《はら》の中に埋まった彼が好きで愛おしくてたまらなくて、意識せずとも勝手に秘壺が噛み締める、舌と口蓋で果肉を潰して吸うように締まる、子袋などは、空腹に美味を噛み締めた顎の下のようにきゅうきゅう〈疼〉《うず》いて、下腹の筋までもが引き〈攣〉《つ》れたよう。  髪の中にざわざわ汗が湧きだすのも判る、〈胸郭〉《きょうかく》を満たす吸気はそのまま歓喜の気体に変じた、乳房も何時に増して張り詰め先が尖りきって、重さに耐えきれず握りしめた手の、指先、爪までもがぞわぞわ伸びていくかの錯覚、全身が歓喜している、幸せを力いっぱいに叫んでいる! 「オキカゼだぁ……オキカゼが、いるよ」 「熱くて、硬くって、おっきくて。  うう、オキカゼだね……わたしの中に、  いるよ、ね───」  オキカゼは、心臓が一つ強く強く脈打った時にやっと、自分が沙流江の膣内に呑みこまれている事に気がついた始末で。  繋がっていると覚った少年に、粘膜の、女の〈身〉《み》の〈裡〉《うち》の炎熱が襲いかかり、その隙間無く絡みつく熱さ、陰茎が溶ける、と少年は反射的に身をよじる。  もちろん、逃れられたものでなかった。  少年の微動だけで沙流江は過敏に反応して、逃がさじと股ぐらで彼を床に圧し留めた。  これではどちらが男で女なのか。この短い攻防だけでも少年は女の中で〈舐〉《ねぶ》られ〈嬲〉《なぶ》られ、熱は下半身まで波及した。  ただ熱いだけではなく、快楽で煮溶かした熱であるのが、少年を余計に追い詰める。  下手に動いただけでも、快感の底無し沼に溺れてしまうだろう、と。  この女は、誰だ───? とオキカゼは〈跨〉《またが》る女を半ば呆と見つめる。  飽きた、等とは微塵も思わぬけれど、馴染んだつもりの肌であり、柔肉であり、秘壺であったのに、こんな風に、男と女の本能を違えたように奪ってきて、臀で押し敷く雌など、少年は今まで知らない。  〈怯〉《おび》えさえ交えて見つめる少年と、沙流江はこの時ようやくまともに目を合わせて、そして。  三つの眸に浮かべていた憑かれたようなかぎろいが、ふっと薄れてそしてそして。  快感に崩れて歪んでいた沙流江の〈貌〉《かお》の、そのまた下から現れたのは哀しみの〈貌〉《かお》、氷が溶け流れて顔を出した春草は、陽を浴びたのに霜に害されていた。  満ちて、溢れて、滴り、涙は彼女の頬を伝い優美な顎から〈零〉《こぼ》れて落ちて、オキカゼの胸元に。膣内と同じに熱いのに、こちらは少年の胸の〈裡〉《うち》に氷の冷たさで染みこんだのである。 「お前、なんで、そんな〈貌〉《かお》……」 「判ってる癖に───わたしの心、気持ちなんて判ってるのに、どうしてそういうこと、言うんだろ、オキカゼは」 「怖かった───怖かったんだよぅ!  置いていかれて、あのまま、  ホントにお別れなんじゃないかって!  もう二度と会えないんだって」  沙流江。  出会った時より、オキカゼに添い、それまでは知りもしなかった一座の世界に仲間入り。    沙流江。  少年の、目覚め初めた春機を誰より早く覚って、女の身体というものを教えた。    沙流江。  一座の者達がそれぞれの経緯で三々五々散っていっても、最後まで残り、これからもずっと一緒だと、睦み語りに囁いた女。    沙流江。  オキカゼの、夢の女───  こうして泣かれるのが〈厭〉《いや》だったから、きっぱり彼女を置いていくつもりだったのに、と沙流江と繋がりつつも、涙見せられて〈懊悩〉《おうのう》する彼は、どうしようもなく男で、子供で、二つながらの勝手を、本人は自覚していなくとも女に押しつけていて。 「でも〈厭〉《いや》だった。縛られて、動けなくって、その間。わたしね、胸の中にあったのは、会いたい、離れたくない、そればっかり」  女は彼の夢であったけれど、女にとって夢より恋しい男がある。  それが男の夢ならば、応えたい叶える助けをしたいと願いつつも。  夢の果てに二人が別れ別れになってしまうとしたならば。  だから沙流江は、それはそれは〈煩悶〉《はんもん》したのだ、オキカゼを想って、彼の願いなら従うべきなのでは、と理が囁きかけて、そちらにも傾きかけた、がそれでもやはり最後には。  オキカゼしか残らなかった。 「他のことはなんもなくって、あんたのことばっかだ……わたしの中、あんたしかなかったさ、それなのに───」  涙を尽きず振り〈零〉《こぼ》しながら、沙流江はオキカゼを責める、〈詰〉《なじ》る、〈怨〉《えん》ずる、女の心のままに。一人の男だけを愛した女の心のままに。                ───だってオキカゼ。    ───あんたはね。    ───わたしのまぶ、なんだもの。 「必死で縄解いてね、追いかけて、見つけてみれば死にかかって───馬鹿ぁ!」 「ど、怒鳴るなよ、こんな間近で」 「そう、こんなに近いよね。近くって、繋がってるよね。こんなに近くにいる、わたしの中にもいるよ、オキカゼなんだ───そう思ったら」 「もう、もう───訳がわかんないほど、嬉しくって、幸せで、なのにどうしようもないくらい哀しくて」 「会って、捕まえて、  ひっぱたいてやろうって思ったのに。  噛みついてやろうっても思ったよ。  なのにできなかった───」 「火傷と煙で、死ぬんじゃないかって心配で、わたしの方が死にそうだったんだ。息を吹き返した時ね、思ったのはこれだけ」 「あんたとまた、抱き合える。これが、できるんだって───おっぱいで〈扱〉《しご》いてた時も、ずっと我慢してさ」 「それがこうやって奥まで突っこんで、  それだけでイっちゃって、  なんなんだろ、こんな気持ちいいのに、  ───哀しくって、涙───うああ!」  今はこんなにも、オキカゼが自分の中にいるのに。  もう感じられなくなるところだった。  すんでのところで彼を〈喪〉《うしな》いかけた、という実感が、胎内の充足感と等分に、沙流江を打ちのめしたのである。  女の身体は、こうして男と繋がるために出来ていて、それが何よりの歓びだ。  だというのに女の身体からは、男達は何時しか離れていってしまう。  交わる〈愉悦〉《ゆえつ》を知った者には、埋めがたい空虚を残して。  沙流江は、今もう我慢できなかった。  そんな哀しさ、腹に呑みこむなんてご免だった。  〈胎〉《はら》に収めたいのは愛しい男、だけ。  今はただただ、自分が望む限り、彼と繋がっていたい。  彼が何を説こうとも、もう理屈など沙流江の子宮の前には通用したものか。 「───悪かった。でもな、俺にも考えが」 「聞かない、そんなの言わせない!  オキカゼなんて───  こう、だよぉ───」  喉が〈飢〉《かつ》えるほどの性欲に苛まれるのは男だけではない。むしろ女の方が深刻な場合がある。  その飢えが命ずるままに、沙流江は涙を払い、再び猛然と少年を食らい始める───  淫核を擦りつけるように、少年の〈鼠蹊〉《そけい》に股ぐらを密着させたまま、臀を前後させて陰茎を、頬張る沙流江の膣内が。  少年がかつて味わったことのない程の、異常なまでの蠢きを始めた。  彼女の引き締まった足腰、腹筋が産み出すしなやかな締めつけは当然ある。  それに加えて、膣内の各処が、てんでばらばらに蠢きだし、肉茎の中ほどでは波打って、尖端は雁首周りで輪となって絞り、根元には上下から、そして左右からの〈圧搾〉《あっさく》が不意打ちに交互に襲いかかり─── 「おま……これ、〈膣内〉《なか》、なんだこれ、  こんなの今まで」  馴染んで、知り尽くしたつもりの肉体が、それまでの極みを上回る快絶を少年に叩きこんできたとあっては。  沙流江の剣幕に圧し負けて、とりあえずは彼女に身を任せていようとしたオキカゼに泡を食わせた。  色は知ったつもりだった、なのに女の身体というのはこれほどのものだったのか、とオキカゼの背筋に粟粒が立ち、それも快楽の戦慄によって塗り替えられる。 「ふ……ふふ……っ。今日は。そんだけわたしが、本気なんだって。あんたのためなら、ホントならできないことだって、やってみせるって」 「教えてあげようね、オキカゼ───  ん、ん……んぅぅ───」 「待、まって、今のも、今のだけでも俺」 「出しそうになったねえ……いいんだよ、好きに出して……ほぉら……っ」  膣の中を複雑にぞよめかせながら、沙流江は密着させた動き、大きく、腰まで〈遣〉《つか》いだしたとあっては。  それも股の関節が抜け落ちたかの、柔軟自在の腰〈遣〉《づか》い、乳房の尖端が運転台の宙に呪紋じみた複雑な軌跡を描き出す。 「あはぁ! びくびくしてる、オキカゼの。  わたしの中で、跳ねて───んっ、はぁ!」 「ン……はぅ…………、  ふぅ〜〜っっ、んーーーっっ」 「だから、まんこ、そんなに締める、なっ」  これまでの日々、沙流江との情交で、それなりに女の肉を〈愉〉《たの》しめる余裕を身に着けていたと思った、思い上がりだと思い知らされて、少年は自分の意志を離れて高められていく射精欲求を、どう〈堪〉《こら》えたらいいのか判らない。  呼吸乱しただけでも持っていかれそう。 「いいよぅ……きもちいいよぅ……なんで、こんな───っ」 「あはぁ……ごりごり───きて、るぅ、  オキカゼの先っぽで、  おまんこのおく……けずれ……、  くふ、くぁぁっっっ」 「あ……あ……また!  しゃ、るーえ、わかったから、  ちょっとだけ休んで───」 「だぁ、め……っ。いいよ……凄いよ……。  わたしも、もっとするぅ……、  んぅぅく……っ」 「シャルっ、あ───は!  くあ、だ、駄目───」  オキカゼ、沙流江の責めから逃れようと、腰を辛うじて逸らした、ら、激しい〈抽送〉《ちゅうそう》に少年の陰茎が抜けてしまい、その際の入口辺りの締まりが、引き締めていた堰を破った。  オキカゼにとっては長くて切なくて心地好すぎる一時は、実際には数分にも満たない間隔で、朝に、そして最前乳房で漏らしてしまっていたのに、信じられなくもあったししょうがない、とふて腐れたようにも思う。  それぐらいの今の沙流江の身体は強烈に過ぎた。 「ふあ……? あー……でちゃった、ねぇ」 「お腹、ばしゃって熱いの……これも、気持ちいい……」  びしゃびしゃと彼女の小麦色の腹にぶちまけられた精の、立て続けなのに粘りつくほどの濃さと多さが、オキカゼには自分のだらしなさを示しているように感じられてならず、ついつい口調に〈拗〉《す》ねる色が混じる。 「お前が妙な技まで〈遣〉《つか》うから……くそ、今日何度目なんだこれ……」 「……何度だっていいじゃない」 「え……ちょっと待って沙流江。  お前まさか、まだ───」  さすがにオキカゼのモノは〈萎〉《な》えかかっていたものの、まだ硬さの名残を残しているそれを、沙流江は腰を使って秘裂になすりつける。 「あはぁ……オキカゼが出したので、ぬるぬる、わたしの汁でも、ぐちゅぐちゅ……」 「無理……もう無理……朝にも二発ヤッてんだぞ……」  射精直後の、急速に意欲減じる男性生理からではなく、オキカゼはもう真実限界だと思いこんでいた。まだ陰茎が生硬いのも、〈嬲〉《なぶ》られすぎて弾性を〈喪〉《うしな》い、緩むにも間が開くから、それだけだと、沙流江に〈哀訴〉《あいそ》したのに。               沙流江だって。       オキカゼに別れ言い渡された時。         どれだけ哀願したか知らん。 「そお……?  ホントに、そうかな……だって」 「ふぅ!」  また、指で導きさえもせず。  思えば二度目、コツを掴んでいたのか。  オキカゼが吐き出した精と、沙流江の蜜のぬめりの中に陰茎が漬かったと感じた時には、また。  膣の中に吸いこまれていた。  なのに緩いどころか〈疼痛〉《とうつう》が根元に走るほどきつい。精を〈胎〉《はら》の外に逃したのを悔しがるように、きつい。 「ん……っ!?」 「ほらあ、にゅるんて……捕まえた……よぅ」 「すぐに、できるようにしたげる……。  ふぅぅ……はぁぁ……」 「う……なんで、なんで俺の、こんなに」  そして捉えられてしまえば、あの絶妙の膣内の蠢きでオキカゼのモノは彼の意志を無視して剛直にと育て上げられていくばかり。  先ほどにも増して、腰〈遣〉《づか》いと膣のあしらいは執拗で、粘っこく、今度こそ膣内で種を絞り出す一心の、怖いほどの。 「それはね、オキカゼが男で、  わたしが女だから。  男は、女の腹ん中に仕込む生き物だしぃ」 「わたしも、まだ中にもらってないもの」 「ね、今度はちゃんとなかに───」  沙流江が、笑う、〈妖艶〉《ようえん》に、笑う。  乳房を揉みしだき、汗に濡れる髪を掻きあげながら、淫らに、妖しく、たとえ三眼の奇態であったとしても全ての男を魅了する笑み、はただ一人のオキカゼだけに向けられている。 「んふ……ふぅぅ……あぁ……」 「はう……ふぅ、あっ、あん!」 「沙流江、なんか、先っぽが、いつもより、吸いついて……っ」 「ん、んぅ……わたしもわかるよう。  赤んぼつくるところ、降りてきて、るぅ。  オキカゼの子種が欲しい、て、せがんで」  普段だって沙流江は、感じて昂ぶると膣の奥で子宮口で〈啄〉《ついば》んでくる。何度も何度も、おねだりに。  この時は一度吸いついて。それきり。  尖端から離れなくなって。  膣なのに、口で吸い出されるような未知の刺激が、そしてこちらは口とは違い、息〈遣〉《づか》いで吸引が弱まることもない。  だからオキカゼ、吸われ、吸われ続けて、吸い上げられて、陰嚢の中に辛うじて残っていた精までもが沙流江に、吸わ、れ、て漏らしてしまいかける少年に。 「……もしかしたらさ、今日、孕んじゃうかもねぇ……ふふっ」  これまでは少年と沙流江の果が〈胚胎〉《はいたい》する事はなく、オキカゼも不用心ながら避妊具無しの性交に流されてきた。 「お前、まさか、本気で」 「そうなら、どうするの───?」 「…………っ」  けれど今日は違う、沙流江の気配が違う、身体の中が違う、これまでは無かったことが、充分起こりうる。  その予感がオキカゼをどうにか瀬戸際で踏みとどまらせた。 「わかんないか。オキカゼ、わたしよりすごく大人な時があっても、すごく餓鬼なところ、あるもんねぇ」 「でもいいんだ、それでも。そんなあんただから好きなんだ……」  正直オキカゼは、もっと大人の男になりたいと願う時もあれば、自分はまずまずいっぱしの〈渡世〉《とせい》と自認することもあり、その狭間を揺れ動いて、いつしか自分の位置を定める事が〈億劫〉《おっくう》になってきていた。  そんな内的省察よりも、彼には追い続けなければならない夢があったのだし。  もっと下世話に話をすれば、沙流江という女を抱くことで、まずは一皮剥けているはず、等と秘かに思っている。  だがそんな自負など、今沙流江本人によって一口に食われて丸呑みにされた。  すれば、残ったのは年相応に少年の、感性と感覚が剥き出しになったオキカゼであり。 「だからオキカゼ───  ちょうだい───?」 「あんたの子種……わたしに。  たっぷり、たくさん、種───つけて?」 「今更、こんなコト言うのもなんだが、  まずいだろ、それ……」  〈悪擦〉《わるず》れと〈世故慣〉《せこな》れの鎧取り払われて青臭い少年は、年上の女を孕ませてしまう事への〈畏〉《おそ》れ、隠しようもなく。 「あは……っ、〈貌〉《かお》では、そんなだけど、ぉ、  きたぁ……わたしのおくで……みりって、  ……ふくらんで……おくぅ……」  だと言うのに、女はそれを求めて、子を為す器官の入口を、種を植える肉の棒の先端に宛がって外さず、〈内腿〉《うちもも》をすぼめ、引き絞りしてその為だけに全神経を集中させる。 「いっぱい……たくさん……好きなだけ……」 「……あ、あ、ひぃ……ん」 「わたしのおまんこで、  気持ちよくなって……。  種つけ……あふ、あ、あ、あ」 「来る……わたしも、すごいのクる……っ」 「来そう、あ、あ〜〜、っんぅ!  んふぅぅ───っ」 「あぁは……、あは、いい、いい、  ずんずんされるのいい、  ちんぽ、響いて、頭が……はぁぁ……」  オキカゼが絶頂を求めて突きあげているのではない、沙流江が臀を打ちつけ、淫らで美しい肉の全てで子種を強奪しようとしている。少年への愛しさ故に。 「沙流江、俺、ホントにもう───」  この淫らな美獣相手にここまで保ったのは、オキカゼが既に今日数度も放っていたからだが、そんな消極的な拒絶など容易く打ち崩す、沙流江の絶頂の、熱で、粘膜で、匂いで、眼差しで、少年を貪り尽くした。 「まっしろ───に───」 「オキカゼ───大好き───いちばん」 「あっ」 「あ、あ、あ、あーーーーーっっ」 「すごいぃぃ、きて……熱い……」 「溶けそ……ぅ」  絶頂は、同時に。  〈搾〉《しぼ》り取る女は、ただひたすらの悦びと幸せで胎内の脈動と粘つく無定形の塊を味わい尽くし。  そしてオキカゼは、底無しの孔に落ちるような不安と、もう〈真個〉《ほんとう》に最後と観念した生殖機能が、自暴自棄に精を送り出す快楽の〈綯〉《な》い〈交〉《ま》ぜに頭の中が千々に乱れていた。  この不安な感触は、沙流江で初めての情交を体験した時の、あれと同じ、だと思い出す。  女の膣内に放つのは、それは得も言われず心地好かったけれど、全て絞り出しても精の行き先が見えないのが少年に形容しがたい不安をもたらした。  自慰と異なって、胎内に収まったままでは、精汁がどうなっているのか判らない。射精の快絶は確かにあったのに、精だけが闇の中に消えてしまったような。  なのに、この行為は、子を作るものなのだと、女を孕ませてしまうことなのだと、それがオキカゼにはどうしても不可解だった。  引き抜いた時、溢れだしてきた精の戻りで、ようやく奇妙な実感を得たけれど。 「あぁあ……あ……あ……はぁ……」  忘我の極みに漂っている、沙流江の胎内であの時と同じ事が起こっている。  あの時よりはっきり強く求める心で、沙流江は少年の精を膣内に呑み干していっている。 「かひゅー……ひゅぅ……はぁあ」  あまりの快感に、息を細く、絶命するひとのように切らしながら。  沙流江の全身は、一番欲しいものを手に入れた安心感に、ぐったり弛緩して、ただ肉の壺だけが別の生き物のように、盛んに運動していた。頬が膨らむまで口に含み、喉がつれるくらい思い切り飲み下す。  そういう動きで、膣内はまだゆっくりと緩慢ながら、しかし着実に、そして〈強〉《したた》かに、オキカゼの陰茎が痛むくらいに〈襞〉《ひだ》で締めつけ、茎の中の精液を絞り上げ、次の瞬間に、挿入しているのかどうか頼りないくらいに〈茫漠〉《ぼうばく》と緩み、それで〈圧搾〉《あっさく》から解放された尿道は、またとぷりと精を溢れさす。 「……なんだってこんなに、馬鹿みたいに出したんだ、おれ」  絞られて〈扱〉《しご》き出され、緩められて溢れるようにされ、少年がようやく我に返ったのは、何度も何度も脈打って、射精の脈動も終わりを迎えた頃だった。  今日一日で何度も放精を重ねているのに、少年自身が〈愕然〉《がくぜん》となるくらい大量に噴き〈零〉《こぼ》してしまっていて。  沙流江の満腔の吐息は、ただ〈香〉《かぐわ》しく胸を優しく撫でていった。  少年の子種を存分に吸い上げて、やっと沙流江の眸にも普段の優しさが戻った。二人の体液でどろどろになったオキカゼのモノを、口と舌で浄める甲斐甲斐しさなどは、何時も通りの尽くす心根に根差している。 「……ん……きれいに、させて……」 「あんまり強くは、舐めるなよ……」 「あい……れ、ちゅ……ぺろ……ん……」 (あ……赤くなって、少し〈腫〉《は》れて……。  ごめんよ、オキカゼ。  でもわたし、それくらい───あんたに)  荒淫に赤くなった陰茎に、今になって済まない、とは思いつつも、腹に受けた子種がどうなるかをぼんやり想う。  今まで通りのオキカゼと自分の二人だけであろうとも、間に果実、結ばれようとも、沙流江は実のところ、どちらでも構わなかったのだ。  自分が、全身全霊を籠めて捧げて、オキカゼに本気であるかを伝えられればそれでよかったし、忘れようとても叶わないくらい、刻みこんでやったと確信している。  それでも沙流江は、やはり、三眼の女は。  オキカゼの方から、認めてもらいたかった。 (わたしを、あんたのおんなに、  してほしいんだよ……)  結局のところ、最後まで突きつめてもそれしかない沙流江は、幸か不幸なのか。  決まっている。  そんなのは、彼女の心の置きどころが決めるのだから、他人がどう詮議しようと揺らぐことはないのであった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  情事の後で───  まだ色々と不明な点はある。  たとえ沙流江の呼びかけがあったとしても、何故移動舞台があのような働きを見せたのか。二人も高架族と同じくきちがいガスを浴びているはずなのに、何故その影響がないのか。  とにもかくにも、とりあえず二人と移動舞台はまたこうして揃った、ペアーだけならブラフくらいにしか役立たないが、スリーカードともなればどうにか役としては体裁がつく。  ……まあこの三者の凹凸を見るに、〈骨牌〉《トランプ》というより花札、猪鹿蝶辺りが適当だが。 「……そりゃあよ……俺だってホントはさ、ナニは嫌いじゃなくって、好きだよ、ああ。けどもな、限界ってやつが……」  運転台に溜まった青臭い匂いは、開け放しの窓から流れこむ超巨大車輌内密林の草いきれ、だけならここまで塩垂れた気分にはならないのに、とぶつくさ垂れるオキカゼの、乗馬ズボンを履くにも腰がふらつく様子で、沙流江、手を添え〈助〉《す》けはするけど、三つの眸にしんねり底光りを〈溜〉《た》めたまま、無言、むっつり。 「ま、なんだ……とにかく高架の上に戻らねえと、なんだよ」  まだまだ心根には爆発した思いの〈余燼〉《よじん》あったけれど、肌に色濃く少年の雄の匂い残してもらって、というか彼女自ら〈搾〉《しぼ》り取って、沙流江はいくらかは落ち着いた、オキカゼの方針を聞き分けて、〈頷〉《うなず》いたものの───  大高架ホーム、駅で一番の高処に戻るというて、今度はどんな札を切ればいいのやら。ここには流石に軌道は通じていない。ちょっとやそっとの手品、〈如何様〉《イカサマ》では通じない。  言い出しっぺのオキカゼさえ手を〈拱〉《こまね》くのに、沙の字に妙手などあろう筈もなく、少年は懐中の蓋を弾いて時刻を改めそわそわ、当てもなく始まった移動舞台の暴走なのに、何の時間を気にした仕草、訝しくオキカゼの手元を覗きこもうとした時覗きこまれた。  窓の向こうから。 「あのー……」 「うわてめえ等、もう目ぇ覚ましやがったか。なんだ、まだやるか」  口では強がって、身はぎくりと引かせた少年の、手をはっしと沙流江が掴んだのは、押さえる、というより油断してまた離れ離れにされては敵わないとの虞心の現れで。  さて、覗きこんでいたのは、意識を取り戻した高架族達であって、二人、すわ事、身構えるも、不思議や、不思議。彼らの眼差しに宿っていた狂気のかぎろいは失せ、極めて明晰な光が湛えられてある。 「構う事なんてないよ、こんな奴らに。あんたら、まだわたしらに手を出すつもりなら。もう一吹き、ガスを喰らってみようか……?」  正直に裏を吐けば、脅しておいて沙流江自身、どのような作用が働いて移動舞台が感応したのか把握してきれておらず、同じ〈業前〉《わざまえ》振るえと頼られても、やりおおせる自信はなかったのだ。  それでも張らねばならない意地というのがある。 「いいえ、もう充分です。  なんと申し上げたらいいかその───  申し訳ありませんっでしたぁぁぁん!」  まだ引け腰の、二人が窓から覗けば移動舞台の鼻面を要に散った扇形、高架族達が額を地に擦りつけた姿、一同、揃って土下座、大土下座。  で彼らが言うには、だ。 「いやはや、我々は長期間閉鎖状況に隔離されて、どうやら精神の平衡を欠いておったようです。そこへあの〈瓦斯〉《ガス》の噴霧だ。あの〈瓦斯〉《ガス》の神経を狂わせる作用が、元々狂っておった我々には逆に働いたようですな。マイナスにマイナスをかけるとプラスになるように」 「あー、キチガイがまたもう一回ひっくり返って正気に戻ったって訳か。どうにもめでてぇこった」 「そんなところで。だいたい気が狂ってなかったら、我々があなた方に危害を加えるはずないじゃないですかあっはっは」 「オキカゼ、こいつら、一人残らず磔にして、  〈火炙〉《ひあぶ》りにしてやろうよ。  何を今更白々しい───」 「や、本当に、真面目にそうなんですって。我々は本来、アストロノーツ要員と生体マンマシンインターフェースのサポート要員なんですから」 「こいつら、今度は呪術方程式みたいなコト言ってて、やっぱり訳がわからない……ん? あれ? でもなんか? あれぇ?」  高架族の言葉に、〈識閾〉《しきいき》下でなにか呼び覚まされる感覚があったのか、首を〈捻〉《ひね》る沙流江と、その一方彼女の様子に、ようやく〈腑〉《ふ》に落ちたような顔をするオキカゼと。  ───かつて。いつか。遠い遠い過去。  曇って汚れた硝子の窓は外の景色を不明にし、世代の隔たりはそれ以上に過去の正確な姿を覆い隠してしまう。  或いは故意にその時代を隠蔽した意志と勢力があったのか───  現在でも既知文明世界の人々は、黎明期程の活力は減じさせたけれど、それでも未踏破地域へ挑戦する者はあって、細々ながらも版図を広げ続け、時には全く未知の異文明と接触する事さえある。  しかし人々の拡大は、言ってしまえば大地上を平面的に、である。  けれど駅の奥深くに秘された遺物の幾つかは、過去の人々の進出が、大地上を超えていた事を暗示してはいないか。  たとえばそれは。  キヲスク砦の深部でオキカゼ達が遭遇した、あの〈縦坑〉《シャフト》内の慣性制御機構であったり。  たとえばそれは、河の下の〈奥処〉《おくが》で移動舞台の面々が見出した、廃棄され、〈毀損〉《きそん》された乗機の群れであったり。  過去の遺物だけではない。あの不思議な、銀と闇色の、案内役の少女の、〈古〉《いにしえ》を追想する呟きにも、また。この大地上の片隅には、駅の案内役の少女娼婦のように、そして本来の正気を取り戻した高架族のように、それら記憶の〈残滓〉《ざんし》を宿している者が残っているのかも知れない。  では、高架族が支援するという存在とは一体?  ───かつて。いつか。遠い遠い過去。  あの格納庫に残骸を晒す機体が、まだ生き生きと駆け巡っていた頃。それらの機体を駆る人々は、その駆ける空間、世界に相応しく調整、能力強化されていなかったと、誰に言えよう。あれほどの機構を造り上げていた人々が、それだけの事をやってのけなかったと、誰に言えよう。  それら調整人種の血統が、切れ切れの〈余喘〉《よぜん》、しかし蜘蛛の糸のように細いながらも強靱に、この大地上の端々で保っていたとしたならば。  誰に知れよう。今、本来の職能に覚醒した高架族によって、超巨大列車内の昇降室で〈天蓋〉《てんがい》上と戻っていく、移動舞台のオキカゼ少年も、三眼の沙流江も、知りはしない、知識として伝える者もいない。  けれど。オキカゼは移動舞台のこれまでの暴走の間、目の当たりにしてきた偉容にもどこか理解を示していたし、沙流江の呼びかけに移動舞台は確かに応じて〈瓦斯〉《ガス》を噴霧させた。  なにより、通常の人体なら、確実に神経、精神を狂気で犯される〈瓦斯〉《ガス》の余波を浴びておきながら二人が、その影響一切受けていないという事実が指し示す真相、とは、如何に。  高架族の協力で、再び高架線上に運び出された移動舞台。高架族は子細は訊ねなかったのに、彼らは沙流江も未だ知らないオキカゼの意図を承知している節があった。  もう黄昏時で、辺りは夕闇が立ち籠め始めた時間帯。夕暮れの中、二人が乗りこんだ移動舞台は、また動き出しつつあって、その暴走にはまだ先があるらしい。  それでもここまで来てオキカゼだけではなく、沙流江もまた、その道程にも終わりが近づいてきたことを感じ取ってあった。そんな二人の間にはどうしても微妙な空気が垂れこめて、気まずい。  主にオキカゼが。  一度は置き去りにしようとした女に助けられたのみならず、彼としては沙流江をどうしても移動舞台から離しておかなくてはならないわけがあった。  オキカゼが今まで秘め置いて、沙流江にさえ漏らしていなかった景色がある。心の隔壁の幾重も張られた奥の奥に、確かな心象として結ばれていたのである。それ故に少年は彼女を、移動舞台の暴走の最後まで付き合わせるわけには、いかなかった。  〈暁闇〉《ぎょうあん》に高空を斬り裂き飛翔する隼は孤独、大海の彼方で水面を割って〈尾立〉《おだ》つ白鯨の孤高、移動舞台の暴走の果てに、同等か、もっと深く苛烈な独りになるのだと、少年の心象は厳然と定めていたから。それは〈抗〉《あらが》う術もなく到来する現実なのだと告げていたから。  独り。ならば少年が見つけ出した、彼の夢の女はどこに?  預言の石盤は限られた言葉で未来を語り、枝葉末節を常套に省く。  沙流江の先行きまでは少年の予感も教えず、だとしたならば。  彼の夢の女、沙流江を〈傍〉《かたわ》らに置き続けては、彼女にどういう破滅が訪れるか知れたものではないと恐れた、だからこそ。  オキカゼは沙流江を自ら遠ざけて、彼の地上の夢、三眼の麗女をスターダムに押し上げてやる事を実現しようと試みた、故に彼女がいつまでも移動舞台にあっては諸々歯車食い違う、都合が悪い。  と居住まい正して、運転台の中改めて沙流江と対峙する。  ……その信念には単純な論理のねじれが介在し、預言者というのにありがちな〈視野狭窄〉《しやきょうさく》が割りこんでいる事、オキカゼ自身微妙に失念しているのだけれども。  どうにか言いくるめないと、と心得たかぎり、手持ちの詐術口車を総ざらい駆使するつもりで開きかけた、唇を沙流江の口づけで塞がれた。強引に。 「むぅ! むーむむむ(沙流江、止めろよせ、そんな事してる場合じゃない)」 「んー、んーっ、んーっ、んーーっ、ぷは」 「知らない、聞かない、もうオキカゼの言うことだっても、離れろ切れろの言葉は絶対聞かない!」  情熱的、を通り越して暴力的ですらある口づけに押し負けて〈翻弄〉《ほんろう》されるオキカゼの、その耳がある音声を捉えた。  車外を見ようとしても沙流江が離れないので、ずるずるなりに引きずって窓の側に。 「むーむむ、むむぅ〜っ(離せ沙流江、その話はいったん追いといてだ、いま何かヤバゲな人声が)」 「んちゅう……んぅぅ……れるぅ……っ、  はふ」 「やだ、やだ、もう離れない、  オキカゼとずっと一緒なんだ、  そう決めた、絶対に曲げない」 「んちゅう……んぅぅ……れるぅ……っ、  ぷは」 「そんなにわたしを置いていきたいんなら、もうこの舌べろ、噛みちぎっちゃって殺してよう! わたしはあんたになら、そうされたっていい!」  舌先から産まれて口先八寸で浮き世に〈憚〉《はばか》り〈渡世〉《とせい》のインチキ少年と、額に三つ目の異相で奇異の眼差し浴びながら、女の情を愚直にも育んできた三眼女の、風変わりな取り合わせながら、これは深刻で真剣な愁嘆場。  そう極めてリアルにシリアスに、心根の底から当人達はお互いの感情を火花散らして叩きつけあった。  がいささかの食い違いが、深刻劇を喜劇に転化せしめていたという。  いやなんとも、考えてみれば喜劇の上出来不出来というのは、役者がいかに真剣に深刻に演じられるかで決定される、とはいえ。  少年が気に病むのは、車外より遠く、けれど確実に響き来たる重厚な音声の源。女が一途に思うのは、ただ少年との共に在る生を望むそれだけ。  これでは沙流江の、少年の不実を〈嗟嘆〉《さたん》する口づけが二重三重の意味で深くなったとしても無理はあるまい。 「だから───あ! ふあああっ!?」  業煮やしてオキカゼは、沙流江の乳房と臀を鷲掴みにして力任せの〈捏〉《こ》ね回し、その乱暴さ加減は女に苦痛を焼き〈鏝〉《ごて》と〈捺〉《さ》し、故に沙流江にとっては甘美な快感と化して身悶えさせた、隙に唇をもぎ離して見やるが外、移動舞台の進路上。 「正気か───俺は。やっぱりきちがいガスにやられてたりとかじゃねえのか、これ」 「嘘……なにあれ。列車まるごと使った、馬鹿みたいにでかい……大砲?」 「ルーエも見てるってことは、本物かよ。いいや判ってたよ、でも信じたくなかった」  そこには。まだ遙か先ではあったけれど。にもかかわらず、圧倒的な重量と威力が伝わってくるほどのシルエットが、移動舞台と同じ大高架軌道上に。  あれは、なに。あれは、なんだ。  深く黒い、圧倒的に巨大、移動舞台が腹に呑んだ爆弾と同質でいて、そんな物など芥子粒に感じさせる程、無慈悲極めた末の重厚美さえ〈纏〉《まと》ったあれは───なんだというのだ!  それは───  巨大な砲身と、それを支える機構と車輌。  それは、八〇サンチ砲。  それは、列車砲。  列車砲の拡声器からの声が、遠間からでも距離を圧して轟き渡る。 『ようやく見つけたぞ、このテロリストども。もう最後だ。もう逃げられないからな。そしてもういかなる抗弁だろうと問答無用。この大口のマルガレーテが、貴様等を微塵に打ち砕く!』  公安官だった。移動舞台を再三取り逃がして公安上層部から出頭命令受けたはずの公安官なのに、どういう〈紆余曲折〉《うよきょくせつ》あったのか、ここに来て遂にあんな超重兵器まで持ち出してきたのだった。  それは駅がかつて戦火に晒された時にある勢力から持ちこまれ、終戦のどさくさに紛れてそのまま駅工廠の奥深くに隠蔽されていた自走式八〇サンチ砲台、列車砲。  秘匿名は『大口のマルガレーテ』という。  本来ならその運用には莫大な予算と数週間もの準備期間と千人単位の人員が不可欠とされる巨砲なのにもかかわらず、公安官がこの超重兵器を駅の軌道上に進撃させるまでの時間は精々が数時間。かてて加えて稼動させている兵達はと内部を透かし見れば、兵どころか不慣れな手つきの例の平駅員さん達、それも中隊規模にも満たない員数で。  となれば恐らくこの、過去の戦争の悪霊じみた兵器にも、きっと。  今は大地上から〈喪〉《うしな》われ、あるいは封印された技術が用いられ、その機構は現代の既知文明世界の水準を遙かに越えているのに相違なく。  まこともって、公安官の狂気恐るべしと驚愕するべきなのか。否、これは公安官の妄念のみによって為しえた業とは考えられず、異なる意志が介在しているのだろう……。  いずれにしても移動舞台の二人にとって、悪夢が殻をぶち砕いて現実内に〈顕現〉《けんげん》したとしか思えず。  世界の昼夜の運行を操る歯車さえ回しそうな推進力孕んだ、列車砲の機構が噴き上げる轟音の中、操縦区画に通ずる排気管の一つから、〈幽〉《かす》かながらも機械音と異質で健気な声が漏れ出してきてある。  目を内視鏡にして排気管を逆に辿れば、一つの良心の懸命の反抗の図が判明する、苦境にもめげずの。  〈鋼〉《くろがね》の、〈梁材〉《ビーム》と隔壁と回路と〈鋲〉《リベット》と導管が、奇怪なまで複雑に集積された操縦区画の中、平駅員の一人が偉大なる挑戦に必死だった。だが偉大ではあっても、巨堰に空いた百もの漏水孔を二つの手だけで塞ごうするに等しい、哀しく虚しい苦闘だった。  公安官を止めようとするのは、そういった行為だった。 「一体なに考えてるんですかあんた、こんな化け物まで持ち出して! こんなものぶっ放した日には、あの移動舞台はおろか、着弾地点一帯がクレーター化しちゃいますよ!?」 「だいたい、内務局から通達下ったらしいじゃないですか。移動舞台に乗っている女性って、〈宮露〉《ゴンルー》省皇家の第三皇女であらせられ、手出し無用って───外交問題どころか戦争になりますよまた!」  ……アージェントがオキカゼの依頼の当局への通報、律儀にこなしていたのが予想外の実を結んでいた。  曰く沙流江は遠く離れた有力国の皇族さま、神聖血統の彼女を毛の先程でも侵そうものなら、国際問題に発展するとか言うとんでもない〈尾鰭〉《おひれ》が付いていたりいなかったりの、いずれにしてもそんな事実はない、そうどこにも。  内心で〈厭〉《いや》だ厭だと蹴りつけにしていたアージェントが、故に適当放題を列挙したのが効いたらしく、この点オキカゼなど、詐術虚構は途方もないもの程効力を発揮する、というこの好例によほど学ぶべきだろうて。 「そんなド辺境の田舎皇族の話など、私が知った事か。内務局がどうのというなら、私だって公安から白紙委任状を受けているんだ、この件に関しての全権を!」 「公安局のトップはなに考えてるの!? あなたみたいな人にそんな……っ」 「公安を舐めるなよ小僧。私の人物査定などとっくについているだろう。その上で私に全権を預けたという事は、何がなんでもあの車輌をこの駅から排除せよ、という事なんだ」 「内務とのごたごたなぞ知ったことか。私は公安だ。ならば公安の決定に従うまで」 「けれど、だとしても、周辺住民の退避誘導をせめて───」 「まだ言うかあああっ!」  制止していた平駅員は、公安官によって別室に連れこまれ、長い悲鳴をぶちまけてそれきり何も聞こえなくなり、 『ひき!? ……ぃぃぃぃーーーっっ……!!』  公安官だけが出てきたときのその顔を見て全員恐怖に失禁しかけ、それ以降逆らう者はいなくなった。  本体は超巨大車輌であり、内部は中空の、大高架の線路を陥没させていない事に、文句を付けてやりたいくらいの鋼の巨塊、着実に迫り来たって、まだ距離を置いてあるとはいえ、砲口の中に湛えられた黒は、視界の中で微小ながらも正気が流出していきそうな空間の孔、移動舞台に擬せられたる。  運転台でオキカゼにひたりと寄り添って、凝視する沙流江の口元が笑いともなんともつかぬ形に痙攣していたのもむべなるかな。 「……あは、は……。笑えっちまうくらいの大事になってるじゃないか。こんなにしてまでわたしらの舞台、ぶっ壊したいなんて。よほど目障りなんだねえ」 「どういう腹づもりなのか、までは知らねえが、よほど〈移動舞台〉《こいつ》を〈翔〉《と》ばせたくないらしい」 「〈翔〉《と》ばす───ああやっぱり、このコは、そうなんだ」 「けれどオキカゼ、これは、いろいろ覚悟を決めるっきゃない、そういう流れだよ」 「覚悟? それは〈俺〉《おい》らの台詞だな、沙流江。お前、ここまで来たら、もう逃げ場なんぞないぜ。ぐずぐずしてっからこうなる───」 「およしよ、オキカゼ。それこそ今更だ。  だいたいあんた───  まだ全然諦めちゃあいないじゃない。  ここ一番の〈鬼札〉《ジョーカー》を狙ってる、  そんな顔をしちゃってさ」  列車砲が撃砲したならば、移動舞台はおろか高架軌道自体が半壊するほどの壊滅的な被害をもたらすだろう。今からではたとえ高架軌道の枝線に進路をずらしたとしても、列車砲の威力範囲から逃れられるものではない。  だというのに、移動舞台にて目も逸らしもせず対峙する二人には、風に立つ獅子の気高さが降臨し、〈充〉《み》つる。  そこへ。  キヲスク砦で運びこまれてから忘れられていた通信装置が、唐突にどこからかの電波を受信した。 『こちら移動式マスドライバー管制室。こちら移動式マスドライバー管制室。3S級航宙艇……ああっと、今は移動舞台って呼ばれてるのか? 移動舞台、応答願います』  高架族の声だった。顔を見合わせる二人を余所に、通信は続く。 『こちらの管制システムもようやく復帰しました。アストロノーツと生体マンマシンインターフェースの生体反応紋も確認。ただ3S級航宙艇とのリンクが不完全ですので、こちらで誘導力線の照射並びに誘導ロケットの発射を行います。以降はそれに従って下さい』 「ええと。ちょっとやっぱり何言ってんだかビタイチわかんないんだけど」 『え? だってあなた方、星間航行を敢行するんでしょう? その為にこの宇宙港を訪れたんじゃないんですか? どのような航宙計画を立てているのかは存じませんが、その辺りは軌道上の連中と勘案して下さい』 『それではこれよりマスドライバー近辺住民の避難誘導と、次いで当方の形態の移行を敢行しますので、あなたがたはそれに備えて下さい』  果たして、その『マスドライバー』なる単語は二人とも初耳であったのに、聞いた途端に、圧縮されていた綿が膨らむように意味が解け、映像が結ばれた。  物体を遙か遙か遠くへと射出する機構である事、その長大な形状が。  通信が途絶すると同時に、現在の大高架路線として認識されるより遠い過去において、移動式マスドライバーと呼称されていた機構全体から、サイレン音が鳴り渡り、周辺の積層建築全体と居合わせた全ての生物に浸透した。それはこれより『発射』敢行する旨の警報と、その準備と伴う余波の被害から、付近の者達の速やかな避難を呼びかけるもの。  サイレンは言語化された警報ではなく、ただ鳴音のみで、付近の人々は誰もその意味がわからず首を〈捻〉《ひね》っていたのも束の間。  音に聴覚を刺激されるとすぐさま、脳内に情報が展開されて、それ人種、生物種問わず、間にいかなる〈遮蔽〉《しゃへい》があったとしても意味がなく、それまでの行動を全て中断する、それが全てに優先された。  人々が積層建築から、地下から流れ出し、鳥は一斉に飛び立ち獣は地を蹴る、サイレンに含まれていた高度に特殊化された波長が及ぼす効果の、劇的で確実ではあったが生体を害して制御するものではなく、避難は〈粛々〉《しゅくしゅく》と、整然と為された。  列車砲側とて、サイレンの影響からは無縁でいられず、操縦区画から車外への通路へと、平駅員達の、難破に瀕した船の鼠の逃げ足、というには整然としていた列を〈射竦〉《いすく》めたのは、蓄音機からの大音量、警報音波を掻き乱すくらいに。  公安官の高踏な趣味によって持ちこまれた品だった。かけられていたのは戦時中以外は〈憚〉《はばか》られるような好戦的な軍歌ばかりで編まれたレコード、へ、針を降ろしたのは、サイレンの影響に逆らってぶるぶる震える公安官の指、狂気の意志で自分を保っていた。  平駅員達の首根っこを掴むように担当各座に引きずり戻し、耳元に怒鳴りつけるように、巨砲の発射準備を急がせる。 「うううう、体の方は逃げたくってたまらない、なのに心が公安官の方がよっぽど怖いって、許してくれない」 「うう……う、うひ、うひひひ。  そっかー……。  これ、僕達じきに気が狂うよね。  そしたら精神病棟行きだね。  ……病院でも、仲良くてしてね」 「そこ、口より先に手を動かす!」  超重の砲の中で、〈搬送機構〉《ローダー》は〈滑〉《なめ》らかに砲基へ弾体を移送し、砲身はオイルの匂いも鮮烈に射角を調整され、後は列車内外に設置された感覚機関によって情報が照準機に流しこまれ、映像端末内での照準線が固定されるまでほんの数十秒、公安官の鋼の狂気が移動舞台の余命を遂に決定した。  そんなぎりぎりの端境で。  列車砲の底部から伝わる、震動、が。 「……なにこの地響き。この砲台列車の振動じゃない……地震?」 「え……冗談でしょ……ちょっと見てよ、こっちの映像端末! 外の様子!」  情報担当の平駅員の驚愕の叫びが、区画内の同僚達の腰を浮かせた。仰天の形にのけぞった彼を押しのけて覗きこむまでもない。並列する映像端末が、皆に似通った姿勢を取らせの、映し出されていた情景とは。  大高架路線全体が、自ら動き出した様だ、刻一刻と形態を変化させていく有り様だ。  そして移動舞台では。 「見て、見て、オキカゼ!  高架線が形、変わって!」 「おお、変わるとも、そうだとも。  そうじゃなくっちゃいけねえ。  来たな、ようやく───!」  巨龍の眠りは百の歳月をまたぎ、その間には図体の上に何も知らぬ草花が芽吹いて森を為すが、目覚めた時には一挙に振るい落とされる。  生じていたのはまさしくそれの、大高架路線、かつての超巨大車輌、がその本来の機能のために取った形態は。  轟音と大震動の果てに表していくその姿は。  総体としてはなだらかな〈斜面〉《スロープ》で、ただその長さは駅をほぼ横断していた。  大高架路線の変形だけでない、それが完了したと見るや、住民達の退避完了した、周辺一帯の建築を地底からぶち破り、伸長した物体のある。  一見して塔、とも見え、ただそうだと断ずるにはいささか細すぎ、かつ家屋を思わせるような窓や構造もなく。  駅の人々にはその正体の見当がつかないのも当然、それ、かつてロケットと称されていた、それが、〈斜面〉《スロープ》を為した大高架に沿って何体も。  無論、大高架上を進撃していた列車砲が、このような激烈な変形の前に無事でいられる訳もなく。  操縦区画内では、公安官の帽子が弾け飛び、蓄音機は転落して軍歌の盤がぶち割れた、これなどはまだ穏やかな被害のうちで、砲体底部では各動輪転輪が軌道から浮き上がり推力を失い、砲体全体が傾いで、斜めに、危険な角度に。 「姿勢安定───無理か! 転進器駆動も間に合わない、なんてことだ、ここまで来て」 「おいなんだこれ。こんなのありか。もう訳わからん。勘弁してくれ。くそう、もうどうにでもなーれ!」  髪を掻き〈毟〉《むし》り地団駄を踏んで、そればかりでは足らんと床を転がり回り、計器に頭を渾身の力で叩きつけかち割らんと、都合の良い自己解決手段を採らんとした、寸前でぎりぎり踏みとどまる。 「───各員、退避! 可及的速やかに、当車輌から退避せよ!」  それまでの、全ての判断行動が妄執と狂気によって誤っていたとしても、最後のぎりぎりの瀬戸際だけを見定めていた事だけは認めたい。公安官の退去命令は、傾いた砲体、危険域を越える前に間に合った、寸前ではあったけれど、平駅員達を脱出させるには、どうにか。  操る者〈喪〉《うしな》った列車砲は大高架路線、否、大射出機構から転落しゆく、その巨体、巨重の最期に相応しい、神さびた緩慢さをまといながら。  ただ、超重兵器内の最期の、本当の際では、こんな問答が為されていたのである。 「三条さん、あなたも早く! なにしてるんですか、はやく逃げるんですよっ」  傾きつつある操縦区画の、指揮官席にしがみついた公安官の〈落魄〉《らくはく》の姿は今までの所業あったとしても哀れは哀れ、に飛びついた平駅員のあり、この時まで復讐の〈眈々〉《たんたん》と機会窺っていた、には〈非〉《あら》ず。横っ面を張り飛ばした平手に、案ずる心が、籠もる。 「……私はこの車輌の最後を、ともに見届けなくてはいけないだろうが。それが指揮官の責任なのだから」 「またそうやって都合のいい逃げ口上をッ。  それこそ責任逃れってもんでしょーが。  逃がしませんからね、僕は」 「お前……今回の件で最初から私のそばにいた子だな? ならば仕方ない、怨まれたって」 「アホですかあんた。僕は怨みや憎さで誰かについていくタイプじゃないって、前に言ったでしょうが」 「───え!?」  かくして公安官は列車砲と最期を共にしようとするも、一人の平駅員によって引きずり出され、与えられたのは、生き恥を晒す事になった身と、今後の運命を切り開いていく機会の、まあそれは物事の表裏やな。  一方移動舞台の車輪は、大高架軌道の形態変化にも、書庫空間内に進入した時と同じ変形でがっちり軌道を捉えて耐え抜いて、いまだその襤褸けた姿を駅の高処に載せ続けてあった。  大高架軌道が大射出機構に変化し終わるのを待ち構えていたように、後退して軌道の一方の終端まで、そして。  さて、さても───。  物語も今や剣が峰。    今宵昇星、〈鴇色〉《ときいろ》の空に〈梨子地〉《なしじ》と散りゆき。  少年の夢の城、三眼の女の生暖かな揺籃なる移動舞台、二人の半生の襤褸けた運び手であった、一両きりの単行列車も迎える、それは目覚め、なのか復活なのか、はてさてはてさて。  〈豁〉《カツ》と、鳴ったは舞台自らの拍子木なのか知らぬ、移動舞台は虫食った外殻を、名工に要点へ〈喝咄〉《かっとつ》の〈鑿〉《のみ》入れられた如く、一息に振るい落とす。  落とさば、肉と筋を削ぎ取った白骨の、車軸、機関、そして不発弾と〈瓦斯〉《ガス》ボンベだけの骸の様。  けれど、けれど。その死の形態こそが、〈變生〉《へんせい》を迎える為に〈潜〉《くぐ》らなくてはならない〈蛹〉《さなぎ》の在り様なれば。  月満ちて羽化する〈蛹〉《さなぎ》の時間、〈鸚鵡貝〉《オウムガイ》の螺旋の中を早回し、瞬く間に充たして移動舞台を転変させよう。  〈乾〉《カン》〈乾〉《カン》〈乾〉《カン》と刻む音、さながら世界の屋台骨を組み上げていく〆の釘を打ちこむ〈壮烈〉《そうれつ》にして〈爽冽〉《そうれつ》な、見よや見よ、刮目するがよし。  かつてこの大地上に在り今は大地上から〈喪〉《うしな》われた力学に則り、移動舞台の基盤を覆っていく外殻は涙の雫の形、それはエーテルの海を走り抜けるのに最適化された形態だ。  外殻の基層面に浮かび上がり定着される紋様は、〈船殻〉《せんかく》をありとあらゆる害から守護する為の、この時代の大地上ではその欠片すら操るものすら稀な、絶対的に強力な呪術言語を最大限に駆使した呪的公式だ。  白骨を肉付けするように〈船殻〉《せんかく》が形成されていく中、艇尾には主出力制御弁とそれに続く力場出力管が現れる、船体各部にも補助力場発生管が生え出して、目覚める、復活する、船首の四枚窓にかつての移動舞台の面影を宿しつつ。  やがて、遂に、最後に。  大射出機構の軌道を補助車輪で噛んで〈佇〉《たたず》むその姿は、その姿こそ───!  かつて星々の間を自在に、慣性さえも制御して、光速の枠をも〈跨〉《また》ぎ越し飛翔していた、涙滴型高速航宙艇、その勇容。  判る、理解される、認識が鍛造され直され、かつて移動舞台運転台であり、今は操縦席と変じた空隙に収まる二人には、船の全てが己の掌見るように〈領解〉《りょうげ》されてある。 「これがこのコの、ホントのかたち……。  あんなに〈草臥〉《くたび》れてたのに、  生まれ変わったみたい───」  操縦席は複座の、オキカゼと沙流江の為に設えられてある。  その制御盤に沙流江が伸ばした手、あの紋様が刻まれた左の手、制御板に〈翳〉《かざ》せば奇妙な共鳴が生じて、次々にと息が吹きこまれていく、そらそこの右側のはエーテル偏流指示器、そしてほら上側のは個別力場発生スイッチ、他にも大気成分検出メータ、重力場感知盤、呪力集積増幅装置等々等々、〈喪〉《うしな》われた超技術と古代呪術の粋を結集させた機器の数々、次から次に不足無く。 「こいつは、この日まで、どんだけ待ってたんだろうなあ……なんだか切なくなってきちまうぜ、この俺がさ」  感に〈堪〉《こら》えかねたような呟きは、あの大胆不敵な少年が漏らしたとは信じがたく、涙の水気さえ幾らか帯びていたけれど、それ故沙流江にも伝わった。  この時が、少年が予感し、待ち望んでいた瞬間なのだと。  彼の足元にも力場制御ペダル、増幅ペダル、胸元には数本の操縦桿が据え付けられ、これほどの性能を具有する艇にあってはあっけないまでに簡素に見えたが、これらの数基の制御装置だけで船体を、自分の身体の様に、否、それよりも自在な認識でもって自由に操ること可能とするまで高度化された装置なのだと、認識が接続されていくのだ。  そして航宙艇と変容した、二人が乗る機体からは、この時代の誰もが体感したことのないくらい、野放図で〈途轍〉《とてつ》もない推進力が伝わってきていた。                  ───さあ、物語は遂に剣が峰。  さらばこそ〈打〉《ぶ》ち上げよう。  最後の舞台口上を───  まずは口火は沙流江、三眼の女。  最早全てが〈諒解〉《りょうかい》されてあった。  胚の発生時から額に形成された第三の眸は、ただ視覚のみの器官ではなく、〈航宙士〉《アストロノーツ》と〈艇〉《シップ》の仲立ちとなり、遅滞なき機体制御、意のままに可能とさせる為のもの。  〈艇〉《シップ》と〈航宙士〉《アストロノーツ》を繋ぐ三眼の女が、相聞の言問いの様に、思いの全てを籠めて呼びかける。 「わたしがなんかおかしくなっても、わたしはわたし。オキカゼのことを大好きな沙流江だからさ、そいつだけはかわんない」 「でも、ちょっとだけやっぱ、おっかない、かなあ。だからオキカゼ、わたしを抱きしめて、支えていて」  認識上では全て感得していたとしても、心にはまだどうしたって不安が残る、それ故彼女は複座の、本来の席から〈滑〉《すべ》り降り、身を少年の主操縦席に割りこませたのだ。  彼女だけではなく、オキカゼもまた、自分と女が一対の存在である事を理解していたのに、なのに。 「……やんだ、おら」 「……えー……」 「背が釣り合わないんだよ。俺がお前を抱きしめたんじゃ、柳に〈灌木〉《かんぼく》がしがみついてるみたいでみっともねえんだ」  言い置いた言葉のつれなさ、がそんなのは口舌を彩る〈外連〉《けれん》の一つなのだとすぐに沙流江にも伝わるだろう。  だってオキカゼは、そんなつれない口を叩きながらも、しっかりと沙流江へ身を押しつけ、このようにしたのだ。 「だから今は、こうしておこうぜ」  出現した操縦席にまず沙流江を座らせて、その前身にオキカゼが腰を下ろしたのである。  背の高い沙流江に、まだ育ちきってないオキカゼがすっぽり包みこまれる形となって、それが今の二人には、実に具合の良い収まり具合となっていた。 「……ふふ、これも悪くないね、今は。でもオキカゼは、すぐに大きくなるよ。わたしが請け合うよ」 「わたしを追い越して、背も高く。  でもその時だって、  わたしは〈傍〉《そば》に並んでる。  きっとそう」 「そうか。そうだな」 「それともわたし達は、今は一緒でも、いつかは別れちまうんだろうか」 「そういうことも、あるかも知れないな」 「オキカゼは、どうしたい? わたしと、どうなりたい? なんて答えたっていいよ。そりゃあわたしは離れたくない。でもオキカゼの気持ちは、心は───」  少年の、三眼の女の願いも〈愁〉《うれ》いも、短い相槌でただ淡々と〈頷〉《うなず》くだけの横顔を、氷の壁の無情と〈詰〉《なじ》るのは早計で、彼はもう言うべきはただの一つ、それ以外はない知っていたから余計な言葉、並べなかっただけ。  言葉連ねた詐術が日常のオキカゼが、ただ一つの言葉で、〈真個〉《ほんとう》を伝えようとしていた。 「四の五の訊いてる場合か、この今が」 「…………」 「どうなりたい? どうしたい? そんな台詞の手番じゃねえや、もう遅い。お前はもうなっちまっている。お前は、俺の相棒だ」  大斜面を駆け上がっていく航宙艇の中でオキカゼは。  背後から回された沙流江の手、少年の魂のままに〈確〉《しか》と握りしめ、 「そして俺の───女だ」 「二度は、言わない」  一度置いていかれる前の、適当な言葉でも沙流江は至福に蕩けた。そしてこの今のオキカゼからの言葉は、彼女を完全に満たした。満たされた心のまま、沙流江の意識が拡散する。航宙艇のマンマシンインターフェースとしての機能が解放される。  額の第三の目の中が、燐光放つ流体と化し、双眸は無機質の硝子玉となる、顔から表情も失せて、仮面の硬質に。  それでもオキカゼは、背中の温もりの中に確かに沙流江の存在を感じていた。  何も不安はなかった。在るべきところに在るべきモノが収まり、還るべきところに還った感覚が、二人を包みこむ。  移動舞台内も、その様相を変えていく。床にめりこんだままの不発弾と狂気もたらす〈瓦斯〉《ガス》のボンベは収まるべき箇所に収納される。  移動舞台、否、航宙艇が発進する。大射出機構上を素晴らしく目覚ましく加速していく。  沙流江の唇からは機械質の音声が発生される。 『推進用起爆剤、点火。3・2・1・0。  ───点火』  不発弾の点火が、航宙艇の速度を一気に加速、主推進力である力場装置は、地上で下手に作動させた場合、その強力さの余り、艇がどこへかッ飛んでいくものだか知れたものではなく、よって地上から〈気圏〉《きけん》に抜ける際には、やはり噴射推進方式に頼らざるを得ない。  航宙艇から長らく欠落していた補助推進剤も、いささか乱暴な趣はあるがようやく代替品を得た。  更なる加速を見せる航宙艇、大射出機構の両脇に出現していた構造体の脇を通過していくと、それらが管制室からの指令によって順繰りに次々、地上から撃ち上げられ、駆け上がる艇の勇姿、英姿、を讃えるか、祝砲のごとく。  大射出機構で繰り広げられたる一大スペクタクルは、近きは肉眼によって、そして遠きは各種映像機によって、駅の全土に注目されていた。  いかなる誰がいかなる手段を用いたのか知る者はいなかったけれど、ただアージェントの映画車輌の中で独りでに動き出していた映写機が、彼女さえ知らない機能を発揮していたのは確かである。その機能が、オキカゼの願望を期せずして実現していたのも、また確かな事である。 「なんだこれ。それとも何、これが、あれ? あいつがヒプノマリアに答えてた、 『此処より星の、  昇りゆくその日の来たるまで』  とかいう呪文みたいなのの……」  アージェントが呟いた通り、撃ち上げられていくロケットの灯火は、さながら地上より昇っていく星の如く。  映画車輌内部では、アージェントが、映画車輌に流れてきたポルノフィルムをネタに脅迫を掛けた広報局高官もまた、その光景を眺めていた。この男も、アージェントのブルートレインの常連の一人だった。 「あれでよかったかい、アージェントちゃん。  しかし君、わざわざ脅迫なんてせずとも、  私は君のお願いなら普通に聞いたんだがね」 「はへ!?」 「さっきのフイルムだってそうだ。私とゼルダクララ嬢の情事など、あんな隠し撮りなんてしなくっても、見たければ何時でも見せてあげたのに。混ざりたかったから混ざっても良かったんだ」 「ああでも、君、本番だけは駄目だからね。アージェントちゃんはバージンなのがいいんだから。君のバージンを護る為なら、この私、『アージェントのバージンを護る会』ナンバー〇〇〇参の私は、なんだってするのだから」 「おい待て。なんだそのけったいな組織は。そしてあんたの他に更に上位者がいそうな口振りは。ていうか、まさかあたしがずっと処女なのは……」  そしてマスドライバー上の航宙艇は、遂にその終端から飛び出し、宙を高く舞う。しかし勢いで空に舞い上がったとしても、航宙艇からのなんらかの推進作用がない限りはやがて大地に引かれて墜落するだけ。  そうはならないのだ、そうはさせないのだ、そうで終わりはしないのだ。  発せられた沙流江の機械質の音声が、二人の旅路を終わらせるどころかますます加速させるのだ。 『力場発生用媒介粒子、導引。  力場発生器へ。  推進器並びに緩衝器、起動』  航宙艇内に収納されていた狂気のガスのボンベからの粒子が、航宙艇の推進器と緩衝力場発生器へのコンバータを通り、力場を発生させる。  与える、航宙艇に無限の宇宙を駆け抜ける力を、与える。  このガスも、航宙艇から失われていた装備の一つ、してみると移動舞台は駅の各処を〈出鱈目〉《でたらめ》に走り回っていたように見え、己に欠けたる部分を必死に取り戻そうとしていたのかも知れない。  〈潜〉《くぐ》り抜けてきた道程は、全て必要な経路だったのかも知れない。 『力場発生確認。  以降は管制室からの誘導と、  誘導ロケットからのマークに従って運行』  夜闇が垂れ初めた空。一筋の流星が流れ落ちていく。  その一筋が呼び水となって、後から後から流星が現れ、終いには大流星雨が降りしきる。    星。〈燦〉《きら》めくもの。いと高きもの。    琥珀に、薔薇色に、濃紺に。    色彩が〈天蓋〉《てんがい》、〈気圏〉《きけん》を染め抜いて、転変して。    色彩の万化に、星、また、星。    流れ落ちてはまた流れる星。    振り仰ぐ人々の胸、一杯にする程の。    壮麗、瑰麗、    ただただ素晴らしくて、素敵な眺め。  そして降りしきる星々の中、撃ち上げられていくロケットと、駆け昇っていく航宙艇の、こちらは地上から昇る星とも見えて。  これまで星など、夜空に空いた点々くらいにしか見なしていなかった者の心にさえ、宇宙への、遙かな世界と広がりへの憧憬を蘇らせ、萌芽させ。  河の下から地上に上がってきていたヒプノマリアも、その流星雨を眺めている。 「『空に瞬くその星の、降りきたるその日まで───』」 「此度は巧くいったようじゃな、オキカゼよ。お前さま達が星の海に旅立つ日、再びこの目にできようとは思いもせなんだこと」 「お前さまの旅立ちを送る事ができて、嬉しい。ゼルダクララにも見せてやりたかったの」 「〈恙無〉《つつがな》き、佳き旅路を───  航宙士と、その相棒殿」  地上から昇っていく星、天から降り注ぐ星、駅の者全てがその情景を見上げていた。  航宙艇はその中を飛翔していきやがて。                それ自体が、一つの星となった。  さて物語は、これでお終い。  だからこの後に残っているのは、蛇足がちょっぴりばかり。  それでも二人の道行きをここまで追ってきたのなら、省いてしまうのは少しばかりに作法に欠けよう。  だから覗いてみよう、航宙艇の操縦席を今少しだけ。  今や成層圏を離脱して、衛星軌道上を航行している航宙艇の操縦席を、あと少しだけ。  航宙艇の中で。  航行は、成層圏を抜けるまではマスドライバー管制室と、航宙艇と同時に撃ち上げられたロケットからに誘導され、それ以降は衛星軌道上の人工衛星からの誘導に任せて、今は二人、星の海をただ静かに眺めて。  重力発生装置は敢えて切って、操縦席の中を漂う二人が寄り添った様、さながらお互いの引力に沿うように、自然に。  膝を流して座した形に浮遊する、少年は女の膝を枕にし、女はただ独りと定めた男の温もりを愛しつつ満天の星を見渡すとは、またなんとも贅沢の極み尽くした態だが、一度離れてまた固く結ばれた二人なら、たった一日で余りに多くの出来事を駆け抜けてきた二人なら、締めくくりの穏やかで優しい時間として許されよう。  操縦席には、後部から舞いこんできた紙切れが何枚か漂っていて、ザラ紙の、宣伝ビラだ。いずれも沙流江の画が描かれていた。沙流江が幾枚か手に取り、読み上げて傾げた小首には、舞台慣れした女にして、〈含羞〉《はじら》いの薄紅がほんのりと。 「なんでわたしのビラが? それにどれもこれも、なんか凄いこと書いてあるよ。 『稀代の魔術女王・沙流江』、 『史上最高のダンサー、沙流江』、 『シャルーエ・ザ・エンターティナー』  ……わたし、そんな凄い女じゃないってば」 「いいんだよ、最初はどういう客引き口上だって。とにかく人目を惹いちまえば。これを空からばらまいてよ、お前のことを宣伝してやるつもりだったんだが」 「一体いつの間に作ってたの、こんなの。空からばらまくって、何枚〈刷〉《す》ったの……」  ぽつりとオキカゼが呟いた、その枚数を聞いて沙流江がぎょっとして、三つの眼が揃ってまん丸に。沙流江に隠れてこっそり〈刷〉《す》っていたらしいが、にしてはとんでもない枚数だったから。 「でもまあ、全部そいつもパアだ、パア。お前が一緒についてきちまったんじゃあ、こんなの撒く意味もなくなった」 「オキカゼは、こうなることを知ってたんだねえ」 「ここまでは、な。ここまでだ。俺の頭ン中で、何かがこの景色、この眺めを〈活動映画〉《シャシン》みたいに何度も繰り返してやがってよ」 「それは、いつから───?」 「あの駅に着いたときから、だな。だからいずれこの日が来るんじゃないかって、そう信じてた。だがなあ、その画の中じゃあ、お前はいなかったっつーのに」  その映像は、オキカゼ少年の血統が彼の脳裏に映し出していたものにして、予感などいう曖昧な感覚より、彼を強固に導き、少年の中に宇宙という広がりを教示し、そこへの憧れを〈堪〉《た》えがたく育んでいたのである。ただそれらは、移動舞台の道行き全てを網羅していたのではない。  映像は断片的、切れ切れで、どういう繋がりを、意味を持つのかまでは語らず、ただ最後、この今の眺めだけは、本来なら沙流江の存在はないものとして確定されてあったのに。  けれどオキカゼが、彼の中の確信にどこまでも意固地に従っていたなら、こうやって航宙艇が再び宙を駆ける事は有り得なかったろう。  だとすれば、少年の脳裏の映像にはなんらかの原因による〈綻〉《ほころ》びがあって、沙流江こそが彼の宇宙への博打の大一番、勝ちの目を引き寄せるのに不可欠な女神だったという事に───まあいい。  この壮大な光景の前では、詮索は不粋というもの。 「なんだ、つれないなぁ……。  でも、へへ、じゃあわたし、  無理矢理割りこんじゃったんかな」 「……だが今にして思えば妙な話だ。お前がいなけりゃ、この航宙艇はこんな風に翔べなかったはず。なのに俺は独りで……?」  難しそうな顔で考えこむオキカゼと、そして沙流江も。 「ねえオキカゼ。あんたはこのコの〈操縦者〉《パイロット》で、わたしは部品みたいなモノで。だとしたら、わたしらが会うことは、私があんたをこんなに好きになるのは───」 「始めから。  そうと決まってたことなんだろうか」  だがオキカゼは、それを強く、きっぱりと否定した。 「それは違うぜ沙流江よ。それだけは、違うンだ。俺とお前が出会ったのは、偶然だ。奇跡みたいな。それだけは」  オキカゼがどうしてそこまで確信をもって言いきれるのか、沙流江には判らなかったけれど。 「キセキ……かぁ。ふふ。そうだね」 「しかし、ったく、勢いで空の上まで飛び出してきちまってよ、芸人稼業はどうするんだこれから」 「そんなの、これから行く先で、またやればいいだけじゃんさ。いろんなお星さん、廻りながら」 「ちぇ───沙流江、悔しいが、お前やっぱり、佳い女だなあ」 「ならさしあたってまずは。あっちの『ステーション』、で、今度こそ一旗ぶちあげてみようかい」 「───あい」  オキカゼが指した先、航宙艇の進路の先、沙流江が少年への思慕の全てを、ただ一言に籠めて〈頷〉《うなず》いた先。  星の海の中に、一つの巨大な構造物が浮かんでいたのだった。  大地上の〈宇宙港〉《ステーション》と対応する、軌道上のもう一つの〈駅〉《ステーション》、無限の星の海への道指し示す、前哨基地が───                インチキ少年と三眼の女。  船窓には星また星。  瞬きもせずにさんざめく光の。  無限の海、無限の憧れを受けとめる。        二人だけのサアカス団公演。          まづ本日は───          ここまで!              ───星継駅擾乱譚・劇終───                      ───端緒───            才媛であった───とそう伝えられている。大地上の航宙史、その手探りの〈開闢〉《かいびゃく》初期にあって、同時代の全ての航宙士を牽引し、後から来たる者にはその伝説の域に何時かは辿り着かんと渇望させる、まさに天空の〈暁星〉《ぎょうせい》の如き指標となった、とも。  その女性の偉大さを伝える為には似姿を巨人のスケールに取る必要が是非、と決意したのが画家か依頼者のいずれか知らん、肖像画は見上げる少女の頭上を遙かに超えて〈聳〉《そび》え神代からの大樹のよう。左右に延々と、高く、広く長く延びて圧倒的な質量の圧を〈揺曳〉《ようえい》させる壁面の中にあっても、その一画に〈嵌〉《は》めこまれた大肖像画の存在感は巨壁全てに勝り、どちらかといえば伝統的古典的な筆致で描出せられた女性のフォルム、その軌跡、由来を知らぬ者にあっても、敬虔に〈襟元〉《えりもと》を正したくなるような心地にさえさせた。  一人立ち、見上ぐる少女の、大肖像画に比せば柔い、ひ弱い双葉の小躯、ながら双眸に充たした潤いが美しい、澄明な憧憬と追慕のの光を湛えてある、彼女もまた彼の女性航宙士の偉績を想うてあるのだろう。〈翡翠〉《ひすい》の眸の、瀬にきめ細かに研がれて質の佳い水のような少女だった。昔年の女性航宙士への讃としての大肖像そして航宙士を振り仰ぐ少女の対比は、それ自体が一幅の聖画として、〈清〉《さや》かなる〈静謐〉《せいひつ》の〈気韻〉《きいん》を〈具〉《そな》えてさえあったが。  一方その背後は。  不様であった。不格好であった。珍妙とすら言えた。  花弁の、地に落ちて泥に〈塗〉《まみ》れた様は、元が可憐であればあっただけ情けなく〈萎〉《くた》れて見えるし、黒髪は美しい人の背にあるから蜜で〈艶〉《なま》めくもので、離れてしまえば線虫の如くよじれて〈惨〉《みじ》めだ。大肖像を眺める少女の背後に離れて、種々雑多なガラクタの上であるいは這いつくばって痙攣し、あるいは腰を抜かして歯噛みしている、こちらも少女である二人は、本来なら妙に至り匂びやかに秀麗な〈容貌〉《ようぼう》の、加え相似の双子であって、二つで一揃いの珠玉であろうに、地に伏した今は、不様であった不格好であった珍妙とすら言えた。  身悶える双子の下に積み重なったガラクタの山、それらを構成しているのは、机や椅子、表示端末やら入力端末やら各種演算機やら通話器やらに、キャビネットや小ラックと事務用品に機器ながら、いずれも機械とロココ様式が奇妙に融合した装飾が施され、どこかメランコリックであると同時に練れた美意識でもって作られた工芸品と言って良い。だがそれも単体を抽出すればの話であって、そうも好き放題にぶちまけられ山となっていては、美意識もへったくれもあったものかはで、大船団が〈時化〉《しけ》に襲われた後の浜辺にも通ずる滅茶苦茶さ加減。 「絶対に……っ。ええ、そうよ、絶対。  〈妾〉《わたし》は貴女の言う事なんて認めない、  認めてなんてあげないんだから!」  双子の一方、茜色の、風に吹き散る花弁を綴り合わせたようにも覚ゆる衣装〈纏〉《まと》うた少女が、〈繊手〉《せんしゅ》に節を蒼白く浮かせんばかり握り締め、風変わりな金属光沢の目を〈瞠〉《みは》り声、たばしらせた様は、懸命で、真剣で、心根に秋霜と〈沁〉《し》みいるよう───と言えなくもなかったが。〈眦〉《まなじり》には滲んだ雫は、美女のそれなら、あの〈紅涙〉《こうるい》やらいうて流体の輝石のように珍重されようものを、折角のお綺麗なお顔をこうまで引ン歪めていては、逃げる蝉の小便が目に入ったのとさしたる差もない次第で。  立ち上がろうと必死にばたつかせるも、脚はいっかな地を捉えず、〈足掻〉《あが》きは甲羅を返された亀じみて、どうやら腰を抜かして立てないと見た。  まあ、美しいもの可憐なものが堕して不様を晒す姿に興趣を覚える向きもあろうが、その視点はどうにも〈頽廃〉《たいはい》に染まっているとの〈誹〉《そし》り免れ得まい。けれどそういう需要に応えるような姿態が、悔し涙の彼女の隣にも、また。  こちらは闇と同じ色合いの、古風なドレスに〈面紗〉《ヴェール》という典雅な姿、双子の〈隻〉《かたわ》れが花の精の趣き帯びるなら、こちらは夜の〈眷属〉《けんぞく》かと見ゆる。だがその〈瀟洒〉《しょうしゃ》な装いとて、相応の振る舞いに〈挙措〉《きょそ》、〈姿〉《しな》を作ってこそ見映えが立つもの。  夜のドレスは埃に白びて皺によじれ、四つん這いに突っ伏してぷるぷると、産み落とされたばかりの動物の仔の立たんとするように四肢を突っ張り、突っ張り、結局叶わずにぺったりと顔からのめる、では〈淑〉《しと》やかな装いも典麗な美貌も興醒めで、きっと本来は〈禁忌〉《タブー》のように甘やかな声音だろうに、今ガラクタに〈俯〉《うつぶ》した額の下から押し出された言葉は、墳墓の妄霊の〈繰〉《く》り〈言〉《ごと》めいてくぐもった。 「うぅ、そ……その通りじゃ。皆を、わたくしの大切な方達に、よくもこんな無情な仕打ちを」  黒衣の少女が辛うじてといった態で額をもたげ、哀しく痛々しげに見やった先は、大肖像画が掲げられた長大な壁面に見合う、講堂のような広がりを持つ空間とそして、双子が乗ったガラクタの山と同様の調度が散在する中に横たわる、人、人、数十人余に及ぼうか。いずれも息はあり、大きな外傷も無いようだったが別なく昏倒し、太古の巨人の轟吼、魔風の王の跳梁、一体いかなる威力がこの広間に行使されたのか、空恐ろしくなるほどの惨状を呈している。  〈俯瞰〉《ふかん》してみれば、ガラクタの山は弧状の帯を為して薙ぎ倒され、その弧の内側に人々は倒れ伏しているという状況の、質は不明なれど力は一方向から轟風と化して吹き荒れたと思しい。双子もまともに立ち上がれずにあるものの、これで意識を保っていられたのは、直撃は免れたという事なのであろう。  しかし───黒衣の少女の恨み言をよくよく解けば、信じられないことにどうやら、この惨状の原因の一端を、大肖像画を静かに見上げ続けている翡翠の眸の娘が担っているように聞こえないだろうか。  よもや、まさか。  〈兎〉《と》も〈角〉《かく》、双子の〈怨嗟〉《えんさ》の言葉でようやく物思いから覚めたげに、ゆるりと、振り返った〈挙措〉《きょそ》も優美なり、後で〈括〉《くく》った髪の〈靡〉《なび》ける様も、彼女の周囲にだけ液体が充たされているかに、緩慢に動きをなぞってから落ち着いた。翡翠の眸の少女は、 「だって、仕方がないでしょう? あなたがたが、あんまりな〈わやく〉《・・・》を〈仰有〉《おっしゃ》るのだもの」 「そもそも私が遣わされたのだって、  あなたがたが何時までも、  通達を〈受諾〉《じゅだく》しないから、なのだわ」 「……いいえ。通達などではないのよ。  そんな優しげな〈下知〉《げち》などではなく。  命令なの、ええ、そう、  これは決まってしまったこと」  声音は言葉と裏腹に優しく教え諭すものであったし、何時踏み出したかのも判然としないくらい、双子へと歩み寄る足取りはごく自然で親しささえ感じさせた、けれど。翡翠の眸の少女が寄るにつれ、双子は揃って屍鬼が漂わせる悪臭でも嗅いだかの嫌悪感に身を〈戦慄〉《わなな》かせ、全身総毛立たせの〈怖気〉《おぞけ》ありありと、無理もあるまいてや、彼女が先刻振るった業、行使した力を目の当たりにした後とあっては、の。 「っ! 近づいては〈厭〉《いや》!  あれだけしておいて、まだ、足らないと?  もっと非道い事、するおつもり……っ」 「たといお前さまがそうとお決めでも、  わたくしとクララともに、ここの皆に、  これよりの手出し、決して許しは───」  黒衣の少女は、背後に倒れ伏した人々を〈庇〉《かば》わんと、迫る軍勢に立ち向かう守護騎士の気高さにて相手を〈睨〉《にら》み据えようとして、した時、翡翠の眸が余りにも近かった。黒衣の少女の心の構えを楽々踏み越えて、翡翠の眸は鼻先に迫り、するりと髪を〈掬〉《すく》いざま、頬を撫でた指先は泡さえ割らぬくらいに細心の優しさだったのに、鼻先を淡やかにくすぐった薫りは〈鈴蘭〉《スズラン》か〈梔子〉《クチナシ》か、〈床〉《ゆか》しく薄甘かったのに。 「ひっ!?」 「起きられまして?」  いかな意図でもって、〈敵愾心〉《てきがいしん》をありあり示す相手に近しく触れようとしたのか、翡翠の眸は澄明なばかりで語らない。  ただ黒衣の少女にとって、頬に触れた指がいかに繊細な肌触りであろうと棘を裏に〈潜〉《ひそ》ませた〈木葉擦〉《このはず》れ、差し延べられた手などは目を〈啄〉《ついば》んでくる怪鳥の〈嘴〉《くちばし》とも映ろう。差し出された手が荒く、毒虫を反射的に撃つように払われたのは当然の帰結といえた。茜色の少女は二人の間に割って入り、後ろ手に〈庇〉《かば》いつ〈隻〉《かたわ》れを翡翠の眼差しから〈遮〉《さえぎ》って、 「起きるの、  手伝って下さるなんて言わないでね。  何を今更。いりません。  マリー、大丈夫だから。  触れるなんて、もうさせやしない」  相似の半身を、それぞれ互いに、こよなく美しく愛らしい生き物と〈見做〉《みな》し、〈愛敬〉《あいけい》し合うて日々を送っていた双子である。これを自己愛の一類型と診断するかどうかは兎も角、そんな二人の世界に突如として〈闖入〉《ちんにゅう》してきたのが、この翡翠色の眸の。これまで双子を育んだ人々は大人ばかり、同年代の女の子との出会いは今日が初めて、その上眼差しの、今までこんなにも瑞々しく澄んだ翠の色は知らず、なんて綺麗な女の子なのだろう、と見とれてしまったくらい。暦の中のこの日付を、記念の縁飾りで囲ってやったって良い。  なのに双子はすぐに思い知らされる。翡翠の眸の少女が〈携〉《たずさ》え来たった宣告によって、それに抵抗した人々に振るわれた業によって、〈麗〉《うるわ》しく〈綺〉《あや》なるものであっても、恐怖と怒りを引き起こす事もあるという、教訓を刻まれた。今だって翡翠色の眸に見つめられるうち、その色の中に深く墜落していって、緑に凍結した無限の氷面に打ち捨てられたような冷たい不安に取り憑かれる。しかもその氷の一枚下は底知れぬ深淵が口を開けている。二人、強く身を寄せ合って、ただ、耐えるしかなく。 「これは失敬、ついうっかりと。  とっても綺麗なお肌をしてらっしゃるのに、  埃に汚してしまったの、ご免なさいな」  双子がどこまでも身も心も〈頑〉《かたく》なに石と構えているのは、拳遊びに〈喩〉《たと》えを借りるなら石拳として恐怖の〈鋏刃〉《はさみば》にはある程度有効な防御なのだろうが、相手が柔らかに開いてみせた笑みで、包みこんでくるとあっては。  微笑みは雅量深く、強張る双子を守りの形ごとくるみこんでしまいそうなくらい、尖った言葉とか暴力ばかりを予想していた二人は容易く拍子を外される。身構えに生じた緩みから、するり〈潜〉《もぐ》りこんできた声音は耳に心地好よく、双子の反感を溶かしそう。 「……だから、聞き分けて下さいましね。  お二人のような素敵な女の子なら、  なおさらの事だわ」  翡翠の眸の少女が〈携〉《たずさ》えたるクリップボード上の書類には、無数に並んだ条文条項が、〈夥〉《おびただ》しい法律用語の柱と七面倒くさい修辞の通廊によって言葉の迷宮となっていたけれど、この広間に居合わせた人々に伝えるべき要諦というのは簡潔にまとめられる。少女は、書類へ今さら〈一瞥〉《いちべつ》をくれるまでもなく、 「ここ。甘夏省の、第一衝合駅が有する、  航宙業務と関連施設の一切の、  無期限凍結と封鎖という事は、  もう決定されて、覆ることのない」 「こちらの、駅北東部地下、航宙研究施設群もまた、例外ではありません」  唇には笑みを噛んで、ただその言葉は、言葉が、僅か〈和〉《やわ》らいだ双子達を、また緊張に強張らせてしまうのだ。〈迂闊〉《うかつ》に気を許しかけてしまった分だけ、より勝る敵意と反感とを持って。 「そう……結局、やっぱり、そう。  どうあっても中央は、  ここを無くしてしまおうと」 「そのように笑いかけて下さるのに。  ……お前さまは、やはり非道いお方です。  わたくしたちを〈嬲〉《なぶ》って、  楽しんでおいでなのですね……」 「あなた達にも〈御異見〉《ごいけん》、おありの様子。  けれども私も、  お仕事としてこちらに参じています。  だから反対は、〈容〉《い》れられないの。  〈諒解〉《りょうかい》されて?」  双子がどう受けとめたところで、こちらの少女はただただ遂行するだけだろう、己に課せられた任務、使命を。事実、実行できるだけの根拠を最前に示していたのであるし。  この広間に展開された惨状は、この翡翠の眸の少女が一人、ただ一人の力と技にて出現させたものなれば───  呪術方程式の行使される様と、これまで満更無縁ではない双子であっても、それらと翡翠の眸の少女の術の実際とでは、石槍程度の獲物で獣を追いかけ回していた穴居人が完全武装の部隊の掃射戦と遭遇したに等しく、その衝撃のほどが思い遣られる。 「今日はまだこちらへは、  ご挨拶と確認に伺っただけ。  こちらでも、私のお仕事はまだ他に色々と。  また、伺わせていただきましてよ」 「だから、そんな事を認めて差し上げた覚えなんて、ないと───!」 「わたくしたちはお前さまの訪れなど、  望みは致しませぬ───!」  告げるべき事を伝え終えた翡翠の眸の少女は、なおも抗議を重ねんとする双子の方こそ、盆の〈賽〉《さい》の目も見えない野暮に見せてしまうほど、来訪の終いを告げる〈一揖〉《いちゆう》の、雅やかに。そんな優美の〈挙措〉《きょそ》さえも、この広間に築かれたバリケードと立て籠もっていた人々を、僅かの間で薙ぎ倒した荒々しい力の発動を目の当たりにした後であっては、自分達を封殺する為の呪式を編む〈印契〉《いんげい》の一部かと〈粗忽〉《そこつ》して、思わず短く息を呑む、双子にもう背筋ばかり見せて、翡翠の眸の少女は一幕を辞していくところ。  追いすがってしまう者があるからこそ、振り切り去りゆく者を潔く映してしまうが世の習いと、〈弁〉《わきま》えるにはまだまだ世知に〈疎〉《うと》い双子は、呼び留めんとせずにはいられず。 「お待ちを、お待ちたまわれ……っ」 「お前さまのその気配、匂い、 『航宙士』資格者のものと覚ゆ。  ならば、何故このようにむごい仕業に、  〈与〉《くみ》されるのでしょうや?」 「きっと、聞いたって、  教えて下さるわけないわ。  そういう人なのでしょうよ、あの方は。  ああ口惜しい」  もう翡翠の眸の少女は、〈括〉《くく》った髪の緒軽く〈靡〉《なび》かせ、制服のスカートの〈裾捌〉《すそさば》きに乱れも見せず広間から去りゆくばかりの、呼びかけが宙に拡散していく無念さよ、憤慨しても、双子の足腰はいまだなかば麻痺して、ガラクタの上で〈藻掻〉《もが》く〈絡繰〉《からく》りじみた姿。    ───こうして、後代には幻妖と蠱惑の一対の、『駅の案内人』として〈仄聞〉《そくぶん》に上がる事になる双子、黒衣に〈面紗〉《ヴェール》のヒプノマリアと、茜の〈羅衣〉《らい》と結い髪のゼルダクララは、翡翠の眸の少女と出会い。    ───翡翠の眸の少女、大陸の中央からの派遣吏にして稀代の呪式の遣い手、駅の航宙港機能を凍結封鎖する為に遣わされたシラギク・Aは、ヒプノマリアとゼルダクララを知ったのである。                      ───過去編・始───  二人の〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》と映画車輌の〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》が、駅に封じられていた遺構を巡り、眠っていた機構を呼び覚まし、ついには、途絶えていた衛星軌道上の一大構造物、地上の『駅』と対なる『上の駅』との通信を取り戻した。  〈万色〉《ばんしょく》の〈黄昏階調〉《たそがれかいちょう》の空に、〈気宇壮大〉《けうそうだい》にして〈瑰麗〉《かいれい》な光の紋陣を敷き、そして歳月を〈閲〉《けみ》して再び姿を見せた、遙かな世界への道標。    ───宇宙への道標───    インチキ少年と三眼の見世物女の航宙艇の飛翔は、駅の人々の意識無意識に、空の向こうの世界への関心の欠片を残した。  そして『上の駅』の帰還は、駅の人々に、宇宙へ向かう関心を、抜き去りがたい錨として降ろし───  しかし。  それらは突如として出現した物ではなく、元々駅に存在し、あるいは属していた物達なのだ。  封じられて、長いこと忘却され、眠っていただけで。    それら、駅の宇宙にまつわる機構は、一体いかにして封じられたのだろう。    それは、過去の物語。  今では駅の人々のほとんどが忘れ、記録も散逸した時代の物語。    これよりここで綴られるのは、駅の空に光の紋が描かれたあの日より、幾世代も隔てた過去の時代の物語である。  その時代の駅の版図は地上や地下を越えて空と、その彼方の衛星軌道にまで及び、駅には列車や船舶のみならず、飛行艇、航宙艇までもが往来していたものだった。〈駅〉《ステイション》は〈宇宙港〉《ステイション》でもあった時代だった。  けれどこの時代に如何なる事態が〈出来〉《しゅったい》したのか、大地上各処から宇宙へと通じていた道は、全て、一切の例外なく閉ざされようとしていた。  〈星辰〉《せいしん》の変化によって、宇宙を渡る事それ自体が困難になったという、天文的推移に〈拠〉《よ》る説がある。星間航行に必要な各種物資が、大地上既知世界から不可解にも枯渇していった、とする物的問題に起因した説もある。深宇宙より飛来した、それまで未知の、神すらも超える存在が大地上の人々が宇宙に踏み出す事に危険性を見出して禁じた、というオカルトじみた説すらある。時は大地上の各大陸、各国家に〈跨〉《またが》る大戦争の勃発前夜であり、航宙技術の悪用が既知世界に致命的な破壊をもたらしかねないとして、各地の首脳間の謀議の結果、航宙技術の凍結破棄する条約が締結された、という陰謀論めいた説だってある。他にも他にも幾らでも。  恐らくは単一原因ではなく複数の要素が絡まり合った結果だと推測されるが、当時の各地各処の為政府の隠蔽が徹底しており、歴史の移ろいにつれ、その真相は時の彼方に没し去った。  原因はどうであれ、一時は大地上の歴史を華やかに彩っていた宇宙時代が終幕を迎えようとしていた、これは、そんな時代の物語である。                      ───一───             〈甘夏〉《かんか》省などいう大陸のど辺境にあっても、流石に幾つもの山脈、大海を越えて広がろうとする戦火の靴音は響いてきてい、駅の全土を覆いつつあった。駅を中継として大陸各省から到着し、また出立していく長距離軌道は軍用の車輌が増え、駅内各処でもベトンで固めて物々しい〈掩体〉《えんたい》施設だの、兵隊相手の「需要」を当てこんで娼婦をかき集め出す酒場やら、高所にある積層建築を徴用して充てた臨時哨戒塔等々が目に着くようになりつつ。駅中央の管理局施設群の周囲には鉄条網が張り巡らされ、通行が面倒になったとも聞くし、駅の周縁部、荒野との境辺りには〈塹壕〉《ざんごう》紛いまでが掘削され始めているそうな。  ホームや地下通路の掲示板では戦意昂揚の貼り広告が割合を増し、スピーカーからの勇ましげな行進曲に乗せた国策放送が、〈些〉《いささ》か押しつけがましく耳に着くようにもなってきた。整備工廠でも銃兵器製造の請負業務を受注し始めたとか。  それでもやはりど辺境というところか、戦火の声は聞こえてきてもどこか遠く、駅の〈地辺〉《じべ》にて暮らす人々の、野太い生命力に裏張りされた喧噪の前には埋もれ勝ちであった。  派遣吏のシラギクが乗りこむ、三両ばかりの老朽化進んだ駅内路線が市場の中を縫うように進む、緩慢に進む。その運行はごしゃごしゃとより固まった〈煮凝〉《にこご》りの具を避け〈潜〉《くぐ》り抜ける式で、地べたにこれでもかと並べられた売り物の台やら皿やらは線路の両脇から、迫って軌道に接しそう。というより実際軌道に被さって、先頭のディーゼル機関車が通りかかる度に、満ち潮を感じて巣穴の奥に引っこんでいく蟹の方がよほど敏感と思われるのんびりさ加減で売り子達にぞんざいに片されて、通過した後にまたすぐに、売り物はいけずうずうしく線路を占領する。  この路線はもともと市場の中に敷かれたわけでなく、川の流れに〈瀞〉《とろ》みが生じるように、後から駅の人々が勝手に線路沿いに市場を築いたのである。  客引き、売り込み、呼び交わす声は線路の上をやかましく行き交い、そこにあるのはただ〈強〉《したた》かな銭勘定とがめつい財布のせめぎ合いが殆どで、戦争を案ずるような透視力に〈聡〉《さと》い声は薄い。それを垣間見させるのは、車内に誰ぞが持ちこんだラジオよりの官営放送くらいだった。   『……一五日に予定されていた根室記念館黒薔薇組定期公演は、省軍の同館の徴用要請を管理局が〈受諾〉《じゅだく》したことにより、無期延期。以降同館は一般客の利用が制限されます』   『九日に到着予定であった〈玲〉《リン》省発〈寧生〉《ニンセン》郡経由の貨物列車は、国境付近の紛争により運行に大幅の乱れ。主な貨物は綿生地類ですが、これにより駅内縫製工房多数の操業への影響が懸念されています……』 『第五次北方辺境義勇軍への参加は引き続き募集されています。正規軍の補佐及び補給列車の警備など、後方任務が主な任務です。任期満了後は兵務年金と各種税制免除他の……』   『先の七日、駅内地下航宙研究施設群、研究資料棟に立て籠もっていた職員達は、中央より派遣の監察官の勧告に応じ、武装を解除、投降との事です。以降当駅の航宙業務の凍結手続きは順次進められていくと見られ……』  安物のラジオでは受信状態は砂嵐を通して聞くが如し、それでもシラギクの耳にも、それら銃の〈艶消〉《つやけ》し塗装の色合いのニュースは届いていように、彼女はただ開け放たれた車窓の外に展開されていく駅の人々の情景にのみ目を向けて。眼差しは大肖像画を仰ぎ見ていた時に同じ、澄み渡って地上の人々の営みを映すには透明に過ぎ、ているように思われつ、しかしその視線は外れる事がない。まるで天から降り来たったばかりの仙女が、俗の実際に〈感興〉《かんこう》催した、とでも言わんばかりの風情の、といえば高慢か。むしろもっと〈稚〉《いとけな》く、人々のざわめきに、好奇の心が抑えがたく、土を押しのける双葉ともたげられている、風な。  確かに彼女の、市場を見やるといって、両の膝に手を揃え、〈頤〉《おとがい》を心持ち窓へと傾けの姿勢を堅持したままの、血筋を誇る猫並みの行儀よろしさといったら。それでもよくよく仔細に眺むれば、時折眉根が風を聴く猫の鬚のように震える、昂奮した猫の耳が肌に火照りを透かすように、目元へあえかな朱の色浮かばせる、〈恬然〉《てんぜん》とした〈佇〉《たたず》まいの中にも火が〈仄〉《ほの》かに通う。  値引きをやりあう人々の、乱暴な言葉がシラギクには物語の口上よりもずっと面白くって、耳引かれて聞き漏らせなくなりそう。笊の中から掴み出された、この地方独特の食用〈酸漿〉《ほおずき》の〈艶〉《つや》と張りは同じ大きさの宝珠より〈珍〉《めずら》かで、ついつい目が追いかけてしまう……。  何時しかお行儀の良さもなおざりに、窓枠に手をかけ、餌の到来を待ち受ける雛の危うげで身を乗り出さんばかりになって、は、とシラギクを我に返したのが、下腹部に〈蟠〉《わだかま》る鈍い重さ、熱ぼったさ。スカートの〈裡側〉《うちがわ》を窮屈にさせるようなそれ、に気づかされた途端に少女の眉が〈撓〉《しな》う、やるせなさを持て余したといった態。生殖機能が無意識に〈亢進〉《こうしん》されてあり、彼女自身が御しかねるこの生理の作用は、〈身〉《み》の〈裡〉《うち》に疲労が薄く淀んだ時には何時もそう。  この駅に着到して早々に地下研究施設群に立て籠もる人々を鎮圧してから二日が経った、後も、彼女の活動は留まるを知らず、関係各庁への連絡に挨拶回り、そして凍結任務と小鳥廻しに動きまわって、シラギク自身は気が張ったままのつもりでも、旅疲れ仕事疲れがその華奢な体躯の端々に〈糊〉《のり》のようにへばりついているのだろう。後で確かめてみたなら、日々の降り物以外の分泌物で下着を汚しているのでは、とシラギクは憂鬱げに、スカートの〈裾〉《すそ》を直すふりしてショーツを直そうともぞもぞの、手が慌て〈翻〉《ひるがえ》って拳の形に置き直される。車輌連結路の、貫通幌を抜けてきたのが見知った顔で、きょろきょろ車内を見回して捜しているのが自分らしいと見えたから。  金盤の瞳、繊細を極めた鼻梁と輪郭が二つ並んで相似の、二日前の地下研究施設の広間ではどちらかといえば興醒めの乱れ姿を晒していた双子だが、きちんと身を〈繕〉《つくろ》って髪を整えれば、その造型の秀抜な事、〈小体〉《こてい》な姿に美を凝縮した細工物のよう。〈屹〉《きつ》と二人顎先揃え、前に〈撓〉《た》めて進める歩は、令名馳せた〈上臈〉《じょうろう》もさながら、車内に乗り合わせた俗人達には、雀の井戸端会議に〈鸞〉《らん》が紛れこんできたようにも見た事だったろうとも。  二人、懸念を抱えて気忙な風情で、この車輌を抜けて列車先頭へと向かうようだったが。場違いな事にかけては双子と同様の、老婆の煮染めのように褪色した客席にあって浮き上がるシラギクを認めて、看過できない因縁の相手と気づいて、足、〈雷〉《らい》に撃たれたかに止まり、ばかりか肩口から、銀艶の髪がふわりと浮き上がったは、怒気と緊張にて。  〈邂逅〉《かいこう》がもう少し穏健な状況下で迎えられていたなら、あるいは異なる関係性を育む事も可能であったかも知れないが、今や双子が中央よりの派遣吏に対して抱くのは、〈騾馬〉《ラバ》が〈駱駝〉《ラクダ》の匂いを嗅いだ際に催すのと同質の、野生的で御しがたい反感、怒りのみ。  詰問で鞭打とうとした、双子に先んじたのはシラギクだった。 「一別以来ね、お二方。これ、奇遇ってものじゃなくって。今日は御用事? それともぶらりと御散策などに?」 「わたくしたちは、〈御酒坂明神前〉《みわさかみょうじんまえ》まで、してから宙港事務局の分室まで───」 「し! マリー! 言わなくてよいの、そんなことなどこちらには」  とつい反射的に、この路線の終点を挙げて用向きを口走りかける半身を制してゼルダクララ、眉間を尖らせシラギクを見下ろして、 「……随分平然としてらっしゃるのね、あんなに残忍な仕打ちをなさった癖に。マリーはあれから一人でご不浄にいけなくなった。〈妾〉《わたし》だって今になってもおしりが痛いのよ。それに施設のみんなは、みんなが……っ」 「クララこそ、余計なことは伏しておくのじゃ……のうシラギク殿。先ほどラジオでもがなっておりましたが」 「立て籠もった職員達を女の子、たった一人。  制圧無力化したなど、〈誰〉《たれ》に信じらりょうぞ。  その物凄まじきものや、今は〈如何〉《いかん》。  さぞ御気分の、麗しゅう事と存じます」  怨じ言、恨み言を繰り出すというのは、いかんせん人並みの行為に過ぎて、双子のように銀細工めいた美形が体裁構わずやらかしては、〈些〉《いささ》か見苦しさ生ずること否めない、と、述べた端からではあるが。美形がやると、ならではの〈艶〉《つや》と凄味で映る事もまた確か。それに双子は〈装〉《よそお》い美しく造りながらも、硬い麗質より、柔らかな〈稚〉《おさな》さがまだまだ残って前に出る。  そんなのに〈詰〉《なじ》られても、生えたばかりの柔らかな薔薇の棘でくすぐられるのと同じ、むしろ痛心地好さが勝ろう。 「……もし。聞いてらっしゃるの」  自分達の訴えが耳に届いているのかいないのか、シラギクは奇遇を手短に叙したきり。  座したまま、腰も浮かさずなのは、彼女が下着の中を気にして立ち上がれずにいただけだとしても、そんなご内情など当然伝わる訳もなく、やはり尊大に見えようし、双子のささくれた当たりに比しておっとりと、春風駘蕩と見上ぐる様は、〈天〉《てん》から相手にする気がないとも受け取れる。  シラギクは、眸透き通らせたまま─── 「そちらの施設の方々には、御休暇を取られるもよし、間を置かず次のお仕事に向かうもよし、どっちにしても不自由ないよう図らわれてありますわ」 「そちらの言いざま言い分はそうでしょうとも! けれどね、動けずにいる皆を、無理矢理に担ぎ出して戻れなくなさっておいて、よくもそんな〈白々〉《しらしら》した顔でいられたもの」 「そうじゃ、あの方たちは、本当は離れとうはないと、星空と繋がっていたいと、そうずっと申されておられた、のに。生木を裂くよりまだ辛い。わたくしたち、ちゃんとお別れも、言えませなんだ……っ」  地下研究棟に立て籠もる職員達の、岩戸隠れの構えがシラギクに、綿毛を〈毟〉《むし》る容易さで潰されて後、彼らは管理局の内務監理部の施設に収容されていって、いまだ釈放される見こみも立たず。職員達が最後の力振り絞ったによって、双子だけが施設の奥底に逃されて、監理部の手から免れてある。斯様な経緯あるだけに、シラギクの取り成しは、体よく表面だけをなぞったとしか聞こえず、双子たちまち〈逆捩〉《さかね》じに激して然りだったろう。  なのにそれでもシラギクは、眸透き通らせたまま、の、眸がその時光った。翡翠の眸が階調の異なる硝子を重ねたように色合いさえ濃くなって、〈俄〉《にわか》に生気を発した。躍起と詰め寄っても、手応えに欠けること〈羅〉《うすもの》を突くが如しであったシラギクの、息を吹き返した様子が唐突で、言葉の接ぎ穂にまごついた双子の耳へ、 『〈糖〉《たぁん》〜〈葫〉《ふぅ》〜〈芦〉《るぅ》〜』    太い円い声の、心持ち震えて、〈痘痕声〉《ジャンコーごえ》というのか、朗らかに寂びた音色が車内に膨らみ渡った。長年野天で声を張り上げ続けて傷み、磨かれた喉に特有の錆と渋みを帯びた口上は、通路を進んでくる物売りから。紅く、〈艶〉《つや》を帯びた小玉を数珠と連ねて、重みに〈撓〉《しな》う細串を、幾つも刺した藁束を肩に負うた初老の、物売りが歩み寄ってくるにつれ、時季外れの〈薄氷〉《うすらひ》の冷たさと、氷柱を溶かす冬陽の温もりが混在した不思議な気配が漂ってくるのであった。市場の物売りが、脚の鈍い列車に乗りこんできたらしい。 「〈糖〉《たぁん》〜〈葫〉《ふぅ》〜〈芦〉《るぅ》〜」  シラギクの、輝く眸は、双子を越えてその物売りへと真っ直ぐ、難詰していた相手の不意の変貌に戸惑せるほど。それまでの硬質なお行儀の良さもどこへやら、双子に囁き問う声もまた、抑え難い好奇に小さく弾んでいた。 「私は初めて見るのだけど、〈糖葫芦〉《タンフールー》、これはどういう物なのかしら。食べ物? 飾り物?」 「……ご存じないの? これは〈山査子〉《サンザシ》に水飴を掛けたお菓子です。本当なら冬の、凍るような季節じゃないと、市場には出てこない品で」 「お菓子。飴を掛けた。ああだから、溶けてしまわないよう、保冷の呪式が施してある」  藁束を、縛りまとめる荒縄に差し挟まれた〈紙垂〉《しで》は値札と式符の二種、駄菓子の類にしては〈些〉《いささ》か値が割高なのは、季節外れの品を商う用の式符込みの数字と見えた。呪紋を見やるシラギクを、脈有りと見てか物売りの、足を止め、 「一串どうだね、小せえご婦人方。冷たくって、甘酸っぱくて、〈甘〉《うめ》ぇがすよ。お代は省貨と駅札のどっちゃでもええですわ」 「いいえ〈尉殿〉《じょうどの》、わたくしたち今は要りませぬ……と、なにか、シラギク殿はそんなに興味津々と。お前さま、今はまだわたくしたちとお話の途中でしょうに!」  売り物を教えてやったのはついうっかり釣り込まれただけ、別段態度を軟化させたわけでないと知りつつも、軽くゼルダクララを〈睨〉《にら》んで釘を差し、シラギクにはもっと釘より〈強〉《こわ》い剣の視線、老爺には裏腹に孫娘のように甘い笑顔で遠ざけの、ヒプノマリアはくるくる視線を使い分けて如才なく。ただシラギクとしては、折角の興を横から取りあげられてご不満らしい、僅かばかり唇を尖らせると、一つ指先を立て、窓を開けるように宙を横になぞって、みれば。 「ええ、そうじゃ、お前さまにはわたくしもクララも沢山申し上げたい儀が───え?」  ヒプノマリアの黒衣はあくまで〈瀟洒〉《しょうしゃ》に〈淑〉《しと》やかに、少女の華奢な線にまとわりついて、いたのに、不釣り合いだった、不格好だった、いかがわしかった、唐突だった。  彼女の股間の辺りがやにわ隆起して、天幕でも張ったが如く盛り上がったは、曰く言い難く〈尾籠〉《びろう》で〈妄〉《みだ》りがましかった。 「マ、マリー!? 貴女それ、スカート、前!?」 「ひ、わ、何事、わたくし、厭、やああっ!?」  男性のある種の生理現象を否応なしに想起せしめるその隆起、見る間に〈徳利〉《とっくり》ほどにも伸び上がってスカートを〈裡〉《うち》から持ち上げて、   『え、い〜しやぁ〜きも〜〜。お芋、お芋、お芋だよォ〜。つか変に薄暗くて良い匂いしやがるな、なんだここ』    ずるりと、スカートの〈裡〉《うち》の暗がりから這い出して来たのは妖物、などでない。〈裳裾〉《もすそ》〈捲〉《まく》り上げるのが一杯呑み屋の〈暖簾〉《のれん》を〈潜〉《くぐ》る気易さで、これも市場の物売りだった。立ち売り籠には古新聞に包まれた焼き芋が満載されていた。甘く焦げた皮の匂いがいと香ばしく、鼻をくすぐる唾を湧かせる。 「あら、このお芋は〈甘藷〉《サツマイモ》なのだわ。焼いただけでこんなに甘い匂いが立つんですの?」 「石焼き芋を初めて見たような顔だな、嬢ちゃん。まあ〈甘藷〉《かんしょ》って言うくれえだし。どだ、今なら二本買えば一本おまけに付けるよ」  どう見てもヒプノマリアより大柄な物売りが、スカートの〈裡〉《うち》より出でる〈奇特〉《きどく》を〈顕〉《あらわ》しておきながら、遣り取りは初見の屋台物を珍しがるの、商魂〈逞〉《たくま》しく売りつけようとするの、至極日常的で〈長閑〉《のどか》な、が双子はそれで収まろうはずがない。 「っ、っ、〜〜〜〜ッ」 「この方、なんて処から出てらして……っ。マリー、大丈夫? なにもされなくって?」  どうにもまやかしめいた奇禍に、言葉も作れず打ち震える半身を抱き寄せて、ばっばっとスカートの前、悪虫でもついたかに打ち払う、ゼルダクララの手の下で、あろうことかまた隆起する手応え。手触りの良いスカートの地の〈裡〉《うち》から、ごつごつしていた、野太かった、固くみっしり詰まっていた。また小さな塔と起きあがる。   『もろこしぃ〜、焼きもろこしはいかがッスかぁ〜。今朝もぎたてで、香ばしくって甘い焼きもろこしだよぉ〜……で、この、薄暗くって生暖かいここァなんだい。なんだろな、このさらさらした〈棒〉《ぼ》っ切れ二本は』 「ふああっ!? 今触って、わたくしの脚にっ」 「マリー!? マリーっ!!」  ずるりと、秘めやかなスカートの〈裡〉《うち》から産み落とされたのは忌み子、などでない。〈裳裾〉《もすそ》掻き分けるのがくすぐったそうなばかり、少女への遠慮も気後れもあったものかはで、やはり市場の物売りだった。立ち売り籠は舟皿に乗った焼きとうもろこしで一杯だった。香味の利いたたれが粒に絡んで、匂いでも見た目にも口中をひもじくさせた。先の焼き芋売りに並んだもろこし売りにもシラギク、興味もありありと、 「こちらのとうもろこしに付けてあるソースは……〈醤〉《ジャン》? けれどもなにの? とっても良い匂いで、美味しそうね」 「〈醤〉《ジャン》は〈醤〉《ジャン》だが醤油だよ。豆から造る。そうそう、この醤油だって大豆の〈生一本〉《きいっぽん》なんだ。変な混ぜ物とかは使っちゃない。〈甘〉《うま》いよ、お嬢さん、一本いかがだ」  派遣吏と物売りの言葉はあくまで〈暢気〉《のんき》に交わされる一方、双子は顔色失って今にも崩れそうであったり、あるいは頬を潔癖な怒気で真っ赤にして〈眦〉《まなじり》吊り上げたりの、穏やかならざる有り様な、むしろこちらの怒りの方が当然の感情として見やすく、ゼルダクララは今度は物売りに食ってかかって、シラギク相手では〈埒〉《らち》が開かぬと。 「貴方! 貴方もどういうおつもり!? 誰の許しあって、マリーの……その、服の中からなんて! いやらしい。大人の殿方でしょう、恥ずかしくありませんの!?」 「てな事言われてもなあ」 「俺もそっちの焼き芋屋も、どうやらそこの嬢ちゃんに引っぱり出されただけのようだぜ。呼び出しの術かなんかか?」 「頭ン中に声が響いたって思ったら、なあ? 大体いやらしいもクソも、さすがに嬢ちゃん達みてぇな子供にゃ、妙な気は起こさないって」  ……物売り達はそう〈宥〉《なだ》め〈賺〉《すか》したものの。後年この双子は、その少女の打ち見とはおよそ不釣り合いなほどの情趣と色香を身に〈纏〉《まと》い、男達の獣欲妖しく掻き乱すようになるのだが、ま、それはあくまで後の代の話。この時はヒプノマリアもゼルダクララも、男の心無い言い訳を女らしくいなせるほどには全く練れておらず、至当にして遣り場のない怒りは勢いシラギクへと向かう事になり、 「こちらが術って仰有ったからには、やっぱり貴女が……貴女の仕業、こんないやらしい事が。呪式をこんな風に使うなんて……あっ」  シラギクのしでかした事、と気づいてゼルダクララ、大の大人の男より同年代の少女の方がまだ掴みかかりやすい、爪立ててやろうと〈鉤〉《かぎ》にした指は、しかし〈翻〉《ひるがえ》ってその巻きスカートを押さえる、強く、封じこめるように。 「まさか〈妾〉《わたし》まで。〈妾〉《わたし》の脚の下からも、誰か呼び出すおつもりじゃないでしょうね……!」 「あら、それはなくってよ。貴女のお召しは、ほら、おみ脚がもとよりすらりって見えていますもの。誰か隠れるにしても、難しいじゃありませんか」 「ちょっと貴女の仰有る事が判らないわ」  理が通るような通らないような、シラギクの基準に〈憮然〉《ぶぜん》となるゼルダクララの、腕を掴んだ半身の、整った顔が哀しく崩れて、麗しの眼差しがかき曇って、涙。 「なにゆえ、わたくしばかり……クララ、わたくし、もう〈厭〉《いや》ぁぁ……っ」  黒衣の少女のスカートの前、また盛り上がり───   『いらんかね〜、〈苦瓜〉《にがうり》、ゴーヤー、レイシだよぉ〜。いぼがしっかりして、ずっしり重い苦瓜だよぉ〜。若いうちの種は白い綿みたいだけど、熟すと〈血糊〉《ちのり》みたいに赤くなるよ〜」    呼び売りで鍛えた渋い声が、ヒプノマリアのスカートの〈裡〉《うち》でくぐもって、低く響いたそれ、まるである種の性具の震動のような。ずるりと現れる更なる物売り、先のと合わせてもう三人も、双子もあって車内の通路はもう一杯、そして通路を塞いだ彼女達を取り巻いて、浴びせかけられる他の客達の視線は、邪魔と排して尖るというより、見世物小屋の演し物に注がれるそれに近い。それも官憲の手入れを受けるような、公序良俗に反する類の演し物へと向けられるそれ。刺さる視線を感じて双子は、お互いしか〈縋〉《すが》れる者はなく、しっかり抱き合って、へたりこんだ事である。  ───短時間の間にどこやら〈面窶〉《おもやつ》れして、目の下にも哀れらしい隈さえ薄く浮いたような、衣装も僅かな間に〈草臥〉《くたび》れ加減の、双子はそれでも気丈にシラギクを見下ろしていた。物売り達は派遣吏の少女が買い物する前に追い返されてあり、シラギクはシラギクで、好奇を満たす機会をお預けにされ、未練がましく車外の市場へ横目をちらりちらり、横顔を、ヒプノマリアの険が鉤立つ声音が引き戻す。 「そこまで興味がおありなら、ご自分で市まで降りてらしてはいかが。汽車の中に術で呼びつけるなど、傲慢という他ありませぬ」 「ごもっとも、とは思うのだけれど。私はこれでも公務の途中ですもの。あからさまに市場に降りていくなんて、〈憚〉《はばか》られるじゃありませんか」  さらりと矛先を逸らした、言葉は言葉で一筋の理屈が有るよな無いよな、ヒプノマリアはシラギクの眸の翡翠の曲面に、足元〈滑〉《すべ》って〈覚束〉《おぼつか》ない心地を得たけれど、言葉尻を捉えてどうにか食い下がり、 「あ。それ。それのことじゃ。お前さまのお仕事とやら。わたくしたちはお前さまに言いたきことがあるのです」 「そう。それのこと。もう止めてちょうだいな。そして中央にこのまま戻って。中央の決定だ、なんてお話だけれど。この『駅』のような辺境の事情、向こうの大勢には影響ないのでしょ? だったら───」  言い差して、言い淀んだ、言の葉の淵に軌道の枕木を〈食〉《は》む震動が、むずかる赤子を寝かしつける手のように、緩く低く。自分達がいかにも〈頑是〉《がんぜ》ない小児であり、〈埒〉《らち》もない〈繰〉《く》り〈言〉《ごと》を取り並べているだけだと諭すような、駅内路線が緩慢に進む響きとそしてシラギクの、秩序という概念を象徴する沈着な座像と。  判っているのだとも、ゼルダクララもヒプノマリアも、世の中に羽化してようやく羽根が乾いたばかりの双子であっても、自分達が何者に逆らおうとしているのかくらいは、心得てある。それはきっと天とか運命とかいう、少女二人の手では〈抗〉《あらが》いようのない巨大な概念だ、けれど。覚っていたところで〈諦念〉《ていねん》の流れに身を任せるには、二人はまだまだ幼すぎ、シラギクの前に、両手広げて立ちはだからずにはいられない。  沈黙に向かい合う暫時は、双子にとって生物が石と化すほどの時間にも匹敵するほど長大で耐えがたく重いものであっても、結局双子が辿り着いたのは、所詮シラギクが中央の意志の使者でしかないという結論の、それも既に二人でさんざん議論し合った事実の再確認に留まった。  知らず詰めていた、息を静かに吐く、しばし遠ざかっていた車内の人声が三人の周囲に立ち戻ってくる中、ヒプノマリアは〈倦〉《う》み疲れて頭を振り、 「クララ。やはり言うだけ無駄のご様子。この方に言うても、詮なきことのよう。とは申せ、シラギク様、お前さまの好きなままにはさせませぬ」 「それではわたくしたちはわたくしたちなりに、お前さまの、そして中央の好き勝手を止めるべく力尽くさせていただきましょう……」  車窓一枚隔てただけであるのに、市場の旺盛な陽気、双子とシラギクの間に垂れこむ塩辛い空気に比して、滋味豊かな泉の湧出音ほどの差が生じてある。ざわめかしさは双子が有ろうが無かろうが車窓の向こうでただ満ちて流れていくだけなのに、当てこすり、徒労感をより深くするようにさえ思われて、ヒプノマリアは半身の息遣い以外は耳から締め出したくなる。あくまで今日の派遣吏の少女との出会いは偶然によるものなのに、交渉の決裂は既に預言の石盤に刻まれており、変えようのない事実だったような、無力感、思い知らされて胸が〈疼〉《うず》く。  まあ、初見の時の呪術による暴威、加えて今日の破廉恥三昧と来ては穏やかな関係性を期待するなど鼻毛で〈蜻蛉〉《とんぼ》を繋ごうとする阿呆と同等の愚行である。  まだスカートの〈裡〉《うち》に忌々しくも残る物売り達の体積の感触を思えば、尻尾の毛を〈毟〉《むし》られた〈狐猿〉《きつねざる》よろしく狂奔して地下の施設に駆け戻り、当分は陽の眼も浴びず夜具を引っ被って寝台に引きこもりたい〈羞恥〉《しゅうち》と口惜しさの涙に枕にかじりついていたい。やがては泣きの涙で枕が湿気り腐って茸も生えるだろうし、その茸が幻覚性の作用を持っていればなお良い、貪り喰らってお脳が妖しい幻の味噌漬けになれば少しは今日のいかがわしき憂き目も忘れられようというものだ。  とまれ、双子としてはこうして他者と対立関係を明確にするのは、初めての行為だった事もあり、少なからぬ緊張に背筋の〈撥条〉《ぜんまい》を固く巻き上げていたところ、シラギクは変わらず〈悠揚〉《ゆうよう》とした物言いの、だが告げた言葉が二人を激しく〈蕩揺〉《とうよう》させて、 「それはたとえば。私の来訪を警告して回るとか、そういう事かしら? そういえばこの路線の先にも、宙港事務局の分室、ございましったけ」 「どうして、それを───!」  下着の色を言い当てられるのとどちらが増しだったろう。いや、推理力に長けた名探偵ならずとも、双子の宣言と乗りこんだ路線の行き先から類推すれば、彼女達の目的などその可憐な乳首の色を透かすよりも容易く推し量られた事であろう。  動揺隠しもできず言葉詰まらせる双子に向けられた眼差しは、好ましげですらあったとか。 「それはまあ、お二方の顔色を拝見いたしたなら、おおよそのところは、ね。けれどもそちらの分室については、これから伺っても無駄だって思いましてよ」 「何故、そう悟ったように申さるる」 「だってもう、私が参じた後ですもの。もう業務停止と閉鎖の辞令は伝え終えた後。整理と準備とを始めている頃でしょう。皆様、とっても協力的でしたっけ」  ヒプノマリア、つい発作的な激情の〈迸〉《ほとばし》りに身を任せてしまいそうになる、ところをすんでで踏みとどまった瀬戸の際。これは実に危うい瞬間で、彼女達双子を育んできた人々の心優しく高潔な教えがあらなんだら、シラギクの、美々しい制服の肩章紐をもぎ千切って彼女をぐるぐるに縛り上げて、掃除夫の亡霊が出没するという噂の、真っ暗な倉庫にぶち転がしてやりかねなかった。  なんでもその亡霊は女の子の〈蹠〉《あうら》を〈舐〉《ねぶ》りまくるという癖が有るそうだが、そんな曖昧なモノに委ねるに留め、〈猿轡〉《さるぐつわ》を噛まして『おキクでございます、可愛がって下さいまし』との札を首から下げて、〈安女郎屋〉《やすじょろうや》の前に捨ててくるとか、局部に粉チーズを振りかけ鼠の巣穴の前に放置するとか、その辺りの発想を考えつかない辺りも双子の育ちの良さを示していよう。  ヒプノマリアとしては、肩章紐を掴んで引きずり回すという衝動それだけでもその暴力的な激情をすぐさま悔いたのだけれど、ゼルダクララもまたその片手をもう片手で懸命に抑えこんでいる様子であり、半身が同様の発作に捕らわれていた事に共犯めいた安堵を得られたから、声を強くする事が出来た。 「協力的などて! 偽りとしか思われませぬ、きっとお前さま、また乱暴な術など使ったのでしょう?」 「大体向こうにはもう伺った後って、なら何故まだこの汽車に乗ってるの」 「それはだって、市場の景色に見とれてしまったのだもの。ちなみにもう三往復はしていまして」 「貴女……どこかしら、おかしいのじゃなくって……?」  双子は、派遣吏の少女の麗しさに関しては認めざるを得ないところであったけれど。  その美質を構成する要素、部品は、自分達とは全く異質のモノ、今後このシラギクと相容れる事は無かろうと、その時はそう信じた、のだけれど───                      ───二───             駅は地上に於いては幾重にも積層した構造物でもって地表を埋め尽くしているのみならず、地中にも地下鉄道、それに伴う各種施設でもって下方にも伸びて、地下にても複雑な版図を広げている。それらの重層的な構造を透視眼的な視点で辿っていく事は、蟻の巣の模型図を〈俯瞰〉《ふかん》するにも似た興趣に富んだ試みといえ、用途、意味共に不明な区画構造に出くわした時には世界の陰の仕組みを垣間見したかの想像を〈逞〉《たくま》しくさせられる。出歯亀と言ってしまえばそれまで。  ともかく、その一室は、駅の地中深くにあって他の運用系統からは殆ど独立し、現世にあってなお〈隔〉《かく》り〈世〉《よ》の一部分を切り取って〈嵌〉《は》めこんだかの、秘密めかした香気に満たされてある。  そこでは地中深くという環境に由来する厖大な圧迫感も、そのまま心地好く庇護されているという感覚に替わる。そこでは地下深くという重圧は奇妙に和らげられ、心を穏やかに鎮める〈静謐〉《せいひつ》にと変じている。  位置としては先だって鎮圧されたばかりの、駅北東部地下、航宙研究施設群に属してはいるが他施設群のいずれよりも深く、かつ独立し、行き着く為には古代祭儀の手順めいた道筋を辿る必要のある、そこ。噂によれば研究施設群の創設時以前より存在し、代々の施設管理長にのみ秘密裏に伝承され、〈繙〉《ひもと》かれれば既知文明世界の理性を揺るがしかねない、危険な秘密が封印されているとかなんだとかひそひそと。  事実としてはそんな野放図な秘密は存在せず、ただ胡桃の中の小宇宙めいた、狭にして快、雑にして悦、無為にして驚異の一区画が地中深くに〈刳〉《く》り抜かれていた。古風な博物学者の夢の城、とでも言おうか。  〈幽〉《かす》かな保存剤と、年代と種々の雑多な古物に古書の〈混淆〉《こんこう》された匂いは如何なる銘香にも勝って、ある種の趣味嗜好を有する者には特別〈誂〉《あつら》えの空気となろうし、壁を埋め尽くす書棚と書物は〈瑰麗〉《かいれい》な王国の城壁、あちこちに配された〈長櫃〉《ながびつ》や陳列棚に所狭しと満載された蒐集物は、その一つ一つの故事来歴を述べていくなら巨大な図書館が要求されよう。それらは大地上の各世界から集積された遺物達ばかりであったが、星々と宇宙にまつわる記録や資料を相手取るこの航宙研究施設群の〈奥処〉《おくが》に在って、前時代的湿潤の象徴、その錨として釣り合いを見せてあった。  他部署、施設はあの派遣吏の少女によって封鎖されてしまっている中で、この〈奥処〉《おくが》が双子の自由になる世界として遺されていたのは幸運と言えたし、それ以上になにかしら象徴的でもある。施設群の管理長が『書斎』とのみ呼び慣わし、代々秘密裏に守り伝えて来た一室だが、双子には解放され幼少の頃より遊戯室であり学習室であり、時には瞑想の空間でもあった。学者というより宗匠を思わせる、雅趣に富み〈飄逸〉《ひょういつ》な人品の管理長なる人も、しかし施設にはもういない。  双子がここで、始めは彼の人からおずおずと学び、やがては自信を持って習熟するに至った茶立ても、今や彼女達自身が味わうのみ。その豊潤な香りを喜び優しく讃えてくれる人はもういない、誰も。  故にこそ、双子は保存剤と古書の匂いと入り交じる〈茶薫〉《ちゃくん》の幕に、どうにもやるせなく職員達の横顔を投映してしまうし、 「〈妾〉《わたし》、あの人、大嫌い」 「わたくしだって。わたくしなど、あの方のお陰で人前で、あんな、焼いた芋だのゴーヤだの、どころか脚まで晒して、あんな……っ」  〈啜〉《すす》りつぼやき合う声音にまたなんとも鬱屈が溜まっていて、せっかくのお茶も、ポットの中で紅茶茸が発生してしまいそうなくらい。液体というより香気の雲のように玄妙で、果実でも混ぜてあるのか、瑞々しく甘いのに。  仕方あるまいてや。  彼女達にとって、それまで触れ合ってきた人々は誰も彼もが二人に優しく、言わば錦張りの揺籃の中で育ってきたようなもの。ただそれは双子が関わってきたのは、殆どがこの施設の職員に限られ、外部の人間とはあまり深い交流の機会がなかった為であって、世間の厳しい風に晒されるを知らなかったとも言い換えられる。  それがシラギクはどうだろう。外部も外部、駅の人間ですらない、遠い中央から来たった派遣官。彼女の来訪は双子に見知らぬ風を運んできた、どころか巨大な〈颶風〉《ぐふう》であり、残していった傷痕が癒される日が来るとは思われない。それまで双子にとっての家であり一つの世界であった研究施設は、この奥底に半ば隔離されるように設けられた書斎以外は封鎖され、馴染んだはずの各部署各室の扉ももう、開けることも出来やしない。シラギクが施していった呪印に拠る封鎖は、彼女本人以外には解呪は不可能と思しく、双子が知る限りの手を尽くそうとも全く反応がなかった。  この大地上においての呪術というのは、一種の技術として扱われている。幾つか種類のある呪術言語を用いて方程式を編み解を導き、それらを術者の記憶〈乃至〉《ないし》は肉体そのものに定着させ、なんらかの〈音韻〉《おんいん》、〈結印〉《けついん》、その他諸々の等号、イコールを意味する行為でもって発動させる。それらの方程式を、呪術方程式、あるいは呪術公式、呪式などと称する。  簡易な術であれば民間にも広く〈膾炙〉《かいしゃ》して、本人が術を習得しておらずとも、符、あるいは呪式を印刷、刻んだ器物が有れば利用は可能で、こちらに使用される呪術方程式は、公に知られた式、という意で呪術公式と呼ばれる事が多い。  ただそれらの呪術公式の効果というのは、他の日常道具の間に合わせの代用程度に留まり、たとえば双子達が遭遇した物売りが用いていた保冷保温だとか、生物の腐敗を少しばかり遅らせたりとか、傷や病気の痛みを少々和らげたりとか、錆びついた錠前の動作を〈滑〉《なめ》らかにしたりだとか、衣服の縫い目をほつれにくくしたりだとか、有れば便利、というくらいのものである。現在の地球の我々からすれば、実際に効果のあるおまじない、という認識が近いだろう。  一方、高度な術が為しうるところに関してだが、実のところこちらもその大半を科学技術が同等の成果を成し遂げていたりする。確かに高度で強力な術ともなると、その効果は軍事兵器や電子機器にも匹敵する、とはいえそれは極論してしまえば別段呪術無くとも科学技術があればいいと言う事でもある……。  そういった高度な科学技術の発達した文明と呪術が共存しているというのも奇妙な話ではある。恐らくは大地上においては呪術は本来人類以外の、より古い種族が用いていたものであり、人類にとっては後発の科学技術の方が馴染みやすく、利用しやすかったという事なのだろう。  実際、高度な術に関しては術者の深い理解と相応の知識がなければ定着させる事すら困難であり、習得には長い歳月と専門の学習が要求される。育成していくのにも多大な費用が要求される。為に一般社会においては高度な術者の数は限られ、他の学問体系の権威に比して明らかに人数が乏しい。  そういった事情から、強力な呪術を行使しうる人材というのは、殆どがなんらかの体制組織に属し、管理されていて、民間での高度術者は珍しい存在となる。  それでも大地上で未だ呪術が用い続けられているのは、術を極めた人材の利便性と、科学と融合という運用法が存在している為だ。  やはり一人の人間が身一つで、兵器や電子機器の力無しに同等の能力を行使しうるというのは、全ての状況下で多大なる利点を得られるものであろう。そして科学技術と呪術方程式を融合させた場合。融合といっても単純に科学機械と呪術を併用するという事ではない。双方の機能を補完、増幅し合うとでも言うべきか。これは実際は大きな困難を抱えた作業なのだが、成功した場合はまさに魔法と評して過言でない性能が実現される。この時代の航宙技術の基幹技術も、科学と呪術の融合の成果に多くを負っているのである。  加え真に習熟した術者となると、新たな呪術方程式を構成する事さえ可能であるとされるが、その段階まで達した者は大地上の悠久の歴史を見渡してみても稀だとか。中央からの派遣吏シラギクがどのレベルまで至っているかは不明なれど、あの数百平〈米〉《メートル》に及ぶ広間に築かれたバリケードを完膚無きまでに打ち崩し、かつその背後に立て籠もっていた職員達にはせいぜい打ち身を与える程度で意識のみ奪った、その威力、精度と、彼女の若さを鑑みるに恐るべき才と言わざるを得ない。  これまで中央からの航宙港機能凍結命令に頑迷に抵抗し続けてきた駅に対して、ただ一人のみで送りこまれてきた事も故なき事ではないのだろう。  更に捕捉すれば、駅が在する甘夏省は他国に比べ呪術利用に関して後れをとっており、駅内全体そして航宙港施設にあっても航宙技術に関連した呪式への理解はあれど、それ以外の運用や実際への認識が甘かった。たとえシラギクの、可憐で幼げな少女という外見に騙されず、多少の呪式の心得を持つ職員があったとしても、彼女には〈抗〉《こう》しようもなかった事だろう。  さて、呪術、呪術方程式という耳慣れない語句を解説するためとはいえ、随分とくだくだしくなった。そろそろそれぞれの不興の態で茶を〈啜〉《すす》る双子へ話を戻そう。 「〈妾〉《わたし》たちね、今はまだお手伝いしかできないけれど、何時かはここの書庫を守っていくようになるって、そう教えてもらっていたわよね、マリー」 「然り、です。この駅から宇宙に発たれた方々との交信、戻ってこられた方々の色々の知見、そういった資料を、皆、全て。集め、記録し、保存します。ええ、わたくしたちはいずれ」 「そう。そのお仕事に就くために、生まれてきたのだものね。けれど───」  彼女達は、この地下の施設にて職員達に掌中の珠玉、黄金細工の蝶よ白銀造りの花よと寵されてきた。といって、ただ単なるマスコット、愛玩物という扱いだった訳でもない。  ヒプノマリア、ゼルダクララ、この両名には通例的な意味での二親というのは存在していない。彼女達二人は、遺伝子段階から様々な調整を施され、胚から誕生に至るまで機械子宮にて過ごした、完全に人工的な出自を持つ人類である。こういう出自を有する人物というのは、差し詰め〈劫初〉《ごうしょ》神話紀なら『女の胎から産まれた男では絶対に〈弑〉《しい》す事のできない半神半魔』を滅ぼすあたりの役どころが与えられるところだが、この双子は地下研究施設の文書庫の司書として、その才を付与されて誕生した。双子はそう聞かされ育てられたし、職員達もそのように二人を養育した。  ここに倫理的な問題を見出して指弾する事は容易いが、職員達が行ったのは洗脳ではなくあくまで訓育である。何も双子を施設に監禁していたわけではなく、彼女達が施設外に外出する事は自由であったし、その行く末も最終的には双子の自由意志に任せてある。そしてその上で、双子は現在のところ文書庫管理人としての先行きを選択していて、それをも支配的な意志の結果というなら、世の子供というのは大半自由意志で人生を選べない事になる。  実際、施設の職員達の接し様というのは過保護、〈乳母日傘〉《おんばひがさ》、だだ甘というに相応しく、双子はこれまで遺伝子調整、機械的出産と言った出自につきまとう無慈悲で傲慢な印象からは程遠い半生を経てきており、それは二人の少女の人となりからも知れよう。  二人が今日まで〈窈窕〉《ようちょう》と育つまで、職員達は年老い代替わりを重ねたけれど、二人にとって職員達は優しい父母、兄姉、家族でしか無く、そんな人々を突然奪い去った中央の方針の方がよほど悪逆非道に尽きるというもので。双子の嘆きの尽きざる処知らず、あれ以来飲むもの食べるものといって、砂を流しこんだように味が失せている。 「けれど宇宙港が無くなってしまったのなら、ここの書庫だって要らなくってしまうのでしょう。そうなってしまったなら、〈妾〉《わたし》達はどうすればよいのかしら」 「そんな事になったればわたくしたちは……離れ離れにされてしまう事だってあるやも。い、〈厭〉《いや》じゃ。わたくしはお前さまと離れとうはありませぬ。生まれ落ちた時から一緒ですのに」  不思議な金属光沢の眼差しに降りた〈翳〉《かげ》りは、美の信奉者なら下手人を見つけ出し、その脇下にチスイコウモリの一家族を吸いつかせて緩慢な失血死に追いこんでくれんとの義憤に燃やしてしまいかねないほどの憂愁に満ちていたし、 「〈妾〉《わたし》だって〈厭〉《いや》だって言います。それにここを離れてしまったなら、どういう事になってしまうのか、それさえも判らないんですもの」  普段は可憐に唱和する、その音色だけでも金に値する声は───実際双子への愛が行き過ぎて、二人の声を録音抽出して人工音声楽器として地下販路にて売りに出した狂的ファンも過去にあったりしたのだが、その人物は両の耳孔から蝸牛が止めどもなく這い出すという奇病に〈罹患〉《りかん》して狂死した───声は、今は暗い想像に、低く物悲しく静まって、 「別れ別れに引き離されて、ええと、そうよ、マリーは意地悪などなたかに連れて行かれて、それからご不浄に閉じこめられて」  ご不浄に、と耳にしてヒプノマリアの表情がたちまちにかき曇った。ここ数日来というもの、シラギクが振るった猛威を目の当たりにした衝撃消えやらず、夜半に〈魘〉《うな》され跳び起きては強い尿意に悩まされる日々。さりとて一人で用足しに行くのも恐ろしく、半身についてきてもらって籠もる化粧室は、夜通し灯りは〈煌々〉《こうこう》〈点〉《とも》されているにもかかわらず、少女の心を映してか、その光さえどこかじったり湿って気味悪い。扉一枚隔てて半身があるとは判っていても、済ますまでの時間の耐え難さといったら。 「その上連れて行かれた先では、もちろんお食事だってちゃんとはもらえません。出してもらえるのは焼き芋だとか」  陰々とした焼き芋、の音が耳に染みてヒプノマリアの胸中に湧き上がったのは暗黒の雲。たちどころに先だっての駅内路線での記憶が想起せられ、少女は総身袋詰めにされたかの圧迫感に捕らわれた。しかもその袋の中には耐えがたい〈痛痒〉《つうよう》もたらす棘がびっしり植わっているとくる。 「さもなければ焼いたとうもろこしだの苦瓜の炒め物とか、そんなものばかり───って、マリー? マリーどうなさったの、そんなところに〈潜〉《もぐ》りこんで」  見てゼルダクララはぎょっとして、なんとなればヒプノマリアは書斎の壁一面を占める書棚の、最下段に収められた書物一列皆引っぱり出して、空いた隙間にその身を無理矢理〈捩〉《ね》じこみの、四肢を奇妙にねじ曲げてまで〈潜〉《もぐ》りこんでいる様は蛸壺に〈潜〉《もぐ》りこんだ頭足類を思わせたが、あちらは好きで入りこみ、こちらは恥辱の記憶からの全力の逃避という明確な差違がある。  あの時の情けなさはまだ生々しく、思うただけで水揚げされたばかりの海綿よりも涙がもろもろもろもろ溢れ出て、ヒプノマリアはゼルダクララを〈睨〉《にら》みつけた、涙目は下段の列から見上げてくるから相当に奇妙な角度で。 「意地悪……クララは意地悪じゃ。何故そういうわたくしの〈厭〉《いや》がる事ばかり申さるる。そんなクララなんて、こちら、ご〈覧〉《ろう》じませ!」  周りに書き出した、書物の一部を引き掴み、這い出し様に〈繰〉《く》り開いて突きつけて見せたが『図説・木乃伊ノ作リ方』。しかも彩色版であった。  眼前に突き出されたモノには、魔や〈妖〉《あやかし》でさえ意識奪われ見入ってしまうのが〈古〉《いにしえ》からのならいで、ゼルダクララなどは当然のように頁の見開きを、つい眺めてしまってしげしげと、数瞬は焦点が合わずにいたのがやがて定まって、図像の意味を咀嚼するにつれ。 「そんな……お鼻の穴から……焼いた鉤針で……中には、生きたまま、麻酔を掛けて……ああ、なんて言うこと……止めて……マリー、止めて……」  見る間に白茶けていく肌の、もとより色の白い双子ではあったけれど、まだ優しい色味が通っていたのだと思い知らせるくらい、血の気が失せて、冷たさは陶磁器紛いに。 「ほお。こちらはお気に召されぬかや。なればこちらはいかが」  ……ならばとて、次にヒプノマリアが引っぱり出したのが『世界の奇病事典』であり、椀が空いた端から放りこむ〈蕎麦〉《そば》のように更に見せつけたのが『冬虫夏草図鑑』であり、お気に召すより召さない基準でわざと選んでいるのがありありと、この書斎の本来の主が、どのような趣向を有していたのかその一端なりとも窺えよう。  ゼルダクララはゼルダクララで、一発目の〈楔〉《くさび》で抵抗せんとする心と身体の繋がりを断ち切られ、顔を〈背〉《そむ》ける事すらならず、繰り出される〈目眩〉《めくるめ》く図像、しかも真に迫る彩色と緻密な描写というのが金盤の眸に映って次から次から。  だから、彼女がぺたんと臀から崩れたのは、単に身体から心という芯棒が失せていただけで、図像から逃れんとするなら目を覆うだけで事は足りた。むしろそうやって座りこんだために、精神的な責め苦に物理的な苦痛までが加わった。  臀が床に落ちた瞬間に。臀から脳天まで貫いたのは、鋭いのに鈍くて、重くて熱くて一遍にゼルダクララの全神経に波及して、これはなに、と体内の感覚を探ってから少女は大いに後悔した。 「っひ!? ん〜〜〜〜〜〜ッッ!」  それは激痛。シラギクが地下の広間を制圧した際、その威力の余波を喰らってガラクタの山に叩きつけられて負った、臀の打ち身の、不用心に腰を落としてしまったことで蘇った。  尻餅をついた姿勢のまま、柔い肢体が奇妙な象形文字のように硬直して暫時、やがて傾いていって横身に倒れた少女の、そろそろと臀を押さえる手、死者の瞼を下ろしてやるように丁重に、震える唇からの吐息は、岩から絞り出したように痛みが凝縮されていて。 「はぁぁ……あ……お臀の、〈撲〉《う》ったところ……少し良くなってきていたのに……うぅ……前よりも痛い……ぅ」  切れ切れの、苦鳴混じりの息遣いに、ヒプノマリアを仕返しの女傑にと燃やしていた熱はあっという間も無く冷やされて、〈昂然〉《こうぜん》と反らされていた胸に立ち返ったのは半身に対する常通りの心、同じ血へ通い合う情の。慌ててゼルダクララへ屈み、 「あ……わたくし、なんてことを。許して、ね。許してたまわれクララ。痛むでしょう、辛うございましょう、ああわたくし、どうすれば」  おろおろと臀を撫でさする手は優しい、がこの際は仇にもなる、僅かの刺激でも痛みとなってゼルダクララを苛む。 「気にしてな……いィィ痛いぃ! 気に、してません、マリーのせいではないもの、うぅ、けれど今は触れないで、ね、ね、お願い」 「ああ、どうしてこんな事に……わたくしたち、今までずっと仲良うありましたのに。今日にかぎって何故こんな」 「貴女のせいでも、〈妾〉《わたし》のせいでもない。いたた……これ、みんなあの方がいけないのよ」 「ええきっとそうじゃ。シラギク殿、いやさ、シラギクの。あの方には、わたくしたち、そして皆様の口惜しさと無念、いかにしても思い知らせてやらねば」 「そうよ、そうなのよ。思い知らせてやりましょうね、マリー、〈妾〉《わたし》と貴女で……っ」  ゼルダクララとヒプノマリアは復仇の心炎更に新たに強くして、誓い合い励まし合い、震える指は互いに絡め合って懸命に鎮め、零れる涙は半身の目元にそれぞれそっと口づけで優しく〈拭〉《ぬぐ》い合う。  芋やゴーヤーに〈玉蜀黍〉《トウモロコシ》は、〈夢馬〉《ナイトメア》がメアのくせして股間から盛大に生やし〈跳梁跋扈〉《ちょうりょうばっこ》しそう、夜毎の悪夢の新たな脅威として、まだまだ怖や怖や。臀だとて火が点じて苦学生が〈科挙〉《かきょ》に合格するまで机を煌々照らし出してしまいそうなくらい痛や痛や。それでもああそれでも、負けてはならじ───と。                      ───三───             駅の地表を覆い埋め尽くす構造物の大半は、拡大すれば継ぎ増し建て増しで上に横にと際限なしに拡張されていった経緯が見てとれる。それら積層されていった建物とは異質の、ただ一つの、単体として他を圧する偉容を誇っているのが、駅の中央部に〈聳〉《そそ》り立つ岩塊である。  〈無闇矢鱈〉《むやみやたら》と巨大なモノに特有の、人を果てしない爽快感とも底知れぬ不安感ともつかぬ心地に押し包む、量の圧力というか迫力を放つここ、大地の〈臍〉《へそ》とかそんな形容が相応しいこの大岩塊が、後代では『キヲスク砦』と称されている事を知る読書子もあるだろう。  キヲスク、と言えば語感からしてこぢんまりした駅の売店であり、一方砦と言ったら軍事的な〈要衝〉《ようしょう》を指して物々しく、この二語の結ばれは〈行商〉《ボテフリ》が天秤棒替わりに短機関銃を担いだが如き感が否めぬ。が、実際としてこの超巨大岩塊、駅の購買局と民間の商工会議連が主宰する一大複合商用区域と、防塞拠点としての両側面を持ち合わせている。  この岩塊の内部に明らかに人工的な大空洞が発見されたのは、記録も曖昧な駅の創成期に遡る。大岩塊内部の空洞は、そのような〈五劫〉《ごこう》の擦り切れず的な過去から、時代時代で忘れられたり脚光を浴び直したりしながら様々な形で利用され続けるうち、何時しかすっかり企業個人問わずの商店の一大根拠地として定着した。〈団子虫〉《ダンゴムシ》〈草鞋虫〉《ワラジムシ》の生まれ変わりでもあるまいに、何も好き好んで岩の中に引っこまずとも良かろう、とは健全に過ぎる観点で。女の見映えは夜目遠目傘の〈裡〉《うち》など言うように、白日に露骨に晒すより、薄暗がりの電飾の下に繰り並べた品の方がより魅力を孕むという定理を、心得た利け者が多かったという事なのだろう。  だが彼ら目利きの商人達にも、駅内儀典局付きの歴史学者達にも、まさしく一つの城塞にも比すべき大質量を〈刳〉《く》り抜いた偉業が、何者の手に〈拠〉《よ》るかはいっかな定かにならぬまま。来歴を明らかにせぬまま遺蹟を用い続けることは神威への冒涜とみなせなくもないが、なにまあその工匠が誰かは知らずとも、内部に楼廓を透かし彫りした象牙の珠を〈愛翫〉《あいがん》するのは勝手であろう。  ともかく大岩塊が、商人達の一大拠点として時代の推移を越える間にも、駅は幾度かの戦乱内乱の激浪を〈蒙〉《こうむ》った。  するうちその内部が〈究竟〉《くっきょう》の防塞拠点としての機能を見出されるまでには差したる時間もかからず、かくして巨大岩塊は『キヲスク砦』なる親しみやすいのだか大仰なのだか微妙な呼称を得るに至った次第。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  巨大岩塊内部の大空隙に入りこんだ者の大半は、距離感〈見当識〉《けんとうしき》の酩酊に見舞われる。内部への入口自体は岩塊のスケールに比せば針の穴のように細小なのに引き替え、大〈穹窿〉《ドーム》状の〈天蓋〉《てんがい》は巨人が全力で跳躍してもまだ手が届きそうにないほど高く、岩盤に〈遮〉《さえぎ》られて陽も届かず、永遠に封じこまれたその闇の中には無数の光の、すぐ〈傍〉《そば》では露店屋台建て屋の灯り、遙か向こうでは内壁に張り巡らされた通廊軌道の照明、近きにも遠きにもさんざめいて、自分がどこに立っているのか見失わせる。  この、岩盤によって鎖されていながらもあまりにも広大な大〈穹窿〉《ドーム》は、外界の、駅の積層建築群中に在る時よりも全天の空間を強く意識させる作用がある。  これで大〈穹窿〉《ドーム》に無音の〈帷〉《とばり》が降りていたなら、足元は地を踏んでいるにもかかわらず、宇宙空間内に突如として投げ出されたような喪失感に囚われるかも知れないが、ここは昼夜の別がない故に、足並み揃えた終業時間というのを持たず、終夜終日どこかしらの商店ががなりたて、時知らずの活況があちこちで展開されていた。  ただそれでも、と双子は入口近辺の商店群を見やって思う。以前に施設の職員に連れられこのキヲスク砦に〈訪〉《おと》のうた時には見えなかったものが、大〈穹窿〉《ドーム》内のあちこちに蠢いているようだ、と。それは軍服の一団であり、立ち呑み屋台を酒保替わりに占拠しているようなのはまだ平和な方で、中にはどういう作戦立案が為されたのか、ある区画の建て屋を一画まとめて徴発して哨戒拠点に当てている隊さえ見受けられた。  ここにも戦争、と双子は、軍属らしい男が弁舌の鼻息も荒く、露店の親爺を立ち退かせようとしているのを横目に通り過ぎる。  キヲスク砦を管轄する駅購買局と商工会議連が、頑強に軍からの干渉を突っぱねようとしていることは駅内でもつとに知られた対決姿勢であったとはいえ、それでも時流には逆らえないと思えば、何やら自分達の身の上と同様で物哀しい。  目が軍属の男と露店の親爺のやり取りから逸らせず、後ろ神背中に取り憑かせたまま歩を進めていたから、ヒプノマリアは、半身が遅れている事を見逃して、慌てて後戻り、すればゼルダクララは露店の灯りを金属光沢の眸に弾き返して夢中の様。店主がひねり回している何やらが気になって仕方ない様子。  店主の手の中で、始めは毬だったのが、どう揉み解いたのだか鼓状に形を変えて、あれ、とヒプノマリアが覗きこんだうちにも花の形に開いて、あれあれれと目を〈凝〉《こ》らせば今度はブレスレットになって手首を〈潜〉《くぐ》る。  幾つかの針金の切片とビーズ玉を継いで造った玩具のようだが、どれだけ真剣に注視してもヒプノマリアにはさっぱり変形の仕組みが判らず、終いには自分の指で触れて確かめてみたく、なってはっと我に帰って半身の〈袖飾〉《そでかざ》りを引っ張って道行きに引き戻しの、ゼルダクララの不満顔に〈頷〉《うなず》かれるところだが、露店の子供騙しに気を取られていては駄目と首を振った。  双子ならずとも興味を持たれた読書子は、タージ・マハルの毬という名で物の本を当たってみられるのも良かろう。なるほど針金とビーズ玉だけで造られる簡素な玩具ではあるが、幾何学の産物でもあり、なかなか子供騙しと馬鹿にしたものでもない。  先日駅内路線から眺めた〈路傍〉《ろぼう》の生鮮市場が、地に足を〈逞〉《たくま》しく落ち着けた世界なら、岩塊内部大〈穹窿〉《ドーム》はなんでも揃った玩具箱のよう、扱われる品々もどちらかと言えば〈土産物〉《スウベニア》だの得体の知れないガラクタだのが多く、大地上を行き交う旅行者の中にはこのキヲスク砦の大〈穹窿〉《ドーム》市場を目当てに駅を来訪する者もあるという。  店々の峪間を足早に進む双子の姿は確かに目を惹く〈花枝招展〉《かししょうてん》、なれど〈四囲〉《あたり》の薄暗がりを染め上げる満艦飾の電燈は更に色絢の、むしろ双子の眼の方を色灯りに照らされた品々に誘引して止まない。  色合いだけでもそうであるのに、いまし双子の耳元で軽妙な響きがぱたぱたぱた、音の面白さで反射的に目をやれば、立ち売りの阿仁さの指が吊り下げた、小さな板切れを何枚も連ねた帯状の玩具がぱたぱたと。  板を連ねた細帯に仕掛けがあるのか、端をつまみ〈捻〉《ひね》れば上端の板から順々に下端までひっくり返っていって、その動作も〈飄逸〉《ひょういつ》ながら、板の裏表に描かれた模様が入れ替わっていくのがなまじな動画よりも興趣に富む。  阿仁さが口上を添えて板の裏表、返す度に双子の目線は釣られて上から下にと何度も往復して、今度はゼルダクララが心づいて腕をつつくまで、二人の足はまた止まっていた。  帯からくり、あるいは板返しなどと言うて、要は交差式〈蝶番〉《ちょうつがい》の機構を用いた代物で、玩具としても相当に素朴な部類に入る。  が、こういう動きのある玩具というのは大人子供を問わず、動体神経に小気味よく響いて目を釘付けにする力が大きい。ありふれた玩具であったとしても世事に遠い双子にとってはなにをか〈況〉《いわん》や。  事ここにいたって双子は、この大〈穹窿〉《ドーム》市場内には至るところ誘惑が氾濫している、これは危ういと自戒して、後は〈俯〉《うつむ》き加減に小走り耳塞ぎ、の、焦った足取りに迷子かと案じて声を掛けた親切姐御も、もう周囲の物音は全て誘惑の波状攻撃と思いこんだ二人には、〈人攫〉《ひとさら》いの類と映って懸命に逃げ足さ。  だから、「消える妖精」も「六連パズルリング」も「無限音階ソノシート」も「鞘絵」もみんなみんな意識を硬直させて遠ざかり、見逃す惜しさに唇噛んだら、血潮が透けていよいよ〈仄明〉《ほのあ》かりに映った事だ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  そしてこのキヲスク砦の内部には掘り抜かれているのは、各商店達の一大屋内市場である大〈穹窿〉《ドーム》だけでない。岩塊内には他にも無数の通路が〈穿〉《うが》たれ、空間が〈刳〉《く》り抜かれてある。  キヲスク砦の深部は、殆どが坑道とその中継・整備の小規模なホームが有る程度だったが、中でもその〈縦坑〉《シャフト》の位置する地点は、大〈穹窿〉《ドーム》には及ばぬものの、ちょっとした競技場級の広がりはあった。  そしてその面積の大部を占めているのが、『キヲスク砦』の『〈縦坑〉《シャフト》』なる、岩塊の暗がりの最果ての大暗黒。  幾つかの坑道で他と繋がってはいる。ただ歓楽施設があるわけでもなく、訪れる者は駅内でも航宙業務の、それも特殊な研究職に従事する者に限られる。  そういった彼ら、幾度か脚を運んだ者であっても、ここの奇観は何度目の当たりにしても慣れることはないだろう。  ほぼ円形の大〈穹窿〉《ドーム》とは異なり、形状は〈俯瞰〉《ふかん》すれば歪な多角形。壁面や天面はなんらかの幾何学的意図に則った繰り返し紋様が全面彫り抜かれている。この空間内を、広がりに比して余りに少ない電灯柱が点在し、薄暗がりをより強調する中、中央部に開いた巨大な縦坑、大暗黒。  円周に沿って電灯柱が設置されてはいるが、その光は縦坑内を照らし出すには完全に力足らずで、床面に漆黒の、光を吸収する塗料でも塗りつけたかと見まごうほど。  縦坑と駅の人々は呼び慣わすが、ここの実体は、大地上の航宙技術の精華の一つ、慣性制御技術の実験施設である。  物体に作用する慣性を自在に制御する技術の。  ……砦岩塊内の闇の中の最暗黒に、宇宙へと繋がる技術の実験施設が蔵されているのはなにかしら寓意的ではあったし、地面に黒インキを〈夥〉《おびただ》しくぶちまけたとしか見えない深淵と、前に涼やかに〈佇〉《たたず》む少女との対比もまた象徴的であった。  縦坑は闇黒の〈裡〉《うち》に慣性制御という巨大な力を蔵し、少女、シラギクはその身に〈数多〉《あまた》の強猛な呪術方程式を修めてい、いずれも打ち見にはその力の程が計り知れないという点では同類なのではあったが、一方は一方を〈終熄〉《しゅうそく》に導くために中央から送りこまれてきている。  シラギク自身の身動きや気動が一切無い上、最暗黒内の照明灯の配置によるものか、その足元には影も指さず、為に彼女の立ち姿は時間の停止した空間に結像された影のように、現実味を著しく欠いていた。  この少女は、あの大肖像画の前で立ちつくしていた時も同じような後ろ姿を見せていなかったか。そしてあの時は振り仰ぎ、ここでは見下ろしているという差はあっても、横顔に遠く敬仰するような風合いを漂わせていたのもまた同じで。  シラギク・A。中央からの封印官。この駅の宇宙への道を閉ざすために遣わされた少女が、何故過去の航宙士の面影に憧憬を寄せるのか。何故慣性制御機構に今さら敬意などを示すのか。  とまれ、シラギクの想いなど双子にとっては〈路傍〉《ろぼう》に打ち捨てられて〈萎〉《しな》びた梨の芯並みに省みてやる価値も余裕もなし、今一心に窺うのはシラギクの挙動の如何。広間の片隅の暗闇に身を〈潜〉《ひそ》め、シラギクの様子に目を〈凝〉《こ》らす双子の姿は、暗闇と半ば同化してあった。  暗色に染められた布を被って、という偽装としては初歩も初歩、単純な技法ではあったがこの暗がりの中では効果的で、予め知らなければたとい二人の脇一寸を通り過ぎたところで闇と暗幕の濃淡の差を見分ける事は不可能に近かった。 (……いらしてるわ、シラギクが。駅員さんから伺った通りに)  双子にはシラギクの行き先を漠然と感じられてあったけれど、この最暗黒への道筋を辿る間に行き逢うた平駅員に、シラギクがここへ続く坑道を〈潜〉《くぐ》った事を耳にして確信にと強めていた。  ただそれでもキヲスク砦深部の岩盤と暗闇の圧は、二人の心をじわじわと〈萎〉《な》やしつつあって、それが恨む敵を目の当たりにして再び張り詰め、双子は敵意と緊張で内側からむず〈痒〉《かゆ》くなりそうなくらい。 (こちらに詰めておられた皆様の姿、〈誰〉《たれ》一人見えませぬ。こちらに来る途中でも、どなたとも会いませなんだ……) (もう、あのシラギクが全て追い出してしまった後なんでしょうよ。ああ、情けない。ここの方達、どれだけ口惜しかったことか)  黒布の下に隠れて、低く囁き交わす双子の声には嘆きと義憤が滲み出し、二人のシラギクへの敵意はますます強まっていくばかり。  日の下ではたとい敵意の湧いたとしても、健やかな陽差しだけで大半は〈揮発〉《きはつ》したろうが、この暗冥中では憎悪は濃縮される一方で、あるいは二人の髪の先や爪の端に滲み出して黒く滴り落ちる事さえ有り得た。 (皆様のご無念、〈妾〉《わたし》達がきっと、晴らして差し上げます)  じりじりとシラギクへ向かってにじり出す双子。実験施設に満ちた暗闇は深く、その上に黒布を被って身を低くしているのだから発見される可能性は実際低かろう。それでも二人に誰かの背後に忍び寄った経験など、施設の職員に親愛の気持ち伝える為、後ろから抱きついてやろうとした時ぐらいか。  あの時胸に充満していたのはわくわくとした喜び、こういった〈敵愾心〉《てきがいしん》に〈衝〉《つ》き動かされては初めてで、緊張が喉に紙ヤスリを内貼りし、息遣いだけで聞き苦しい擦過音を立ててしまいそう。 (勘づかれたりする筈なし、とは思えども。クララ、わたくしはとても恐ろしい。もし今あの方が振り向いたなら……) (大丈夫、平気よ。ご覧なさいな、あの方、ずっと立ちっぱなしのままじゃない)  シラギクはただ、縦坑を見下ろして〈佇〉《たたず》んだまま。縦坑を取り囲んだ明かりに、正しく芯を通した背筋が照らし出されてはあっても、その後ろ姿からは彼女がなにを思うのかまでは探りだせるものではない。  と、そこで───  緩やかに、ではあったが、シラギクが〈四囲〉《あたり》を見回し、たのには〈竦〉《すく》み上がるヒプノマリアの、柔な後れ毛が帯電したかに戦慄した。 (ひ……今、今わたくしたちを見て……っ) (じっとして! 気づくはずないのだから)  シラギクの視線は広間の暗がりを巡って、双子に向かい、たまらない緊張を孕んだ数瞬、静止、緊張───そして視線は二人の頭上を通り過ぎていった。  安堵の溜息を漏らして慌てて口元を押える様の、襲撃者にしては胆が危ぶまれるが、や、これは無理もなし。念のためしばしその場で留まってから、またじりじりと這いずり出すものの、ヒプノマリアはどうしても不安を振り払えず、その進みが鈍くなる。ゼルダクララ、その臆病さに焦れて、 (もう、マリーといったら……見てなさいね。  あんな人、イ〜! よ!) (───クララ? っふ!?  お前さま、やめてくりゃれ、  その様に珍妙な……っ)  なおも〈怯〉《おび》えるヒプノマリアの〈傍〉《かたわ》らで、ゼルダクララ、シラギクの背に向かって右目の下瞼、左目の上瞼を引ン剥いて、舌まで突き出してみせたりしたものだから、ヒプノマリアは危うく噴きだしかけるところであった。  ゼルダクララがそうまでしたのに、やはりシラギクは気づいた風もなく。 (ほら。〈妾〉《わたし》達の事なんて、全然わかった風もない。さ、勇気を出しましょう、マリー) (ええ。しっかり覚えました……なれどクララ、お前さま、今のは余所では控えるのがよろしいかと存ずる……わたくし、ちょっぴりだけ、お前さまにがっかりしそうになったもの)  二人、勇気づけられて距離を詰めていく、一方シラギクは二人に背を向けたまま。  ただし。  彼女の薄桃の唇は、鈴虫の〈翅脈〉《しみゃく》の如き微細な震えを帯びて、と言って鳴らしそうなのはあの玲瓏とした旋音ではない、もっと率直で痙攣的に炸裂する、あの笑いとか言う音色で、つまりシラギクはやはり、双子の動向を……。  そんなシラギクの秘かな苦闘など知るはずもなく、双子はやがて真後ろに辿り着くと、構えたるは〈携〉《たずさ》えきたった大袋、背丈に余るほどのそれは短粒米の袋で丈夫さには定評有り、ことに露人の踊り娘あたりを詰めこんで人買い船に売っ払う用には最適な、二人の選択眼は確かとみた。  袋の口を広げて〈頷〉《うなず》き交わす双子の〈顴骨〉《かんこつ》がこの時怖く尖って、それ〈面貌〉《めんぼう》へ闇中にさえ浮かび上がる〈嗜虐的〉《しぎゃくてき》な〈隈取〉《くまど》り紋様を〈刷〉《は》くかにさえ。  息を殺し、足音を殺し、予め決めていた手筈通りと心得ておらなんだら、ゼルダクララはシラギクの足元に突如くしゃりと、影の溜まりが出現したのにたじろいでしまったやもの、それくらい影は奇怪な形状に〈蟠〉《わだかま》った。  ヒプノマリアがシラギクの不意を〈衝〉《つ》き、足元に身を投げ出し様、両脚をしっかり抱きとめ、動きを封じたからだが、その動きの急激な事、闇色のドレスの〈裡〉《うち》から一瞬にして身が失せたかに見紛う。 「クララ、今じゃ───!」 「ええマリー! えい、やあ!」  ついでゼルダクララも遅滞なく、シラギクの口元に口封じの呪符を貼りつけて術の行使を禁じてからおもむろに、構えていた大袋を頭から押し被せてから引きずり下ろし、袋の中に押しこめる一連の身のこなし、一切違えるところなし。  こういった暗闇働きは往々にして獲物と相方を取り違えて、〈仇討〉《あだうち》たちまち〈龕灯返〉《がんどうがえ》しに〈滑稽物〉《つっころばし》へ不時着することしばしばというのに、双子ならではの呼吸があったとしても見事なまでの手際と言えた。  シラギクたちまち袋の中に封じこまれて、手向かいもならず呪式を発動させる隙もなかったのだから。 「こう、こう、こうよ! どう?  思い知って、シラギク、貴女?  といってももうどうにもならないわね?」 「これでいい、これでおしまい。  声を封じて、袋の口もしかと縛りました。  クララ、見やれ、中でこんなにもがいて、  まるで〈変梃〉《へんてこ》な腸詰めのよう」 「後は、河と山脈を越えた遠い彼方の、知らない省にでも送ってしまいましょう」  二人の足元に転がされた袋、中からどれだけ手を突っ張ったり脚蹴にしたりしても、袋は丈夫で破られる気遣いはない。双子は眼差しに底冷えのするかぎろいを、湛えて見下ろす袋は、少女が入っているとは思えず、生き餌を呑んだ蛇の腹にも通ずる忌まわしさ漂わせ、冷ややかな眼光は、残酷だがあって然りの反応とも言えた。  後は適当な長距離軌道を選んで、乗務員に幾らか掴ませて、鶏糞肥料なり屑炭なりの貨物車に放りこんで駅から放逐してしまえばいい。  およそ先のことまで見通しているとは言い難い、幼く〈杜撰〉《ずさん》な目論見ではあったが、二人は今憎らしい相手に一矢報いてやった達成感で一杯だった。最高だった。こめかみにうっすら降りた汗は官能的とさえ言えた。  興奮冷めやらぬ態で、縦坑の縁に立ち、深淵を見下ろせば、内壁に装置の作動を示す緑の燐光の線が〈輝滅〉《きめつ》してはいるものの、深さは底知れず、吸いこまれそう。  余人なら恐怖を催しかねない眺めを、双子はしみじみと感慨深く見つめたことであった。  二人がいた地下の施設とは系統が違うけれども、それでも同じ宇宙に関わる場所であったから。 「……ここの方達、もう大丈夫、心配ありませんって伝えて差し上げたなら、戻っていらっしゃるかしら」 「きっと、〈違〉《たが》えずそうなります、そうあって欲しい。そうでなければ、哀し」 「櫛の歯が欠けるように、このまま駅から星々に連なる方々が失せていくなどて。わたくしたちにとっては、身体が少しずつちぎられていくようなもの」  同年代の少女を一人、所払いに始末する酷薄な実行力と、同朋意識を寄せてはいても、さして近しく交わってはいたわけでもない実験施設職員達を深く〈愁〉《うれ》い、優しく案ずる心を、相持ち合わせるのは別段双子に限った特質では無かろう。  人間という生き物が多かれ少なかれ有した二律背反性で、双子はそれを隠しだてする事を学んでいないという事。無邪気とは必ずしも無垢なる心性と一致せず、邪気のなんたるかを知らないという事でもあるのだが。 「……そうね。ねえマリー覚えてる? 〈妾〉《わたし》達、ずっと前にこの縦坑の中に入れてもらった時のこと。夢の中のようだった。身体が宙に浮いてね」  実験施設職員達の帰還を、まさに星へ託すように願いゼルダクララは、彼の人たちの面影と共に在りし日の想い出、蘇らせれば胸躍るような感激が、当時の原色のままに去来した。  かつてこの〈縦坑〉《シャフト》で慣性制御下の元、自由落下していった時の感覚は、宇宙空間に勇躍していく人類の地力を、地上にありながらまざまざ実感させたもの。  〈縦坑〉《シャフト》の中途まで専用の浮揚機にて舞い飛び、その乗機から虚空に踏み出すのは相当の思い切りが要求されて、双子が職員達に寄せる無条件の信頼があらなんだら、躊躇いはついには恐怖の涙を招いた事だったろう。  けれどもその直後の、落下、上昇、いずれとも異なる感覚に包まれる、あの現象は。己の身体という実体がそこに確実にあるのに質量だけが消失しさる、現象の原理を理解する事は叶わずとも、双子にそれが如何なる状態なのか、身体感覚として刻みこんだ。  常人なら〈縦坑〉《シャフト》内部の溶暗中に自由落下状態に移行すると、たちどころに天地左右の識別感覚が失われて、人によっては恐慌状態を来す者があると言う。しかし双子の体内感覚は依然として大地の在り所を指していて、内壁を淡く輝く光の筋に取り巻かれ、ただただ面白く、時には頭を真下に時に宙空に背泳ぎの形で自由落下状態に遊び、時を忘れて。  そうやって双子は、スケールの差はあっても、果て無き星々の海を往く、航宙艇の感覚に開眼していたのであった。  そのように調整された肉体を有していても、経験がなくば絶対に知り得ない感覚の記憶に、しばし心を遊ばせていた双子に、   「なるほど。お二人とも、慣性制御された空間内に入ったこと、おありなのね。羨ましく思いましてよ。私だって、そんな経験まだないのだから」 「それは奇態な。お前さま、航宙士であらせられましょう? なれば基礎訓練課程にて必須、体験しておられぬのはいかにも妙じゃ」  確かに得難い感覚であっても、航宙士の資質有した者ならば、幼児期から皆その身に刻みこむのが必須で、長じてそれを知らない航宙士など有り得ない。訝しく問い返して、はて、とヒプノマリアに首を〈捻〉《ひね》らせるこの据わりの悪さは、何。 「興味がおありなら、ここで試してみればいいじゃありませんの。でもすぐには無理よ。なにしろ職員の方々、ご不在になってしまっているのだし」  航宙士なら、ここの実験施設にそう要請する事もできる、ただ今すぐにとはいかないだろうが、と言い差して、あら、とゼルダクララに眉根を〈顰〉《ひそ》めさせた、この〈腑〉《ふ》に落ち無さは、何。  二人、違和感にようやく気づいた。  今話している、姉妹以外のこれは、誰だ? 「クララ、お前さま、一体どなたと話しておらるる?」 「マリーこそ。大体〈妾〉《わたし》達の他に、どなたかいらしたのでしたっけ?」 「つれない事ね。ついさっきまでここにいた私をつかまえてそんなお言葉。ま、構わないのだけれど」  少女の翡翠の眸の、灯りの照り返しを受けてそれは澄み渡って輝き、質の佳い水の柔らかさを満たして、〈縦坑〉《シャフト》を見下ろして語り出すが、遠い彼方に想いを旅させるように。 「慣性を御して操る、と一口に言っても。  実際に行っているのは、質量の無効化。  既存の物の理を引っ繰り返してると、  前の時代の人々なら目を剥くのだわ」  ───澄み切っていようが。  ───柔美な光に満たされようが。    シラギクが余りに当然に〈傍〉《かたわ》らに並んでいた事は、双子の眸を危険な色合いに〈澱〉《よど》ませて余りあった、という。 「え。なに。どういうこと。  マリー、どうしてこの方が?  だって今さっき、  しっかり袋詰めにしたのじゃ」 「間違うておりませぬ。  これこのように」  頭の回りに巨大な疑問符周回させて首を傾げるゼルダクララに、ヒプノマリアも足元の袋を改め見れば、変わらず中でごもごも蠢いていて、では二人の〈傍〉《かたわ》らに立つ者は誰? 「では、こなたはどちら?」  念のため、袋の口を解いてみれば、中にはちゃんとシラギクが、口に札を貼りつけたままの姿で見返し観音、いよいよ〈見当識〉《けんとうしき》が妖しくなってくる双子の脇の、こちらはこちらでシラギクは変わらず〈佇〉《たたず》んでいて、淡々と語り続けるのだ。 「大地上の人々に、深宇宙への道を開いた技術、知識、でも今は在ってはいけないと、そう決まってしまったのだもの。だから私は」 「そう、封じなくてはならないのよ。  封じて、後の時代へ───」  〈瞑目〉《めいもく》した姿が、祈りの形のように見えたのは、皆まで言い終えずに暗がりの中へ溶かし込むに留めた言葉のせいだったろうか。 「貴女、いま何を仰有ろうとしたの?」  派遣吏の少女がなにを言わんとしていたのか問い掛けたゼルダクララの、首筋にしわりと這った冷やい感触は、シラギクが瞼を開いて翡翠の眸を据えたから。  駅内路線で双子に対し、いかがわしげな真似をしでかした時と同じ目をしていたから。 「まあそれはよしなしごと。さておき、お二人こそ。私になにをなさろうしたのかしら?  私を袋詰めにして、岡場所にでも売り払おうっておつもり?」 「そんないけないことを考える人は、少しばかり懲らしめて差し上げないとねええ」 「岡場所なんて場所、知らないもの。それに懲らしめられるのは貴女の方で……い、いや、来ないで、近づかないで」  じりじりと間合いを詰めてくるシラギクに、最前までの軒高な意気はどこへやら、ゼルダクララは倍する恐怖に〈竦〉《すく》み上がり、ヒプノマリアなどは袋を覗きこんで、中にまだ入ったままのシラギクに許しを求める始末の、はや錯乱を〈来〉《きた》しつつあるらしい。 「お許しを、シラギク殿、怖いのじゃ、今一人のお前さまが、笑っておられる方のお前さまが恐ろしゅうある……っ」 「ヒプノマリア、私をそんなに袋詰めにしたのはお二人でしょうに。ああでも、私と私がいては、どうにもまぎらわしい。でしたらこうすれば」  言いざま、シラギクは同じシラギクが詰めこまれた袋からシラギクの〈襟足〉《えりあし》ひっ掴んで軽々引っ張りだせば、狩りに長けた猫と同じ形に手足を屈めるシラギクをシラギクが腕を引いて反動を着けるや、放り投げるが縦坑に、ああ投げ捨てたともシラギクがシラギクを。 「さようならね、私」  もう一人のシラギクは縦坑の中を、墜ちいくに従い内壁の燐光線が消えていって、終いに穴の遙か下方で強い光が輝いて、消えて、それきり縦坑は沈黙した。  凄まじい沈黙だった。  ことに双子にとっては、慣性制御装置の作動を示す燐光が消えていく中、墜落していくことがなにを意味しているか判りきっているだけに、沈黙は凄まじさを越えて痛いくらいだった。 「今、今、お前さまがお前さまを、殺め……」 「私、私とまぎらわしいって言っているじゃありませんの。それに気になさらないで。元よりこうするつもりだったのだし」 「私が、こちらの航宙港施設を封じていくというのは、こういうこと。自分の情報を分け身にして、機構を停めていく」 「判りっこないでしょうそんなこと言われたって! 判るのはね、貴女がただただ怖いってことくらいしか!」 「そんなに〈怯〉《おび》えられては、ちょっぴり切なくなってきましてよ。ああでも、お二人のそういうお顔も、それはそれで妙味があるやも」                  ───やがて砦岩塊の奥深く、最暗黒の広間に双子の悲鳴が響き渡った。                      ───四───             双子がいかなるお仕置きを受けたか詳細は省く。まあ更なる恥辱を被った、という事だけを伝えておきたい。  さて───  駅の北西部の一区画に、周囲を高層ビルヂングで〈廻〉《めぐ》り〈屏風〉《びょうぶ》のように取り巻かれ、駅内に四六時中絶え間なく遍在する、人声や列車の運行音の潮騒から隔てられた屋並みがある。  高層建築の陰でその一帯は、〈放埒〉《ほうらつ》に継ぎ接ぎ建て増しを繰り返して積層されていった駅内の余所とは、いささか毛色の異なる景観をば横たえてある。  周囲を高層建築に囲まれ、中央が小高い丘と盛り上がったその一帯は、細い路地が羊腸のようにうねり、屋と屋が軒を連ねてひしめき合っているという点に関しては他と同様なのだが、建物は一つ一つが独立し、丘の斜面に沿って品良く建ち並んで、さながら〈螺鈿細工〉《らでんさいく》が選り抜きの切片を、限られた空間へ許される限りの美意識をもって、丹念に入念に埋めて満たしていったかのよう。  街灯や通りに面した家々の玄関に物静かに見守られつ、丘を〈九十九折〉《つづらお》りに緩く巡る街路へ、敷かれた石畳の根が深い。  かつては粗かった、表階段の〈鋳鉄〉《ちゅうてつ》造りの〈手摺〉《てす》り細工の肌も、今では時間に〈擦〉《す》れて穏やかな古色を帯びた。街灯だって風雨にくすみ老樹のように思慮深げで、この街並みの中をそぞろ歩きするならきっと、〈跫音〉《あしおと》は追憶誘うように響いて、格別の風趣を味わえるだろう。ここでは周囲の高層建築に〈遮〉《さえぎ》られ、戦雲の気配も遠い。  だが通りは何時だって往来する者の姿は〈疎〉《まば》らで〈静謐〉《せいひつ》の水底に沈み、近在の住民でも通うことは少なく、時折物静かな気品まとう人影が、しめやかに沈歩していくくらい。  そうやってこの秘やかな聚楽を見知り、好んで訪れるのは、異国者は淋しい散歩を愛好するとの〈喩〉《たと》え通り、この駅を訪れる旅行者の、それも相当に慣れた者くらいで。  一体この駅の喧噪から静かに〈沈潜〉《ちんせん》したような屋並みがなんなのかといえば、旅館旅荘の寄り集まりなのである。それも旅籠と時代がかった言葉で呼ぶのが相応しいほど年経た家ばかりの。  ただいずれも仰々しい看板は掲げず、幾分かなりとも目の利く者なら、奥に中庭を〈具〉《そな》えた楼造りの門構えとか、硝子張りの玄関扉から覗けば階段下に〈仄暗〉《ほのぐら》い帳場が控えている、といった造りで、旅宿と見分けられよう。  声高な客引きも大構えの電飾もない代わりに、宿すのは深い歴史伝統に裏打ちされた一刻者の頼もしさ。  駅の目抜き通りでしろしめす高級ホテル街へ右に〈倣〉《なら》えするのは小金持ちや上流階級に仲間入りしたばかりの者達で、旅慣れた者、古い家系の者達が定宿に選ぶのはこちらである。 そもそも旅籠の方も、なまじな〈金子〉《きんす》を振りかざすだけでは玄関払い、長年の馴染みか縁故から紹介された客でないと泊めないという。  それらの頼もしく年経た巌のような旅荘の一つの中、夜更けた廊下をゆっくり進む双子の姿がある。 「こっちじゃ、クララ。ここの〈引〉《ひ》っ敷《し》きは厚くて柔らかな、なれど用心を重ねて、そっと、そうっと、忍び足で」 「判ってますとも。でも念のため、お靴は脱いでおきましょう。あの人のお部屋はこちらね……後ろから誰か、覗いていたりはしなくって?」  廊下の調度、〈一瞥〉《いちべつ》だけでは地味に見え、実は磨き抜かれた趣味と贅沢が〈横溢〉《おういつ》し、程良く配された装飾品もまた、由緒由来を蔵して値段がつけようがない。  それら〈強〉《したた》かな贅の中にあっても双子の美質の輝きは色褪せず、幾代経ても〈堅牢奢侈〉《けんろうしゃし》な美装はむしろ彼女達のために〈誂〉《あつら》えたようにしっくりとそぐう。もっと堂々と胸を張った方がよほど映えようものなのに、ひたりと身を寄せ合う二人は、ねぐらから迷い出てしまった猫の仔のように心細げで。 「大事ないと見えます。というよりクララ、お前さまも気づいておらりょうに。こちら、上がった時より人の気配が聞こえぬ。これは一体……」 「ええ、本当に……このあたりのお宿のご亭主がたは、変にお客様の前に出て、〈煩〉《うるさ》がらせたりはしないって聞いてはいたのだけれど」 「こうまで誰も見えないと、たしかに妙としか……」  人目を避けて忍びこんだつもりの二人にとっては、〈誰何〉《すいか》の声一つ降らないのは勿論好都合の、それでも表口を〈潜〉《くぐ》った時から、一見こぢんまりとまとまった店構えとは裏腹に、無闇に奥行き深い廊下を渡り抜けてきた今の今まで、全く〈人気〉《ひとけ》が感じられなかったのはいかにも奇異と言えた。事態の安易を喜ぶべきか訝しむうち、双子の胸に気色の悪い疑念が育つ。 「もしや、あのシラギク、ご自分の他はお客も〈店〉《たな》の方も、人払いなされていたりで」 「まさか……いいえ、あの〈自儘〉《じまま》な人なら、なさっても不思議はないわね」  鼻先を戸惑いの狐に〈摘〉《つま》まれた心地になるも、二人は目指すシラギクの部屋に行き当たって、ここでも念のため、扉脇の台に身を隠しつ探る進退の人影、やはりここまで至っても誰も見えないとなると、安堵していいものやら〈却〉《かえ》って怪しくなってくる。  二人が身を寄せた台というのは、扉横に控え素っ気ない、と見えてその台からして〈青黒檀〉《あおこくたん》で組まれていたりでただ事ではない。鍵を出す際に荷をひとまず乗せる用らしいとヒプノマリアは見て取って、そして今さら〈狼狽〉《うろた》えたように眉根を〈撓〉《たわ》めた。そう、まこと今さらの当惑だった。  もうここまで来たなら迷いの段は過ぎている、と扉の握り手に手を掛けようとした、ゼルダクララの〈袖飾〉《そでかざ》りを引き留める。 「待ちやれ、クララ、あの」  いざ、との気組みに身を乗り出した、頭の枕を押さえられて焦れたように見返す半身に、 「今気づいたのですが。あの、クララ、世の中の方々は、眠るとき、ご寝所に錠を下ろす習慣があるとか」  始めは半身がなにを言い出すのか、見当が付きかねた様子のゼルダクララも、すぐさまその意を悟って凝然となった。 「え。なら、それなら。もしもこの戸に鍵が掛かっていたなら……〈妾〉《わたし》達、ここまで来て無駄足って?」 「だって、〈妾〉《わたし》達、眠る時にお部屋のドアに鍵なんて掛けない、そもそも鍵なんてないのだし───」 「わたくしたちがそうであっても、他の方々は異なるのでは」  あの地下施設の双子の寝室には、事実なるほど鍵というものが取り付けられていなかったのである。いかなる教育方針かどうかは兎も角、もとより施設の職員達は、双子の眠りの安らかなる事確かめに隙見はあっても、その〈夢寐〉《むび》を乱し、危害を及ぼそうとするなど論外で、為に彼女達には寝所の鍵無しなど疑う〈肯〉《うけが》う以前の問題だった。  ただでさえ長い廊下の前後ろ、底知れぬ闇に閉ざされたかの寒気が足元から這い上がり、双子は〈慄然〉《りつぜん》と立ち〈竦〉《すく》んだという。他人の宿に忍びこむという挙に出ながら、魚を釣るのに針を忘れたような考えなし、短慮、〈杜撰〉《ずさん》、双子の氏育ちを思えば責めても詮なき始末なのかも知れぬし、そもそもが。  そもそも、派遣吏の投宿している部屋をあざいて、彼女の私物一切をどこかに隠して困らせてやれ、という企て自体からして、子供じみて浅薄な思考の産物と言えよう。  ただ一つの灯りを頼りに歩いていた暗夜行路に、その火がふっとかき消されては行く手を目指すどころではない。ゼルダクララが扉についと掌を這わせたのは、べつだん解決の秘策あっての事ではなく、単に弱り切った心が取らせた仕草であったのだが。  銃弾さえ防ぎそうな鏡板の、少女の手が触れただけで、僅かに、けれども確実に、静かに、かつ〈滑〉《なめ》らかに押されていって。この重厚な扉が鍵はおろか、〈掛け金〉《ラッチ》さえまともに噛んでいなかったのに、双子が唖然とした様、夜道で手ぬぐいを被って〈泥鰌掬〉《どじょうすく》いを踊り狂う猫と遭遇した酔漢と異ならず。  これを罠と、悪意を疑えるくらいに浮世の機微に覚えがあったなら、この夜の無謀な遠出に〈端〉《はな》から乗り出していない訳で、双子はしばし顔を見合わせていたのは、〈疑団〉《ぎだん》に惑うたのではなく、お互いに鼓舞し合うため。ゼルダクララが先に意を決し、扉口の隙間を、更に押し広げる───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  派遣吏の少女が取っていたのは、居室に応接と寝室、そして供回りの控えの間まで不足無く揃った大層な部屋であったが、広大な地下施設を一つの家として生まれ育った双子には、小さな人形の家とも映ったろう。とはいえいざ家探しとなると、まずどこから手をつけるべきかの実際、そして他人様の私物を漁るという罪悪感が、〈冬苺〉《ふゆいちご》の葉裏の〈細棘〉《ほそとげ》じみてしくりしくりと肌を刺してきて、二人とも手を束ねている、と。   『……ん……んぅ……っ』    旅籠を包んだ静寂に、一里先の針が落ちる音でも聞き分けられそうなくらい聴覚が拡大されていた双子にとって、秘やかなる声なのに、耳元で発せられたと等しい。二対の視線がすぐさま走った声の出所は、部屋の奥の寝室へ。   『ぁ……ぅ……はぁ……』    声、〈呻〉《うめ》く声が双子の〈竦〉《すく》み上がっていた筋を解く。声に滲んでいるのは苦渋と知って、捨て置く事も出来ず忍び足を向ける双子の心は、兎が虎の〈癪〉《しゃく》を案ずる見当違いの類ではあってもまぎれもない情けに由来するものであった。が。  寝台をほんのり明るませる、常夜灯の光は常なら優しいものを、双子の目には得体の知れぬ不穏な〈光翳〉《こうえい》を落としていた。  〈俯〉《うつぶ》して横たわる、少女の着けているものは軽やかで佳く柔らかなスリップで、ショーツまで〈捲〉《まく》れ上がっていても、双子とて眠る時は似たような格好であり、寝相によっては肌を露わにする、だからその姿態はただ寝姿の以上でも以下でもないはずなのに、今双子に目の〈眩〉《くら》むような〈衝懼〉《ショック》をもたらしてある。  その不穏、その衝撃を表す言葉を双子はまだ知らず、けれどそれは、間違いなく〈淫靡〉《いんび》とか〈淫猥〉《いんわい》と形容するしかない眺めで、箱入り育ちの二人にとって、日頃縁遠い〈疚〉《やま》しさという感情を強烈に、喚起して、心臓を拍たせる、強く烈しく。  それぞれがそれぞれに〈垣間見〉《かいまみ》を禁じて、服の端を引っ張り合って離れようとするのだけれど、目も足も吸いつけられて動かせず。 「はぁぁ……あ、ん……ん……っ」  寝悶える声は、苦悶と同じように聞こえてまるで異なって、双子の〈耳朶〉《じだ》を湿って〈微温〉《ぬる》い舌で〈舐〉《ねぶ》り上げるよう。声音が項を撫でてくる感触は、肌えで蠢くに留まらず、〈身〉《み》の〈裡〉《うち》の、腰の深い部分までまさぐってきて、しかも恐ろしい事にそれは、ついもっととせがんでしまいたくなる心地好ささえ伴った。 「クララ……クララ……これ、よからぬ、なりませぬ、見つめる、は……」  普段は〈流暢〉《りゅうちょう》な、典雅な〈佇〉《たたず》まいに不思議と似合う古めかしく厳めしい物言いが、この時は統制を失って、 「うそ……おしり……あんなにくねくね……肌、赤いの、どうして……っ」  平素は少女の勝ち気と大人びたしなやかさを同居させる面差しが、この時は可哀相なくらい〈狼狽〉《うろた》えきって。  シラギクは、二人の闖入をいっかな感づいた気配もなく眠りつづけの、その〈睡住〉《いず》まいを無心というにはあまりに肌が、火照っているのがありありと、熱い、滲んだ汗も、その〈猥〉《みだ》りがましさは。  汗の温気にショーツの布地を貼りつけた臀も、二人の無言の凝視の中で、くなくなと蠢いていた。 「ん……ん……ふぅぅ……あ、はぁぁ」  その、くねらせる腰遣いの〈滑〉《なめ》らかな事、無骨な男ではこうはいかない。敷き布を〈太腿〉《ふともも》で挟みこみ、よじれた〈布襞〉《ぬのひだ》へ〈股座〉《またぐら》押し当て、なにかを探し求めるように擦り上げては擦り下ろす動きが執拗な、必死ささえ感じさせる。  蠢かす腰の、シラギクは双子と同じ年頃だというのに、異様なまでに〈淫蕩〉《いんとう》で、男だけでなく、女までも妖しい胸騒ぎに駆り立てる。  双子が何時しかお互いの手を握り合っていたのは、臀をうねらせるシラギクの、懸命なまでの粘っこさに流され、己が身体に手を這わせてしまいそうになる事を無意識に封じようとして。なのに指先は、何時しか浅く〈解〉《ほぐ》れて、指の腹を探り合う、節を撫で合う、二人とも絡め合う指の動きにシラギクと似通う淫らが宿りつつあるのに、気づかないまま。  ───双子はその頃になると、シラギクの身体がどう言った状態にあるのか、朧気ながら把握しつつあった。  あれは、彼女達双子の身体に、男女の性差が〈兆〉《きざ》し〈初〉《そ》めし頃だ。当時は添い寝するのも間遠になっていた女性職員が、〈暫〉《しばら》くぶりに双子の寝所に身を寄せてきて、二人の髪をさらさら〈梳〉《す》きながら教えたのだった。  双子の、下肢の付け根に具わっている器官が、排泄以外の機能を持っている事、男女のセックスの事などなど。ただ、女性職員の語調は淡々として散文的に終始し、肉の〈腥〉《なまぐさ》さを脇に避けてあったし、だから双子も言葉の上で知った程度で、理解はあくまで薄ぼんやりと曖昧なままに留まった。何時かは経験するであろう行為と、自身の体がその為の構造を有しているという事実を一致させ、実感するにはどうにも遠い。  それがこの今、生々しい現実感を持って迫ったのである。 「この人、きっと今、昂ぶってらっしゃるのね、眠っているままで」 「あ……そのような事、みだりに口にしてはならじと、そう教わったはずじゃ、クララ」 「だって〈妾〉《わたし》達だけしかいないもの」 「そうではあっても。〈誰〉《たれ》かのこのような姿、盗み見するなど、いけない事……」  体系だった哲学や倫理を学んでおらずとも、育ててくれた人々に授けられた徳目、気高さは双子に速やかにこの場から去れよかしと諭していても、シラギクの乱れ姿は刺激が強すぎ、二人の潔癖さは殴りつけられ昏倒状態にある。  ゼルダクララとて半身に促されるまでもなく、どれだけ〈敵愾心〉《てきがいしん》を抱く相手であっても守るべき礼はあると心得ていて、それでもやはり足は動かない。〈窘〉《たしな》めたヒプノマリアにしてから、視線は据えたままだった。 「は……む……ちゅ、ぅ……」  はむ、と敷布を浅く〈噛〉《は》んで夢中に唇に吸い上げるシラギクに、母の乳を含む〈嬰児〉《みどりご》のようなと想起した、その〈喩〉《たと》え自体は清らかと言えたが、もし自分があのように吸いつかれたら、とつい連想した途端に乳房の頂きに点った〈疼〉《うず》きは、母性とは隔たった感覚に由来している。双子は官能を知り初めていると言って良かろう。 「ね……マリー、眠っているのに、あんなに一生懸命に吸って……気持ちいいのかしら」  言葉にした快感の主体が、果たしてシラギクなのかゼルダクララなのか、判然とせぬ口調になった彼女に、 「なんでわたくしが存じましょう……っ。そもそもその様にまじまじと見つめては駄目と申しているのに」  言下に否んで〈背〉《そむ》けたつもりの金盤の眸は、またシラギクへと泳いでいって、憑かれたような油照りさえ浮べてある。  劣情に火照った肌を夜気にしるけく晒し、腰をうねらせる姿は〈媾合〉《まぐわ》う犬ほどにも生々しい、あの憎たらしい派遣吏の、こんな痴態を見てしまっては、それまでの反感の分だけ性的好奇心が募って、抑えがたく鼓動が速まる、頬が火の前にいるより熱い。 「んんぅ……ふっ……くふっ……」  双子の注視を感じているでもあるまいにシラギクの下肢の蠢きはより〈濃〉《こま》やかに密に、太股に挟みこまれ、拳に握りこまれた敷き布のよじれも応じて〈陰翳〉《いんえい》を変化させるのがひどく〈淫猥〉《いんわい》で。 「んっ……うぅ、ん……はぁー……っ」  息遣いの熱い湿度も増して、寝室の夜気を肉質に染めていくよう。  シラギクの〈身〉《み》の〈裡〉《うち》で、快感を核にして高まっていく感覚がある、と見て取った双子の、双子は。  下腹部に生じた熱に煮溶かされ、潤みがとば口まで溢れてきそう。  相似の双子はお互いの身体の変化に気づいている。  なにを求めてその熱っぽい潤みが湧いてきているのか。  お互いに気づいていても、言い出せない言い出せるわけがない。  だから、このまま〈最高潮〉《クライマックス》に飢えた観客でいる他なく、固唾を呑んだ双子に、届いたのは。 「……んぅ。黒と……茜色の……」  それまでは喉を震わせず、淫らな息ばかり紡いでいたシラギクの、ぼやけてはいたが言葉として聴き取れる呟き。 「銀の髪の……ふた、ご……きれい」  今やショーツのクロッチに濡れ染みを滲ませるまでに濡れて、そこから小さく弾ける音さえ立てながら、シラギクの漏らした言葉。 「え、え、今のはよもや、わたくしたちを!?」 「しっ。マリー、静かに……っ」  ゼルダクララも、シラギクが〈譫言〉《うわごと》に上せた相手に下顎がひらみっともなく垂れそうなくらいの驚愕を受けていたけれど。  それでも咄嗟に半身の唇を一指で封じたのは、跳ね上がる声にシラギクの覚醒を恐れたと同時に、その痴態の行き着く果てを見てみたいという好奇心の方が勝ったから。 「なのに……わた……し……。  ……浅ま、し───んぅぅ……っ」  その瞬間。  シラギクのなよやかな背筋が反らされて、臀は浅く窪みが生ずるほど強ばり。  びくりと。  強く脈打ち、始まった。 「んぅーーっ……っあ。あ……あ……」  未経験の双子をして、下腹部の奥の芯をつれさせるほどの〈嬌声〉《きょうせい》。上ずって濁って、なのに何時までも聞いていたくなるような。  少女の下肢の痙攣は幾度も幾度も続き、その度に急とすぼめられる臀は、下腹部の芯に何事か導こうとする動きと見え、そちらはまだ双子にも曖昧ながら共感できるのに、同時に何事か腰の奥から絞り出し尽くさんとしているようにも見えるのが奇妙だった。 「凄……い……怖いくらいに」 「ええ……けれど、何かが、変」  眠りながら絶頂を迎える姿に、奇妙な違和感を〈拭〉《ぬぐ》いきれないでいるうちに、シラギクは寝返りを打つ。  ───その股間を双子の視界に晒した時。  ───二人はしばしそこに見入りそして。  逃げ出したのであった。  混乱しきって。  室内に立ちこめた、青臭い匂いに包まれることが、空恐ろしかった。                      ───五───             積層建築の峪間の底じみた裏路地は、一本筋ながら途中で飾り〈手摺〉《てす》りの階段が二つばかり配されて、高低差と供に興趣を兼ね備え、だらだら昇って抜けた先には駅内路線の路面駅見えかつ隠れ、秘密の谷を辿るような〈愉悦〉《ゆえつ》を与えてくれる〈小径〉《こみち》の中ほどの、両脇の建物を繋ぐ二階通廊の下、小〈隧道〉《トンネル》となった日陰では茶虎と三毛の猫が二匹、互いに〈毛繕〉《けづくろ》いを交わして優雅な時を満喫していた、ところを。  〈小径〉《こみち》の果てからどよもすような、威圧的な〈跫音〉《あしおと》の連なり、猫達は俊敏に身を起こして反対方向に逃げ去って、せっかくのくつろぎの場を後にする事に躊躇いはなくとも、〈憤懣〉《ふんまん》の様子ありありと。  ゼルダクララも廻れ右して猫と同じ向きへと引き返した。裏路地の先の路面駅に、銃鉄色の制服で揃えた一団を認めた為である。軍隊だ。  兵隊彼ら一人一人には意趣はなくとも、組織だった規律正しさは暴力を下敷きにしていることを感じ取って、そこはかと不安の味、舌の根に湧いて苦い。  今に始まった事ではなく、駅の要所要所に軍隊の臨時施設やら駐屯地などが見受けられて、それらをかわして進めば、随分遠回りになってしまった。駅の景色の中に、戦争の〈兆〉《きざ》しがこれだけ〈点綴〉《てんてい》されるようになっていることに今更気づいて、少女は胸中に複雑な感情の尖り、もてあましの、それを名づくる言葉をまだ持たないまま。  自分と半身は、これまでの日々を殆ど地下の施設で過ごして国の情勢には〈疎〉《うと》くいたけれど。その世事への〈疎〉《うと》さがこの度の宙港施設の凍結を招いたような気さえしてしてきて、思いこみすぎとは知りつつもやりきれなさを〈拭〉《ぬぐ》いきれない。  ゼルダクララがとある、信号も警報機も無いような侘びた踏切の側を通りかかった時、踏切脇の小箱のような番小屋から声を掛けてきた者がある。  駅にたくさんたくさん居て、それぞれに多少の個性の際はあっても皆同じ顔をしている、駅の一つの象徴である平駅員の一人だ。全時代を通して、駅で働き続けるのが彼らである。軍の色を避けて歩くうち、沈痛な面持ちが顔に染みついたままになっていたようで、気にかかったと見えた。 「やあゼルダクララ。どうしたの、そんなに哀しそうな顔をしてさ。折角の綺麗な服も色褪せてしまうようだよ?」  踏切は駅の中でも妙に〈鄙〉《ひな》びた地域にあり、そんな風に親しげに名を呼ばれることが意外で、ゼルダクララは訝しげに、 「ご機嫌よう、駅員さん。貴方は〈妾〉《わたし》をご存じでいらっしゃるの? 〈妾〉《わたし》、この辺りにはあまり足を伸ばしたことがなくって」 「あはは、そう来たか。でも僕は君をよく覚えているし、君だってもしかしたら僕のこと、知っているんじゃないかなあ」  ほら、と栗色がかった髪をかきあげて、出して見せた右の耳には銀細工にトルコ石をあしらったピアスが。華美な装飾を排するのが習いの平駅員としてはなかなかの洒落者と見えたがそれだけではない。ゼルダクララはこの平駅員を見知っていたのだ。 「貴方、以前によくうちにいらしていた駅員さんじゃない。〈妾〉《わたし》、すぐには判りませんでした。お許し下さいましね」  駅の中では地理的にも組織的にも少々特殊な位置を占めていた地下研究施設と外界の、連絡員めいた仕事を務めていたのがこの平駅員で、研究職員以外の者を珍しがったゼルダクララは彼が訪れる度、顔を出しては相手してもらっていたものである。  例のピアスを欲しくなった時もあって、欲しいと〈我〉《わ》が〈儘〉《まま》をこねた日がつい昨日のように蘇る。 「けれど貴方、ここ〈暫〉《しばら》くうちへお出でにならずにいたわ。それがこんなところでお会いするなんて」  数ヶ月ほど前から、この平駅員が伝達に来る事はなくなっていて、ゼルダクララとしては気懸かりではあったのだけれど、広大な駅の中から一人の平駅員を特定する事は、沙漠の中から一つの砂粒を見分けて選び取るようなもの、事たてて捜しだそうとはさすがにしていなかった。 「あー、それは……まあ、うん、言っちゃっていいか。駅の宙港関連の施設が次々閉鎖になっているのは知ってるよね?」 「僕もそのついでで異動になった。ところが次の部署が決まってないってきた。ちゃんと次が決まるまで、しばらくはのんびりここで踏切番なんだ」  その、次の部署が決まるまで、というのが一体いつになるのだろう。見たところ周囲は閑散として、線路だって保守がいい加減な、物淋しい踏切である。列車の通過時刻をまるで気にした様子がないのは、日に何本も来ないか、さもなくば数日に一本来るか来ないかの運行予定であるからか、いずれにしてもここの踏切番とやらが相当な閑職であるのは間違いなさそう。  左遷、という言葉を知らずとも、馴染みの駅員が不遇をかこつてある事は感じ取れて、ゼルダクララは色めき立った。 「なんですの、それは。貴方までそんな仕打ちを受けていらっしゃる……ああ口惜しい、どうして中央は、航宙技術を捨て去るなんて、憎たらしい、意地悪な……っ」  ここで激したところで平駅員の待遇が変わるわけで無し、と悟ったところで口惜しさは失せず、唇を噛むゼルダクララに平駅員は慌てたように、 「いやいやいや、同情は嬉しいけど、そんなに怒らないでいいからね? というか、僕より君達の方が大変だろうに。文書庫の事は聞いてるよ。あそこの皆さんこそ気の毒だし」 「なにより君達だ。職員方、みんな連れてかれちゃったんだろ? 君達は今どうしているの? 上に告げ口なんか絶対しないから、もしよければ教えておくれよ」  地下の奥深くで、監理部の目を忍んで日々を送る双子で、現状が漏れたらという危惧はあったけれど、馴染みの言葉を信じる事にして、それを打ち明けると、 「はあ〜……淋しくないの、君達二人だけで。それに食べ物飲み物はどうしてるわけ?」 「うちは、規模は小さいけど循環系も持っているもの。マリーと〈妾〉《わたし》くらいなら、お水や食べるものは心配ありません」 「そっかぁ……」  番小屋の窓から身を乗り出した平駅員と、気持ち見上げるゼルダクララの間に、味の濃い沈黙が垂れる。やがて平駅員が沈黙を破った。 「……僕も君達も、宙港閉鎖の〈煽〉《あお》りを被って大変だけど、余所はもっと大変みたいだね」 「ただ航宙技術の凍結ッて言うけど、他の省なんかじゃもっと徹底的に進められてるってのが専らの風聞だ」 「施設も航宙艇も、研究資料も一切合切区別無く、解体したり壊したり焼却処分にしたり。抗議した航宙士や関係各員の中には処……ごめん、君みたいな女の子に教えていい事じゃなかった」 「そんな事になっていたなんて……」  他国では人死にさえ出ているという現実に呆然となるゼルダクララの、だとするならば〈腑〉《ふ》に落ちない点がある。シラギクだ。無論強硬に凍結処理を進めているものの、あれほど強力な呪式の遣い手がやる事にしては、宙港関係の物は施設も人員も、物的人的被害は驚くほど少ないように思える。無論地下研究施設群とその職員達にしでかした所業は別に数えるとして。 「とにかく、余所に比べればここの宇宙港への処置は、随分と穏やかみたいだね。言葉通り凍結しているだけで、壊したり傷つけたりって話は滅多に聞かないや」  地下研究施設の職員達の制圧は例外だったみたいだけれど、と付け加えた平駅員に、ゼルダクララは困惑しきり。 「まあ、この駅は中央から見ればど田舎だし、締めつけも緩いのかも。この調子で『上の駅』にいる人たちも、平和に降ろしてもらえるといいんだけど。上には僕の仲良しもいるんだよ」 「確か、今日も輸送艇が発進するはずだっけ」  上の駅、とは衛星軌道上にある、この地上の駅と対になる宇宙ステーションの事。  当然そちらも凍結の対象になっているのだが、衛星軌道上の事まで〈愁〉《うれ》いていては頭が破裂してしまいそうなので、ゼルダクララは話題を変えた。 「お友達、無事にご帰還される事をお祈りします……ところで、そのお友達というのは、殿方? それとも御婦人でして?」 「? どうしたの、急に。まあ、女の子なんだけど」 「そう……そうなのですよね。貴方がた駅員さんには、殿方も御婦人もいらしてる。同じ制服だから、区別を付けづらい方もおありみたいだけど、貴方は殿方でしょう?」  その通りだけど、と今度は平駅員の方が怪訝そうに〈頷〉《うなず》いた。ただ実際のところは、この平駅員達、男女で制服の区別はない上に、皆同じ顔で似通った体格をしているものだから、毎日彼らと顔を合わせているような者であっても、引ん剥いてみないと、男女が判らないというのが大半である。  ところが双子には、平駅員それぞれの個別の識別までは難しくあっても、性の違いは見ただけで判別が利く。  男性のような女性、女性のような男性、外見から判別する嗅覚に関しては、男より女の方が〈聡〉《さと》いとは言うが、この双子に関しては殊更にそれが鋭い。  だと言うのに、彼女達の感覚を〈欺〉《あざむ》いた者がある。 「ごめんなさい、おかしな事を確かめて。  けれど、そうするとますます変。  あの方は一体……」  また考えこんだゼルダクララを、心労が積もっているのかと平駅員は気遣わしげに覗きこむ。慌てて取り〈繕〉《つくろ》ってから、ゼルダクララは踏切を辞した。  相変わらず、列車が通過する気配はなく、敷石の間から生えだした〈薺〉《ぺんぺんぐさ》の花が、なんとも物憂げに微風に揺れていた。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  小高い丘の中ほどには〈礼拝堂〉《チャペル》のあって、いまし婚礼の鐘が晴れやかに鳴り響いたばかり、祝いの米が雨と降り注ぐ中、参列の者達に投ぜられた〈花束〉《ブーケ》が、ゼルダクララの胸元へ、約束されていたが如く飛びこんできて、少女は金属光沢の眸に芳香〈馨〉《かぐわ》しい花々を温順な色合いに映し、拍手で寄ってくる参列者の、先頭の既婚と思しい婦人に、なんとも淡白に手渡し婚礼の場をさっさと離れてすたすたと。  彼女の用向きは、婚礼の席にではなく〈礼拝堂〉《チャペル》を過ぎ越したもっと先、丘の頂きに立つ有機的な〈輪郭〉《フォルム》を持つ構造物にある。即ち、駅を高所から見下ろす、航宙艇管制塔へ。  丘の背後には航宙艇の発着場兼繋留場が切り開かれ、ところどころ焦げた焼き菓子の表のような空間が広がっている。  双子が住まう研究施設が地下にあって宇宙を〈思惟〉《しい》する学窓であるなら、こちら航宙管制塔は駅の宙空に〈駕〉《が》して航宙艇を見守る灯火である。  宇宙に関わる施設といって、無機質に乾いた輪郭を想像する向きもあるかも知れないが、この時代、この駅の航宙関連の施設は、バロック様式の有機的な輪郭に形作られたものが大半で、この管制塔もまた、二つの飴細工じみた構造物を一対に並べたような相を呈している。  その二つの塔の間に架け渡された、連絡通路。宙空に橋と浮かんだ通路に、ゼルダクララは管制塔の片方を上がって赴いていた。  この管制塔も既に無人となっていて、中央からの派遣吏が任務を着々とこなしている事が窺え、焦燥の念が硫黄の匂いさえ伴って少女の胸中に湧く。  ふと、〈潜〉《くぐ》り抜けた管制室を振り返れば。  窓越しに、〈管制席〉《コンソール》にシラギクが端然と収まっているのを認めて、ゼルダクララは暗然とした悪心地に背筋を撫でられた。  管制室はつい先程通り抜けたばかり、その際は確かに誰もいなかったのに。  そして空中通廊には、こちらも間違いなくシラギクが〈佇〉《たたず》んで、微風に結い髪を〈靡〉《なび》かせているのに。  ……前と背後のシラギクは、管制機器群の中にあって錬磨を詰んで沈着な、彼女自身が一つの部品のように、空中通廊で〈蒼穹〉《そうきゅう》を背に負えば、往古より万化の天文を記録し続けてきた天測官のように、それぞれ背景との美しい調和を見せているのがまた〈小面憎〉《こづらにく》いほど。  その調和の中に踏みこんでいくのは〈不躾〉《ぶしつけ》ではあるまいか、かつまたどちらのシラギクに話しかけるか、という不条理に思い迷うたものの、結局ゼルダクララは空中通廊に立つ方を選んだ。  どうしたって宇宙を想起させる、管制塔内の機器の中でシラギクと相対して、平静な心保ったままでいられるとは思えなかったので。青空の下であれば胸郭も広がろうし、頬撫でて身体を通り抜けていく風に激情を冷まされる事もあろう。 「ご機嫌はいかが、お優しい執行官様」  ───〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》もない空中通廊のこと、ゼルダクララが近づいてくるのは扉を抜けた時から気づいていようが、シラギクはただスカートの〈裾〉《すそ》や肩紐を風に流して空ばかりを仰ぐ、姿の麗しさに〈幽〉《かす》かな羨望の〈疼〉《うず》きを覚えたけれど。自分が皮肉というレトリックをつい口にしてしまってはっとなったのは、きっとそのせいではないと信じたいゼルダクララがある。  自分に対して動揺などの心の動きを毛先ほども見せてくれなかったからだろうか、それはそれで癪の虫。 「とっても良いお日和ね、ゼルダクララ。貴方がこの管制塔に歩いてくる様子、上から眺めていたのだわ。だからこちらにいらっしゃるって判ったのだけれど」 「私がここにいるって、貴方は何故ご存じなの? 誰にも告げた覚えはないのだけど」 「初めてお目にかかった時、マリーも言った筈よ。貴方は航宙士なのだって。であれば、〈妾〉《わたし》達なら貴方の気配を辿る事くらいは、ね」 「そう───こんな私でも、貴方達は航宙士って認めてしまうか。資料の通り、という事みたい」  大地上の宇宙史〈開闢〉《かいびゃく》時代では、航宙士という人種は厳しい訓練と教習によって為る存在であったのだが、要求される能力と資質が〈甚大〉《じんだい》かつ多岐に渡りすぎて、〈篩〉《ふる》いに叶う人材が極めて限られていた。年々増加していく航宙士の要求数に比して、選別を通過できる人間は少なく、ではいかにして各国の為政府がその数を満たさんとしたかというと。  為政府お抱えの科学者は、予めその資質と能力を備えた人間を産み出す事に傾注したのである。人間の遺伝子をいじる事によって。  よって、この時代の航宙士というのは、その殆どが遺伝子調整を受けて産まれた人間と言って過言でない。そして遺伝子調整の手は、航宙士のみならず、彼らを補佐する各種要員にも及び、たとえばそれは、航宙艇と航宙士の仲介に立って、操縦を容易にするマンマシンインターフェースであったり、あるいは───銀髪の双子もまた、そうした人類なのかも知れなかった。  なればこそ外見上は常人と見分けのつかぬ航宙士を、それと峻別して遠隔地からもその生体反応を感知もできるのだろう。 「今日は貴方お一人でいらして? ヒプノマリアはどちらに?」 「マリーなら、調べ物があるから、ここには来ないわ、〈妾〉《わたし》と別。〈妾〉《わたし》の方こそ、貴女に伺いたい事、ありましてよ」  昨夜二人は眠れない夜の〈徒然話〉《つれづればなし》の間に、シラギクの術への対策となりそうな手段を一つ思い出していた。いかに強力な威力を誇ろうと、大地上においては呪術は技術として扱われる以上相殺する〈術〉《すべ》というのもまた存在する。  ただ曖昧な記憶と情報であり、姉妹はそれを確かめるために今日は別行動を採っていたのだが、シラギクにわざわざ明かすまでもないと、固い顔で問い掛けるゼルダクララに、シラギクは透明な眼差しを向けたまま。  宙空にて対峙するそれぞれ翡翠の、金盤の眼差しの少女二人。  通り過ぎていく風は空の蒼さを気温に映したような涼しさで、二人の衣装が、髪が、それ自体に生有る物のように流麗に大気の中に舞い、少女達自身はひたりと動きを止めたまま、間境を測り合っている。けれどそうやって機を図っていて何時も先に痺れを切らすのはゼルダクララの方、この時も。 「たとえば、あすこにいらしている貴女はなんなのか、それも聞かせていただきたいけれど、それよりも」  と、管制室の〈席〉《コンソール》に座しているもう一人のシラギクへ一旦振り返って見せたが、それはここに来ての枝葉であり、ずっきりと問いの短刀を突き立てる。 「貴女は、一体何を考えていらっしゃるの?」 「私はただ、中央からの命で、この駅の宙港機能を凍結する為に参じた、それだけ───」 「今さら〈韜晦〉《とうかい》はよして頂戴。〈妾〉《わたし》、知っているのよ。この駅以外の場所では、宇宙に関わる色々、航宙士達はもっと〈酷〉《ひど》い目に遭っているって。壊されて、傷つけられて」 「なのに貴女は。確かにここでなさっているのは、宇宙港を停めてしまう事だけれど、けれどなにもなくしてはいない、傷つけてもいない」  平駅員に他方の航宙技術の処分に関する一連の顛末を聞かされてから、ゼルダクララの〈疑団〉《ぎだん》の貝殻の中に〈凝〉《こご》った核であった。 「貴女は〈廻〉《まわ》った先々を封じているだけ。まるで何かの目から、隠してしまおうとしているかのよう───仰有っている事、なさっている事、あべこべじゃありませんの」 「そんなでは、〈妾〉《わたし》もマリーも納得なんてできるはずないでしょう? いいえ、納得なんて最後までできないかもだけど、それでもきちんと判った上で、貴女を止めたいって思う」 「さあ───どういう、おつもり?」  一息に口上をしおおせて、やっとついた一呼吸を吹き消して、爆音の、低音と高音とが和して轟く、蒼らみ渡った〈天蓋〉《てんがい》をどよもす。  腹の底から突き上げるような低音と、耳を〈劈〉《つんざ》いて〈天骨〉《てんこつ》から突き抜けていくような独特の轟音は、航宙艇の機関の駆動音、見れば、シラギクの背後の空に、銀色の中型航宙艇が舞い上がっていったところの、上の駅へと向かうと思しき。ゼルダクララは宇宙へ繋がるものとして、航宙艇に親近の眼差しを向けたのだが、シラギクは背を向けたままで。 「ここも封じてしまわれるのね。上の駅と行き来する便はまだ残っていたと思うけれど、そちらの管制はどうなさるおつもり」 「そちらは、この管制塔でなくっても、地上の補助施設だけで用は足りましてよ」 「……どうせそちらだって、全ての輸送便が終わったなら封印してしまうくせに」 「それが私のお仕事なのだもの。もう幾度も言ったって思うけれど」 「そうやってお仕事、お仕事って。  ならどうして、昇っていく船から目を逸らしておいでなのかしら」 「ご自分が封じようとするものなら、しっかりと見届けて差し上げるべきじゃなくって?」 「言う通り、なのだわ」  凄まじい船速で飛翔する航宙艇の姿、はや宙空高くに溶けこんで、後に軌跡ばかりを細雲と残した。様々な形象を造り、種々の〈陰翳〉《いんえい》で空に浮かぶ雲の中で航宙艇のか細い軌跡は、ゼルダクララにはこの駅の航宙港の末路を象徴するようで物哀しい。  シラギクは航宙艇の雲を仰いだものの、さしたる感慨も見せた様子もなく、またすぐにゼルダクララに視線を戻す。 「……マリーがあの航宙艇を見たなら、きっと悔しがるわ。あれもじきに、飛ばなくなってしまうって」  ゼルダクララとしては、いささかの嫌味のつもりだったのに、シラギクが返してきた言葉はどこか見当外れで。 「貴方があの子をマリーと呼べるのが、とっても羨ましい。近しい人だけに許してもらえる、特別な感じがする呼び方ですもの」 「もちろん、ヒプノマリアという名前だって素敵だわ」 「眩惑の聖母、という意味ね。夢幻のように綺麗なあの子に、ぴったりの名前じゃありませんの」 「そして貴方は、さしずめ幸運の聖女、というところかしら」 「〈妾〉《わたし》が、幸運、の? そう仰有られても、しっくりきません」 「合っているのよ。私にとって、貴方と出逢えたのは幸いだったのだから」  ゼルダクララには、判らない。  確かに自分達の名前は施設の職員達に与えられた大切なものであるとはいえ、シラギクがなぜ、その意を聖典でも〈繙〉《ひもと》くように敬虔に解いたのか。  ゼルダクララには、もっと判らない。  大切に抱きしめるように、幸いという言葉を口にしていたのに、シラギクの双眸には涙の雫が湧き出していた、その理由が見当も付かない。 「何故、泣いてらっしゃるの?」 「私が、泣く? どうして泣かなければ……」  手を伸ばして、触れた瞬間に感じた涙の熱さでゼルダクララは、シラギクに初めて直に触れた事に気づいて〈狼狽〉《うろた》えの、けれども指先は当たり前に涙を〈掬〉《すく》いとってやっていたし、継いだ言葉に困惑の気色を漏らしていなかった事は、彼女自身上出来であったと自讃する。  この流れで〈粗忽〉《そこつ》な振る舞いを見せてしまう事は、双子の名前に、シラギクが初めて見せた感情らしい感情を致命的なまでに〈虚仮〉《こけ》にする恐れがあったから。 「泣いているじゃない。ほら」 「本当、なのだわ……」  シラギク、自分が涙を浮かべていた事に、今さら驚いた様子で。  その涙が風に舞い、流されて散っていく。  目を逸らしたらくねくね踊っていてくれたならまだ怒れたのに。  もうちょっと〈土性骨〉《どしょうぼね》座った相手なら、涙なんぞに〈誑〉《たぶら》かされずに玉葱の刻みあたりを追加で嗅がせてもそっと場を盛りあげてやれたろうに。  ゼルダクララにそんな理不尽な不満を抱かせてしまうくらい、シラギクの涙には、心を撃ち抜くまでの哀しい美しさが宿っていた。 「おかしな方ね。マリーと私の名前が、泣くような事だと仰有るの?」 「たぶん、それは。貴女と、そんな風なお話ができたから」 「それには〈妾〉《わたし》も驚いてはいるの。でも、せっかくそういうお話をしていても」 「管制塔の中にいらっしゃる、貴女が薄気味悪くって。消すか、どこかにやってしまうかして下さりません?」 「貴女の仰有る通りに。さようなら、私」  笑ったような、泣いたような表情を浮かべてシラギクが、クリップボード上の書面に何事か書きつけた行為が契印だったのか、その途端に背後の管制塔の全機能が凍結されたのが、ゼルダクララには知覚された。それとともに、もう一人のシラギクは消失した事も。 「貴女のその、お仕事のやりかた。とっても趣味が悪い。なぜ自分の姿をいちいち作って、一緒に消し去ったりなさるの?」 「辛辣ですこと。けれどそれくらいはして差し上げないと」 「あすこにいたのは、立体投映の類ではなく、本当に私の一部なの。呪式を使って、この私から切り取った、ね」 「私の一部分を情報化して、それを封印用の呪式に組み替えているのよ」 「後に遺すためとはいえ、この今の時代の方々から、宇宙への道を閉ざしてしまう事には変わりないのだもの」 「後に遺すため……それが貴女の、本音でしたのね……」 「どうしてこの今で、どうにかしようとしないのかしら」 「貴女くらいの力がおありなら、いくらでもなさりようがあるんじゃなくって。〈妾〉《わたし》には、諦める言い訳にしか聞こえないのよ」 「私は。べつに諦めたりなんかしてないのだわ」 「私達の時代はこんな風になってしまったけれど、それでも人間の世はまだずっと続くはず。だから、私は託すの。後の時代に。引き続く人たちに───」 「それって、問題の先送りって言うのじゃ?」 「重ねて言うけれど、辛辣ね、貴女。そうまで言われると、心が痛まないでもないけれど」 「それに、平気なの? 私にはよく判らないけれど、呪式で組み上げたからと言って、あちらの貴女も、貴女の一部なんでしょう?」 「貴女の一部ごと、封じてしまうなんて」 「正直申しますとね。  ───結構しんどい。  うっかりすると消え去ってしまいそうよ」 「───なによ。本当は辛いんじゃない。  それを先に言って下さればいいんだわ」 「貴女がなにも痛みを感じないままで、  このお仕事を続けているのじゃないって、  それがわかっただけでも、  今日は来た甲斐、ありました」  会話の後でゼルダクララはシラギクを書斎に招いた。  それはゼルダクララ自身思いもよらなかった提案で、あるいはシラギクの涙は風に吹き散らされたばかりに見えて、ゼルダクララの胸の〈裡側〉《うちがわ》のなにかを溶かしていったのかも知れない。                      ───六───             シラギクの、涙が虚空に吹き〈靡〉《なび》けて翡翠の色の眸から、けれど雫は透明なまま駅の遠景を映し込んで舞いゆくが彼方へ果てへ、あるいは大地上を終わり無く巡る風の背に乗ったかも知れない。派遣吏の少女の涙は〈高空〉《たかぞら》に飛び、一方物語を追い綴る視座は〈笄〉《こうがい》落としに風を斬り、地表の積層建築群に迫って突き抜け地べたに降りて、更に〈潜〉《もぐ》って〈穿〉《うが》って〈古〉《いにしえ》の仙人の地行術よりも敏速に地中を透過し、深く深く。だがいけない、だが捕まった、旧時代の地下鉄道と通路の狭間に在って駅の誰にも知られぬ埋没蔵に、独り隠棲の女が〈機〉《はた》織る布地の紋様に捕らえられ草。  その外界と完全に隔絶された埋没蔵に〈潜〉《ひそ》む女の、髪と眸子は黒曜石の深みと冴え、まとう衣装は花喰鳥唐草の辻が花、〈機〉《はた》には天の大柄杓の〈螺鈿〉《らでん》が施されてあって、織り出される反は蔵の床を覆い尽くしてなお余り、なのに女の手は止むことの無く、女自身が〈機〉《はた》と一つの機構なのかとさえ。織物に、彩なされる紋様は、かつて仇敵を求めて大地上を駆け巡ったとされる、若葉色の髪と紅玉の眸の精霊のその軌跡であり、その一部だけでも追おうとすればたちどころに昼夜を重ねてしまう。  だから物語の視座には、腰を据えてしまう前により地中深きを目指してもらわねば、と疲労がぽんと吹き飛ぶ薬を三単位静注してでも追い立てよう、先はあの地下研究施設群のそのまた奥深く。  地下深くに在って、と言えば〈金字塔〉《ピラミッド》の玄室辺りが近例に浮かぼうが、あちらでは満たしているのは、冷たい石塊と朽ちた〈薨衣〉《こうい》に染みつく〈没薬〉《ミルラ》のしみったれた名残が、ま、精々がところ。闇中の奥に隠されて、と言うなら竜族の脳髄中に精製されるという宝石もまた然りではあれど、それではさすがに錬金術的象徴に過ぎる。  視座が辿り着いた先は、其処は〈静謐〉《せいひつ》を美徳のように湛えた書斎にて。  そう、〈静謐〉《せいひつ》は〈寛雅〉《かんが》に、室内を満たす蒐集物を〈胞衣〉《えな》とくるみこんでいた……筈、いつもなら。地下深くという重圧下にあって慰安を与えてくれる……筈、平素であれば。  けーれーどーもーこーのー今は。  職と恋人と住居と財産をいっぺんに失い、親兄弟から見捨てられ〈恃〉《たの》みとしていた親友に臀を犯され、全てがどうでもよくなり虚無主義の〈境涯〉《きょうがい》に至った者であっても、心の痛みの余り黒闇天の〈裳裾〉《もすそ》の中に〈潜〉《もぐ》りこんで目と耳を覆い隠しもしたくなるような情景がこれでもかと展開されていて、いやはや〈静謐〉《せいひつ》も安寧も茄子の〈蔕〉《へた》もあったものかは、で。  〈銀絹〉《ぎんけん》〈縺〉《もつ》れ絡まり〈闇〉《アン》と〈茜〉《セン》がはっちゃけ放題狂い咲き、白が白と〈乱堆乱調〉《ごっちゃごちゃ》、解脱に至った尊者であっても、智慧の印に開掌していた手をば上からぱたりと被せ〈蓋〉《ふた》いでしまいかねない惨状の、具体的にはこれこれこういう─── 「こ、この、マリーのわからず屋ッ」 「っく! クララこそ、皆の無念、わたくしたちの口惜しさ、簡単に忘れて!」  西の聖天も。  東の月天も。  ご照覧召され白銀黄金の双子の稀有なる様態。  悪擦れした〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》でさえもスカートめくりの〈贄〉《にえ》とする事気後れしたと専らの噂の、双子の脚が付け根近くまで開陳され、大地上を股にかけた大盗賊が湖の水全てを呑み干してでも〈綻〉《ほころ》ばせてみたいと願った唇が、これでもかと大開きにかっ〈広〉《ぴろ》げられた様。  脚はこれ以上ないほど脚ではあるし、顔は想いの丈をこれでもかと見せつけてはある、が。  興醒めの〈汀〉《みぎわ》にて〈踝〉《くるぶし》を冷やし、〈艶消〉《つやけ》しの荒滝に打たれて頭頂から凍えて、百年の恋も千年の憧憬もまとめて岩塊破砕機に掛けられ再現することは大困難の、これを有り難いと拝む者は、自覚はなくとも〈妖鳥女〉《ハルピュイア》の乱戦に性的興奮を催す癖を潜在させていると認識した方が良い。  日頃は慎みに隠した素肌を〈椀盤〉《わんばん》振る舞いにぶちまけるのは、豪毅な景気良さというより幻滅ものの、掴み合い、もつれあう双子の、書斎の床を、ところ構わず上になり下になり、罵り合いながら。 「大体、なんじゃ! お前さま、先だって独り出して以来、どうにも様子がおかしく……あ、〈痛〉《つ》っ、よ、よくもよくもっ」 「マリーだって、一人で勝手してるじゃない! あの人を、誰かに引き渡すなんて。恥を知るといい!」  あの典雅で可憐な相をかなぐり捨てて、露わにしたのは猛った雌猫の兇悪さ加減の、爪と牙を立て合うお互いを責め合う。  一方が一方を突き飛ばせば、書斎の蒐集物が台から落ち、その耳飾り掛け、せっかく長い時代を耐え抜いてきたのに双子のザマには絶望抑えきれずに投身自殺を試みたものか。  一方が一方に体当たりをくれれば、書棚の書物が零れ、先人の叡智のよすがも双子のこの始末には身悶え禁じえなかったらしい。  書斎は博物学派の夢想を静かに体現していたところに、局所的な低気圧が偏在したかのよう。 「せっかく〈妾〉《わたし》が、あの人の考えを教えて差し上げようってしたのに、何故聞いてくれない……の……っ? !? かは……蹴ったなぁ!」  爪と爪の錯綜、髪が乱れる埃が舞い上がる。 「蹴ったがなんだとて! あれがどう思っていようが、そんなのは関係なし! そもそもあれのしでかした事、許せるものでは……っった? ……〈撲〉《ぶ》ちましたか、今、わたくしを!」  拳と蹴りの交錯、突き飛ばしあって書斎の調度にあちこちぶつける、ストッキングがよれる髪に結ったリボンがずれる。  地下研究施設の一対の珠玉と愛でて、慈しんできた人々が今の双子を見たなら心痛の余り一時のうちに十や二〇は老化するのではなかろうか。  それくらい双子は猛り狂って、恥も外聞もへったくれもあったものかはと、蹴り足、握り拳、その応酬に我を忘れていた。  これまでは、お互いを己の分身とみなし、言葉を交わさずともその想い通じ合っていた双子である。  それが今では想いどころか言葉さえも通じていない。行き交うのは乱暴な手と手、ぶつかり合うは身体、ただ〈遮二無二〉《しゃにむに》、自分の我を通そうとして。                    ───何故に双子がこのような狂態を晒しているかというと。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  〈幾許〉《いくばく》か時を巻き戻して書斎にて。書棚の一画に〈鎮座在〉《ちんざましま》すミニチュアの聖堂のような時計をちらりちらりと気にしながら、お茶の用意を〈調〉《ととの》えているゼルダクララがある。体内に具わった時間感覚は精確で、時計を見ずとも時間は計れるのだが、それでも改めずにはいられない。  今日この日、三〇分も待たない後にはシラギクがここを訪れ、今一度双子と話し合うよう、そんな席をあの空中通廊の一幕の後で約した。言うまでもなく大事な会席なのに、半身であるヒプノマリアは朝から出かけたきり、未だに戻ってこない。シラギクとの会見のこと、しかと言い含めておいたのに。  ヒプノマリアが半身との約束を違える筈がないとは判っていても、どうしても懸念を抱いてしまう。思えばヒプノマリアは、承諾こそしたものの、シラギクを招くことに不満げだった。  そもそもこの書庫への道筋を教えた事自体からして、不用心だと非難したものである。  茶器の揃えを確かめて、付いてもいない埃を〈拭〉《ぬぐ》ってみるのももう何度目か。捜しに行くべきか、けれど行き違いの恐れもある。ゼルダクララ、じりじりと待つうちに、嬉しやな、扉の向こうから聞き違えようのない軽やかな〈跫音〉《あしおと》の伝わって。 「クララ! もう大事ない、もう心配はありませぬ───」  日頃はスカートの〈裾〉《すそ》も鏡台の覆いのように〈淑〉《しと》やかに落ち着けたままのヒプノマリアが、この時は珍しく闘魚の〈鰭〉《ひれ》とはためかせ、書斎に飛びこんできたのが息せき切らして、とくる。  ゼルダクララは単純に、半身が時間を気にする余りの早駆けと思いこんでは微笑ましさを覚えたものだけれど。 「マリー、何時戻ってくるのかと、〈妾〉《わたし》はらはらしてたのよ。でもよかった、ちゃんと間に合って下すって……もう、そんなに髪をくしゃくしゃにして」 「まだ時間はあるのだから、髪、〈梳〉《す》いてあげましょうね。ああそれよりいっそ、ちゃんと身体を流してきたほうが」  指先で髪を〈梳〉《す》こうとした、半身の手を焦れたように〈遮〉《さえぎ》って、ばかりか邪魔と言わんばかりに〈面紗〉《ヴェール》も剥ぎ取って、ヒプノマリア、 「髪もお風呂も、そんなのは後回しでよろしいのです。お茶の会とやらも。なにしろシラギクは、もうなにもできやせぬ故に。クララ、こちらをご〈覧〉《ろう》じろ」  半身がなにを言いだしたのか、飲みこみきれずに小首を傾げたゼルダクララの前に、広げられたのは一枚の紙葉。管理局の徽章の付いた。  急かされるままに読み下した、ゼルダクララの表情が強張る。 「手配状? 手配状というのはどういう……ああ人を捜してらっしゃるの。誰を? って、シラギク・〈A〉《アルツェバルスカヤ》……あの方を、どうして」 「背任……容疑……? 本国への召還命令を、無視……? 目撃せし者、情報を有する者、通報されたし……マリー、〈妾〉《わたし》には書いてある事がよく判らないのだけれど」  お役所的用語を散りばめられた書面の意味を掴みかねて問えば、半身は得意気に、 「つまるところは、クララ、シラギクは好き勝手をしていたのです。中央のお仕事なぞとは、よくまあのたもったもの」 「だからの、公安なりに報せるなり連れていくなりいたしますとね、あれは捕まって、中央に引き戻されていくのですよ」  ヒプノマリアはこの話と書状、管理局で仕入れてきたと思しいのだが、聞いてゼルダクララの顔色が変わる。 「待って、待って頂戴マリー。違っていてよ、そうではないの、あの人は確かに、ご自分のお心で動いていらっしゃる、けれどもそれは」  ゼルダクララは先だってのシラギクとの空中通廊での出会いに、自分が感得したところを半身に説こうとしたのだけれど。  ヒプノマリアは喜びに水を差されたと感じたのか、始めから半信半疑で、その上シラギクが駅に航宙機能を残そうとしているという段になっては、てんで耳を貸さず。  後はもう、二人の気持ちは噛み合わず、お互いの言い分を押し通そうとするうちに心がささくれ立ってきて、きっかけはどちらが先だったのか。  ヒプノマリアが身振りで話を打ち切ろうとした、その手がゼルダクララの鼻先を軽く掠めたせいかも知れない。  あるいはゼルダクララがヒプノマリアの強情を〈遮〉《さえぎ》ろうとして、肩に置いた手に思ったより力が籠もっていて、軽く叩いたようになってしまったせいかもしれない。  どちらでもいいことだ。その〈些細〉《ささい》なぶつかりが、仕返しに仕返しの連鎖となって、遂に双子が本気で掴み合うようになってしまった後では、始まりがどうあれ止められたものではなかった故に。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「痛いじゃない! マリーなんて、〈平家蟹〉《ヘイケガニ》のお腹みたいな顔してる癖に!」 「クララとて、あんな力いっぱい撲っておいて! お前さまの顔の方こそ、〈Misumena vatia〉《ヒメハナグモ》の背中の模様と、そっくりじゃっ」  桜桃の唇には恋唄なり裏腹に愁訴なり、いずれ紡がせても風情だろうが、これが悪罵となるとどうにも色が合わない。その上双子の言葉選びと言うのが、日頃無聊の折りなどに繰り開いているのが自然三界の図鑑でもあるのか、〈些〉《いささ》か独特な比喩感覚に由来しており、どうせならもちっと甘やかな囁きに用いてくれたなら、ルナール風の詩句が聞けようものを……罵詈雑言では〈喩〉《たと》えに持ち出されるモノ達にしても立場がないし、聞く者にとってはイメージの喚起力が迫りすぎ、心に余計なえぐみを催してしまう。  よろしい、ならば双子には気が済むまで取っ組み合わせておくがいい。心に無駄な波風起こりそうな時は、お歌でも歌って神経を鎮めようというのが古来からの対処というもの。  諍う双子にちょうどいい歌もある。                    ───前奏  ♪聞き分けのない 姉妹の頬を   一つ 二つ 張り飛ばして   お腹も殴り お口を〈捻〉《ひね》れば   それで なにも 言うことはない♪ 「ちょっと前まで、一人で夜ご不浄にも行けなかった子が、何を生意気なっ。海鼠のこのわたみたいな臭いがするのよ貴女はげはっっ」  ♪苦しい喉で 〈放〉《ひ》り出ヒステリー   くやしい耳に 突き刺さって   クララとマリーは 怒髪のままに   姉妹喧嘩を 怨じていたよ♪ 「ふくぅぅ、臭くない、わたくしにそんな臭いなぞない、お前さまこそ、お臀の湿布を取り替えた時、〈痛〉《いと》うてお漏らししたであろ! あの臭さ、〈揚羽〉《あげは》の芋虫の〈臭角〉《しゅうかく》かと思うたわっ」  ♪マリー ゼルダ   二人の悪態は ひどかった   舌先が イガイガの棘で刺さった♪                    ───間奏。   「あの……」    ───どなた? 「嘘仰有いな! この、この、なにこの胸、それでお乳のおつもり? 〈飛蜥蜴〉《トビトカゲ》のお腹だって、そこまで〈痩〉《や》せっぽちじゃないのにねぇ!」 「お黙りあそべ! そういうお前さまのこの足はなに。〈竈馬〉《カマドウマ》の足の方がよほど肉がついておるっ」   「あの……よろしいかしら?」    声音は、双子のどす濁った醜態に勇敢にも〈嘴〉《くちばし》を挟もうという、けれどもこれは誰。 「く、む、むぅぅっ、何故その様に、あれの肩を持たれる。お前さま、よもやシラギクに言いくるめられてしまったのでは……」 「ん、ぎぃぃぃっ、そういうことじゃ、ないって言ってる! ただ、あの人は〈妾〉《わたし》達に言っていないことがおありなの。それを今日、説明していただこうって」 「あれがなにをどう言いつくろおうと、んぅぅぐぅぅっ、聞きとうない、わたくしは! それにクララが今さらとりなそうとて、もう遅い───くふぅぅ」   「ねえ、そろそろ休戦になさいましな?」    胸倉ねじり上げ、髪を引き絞り、口の中に指をつっこんで、握り拳を固く構えて〈膠着〉《こうちゃく》状態に陥った、双子の均衡は危ういところで釣り合っていたのに、先程から割りこんでくるこの声は誰。  ───誰、などて言うまでも無しの〈丞〉《じょう》。  骨髄まで噛み砕くという〈豚狼〉《ハイエナ》さえ、〈怯〉《ひる》ませるような双子の眼光が突き刺さったのは。  ───シラギクの、困ったような微笑み顔の、金縁蜜蝋印章押しの招待状は手にしてなかったけれど、不作法に〈罷〉《まか》り越したには〈非〉《あら》ず、正当な招待を受けてここにある。もっとも招いたゼルダクララ本人はその事実を念頭より棄却しさっているようではあるが。 「ね。お止めなさいまし。お二方のような綺麗な女の子が、なんだこれ。髪を振り乱し、息を切らせて、はしたないじゃありませんか」  項に薄荷の雫を垂らすように〈清〉《すが》しい、諭す言葉も女子としての〈矜持〉《きょうじ》に訴えるとあれば、なまじなお灸よりも効こうというもので、この場合はシラギクの浮世離れした感性が薬になった。双子は自分達の如何なる醜態をさらしていたのか、今更気づいたように、やや鼻白んだ態で声を高くして、 「シラギク!」 「お前さま!? は……はしたないのはどちらじゃ、いつから覗いておられたこそこそと!」 「いえ、さっきから何度も呼んでいましてよ。ともあれ、こんなじゃあ、〈艶消〉《つやけ》しも良いとこ、ろ───ゥ!?」  不和を仲裁しようという人めかした営みには不慣れなのか、双子に向けた微笑みは少々下手くそで、かえってそれが珍しくこのシラギクに人間味というのを付与していた、のに、次の刹那笑顔は硬直した。強張ったあまり〈貫入〉《かんにゅう》が走りそうなほど硬く。  ───まず、笑顔など鬱陶しいと、ヒプノマリアが逆上して、蹴り足を撃とうとしたのだ。すぐさまそれを止めようとしてゼルダクララが手を〈翳〉《かざ》した、ただシラギクにとって不幸だったのは、いずれもがっちり組み合った状態から無理矢理に手足を放った事。固く押さえこんでいた力を瞬時に放つと、思わぬ加速を見せる原理で、二人の手足は当人達が思っていた以上に伸び、〈奔〉《はし》り。  めりこんだがそれぞれ、シラギクの下っ腹と股間に、女性であれ男性であれ、変わらない急所に。  なにやら忌まわしげな音が響いた、という。 「───ヲふ───」  押し出された声はおよそ調子というものを外して裏返り、外気に触れただけでもしんしん〈沁〉《し》むような過敏な粘膜を無理矢理剥き出しにするような、そんな〈比喩〉《ひゆ》が痛々しくも当てはまった。 「……ぷくぷくぷく……」  そしてシラギクの顔、困り笑いを貼りつけて硬直した。やがて唇の端から小さな泡を零しながら、〈堪〉《たま》らない数瞬の後に崩れていって、斬首を待つ〈咎人〉《とがびと》の如く額に土し、かつ同時に浣腸を待つ患者のように高く臀を突きあげた、それはそれは珍妙な形で〈蹲〉《うずくま》ったという。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  シラギクが立ち上がれるようになるまで、五分余りが必要とされた。立ち上がってなお、その秀麗な額を苦痛の青味がこずませて、書斎の椅子に座っているだけでも辛そうな。下腹部に被せた掌は、己の体内に未だ〈煮凝〉《にこご》る痛みの核を和らげようとしているのか。  それでも双子に笑顔を向けようとしている辺り、この少女としては珍しい、健気な気遣いを滲ませた。 「あの……ごめんなさい……〈妾〉《わたし》、あんなつもりでは……」 「あまりお気になさらないで。あのタイミングで声をかけた私だっていけなかったのだわ……まだ少し、いえかなり痛いけれど」 「……わたくしは、謝罪など致しませんよ」 「さぞ痛いでしょうね、辛いでしょう、だって貴女は───え? マリー、貴女?」  言い差して、ゼルダクララは当惑げに半身を見やった。ゼルダクララが〈悄気〉《しょげ》返っているのに引き替え、ヒプノマリアは顔を〈背〉《そむ》け、柳眉を逆立て、敵意もありありと。声にだって無数の硝子の欠片の冷たい刃が宿っている。 「謝らぬと、そう申しています。お前さまがいけない。お前さまがわたくしたちの中に割りこんできたから、こんな事になったのだもの」 「クララに呼ばれたか知らん。じゃからといって、ようもわたくしたちの前に顔を出せたもの。よもやわたくしたちに、友誼など覚えてはおられまいな」 「お前さま、中央の命などとはよく騙られた。それが偽りであることなど、もう判じておる」  突き出した書状に、さっと目を走らせただけで双子の前に隠匿の〈鍍金〉《めっき》が剥がれたしまった事を覚ったとみえ、シラギクはどこか侘びしげに面伏せして、 「あら。ばれちゃった。まあ〈中央〉《あちら》を、何時までもたばかっておけるとは考えていなかったけれど」 「その様に、そもそも始めからして偽っておいて、わたくしたちとなにを話すおつもりか。話したところで、信じてもらえるとでも?」 「マリー、だから違うと言ってるでしょうに。この方が隠していらしたのは、そういうことではなくって───」 「本当なら、この駅の宙港施設も航宙艇もなにもかも。全部壊して、なくしてしまえとの命令に背いて、封じこめようって。この方の秘密というのはそういう」  室内の〈惨憺〉《さんたん》たる散らかり具合は変によそよそしく空々しく、眺めていると軽く虚脱してしまうくらい。双子にとって家であった地下研究施設群の最後の残存部であり、今日まで起き臥ししてきた書斎によそよそしい印象を与えてしまっている。けれどもそんなのは片づければ済む話であるし、過保護ではあったが身の回りの始末は一通り教えこまれてきており、諍いの苦さを噛み締めつの後片づけは良い教訓にもなろう。  ただ、部屋の整理整頓はまだしもの、現在はヒプノマリアの扱いの方が頭痛の種で、半身がどうすれば己の話を容れてくれるのか。怒っても〈宥〉《なだ》め〈賺〉《すか》しても、その分だけますますヒプノマリアは〈逆捩〉《さかね》じになっていく有り様で、ゼルダクララは〈困〉《こう》じ果てた。  姉妹の言葉に耳を貸さないだけでなく、ヒプノマリアは言葉の〈逆茂木〉《さかもぎ》でもってシラギクを取り囲もうとして、獄吏のように無情な。 「それだけではない筈。それはクララとてご存じでしょうや。他にも隠し事がおありで、この方、秘密、秘密、わたくしはもう沢山」 「今ここで、わたくしたちの目の前で。それを明かしたならば、少しは考えを改めるやも、のうシラギク殿?」 「マリー! 貴女意地悪よ、〈妾〉《わたし》と貴女の間なら知らず、他の方には、知られたくない事というのがきっとある。それを暴くなんて」  ヒプノマリアが言外に〈仄〉《ほの》めかさんとしているシラギクの〈密事〉《みそかごと》がなんなのか、ゼルダクララにはたちどころに察せられて押し留めようとしたのに、半身は矛先を退こうとせぬ。  あの夜自分達がそれを知ったのだって、思えば無断侵入から始まって〈窃見〉《ぬすみみ》したからという、教え諭されてきた『してはならない事』の禁を軒並みに破ったからで。褒められたものではないどころか、逆に槍玉に挙げられ罰を受ける事だって全く有り得る。  否、自分達の〈罪科〉《つみとが》以前の問題として、秘密、知られて欲しくない事、隠しておきたい事、その覆いを他人に勝手で引き剥がされるのは、その人にとっていかばかりの責め苦となるものか。分けてシラギクの秘密というのは、〈仄〉《ほの》めかされるだけでも生皮を剥がれるよりもまだ惨たらしい拷問になるのでは、とゼルダクララは顔色を変えた。  人間の後ろめたい部分に関しての機微には、まだまだ暗い彼女にも、踏みこんではいけない領域がある事が漠然と感じられていたのだ。  事実その通り。ヒプノマリアが暗に示したところにシラギクは、あのシラギクが、過敏で劇的な反応を示したのである。  瞳の清麗な水面が、油滴が垂らされたかにたちまちに濁って唇の色褪せ、潤いまで失せたよう。なだらかな〈稜線〉《りょうせん》を為していた肩が拒絶の角度にそばだち強張り、生ある物の柔らかみが一瞬にして失せはて、朽ちかけた蝋人形の質感が表に浮いたかの、薄鬼魅悪さ。  その肩口から、いや身体全身から、重苦しく黒々した気配が漏出し、床にまで垂れて広がって、書斎を疫病に〈斃〉《たお》れた者の死体置き場に変えていくかの。  双子両名、〈糜爛〉《びらん》した死骸を直視してしまった陰惨をさえ連想し、顔を〈背〉《そむ》けたい、のに、シラギクが〈項垂〉《うなだ》れ両掌の底で額を押さえた姿に、果てしない切なさと苦しさを見て取り動けなくなる。  ───シラギクは、深く重く思い悩んだその果てに、立ち上がって双子に対峙したけれど。それは決然と思い切ると言うより、逃げ場を無くし、我と我が身ごと一切合切を片づけるため、崖から身を投げようとする迷い人としか思えなかったのである。 「何時かの夜。ふと目を醒ましたら、お部屋の中に良い匂いが残っていましたっけ……あの夜私のお部屋に忍んでいらしたのは、貴方がただったのね」 「人払いの呪陣を張って眠ったつもりだったけれど、そうか、お二方には何度か術を掛けたから。同じ呪力では、効力が弱まるから」 「……一度見られてしまったなら、二度・三度も同じ事、それだけの事。承りましてよ」  本人は務めて軽く言い放ったつもりだろうに、ゼルダクララには己の胸を〈衝〉《つ》いて毒血を絞り出す〈小夜啼鳥〉《さよなきどり》の悲哀しか聴き取れず、耳を塞いで叫んで、声を消し去りたい。  ヒプノマリアでさえ、僅かに〈踵〉《かかと》〈後退〉《あとじさ》らせるくらい、痛々しかった。  笑顔で〈繕〉《つくろ》おうして、全く微笑みを演じきれていないのが無惨だった。 「……下着、新しい物を卸してあって幸いだったかしらね」  だから双子は、立ち上がりおもむろに〈襞〉《ひだ》の細かいスカートを〈捲〉《まく》りあげていくシラギクの手を止められず、死したる妻の、自ら〈面紗〉《ヴェール》をめくり、〈白蛆〉《はくじゅ》の饗宴を見せつけられる詩人の辛苦をもって見届けるしかなく。  ずらし降ろされるショーツは刺繍も麗しい高価な品であったけれど、羨む暇も心の構えもなく、双子の前にさらけ出されたものそれは、あの夜寝返りを打ったシラギクの、下着の股間を〈裡〉《うち》から押し上げていたもの。  ただ形状だけを挙げれば、柔弱で微笑みさえ呼びそうな。あの夜〈熱〉《いき》り〈勃〉《た》っていた時とはまるで裏腹に縮こまってあり。  色素の沈着も見えず、ややもすれば頬よりも〈滑〉《なめ》らかな肌合いをして、見苦しさより控え目な印象を与えるそれ、その器官、は。有り得ない、本来なら双子と同年代の少女としか見えないシラギクの股間にあってはならないもの。                    陰茎。ペニス。男根。肉の茎。 「やはりお前さまは、男の子……?」  ヒプノマリアは、腰の辺りに押し当てられた硬い感触を不審に思う余裕もなく、喘ぐように囁いた。彼女は自身が衝撃によろめいて、背後の陳列棚に支えられていなかったら腰から崩れていたであろう事には気づいておるまい。 「そうとも言えるし、そうではないとも言えますのよ。私、女の子の方もついているのだから」 「両性具有、ふたなり、それが私。男性、女性、どちらでもないの」  その声音───  淡々としている。透き通っている。なのに双子の耳には、途方もない内圧を〈堪〉《こら》えて今にもひび割れそうに届くのだ。 「私は、確かに航宙士資格を有する者だけれど。でも宇宙を飛ぶことはないのだわ、きっと。このからだが、それを許してくれないんですもの」 「アストロノーツタイプヒューマノイドの、稀有な変異例なのだとか。余分な物が付いている代わりに必要な適性に欠けている、というのが学術院のお〈診立〉《みた》てで」 「……もう、充分です……」  ヒプノマリアが声、絞り出して〈遮〉《さえぎ》ろうとしたのは。  シラギクの釈明に、医学的な一応の理屈を認めたため、と言うよりも。彼女は〈診療簿〉《カルテ》の受け売りのように平板に述べていながら、その告白の意味するところがどれだけの悲哀を秘めているのかを理解したために。  宇宙を翔ぶ為に遺伝子段階から調整された人類、それが航宙士である、にもかかわらず、その操作の結果生じた変異とやらで、宇宙に上がる事叶わじ、とレッテルを貼りつけられるというのは。〈諧謔〉《かいぎゃく》にしては毒に満ち過ぎ、悲劇というには間抜けさが漂う。  シラギク自身はそれをどう受けとめているのだろう、と問うは愚か、余りにも鈍愚、その澄んだ眸が透明度はそのままに、潤いを喪って無機の硝子面に変じていく様を見よ……。 「稀有なんて、ねえ。言葉の聞こえはいいのだけれど───実験。検査。観察。学習。睡眠棚に仕舞われて、また引きずり出されて、実験、検査、観察、学習、その繰り返しが、私のいた院での毎日」 「こちらに送り出されるあの日まで、一日たりとも変わること、なかったっけ」  ……ゼルダクララは少し早かっただけだ。中央からの派遣吏の少女の、行動に揺らぎを疑い問い詰めて、彼女の真情の一端なりとも先に触れていたから、姉妹よりも少しばかり早くシラギクへの姿勢を軟化させる事もできたし、心の整理も着けられただけ。  ところがヒプノマリアは、もちろん自身が追い詰めたせいであるのだけれど、いきなりに事実の塊と突き当たる羽目となった。剥き出しで尖り立った事実の塊、心を鎧っていた殻にひびを入れてしまうくらい、重く尖った告白の、意味が浸透していくにつれ否応なしに直観せざるをえなかったのだった。自分達とこのシラギクとの対称性を。  恐らくは同じような人工的な出生、そして通常の家庭ではなく施設で成長した事も似通う。なのにそこから先はどうだろう。ヒプノマリアもゼルダクララも、二親はいないのに知っている、暖かな手を、優しい抱擁を、口伝えに〈濃〉《こま》やかに物事を教えられる喜び、遊戯の時間もたっぷり、稀にではあってもそれでも時に降り注ぐ説諭の雷、誰かとのお喋り、外界で未知の事物と出会う驚き、何もかも与えられてきた自分達を、知っている。  一方シラギクにあるのは。  強力な呪術方程式の数々。与えられた任務。  そして他にも───他に、この少女には何があるのだろう───  それを想うた時に、きしきしと〈軋〉《きし》む音がヒプノマリアは耳の〈裡〉《うち》に響く。初めて対峙した時に即座に硬く結晶化した、シラギクへの〈敵愾心〉《てきがいしん》、反撥その他諸々からなる心の甲殻にひびが走っていく亀裂の音だ。ひび割れた隙間から、じわじわと入りこんでくる、外からの声音にヒプノマリアは身を硬く締める。  怖かった。一端敵意の殻に亀裂が入ってしまえば、声は柔らかな〈裡側〉《うちがわ》に忍び入ってくる。身構えようとして、 「あの、私、喋り方、少し変じゃなくって? だとしたならご免なさいね。こちらに来るまで、他の方とまともにお喋りする機会とか、ろくになかったものだから」  無機質の眸で、それでも笑ってみせるシラギクに、ヒプノマリアの殻、亀裂が編み目と走ってとうとうひび割れた。耐えられなかった。限界を越えていた。彼女が恐れていたのはまさにこれ、あれだけ〈敵愾心〉《てきがいしん》に燃えていたのに、その熱量がそのまま〈愛〉《かな》しさに変じて押し流されてしまう、自分の心の〈脆〉《もろ》さ。  それは〈脆〉《もろ》さなどではない、と教えたのは、手に絡んで柔らかい掌に軽く爪を立ててきた半身の、すぐに手は離れていったけれど、最前の諍いなど嘘のように刹那の触れ合いが多くを伝えていた。  シラギクという名のこれは、人型をしただけの、暴虐と無慈悲の意志が〈蝟集〉《いしゅう》した正体不明の存在ではない。共感を寄せることができる、自分達と同じ小さな女の子なのだ、とゼルダクララの爪の痛みが、ヒプノマリアに〈頑〉《かたく》なさをかなぐり捨てさせた。 「……っ、……ッ!!  やめて、もうやめてたまわれ───っ」  ひし、と圧と熱。シラギクに。  ヒプノマリアの腕に宿る生命、心。  シラギクをきつく抱擁した少女の。  常人とは異なる身体の在りようがなんだという。驚きはあったけれどそこに嫌悪はなく、〈滾々〉《こんこん》と溢れだしてきたのは、ただ熱く切ない、シラギクへの共感と申し訳なさのみ。 「わたくし、どのように償いをすれば良いのでしょうや。お前さまの、告げたくないような秘密まで、意地悪く暴きたて、て……っ」 「償いなんて、なんにもいらないのだわ。お二方に出会えただけで充分。初めてお会いした時に、なんて綺麗な子たちなのだろうって思ったの、本当よ」  思えばシラギクは、始めからそうと言葉にしていた。とはいえあの状況下では皮肉な社交辞令とだけ受け取られて然り、それがようやくそのままの意味で双子に響き、心の琴線を震わせる。  この少女から綺麗と賞賛される事は、どうしてこんなにも心を〈戦慄〉《わなな》かせるのだろう、その戦慄がどうしてこれほどに喜びをもたらすのだろう……。 「もちろんね、貴方達の〈厭〉《いや》がること、たくさんしたのは承知してます。なのに私は、貴方達がお出でになることが、嬉しくってたまらなかったの。ぞくぞくしてたわ」 「だから充分。私と出会って下すって、本当に嬉しかった」  翡翠と金盤の眸が見つめ合い、言葉にならずとも通い合うものは確かにあったのだ。  少女同士に───一方は意味上では少女とは言いきれないかも知れないが───伝わり合うものが、確かに。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「良かった……マリーの見る目も変わったようだし。それなら大事なのは、これからの事じゃなくって? つまるところ、まだ何もお話は済んでませんもの」 「それにシラギク、そろそろその、下着を履き直してはいかが。女の子が何時までも……ええと女の子、ではないのかしら、ともかく、お腹、冷えない?」 「それならわたくしが、履かせて差し上げます」  さすがにそれは結構と遠慮して、この愁嘆場にすっかり忘れ去られていたショーツを履きなおした頃合いだった。  三人が語らう書斎に〈旋律〉《メロディ》が鳴り響いた。 「なにかしら、この音楽」  ちょっと聴くなら〈暢気〉《のんき》なメロディに、ゼルダクララはさっと緊張走らせ、そしてヒプノマリアは姉妹の緊張どころではない動揺を示した。 「これは侵入者があったことを警告する曲なのだけど、けれどどうして? ここへの道筋なんて、普通だったら判らないのに」 「……お許しあれ、二人とも。それはわたくしが公安に告げ口した故だと思わるる」 「だってその時は、シラギクのことを、ただただ嫌いで、だから……」  ヒプノマリアが後悔する間もなく、押し入ってきた者達は、駅に駐留する軍隊の制服を着けた男達。  粗野な言葉で三人を揶揄する男達の前に、シラギクが進み出て、 「私が中央からの命で出向してきている事を、ご存じありませんか、兵士の皆様」  一応尋ねるも、軍服の男達にもシラギクの拘束令状は出回っていて、掴みかかってこようとするのを呪術で退ける。 「仕方ない、か。仕方ないのだもの。ここで拘束されるわけにも行かないのだし。兵隊さん達、少々痛い事になります、お覚悟を為されませ」  兵士たちは対呪式の盾を装備していたのだが、シラギクが呪式を発動させた途端に、股間を押さえてのたうち回った。 「その種の装備は、攻性呪式には有効ですわ。けれど体内に直接作用する術には、意味がないとご記憶召しませ」  シラギクが使った呪式は、先程まで彼女の股間にしつこく残っていた痛打の苦しみを転移するもの。  軍服の男達はたちまちのうちに悶絶した。 「わたくしが報せたのは、公安の方にだったのに、何故軍の方々がやってきたのやら」  兵士の顔を検めて、シラギクが溜め息をつく。 「この方達こそ、手配状が廻っていたわ。ちゃんとした兵隊さんではなくって、脱走兵のよう。私の身柄と引き換えに、原隊に戻るか、赦免を願うつもりだったみたい」 「……〈妾〉《わたし》達には知りようもない痛みだけれど。見るからに辛そうな……シラギク、さっきの貴女もこうでしたの?」 「ええ、まあ」 「効くは効いたようじゃが、なにやら随分と陰湿な術だったような……」 「もう呪力、そんなに残っていないのだわ。色々と他に費やしてしまって。それにまだ残しておかないとならなくて。だからあの程度の術しか使えなかったのよ」  地下の書斎から三人揃って逃れる。                      ───七───  シラギクの情報は、短時間の〈裡〉《うち》に広汎に流れていたようで、駅のあちこちには鋭く目を走らせる者達がうろついていた。  地上へと出た者の彼らから逃れる事は困難事であろう。  と、見えて双子はこれが巧みに捜索者達の目をかわして、駅内の死角を辿っていくのだった。 「お二方、何故こうも上手に、追っ手のない道を選べるのかしら」 「……さあ?」 「なんとなく、自然に、としか。方角や地勢の、おおよその見当がつくのです」 「それに、人々の気配、注意が向かう先とか、視線の集まるような場所も、大体判るような気がするの」 「ああ、他にも、〈時雨〉《しぐれ》殿に細かな道は教えていただいておりましたっけ」 「……たといどなたかの薫陶があったにしても、貴方達は、きっと案内人に向いていてよ」 (なるほど───これは。これが貴方達の知覚力。私のようななり損ないには欠けている、もの)  シラギクが独りごちたように、双子の方角や人の流れを感知する知覚は、きっと彼女達の遺伝子自体に具わっていた物なのだろう。 「とは申せ。このまま当て処もなく動きまわっているだけでは、〈埒〉《らち》もなく。わたくしたち、これからを考えないことには」 「それなのだけど。ねえシラギク、こんな風になってしまっても、貴女はご自分のお仕事をやり遂げるおつもり?」 「……言うまでもないことでしてよ。実際のところ、もう作業はあらかた済ませているの。後は要所を一つ残すばかり」 「ただその一箇所が、管理局内でも重要機密扱いで、位置がどうしても判らずじまい。情報封鎖が固いったら」 「それは、わたくしたちにも知らされてはおらぬと?」 「ええたぶん。一見して宙港関連の施設には、見えないそうだし」 「たとえば、精霊のお社のかたちを取っていたりして?」 「……ちと待ちなさいゼルダクララ。貴女、何故それをご存知でいらして。これヒプノマリアも。今目を逸らした。知らぬふりをしたのだわ。これ、これお二方!」  なんでも、双子は研究施設の職員から駅の伝説の一つとして聞かされていたとかで。駅の宇宙港が始まった時代、重要な役目を帯びていたのだそうな。  何処に棒というのが転がっているか知れたものではない。シラギクが二人にそこまで案内してくれるよう、頼みこんだ事は言うまでもなく。  双子を説き伏せる材料として、書斎で両性具有の印をあかすよう「強要」された事まで、幾らかの罪悪感を覚えつつ持ち出しながら。 「償いのことは、もう充分と伺いましたのに……なれどそれを持ち出されては、わたくしになんで否やと言えましょう。シラギク、お前さまはおずるい」 「けれども、忘れないで下さいましな。〈妾〉《わたし》達は、もともと宇宙への道を閉ざしてしまうこと、大反対なのだって」 「そうは仰有るけれどお二方。この時代で完全に途絶えてしまうより、後に芽を残す方が、なんぼかましって思わなくって?」  双子結局説き伏せられて、シラギクを案内することになる。 「仕方ないわね。ええもう、承りましたとも」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  その後一行は、双子達の研究施設とは別方向ながら、また地下に降り、上がったばかりなのにどうにも〈忙〉《せわ》しない。陽差しに〈吃驚〉《びっくり》の〈螻蛄〉《ケラ》でもあるまいし、シラギクは今さら双子に害意を疑うではないが、どうにも不審の念を抑えきれず、幾度か問い質してみても、こちらでいいのだ、の一点張り。 「駅は、建物の上に建て増し継ぎ増しして、今の景色となりました。されば古い時代の建物が地下に埋められていること、多うございますよ」  余所からの外来者であるシラギクが、駅に生まれ落ちて育った双子にそう諭されては、〈頷〉《うなず》くしかないわけで。  人通りのない地下道を歩みゆく三人。地下道というより坑道めいて、灯りに乏しい。  自然、三人して身を寄せ合うことになって。  ただその距離が、妙に近しい。  常夜灯もこう間隔が間遠では、目が中途半端な灯りを追う事に疲れてしまって、余計に足元を怪しくさせるもの。  風の〈甚〉《はなは》だしきには物陰に避け、雨の激しきには軒下に寄るように、娘三人が地下の道行きの暗きに、お互いを頼って身を寄せ合うのは理として見易い。  星明かりと月影の他は、まったき闇の夜と隣り合わせに生きている原始部族の者ならともかく、三人にしてみれば地下の暗さは冥界の闇にも等しい。 「暗い道だこと。それになんだかうそ寒いような」 「クララのお召しは脚だの腕だのを、そう元気よく出しておいでだもの、冷えもする。さ、もう少し、くっつきなさいな」  が、身を寄せ合うというにも限度があったし、シラギクには双子のやり取りを、姉妹を案じて優しく招くものと聞いたのに、なぜかゼルダクララがひたりと身を寄せたのは、シラギクへ。 「ゼルダクララさん? それで何故に私へくっついてくるの?」 「あっ……足元、〈滑〉《すべ》って、今あわやというところに。こう薄暗いと、なにが落ちているやら判ったものでない」 「気をつけて。ただでさえマリーのお召しは暗がりの中では見えづらくって、こっちもうっかり押してしまいそう。ほら、手を繋ぎましょうよ」 「ヒプノマリアさんも。どうしてご姉妹のではなく、私の手を、というより腕を掴んでくるのかしら」  シラギクは、暗がりの中で双子に両脇から密に挟まれるように。  ひたりと双子の横身が寄り添って、シラギクの制服の生地を通しても二人の肌の温もり、柔らかさが通う。 「決まってるじゃありませんか。貴女をちゃんと案内して差し上げるために、よ。それとも、〈妾〉《わたし》達とこうしているのは、お〈厭〉《いや》?」 「……そうであるやも知れませぬ、クララ。なにしろこの方とは、つい先頃まで敵同士でしたもの。だから、呼び名さえ他人行儀に」 「え、いえ、違うのだわ。私はどなたとも、こんな風にくっついた事なんてなかったから。〈厭〉《いや》だなんてそんな」  そう取り〈繕〉《つくろ》ったけれど、それを盾に双子はますますシラギクに身を擦り寄せてきて、これではかえって歩きづらいくらい。  それに、歩度が取りにくいというのもさりながら、こう密着しているとシラギクは別の意味でも双子を強く意識してしまう。  淫夢の逢瀬に選ぶほどの相手なのだ。  シラギクの、雄の部分が自己を主張し始める。 「あの……お二人とも、やっぱりその……少しだけ離れて下さいまし……そうでないと、私、足元に注意がいかなくなってしまいそうで」  言葉でやんわり否んだだけでは双子は聞く耳持たず、仕方なく、なるたけ穏便に身を離そうとすると、さっとシラギクの腰を掠める双子の手。  最初はさり気なく、しかし次第に露骨になっていって、終いにははっきりとシラギクの臀に双子の手が被さるまでに。  不快なわけではない不快どころか、双子に触れられている部分が熱を〈点〉《とも》したように心地好い。どうしたって意識されてしまうし、シラギクの陰茎にはもうはっきりと芯が入ってしまって、ショーツの端から尖端がはみ出すくらい。  息遣いだって荒くなる。  双子の肢体が強く意識されてしまう。肉欲をもってだ。そんな風に見てしまう自分を〈疚〉《やま》しく想いつつも、一度覚えてしまった肉欲の芽は押さえ込めない。  双子の肉体の感触をあれこれ想像してしまう。  ことに、双子に自分が両性具有である事を明かした時に抱きついてきたヒプノマリアの肢体の感触の名残がシラギクを悩ませている。  大体ゼルダクララは判りやすく肌を見せているけれど、ヒプノマリアだって、慎ましく肌を隠しているように見え、その上衣は薄く張りつくようで、彼女の上半身の線を浮かせているのが、充分以上に怪しからぬ。 「はぁ……あ、少し、休ませて頂戴……。  私、息苦しくなってきて」 「大変。胸、苦しくなってしまって? こうしたら、少しは楽になる?」 「やんっ」 「それに、先程からお腹の方を気にされて、背筋が丸くなっておいでじゃ。もし、わたくしたちが〈撲〉《ぶ》ったところ、まだ痛みまして? どうかお許しあれ、お詫びにさすってあげましょう」 「だ、だめ……っ」  暗がりの中で二対の手、もう〈淫猥〉《いんわい》としか見えない動きに閃いて、シラギクの乳房に擦れるスカートの前を押さえる。  股間の変化だけは気づかれてならじとシラギク、懸命に身悶えするのだけれど、双子は天性の淫婦でもあるのか、シラギクを絡めとって放さない。  歩いているだけなのに、異様に官能的な移動だった。 「お気を確かにお持ちなさいませ、シラギク。目当てのお部屋は、もうじきですよ……」 「うぅ……ぅ……お部屋?」 「ええ、貴女が仰有っていたところ。そちらに着いたなら、一休みしましょうね」  〈羞恥〉《しゅうち》と快感のせめぎ合いからただただ解放されたいと願うばかりのシラギクは、双子が何処へ連れて行くのか気遣うどころではなく、半ば二人に引きずられていき、やがて地下道の側壁に、神域聖域を示す装飾が彫りつけられ〈大幣〉《おおぬさ》を挟みこんだ〈注連縄〉《しめなわ》が張り巡らされた〈龕〉《がん》を見た。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  坑道めいた地下道の側壁に〈穿〉《うが》たれた〈龕〉《がん》の奥は更に地下に下る石段に続いており、踏みこんでみると壁面には人の手で彫り抜いた痕跡の、〈本〉《もと》の地下道それ自体より古いのが明らかで、本来この道の方が先に地中にあったのだろう。三人が辿ってきた地下道を掘削していくうちにこの石段と出くわした、といった経緯なのだろうか。  ともかく、石段は程なくして底に行き着き、三人は古びた観音開きの格子戸を前にしていた。ここの地下の空気は乾いていて、陽光や風雪から隔絶された環境も幸いしたのか、観音開きはその古さにも関わらずするする開いて三人を迎え入れた辺りは呆気なささえ漂わせてある。ともかく、地下道の移動もようやく終わりとなり、だ。  中は、道観と社殿とが〈混淆〉《こんこう》したような様式の堂宇で、柱や壁などの材はまだまだ堅固と見えたがやはり扉同様えらく古びてい、この辺境の『駅』という地に、どれだけ得体の知れない歴史が秘め隠されているのか空恐ろしくさせるほど。  ただ、板敷きの堂内の中央に、これも揃いの様式の小振りの建て屋が造り付けられ、そぞろ歩きの庭園の中に床しい東屋と出会ったような風情を醸し出した。  さすがにこの堂宇までには灯りは通じていないのに、三人が中の様子を見分けられているのは、〈暁闇〉《ぎょうあん》めいた薄明かりが〈四囲〉《あたり》に拡散しているからで、薄ぼんやりと曖昧な寂光は、堂宇を構成する建材そのものに発光の永世呪式が定着させられている故とシラギクは見抜いた。  だがそれだけではない。この堂宇にはもっと別の、異質な呪式の気配が根深く遍在している事も、シラギクは感じ取ってあったのだが、そもそからしてここは精霊の社の筈。力ある社に呪式が関わっている事など当たり前で、それ相応の気構えで封印に臨むのみ、とシラギクは丹田に気を練ろうとして、心気を〈凝〉《こ》らすどころか、自分がまともに立つもならず、膝が笑っている事に今更気づく始末の。 「着いたわ、貴女。しばらくゆっくりおやすみなさいな」  手を引かれて連れこまれた、堂内の東屋の壁に背を預けた途端、シラギクはずるずるなりにへたりこみ、〈内腿〉《うちもも》をきつく閉じ合わせて〈項垂〉《うなだ》れきって、体内の中身が全て重く粘ついた液汁と化し、腰の底に溜まり〈澱〉《よど》んだかの胸苦しさに声もなく〈呻吟〉《しんぎん》していた。乙女としての品もあるべき振る舞いも保つ事が困難で、まともに双子と顔を合わせるのさえ辛い。  まだ出来上がりきらぬ身体と脚に、長時間の〈徒歩〉《かちある》きは疲労を相当量蓄積させていたし、随分と前から欲していた休息ではある。汗が臭うのではないか、息が〈饐〉《す》えてはいまいか、と〈恍惚〉《ぼんやり》しつつ、暗がりの中に肩口へ鼻先を寄せてみたシラギクは、自らの仕草に〈頸〉《くび》が蛇とずるずる延び出すのではないかと危ぶんだ。  かつて洞窟から地底深くに迷いこんで〈彷徨〉《さまよ》い続けた挙げ句、その身を蛇体に転じさせてしまった〈武士〉《もののふ》の伝説というのがあるにせよ、彼の人に我が身を〈擬〉《なぞら》えるほどに地下に惑うたつもりはなく、シラギクは淫欲の象徴としての蛇を思ったのである。  実際、〈股座〉《またぐら》の真ん中で隆起しているこれは、まるで浅ましい蛇が鎌首をもたげているようでないか───  心はこれほどまでに〈意気消沈〉《いきしょうちん》しきっているのに、彼女の腰の中心では熱塊が、ただ速やかに解放されるそればかりを主張して、硬く鈍く凝集して脈打ち脈打つ度に刻々とその圧力を強めていき、一層シラギクを惨めな〈慚愧〉《ざんき》に落としこむ。  地に沈みこまんばかりに〈項垂〉《うなだ》れたシラギクと裏腹に、嘲り笑うように、股間に猛り〈勃〉《た》つ、それ。今はスカートの前にさり気なく手を乗せて座り〈姿〉《しな》を装っているつもりだけれど、手を除ければその見苦しく飢えきった様、一目瞭然だろう。否、今さら隠したところで遅い、きっと双子には見抜かれてしまっている、とシラギクは己の意志では律しきれない肉の猛りを深く恨んだ。  二言三言言い残して双子は、シラギクを置いて東屋から出ていく様子だったが、彼女には二人が何を告げたのか、なぜ自分だけを残したのか、訝しむにも至らない。この『精霊の社』が駅内の航宙業務上いかなる意味を有した拠点なのか、管理局の情報封鎖は〈厭〉《いや》になるほど厳重でシラギクにも把握できず、とか、果たしてこの今の自分が別身を編み出すだけの呪式を制御できるのか、とか、疑問も懸念も、ここを目指した所期の目的意識すらも溶け崩れ、思考をまとめようとしても〈身裡〉《みうち》の炎熱に煮溶かされ、熱い吐息となって唇から垂れ零れていくような。  シラギクを蝕んでいるのは疲労も確かにあるのだが、端的に述べてしまえば強烈な性欲なのだった。  男にとって肉体的な疲労というのは、性欲を〈亢進〉《こうしん》させてしまう場合が往々にしてあるのだが、シラギクはそういった男の属性も併せ持つ。  かてて加えて地下の道行きで、ああも淫靡な接触だ。シラギクがどれだけ自分の勝手な思いこみ、都合の良い認識だと打ち消そうとしても、双子の───  支えるように腰に回された手は、〈脾腹〉《ひばら》に軽く爪立ててきて、その浅く食いこむ刺激は、鳥肌が立ちそうなほどに甘美な痛みだった。  うそ寒さに身を寄せて、腕を取ってくる時一緒に〈太腿〉《ふともも》を膝頭で撫で上げられると、膝が笑いそうなくらいに心地好かった。  囁きかけてくる時だって、あんな風に〈耳朶〉《じだ》に〈微温〉《ぬる》い吐息を吹きかけられては。臀や乳房の頂きを手が掠めていった時などは、もうくっきりと官能的な〈愉悦〉《ゆえつ》が走って陰茎が脈打ってしまって勃起が収まらなくなり。  もしかしたら双子は自分と、性的な触れ合いを求めているのかも知れない、と期待してしまったシラギクを誰が責められよう。  むしろ、有り得ない、こんな異常な身体をもつ自分などと、とこうまで獣欲に思考を溶かされても自制しようとするシラギクこそ哀れで健気。  期待、欲望のままに、双子に対して振る舞ってしまえと、〈股座〉《またぐら》でいきり〈勃〉《た》つ雄の象徴がシラギクを〈指嗾〉《しそう》して止まず、この肉欲の悪魔を手っとり早く鎮めるには、自慰で獣欲を絞り出してしまうくらいしかない。  だから双子が席を外したのは、いささかの不安を呼んだが都合良くもあった。この隙に、スカートを〈捲〉《まく》りあげショーツを降ろして、猛り狂った肉塊を〈摘〉《つま》み出して見苦しい手遊び、これだけ昂ぶっているのだ、数分と保たず〈夥〉《おびただ》しく精汁を撒き散らすだろうそれで済む……。  シラギクは危うくスカートに手を伸ばしかけて、思い留まった。  途轍もない、自己嫌悪がある。なぜ自分の身体はこれほどまでに刺激に弱いのかと。欲望を抑えこみたいのか、それとも自分の手で手っとり早く浅ましく快感を得たいのか、多分きっと後者なのだ。  シラギクが頭を抱えたとき、部屋の扉が閉まる気配が伝わって、彼女を異様な感覚が包んだ。  身体に定着させた全呪術方程式が、その威力、その数の分だけシラギクを麻酔させる重い鎖となって絡みつくよう。 「ゼルダクララ……? ヒプノマリア……?  今一体、何をなさったの……!?  ───これは、魔陣?」 『───ごめんなさい、シラギク。ああ、なんだか〈妾〉《わたし》達、謝ってばかり。けれども仕方ないのだもの』 「クララ!?」 『お許したも、シラギク。お前さまには〈暫〉《しばら》く其処にいていただきたく。なれど大事はなくってよ。わたくしとクララが、後ほど食事と必要な物を運びますから』  双子が何を言い出したのか理解し損ね、一瞬言葉が脳を〈上滑〉《うわすべ》りしかけた。  というより、シラギクは双子がそんな無意味な真似をしでかすなぞ、信じたくなかったのだろう。  双子が自分を幽閉監禁しようとして居るなぞ、と。 『やっぱり、貴女のお仕事、やり遂げさせてはあげられません。貴女にはしばらくそこにいてもらうわね』 『貴女の次の執行官が到着するまで、〈妾〉《わたし》達、他の皆様にお願いして、しっかりと立ち向かえるようにするから』 『〈左様〉《さよう》。けしてお前さま憎し、にはあらじ。なにしろお前さまも、捕らえよの報せが流れていますもの。ここに隠れてなさいませ』 『ほとぼり、というの? それが冷めたなら、必ずここから出してあげますとも。そうしたなら、私とマリーと、貴女で一緒に暮らしましょう。中央になんて、戻ってはだめよ』  なんとも安直な計画に、遂にシラギクの自制が切れた。 「お、お、お馬鹿ーーーーーっっっ!  そんなの、計画とさえ言えない、  子供の〈我侭〉《わがまま》なのだわ!  下らない〈わやく〉《・・・》こねてないで、  すぐに出しなさい、出せ、馬鹿ーーーっ」  とにかく扉を打ち壊して、この部屋からでないことには。  脱力感を振り払い、呪式を起動させる、も、発動する気配がなかった。 「なに、これは。呪式が働かない……?」  思いつく限りの呪式を行使しようとするも、どれだけ〈結印〉《けついん》しても無駄。危険なまでの破壊力を有する術も使った。それでも無駄だった。 『……貴女がどんなに強い術者でも、無駄でしてよ。このお部屋は、ずっとずっと昔に精霊を閉じこめるために作られた制呪の間、そういうお話だもの』  それが真実ならば、シラギクほどの術者であっても無駄な〈足掻〉《あが》きということになる。精霊が使う術は、人間とは比べるのも愚かしいほど強力だと伝えられる故に。  けれど、だとしても〈足掻〉《あが》かずにはおれるかと、シラギクはなお術を発動させようと力を振り絞り、そして気づいた。  室内に施された魔陣は、呪式を停止させるための物などではなく、何かもっと別の。  そこでシラギクの意識は暗くなる。  部屋の外からシラギクが崩れ落ちたのを見て、双子は不安げに顔を見合わせた。シラギクがそこまで頑迷に抵抗するとは考えていなかった。  もしやの事があってはと、シラギクの具合を確かめるため部屋に入り、彼女を抱き起こした途端、だった。  堂宇内と〈東屋〉《あずまや》を埋め尽くした魔陣と、それを構成する紋がシラギクの呪力に感応し、意図された効果を余すところなく発揮せんと活性化していた事を、呪術方程式も呪術言語も正式に学んだ事のない双子は、ただ空気の震撼としてしか感じられなかったであろう。だがシラギクには、双子のどちらが抱き起こそうとしているのかも判別ならないほど視界が〈眩〉《くら》んでいたけれど、ようやく魔陣に籠められた意図を看破しつつあった。  遅延───だと、理解してシラギクは。  千切れ千切れに溶けそうになる意識を、かき集める絶後の意志力、また呪式と解を結び始めるも、目隠し〈手枷〉《てかせ》でレースを編むより困難で、すぐに等式が崩れてしまいそう、をまた統御する。身体に定着させた式の幾つかが焼きついて使用不能になるのが感じられる。  それでも、〈仕遂〉《しと》げねばと、暗黒の泥中に〈嵌〉《はま》りこんだかに重い腕で、双子を引き寄せる、寄せようと、力を、意志を、絞り、だ、す… …!  遅延、なのだ。この堂宇内に敷かれた魔陣の目的というのは。それも極めて強力な。  呪式の発動を、本来の効果発動時よりずっと遅らせる。何処の何者がどういう意図でそんな魔陣を組んでいったのかまでは掴めない。  ただこの堂宇内で呪式を用いようとした場合、確かに一見では術が封じられたように見えるだろう。  だが封じられてなどはいないのだ。  この堂宇で結印された呪式は、ずっとずっと後で、恐らくは術者が部屋を出る頃合いまで遅延してから、発動するだけだ。 「いや……いや、これ、なに、何が起こっているの、怖い、空気が震えて……っ」  シラギクの結印した術も、それが弱い術であれば、発動はもっと後だったのかも知れない。けれどシラギクは、可能な限りの呪力で強力な呪式を用いた。何度も何度も。  自分の呪力に堂宇の魔陣が〈軋〉《きし》み、悲鳴を上げているのが術者の知覚で感じ取れる。本来の遅延効果よりずっと早く発動されてしまうはずだ。  幾重にも放った術式が、一気に発動してしまう、むしろ暴発と呼ぶべきで、それが生じた時には自分は───双子はどうなってしまうのか。  だからシラギクが今組み上げようとしている呪式は、魔陣を破るための術ではなく。  双子を護る為の─── 「いやああああーーーーーーっっ!!」  シラギクは寸前で防御術式を展開させたものの、さて間に合うか、どうかの。 「……うぅーっ、うぅーっ。  ───え? なにごとも、なかった?」  轟音、震動。残響音。  意外や、意外。室内は原形を残し、壁の一部が剥落し、柱や梁が少し歪んだ程度。  それでも、シラギクが張った呪陣の境界がはっきりわかるくらい、陣の外側は〈煤〉《すす》けていた。とりあえず三人とも五体は無事であるらしい。 「無事で……あるわけ……ないでしょう、二人とも、なんてお馬鹿……っ」 「防御呪式が間に合わなかったら、そして暴発した呪式が、相殺し合って威力が減衰されていなかったなら、今頃私達は皆───」 「シラギク……?」  見ればシラギクが身体の下にゼルダクララを〈庇〉《かば》う形で倒れ伏している。双子は無事だったが、シラギクの方は術のバックドラフトでも受けたのか。  見たところ怪我はないようだが、とにかく双子、シラギクを助け起こそうとして。  シラギクの身体、弾かれたように跳ねて体を入れ替え、ゼルダクララに絡みついた、と見た時には既にその唇に吸いつき、呼吸を奪っていて。  ヒプノマリアが、記録映像で聴視した、それまでは周囲の事物の中に擬態して、死んだように動かず、気づかずに間合いに入った〈迂闊〉《うかつ》な獲物を、瞬間に〈発条〉《ばね》と躍動して捕らえる、ある種の頭足類を反射的に想起していたのは、場違いのようでいて相応しいと言えた。  それくらいシラギクの挙動は痙攣的かつ突発的だったのだ。 「ぅふ!?」  始めは肺から押し出された呼気の、無意味な擦過音だったのがすぐに質を変える。  驚愕に、それが困惑に、拒絶に、そして混乱にと。 「ふーっ、ふーっ……んんぅ、ん、ん、すぅ、  ……にゅ、りゅ……っ、れ……ぅぅぅ」 「んふぅ……ん、や、だ、め……、  ふぅむ!? むぷ、んりゅ!? ぅぅ、ぅぅ!」 「あ……あぁ……」  双子にとって誰かとの肉体的接触は日常的な営みで、半身にはもちろん、施設の職員へも親愛の情の現れとして抱きついた事はある、手と手を握りあったり頬を寄せたり、額や頬への軽い接吻だってあった。  けれどもこれは、こんなものは、これまでの優しげで穏当な触れ合いとはまるで違う。  唇同士を重ねての口づけは、ただ親愛を越えた好意を意味すると心得ていた。  唇を重ねる、それだけでも大きな意味を持つ好意であるのに、唇を押しつけたまま頭をより深くくねらせるシラギクが、唇を重ねるだけに留まらず、舌まで差しこんでいるらしいと見て取った時には、ヒプノマリアの理解を軽く超えていた。 「れりゅ、れる、じゅ、ずちゅ、ちゅぅ、  あむ、うむ、れぅ……る……っ」  そしてシラギクにとっては、ゼルダクララの身体に四肢を絡めて動きを封じ、唇を奪った事は、親愛や好意といった心の働きよりもっと強烈な、原初の欲求に〈衝〉《つ》き動かされた結果だった。  確かに〈可憐瀟洒〉《かれんしょうしゃ》銀髪の少女を好もしく想う心はあったけれど、今あるのはひたすらに、この柔らかで細い肢体に触れたい己をぶつけたいという熱狂だけ。  口づけも、ゼルダクララの顔の中でとりわけふっくらと感触が素敵に見えた、その感覚の閃きのままにしゃぶりついただけだし、舌を割り入れたのだって、美味を口にした人間として当たり前の手順としか言い様がない。  他人の粘膜に舌で触れる事への忌避感など、股間に凝縮し脳髄を煮溶かす獣欲の前にとうに〈揮発〉《きはつ》し、あるのはただ、より深く、よりもっと味わいたいという欲求だけ。  だからゼルダクララの反応など意に介せず、好き放題に彼女の口中の感触を〈舐〉《ねぶ》り尽くしていく。 「んふ……うぅぅ……ん、ぷぁ、〈待〉《まっ》、息、 むぅ!? んぇ……! んぅ! ふぅぅっ… …ぅ……ぅ……ぁ……」  助け起こそうと手を引いたのはゼルダクララだった筈なのに。次の瞬間自分が堂宇の床に組み敷かれていて、押さえつけられている、動けない、ばかりか唇が塞がれている。  それがほぼ瞬時に発生し、息ができない、と咄嗟に喘ごうと、した唇の隙間からぬるり、何かが口の中に侵入してきたと認識してしまった〈衝懼〉《ショック》で、既に殆ど恐慌を〈来〉《きた》しており、自分を押さえつけているのが呪式の暴発で消耗していた筈のシラギクなのだと、理解して、してしまった時が余計にひどかった。  口の中に〈這入〉《はい》りこんでいるのがシラギクの舌だと把握したのが〈却〉《かえ》って混乱の極みをもたらし、不潔だとか、噛みついて吐き出そうとか、生理的に反応するのに先んじて、舌が口内で暴れ回る隙を与えてしまい───  ぬるつく粘膜が歯列をなぞっていく、縮こまる舌を余所に舌が勝手放題に蠢く、頬や上顎の内側をまさぐられる、口の中に湧き起こる触感をどう受けとめればいいのか、ゼルダクララの感覚の許容範囲を超えていて、唇をもぎ離さねばとか、噛みついてやったならとか、けれどそうしてしまったらどんなにかシラギクが痛いだろうとか、思考は僅かに〈脳裡〉《のうり》を掠めるばかりで、充満する口内の異物感と息苦しさに意識はたちまちかき曇りゆく。  中でも、他人の粘膜が自分の中を舐め〈啜〉《すす》っているという本能的な嫌悪感すら、そうされるうちに押し流されていくのが恐ろしかった。粘膜の刺激は圧倒的に過ぎて、ゼルダクララの感覚の正常を麻痺させていくのだ。  シラギクの強引な口づけは、すぐさま舌を〈潜〉《もぐ》らせる深いものとなり、ゼルダクララは懸命にもがいて抗って、なのに解放してはもらえず、抵抗は徐々に弱まって、シラギクが口を離したときにはもう、息も絶え絶えの壮絶な有り様。 「はぁぁ……こんなに、美味しいなんて。でもまだ足りないのだわ、全然。さ、クララ、もっと頂戴」  シラギクが顔を上げるまで、どれだけの時間を要したのか。ようやく唇が離れていったというのに、ゼルダクララは力なく瞼を下ろしたまま。ヒプノマリアは既に致命的な何かが姉妹の身に生じてしまったのではないかと、シラギクを責めようと、して。  舌なめずりするシラギクに戦慄した。  美味に酔い痴れていた。  恍惚と息を漏らし、あれだけ貪って満足するどころか、貪る〈愉悦〉《ゆえつ》を知ってしまった事で、更に求めてやまないしるけき飢えで、シラギク双眸を油と光らせていたのである。 「……お前さま……むごい。クララに、なんて可哀相な……。口づけなど、クララには初めてだったはず、それをこんな」  それでもヒプノマリアは、シラギクの異様にかぎろう眸にも、かき集められる限りの勇気でもって抗議した、のだけれど。  シラギクの、見つめ返す顔、ヒプノマリアこそが奇妙で意志の通じない生き物なのだと言わんばかりの、不思議そうな。 「むごいですって? 可哀相と? ご免なさいましね、仰有っている意味が判らなくって。そもそも、原因はお二方にあるのでしょうに」 「それに、私の体をいじりまわして、たまらない気持ちにさせたのは貴方達じゃありませんの」 「私ねえ、女の子のも男の子のも、両方あるせいなのかしらね、ほんとはとってもとっても、ええ、貴方達ならぞっとしてしまうくらいに」 「私は、いやらしい。変態なのだわ。男の子のが硬くなると、止まらない、頭がおかしくなってしまう。もういやらしいことをしたくて、したくって、それしか考えられなくなるくらい、たまらない」  シラギクの言葉の通りに、ヒプノマリアは〈慄然〉《りつぜん》としていた。これが、シラギクの声音なのか、と。ヒプノマリアが知っている声は、澄ましていて、鷹揚で、時には人を食ったように〈飄然〉《ひょうぜん》とした響きを帯びる声だ。  なのに今は、暴れ狂う獣をどうにか鎮めようとするかの、必死で張り詰めた色合いを浮かせている。  しかもその獣というのはシラギク自身の〈裡〉《うち》にあって、抑え得るどころか、その兇悪な衝動に理性を食い尽くされようとしているのがありありと伝わってくるくらい、声音は上擦って、調子を外してきているでないか。  確かに地下道の道行きの際、敢えてシラギクの身体に、必要以上に〈妄〉《みだ》りがましく触れたのは双子達ではある。ただその時はシラギクの心を乱して、〈欺〉《あざむ》いて幽閉せんという企てを気取られないようにする為だった。  それがよもやこんな結果を呼んでしまうとは、などと〈臍〉《ほぞ》を噛んだところで。後の祭とはこういう事だ、とヒプノマリアが学ぶための授業料は、予想を遙かに超えた形で徴収されそうだった。 「けれど、クララは女の子じゃ……そういう事は、殿方とするものだと……」 「ご存知の通り、私はこんな身体だから、どちらがお相手でも、構いません……いいえ、ちょっと違うかしら」 「貴方達、綺麗で素敵だから、きっと出会った時からずっと、想像してたのだわ、私。でも想っていただけだったのに!」 「───今まで、ずっと我慢してたのに!」  シラギクの激情の吐露は、まだ恋らしい恋も愛も知り初めぬ双子にとっては強烈に過ぎた。身体を芯から震えさせる電流じみたわななきの中には、もしかしたら誰かに求められる喜びの萌芽も混ざっていたのかも知れない。  けれどこの今は、これからどんな事態が勃発しようとしているのかを双子に否応なしに予想させ、〈心胆〉《しんたん》寒からしめる、劇薬のような効果を及ぼしてしまう。  まだ凝視していただけのヒプノマリアにしてからが、〈怯〉《おび》える余りに顔色失ったくらいである。のしかかられていたゼルダクララには、涎の絡む〈顎〉《あぎと》を突きつけられたようなもので、耐えきれず身を〈捻〉《ひね》り逃れようとして、浴びせかけられたのは宣言。 「だから、可哀相、ゼルダクララはとっても可哀相。今から貴女、私に、食べられてしまうわよ。わた、わたし、もう───とめられない」  ゼルダクララに、自身を飢えきった獣の前に置かれた、湯気が立ち、血の滴る肉なのだと思い知らせる宣言の、声を発するだけでも爆ぜてしまいそうに上擦りきった。 「やめ……やめ……ぁ、ぁぁ……っ」  再びゼルダクララにむしゃぶりつくシラギクの、今度は唇を奪うだけでなく、彼女の全身に手を這わせ、嵐の激しさで、貪る、始める、ほしいまま思うままに。  シラギクの手は獣欲に取り憑かれて荒々しく、ゼルダクララの茜色の上衣を傷めもせずに剥ぎ取れたのが不思議なくらい。剥き出しになった肩の、骨のか細さ、華奢な肉付き肌の色合い何もかもが、シラギクにとっては捧げられた美味なる供物で、頬を擦りつけた、舌を這わせた、〈仄〉《ほの》かな匂いを満喫した、ビスチェ様の下衣の胸を微笑ましく盛り上がらせる、乳房にだって言うまでもなく手は伸びて、そのまだ〈生硬〉《せいこう》な、なのに甘やかな柔味は、なんて心地良い、〈堪〉《たま》らない。  女性としての身体も有するシラギクは、自分の乳房で確かめてその感触も指に知ってはいたけれど、自分以外の女の子の胸がこんなにも夢中にさせるなんてと、ゼルダクララの肩の肌を吸いながら、犬のように鼻を鳴らした。強めに指を押しこめば、すぐに骨の硬さが応えるほどまだ薄いくせして、脂肪だってまだ熟しきっていないくせして、そのあえかな柔らかさはシラギクの雄の部分を切なく刺激する。  触れているだけで陰茎に走る脈動が鈍い快感を伴って、女の子の肉体を〈弄〉《いじ》り回しているのだとの実感が押し寄せる。服の上から揉みほぐすだけで足りるわけがなく、胸元から差しこみまさぐる生の肌の質感に、また陰茎がひくつく。探り出した乳房の頂きは、触れた時にはやや濃いめの指触りがあっただけなのに、〈摘〉《つま》み転がせば、やがてはっきりと内側に芯を含んで、尖っていって。  それが単に刺激に対しての生理的な反応で、心地好くてそうなっている訳ではないとは判るが、そんな事は二の次の、硬く尖ったそれだけでシラギクには〈愉〉《たの》しい、これも〈堪〉《たま》らない、ゼルダクララが漏らした〈呻〉《うめ》きは荒い刺激への苦鳴だったろうが、またそれも陰茎を弾いてシラギクをいよいよ猛らせた。  黒々とした欲動の赴くままに少女の身体を〈弄〉《もてあそ》んでいるだけ、どすにごった性欲をぶつけているだけ、ゼルダクララにとっては肉体を、心を汚され犯される苦痛の時でしかないだろう、シラギクにもそういう罪の意識は幽かにないでもない。が初めて触れる自分以外の少女の肢体、その圧倒的な魅惑と昂奮の前には罪悪感はあっさり霧消し、僅かな心の痛みはむしろ心地好さに変じてシラギクを酔わせる始末。  抵抗せずに耐えていれば、やがてこの恥辱の時間も終わるとでも考えているのか、身を硬くして目をきつく縛ったままの、ゼルダクララのその姿はシラギクを押し留めるどころか、好き放題にしていいという消極的な許しと見なさせた。シラギクは一層の昂ぶりに後頭部を押され、ゼルダクララの瞼に口づける、と薄い皮膜の下で眼球の震え、確かな生命の印。自分が〈弄〉《もてあそ》んでいるのが生命通う肉なのだという実感を更に高め、どちらかといえば生体解剖じみた反応さえもまた歓喜させる。だからシラギクは、よりゼルダクララの肢体にと没入していくのだ。  普段の理性と〈怜悧〉《れいり》な知性でもって自らを律するシラギクならば、絶対に他人には隠し通そうとするその部分。自分の雄を表すその器官。まとう衣装を女の品に選んでいるように、シラギクは己の人格を女性寄りと意識していて、為に陰茎は彼女にとっては自分の肉体の一部ながらも異物、余計な部分と認識されている。  そういう自覚がありながらも、ではなぜ自分は女性に対して性の発動を覚えてしまうのだろう───  女性としての性の目覚めも迎えてはいたけれど、そちら方面での春機発動はまだ穏やかと言えて、それはシラギクが長じた中央での学術院という環境もあったろう。そこではシラギクはただ研究対象として扱われ、男性研究員に対しても性を意識することはなかった。  引き換えシラギクの雄としての部分はどうであったか。シラギクが陰茎の勃起という現象を迎えて以来、起床時はおろか、ちょっとの刺激が加わっただけで普段の柔らかな状態が嘘のように硬く隆起するようになり、その重苦しさといったらなく、しかも身体が育つにつれその頻度がいや増しになるとくる。  そういったシラギクの肉体的性徴が、定期的に繰り返される学術院の身体検査で判明するのは当然の帰結であり、幾つかの検査で、外的刺激だけでなく、女性の肉体という物を意識してもそうなると明らかにされ、半ば強制的に精通を迎えさせられてから、シラギクの懊悩は始まっている。  折にふれ訪れる、やるせないくらい重く鈍く苦しい、陰茎の勃起という現象が、射精という現象によって解消されるなど、知らなければ良かったのに、と。  与えられた生殖行為に関する知識は最低限に留まり、自慰という秘かな行為についても知ったけれど。  精汁の鬱屈に耐えきれず初めて試みた時の、あの快感の爆発は確かにシラギクを痴呆のように陶酔させたけれども、秘やかだったはずの行為が全て研究員達に筒抜けになっていた事、その後研究員達の中でも比較的若く、他よりは人間的に接していた女性職員の見る目が、あからさまに冷徹になった事が、シラギクへ自慰行為というものに対し凄まじい自己嫌悪を植えつけた。  以降シラギクが、実際の生理機構はどうであれ、この陰茎という物があるが故に男としての性欲に苦しめられるのだと〈疎〉《うと》むようになったとしても無理はあるまい。  そして今、性衝動の暴走のままに、〈疎〉《うと》ましく邪魔な、自分を狂わせる性の象徴器官を、初めて人としての知己を得、なにかしらの心の交流を持った女の子に、ゼルダクララに。身を〈竦〉《すく》めて縮こまる少女に覆いかぶさり、その動きを抑えこむと同時に、彼女の下腹部に押しつけた。と、スカートとショーツ越しで、指で〈扱〉《しご》いている訳でもない、なのにゼルダクララのお腹の弾力が、陰茎に滲むような快感をもたらして、シラギクの頬を思わず歪ませたほど。  ああ、今自分はどんなにだらしなく、浅ましい顔をしているだろうと覚りつつも、陰茎に伝うこの快感の前にはそんな自嘲など抑えにもならず、シラギクはより強く押しつけた、もっと、と求めてゼルダクララの背の下に手を差しこみ、抱き寄せながら擦りつけた、腰をうねらせて布地越しに尖端で探るようにもした。  これまでは自慰で触れる事さえ躊躇うくらいだった雄としての器官に、積極的に快楽を求めさせ、その肉の塊の存在を銀髪の少女に意識させる事は、凄まじく薄暗い〈愉悦〉《ゆえつ》があったのだ。  ───これが、こんなのが自分だ。浅ましい。肉の快楽にこんなにも弱い。せっかく知り合えた女の子の〈厭〉《いや》がる事をしてしまう。  のしかかった始めはどちらかといえば、ゼルダクララの肢体の感触と反応に歓喜し、触れてまさぐり〈弄〉《いじ》り回す事に夢中だったシラギクだが、一度陰茎への快感を意識してしまうともう、それを追う事に意識が持っていかれて、股間をより密着させようとする。  お腹に押しつけただけでこれほどまでに良いならば、と味を占めたシラギクが次に目論んだのは、お腹よりも柔らかで秘めやかなところ、ゼルダクララの両脚の間、〈太腿〉《ふともも》の奥、彼女の女の子のところ、との密着。  この頃になるとシラギクは、腰の奥から煮立って、陰茎の尖端まで満ちに満ちた性欲に完全に引きずられるだけの生き物に成り果てていて、ゼルダクララの脚を包む巻きスカートは、見た目の美しさはどうあれ欲望のためには邪魔、もどかしく解き、剥ぎ取ろうと焦るほどに指先は獣心に〈鈍〉《なま》り上手くいかぬ。いっそ強引に少女の脚の間に割りこんでしまおうかと、巻き布から手を離そうとした時だ、それまでゼルダクララの臀の下に敷かれていたスカートがするりと〈滑〉《すべ》ったのは。  今のは、まさかゼルダクララが腰を浮かせて、シラギクの望むままに従ったのか。いや有り得ない、なんで無理矢理に身体を良いようにされているゼルダクララが、シラギクの邪欲に従うだろう。熱に浮かされた目で眺めてみても、ゼルダクララはやはり目を閉じて顔を〈背〉《そむ》けたままの。いずれにしてもシラギクが、そんな一抹の疑念で動き止むはずもなく、ゼルダクララの両脚の間に割りいるのに〈遮〉《さえぎ》る物がなくなった好都合しか目に入らない。だから。ゼルダクララの脚の間に膝を押しこんで割りこむ隙間を開けた時も、自らのスカートをたくしあげ、前がはちきれんばかりになっているショーツの〈股座〉《またぐら》を押し当てた時も、ゼルダクララが〈拒〉《こば》む動きの一筋も見せなかった、その違和感に気づく余地もなく。  あったのは、性器と性器を重ねた時の達成感、ゼルダクララのレオタード様の下着と自身のショーツという布地があったにもかかわらず、陰茎が受ける肉感は、お腹に押し当てるよりずっと柔らかで、シラギクは知らず臀をすぼめるようにして陰茎を引き絞ったほど。  昂奮は天井知らずで、少女の股間に陰茎を押しつけた心地好さに固まっていたのはしばしの事、すぐさまシラギクは腰を前後させ始める。これまで淫夢の中で、あるいは性欲の〈滾〉《たぎ》りに耐えかねて罪悪感にかられつつ、寝具や枕を相手に繰り返していた動作だ、ぎこちなさは殆ど無く、〈滑〉《なめ》らかに執拗にシラギクの腰は蠢き、股間と股間が擦れ合う、密着する、熱を孕む。  夢中でただゼルダクララの身体に押しつけていたより、ずっと目的が明らかで、その理に適った刺激が、陰茎を体熱と共に押し包む、その心地好さにシラギクは一声〈呻〉《うめ》いて少女の体の上に身を倒した。ゼルダクララの肩口に顔を埋め、彼女の項の香り、深く吸いこみながら腰を動かし続ける。  無目的、劣情の暴走の余りがむしゃらに押しつけるより、〈股座〉《またぐら》を合わせ腰の動きで陰茎を刺激し続ける行為は、着実にシラギクの快感を高めていって、このまま昂ぶっていけばあの雄としての絶頂の爆発、射精に至るだろう。  自分の身体の下になって受けとめる少女の肢体の弾力、布地越しに通う温もり、髪や肌の匂いに全身で浸りながら、シラギクはひたすらに果てを目指そうと息を荒げ、そこで。自分の荒くなった息遣いにもう一筋重なる別のそれが耳をくすぐったような気がして、強く前後させていた腰を緩め、ゼルダクララの耳元から顔をもたげる。  自分が快感と昂奮に呼吸を乱しているのは言うまでもなく判っている、けれど今、もう一つ、熱の籠もったような呼吸が確かに耳をくすぐった。  果たして、ゼルダクララは先ほどと同じく瞼を下ろしてシラギクを見ようとはしていなかったけれど、面から僅かに強張りが抜けて、結ばれていた唇も緩んでいないか。この薄暗がりでははっきりと色合いまでは見分けられないにしても、肌もまた汗を薄く帯びてしっとりとはしていないか。  ───吐息を熱くして、呼吸の拍子を浅くして。  まさか、とシラギクはただでさえ乱れていた呼吸が行き所を見失い、くぐもった音立てるくらいの動揺が喉にこみあげた。困惑していたと言ってもいい。自分が没我しきっているのは下種な落花狼藉、畜生にも劣る所業に手を染めているとは理性としては承知で、それでも性の昂ぶりと快感には〈抗〉《あらが》えず、エゴイスティックに貪り耽ってしまっている。  シラギク自身はそういう畜生遊びでも快楽を得られようが、ゼルダクララにとっては嫌悪と苦痛の塊が肌を這い回っているような暗黒の瞬間の連続に違いない、のに銀髪の少女の溶けた吐息はなんだ、火照った肌はなんだ。  犯されて、手籠めにされて、肉の玩具にされてゼルダクララの肉体も昂ぶってしまっているとでも? 有り得ない有ってはならないそんなこと。  密に圧し合う二人の股間に目を落としてみても、スカートが被さって窺えぬ、だからシラギクは、〈裾〉《すそ》から手を〈潜〉《もぐ》りこませてゼルダクララの中心へ、レオタードの隙間から指を差しこんでそこ、確かめようとする。彼女の一番秘めやかな部分に直に触れるのは、禁忌の更に奥の泥沼に身を鎮めるような背徳感をもたらし、シラギクの意識を〈眩〉《くら》むほど沸騰させた。  指先に、最佳品の粉を〈捏〉《こ》ねたよりも柔らかで腰のある、得も言われぬ感触が応えて、ああここがクララのあそこ、とシラギクは手の先から全身に波及していく、今までに倍する熱を覚える。自身の女の部分の感触を知ってはいても、ゼルダクララの性器と思えば熱狂は別格で、だがそれもそこまで。  ゼルダクララの秘裂は未だ慎ましく閉じたままで、女性が昂ぶった時に滲ませる露もなく、乾いていて。  やはり、こんなものだ。ゼルダクララが反応しているなど、色欲に狂った自分の都合の良すぎる思いこみ。彼女の身体が拒絶したままだからとて、哀しさだの苦しさだのに苛まれるのは傲慢に過ぎよう。それでも唇が奇妙に歪んでいきそうになるのを抑えきれないでいたシラギクの下で、ゼルダクララの臀が、浮いた。  そっとではあるが、それは確かに迎える動き、秘部の浅みで止まったままのシラギクの指を内側と導き入れる為の。  そうやって腰の角度が変わったことで、ゼルダクララの秘部に宛がわれていた指の角度が変わって、シラギクの指先に伝わったのは、それまで閉じていた秘裂の内側に指先が入りこむ感触の、ぬる、と。                  ───「もっと」とせがむ声が聞こえたような気がした─── 「そんな、何時まで続くのですか……クララが、あんなに執拗に……虐められて……虐め、られ……あら?」  ヒプノマリアが見たのは、シラギクの首をかき抱いて引き寄せるゼルダクララの腕、聞いたのは伸び上がる、はっきりと心地好さげな〈嬌声〉《きょうせい》の。  のしかかられていたはずのゼルダクララが、何時しか身を起こして、座して抱き合う形となり、口づけも触れ合いも、自らが積極的に求めていくようになっていて。  腰などは盛んに蠢いて、秘部をシラギクの股間に押しつけるようになっていた。  ……古ぼけた板敷きの上で身を重ねるのは、流石に初めての体験として潤いに欠ける、せめてもとシラギクが敷き布を敷きつめた事で、堂宇の床は辛うじて〈褥〉《しとね》としての体裁を整えてある。  その敷き布、シラギクの制服の内に収まっていたにしては相当な〈嵩〉《かさ》と面積があり、これも恐らくは呪式を用いて収納していたのだろう。 「クララ……クララ……いいの? これ、いいの? そうであればいいのだけど」  シラギクが一方的に劣情をぶつけているだけと見えた行為の中でも、いつしかゼルダクララの中に快楽はじわじわと芽吹いていて、一旦表に出してしまえば逆らうどころかむしろ積極的にそれを求めた。  始めは思うがままに〈弄〉《いじ》り回していたシラギクの手が、ゼルダクララが喜びを露わにするようになると、気後れを見せるようになったあたり、勢いまかせの激情というものが弱い側面を持ち合わせている事を物語っていただろう。 「ん……いい、わ……だから、もっと、先のことも……」  快楽を進んで受け入れるようになってゼルダクララが目元を〈撓〉《たわ》め、寄せてきたのは〈秋波〉《ながしめ》の、指や唇、肌と肌で触れ合うだけでは物足りぬげな風情を乗せた。  生温かな春の中で頬に〈撓垂〉《しなだ》れる雪柳よりも柔らかで、それでいて愛撫や口づけよりも、もっととせがむ媚びも含んだ潤んだ眼差しでの囁きは、シラギクに生唾を飲ませて余りあった。 「え」 「いいに決まっているって言ったのよ。こんなにたくさん可愛がっていただいて、ぞくぞくしてしまうくらい」 「ね……ね。セックス? そういうのでしょう、これ。けれどまだちゃんとは、してないわよね? 女の子同士だとできないそうだけど、貴女とならできるわ。だから、もう」  性欲の暴走状態にあった時も確かに、あわよくばそれを、とシラギク自身願っていたのは否定できないにしても、そうやって犯そうとしていた相手からこうまで〈直截〉《ちょくせつ》に求められるのはどこか現実味を欠いた。  耳にしたはずの言葉が思考を〈上滑〉《うわすべ》りしていっているのか、放心した態のシラギクの意識は、すぐさま身体の輪郭なりに引き戻され、そして股間に、雄の器官にたちまちに収束した。 「あふ!?」  ゼルダクララがシラギクのスカートをそっとたくしあげて、ショーツの中から陰茎を探り出していたのだった。  肉の茎に絡む〈繊指〉《せんし》は柔らかに、なのに躊躇いもなくしっかりと引き寄せる、その感触だけでもシラギクは魂ごと掴まれたか、喘ぎと共に目線までもぶれた。 「あれ。ええと。何故このような仕儀に……」 「いいじゃありませんの。貴女、〈妾〉《わたし》達と仲良くなりたいって、ずっとそう想っていたのでしょ」 「仲良くなりたいって想っていたから、こんなもの押しつけて、その……硬くしていらっしゃる。違って?」 「それは……まあ、合っていなくもないのだけれど、微妙に意味が違っていて……」  まだ性感のなんたるかも知らずにいた身体に、快楽の道筋をつけるだけつけておいて、中途で投げ出すのはいかにも野暮と、怨ずるようにゼルダクララは、引き寄せた陰茎を下肢のあわいに軽く挟み、揺すって、シラギクの今さら二の足踏みをたやすく〈遮〉《さえぎ》った。  最前までは〈身裡〉《みうち》が〈萎〉《な》えて、姉妹の行く末はきっと肉食動物に食い散らかされるようになって終わるだけと絶望するばかりだったヒプノマリアにしてから、二人を包んでいた空気が緩やかに解けてきたのが感じ取れるくらいの、ゼルダクララの豹変なので。  ただ二人の間に満ちる気配は、また別の不穏を孕むようになっていて、それはそれでヒプノマリアを大いに戸惑わせる。  秘やかで、淫靡な不穏、ヒプノマリアの中の女性の芯を突くような。 「……意地悪な、お方。〈妾〉《わたし》をこんなに、〈堪〉《たま》らない気持ちにさせておいて、今さらじゃありませんか。〈妾〉《わたし》ねえシラギク、貴女と、もっと凄いこと、したい、なあ……」  覆いの陰から光輝を零したのが、思いもかけず紅い宝石であったかの、ゼルダクララが唇を細くして上目遣いに欲した〈貌〉《かお》は、男を知らぬ少女にしては妖美に優り、シラギクの〈股座〉《またぐら》を仕草だけで〈爪弾〉《つまび》くほど。  ゼルダクララが求めているのは自分なのだと、せがんでいるのは夢にまで見たあの淫らで快なる行為なのだと、心に〈彫〉《え》りつけられてシラギクは、他の余分な一切全て追いやられ、もうそれだけしか考えられなくなるのである。    この美しく〈瀟洒〉《しょうしゃ》な少女と、繋がる、これから自分の肉を彼女の〈柔襞〉《やわひだ》の中に埋める─── 「〈妾〉《わたし》のここ……に、貴女のそれを……、  差しこめばよろしいのね……?」 「初めての事だから、上手にできるかわかりません。下手っぴいでも、許して下さいな」 「そんなの、私だって一緒だわ。すぐにお仕舞いになっても、笑ってはいやよ?」 「なら、初めて同士、よろしくお願い……」  真摯さが微笑ましい相聞が、いよいよ二人に初体験の到来を実感させる、自分ではない誰かの肉と重なるその瞬間、その感触を。  シラギクの陰茎は、勃起しきっても純粋な雄の兇猛さより優美を漂わせ、ゼルダクララの秘裂はまだ〈蕾〉《つぼみ》ゆえに、肉の〈腥〉《なまぐさ》さを欠いて可憐でさえあり、その二つが結ばれる事は必然と見えるほどよく釣り合った。  自分の身体で位置は知っていても、実際となると勝手が違って戸惑うシラギクに、ゼルダクララが姉のように果実の位置を導いて─── 「ん……ここ、かしら? でも本当に?  〈妾〉《わたし》のお大事に、こんなに大きな物が、  入る……? っアっ!?」  〈脆〉《もろ》そうな秘裂が、健気に開き、〈滑〉《なめ》らかな尖端が、浅く〈潜〉《もぐ》る。 「入る、入ってしまう……広がって、  まだ、なの? もっと広げられたら、  きっと破れてしまう───」  膣孔を割り広げる尖端の圧は、指で触れていた時より巨大な球として感じられ、位置は合っている筈なのに、その許容を大きく超えて股の底から裂かれていく程にも、ゼルダクララ、望んでいたとはいえ〈狼狽〉《うろた》えて、 「待って……少しだけ、お待ちを……ぅ?  うぅ……っ、う、待、お願───いぅ!?」 「意地悪、してはいや……っ。  乗っかってきたのはクララの方、  ここでお預けなんて、できっこ、な、い」  一方シラギクには破瓜の苦痛というのはなく、尖端に蜜を含んだ粘膜の、入口があると感じてしまえばもう後は、その奥の感触を確かめたいそれだけに塗り籠められている。  二人に必死さはあっても、先程までの目を〈背〉《そむ》けてしまうような酷たらしさは失せて、ヒプノマリアはいつしか半身が初体験を迎えようとしている有り様を、複雑な気持ちで見守るしかなかったのだけれど。  それでも姉妹が〈怯〉《おび》えに声、震わせているとあれば許してはおけない。すぐさま二人に〈膝行〉《いざ》り寄って、シラギクの肩を掴んで引き離そうと、したつもりがなにやら拍子を外された心地で、シラギクを後ろから支える形となった。 「シラギクっ、少しだけでいいのです、クララを見やれ、あんなに怖がって……ない?」  ここに来ての中断など睦み合う春先の猫に水をぶちまけるようなもの。  だいたいゼルダクララ自身がそれを許さず、声の焦りはすぐに噛み殺し、視線をしっかりシラギクに据えて、待ち受けていたのだ。 「うあ……!」 「うぅ……ふぅぅ……っ、  いらした、の?  シラギク、貴女、中に───?」  だから、シラギクはゼルダクララの臀を、ぐいと引き寄せて───  柔らかな肉の〈隘路〉《あいろ》を、堅い肉が貫いていく。  異物を排しようとする処女肉の抵抗は、貫こうとする力、迎え入れようとする決意、の双方が引き剥がした。  繋がった部分に僅かに滲んだ色の、鮮やかな紅。  そして二人とも、喪失したのである。  そして喪って、情交という行為を知ったのだった。  二人だけの秘め事であるセックスの、しかも共に初めてという極めて重大な瞬間を、二人以外の視線を受けながら、迎えた。  二人以外の他者があることを、シラギクは、ましてゼルダクララは全く異常とは受け止めていない。  余人なら知らず。  それが双子の〈隻〉《かたわ》れとあっては、ヒプノマリアに見守られながら、とあっては。  当然を通り越して、欠けていることなど考えられないくらいの、在るべき、定められた立会人だった。  ヒプノマリアも、畏怖したような、恍惚としたような、放心したような、魂を奪われたような、その全ての感慨が混ざり合った眼差しで、姉妹と両性具有者が結ばれている様を見届ける。 「本当、でした。〈男女〉《なんにょ》がそのように繋がるなどと、聞いてはいても半信半疑でしたのに。クララ、お前さまとシラギクは、今、繋がっていますよ……」  挿入の実際を、ゼルダクララは自らの体感で、ヒプノマリアは目視でそれぞれに確かめて、誰かの身体に別の誰かの身体が入りこみ繋がる、その為に造られた器官が人体には自然に具わっているという衝撃に呆然となっていたところ。  シラギクがおもむろに腰をうねらせたものだから、衝撃に増す衝撃が重なった。 「なに……これ……こんなの、知らない。  あぁぁ……熱、い……蕩け、そ……ふぁ!」 「締、めないで、きゅうってしないで、  取れるの、溶けて、取れてしまう、  おちんちん、取っては〈厭〉《いや》ぁ……」  初めての生身の膣内の感触は、シラギクが今まで経験してきた陰茎への刺激のいずれとも異なっていて、その未知なる感覚をよりつぶさに確かめようとしただけ。  破瓜したばかりのゼルダクララの辛さを案ずるこころもあったし、激しい律動は控えてまずはそろそろと、中を探るように腰を遣ったつもりだった。  だというのに、その僅かな動きでも熱い蜜に煮溶かされるようだった、無数の小さな凹凸にしゃぶられるようだった、たちまちに、快感だとシラギクの雄が歓喜した。  その快感を受けとめかねて、むしろ恐怖したようにシラギクの声がオクターヴを跳ね上げる。なのに腰が動いてしまう止められない。 「んぅ……はぁ……! いや? シラギクはこれ、いやだって仰有るの……?」  体内を異様な圧力で割り拡げられて、みちみちと〈軋〉《きし》むような危うささえゼルダクララは聴いている。  あの女性職員からは、自分が定めた相手と身体を重ねる事は、とても素敵な事だと教えられていた。研究施設の職員達の教えを素直に信頼していたゼルダクララとしては、自分が慣れないだけで、この感覚というのがきっと『素敵』な事に違いないと信じようとしていたところ、交わる相手から否むような〈呻〉《うめ》き声。  不安は、ゼルダクララ自身だけでなく、シラギクもまたこの行為に苦しさを感じていたならと、恐れる心から生じていた。  もしや、これは『素敵』な事でもなんでもなく、ただ苦しいばかりの事なのだとしたら、あの人はどういうつもりでそんな嘘を教えたのだろう、と。  ゼルダクララの不安はたちどころに霧消した。 「違うわ、そうじゃなくって、これ、気持ちよすぎ、て、体が勝手に、動いて……っ」  シラギクの顔、日頃は透明な〈怜悧〉《れいり》に澄まし返って、時には傲慢さえ感じさせる顔、が蕩けていた。眉根に皺寄せているのに、目は陶然と、唇だってだらしなく緩ませているこの顔は、ゼルダクララにだって快感の余り戸惑っているのだと見てとれる。  ゼルダクララが認めたとおり、シラギクは初めての膣内の快感に、早くも抑えが効かなくなっていたのだ。  陰茎を手で握りしめ、押し返すような圧迫感があった。異物を〈排斥〉《はいせき》しようとするその粘膜の〈蠕動〉《ぜんどう》の中に、〈肉襞〉《にくひだ》の表面を感じとって、知らず喘ぎが零れるほど。  細かく、ざわざわとした粒が〈襞〉《ひだ》にびっしりと浮き、雄の器官を尖端から根元まで隙間なくくるみこみ、熱い蜜を塗り籠めて締めつけてくる、その快感たるや初体験のシラギクにとってどれほど甘美なことだったろう。  よりつよく、よりもっとと求めて、陰茎の尖端で掻き分け、引き抜く、腰全体で陰茎を遣う動きは雄の本能的なもの。  〈抽送〉《ちゅうそう》に慣れないうちは、もどかしげに。  それが本格的な律動になるのはすぐだった。 「よかった……貴女がいいのなら、〈妾〉《わたし》も嬉しい……好きになさって、〈妾〉《わたし》のこと」 「殿方は、そうやって女性の中で動かして、んっ、あ、く、ふぅっ、動いて、あぁは、気持ちよくなるのね……ん、んんぅ……」 「許してね、初めては痛いって、でもああ、  なに、おちんちん、中で全部吸いつかれて、  ぬるぬるって〈滑〉《すべ》って───っ」  自分の身体で誰かを心地好くしてやれる事に、奇妙な喜びと誇らしさがある。  それが女としての悦びの一つとははっきりと自覚し得ぬままに、ゼルダクララは胎内を無遠慮に突きあげてくる律動を、逸らそうともせず身を委ねる。 「シラギクはこんなに喜んで、でもクララ、お前さまは……〈痛〉《いと》うありませんか」 「痛いなんて、ちっとも……っあ、あっ、  声、出てしまう。身体が一杯で、  一杯のこの、かんじは……ふあぁ……」  シラギクの律動に身を委ねるうち、どうだろう。始めはただ苦しいほどだった圧迫感が、ゼルダクララの膣内の、彼女では届かないような部分を擦り、〈抉〉《えぐ》るうちに、不思議な感覚に替わる瞬間があった。  痛痒さ? 痺れ? それともこれは…… なに?  苦しいだけではなく、もっと別の……。  胎内に生じた感覚を聴き取ろうと意識を集中させた、ら、〈爪弾〉《つまび》き出された音がある。  いやらしくて、なのに甘くて、動物の鳴き声みたい、なのにぞくぞくとした気持ちにさせる、この音色は、何。  その音色が、自分の唇から紡ぎ出されていると気づくのと、膣の中を擦り上げる感触がもっと欲しい、して欲しいと意識したのが同時で、ゼルダクララは。  男性の器官で貫かれ、身体の中に律動されるのが気持ち良い事なのだと知ったのだった。  知ってしまえば求める事も声も止めどなく。 「マリー……マリー……っ、  これ、そう、心地好いの、  ん、ん、あはっ、〈妾〉《わたし》、いやらしい声、  止められないくらい───っ」 「お腹の中から、揺すられて、それ、いィ、  もっと、好きにして、色々して、  あー……んぁぁ……いい、素敵……」 「女の子の中、こんなになってるだなんて、  私これ、もうきっと忘れられない、  今だって、頭が変に、なる……」  快感が身体に馴染んできて、それとともにしっかりと味わえるようになってきたのはシラギクも同じ事。  膣内も単純平坦な管ではなく、複雑な凹凸が具わった複雑な道で、肉の茎全体にかかる圧力も浅いところと深いところで異なっている。  その圧力すべてが生々しい快楽と等分に結ばれているのだから、シラギクには〈堪〉《たま》ったものではなかった。  後は何処をどうすれば快感が高まるのか、お互いの性能を探るように貪り合うばかり。 「〈妾〉《わたし》だって……貴女の、頬や胸、柔らかいのに、ここだけ鉄のように硬くって……くふ、硬いのがね、お腹の内側、ごりごりって削るのよ、削られて、痺れて、気持ち、よくって」 「貴女の男の子、好きになってしまう、ううん、もう好き……んんぅぅ!」  確かにシラギクの陰茎はその優美な〈佇〉《たたず》まいとは裏腹に、猛々しいほどの硬度と角度を有していて、間違いなく男性をゼルダクララに刻みこんでいる。  ただその腰遣いというのは、男のがつがつと貪るような動きとはどこか異なっていて、奇妙な〈艶〉《なま》めかしさがあった。骨がないような柔軟さとしなやかさが宿っていて、背後から見守るヒプノマリアにも、妖しい胸騒ぎを催させた。  少女同士にしか見えないのに、二人は間違いなく男女の性器で繋がっていて、快楽に夢中になっているその有り様は、背徳的、という言葉を知らないヒプノマリアにあっても性の〈疼〉《うず》きに昂ぶらせて。 (二人とも、そんなにも、素敵なことなのですか……もしわたくしも同じくしたなら、今の二人のように、なれる……?)  二人が情戯に夢中になっている背後で、シラギクの背を〈衝立〉《ついたて》にして、ヒプノマリアはそっと、下腹部へ掌を被せて、布地の下のそこ、ゼルダクララが陰茎を受け容れている部分と同じそこを、探る。  下着の内側で〈滑〉《すべ》る感触と、湧き起こった心地好さが、ヒプノマリアをひどく〈狼狽〉《ろうばい》させた。反射的に指を離して〈内腿〉《うちもも》をきつくすぼめたのだが、手はまた〈彷徨〉《さまよ》い降りていって……。  背後でそんな淫靡な葛藤が繰り広げられているのをよそに、シラギク、ゼルダクララともさまざまな角度と深度で〈抽送〉《ちゅうそう》を味わい、するうちにやがて奥を〈抉〉《えぐ》り〈捏〉《こ》ね回す事に夢中になっていた。  蕩けきった膣の中で、奥に他とは異なる生硬い弾力の盛り上がりがあって、そこを尖端が小突き、〈捏〉《こ》ねる度に、ゼルダクララには身体の中心を深く揺すられ意識が溶けてしまいそうになるほどの〈愉悦〉《ゆえつ》と、シラギクには更に複雑で心地好い〈蠕動〉《ぜんどう》と締めつけをもたらすのだった。 「あ、あ、いいっ、響く、頭の上まで、奥まで届くと、頭の中、白くなるゥ……もっと、それをもっとお願い、あん! く、ふっ、今、奥が一番よくって」 「そこ、この奥の、こりこりしたところは。  クララの、赤ちゃんを作るところ」 「そう、これ、セックスって赤ちゃんを作る事よ、クララ───赤ちゃんを作る事って、どうして、こんなにも気持ちいいの……?」  人間が得られる快感の中で、本能に根差したものが強く深いのは当然のこと、ましてや生殖という生物にとっての至上命令を遂行させるために用意された、摂理的快楽だ。  愛し愛される者同士が、胎内に生命の種を植えつけ、子宮に新たな生命を孕む、それを崇高なことだとは学んでいても、その為の行為がこれほどまでに酔い痴れてしまうものだとは、と交わる二人は、途方もない秘密に触れた心地となっていた。  ただ───とシラギクもゼルダクララも、二人共に相手に告げておかなくてはならない事があって、それは奇しくも同じ事。  ゼルダクララがどう告げたものか言いだしあぐねているうちに、半身がその迷いを引き受けるように囁きかける。 「わたくしたちは、お前さまのお子を孕んで差し上げる事は、できませぬ……そういう身体だと伺いました」  性行為の手解きを受けた時、件の女性職員はその事実を最後に伝えて、全ての表情を殺して双子に謝した。その後で、謝罪を容れて、自分達を許してはいけない、とも。  双子は、今もその意味を真に理解しているとは言いきれないけれど。  そしてシラギクもまた、ヒプノマリアの告白を聞いて、自分もまた明かしたのである。 「そう───私も、同じよ。男の子と同じように、射精はあるし、膣も、機能してる、けど」 「妊娠は、させることもすることもできない、なのに、なのに駄目、漏れてしまう、溢れるの、止められない、出しちゃうっ」  子を為すことが叶おうが叶うまいが、こみあげてくる快楽はもう止まらない留められない。 「出すって……? 貴女の、精液のこと……? ───ああ、嬉しい」 「できてもできなくっても構わない。ね、下さいな。〈妾〉《わたし》に、貴女の、欲しい、頂戴───」  妊娠の可否以前に、身体を、初めてを、許しまでした相手が自分との交わりで快楽を得て、男性としての絶頂の証を噴き零しそうだという。  自分の身体の中に、他人の体液が流しこまれる、と言えばおぞましやかなイメージがつきまとうが、あの蒼穹の下でシラギクが零した涙に、既にゼルダクララは指先で触れていた。  なによりシラギクの、漏らしそうとの訴えに、ゼルダクララの膣内はますます熱っぽく〈肉襞〉《にくひだ》を絡め、精を吸い寄せそうとしたし、それまでろくに存在も知らずにいた子を宿す座が、切ないまできゅうきゅうと〈疼〉《うず》いたのである。  身体の〈裡側〉《うちがわ》でも求めて吸いついて、外でもゼルダクララはシラギクを強く抱擁し、結合を深くして、陰茎の尖端が自分の芯に届くようにして。  そうやってしっかり全て受けとめようとするゼルダクララの中で、陰茎も肉の〈襞〉《ひだ》と子宮口に捕らえられて、シラギクにも〈堪〉《た》えられる限界を越えた。 「もう、ほんとうに、がまんできな───」  今までは、一人で〈扱〉《しご》き出すことしか知らなかった精を。 「クララ、クララ、クラ、ラ───ぁ」  美しい少女の生の〈肉襞〉《にくひだ》の奥に、何も〈遮〉《さえぎ》るものなく。 「あ。あ。あ……うぅぅぅぅっっっっ!」  思いの丈と快楽の絶頂を、尖端にこりこりと応える、ゼルダクララの子を宿す器官の入り口の吸いつきを感じながら。  シラギクの精がゼルダクララの膣内に噴き上がった、その〈夥〉《おびただ》しい量、勢い。  女の声で、男の絶頂、喜びの果てに〈呻〉《うめ》きを漏らして。 「ふぁ……! あ! 今ふるえてる……中で……はぁぁ……凄……い……」 「あはあああ───〈妾〉《わたし》、からだ───壊、れ、……あーーっ、は、ひゅ、あ〜〜〜っ」  昂ぶった〈肉襞〉《にくひだ》と子宮が、精を撃ち出す脈動をはっきりと感じ取る、その感触を〈身〉《み》の〈裡〉《うち》に溜めようとした、ら、するりと底が抜けるような浮揚感とも落下感ともつかぬ状態に身体と心が転移した。  全身にぞわぞわと鳥肌が立つ。とどめのようなシラギクの強い抱擁と突きこみだけを感じる。身体のあちこちが消えてしまって力が入らない。それでいて女としての芯から頭が灼き尽くされるような、悦楽の極み。  〈身〉《み》の〈裡〉《うち》を熱する精に、ゼルダクララもまた初めての絶頂に押し上げられていた。  切れ切れの息を挟みながら、細く震える〈随喜〉《ずいき》の声を〈迸〉《ほとばし》らせ、シラギクの快楽の極み、受けとめ続けた。 「う……あ、どうかしてるのだわ、私の体……出しても、出しても、後からまだ続いて……はぁ……ぁ、女の子のあそこだから……?」  中央の学術院で検査の一環という事で射精もさせられた。でもその時は、こんなには出はしなかった。こんなに気持ちよくなかった。  あの時は効率だけを重視した器具を与えられての自慰行為で、得体の知れない虚しさの方が強かったのに、この今の充足感と多幸感は、やはりゼルダクララが相手なればこそとシラギクは恍惚と想う。 「……わたくし、ただもう、目が〈眩〉《くら》んでしまうようで。二人とも、その、なんと言ったらよろしいのでしょう……初めてで、大変でしたろうか……お疲れさま」 「ん……ううん、マリー。まだ、おしまいではないみたい。シラギクね、〈妾〉《わたし》の中で、まだ続いてらしてよ。ゆっくりになったけど、まだ脈打っていて」 「そんなにも!? え……殿方の射精というのは、随分長いものなのですね……」 「それは……クララの中があんまりにも気持ちいいからで、いつもはこんなに出るわけでは……けれどさすがにそろそろ……はふぁ!」 「ク、ララ……?」 「なんとなく、こうして差し上げると、貴女が喜んで下さるかしらって」  ゼルダクララの中がまた複雑に収縮する。  恍惚とした笑みを浮かべながら、クララが初めての膣内を巧みに使っている。 「ふふっ。〈妾〉《わたし》の中で少しずつ、柔らかく小さくなっていくのが、惜しいような愛おしいような───って?」  それで最後の一撃ちをたっぷり絞られたのだけど、ゼルダクララの膣内に包みこまれたままの陰茎は、硬度をすぐさま取り戻していった。 「シラギク……あの、また中で大きく……」 「……そうみたい。貴方が上手に絞るから、またしたくなってきたのだわ」 「『のだわ』って貴女。あの、もう堪忍ね、〈妾〉《わたし》のお大事はそんなすぐに貴女のおちんちんを入れてあげられません」 「広がったままになったら、〈妾〉《わたし》、困ってしまうし……でも、女の子のお大事なら、ここにももう一つ、同じのがあってよ?」 「な、クララ、お前さままさか」 「まさか、もなにもないでしょうに。マリーだって、さっきからずっと自分でいじっていたじゃない。見てましたのよ、〈妾〉《わたし》」 「マリー……」 「いえそのお前さま、シラギク、無理です、わたくしなどではきっと無理、クララのように上手にできるはずが」 「マリー……? マリー、ねぇ、マリー……」 「そのように、切なげに呼ばれてもわたくしは……ああ、もう! 不満があったとしても、受けつけませんよ」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「お前さまは、本気でわたくしを抱かれるおつもりかや? わたくしのお大事では……クララのようには気持ちよくなれぬやも……」  前戯はいい、手早く済ませてとでも言いたげに、ヒプノマリアはシラギクの前に身を横たえて、まるで自らを〈贄〉《にえ》に捧げようとしているかのよう。  けれど一足先に情交を味わったゼルダクララは、半身がずいぶんと屈折した物言いをしていることなど見抜いており、 「そんなに卑下しなくっても、マリーだって沢山可愛がってもらえるわ。そうしたら、すぐに素敵な事だってわかるから」 「そうは言っても貴方。こういうことは、個人差があって……」  こうして目の当たりに見下ろすと、双子は完全に相似の〈相貌〉《そうぼう》ながら、やはり差違が感じられる。  選んだ衣装の差にも性格が表れているのか、茜色の花を綴ったような装いのゼルダクララは、物語に見る花の精のように、どこか〈侠〉《きゃん》で、気分を素直に前に出す。  一方ヒプノマリアは、夜闇と同じ色合いの古風な装束に似合って、古く厳めしい物言いに慎みを噛み、雲間に光を隠す〈月魄〉《つきしろ》のように、気色も〈仄〉《ほの》かに流出させる方を好む。  ただいずれにしても極めつけに綺麗な少女達で、そんなヒプノマリアをこうして組み敷く事は、シラギクを感動に〈戦〉《おのの》かせる。  ゼルダクララを押し倒した時とは違い、取り戻した理性が獣心のままに手折ることを躊躇わせるくらいに。  肉の交わりの悦楽を覚えた陰茎に、引っ張られるようにヒプノマリアの両脚をくつろげ、〈裳裾〉《もすそ》を〈捲〉《まく》り上げると、姉妹の先鋭的なレオタード様の下着とまた対照的に、こちらはショーツとガーターベルトにソックスという正統的かつ典雅な眺め。  浮かされたようにショーツを降ろして、期待にはやひくつき始めた陰茎に手を添えたものの、ヒプノマリアの秘唇はまだ閉じていて、それでシラギクは迷いの淵に〈嵌〉《はま》りこんでしまってある。 「〈妾〉《わたし》とマリーは、同じに産まれて、同じに育って。だから判るのよ。きっと、マリーも喜んでくれるって」 「大体にして貴方だって、その子はとってもしたがってるみたい」  ただ一度だけの情交で、少女は〈可憐瀟洒〉《かれんしょうしゃ》な〈姿貌〉《すがたかたち》に加え、〈裡〉《うち》からあえかに匂い立つかの色香をまとうに至った。  横身にするりと寄り添われれば、擦り寄せられた頬は、情事の後なのに〈胡粉〉《ごふん》を叩いたかにさらさらと〈滑〉《なめ》らかで、佳い香りが立って、肩に手を回されても雲に抱かれたように肉の重みが感じられず、シラギクはこのゼルダクララに、こんな美しい生き物に己のきかん気の肉棒を埋めたこと、信じられなくなる。  けれどもその〈愉悦〉《ゆえつ》はいまだに腰の奥から陰茎に〈燻〉《くすぶ》っていて、まぎれもない事実だと告げていて、もう一度、捧げられた供物を早くと急き立てている。  ……尖端から腺液が滲み出し、丸く雫を突くって垂れんばかりになっているのでも、実に見やすいシラギクの情欲。  ゼルダクララにもあっさり指摘され、シラギクは〈拗〉《す》ねたように言い返した。 「それは仕方ないじゃない、セックスがこんなに気持ちいい事なのだって知ってしまった後なのですもの、またできるって思っただけで」 「ええ、気持ちよかったわ、凄く、何もかも判らなくなるくらい。また……できましてよ? きっとマリーのあそこも、気持ちいいでしょうね」 「ほら……貴方の事を、待っている。女の子を待たせるものじゃあ、ありません」 「人の脚の間で、何時までもぼそぼそと……。するなら早くしてくりゃれ、わたくしの気持ちが変わってしまわぬうちに」  いかにも魅惑的な言葉と、そして誘うような眺め。唾を呑むシラギクに、遂に焦れてヒプノマリアから促してきたから、 「……ならマリー、貴方の初めても、もらってしまうから……」  腰を沈めて、また頭が〈茹〉《う》だるような興奮のうちに宛がい、まさぐれば、尖端の前で肉のあわいが開いて、ぷちゅり、と蜜が小さく鳴る。  ゼルダクララと同じだった。堂宇の薄暗がりの中でもはっきりと判るくらい、熱く濡れていた。蕩けていた。  宛がって、シラギクは今度は自分から位置を定める。ゼルダクララの時は半ば彼女に導かれてだったから、こうして自ら貫くのは初めてと言って良かろう。 「ん……ここで……あっていて?」  尖端で軽く押せば、浅く沈みこむ感触、鈴口を包む心地好く暖かな蜜、が正しい角度と位置である事を教えたけれど、ヒプノマリアは、無言で〈頷〉《うなず》くだけ。目も閉じたまま。 「入るわ……辛かったら教えて」  ヒプノマリアは同じ反応を重ねる。無言、〈瞑目〉《めいもく》の、処女の肉の甘美を味わう前の試練とも思えて、シラギクは敢えて腰を沈ませていく。  陰茎を差しこんでいくと言うより、ではなく腰全体を押し進めるようにするのだ、とゼルダクララとの交わりで会得していたので、シラギクの雄の器官はゆっくりとだが確実に、ヒプノマリアの処女肉の中に沈みこんでいき─── 「あ……入って……いく……ぅ」  二度目の挿入は、初体験の衝撃とは別質の鮮烈さがあった。一度体験しているだけに、粘膜の味わいようを陰茎が記憶していたとでも言おうか。  時を置かずの膣内の感触は、これから待ち受ける〈愉悦〉《ゆえつ》の素晴らしさを強く意識させて、シラギクの項を熱くした。  このまま根元まで、と押しこむ腰が、しかし茎の半ばで止まってしまう。ヒプノマリアの〈貌〉《かお》を見て。 「…………ぅ……ぅ……」  ヒプノマリア、ようやく漏らした、声はだがか細くて、必死になにかを〈堪〉《こら》えているような。  相手を気遣って、覗きこむも目を合わせてくれない。 「辛い……? 辛いに決まっているか、初めての女の子なのだもの……いったん止めにして……」 「いけません。もう、〈妾〉《わたし》をあんなにしておいて、今さら怖じ気づく方がありますか。マリーが何も言わない理由、全部入れたら判るから」 「マリーだって、〈厭〉《いや》とは言っていないのだし」  確かにヒプノマリアは、〈拒〉《こば》む言葉を発したわけではないけれど。  かといってここで中断するには、シラギクにしても生殺しで、その上肩をかき抱いたゼルダクララが、片手をシラギクの乳房に被せ、柔々と軽く揉みほぐしてくるものだから、余計に落ち着かない心地にさせられる。  けして不快ではなく、少女同士で加減が判っているせいか、〈仄〉《ほの》かな快美が乳房に点じられ、シラギクの〈身裡〉《みうち》では、貫く男としての性感に加え、愛撫される女としての官能が育ち〈初〉《そ》めて、どちらかに集中しない事には奇妙な感覚に混乱しそうだ。  そしてどちらを取るかとなると、ここでは言うまでもなくヒプノマリアとの。 「だけれど……ううん、それなら、ゆっくり、と」 「……ゆっくりの方が、マリーには大変なのに」 「……ぅ……ァァ……」 「少し、出血があるけれど、シラギクは気にしないで。これくらいなら、すぐに治まるって思うから」  事実、ゼルダクララも破瓜には出血を見たが、処女血はすぐに止まったものである。姉妹もそうであろう。  ───そしてやっと。  穏やかな侵入ながら、シラギクの陰茎は最後まで挿入を果たしてそしてヒプノマリアは、 「……っ、……っあ……っう……っはぁぁ」  まだか細く声、漏らすのみだったけれど。  ゼルダクララが目で促してくるのもあって、シラギクがゆっくりと、尖端まで引き抜き、また根元まで、今度は先ほどより幾らか強めに膣奥を、押してみた途端だった。 「うあ」  〈堪〉《こら》えきれず漏らした一声が、呼び水となって、 「いい、ああぁっ、あっ………! いい、ああっ、あ、わた、くし、どうなって……いい、気持ち───いい───!」  シラギク、溢れだした声の、その〈艶〉《つや》やかな色に引きずられるように軽く律動を、すればヒプノマリアの声、更に零れて。 「や、やめて……っ、ぅ、違う……もっと、いい、あーっ、ぁ〜っ、はぁぁ、でも、これは、とめ……ないで……っ、なんで、こんなぁ……」 「マリー、もしかして、感じてくれていて?」 「見ればこれ以上なく、お判りかって思うけれど。この子の声と来たら。聴いているだけで、〈妾〉《わたし》もぞくぞくってなる……」 「やああ……聞かな……たも、れ……んぅ! くふぅ! ああ、あぁあ……ぅ、あはっ、声、わたくし……っ、いやらしい……よぅ」  シラギクの〈抽送〉《ちゅうそう》にいちいち〈濃〉《こま》やかに喘ぎ鳴く、ヒプノマリア。半身とシラギクとの一部始終を目の当たりにしていたせいもあり、布地越しとはいえ自らの手で愛撫に耽っていた故もあり、既に身体の方は彼女が思っていた以上に昂ぶっていたのだろう。  だととしても、性感というのは自慰なり性交なりを重ねて開発されるもので、それまで挿入経験はおろか自慰さえろくに知らず、ただ知識のみがあった双子が、破瓜からこれほど官能を得て乱れる、というのは通常有り得る事ではない。  恐らく双子の身体は、性的な方面に於いても調整されていて……。  とすれば彼女達の本来の役目がただ文書庫の司書役に留まるというのは考えづらい。  だが地下研究施設の職員達は、それらの仔細を告げぬまま彼女達を慈しみ育てた。彼らは双子に一体なにを望んでいたのだろうか。 「ううぅ……お前さま……わたくしを……ふぁぁ、はぅ、ぅぅ、あはっ、このように〈嬲〉《なぶ》って……ひどい人じゃ……ああぁ、また……っ」  ヒプノマリアの恨みがましい目も、シラギクの〈抽送〉《ちゅうそう》によってたちどころに悦美に煙らされる。  半身の媚態を凝視し続け、自分がもし同じく情交に及んだらと想像するうち、ヒプノマリアには自分がきっとこうなってしまうのではないかという予想が育っていたのだ。  他者の侵入という恐ろしげな行為にも関わらず、〈艶〉《あで》やかに〈艶〉《つや》やかに媚声を奏で続けるゼルダクララの、なんと快美そうであった事か。同じ〈貌〉《かお》と身体をもつ姉妹なのだもの、きっと同じように甘く淫らな声を振り撒いて、貫く肉棒に夢中になって、普段の自分とはまるで別人の相を見せてしまうに相違ない。  強い感情気持ちをそのまま表出させる事は慎むを礼儀としていたヒプノマリアは(もっともシラギクの来訪を見てからは、そのお作法も狂わせられる事しばしばだったのだが)、自分がそうなってしまう事に気後れがあった。  だからこそ、声を抑えて、ただ自分の身体をシラギクの情欲を昇華させる為だけに捧げようと努めていたのに。  快感は、軽く予想を超えていた。  胎内の違和感は貫通時だけ、膣内をこそぎ上げ、押し入ってくる陰茎の硬さ、熱さ、形、何もかもが快楽をそこに凝縮したかのよう。  シラギクの律動がもたらす感覚に、肉体は殆ど即座に反応して快感と認識してしまっていた。  勃起した陰茎を、初見の時には、人の身体に付いているにしては、尻尾の様な、どうにも奇妙なと観じていたのに、今は否応なしに思い知られた。この肉の棒は、いきりたったのこの形は、女性の芯を狂うくらいに歓喜させるためにあるのだ、と。  〈愉悦〉《ゆえつ》に乱れる半身の様子に、思っていた通りとほくそ笑みながら、ゼルダクララは、 「いかが。〈妾〉《わたし》の半身の身体は。気持ちよさ、同じくらい? それともどちらかが、上?」 「はぁ、はぁ……クララの時は、私も初めてで、ただ夢中で。もう気持ちいいのに押し流されてしまっていて」 「マリーは二回目で、さっきより、女の子の中というのがどうなっているのか、判るような」 「中の壁の形や、どういう風に締まったり動いたりするのか……」  恐らくは双子の、〈肉襞〉《にくひだ》の快美も快楽に酔う感度も要望と揃って相似しているのだろう。  ただ快楽への反応が異なっているせいか、秘壺の具合も双子で差違がある事にシラギクは気づいていた。  ゼルダクララは快感に率直で、身体が情交の喜悦を認識すると、包み隠さずそれを求め、膣内の締めつけぞよめきは〈愉悦〉《ゆえつ》の高まりとともに心地好さを増して、雄の器官を絶頂へと導く。  ヒプノマリアは喜悦を覚えているにもかかわらず、それを抑えようとする性向にあるようだ。  けれど身体は確実に快楽を感じていて反応する。それを抑えようとしているから、〈却〉《かえ》って感じてしまった時の反応が激しくて、不意に無数の歯の無い口に甘噛みされ、〈啜〉《せせ》りあげられるかの悦楽が襲ってくる。  快美を〈堪〉《こら》えようとしてか、〈肉襞〉《にくひだ》のまとわりつきが控え目になってくる中で、唐突な荒波のような強い〈蠕動〉《ぜんどう》、その緩急の差が、一度感じ始めたら漸進的に具合が良くなっていくゼルダクララとは、異なる快感を与えてくる。  どちらが上というのではない。どちらも素晴らしいのだ。  一度目は快絶に半ば〈翻弄〉《ほんろう》されていた陰茎は、比べる対象を得てそれを峻別していた。  同じ素材で形作られて肉体、なのに異なる快楽を揃って賞味できるという桁外れの贅沢を、シラギクは初めてのセックスで満喫していて、麻薬のようなこの甘美、もう忘れる事はできないだろう。 「……少しばかり、釈然とできない……まあ、それで良しとしましょう。なら今は、マリーを可愛がってあげて」  と言いざま、〈耳朶〉《じだ》に可愛らしい〈悋気〉《りんき》の甘噛みをくれて、シラギクの頬に薄く粟粒を立ててやってから、ゼルダクララは姉妹を貪る両性具有者に唇を重ねる。  情交の喜悦に喘ぎ、乾き加減のシラギクの口内を湿すように、舌と唾液が優しく送りこまれて、さながら甘露の雫。  シラギクの乳房を〈弄〉《もてあそ》ぶ手もそのままの、乳首を精妙な力加減で〈摘〉《つま》み、〈扱〉《しご》きあげられる。ゼルダクララとしては自分がされたように仕返しているつもりだが、唇と、陰茎と、乳房の三つの性感帯から悦美送りこまれてシラギクは、自分の身体がただセックスの快感のみの為に動く肉塊に変じた様な錯覚に囚われる。  中でも、やはり分けてもっとも素晴らしいのが、ヒプノマリアの秘肉を貪る悦楽。 「あ、っく、くぅ……いい、続けて。中で、少しずつ、お前さまの形が、わかるように」 「もっと教えてほしい、お前さまの形、あ、はぁぁ……中、動く時の良さ……」 「はぁっ、ぁん! ほんとに、クララの言う通り、素敵な……い、ぅ……あぁ……」 「どこまでも……よくなって……ああ、どこまで……? 教えて、シラギ、クぅぅ……っ」  もうヒプノマリアも、〈堪〉《こら》えようともせず、その果てがどうなるのか知りたいとこいねがうほどにも高まって、そんな秘芯に締めつけられ、まとわりつかれ、しゃぶりあげられているのだもの、程なくして、シラギクにも二回目の射精の〈兆〉《きざ》しが訪れる。 「マリー、マリー、私、また、出そうに……。ねえ───出してしまって、いい? ううん、出させて、もう全部、出したいのよ……」 「はぁぁ……はぁー……っ、わたくしのお腹にも、クララのように、たくさん出すのですか……あんなに……ん、はぅ……」  シラギクの、雄としての絶頂がどういう形で終わるのかつぶさに見ていたヒプノマリアの胸中に、薄くだが、躊躇いの念が〈兆〉《きざ》した。 「もしお〈厭〉《いや》なら、外に射精する、というやりかたも、あるそうよ」 「……いや……というわけではなく、どうなってしまうのか、と」 「わたくしの中に、わたくしではないお前さまがいらしてる……それだけでも言葉にできない心地、なのに」 「この上、お前さまの精液を注がれたなら、わたくしはわたくしで、いられなくなるやも、と───」  シラギクの精をお腹の中に注ぎこまれたゼルダクララは、それは幸せそうに眸を〈彷徨〉《さまよ》わせ、それは心地好さげに下肢や〈脾腹〉《ひばら》を打ち震わせていて、きっと佳いものなのだ、とヒプノマリアにも推し量られる。  ただ、そうやってシラギクの精で身体の中を染められたならば。シラギクとの関係が決定的な変化を迎えてしまいそうで、ヒプノマリアはそれに〈怯〉《おび》えたのだ。  そんなヒプノマリアに、 「……たのしみねえ。もっと気持ちよくなれるんですもの」 「温かいお湯に浸かった時。美味しいお食事でお腹が一杯になった時。眠りに就くほんの少しの前のふわふわする時。それに」 「今、マリーのおまんこに〈潜〉《もぐ》りこんでいるおちんちんが、一番気持ちのいいところを擦ってくれた時」 「その全部が一緒くたになったような、いいえもっと素敵な気持ちになれます、請け合います。味わった〈妾〉《わたし》が言っているのよ、マリー」  ヒプノマリアの衣装の前をくつろげて、乳房を出して愛撫しながらという、情交の余技のような遣り様ではあるが、半身が保証することにきっと間違いはないのだろう。 「それに、シラギクも。この人だって、射精の時が一番気持ちいいの。その時、マリーの暖かいおまんこの中にいられないのって、とても可哀相じゃないかしら」  は、とヒプノマリアは心づいた顔の、官能の潤いにぶれかけていた眸に芯を取り戻した。  自分は今でも身体がどこかに流れ去ってしまいそうに気持ち良い。  その快楽を与えてくれたのはシラギクで、そんな翡翠の眸の少女が迎える絶頂が、言わば色褪せたものとなる?       ───そんなの、不憫じゃ───      ───わたくしの我が侭でこの方が───     ───ゼルダクララの時のようには───      ───気持ちよくなって頂けぬなど─── 「いいのだわ、私の事は気にしてくれずとも。男の子って現金物で、出してしまえばすっきりできるのだし……」  こみあげてきた射精感をひとまずいなし、落ち着いてから膣外射精を試みる為、シラギクは陰茎の位置を浅くして、律動を抑えたのに。 「出して───わたくしの中で。わたくしばかりが良くしてもらって、お前さまが物足りないのは、切ない」 「わたくしの体で、存分に、気持ちよくなって下さいませ。わたくしのあそこ、今はお前さまにあげます。だから」 「……マリー……そんな可愛いお顔で、そんな嬉しい事、言われた、ら……あ、あぁっ!?」  許し、委ね、捧げ尽くそうとするヒプノマリアの〈貌〉《かお》は、まさしく聖母のように美しく、眩惑するように蠱惑的で。  その上シラギクの陰茎を追うように臀が持ち上がって、その腰の動きと連動して膣内が吸いこむように締まったとあっては。  絶頂近くにあった陰茎から、シラギクの意志を超えて、絞り出される、精の一繋がり。 「あ、あ、嘘よ……動いてないのに、出てしま───出る───っ!」 「あ……今の、中に蕩けた、温かいのが……? ふ、ぁぁはぁ……そ、のまま、出してぇ……っ」  ヒプノマリア、膣の中に広がった温かなとろみこそが、シラギクの精なのだと感じ取って、射精を更に促すように下から腰を合わせて秘部を密着させた。  もっと、もっととせがむように腰を遣うため、陰茎が抜けそうになって、シラギクは慌てて押しこみ直し、 「ま、マリー、待って、そんなにされると、抜けそう……もう……っ! なら一番奥、でぇ……っ」                ───びゅう、と。  弾けた。  溢れだした。  たちまちに広がって、溜まっていった。 「はぁぁ……あ、クララの言った通り……。  これ、は……わたくし……」  ひう、と膣の奥に広がる感触に短く息を呑んで、ヒプノマリア。  そして一度脈打つともう止まらず、何度も何度も脈打って、腹の底に溜まっていくぬるさ。  されて、しまっている。射精を、シラギクの一部を注ぎこまれている。身体の中を好きにされてしまっている。あぁぁ、あぁぁ、と、上擦る声、悦びに火照った息を漏らすことしかできなくなる。ゼルダクララの祝福の眼差し、受けながら。 「あ───は───」  シラギクは強く強く押しこみながら精を絞り出し、ヒプノマリアはそうやって射精中も子宮を〈弄〉《もてあそ》ばれるうちに。今まではただ子袋の前で重苦しいほど溜まっていくばかりだった温さが、じゅわりと、染みこむような感触を覚えた。自分とは異なる熱が、溜まっていくのではなく腹の中に〈沁〉《し》みて、溶けていくような感触。女の芯がとろとろと煮られるような。  それを意識した、してしまった途端。  それが、気持ちいいのだと。  最高に気持ち良いのだ、と。  女の身体が、これ以上もなく喜んでいるのだと、知ってしまって、ヒプノマリアはどうしてこんなにされて? と呟こうとした、声は言葉にならず、口から漏れたのは小さな、けれどまぎれもない〈随喜〉《ずいき》の媚声。 「───とけて、しまう───」  律動の最中とは裏腹な、静かで控え目な、ヒプノマリアの絶頂の喘ぎ。  けれどその虚ろな眼差し、ひっきりなしに収縮する膣内、紅潮した肌、〈戦慄〉《わなな》く下肢、全てが彼女の絶頂の深さを物語っていた。  ───二度にわたる射精、それも、性欲の強さを皮肉げに自認するシラギクにあっても空恐ろしくなるほどの大量な精の噴出に、急激な〈倦怠感〉《けんたいかん》に襲われ、ヒプノマリアの上にがっくりともたれかかる。  全身虚脱しているかに見えて、シラギクはまだヒプノマリアと下半身を密着させていて、ふとゼルダクララが二人の股間を覗きこめば。  繋がった、まま。やや太さは減じていたようではあるが、陰茎は姉妹の膣に深々〈潜〉《もぐ》りこんだまま。  そして茎の根元から、びゅく、びゅくと脈動がまだ繰り返され、精を送りこみ続けているのが窺えた。 「射精の長さ、〈妾〉《わたし》の時と同じくらいのようだけど……ねえシラギク。殿方って、セックスの度にこんなに出して、〈痩〉《や》せてしまったりしないのかしら」  あの濃厚な情事の果てとしては、いささか間抜けた問いかけではある。  ただ、男性の生理も、情交も、快感もそれぞれの絶頂も、初めて尽くしのゼルダクララとしては、止む無しの疑問と言ったところ。  シラギクとしても、自分が普段からこんなに、馬鹿みたいな、栓が壊れた蛇口みたいな放精を行っていると勘違いされては要らぬ後難を呼びそうなので、四肢を〈薄糊〉《うすのり》と浸した〈倦怠感〉《けんたいかん》の中、ようよう声を押し出す。 「二回目は、普通はこんなに出ませんてば。ああ私、どんなに昂奮していたの、これ……」 「シラギク……お疲れさま。  こんなに良くして下すったこと、  嬉しうございます、よ。お前さま」  体の上にのしかかる、正体を失ったような重みが、今まで散々に自分を喘ぎ〈啼〉《な》かせたシラギクのものと思えば、重苦しさより愛おしさが優って、ヒプノマリアは項に汗で張りついた結い髪をさらさら流して、まだ熱い肩を、気怠い腕で抱きしめた。  ……さすがに力を失いつつある陰茎が、膣から抜け落ちた時、目出度いくらいの逆流にたまげる事になるとは、まだ思い至らずに。                      ───八───  地下深くの堂宇は、本来の沈んで停滞した空気を呪式の暴発による〈焦臭〉《きなくさ》さに薙ぎ払われたばかりか、不釣り合いな、〈瀟洒〉《しょうしゃ》な、典雅な、涼やかな、異なる三つの芳しきが調香された〈微薫〉《びくん》と、〈露悪〉《ろあく》趣味的に付け加えれば、湿った体液、性臭が〈綯〉《な》い交《ま》ぜになって、枯淡の聖域という趣をどうにも人惑わしの桃色を混ぜられてしまってある。  香水を着ることもまだ早いような少女とはいえ、三人が肌も隠し処も露わに組んず〈解〉《ほぐ》れつ睦み事に耽ってしまったのだからむべなるところではあるが。  初めての情交の余韻は〈寝酒〉《ナイトキャップ》よりも良く効いて、そのまま眠りに溶けてしまいそうな双子の臀を、文字通りぴしゃりと〈叩〉《や》ったのはシラギクである。シラギク自身も相当に大車輪、というか二輪車に乗ったと言おうか、ともかく奮闘の後ではあったが、〈糺〉《ただ》しておかなければならない事があった。  なお愚図る双子を〈身繕〉《みづくろ》いに急き立てたものの。  情交の後始末も、衣装の着付け直しも、双子は互いが互いを世話をして、甲斐甲斐しいやらまめまめしいやらそれはいい、身の始末にお水と石鹸とできれば綿珠と、着直しに〈火熨斗〉《ひのし》と染み抜きが欲しいなどと〈宣〉《のたも》う御令嬢の請願で、シラギクはそれはにこやかに、双子のお鼻を〈摘〉《つま》み〈捻〉《ひね》って却下した。  これを性の鬱屈を吐き出してしまえば腰も軽く、さっさと次の種蒔き畑を捜しに発つ雄の〈性〉《さが》の勝手と責めるのは少々酷なようにも思われるが、シラギクが抱いていた、堂宇の東屋に居続けたなら垂れこむ三人分の体液の匂いでまた催してしまいそうだったから、なぞという危惧までは〈庇〉《かば》い立てはできぬ。  で、堂宇を後にし手彫りの石段を上がってトントントン、入口の〈龕〉《がん》の前で正座の双子と傲然と腕組み立ちのシラギクの姿がある。〈褥〉《しとね》替わりにしていた布を双子の膝下に置いてやっているのがせめてもで、地下道の人跡稀なが幸いして指差す者はなくとも、いかさま白洲に引き出された嫌疑の者と判官じみて、どちらがどちらかの役かは、さて。 「さて、お二方。確認しておくのだけれど、お二人、お社の場所を本当はご存知ない、とそういうことでよろしい?」 「……あい」 「そういう場所があると、聞かせてもらってはいたのだけど、何処にあるかまでは、知りません」 「つまりお二人は、私をたばかった、と。  ……まあ、初犯ということで、  今回は大目に見て差し上げる」  双子が、シラギクの最後の封印地を探さんとする願いを逆手にとって、魔陣の部屋まで誘いこんだ事など最早詮議立てするまでもなく明白だが、筋というのを通しておく必要があろう。  その上で、〈謀〉《たばか》られたに重ね、駅鉄仮面の憂き目を見る事にもなりかねなかったシラギク自身が沙汰止みにするのであれば、余人が口を挟む〈謂〉《い》われはない。やはり童貞を喪くした少女相手ともなれば仏心も湧くところ、などとあげつらう、娑婆塞ぎもここにいないのであるし。  双子は双子で、肌を重ねたばかりの相手から雷を喰らうのは恐ろしかったのか、〈項垂〉《うなだ》れて神妙なところへ過分なまでのご温情、ほっと顔を見合わせたものだが、シラギクそこへずい、と大きく身を乗り出して、 「けれど、今後は───案内してと頼まれて、それを承ったなら、ちゃんと案内して差し上げる事。忘れては、なりませんよ」 「もしも忘れたなら。貴方がたのお大事が、一夜の〈裡〉《うち》に〈腫〉《は》れ上がって、もう二度と使い物にならなくなってしまう……」 「そういう〈呪〉《しゅ》を、お二方に施しておいたの。さっき、こっそりと。だから、覚えなさい、ね」  蝙蝠の目玉やらイモリの心臓やら〈曼陀羅華〉《マンダラゲ》の干物やら〈野干〉《ジャッカル》の生首その他諸々の混沌のごった煮渦巻く大鍋から編み出されるような、そんな呪式の実在の真偽の程は不明なれど、双子には巨大なる恐怖を呼び起こした。  使い物にならなくなる、とはいかなる〈謂〉《い》いか。  排泄関連だけでも大事であろうに、よもやもしやまさかそんな、せっかく覚えたばかりのあの素敵な行為も禁じられてしまうというのか、顔色無くし、悲愴な抗議の、双子二人が膝に取りすがり蜂、お陰でスカートの〈襞〉《プリーツ》がよれるわずり落ちかかるわ、シラギクはもちろん嘘だと双子をとりあえず安心させはしたけれど。  そういう前説があっただけに、シラギクがあくまで所期の、精霊の社の捜索を続けることを主張した時に、双子は強く逆らうこともできず、従うしかなかったわけで。一言二異見めいたことを口にしようとすれば、シラギクが〈一瞥〉《いちべつ》を放りつけるのだもの。呪の事を言い出した時と同じ目をするのだもの。    ───一体、どうであろうか。  後代、駅の『〈案内人〉《ガイド》』として知られるようになる銀髪の双子だが、その立脚点に、この時のシラギクの訓示の影が、あったのどうか───  〈却説〉《さて》。シラギクはもちろん、結局双子も社の在所の目星を持ち合わせていない次第で、改めて探すとなっても今のままでは〈盲滅法〉《めくらめっぽう》。  いっそ棒を立てて、倒して、その向いた先でも探してはいかがと、ゼルダクララが〈龕〉《がん》の側に落ちていた棒っ切れで試みた、返ってきたのは、乾いて冷たい眸のシラギクどころか姉妹からも。恥ずかしさと口惜しさで頬紅くして食ってかかろうとした時に、からり、と棒が弾かれる軽い響きがあった。  弾き飛ばしたきり関心を失って、実につまらなさそうに前足を揃えて地下道の暗がりに座していたのは、暗がりよりも黒い。そしてでかい。  黒く分厚い体躯の、四肢に筋肉満ち満ちて、漆黒の中に白い毛を僅かに、闇の中の雨のように幾筋か散らした毛並み〈艶々〉《つやつや》と、双眸は〈炯々〉《けいけい》と、宇宙〈開闢〉《かいびゃく》時の炎をそのまま閉じこめたかに、光強かった。  単純な大きさとしても、中型犬に匹敵しよう。  その体躯を更に数倍にも拡大するような、威と落ち着きを〈具〉《そな》えた、黒猫と見えたがこれは本当に黒猫なのか?  闇がその形に凝集した、超自然の存在なのではないか?  事実、見よ。  平伏したのである。  他ならぬシラギクが。  地下道の床に額を擦りつけんばかりに。  呪式の卓越した遣い手である、シラギクが、だ。 「これはとんだ御無礼をっ。〈端境〉《はざかい》の〈尉殿〉《じょうどの》が〈御幸〉《みゆき》される道とは、露知らず」  知らず貴人殿上人の牛車の前を〈遮〉《さえぎ》ってしまったかの〈恐懼〉《きょうく》で弁明まで、きょとんと立ち尽くしたままの双子を〈額〉《ぬか》ずきつ横目して、二人の礼儀知らずに大いに慌て、頭が高いと一喝をするも。 「あら、宗右衛門さん。お久しぶり。近頃うちへ姿を見せて下さらないから、どこかへ行ってしまったかって、気にかかってはいたのだけど」  実に平然として。 「時雨殿は、相変わらず大きくておられる。お前さまを見た後では、他の猫達が、みんな仔猫に見えてしまいますよ」  それどころか親しみをも示して。 「え……貴方がた、こちらの尉殿と御面識がおありで?」  この大黒猫、名前を〈時雨宗右衛門〉《しぐれ・そうえもん》という。飼い野良問わずの駅の全ての猫族の総代として、駅内の事情通に知られる生きた伝説。ばかりか、シラギクが語るところによれば、世が世なら「〈端境〉《はざかい》の〈魔尉〉《まじょう》」と〈畏〉《おそ》れられる、〈生半〉《なまなか》な人間の知力では及びもつかぬ領域をものする大御所の一体だとか。  さすがに話がそこまで拡大すればそれこそ怪力乱神か精霊の類かという眉唾物な。元々猫という種族は得体の知れぬ叡智を有した生き物であり、確かに大黒猫はそれをも〈凌駕〉《りょうが》した威厳を宿す双眸で、猫の正座の形で落ち着き払い、三人を退屈そうに〈睥睨〉《へいげい》してはいたが。  けれども双子にとっては顔馴染み、大黒猫は時々地下研究施設を訪れることがあって、双子には近在の偉いお爺さんくらいの認識である。  実際、駅内での猫くらいしか心得ないような抜け道を二人に教えたのもこの宗右衛門なのだという。  ……抜け道、と聞いて思うところがあったようで、シラギクは、双子に便宜を図ってもらうよう頼みこんだ。 「こちらの尉殿に、件のお社の在所、聞き及びでないか訊ねてみて下さる?」  大黒猫と無言で目線を交わし合うことしばし、ゼルダクララは、 「知ってらっしゃるそうよ」 「……これは、〈僥倖〉《ぎょうこう》というものだわ……ねえもう一つ、案内して下さるようお話を通して……もう、もどかしい」 「面識のない者が、尉殿に直接口を聞く不作法、どうか許されたく……」  間に他者を介して奏上するべき相手ではあるが、状況が状況ともどかしげに、シラギクは膝でにじって、なにやらにゃごにゃご鳴き声と喉声混じりにやり始めたのには、双子、呆気に取られて眺めた事である。どうやら派遣吏の少女は、猫の言語に通じているらしい。 「シラギクは、確かずっと施設にあって、お喋りできるような相手もなかったと、そう申されていたような」 「なのに、猫とはああやってお喋りできるだなんて。おかしな方だこと」  呪術方程式の、その基となる呪術言語の起源は古く、ものによっては人類以前のある種の獣が狩りのために用いていた〈吠声〉《ゴーティ》まで行き着くという。そういう経緯もあって、術者には動物の言語を操る者もあるにはある。  よってシラギクが猫の言語に通じていたとしても、そこまでは有り得る話ではあるが、この両性具有者は中央の施設で長じ、なんとやらの大物だとしても甘夏省の駅の魔尉の事情にまで通じていたとはさすがに考えづらい。もしかしたらシラギクは、駅を訪れるまでの日々の中の、宗右衛門本猫ならずとも、その〈眷属〉《けんぞく》あたりとなんらかの因縁があったのかも知れない。  ともかくもシラギクの訴えを一通り聞き終えると宗右衛門は、ゆったりと〈顎〉《あぎと》を開き、凄惨な夜の殺戮劇を思わせる、そこまでも黒い口蓋と血色の舌を覗かせて三人をたじろがせた。ただの〈欠伸〉《あくび》でさえそれである。腰を上げて伸びをして、背を向け歩き去っていく様などは黒龍もかくあらんかというほど悠然と、三人を置き去りに〈幽明境〉《ゆうめいきょう》へと戻っていくような、と見えて、立ち止まる。  振り返って、ただ灯りの反射よりずっと強く目を光らせ、体躯と同じくらい見事な尻尾を差し招くように揺らしたところを見ると、シラギクの請願は無事容れられていたらしい。  三人は魂を引き抜かれた態で後に従った。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  大黒猫に導かれる道筋は、確かに地上から降りてきた地下道を逆に辿ったはずなのに、出た先が来た時とはまるで異なる、駅のどこかの積層建築群の上層内部の複合通廊。  景色に差違はあれ、一つの建物が他と重なり合い、その隙間をまた別の生活空間が埋めているという構造は、駅の他の場所と同じではあったが、一つ奇妙な点があった。  人通りがまるでないのである。  なるほど駅内には人声乏しい区画や無人地帯というのは散在しているが、大黒猫と三人が往く通廊は生活感、人の体温というものが充溢し、三人が通りかかるその寸前まで、歩む者、軒の内で立ち働く者、出来合いの惣菜を頬張る者、等々に満ち満ちていたとしか思えないのに。それが、風景の中から人物という画素だけ抽出して抜き取ったように無人、無住の建物と通廊の繋がりが延びる。  奇妙で薄気味悪くはあったとはいえ、追う者の目をかわしたい三人としては都合良いのも事実であり、先往く宗右衛門猫の後を追った。  敢えて推測するならば、宗右衛門猫は、この積層建築内部に、普段往来するのとは『別の位相』で持って入りこんだのだろうと、双子は生来の感覚で、シラギクは呪式を習得する過程で得た知識で、朧気に直観していた。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  大黒猫に導かれる内、三人は途中、奇妙な風景を眺め不可思議な場所を通り抜けた。  積層建築内部の、一見行き止まりとしか見えない隙間の果てが実は通り抜けられるようになっていて、その先の事だ。  積層建築群の裏手の、建物と建物の間のデッドスペースと思しく、雑然とした駅の余所より更にごちゃついて、狭い間隙の中にむりやりバラックや荒ら屋を押しこんで詰め合わせたかの、〈稠密〉《ちゅうみつ》な空間である。  薄汚れて〈煤〉《すす》けているにもかかわらず、それがなんとも人めかして、一種の居心地の良さを醸し出しているのだが、異様な点もいくつかある。  たとえば、時代も様式もばらばらな屋並みが、細々と、かつ〈出鱈目〉《でたらめ》にひしめき合っているという眺めは、大地上の各時代各地から無作為に切り取って〈嵌〉《は》めこんだかのような。  先ほどの複合通廊では〈人気〉《ひとけ》が失せていたのに、ここではごちゃごちゃした通りのあちこちに人がそれぞれの暮らしを営んでいて、それはまだいい、物陰や建物の奥に時折見え隠れする、どう見ても人間とは思えない、妖怪とも小鬼の群れともつかないあれは、なんなのだろう……。  自分の疑念という〈些末事〉《さまつじ》を宗右衛門猫に向けては〈不遜〉《ふそん》かと思われ、シラギクが双子に問うに。 「〈妾〉《わたし》達もここの事情には、通じていませんの。ご覧の通り『裏側』とか『裏ッ側』とか呼ばれてるようだけれど」 『裏側』、『裏ッ側』。  それは細い裏路地を抜けた先や、建ち並ぶ建物の裏側にあって広がる、文字通り駅の裏側を埋める不思議な世界であるのらしい。 「クララと二人で、一度だけ迷いこんだこと、あったのです。ところがここでは、わたくしたちの土地勘がちっとも通じませなんだ」  それ故双子は、この『裏ッ側』にはあまり近寄らないようにしているのだとか。  ただシラギクは、『裏ッ側』を通り抜け、また駅の表に戻ろうとする時に振り返り、感慨深げにしばし立ち止まってあり、なにやら心中に感じたところがあったようだった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  大黒猫は、三人を導き終えると、後は振り向きもせず悠然と立ち去っていった。  辿り着いた先は、地表を殆どが人工物を覆われた駅に遺され、点在する往古よりの自然環境の一つである森の中の、緑濃い窪地。  駅の他区域からは、シラギクが投宿していた宿場町と同じように各建築群そのものによって隔絶され、こちらは通じる道が一切無く、鳥の翼か他の空を行く手段が無ければ行き来は不可能の、例外があるとすれば宗右衛門が案内してきた『裏ッ側』伝いの抜け道だけ。  そんな隠れ地の緑の窪地、その底に築かれていた、崩れかけた社というのが、精霊を祀る社という触れ込みの、シラギクが探し求めていた駅の航宙港封印の最後の要地だった。  それでも管理局の機密というだけあって、社の周囲には呪的処置を施した神獣像が一対配置されており、これが侵入者を排除する仕組み……だった。  過去形なのは、シラギクが呪式の存在を感知して始末しさったからだ。  窪地の地面を練り生地のように容易く〈穿〉《うが》ち、周囲の立木を棒菓子とまとめてへし折る、自律式の神獣像、呪式で強化された石体は、同重量の鋼も優る強度だとシラギクは見抜いた。  それが連携で猛撃してくるとあっては、完全装備の軍隊でも対処に手間取ったに違いない。  が、重ねて述べるがシラギクが始末した。  安全のために待避している事を厳命された、窪地から離れた林中まで伝わってくる地響きと風切り音、破砕音は、気圧をも変動させる力場が窪地の底から放射されたきり、鳴りやんで、シラギクの安全を告げる声に呼ばれて降りてみれば、呪術像は身体の各部分に解体され、動かぬ石塊と成り果て地に転がっていたのである。  呪力がもう少ないとシラギクは語っていたはず。なのにあの魔陣の部屋で立て続けに放って見せた事といい、ここでも瞬時にして呪術像を解体して見せた事といい、なにがガス欠なのだという。  これまでの交情無ければ、肌を重ねていなければ、双子にとりシラギクは未だ人の形をした深淵として映っていただろう。 「尉殿のご案内、疑うつもりはないけれど、やはりここで間違いありません。ここに、なにか彫ってあるでしょう」  一対の呪術像を退けた後、シラギクは社に歩み寄り、さながら考古・伝承の学を選んだ秀抜な学徒のような目をしみじみと投じる。  崩れかけの社の、これも〈粗〉《あら》び、立ち枯れの灌木と殆ど見分けの付かなくなった〈廻〉《まわ》り〈勾欄〉《こうらん》の、〈手摺〉《てす》りに刻まれた文字の連なりを示し、扁額も由来を記した高札もないのにここが目的の地と見定めた理由を双子へ説いた。 「これはね、古い言葉と文字で『ゴドーを待ちながら』と刻んであるのよ。ずっと昔の航宙士、ゴドー・トルクエタムとなにかの縁があるのかも」  ただ、地理的な隔絶に任せ、護衛機構としては一対の呪術像しか配していなかったというあたり、派遣吏のシラギクにとっては重大な意味を持っていても、駅の管理局としては記念碑的な意味しか持たなかったのかも知れぬ。 「貴方がたと最初に出会ったあの広間。あすこに掛かっていた大きな肖像画。そのモデルとなった方で」  そう説かれれば双子にも聞き覚えのある、伝説の航宙士の名を告げる文字の跡。過去のいかなる者が、どのような心をもって刻んだのだろう。  それは恐らく、今のシラギクと似通う想いだったに違いない。  文字を見つめるシラギクの横顔に、あの日、初めて出会った日、施設の大広間の大肖像画に注いでいたのと同じ眼差しを見た。  澄んだ泉が、遠い星々を愛慕して水面に映し出すような遙けき光に、両性具有者は、翡翠の眸を潤い美しくして───いるのに。                    その姿、その〈容貌〉《かんばせ》、その背中が、今。  色合い、薄れ。  陽光が落とす、影、薄れ。  そこにある、存在感そのものが、薄れ。  さながら社を前に、過去から呼び戻された幻影の如く、生命あるものの実体として色合いが薄れていて。  その身体の向こうの景色が、薄く透過してさえあった。  ゼルダクララもヒプノマリアも始めはただ光の悪戯か目が歩き疲れで霞んだかと、瞼を擦り瞬きを繰り返してみたのだけれど、半身が同じ様な仕草をしているので、自分だけの錯覚ではないと覚り、〈愕然〉《がくぜん》となった。 「お前さま……お姿が、透けて……」 「貴女それ、身体がそんなことになって、具合悪くなったりはしないの? それとも、そのお姿も、なにかの呪式とかの影響で」  それでも双子は、〈神変鬼妖〉《しんぺんきよう》の域にある呪式を操るシラギクであれば、いずれなんらかの呪力の影響なのだと、シラギクにとってはよくある……とまでいかずとも、このような状態に変ずることは、強い術士には有り得る事なのだと、思いこもうとしたのだ。  どのくらいの時間が要るのかは定かならぬが、いずれは元のように復すのだと、信じようとしたのだ。  シラギクもまた、己の腕を日に〈翳〉《かざ》し、透けて差してくる陽差しを認め、晴れやかに、双子の杞憂を笑顔で打ち払おうとしてやって、結局。 「……私は、上手に誤魔化したりは苦手だから、もうばらしてしまいましょう」  笑顔を作りきれずに。  無用の心配だと慰めてもやれずに。  透けかかっていてさえそれと知れる〈幽愁〉《ゆうしゅう》の〈翳〉《かげ》りを、瞼に溜めて目を伏せた、綺麗で、そして哀しい〈貌〉《かお》が、万感を籠めて語ってしまっていたのである。 「そろそろ、この私、シラギク・〈A〉《アルツェバルスカヤ》と貴方がたの、お別れの時だという事」                    ─── おしまい、ということを。 「何を仰有っているのか、意味がわかりかねてよ、シラギク。冗談にしても、全然面白くなくって」  〈解〉《ほぐ》れてはいけないものが、細かい粒子と化して崩れていきそうになる、そんな流失感を必死に堰きとめようと、言葉をぶつけた。  ぶつけたらその想いさえ、崩壊を速める塩の流れを呼んだ。 「クララ、貴方には言っていたはずじゃありませんの。『身体が消えてしまいそうなほどしんどい』、と」  その言葉通りと、軽く両手を広げて薄れゆく我が身を見せつける白々とした仕草。言い訳もまた、晒された塩のように白い。  あの空中通廊でさらりと流された言葉を、誰が本気に受け取ろうの、あるいはそれもまたシラギクの計算だったのか。  だとしたらずいぶんと冷たい計算式で、こんな〈巫山戯〉《ふざけ》た最後を隠そうとしてくれたものだとゼルダクララは食ってかかり、 「そんなの誰だって〈喩〉《たと》えと思うわ、誰が本気にとりますか!」 「クララ、わたくしはそのお話を知りませぬ」  事情を把握しきれずにいる姉妹へ、シラギクの宙港施設封印は、自身を、自分の存在を切り取り溶かすようにして行っていたことを、焦れったげに手短に話せば、ヒプノマリアもたちまち顔面蒼白と変じた。  呪式の精細な原理は知らぬ、ただシラギクは最後の封印を施すた為に、自身の力、存在を最期まで使いきろうとしていることは、その薄く透過した姿から否応なしに〈諒解〉《りょうかい》されたのである。 「わたくしには、わからない。何故そうまでして、お前さまが、この駅の宇宙港を遺そうとなさるのか……」 「たとえばこの駅に遣わされたのが、お前さまではなく、別の執行官であったとしたなら、わたくしたちは為す術なく、全て壊されていたに違いなく」  駅から星々へ通ずる道を奪い、壊そうとする者はヒプノマリアにとって許し難い仇敵である。  けれども、そうと憎んでいた相手が、形はどうあれ遺そうとしていたと知ってしまった。  その遣り様は未だ全ては認められるところではないとはいえ、この派遣吏は言わば孤独の翼に乗った同志であったのだと今は想う。  そしてシラギクは、ただ駅で右往左往するしかなかった自分達では為しえなかったような術を用い、せめてここだけでも遺そうとしている。  そしてその為に存在全てを費やして───  胸や喉に針金が絡みつき。締めつけてくるようだった。冷たいのに熱い締めつけだった。 「一つは、私が、宇宙に行きたくても行く事ができない航宙士であったこと。だからせめて、壊すのではなく、遺したかった」  学術院では、這いずり、身を低くするようにして生きるしかできなかった。  〈宇宙〉《そら》を振り仰ぐ事まで禁じられてはいなかったけれど、いつしか見つめる事を、やめてしまっていた。届かない世界を望み続けるのは、辛い。  〈幽閉〉《ゆうへい》の姫ならぬ航宙士。塔の窓から星空を仰ぎ望んだとしても、無限数の光に〈嘉〉《よみ》される事はない、なり損ないの航宙士。  それでも、なぜか、どうしてか。  航宙技術の放棄を聞かされた時、手に入らないものが壊れ逝く事を祝う、暗い炎よりも。  喪われていく事が、ただ哀しくて、口惜しくて、情けなくて。  恐らくは呪術方程式の稀有なる遣い手という能力によって、中央からこの駅の航宙港施設の破壊者として選び出された時、既に心は決まっていたのだろう。 「そしてもう一つ。それは、貴方がたと出会ったから」 「お二人が、あんまりにも一生懸命な目をしていたから。私も本気で、この身を賭してもいいかという気持ちになったのよ」  風変わりな金属光沢の、金盤の眸を初めて目にした時、地上で星と出会ったような、驚きと喜びに全身を貫かれたのだ。  双子に、星の光に劣らぬ、高く美しいものを見出したのだ。  双子星がその輝きを懸けて守ろうとしているものを、彼女達の望む形で遺してやれなかった事には悔いが残る。他にも道はあるのかも知れないが、それを探すには時間がない。  中央に己の〈叛心〉《はんしん》が知られている以上、新たなる、そして今度は意志に忠実な者達が遣わされてくるまで、幾日も日を置くまい。  それを語れば双子は、シラギクの意志を替えられないと知って双子は、心に差しこまれる事実の氷柱の冷たさに、とうとう膝を折って〈頽〉《くずお》れた。 「か、勝手じゃ、お前さまは、あまりにも勝手でおられる!」 「どこからかいらして、わたくしたちの心を惹きつけておいて、そして今度は去っていかれる……それはあまりに、勝手に過ぎましょう……」  紅く美しい火と化した蠍。燐のような青い光と〈變生〉《へんせい》した夜鷹。  生への執着をそれぞれの形で悔いて、星の世界へ昇天した生き物の、いずれも美しく哀しい物語。  ヒプノマリアはその哀美は、彼らが身を捨てるほどに他者の為に祈ったからでなく、誰も届かない光となって独り燃え続けているからだと考える。  シラギクもそんな存在になろうとしているように想われてならず、慎みの衣など〈纏〉《まと》っていられたものかはで、〈縋〉《すが》る、涙を隠しもせずにスカートに吸わせた。  ゼルダクララもまた同じ、苦しさに立てそうもないなら〈膝行〉《いざ》ろう、理では引き留められず、なら手を取って頬に押し当て、情慕の涙を〈錘〉《おもり》にしようとした。 「本当に。マリーの仰有るとおり。どうして一緒にいて下さいませんの……?」  握り取られた手と、〈縋〉《すが》りつかれた脚に涙の熱さ、シラギクの心がどれだけ切なく焼かれたろう。  深く迷いつつも、それでも結局シラギクは告げた。 「……貴方がたと、一緒の時間を過ごす事は、少し難しいことでして、ね。どこまで施設の職員方から伺っているのやら、なのだけど」 「貴方がたは、その姿で固定されて、普通人より遙かに長い寿命を生きるよう、調整されている……きっと私よりも、ずっとずっと長い時間を」 「そのお顔だと、あまりご存じなかった様子。けれど、本当の事でしてよ」  双子達が如何なる目的のために調整されたのかに加え、職員達が隠し通していたもう一つの真実だった。  ……施設の研究員は、双子達がその姿でいる間に、既に数代の代替わりを経ている。  双子達はそれを、彼らが大人だから、そして自分達はまだ小さな女の子だからで、何時かは大人に姿が変わる日が来るものと、信じこんでいて、今それを誤りだと知らされた。  だがそうだとしても。  咀嚼するには、余りに捉えどころが、飲みこむにも大きすぎる事実で、すぐさま実感には至れなかったし、なにより職員達は、老いて役目に耐えられなくなるまで、施設に勤め続けていたではないか。 「〈喩〉《たと》えそうだとしても。〈妾〉《わたし》には貴女が言い訳をなさっているようにしか、聞こえない」 「ねえ、聞き分けて下さいな。マリー、クララ。お二方のこれからの長い長い時間。きっと沢山の人と出会い、別れていく事になるのだわ」 「クララもマリーも、それに耐えていかなくてはいけないのだし、学ばなくってはいけない」 「私も、貴方がたが出会い別れる人々の、その一人だったという事」  今日は、シラギクが双子の涙を〈拭〉《ぬぐ》ってやる日であった。  空中通廊でゼルダクララがしてやったように。  その指先もまた色を失い透けていたけれど、まだ双子の目元には触れている。感触もひやりとした温度もちゃんとあるというのに、シラギクはその記憶だけ残して消え去ろうというのかと、想えばどれだけ〈拭〉《ぬぐ》っても、双子の涙の尽きまじ。  尽きまじ、の筈の涙を一時なりとも止めた言葉があった。安堵や喜びではなく、怒りでもって涙腺を締めさせたのである。 「ともあれ、まあ、そんなに深刻にならないで。もう少し肩の力を抜いてやっていきましょうよ、お二人とも」  シラギクの、ここに来てこの言葉である。  涙を乾かしてやろうとするには、美しくあれ見苦しくあれ、いずれにしても愁嘆場に後ろ脚で砂掛けるような台詞だと言えよう。 「力を抜いて? どうしてそんなからかうような。貴女が、折角仲良くなれた貴女がいなくなってしまうというのに……!」  ゼルダクララの憤りはもっともな事としか言い様がないのだが、シラギクには涙より怒りをぶつけられた方がまだ気が楽と見えた。 「いなくなる、訳ではないの。駅の宙港施設は、封印すると同時に私の情報を溶かし込んであります」 「それは、私がこの駅と一つになるというだけ。私はもうずっと、駅にいる、ここでならいつだって会える」  ───現在は不変であり─── (ああどれだけ双子が嘆き哀しもうとも、心を寄せた者が去りゆこうとしているこの今は変えられないのだ) 「そんな、坊様の説教のようなお話はたくさん。わたくしは、わたくしはお前さまともっとずっと、一緒に───」  ───未来は待ってはいてくれない─── (ああどれだけ双子が、その時の到来にせめて今しばらくの猶予をと〈希〉《こいねが》っても、別れは待つ事もせずに訪れてしまう) 「大体貴女がいなくなったなら、宇宙港に施された封は、一体誰が解けばいいと言うの?」 「大概の事は、時間が解決してくれるのだわ」  確かにある種の真実がそこにはある。  ただそれは、いみじくもゼルダクララが指弾したように、問題を人の手では届かぬ大いなるなにかに仮託する事とも言えるのだが。  本当に時間の手に委ねるしかないのか、まだ幼い心力の全てで方途を求めるも、ゼルダクララもヒプノマリアも言葉を失い押し黙る他なく。 「それではクララ、マリー。ご機嫌よう。  とっても綺麗な、駅の双子の、貴方がた」 「それから、そちらの施設の、文書庫の封だけは解いておきました。たまには本でも読んでね、マリー、クララ」  最後になってシラギクは、笑顔を、それは晴れ晴れしく、清らかで、優美で親しい微笑みを浮かべる事に成功した。  その微笑みは双子の心を奪い、魅了して、数瞬を惚けさせること充分で、二人が我に返った時には、シラギクはもう、〈踵〉《きびす》を返して背を向けて、もう、届かない人となった。  背を向けて、社に向かい去っていくシラギクに、双子はすぐさま飛びかかって留めようとしたけれど、両性具有者は最早実体を保つ力も失っていたと見え、双子の手は身体を透過して、なにも掴めず、その虚しさ。  勢い余って地に身を投げ出し、双子はもう呆然と、シラギクを見送るしかできなかった。  朽ちかけた扉を通り抜けて、シラギクが社の中に消えていってしばしの間。  双子の感覚は堂宇内部でなにごとかが機能停止した事を感知して、同時に二人は、シラギクがいなくなった事を悟ったのである。  かくして。  あの大肖像画の広間にて出会った、翡翠の眸の両性具有者シラギクと、黒衣に〈面紗〉《ヴェール》のヒプノマリアと、茜の羅衣と結い髪のゼルダクララとの時間は今や閉じ。  これが、駅の銀髪の双子と中央からの派遣吏の少女との別れであった。                ───過去は永遠に失われず─── (ああ確かに、宇宙への〈道標〉《みちしるべ》の封印は、時代の流れによって移ろいどう変わるか判らない。けれども双子にとってシラギクとの別れは永遠のものなのだ)              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ───などと、泣きの別れを見た後、双子は〈蹌踉〉《そうろう》と地下研究施設に帰り着き、その一画の文書庫に赴いたのは、シラギクの最後の言葉を、遺言とは認めたくはないが、言い残した心にせめてもう一度触れたいという、思いがあった故。  未練、ではある。健気で哀しい、偲ぶ情愛でもある。          未練で          偲ぶ情愛で    あ   っ  た   の  だ   が。  そこで双子は、信じられないモノと出会った。 「お帰りなさいまし、お二方」  それは、衣装も印象も全く変わっていたけれど、その面差し、物言いはまぎれもなく。  あのシラギクであったりしたものだから。  双子が、お互いの手を握り合い、跳び上がって脱兎と逃げ出す寸前まで仰天したのは言うまでもあるまい。 「わあ! お化けぇぇ!?」 「それとも、こんなモノを見るとは、わたくしたち、頭がおかしくなったとでも」 「違うわ、お化けでも幻覚でもないのだわ。ちょっと呪式と駅の情報連結体の力を借りればこれこの通り、実体化くらいは簡単に」  〈幽〉《かす》かな旋音と共に、シラギクの腕が呪式紋にと分解し、またすぐに実体化し、その言葉を裏打ちする。  口でいうは易く、実行するには掛け値無しの呪術方程式への真なる理解が要求されるだろうに、今のシラギクの身体は、精霊の社で薄れかかっていた時よりよほど人めいて、生の生、肉の肉、骨の芯を有しているようにしか双子には見えず。  怖々ゼルダクララがつついてみれば、服も肌もちゃんと指先に応えた。 「ちなみにこの服も、体型も、全部情報体で出来上がってます。だからおっぱいとかも、こんな風に男の子スタイル」  体型まで変容させてみせたシラギクの、二人が知る限りは両性具有という真実はどうあれ、少女にしか見えなかったのに、今は少年としか思えない四肢で成り立っている。 「服も、こちらの方が動きやすくって、とっても楽ちん」 「ただちょっとばかり、最後の呪力が足らなくって、シラギクであった時の記憶は、少しずつ薄れていってしまうのだけれど」 「ともかく、私はそういうモノになりました。まあ、妖怪みたいなものって考えてくれて構わない」  大地上とそして宙間世界の記録と知識という、言うなれば一つ一つが世界にも匹敵する資料を無数に収め、なお余地を残して広がる、地下の〈茫漠〉《ぼうばく》とした文書庫である。  その底でシラギクは、周囲からひたひたと寄せるような叡智の重低音をへとも感じていない風に、軽くステップを踏んで旋回の、新たな身体が〈愉〉《たの》しくて仕方のない玩具のように、はしゃいであった。  そう、はしゃいでいた。  シラギクの、澄まし返った平素も、時に〈空〉《そら》っ〈惚〉《とぼ》け、時に哀しい〈貌〉《かお》も見てきた双子が見た事もない一面を隠そうともせず晒していたのだ。  あれだけの悲歎に辞したその直後で、臆面もなく。  双子の〈脳裡〉《のうり》に、恐ろしい考えがよぎる。  まさかこちらが、シラギクの本性なのでは、と。 「みたいな、ではなく本当に妖怪でしょそれ……そんなになってしまって、貴女これからどうなさるのよ」  シラギクの帰還は、喜ばしい。  本当に喜ばしい。  なのに───そこに一筋混ざる、別の味はなんだろう。  ゼルダクララは、自分の喜びの中に混ざっているその感情は、もしや幻滅という名ではという推測から目を懸命に逸らしつつ。 「〈暫〉《しばら》くは、駅の中で浮浪児暮らしでもしてみようかしら。中央にあった時とは、正反対の、ね。とりあえず、ステーションの『〈瑛〉《A》』とでも名乗ろうかしら」 「それに、また聞き捨てならぬ事を。記憶を無くしてしまうと? わたくしたちの事もかや?」  ヒプノマリアも、喜びに浸り切るには、地雷のような言を並べられているのに気づいて問い質す。 「忘れてしまわないよう、会いに来るようにするわ、貴方がたに」            今はそれを、信じるしかない。      少なくとも、シラギク、なのだか瑛なのだかは、これから先もこの駅にあり、ならばまた共に過ごす時間もあろうというものだ。      双子はそれを、今は信じる事にした。 「ああ、もう一つ、お社で言い忘れていた事があったのよ。この文書庫を調査した際、凍結睡眠用のカプセルが見つかったの」 「貴方がたの寿命に、そして長期冷凍睡眠を併用すれば、この駅を、宇宙港を、長い長い未来に渡って見守っていける筈」 「使うも、放っておくも───貴方達の、好きになさい」  そしてシラギクは、あっさり帰ってきて、瑛として軽やかに走り去っていって、残された双子は。  見合わせた顔、それぞれの半身の表情しかそれぞれには見えないわけだが、双方共に同じ気持ちを抱いているのだろう。 「ねえ。〈妾〉《わたし》達、もしかしてあの方に、都合よく、つまみ食いされたと、そういうことなのかしらね、これって」 「言わないでたもれ。わたくしも今それを考えて、なにやら哀しいも嬉しいも、どうでもよさげな気分になっているのだから」  二人はシラギク、瑛のいい加減さになんだか全てが馬鹿馬鹿しくなり───  案外にしてこれが、ヒプノマリアとゼルダクララに、これからの長い長い生に耐えるだけの寛容と気楽さと優しさといい加減さを教える事になったのであるが。  まだ気づくよしもない、今の双子には。              過去は永遠に失われず───      現在は不変であり───      未来は待ってはいてくれない───                      ───端緒───  振り返れば遠景に、夜の地平を〈額環〉《サークレット》の様に修飾し、宿した多色の光群で、薄ぼんやりと明るませている『駅』の輪郭が横たわる。  行く手には、荒野。〈疎〉《まば》らな緑と、小島の様に散らばる林が、丘や窪地の連なりの中に〈点綴〉《てんてい》されている他は、何も見えない大地が広がり。  夜の荒野は満天の星と月に照らされて、詩劇めかした光量により闇が希釈されており、地表に落ちる影の方が黒いほど。  大気には夜を活動域とする生き物たちや虫の〈音〉《ね》が底流音をなしていたけれど、荒野の圧倒的な〈索漠〉《さくばく》の中では静寂を強める効果しか持たない。  星々と月の〈燦〉《きら》めきはあっても、荒野には人声や人めかした営みの一切絶えて、夜を往く者を孤独のただ中に置いていたけれど。  独り地を踏む少年は、その独りであるという事をむしろ満喫して、夜気の中に溶けた野の匂いを深々と吸いこみ、吐き出す、胸にはこの遙けき景色の中に、隔絶されて置かれているという喜びが〈横溢〉《おういつ》していた。 (駅をこれだけ離れても、今夜はずいぶん明るいや。月は……満月まで、後二日ってかんじか。大三角があの辺りなら、時間はちょうど〈零時〉《れいじ》くらいだろ)  見上げ、瑠璃色の眸に月の膨らみ加減と星の位置を映しただけで計った、月齢と時間はかなり正確で、荒野で過ごす事にも馴染みは深い。  確かに身に着けたルパシカやベストは相当に〈草臥〉《くたぶ》れ、背嚢や腰の帯鞄も随分と年季が入っていて、ではこの少年が荒野の住人なのかというとさに〈非〉《あら》ず。どちらかといえば彼が背に遠い、駅の住人なのである。  薄汚れてところどころ擦り切れのある風体は、少年が単に駅で浮浪児暮らしの日々にあるからなので。  ただ、浮浪児だろうが駅管理局の高官だろうが、駅の住民達の生活は通常は駅内で完結し、駅を行き交う利用者旅行者も、列車によって外部からやってくる為、荒野に身一つで出ようという者は皆無と言っていい。  そういう駅の生活圏から好きこのんで荒野に出ているあたり、つまりはこの少年、相当な変物と評して間違いはないのだろう。  この少年、名をファム・アン・トゥアンといい、漢字で表記するなら範英遵となる。その青銅味を帯びた肌に乳白の髪は、駅の在する辺境甘夏省を更に遠く離れた〈越〉《ジー》省のそのまた南方の一地域の民族、越南人である事に由来している。 (こんな夜なら、何時までだって歩いていたいとこだけど、そろそろ寝る場所を探しとくか……)  本来は駅という人工環境の住人のくせして、よほど荒野に慣れているのか荷物は最小限で、〈天幕〉《テント》辺りを担いでいるようにも見えず、野営と言ったところで草を枕に夜空を〈天蓋〉《てんがい》に、式の野宿が精々のところだろう。  しかしトゥアン少年は、夜露に濡れての眠りに憂うどころか、心も軽く〈四囲〉《あたり》を見渡していた。  久方ぶりの荒野行で色々収穫があったのだ。予想外に稀少な〈漿果〉《しょうか》も発見し、その薬効に半ば畏怖しながら帯鞄の奥底に丁重に迎え入れた。  その時の昂奮がまだ身体を〈賦活〉《ふかつ》しているのか、まだまだ夜の底を歩いていられるとは思ったけれど、それでもそろそろ休息を、とトゥアンは無造作に、けれど熟達の野外生活者の目でざっと地勢を検分し、 (あの丘の陰とかでいいか)  見定めた丘は小高く、周囲の地相から察するに、その向こうはちょっと素敵な窪地になっていると測量された。丘の肌を背もたれに、星々を眺めつ〈啜〉《すす》る熱いスープを思えばもう、〈快哉〉《かいさい》に胸が膨らみ喉の奥から変な〈唸〉《うな》りが漏れてしまいそう。  具材は昼間の間に林で採っておいた、〈芹〉《セリ》とむかごとヒラタケの一種という豪華献立、水はまだ水筒にたっぷりと。スープは即席のコンソメだが、荒野の夜に〈啜〉《すす》るなら一流の料亭の味さえ足元に及ばない(とトゥアンは考える)。  素晴らしい収穫、幸せな夜食、気温は寒くも熱くもない程良い時候の、今夜の眠りはさぞ素敵な夢だって見られる事だろう。  丘の根を回りこみ、向こうを目指す足元は、幸せな予感の中でも無闇に浮き足立ちはせず、泥深い湿地や棘の〈薮絡〉《やぶがら》みを上手に避けて、進み行くうちに。  丘の稜線の向こうから、じわりと滲む光と物音の有り、少年の幸せな歩度を鈍らせた。 (なんだろ、あの光と音は)  丘の縁から差している光は、月や星のものとは異なっているのが明らかな、人工の光で、トゥアンが不審に思い、覗きこんでみる、と、地形は予想どおり窪地をなしており、そこに───  普段なら無人の筈の荒野で大勢が蠢いている気配があって。 (なんだよこれ……こんな夜中に、こんななんもないとこで。あいつら、駅の連中かな、管理局あたりの)  駅からは大地上各地へと繋がる軌道が放射状に延びており、線路を保守する要員が荒野で終夜作業に就く事もある。しかしトゥアンはそれら長距離軌道からは外れた方面に荒野行を選んだ。こんな軌道もなにもない荒野のただ中に線路修理の作業員もあるまい。  それに、とトゥアンは警戒心の強い獣の低い姿勢で、息も〈潜〉《ひそ》めて覗きこんだ、向こうで蠢く者達は、その動きが妙なくらいに統制が取れていて、身に着けているのは作業服というより工兵かなにかの軍服を思わせたし、丘の陰を無遠慮な光量をぶち撒いている照明も物々しく、いかにも軍用品といった無骨さを見せてある。幾台か軍用トラックなども止まっていて、相当に仰々しい有り様の。  トラックのアイドリング音に掻き消され、声はようやく聴き取れる程度で、台詞の内容までは判らず、こんな夜更けの荒野で何事か。辛うじて聞き取った言葉の端々から、彼らはどうやら、やはりというべきか、駅管理局のいずれの部局〈麾下〉《きか》の実働部隊らしいとトゥアンは窺った。  なんらかの作戦行動なのか、と見なしてしまうのは早計なのだろうが、だとしても演習と見なすには、彼らの挙動は真に迫りすぎていた。  もうよせ、見るな引き返せ、と告げているのは、駅の中では鈍磨している、トゥアンよりも〈聡〉《さと》いトゥアンの一部である。この位置からなら気づかれやしない、折角の野営の場所を取られたんだ、なにをしているのかくらいは確かめよう、と〈唆〉《そそのか》すのは、少年らしい好奇心と〈反駁心〉《はんばくしん》である。  そしてトゥアンは、まだまだ己を律しきれるほどには練れていない少年という年代にあり、結局一団を覗き続けてしまう、うちに、大なる獣の喉鳴りのような駆動音で、窪地の底へと降ろしていく大型トラックの、荷台が投光器の光の輪の中に入った。 (なにを運び出して……違う? 運びこんでる?)  荷台に拘束積載されていた何物かを、トラックが所期の位置に着いたかと見ると工兵と思しき連中がすぐさま取り付いて、拘束を解く、ロープを掛ける、ウインチ他各土木用具で吊り上げ降ろしていく、といった一連の手順を停滞無くこなしていくのが見てとれた。 (捨てに来たのかな、スクラップとか。なんか〈部品〉《パーツ》とか取れないか、後で) (大体、ありゃなんだよ。車でもないし、船にも見え……な……い……おいちょっと待て)  投光器の光は強烈で、照らし出されたそのなにかのディティールは、〈陰翳〉《いんえい》が妙に強調されてなかなか正体が掴めない。眼を細めて凝視するうち。  その、元は涙滴型と思しき外殻。  その、かつては噴射管だったと思しき尾部構造物。  その、本来は風防ガラスだったと思しき前部の空隙。  元は、だの、だったと思しきだのが続くのは、そのなにかが高温と凄まじい衝撃に焼けただれ、へしゃげ、本来の機能を失った残骸と化しているのがトゥアンにも察せられたからだ。  そしてその残骸が、元は何であったかも─── (ありゃあ、ぶっ壊れてるけど、もしかして航宙艇じゃないのか!?)  瞬間、トゥアンの〈脳裡〉《のうり》に去来したものは、数ヶ月前に駅から天空彼方に飛翔し、一点の光と化して消えた『航宙艇』、そう呼ばれる飛翔体、それへの強い憧憬。  そしてその憧憬を打ち消すほどの強い動揺と混乱の、『航宙艇』を窪地に下ろし終えた一団の中から録画用映写機を構えた者達が進み出て、残骸の様子と周囲で作業する者達を記録し始めた事による。  映写機が出てきた途端に、それまでは極めてリアルでシリアスに張り詰めていた雰囲気が、どこかしら芝居めかした気色を帯び始めていた。しかも、芝居めかしている癖に、張り詰めた空気は窪地の底を未だ満たしているという、奇妙な。          ───誰もいない筈の真夜中の荒野で。      ───得体の知れない駅管理局の部隊が。      ───航宙艇の残骸らしき物を運びこみ。      ───それを撮影している。  それらの要素を統合して一つの筋書きをまとめ上げられるほどには、トゥアンに情報は無かったが、それでもここで進行している事がどうにも不穏な意味を内包している事くらいは感知された。  事ここに至ってトゥアンの中の少年らしい好奇心などはとうに尻尾を股の間に巻きこんで引っこみ、後に残ったのは危機感と恐ればかり。 (まずい……なんだかわかんないけど、とにかくまずいよこれ。まずいもん見ちまったなあ) (向こうにこっちがばれる前に、とんずらこいておかないと……っ)  危機感と恐れは臆病風を呼ぶが、臆病というのは荒野での生存に於いての必須条件の一つである。トゥアンはそれ以上の詮索を打ち切って、及ぶ限り静粛に、可能な限り速やかに、その場から身を起こし、足跡を消し身体の下になって〈撓〉《たわ》んでいた草葉を揺り起こして痕跡を消し、丘から離れていった。  充分な距離を開けたところで走り出し、丘から追跡者が放たれた様子がないと確信できるまで、足を止めずの暗夜の荒野行、今度は駅を逆戻りに目指して。  ただ───  トゥアンは痕跡を消したと思ってはいても。  少年が立ち去った後、窪地で作業を続ける同僚達から離れ、トゥアンが彼が身を低くしていた辺りを探っている者があった。  確かにトゥアンの隠蔽は、短い間に施したにしては手際よく、足跡などは残ってはいなかったが。少年が身体の下にしていた野草と、その輪郭の外の物とでは夜露の降り具合が異なってしまっており、地表から足跡を掻き消した、という行為自体が掻いた跡として残ってしまっていたという。  それに気づいてなお痕跡を探るうち、男は、草の葉に絡んでいた乳白の細い筋、一筋〈摘〉《つま》みあげていた。  トゥアンの髪の毛だった。                    ───現代編・始───                ───大地上の一辺境、〈甘夏〉《かんか》省の大荒野の直中のそれ、は『〈甘夏省景光河北部第一衝合駅〉《かんかしょうけいこうがほくぶだいいちしょうごうえき》』という仰々しい名称が付与されているけれど、そんな経文めいて舌が〈縺〉《もつ》れそうな名で一々呼ぶ者は少なく、ただ『駅』と呼び慣わされてある。 『駅』は、大小無数の駅が一つに集合した姿であり数えきれぬほどのホオムと路線と通路と建築物と運河を〈擁〉《よう》し、地上に地下に広がっていくその様はまるで迷宮を思わせた。事実、歳月の内に駅を行き交う者達の中には、己が行き先を惑い見失い、そのまま居着いてしまう者も多々あるという。  そういった所在なげな根無し草、故郷喪失者達の他に、駅に〈呱々〉《ここ》の声を上げ、ひっきりなしの列車の運行音と振動と、駅内放送、ラジヲを子守歌として友として育ち、駅を生涯の場として定める者もまた多い。ただ彼らが皆一様に、鞄の隅に、寝台の下に、あるいは商売道具の中に埃と同じような感覚で紛れこませている物として、駅の時刻表がある。  みなどれを取っても手擦れがし、角がぼろぼろに取れたものばかり。だがそれは一体何の為にあるのだろう。駅を〈終〉《つい》の棲家と定め、夏には茹だるような熱さに、冬なら隙間風の侘びしさに、晒されながらも駅を出ることなく生涯を終える者達にとって、それは一体何の為にあるというのだろう。  そんなホオムと路線と駅舎と連絡通路の迷宮たる『駅』においては、数える、という行為にある種の虚無主義を〈啓発〉《けいはつ》されてしまうほど、内部の駅舎、建築物の数は感覚的無限の域に達してある。よって『駅』内のある地点からある地点へ移動するために、駅の中に駅を設けて列車を走らせるといった、どこかメタフィジカルな手段が発達したのは当然の帰結と言えた。  この巨大な駅から、二人だけの〈曲馬団〉《サアカス》、座長を任ずるインチキ少年と、見世物役を受け持つ三眼の女が、駅内をさんざか混乱の渦に叩き落とした挙げ句、夕闇に降りしきる流星雨の中、空の彼方、星々の海にと飛翔していった一顛末を記憶せらるる読書子もあるかも知れない。  これよりここで綴られるのは、彼らが翔び去っていったあの日より、数ヶ月ほど間を置いてはいるが、同じ時代の駅の物語である。                      ───一───             駅の人口というのは、訪れては立ち去り、行き交う利用客といった流動的な人々と、その巨大な業務に従事する駅員や、一つの都市ほどもあるこのホームと路線の大混沌を支え維持するために住まう、言わば駅に根づいた住民達に大別される。  住民達の大半は、管理局から居住許可を発行されて、誰〈憚〉《はばか》る事なく駅に暮らし働き生きる者達だが、中には滞在許可が切れてもそのまま居座ってしまった旅行者、そもそもそういった許可どころか、正規の旅券すら持ち合わせず駅に乗りこんでくる者達といった、違法不法な滞在者というのが少なくない。  そういった根無し草、難民的な駅の違法滞在者の中でも幼かったり若かったり、大人になりきれていないような者達を『〈駅の浮浪児〉《ステーション・チルドレン》』と総称する。いつの時代いつの世の中であっても、諸々の事情で親の庇護を得られず路頭に迷う子供達はあり、それはこの駅でも同じ。管理局は公的にはそれら子供達の保護を〈謳〉《うた》い、それ用の保護施設も〈拵〉《こしら》えて、浮浪児達を健全な人生の潮流とやらに導こうとしている───が、官制下の青少年育成施設など、よほど注意深く運営していかないことには、たちどころに硬直し〈澱〉《よど》み、たやすく腐敗と悪徳の温床と堕していくもの。  駅のそういった施設もその〈悪轍〉《あくてつ》から逃れられず、運営費のピンハネによる施設・生活環境の悪化によって、子供達の衣食住が浮浪児であった時より惨めなものに成り下がるくらいはまだ増しな方。非道いものになると、子供達は危険苛酷な労働のための替えの利く奴隷、職員達は鞭や棍棒を駆使する奴隷頭か〈獄卒〉《ごくそつ》かという暗黒世界であったり、人倫に〈悖〉《もと》った性癖を持つ外道に供する為の人肉市場であったりする施設もなくはない。  某省の為政府高官が政務で駅を訪れた時、同行させていた令息が行方不明となり、数ヶ月後に保護施設で発見されたのだが、その経緯というのがある悪質な児童売春網の摘発中であったというから始末に負えない。その令息というのも発見時には、麻薬中毒者と成り果てていた上に重度の痔疾を患っていたりして、これなどは政治問題とも発展した。保護施設健常化の法運動も興ったのだが、つい先頃も〈淫祠邪教〉《いんしじゃきょう》の巣窟と化して、夜毎人身〈供儀〉《くぎ》と乱交儀式に耽っていた施設が、その悪業を〈篤志〉《とくし》の慈善家(一説によると全身を奇怪な衣装に包み隠した怪人であったともされる)に暴かれ潰滅したのも記憶に新しい。  そんな次第で駅の浮浪児達は管理局に保護される事を餓死するよりも忌避し、彼らの数はいっかな減らぬ現状の、またこの駅というのが難民、逃亡者が埋没するには格好の巨大迷宮であるときた。それは浮浪児達にとっても同じ事。むしろ若い故の柔軟な思考で駅の各処に身を隠す隙間、〈襞〉《ひだ》を見出して、駅公安の目を逃れてその日暮らしに精を出しており、よほど悪質な行為に手を染めていない限りは駅の住人達も黙認するに至っている。  トゥアン少年もそうした〈駅の浮浪児〉《ステーション・チルドレン》の一人。湿って、〈侘〉《わ》びしく〈鄙〉《ひな》び、緩慢な衰滅の途にある故郷の街を捨ててこの駅まで流れてきた。といって明確な青雲の志あるわけでもなく、駅でも故郷と似たような日々を送っており、そのままでは早晩けちな裏稼業の大人に囲いこまれて身を持ち崩し、下らぬ悪徳の因果で〈痩〉《や》せ犬のように〈溝泥〉《どぶどろ》の中あたりでくたばった事であろう。  現在トゥアンが、焼きたての白パンのように真っ新綺麗とは言いかねるが、それなりに人めかした日々を送っていられるのは、共に過ごす相棒の、アクの強い〈逞〉《たくま》しさ、しなやかさと触れられているせいによるところが大きい。  トゥアンが何時もなら十日近くに及ぶ事もある野営行を二日ほどで打ち切り、荒野から犬に追い立てられる狐よろしく駅まで急ぎ戻ったのは(それでも更に二日ほどかかった)、丘の影で荒野で出くわした光景がどうにも不穏に胸を蝕んで、無性にその相棒の顔が見たくなったからである。  普段ならお〈銭〉《あし》の費えと避ける駅内路線に乗り込み、土と草の臭い染みこませた浮浪児に向けられる、お綺麗なお客様方の胡散くさげな視線もなんのその、最寄りの駅で降りると往来の人々の波をジグザグはしこく縫いながら、駆け抜ける、前に通りの入口に〈鎮座在〉《ちんざましま》す〈蝸牛明神〉《かぎゅうみょうじん》の社に礼拝する。信心あっての事ではなく、なにかというと諸神諸仏を祀る土地柄の故郷にあった時よりの習性で、後は賽銭も投げず駆ける通りの名は、社と似通い、でんでん通り。  社が先にあったのか、それともそういう構造であったから社が後から勧請されたのか、でんでん通りは駅内路線の駅を中心に螺旋を描いており、トゥアンはぐるぐる、積層建築の中を渦巻く通りをぐるぐる走る。  でんでん通りの渦巻きは、外端まで来ると〈人気〉《ひとけ》が殆ど失せていて、通りを外れると廃屋と化した屋並みが目につくようになってくる。  トゥアンはそこも走り抜け、目指すは通り外れの廃ビルヂングへ。  その廃ビル、元は駅天文局管理による気候観測塔であったのだが、十数年ほど前に廃棄され、以降なぜか解体処分の憂き目も見ずに風雨にゆっくりと老朽化していっている。一説によれば廃棄されるに至ったのは、当時その観測塔に〈霹靂〉《へきれき》が頻発し、昼夜問わず、かつまた晴天悪天の別なく雷が落ち続けるのをさすがに不審と見たある職員が、避雷針の交換ついでに望遠鏡を担いで屋上に上がったまま行方知れずになったという不審事が原因しているらしい。その時一緒に上がり、こちらは難を逃れた職員は、雷雲の中、透ける羅衣だけまとった美しい大女が同僚の服を剥ぎながら絡みつき、高笑いして飛び去った、などと証言したという噂だが、そんな〈戯言〉《たわごと》などもちろん公的な記録には残されていない。  いずれにしてもどういう因縁がつきまとおうとトゥアンと相棒にとっては大事なねぐらで、むしろ二人は雷雨の時など進んで屋上に上がったもの。空飛ぶ半裸の美女を目撃などできたなら、どんなにか仲間内での語り種、尊敬の眼差しを勝ち得る事だろう。  トゥアンが気候観測塔内の鉄階段を駆け昇るうち、雷雲の美女を期待するのと同じ早足に、そして別質の焦りに項がちりついたのは、廃ビルに入った時にある種の予感を抱いていたからかも知れない。  そしてその予感は、二人のねぐら、階段途中の踊り場を占拠して設けた寝床に戻り着いた時現実化した。各種鉄屑、古道具、かっぱらってきた駅の備品諸々で物々しいバリケードを築き、その奥に比較的乾いた襤褸シーツやらを積み重ねて作ったねぐらは、戻ってきたトゥアンの前で無惨な姿を晒してあった。二人の未成熟な体躯でないと〈潜〉《くぐ》り抜けられないよう、わざと狭くしたバリケードの隙間は無理矢理に押し広げられ、寝床の方も散々に掻き乱されしっちゃめっちゃか、意地の悪い〈狢〉《ムジナ》の力士の一座が取り組みの会場に選んだかの有り様。  そんな〈狢〉《ムジナ》と穴を同じくする悪縁はさしもの〈駅の浮浪児〉《ステーション・チルドレン》トゥアンにも覚えなく、それより人為的な悪意というのが透けるくらいの荒らし振りで、少年はしばし痺れたようになって立ち〈竦〉《すく》んだ。 「何がどうなってるんだ、これ……」  何者かに家探しされたと思しきねぐらを眺めるうち、喉をついたのは、乱された敷き布の下に、喉を斬り裂かれ顎の下で三日月に死笑いする相棒の姿を見つけやしないか、という〈埒〉《らち》もない恐れ。  慌てて探ったものの、相棒の死骸は見えず、けれど安堵も一瞬だけ。 (〈瑛〉《エイ》は? まさかあいつ、なんか面倒なことでも食らいこんだんじゃ)  この時点ではトゥアン少年は、ねぐらを見舞った事態が先だっての夜の荒野で目撃した、管理局の一団と航宙艇の残骸とが全く結びついておらず、ただ相棒が事件に巻きこまれたことを恐れたのである。 「瑛? 瑛! エーイぃぃぃ!」  観測塔内の鉄階段を上に下に駆け回り、相方の名前を呼べど叫べど〈応〉《いら》えの無く、胸中の不安に耐えられなくなったトゥアンが相棒を求めて駅の中へ駆け出そうとすると、観測塔を出たばかりで、鉢合わせしそうになったのがその当人なので。 「やかましいやい、怒鳴らなくたって聞こえるさ、トゥアンよう。なんだヨ、今回はずいぶん早いお帰りじゃんか」  トゥアンの青銅色を帯びた肌とは対照的な、垢じみてもなお白く瑞々しい肌。オーバーオールの肩帯から覗く脇の下など奇妙に華奢で、顔立ちはちゃんと澄ませば胸騒ぎ覚えそうなくらい整って、そんじょそこらの〈洟垂〉《はなた》れ小娘など霞みそうに愛くるしい。  ───が、空気の玉を鼻っ柱にぶつけてくるような口さがない物言い、緑の双眸は〈強〉《したた》かなきかん気と〈逞〉《たくま》しさに輝いて、そんな可愛らしげな生き物ではない事を教えている。  これが、〈瑛〉《エイ》。  トゥアンが駅で出会い、その後友誼に結ばれ、共に日々を送る事になった少年の相棒───  ちなみに駅での浮浪児暮らしはこの瑛の方がよっぽど長い。 「オマエ、前なんか十日は行ったっきりだったのに」 「瑛! はぁぁ、よかった、君にゃなんもなかったんだな」 「はん? ボクがなんだって? 心配せにゃならんのはそっちの方だろ。わざわざ外の〈野〉《の》っ〈原〉《ぱら》まで、好きこのんで野宿なんかに出かけて」  トレードマークの、よれた耳覆い付の帽子を生意気にあみだに被り直し、オーバーオールのポケットに親指を引っかけ、ぶつけてくる毒舌は何時もの事。  この荒い物言い、これこそが瑛だとようやく横隔膜が下がり、肩からすっと不安の重みが去っていくトゥアンに、被虐の趣向まではないのだけれど、相棒の言葉の連打にやりこめられる事は、少年にとりけして不愉快ではなく一種胸のすくような感触を何時ももたらす。 「最近じゃ聞かねえけど、ちょっと前までは狼とか野良犬とか、平気で人襲ってたんだぞ」 「そうでなくっても、毒蛇とか毒虫とか毒蛸とかさ、いるだろうが」 「毒蛸ってなんだ。蛸が陸地にいるもんか」  荒野の危険の実際には、実はトゥアンの方がまだ通じているのだけれど、瑛が浮浪児暮らしの間に溜めこんだ風聞というのは時に予想以上の真実を言い当てている事がままあった。  もっとも同じくらいに嘘っぱちも入り乱れているものだから、感心した後で足元をさらわれる事もしょっちゅうの、トゥアンはつい釣り込まれてやり返せば、間髪無く撃ち返されてくる。 「ハっ。オマエ知らないのか? アイツら平気で陸に揚がるし、毒霧吐くのとかいるんだぜ」 「そんなの知ってる奴のほうが珍しいよ。いやそう言うんじゃなく。ああもう、さっきから話が進みゃしない。僕らの寝床、なんであんなになってるんだ?」 「寝床がなんだって? ……おいなんかあったのか?」  観測塔の前での立ち話はいかにも二人にとって日常に根差していたが、トゥアンは瑛が無事だった安堵でうっかり忘れかかっていた異変を思い出し、問うてみたものの。どうにも会話が噛み合わず、とにかく瑛を引っ張って行って荒らされた寝床を示せば。瑛もまた〈愕然〉《がくぜん》と。 「こりゃひでぇ……いや、ボクにも見当はつかねぇな」 「いやな、どうせオマエはまだ帰ってこねえだろうからって、昨夜はボク、『〈ソロモンの桃〉《ピーチ・ソロモン》』の〈富籤〉《くじ》拾いに出かけててさ……」  誰かの落としていった銭、金目のものを拾い集めて歩く事を〈地見働〉《じみばたら》きなどと名づく。瑛の〈富籤〉《くじ》拾いというのもその一種。  〈夜徹〉《よどお》し酒場で週に一回催される〈富籤〉《くじ》の、酔客が外れと早とちりして捨てていった〈籤〉《くじ》を拾い集めるのは、瑛の小銭稼ぎの一つの手である。抽選が明け方になるため、一晩中貼りついている必要があるのが多少難ではあるが。 「あー……そんでここにいなかったんだ。で、〈富籤〉《くじ》の方は?」 「いやあ、昨夜は全然だめだったわ。びた銭三枚拾ったっきりだ。あぁ、眠い」  大仰に〈生欠伸〉《なまあくび》して見せたものの。すぐさま眉を逆立てて、 「……てコトはなにか? 〈富籤〉《くじ》はからっけつ、眠い目々こすって帰ってきてみりゃ、寝床はぐっしゃぐしゃか?」 「チクショウ、なんか腹立ってきたぞ」  瑛はかく尖り立ったものの。  実入りがなかったのはまあ不幸として、それでも昨夜を別の場所で過ごしたお陰で難を逃れたと思えば〈僥倖〉《ぎょうこう》だろう。 「まあ、君になんもなくってほっとしたよ。じゃあこれやっぱ、泥棒とかだろうか」 「〈泥助〉《ドロすけ》はこんなに荒らしゃしないだろ。それにボクらのお宝はまんま残ってら……しっちゃかめっちゃか散らかされてっけど」  浮浪児の二人の事だ、お宝といっても一時代昔のラヂヲだの、使用期限切れの軍の医療キットだの、古い川釣り用のリールだの、浮浪児暮らしを補助してくれるがろくに金にもならないものとそして、エロ本エロ雑誌エロ写真の、こちらは浮浪児らしい悪擦れした性的好奇心のおかず、それくらい。  二人のねぐらを荒らしていった者の目的が〈奈辺〉《なへん》にあれ、少なくとも〈金子〉《きんす》目当てであれば、もうちとましな押しこみ先を選ぶべきで、その理不尽な腹いせにお宝モノも散らかしていったのかも知れぬ。  掻き乱された襤褸布のあちらこちらに撒かれ、あからさまに造られた媚態を見せつけている裸の女のピンアップは、二人で、あるいは一人でこっそり眺める時は、浮浪児達の陰茎切なく〈疼〉《うず》かせたものだけれど、この今は老婆の色褪せた腰巻きを見せつけられたよう。 二人は幻滅さえ覚えて、拾い集める気にもなれず。 「なら、公安のガサ入れとか」 「うーん、どうだろうなあ」  〈駅の浮浪児〉《ステーション・チルドレン》は『駅』からは非正規住民として扱われ、場合によっては「保護」され駅内青少年育成施設送りにされる事は先述した。だとしても、こう陰湿なやり方を取ってくることは珍しい。ガサ入れがあるとしても、浮浪児間の風聞を通じて事前に判る場合が殆どなので、普段なら逃れる事も難しくはない。  二人で首を〈捻〉《ひね》れど結局判らず終いで、ここを片づけてねぐらとして使い続けるか、それとも安全策をとり、こういう際のために用意していた別の隠れ家に移るか、雁首揃えて評定の、結果後者に決まった。  とりあえずめいめい、ポケットに入れられる程度のお大事だけ握って、鉄階段を下ろうとした時である。   『この観測塔へ、不法に居住している子供達というのは、お前達か?』    観測塔の入口へ差した影のある。権柄づくに慣れた、オイコラ式の声に、鉄階段を下ろうとした、二人の〈踵〉《かかと》が廻れ右して寝床へ逆戻り。  息を殺して動きを止めたが、 「隠れないでいい。声が聞こえていたからな、いるのは判っている」  つかつか〈跫音〉《あしおと》も威圧的に入ってきたのが、まさに話していたばかりの公安の制服だった。熟れた肢体の女で、無骨な制服の胸や腰あたりは年増好みには垂涎ものの豊満な〈肉置〉《ししお》きにはちきれんばかりであったけれど、いかんせん物腰物言いが高圧的かつ権高で、残念くらいに潤いというのに欠けている。  鉄階段の隙間から、〈一瞥〉《いちべつ》しただけで相手を見分けて、瑛はなまじのヌードピンアップより美事な肢体であったのに、それはそれは〈厭〉《いや》そうな顔をしたという。 「うわあ……あれ浮浪児狩りの三条じゃないか。でもあの女、こないだどでけえヘマをやらかしてクビになったって聞いてたんだけど」 「お前達に、話がある。緊急の件なんだ。害意は無いから聞いてほしい」  自分達を捜しているらしいのが駅の警邏、治安維持を〈職掌〉《しょくしょう》とする公安官であった上に、不法滞在、違法居住者の摘発にかけてやかましい事で知られる三条朱鷺子だったのだからついてない。  かつては二人も追いかけ回された事がないでもない。  先だっての『移動舞台暴走事件』に際してしでかした不始末の科で、懲戒解雇になったという噂は、二人の耳にそれこそ〈富籤〉《くじ》の当たりを告げる〈鈴〉《りん》の如く景気よく響いて、溜飲を下げさせたものなのに。 「お巡りの事なんてどうでもいいって! 逃げよう瑛! 僕は施設送りなんてまっぴらご免だからな。あんなところに閉じこめられたら気が狂う」  朱鷺子は既に階段に脚を掛けたところ。その脇を強引に走り抜けるという手もあるが、少々危険が大きすぎる。  トゥアンは踊り場の窓に駆け寄り外を見下ろした。幸い地上に配置された要員はない様子。 「ツいてる! 下、他に誰もいない。瑛、こっちから逃げよう!」  駅の浮浪児ならば、危急の際の逃げ道を用意していて然りであり、窓際にはロープを結わえ付けてある。  朱鷺子の頭が階段縁から覗いてくる前に、二人ははしこく伝い降りて、駆け出すが駅の街中へ、なるべく追跡されにくい道筋を選んで。 「アイツ、馬鹿だよな。始めに不法にきょじゅーがどうとかってさ、その後で話を聞いてほしいとか抜かしたって、〈誰〉《だァれ》が本気にするかってーの」 「下に誰もいなくて助かった。けどほんと、あのお巡り、手下も連れないでなにしに来たんだろう」 「そっちはそっちで気になるけど、なぁトゥアン、ボクらのヤサが荒らされたのな、もしか、オマエの方に、心当たりあったりしないか?」 「僕に?」  ジグザグに、〈出鱈目〉《でたらめ》に、人通りの少ない裏路地を駆け抜け、もっと〈人気〉《ひとけ》のある大通りを、もっと混み合って公安には遣りづらい雑踏を目指す、浮浪児暮らしに走り慣れて鍛えられた足腰で、さして息も乱さずのやり取りの中。  問われて少年は、ようやくねぐらが襲撃された一件と、自分が目撃した情景との関連性を考えたけれど、はっきり疑うにはまだ確信が持てない。 「なんかありそうってツラだな、おい。ナニやらかしたんだオマエ」 「いや、やらかしたっていうか、僕だって、あれがなんだったのか、いまいちあやふやで」  トゥアンと瑛が逃亡していくのを窓から眺めていた朱鷺子だが、反射的に腰の銃帯に走らせようとする手を、片手で引き戻すようにどうにか自制する。  ……瑛とトゥアンへの〈誰何〉《すいか》も、日頃の朱鷺子を知る者としては、驚愕の余り鳥肌立ててしまいかねないくらい穏やかなものであったし、銃器使用を自制しようというこれなどは、どこぞの妖物が朱鷺子の皮を巧妙に被って澄まし返したふりで、致命的な〈過〉《あやま》ちを犯した、やはり妖物づれ、肝腎なところが抜けていると護摩を焼いた灰でも頭からぶっかけかねない異常事であったりしたのだ。 「さすがは〈駅の浮浪児〉《ステーション・チルドレン》、いやどうにもはしっこい」 「とはいえ、だ。何故他人の話に、耳を傾けようともしない! 自分達がどんな状況にあるのか、判らないのかこのザマで」  一旦は二人の思い切りの良さを嘆賞してはみせたが、すぐに紅を引いた唇を引ん歪めて窓の〈手摺〉《てす》りに拳を叩きつけたのは、どちらかというと逃走された口惜しさと言うよりも。  朱鷺子は二人のねぐらが荒らされていた事を、本人達以上に憂慮しているようだった。                      ───二───  浮浪児二人は、渦を巻くでんでん通り、今度は巻き貝の奥に〈潜〉《もぐ》りこむように、通りの端の駅内路線の最寄り駅まで駆ける、ぐるぐると。  して、駅前の人並みに身を紛れこませてから、ロータリーの外周に軒を連ねる屋並みのうち、隣り合った、水煙管やパイプに手巻き煙草の葉と香料を扱う、薬種問屋のようにも見える煙草屋と、挨拶状縁切り状恋文その他日々の〈種々〉《くさぐさ》の文、訴訟書陳情書各種公文書なんでも引き受けますの代書屋の隙間の暗い階段を駆け上がる、ちょっと土手の〈窖〉《あなぐら》に〈潜〉《もぐ》る〈沼狸〉《ヌートリア》めいたすばしこさ。  細階段は煙草屋二階の倉庫兼住居の扉を横手に行き止まった。二人は煙り草の小売りと縁故があり、逃亡先をここと定めたかとも覚ゆる。  差し詰め二人は小生意気にも手品心得てい、煙草の煙りに乗って公安の追跡から〈逃散〉《どろん》を決めこむつもりか、そうまでいかずとも、臭きも香しきも混在する煙草葉の箱の合間でしばし雌伏を決めこむつもりか。  ところが〈賽〉《さい》は盤上に目を出すより先に、台の下に転がり落ちて鼠の穴に落ちこむこともある。その鼠の穴の向こうに別天地が広がっていたというのも、民話伝説の類には往々にしてある事。  この時瑛が振り出したのも、煙草の煙隠れにはい左様ならの丁の目でも、倉庫の〈函〉《ハコ》の積み重ねを九度山に見立て隠棲の半の目でもなかった。  瑛は細階段の突き当たり、火伏せの呪符が斜めに貼りつけられた下あたりに肩を押し当てるや、うんと息んだ〈強力伝〉《ごうりきでん》、力みすぎて臀を破って〈腸〉《はらわた》を出すまでもなく、からりと外れてベニヤの羽目板は軽かった。  行き止まり、と見せかけなお〈奥処〉《おくが》を〈仄〉《ほの》めかす隙間よ暗がりよ。  隠し道、謎めいた道、に特別の反応示す回路を組み込まれて産まれた者なら、それを長いこと胸の奥深くに錆びつかせていたとしても、あるいはたとえ摩滅と〈諦念〉《ていねん》の年代に至っていたとしても。  瑛がこじ開けた抜け道に、心の弾性はたちまちに戻ってこよう。  始めは瑛が、続いてトゥアンが、身を〈捻〉《ねじ》り込ませる兎の巣穴〈潜〉《もぐ》り、細階段は行き止まりかに見えて更に続いてより狭苦しく、二人はまだ育ちきっていないから良いものの、大人であれば身を横にせねば進めないくらい。閉所恐怖症の気がある仁には気管に真綿を詰められるような時間ともなろうが、トゥアンが味わっていた胸苦しさはときめきめいた昂奮に由来して、瑛の方はといえば確信的な足取りの強さで先に進んで、二人を圧迫する建物の両壁の隙間の果てに、やがて。建物の狭間特有の鼻を塞ぐ埃臭さが、ふっと失せにけり。視界も開け……いや開けていないのか。  隙間のその先に広がっていた空間は。  相当な広さを誇ると見えるにもかかわらず、そこかしこに駅内の多重積層建築群に増した密度でひしめき合う店舗や家屋、その隙間を利して延びる通路通廊、高低差も〈夥〉《おびただ》しくあちらこちらに段差だらけ。ここに入りこんだ者は、屋内なのか屋外なのか、暫時判別に苦しむことだろう。  なにしろ頭上にはそこらここらから軒先や〈庇〉《ひさし》が張り出してきて、それのみならずこの空間の宙空には、いささかサイズが小さすぎるが〈単軌鉄道〉《モノレール》の線路と思しき鉄組が横切ったりアーケードに覆われたりして空がまともに見えない。  景観自体も異様で、時代、様式もばらばらの屋並みが〈細細〉《こまごま》と、モザイクというにもおこがましいほどの〈出鱈目〉《でたらめ》さ加減でひしめき合って、まるで大地上の各地各時代から無作為に抽出した切片を〈嵌〉《は》めこんでいったような。  総体として、広大であるのに構造物が詰めこまれすぎて、無理矢理に街を縮めてみせたような空間と言えて、加え、妙なくらいの生活感というか人肌の気配というのかが立ち籠めている。そこかしこにゴミの山や屑ッ切れが散らばり、なのに不潔さよりも、空間全体を人懐っこさ、砕けた〈貌〉《かお》で見せている。まるで顔馴染みの家の、或いは産まれた時から住んでいる通りの、住人以外は入っていかない裏手の景色のような。  裏手、そう裏側。この〈豪〉《えら》く立て混んだ屋並みは、駅の表通りが発展、繁栄していくに連れて、裏側に追いやられて表からは目隠しにされた一画、裏通りなのだろう……という推量はある側面においては正しい。浮浪児二人も駅前表から入りこんで至っている。実際瑛が語るところによると、ここは───    駅の『裏側』、『裏ッ側』、なのだという。    駅の多重積層建築群、建物と建築物の隙間や谷間を利用して秘かに設けられた、駅のもう一つの世界であるそうな。表通りからは見えないだけで、駅の各地各処の裏側にはこのような空間が広がっているのだそうな。  もちろんその説明だけでは容認しきれない点が幾つかあって、たとえば螺旋状の通りと、その渦巻きの間に屋並みを配して成り立つでんでん通りでは、 「どう考えてもこれだけの広がりを有する空間など隠しておける余裕などない」  という事。  その上───この『裏ッ側』でも、その〈稠密〉《ちゅうみつ》な屋並みのあちこちに人がそれぞれの暮らしを営んでいるようで、それはまだいい、物陰や建物の奥に時折見え隠れする、どう見ても人間とは思えない、妖怪とも小鬼の群れともつかないあれは、なんなのだろう……。  何時かの日、瑛がトゥアンに語り聴かせたところを繰り返せば。  ───『裏ッ側』には住む者の中に人外のモノが入り交じり───  ───駅の伝説に語られるような妖怪達は、大概が裏側に住み着いているのだとか───  妖怪、人外といきなり述べられては〈俄〉《にわ》かには信じがたいかも知れないが、実際トゥアンはこの『裏ッ側』で明らかに人ならざるモノと遭遇し、彼らの〈暢気〉《のんき》な暮らし様を垣間見した事も一度ではない。  駅の積層建築群の向こう側の、視線が通らない陰にこのような世界が広がっていると知る者は、駅に長年住まう者でも少なく、それでも瑛は〈嘯〉《うそぶ》くのだ。  たとえば硬貨一枚にしたって『表』と『裏』があらぁね、と───  この空間は、いわゆる駅の『裏側』という概念を、具象化させたものなのかも知れない。  駅に住まう者でもその大半が知らないような『裏っ側』とその事情に、瑛が何故通じているのか。時に梟のように賢明に、時には狐のように狡猾に、目端を利かせておかないとたちどころに飢えるか大人達の思惑で捕らえられる浮浪児としては、どれだけあっても困らない知識だとしても、瑛はその年頃トゥアンと同じくらいだというのに、色々と世慣れていて、駅に関しての造詣も深い。トゥアンにとり相棒ながら得体の知れない部分があるが、この年代の少年にとって相手の謎めいた部分というのは、畏敬、崇拝の対象ともなりがちで、彼は瑛に一目も二目も置いている───もっともそれは、トゥアンがこの駅に辿り着いたその日に複合モールの内部で遭難しかけ、それを救われた、という経緯にも〈拠〉《よ》っているのだが。  この抜け道に入りこんだのだって瑛の手引きで、後にしてきた気候観測塔とは別の隠れ家というのが『裏ッ側』にある故に。  遣り手の〈博徒〉《ばくと》が〈袖〉《そで》の〈裡〉《うち》に秘めた切り札替わりに、あちこちに隠れ家を配し、駅の抜け道を駆ける〈一端〉《いっぱし》のはみ出し者、瑛と一緒にいれば、そんなものになれた気がして、それもあってトゥアンは、相棒に心服していた。  細階段はそのまま煙草商の裏手を犬走りに廻り、二人は裏ッ側の通りの上高くに張り出した足場まで辿り着いて、ようやくの一息をつく。瑛はオーバーオールの胸元を〈摘〉《つま》んで扇ぎ風を通し、トゥアンはバンダナを巻き直し、鼻梁に白い傷痕を〈拭〉《ぬぐ》う。汗が乾くのも待たず、足場の片隅に切られた、落とし蓋を外して〈潜〉《もぐ》り降りると、下は猫の額のようにちんまりとした整備工房で、工具や機械部品の散らばる中に、〈跨座〉《こざ》式の〈単軌鉄道〉《モノレール》が控えていて、まるで二人を待ち受けていたかのように。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  裏ッ側の、不揃いな寄せ木細工のような眺めを眼下に、〈単軌鉄道〉《モノレール》は〈長閑〉《のどか》にごとごと身を震わせながら、屋並みの上を〈滑〉《すべ》り、建物の峪間を縫い、通り過ぎゆき、ちょっと遊覧行めく。  〈跨座〉《こざ》式の〈単軌鉄道〉《モノレール》といえば大層な代物だが、実態は一人が乗れば満杯の牽引車に、二台ばかりの台車を繋いだ、電車ごっこに毛が生えたような体裁であったが、トゥアンには大いに〈感興〉《かんこう》覚えさせた。  本物のように動く、出来の佳い玩具というのは何時だって少年達の心を快味でくすぐるものだし、ましてこちらはなりは小さいながらも本物、この小型〈単軌鉄道〉《モノレール》、発車の前にちゃんと軽油を注いで、発動機も〈バネ紐式〉《リコイルスターター》式で初動にロープを引っ張って、という正式の手続きを踏む必要がある。そうやって動かすのにがちゃがちゃ手順を踏むのは、面倒であると同時に、男の子にとっては世界の歯車を正しく運行させているにも等しい喜びを与えるもの。 「面白いな、この〈単軌鉄道〉《モノレール》。なんか遊園地の乗物みたいだ……ちょっと僕にも運転させちゃくれないか」  また瑛が小型〈単軌鉄道〉《モノレール》をいかにもやすやすと操作していて、トゥアンは後ろから羨望に覗きこみ、大人しくしていられず頼みこめば案外あっさりと。 「別にいいけど、動かし方とかわかんのか?」 「今瑛が運転してたのを見て、大体覚えた」 「それでか、さっきから、なんかやけにボクの背中に張っついて、手元じろじろ見てたのは」 「首筋が鼻息ですぅすぅして、やべぇ、トゥアンがいよいよホモに走った、そのうちボクは掘られんじゃねえかって、びくびくものだったぜ?」 「だからやめろよ、そういうのはさ……僕を変に意識させてどうするつもりだ。ああまずい、君ゃ元々色白だし、細っこいし、男ってよりもその……」  実際、瑛の骨格は華奢で、背後から覗いていたときも、項のあたりからオーバーオールの胸元までの線などは、つい内側を目を忍びこませてしまいそうになるくらい柔らかで瑞々しく、見慣れたつもりではあっても、不意打ちのようにどきりとさせられたの事実。  だからトゥアンとしては、やり返し、笑い飛ばしてやるつもりだったのに、瑛の方が〈逆捩〉《さかね》じになった。 「トゥアンこそ、まぁた人を女扱いしやがったな? もう何度もボクのちんこは見たろ、 なんだったら今ここでも見せてやろうか?」 「瑛、前、前!」  運転台に腰を浮かせ、背を〈捻〉《ひね》って躊躇なくオーバーオールのジッパーに手を掛ける瑛の背後に、迫るガードと『新世界触手紀行』とかなんとか言う意味不明の看板の、トゥアンは慌てて前へと注意を差し向ける。  瑛も背中を撃たれる前に気づいて運転台に収まり直せば、頭上を〈滑〉《すべ》っていくのは車輌の台車の下部構造、どうやらガードと見えたのは建物の間に通路替わりに架け渡された廃車輌だったらしい。 「人のことホモって言っておいて、なんで瑛の方が怒り出すんだかな……で運転、やらせてくれるんじゃないの」 「あ。ああ、ちょっと待ってろよ、もうちょっと行ったとこでいったん停めてちんちん焼き買うから、そん時に交替してやっから」  すぐに鎮まって、さっきまでの怒気はどこへやら、交替を約束するのが気前よく、この感情の移り変わりの激しさは、良きにつけ悪しきにつけ瑛の特徴なのである。 「またそうやってちんちん言う。君はちんこネタ好きすぎだろ」 「違うっつーの! そういう屋台なんだよ、昔っからそういう名前なの!」  股間にぶら下がるモノを話のネタにするというのは、少年時代誰しも通過する道で、瑛にも図星であったのか、またすぐムキになり、トゥアンの方も判っていて仕掛けている節があり、〈縺〉《もつ》れ合い転がり合う仔犬と大差ないのだった。  やがて〈単軌鉄道〉《モノレール》は、〈廂〉《ひさし》を接し合う、メイド派遣業『家政のプリンセス』と成年漫画専門『まんげだらけ』の狭苦しい合間を〈潜〉《くぐ》り抜けて、軌道のすぐ際へ、壁から露縁を直接張り出させた売り台の前で一時停車。  この売り台も軌道と同じく通りの頭上高くに位置して、乗降用の梯子も無く、この小型〈単軌鉄道〉《モノレール》専門の屋台としか見えない、相当尖った商店展開をしていて、〈裡〉《うち》でしきりに金型を引っ繰り返していたのは、揃いの詰め襟、ズボンの制服に帽子の、駅の平駅員の一人なる。  この平駅員達、文字通り駅に数えきれないほどあって、誰も彼も細身で似通った背丈。〈貌立〉《かおだ》ちも前髪が双眸に被さっている上に皆似通っている中性的な〈風貌〉《ふうぼう》、故に個々人の識別と性の判別がどうにもつけがたい。  どういう仕組みになっているのか定かならねど、みんな同じ〈貌〉《かお》、声、姿で駅のあちらこちら何処にでもいて、様々な雑務をこなしているのだが、こんな『裏ッ側』で出会ったのは初めてで、トゥアンは少しばかり呆気に取られた。 「えーちんちん焼きー。ちんちんあるよー」 「ちんちんじゃないけどちんちん焼きだよ熱々でほっかほかのちんちんだよ。いやちんちんと違うけど」  その平駅員が何度も連呼しているのがつい先刻瑛が放り出そうとしていたのと同じものに聞こえてならず、トゥアンが怪訝に手元を眺めれば、年季入って油照りした金型の蓋が開けられ、焼き目を付けられていたのはふっくらとして円い生地、ふわりと甘い香りが優しく立った。  卵やら小麦やらを〈捏〉《こ》ねて丸め、焼いた粉モノなトゥアンにも覚えがある。 「なんだ、ベビーカステラのことか」 「ちんちん焼きって言うんだよ。程良い甘さのちんちんいかが。と言ってもちんちんとは違うンだってば」 「ちんちんじゃないって言ってるじゃないか、なのになんでみんなちんちんちんちんって。ヒドイや、うああああんっ!」  呼び売りしながらせっせと金型に粉を流しこむ平駅員は、売り物の名を連呼しつつも否定を繰り返し、執拗に過ぎて、彼だか彼女だかの精神の、末期的な崩壊を予感させるほどなのに、それがこの裏ッ側の建物の〈煤〉《すす》けた峪間の風情と奇妙に調和して妙味を呼んでいた。  その景色の面白さに合わせたつもりか、瑛もわざとらしく語尾を変に引っ張って、 「ちんちん二つくれええええ」 「あ、毎度どーも。はい、ちんちん二人前。二人のちんちんってコトじゃないからね。あい、お釣りさんじゅうまんえん」  定番のやり取りを交わして暖かな粉菓子を受け取りながら、ついでに瑛は相棒と約束通り運転台を代わる。 「右がブレーキ、左がアクセルな。足元のギアはバックの切り替え。まー元々は資材運び用のを流用してるから、そんな難しかぁねえよ」 「うん、大丈夫そうだ。なあ、今の屋台の兄ちゃんだか姉ちゃんだかは、あれ駅員だよな。なんで屋台とかやってんだろ」 「さあな。暇だとか小遣い稼ぎとかそんなとこだろ」 「なんかその割りには、気が変になりかかってたかんじだけど。色々大変そうだ、あの屋台」  小麦や卵の怨霊共が、〈捏〉《こ》ねられ焼かれ売られた怨みに、夜毎あの平駅員の枕元に出来し、全身に特に股間を狙ってわらわら〈集〉《たか》り群がるとかいう珍妙な内情でもあるのか、一瞬だけ振り返ったが売り台は建物の陰になってもう見えない。  まあどんな仔細があろうが無かろうが、焼きたての粉菓子の美味は本物で、トゥアンも脚の間にねじこんだ袋から盛んにパクつくうち、 「でちんちん焼きはうまいけど、それよりも。話の続きだトゥアン。なんか心当たりあるかんじだったなオマエ」 「……あると言えばあるし、それくらいしか思いつかない。三日前の夜、まだ野っ原に出てた時のことだ」  別に隠そうとしていたわけでもなく、公安からの逃避行の間に語る隙がなかっただけのこと、トゥアンは操縦桿を握る掌や運転台の底から臀に伝わる駆動機の震動に心地好く身を任せつ、言い出せば瑛に水を差された。 「オマエさあ、その、三月にいっぺんくらい野ッ原に野宿に行って、胡散くせえ葉っぱとか木の実とか採りに行くの、やめらンないわけ?」 「採ってるのは、熱冷ましとか腹薬とか、そういう薬草ばっかだって、ほんとに」  トゥアンにとって、薬効ある本草の類は親しい友である。たとえば、幾らかの多幸感と共に、知覚力を鈍麻させる茸だとか、幾らかの温熱感と共に覚醒作用をもたらしてくれる乾果だとか、他にも様々、みな故郷での食うや食わずの暮らし振りの中で、切ない空腹を紛らわせてくれたり、眠ったら最後そのまま凍死しかねない夜を乗り切らせてくれたり、トゥアンを様々に助けてくれた自然の友達だ。  故郷の街中だけでは食糧を賄いきれなくなって、街を囲む山林原野にも命を繋ぐ糧を求めることを余儀なくされるうち、副産物としてトゥアンが身に着けるに至ったそれら本草への嗜好は、どうにも瑛のお気に召すところではない様子。中には傷病によく効き目を現す草々も有り、それらに関しては瑛も歓迎したものだけれど、麻薬を思わせる系列のモノには拒絶反応を示した。  故郷では馴染みの茸だの葉っぱだのを嗜んでいる現場を瑛に発見されると、容赦なく頭をド突かれ止められるので、トゥアンは仕方なくそれらの服用はこっそり相棒の目の届かないところで留めている。 「あとその、どこか遠いところへ行きたくて〈堪〉《たま》らなくなるって癖も難儀っちゃ難儀だ」  それは言わば、正確には未知なるモノ、遠い景色に己が目で触れたいという憧憬に根差した衝動だ。  その憧憬に引きずられるようにして、トゥアンはこの駅にやってきたのだし、『移動舞台暴走事件』の一件で、紺地の夕空に金泥を散らした流星雨の中、彼方へ、何処までも果てなく飛翔していった航宙艇を眺めて以来、より強く〈顕在化〉《けんざいか》したと言っていい。  トゥアンはそれが為に荒野に出る、荒野の中で航宙艇の飛翔していった先を、〈遙々〉《はるばる》と想う───ま、野営行の間に鞄の中に溜まっていく、駅中では出くわすことのない強い茸だの苔だの草の汁だのといった副次的収穫物があるのは否定しないがそこはそれ、敢えて口に出すこともない。 「とにかく、見たんだ、そこで。何もない荒野のど真ん中で……ほら、あの時、空に向かって飛んでった……たくさんの流れ星の中を」 「……それ『航宙艇』のことか?」  トゥアンにとって、『航宙艇』なる概念は、実物を目撃してようやくに認識したもので、言葉も覚えたて、舌にまだ馴染んでおらず、為に〈抑揚〉《シラブル》もまだどこか怪しい。瑛もまた、特別なもののように発声するのは自分と同じ理由だろうと、この時はそう勝手に推量したのだけれど。 「そう、それ。その『航宙艇』の、壊れた奴? を運びこんで、撮影とかしてた、駅の連中。真夜中に」 『二人だけのサアカス団』の座長を自称するインチキ少年と、ただ一人の見世物である三眼の女が駅を騒がせるだけ騒がせて、最後に飛翔し去った一件は、駅全土で随分取り沙汰されたもの。  人々にそれは大きな驚愕を与えたし、現在の大地上では殆どの人が忘れ去った、蒼穹の果てに広がっている世界への関心を取り戻させるきっかけになった、かに見えた。  けれども───  飛翔していった航宙艇に関する風評の殆どが、何時しか、あれは最後に墜落して無残な最期を遂げたという事で落着していた。  確かに、高空を孤翔する〈雨燕〉《アマツバメ》は余りに速く視界から消え去り、地で這いずる〈蚯蚓〉《ミミズ》の方が目で追うには遙かにたやすい。人々にとっては空の彼方は余りに遠く、まだ航宙艇は地に墜ちていた方がその末路として想像しやすいのだろう。そして一度落ちてしまえば航宙艇も〈熟柿〉《うれがき》も大差ない。  人々の関心も結局は薄れようとしていたのである。  だがトゥアンは、そんな噂など容認できなかった。あのような推進力を秘めた飛行体が無様に墜落して終わったなど、純粋で崇高なる原理への冒涜に思えたし、なによりトゥアンも瑛も、航宙艇を駆っていたインチキ少年と三眼の女とは〈縁〉《えにし》があった。彼らが遠く飛び去ったのはまだ良し、何処にも行くこと叶わずに、地表で砕け散っていたなど空しすぎる、と。  大体噂を肯定しようにも、あの夜見た場景は〈反駁〉《はんばく》の材料しか与えないではないか。 「でもそれって変だよな。もしほんとに墜落してたなら、なんで今頃になってそれを撮ったりするんだ? しかもわざわざどっかから運んできて」 「本当に墜ちてたなら、その場所で撮影すれぁいいのに……」  駅管理局が駅の者達に流すお題目は、いかにもお役所的な綺麗事ばかりで実態が大きく異なる事など多々あると、浮浪児の二人は実体験からも心得てある。  トゥアンが真夜中の荒野に行き当たったという一幕にも、体制側がなにやら目論む気配を肌で感じ取ってあった。  瑛は喉を宙に突き立て、袋を逆さに粉菓子の、細かな欠片まで最後まで口中に振りこんでから、げぇえふという〈不遜〉《ふそん》なまでに露骨なおくびを鳴らしたけれど、その翠の瞳は考えこむ風の深い色合いを湛えて、この浮浪児なりに相棒のもたらした報せに思うところがあったのだろうか。 「念のため確かめておくけどな、オマエ、そん時例の葉っぱだかキノコだか、やってなかったよな?」 「素面だったってば。それにそこら辺には、最近じゃ全然手ぇつけてないだろ、瑛だってやめろって言ってるし」 「はん、どーだか」  相棒がもたらした報せの真偽自体に疑いはないのだが、トゥアンの『最近では手を着けていない』は天から真に受けていない瑛の、大体先だっての深夜だって、廃観測塔の屋上の水場に身体を流しに行くと上がっていったきりなかなか降りてこないものだから、これはさてはこっそり自慰にでも耽っているのに違いない、わくわくしながら盗み見に窺ってみれば。トゥアンは月明かりの下、恍惚とした目でぶっ倒れており、しかも口から真っ青な汁を垂れ流しながら。どうやら唾液と反応して変色させる、覚醒作用のある実をうっかり多くやりすぎたと思しく。  まあ、本草の服用のことはさておくにしても、二人のねぐらが襲撃される原因としては、今のところトゥアンが目撃した情景の他には考えづらい。 「こっそり覗いたから、向こうにはばれてないと思うんだよ。大体僕らみたいの、駅にごまんといるだろ、そん中から、僕だけ見っけ出すなんてこと、できるのか?」 「あいつら、少しだけど術とか使える奴がいるからな。探知法とか使われると、一発でばれるかも知れない」 「こりゃあ前のヤサが襲われたのは、やっぱそういうことなんかなぁ……」  と語り合ううちにも小型〈単軌鉄道〉《モノレール》の軌道は終点、裏ッ側の三階建てのビルヂングの屋上に。屋上には緑の草々が濃く、無闇矢鱈と繁茂していて、大草原を切り取ってきて無理矢理坪庭と〈嵌〉《は》めこんだありさま。ど真ん中に天然湧水なのか水道なのか、〈滾々〉《こんこん》と湧きだす泉があって、一畳ばかりの釣り堀小屋が差し掛けてあり、小型〈単軌鉄道〉《モノレール》は小屋裏に横付け。  泉からの小流れが屋上の縁から、〈遮〉《さえぎ》るものなくしゃあしゃあ地上に流れ落ちていっているのは、老婆心にも似た危惧を感じさせる。泉を覗けばうじゃうじゃと小型の山椒魚が泳いでおり、トゥアンはいたく興味を惹かれたが、相棒は小型〈単軌鉄道〉《モノレール》を乗り捨てにして、さっさと先を急ぐ風であったので名残惜しくも慌てて後を追いかけた。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  三階建てのビルヂングを降り、裏ッ側の奥に分け入って、やがて二人の前に見えてきたのが、複合建築が為したコの字の中央の、煉瓦造りの建物。横手に廻って瑛が煉瓦を器用に抜いていくと、二人が〈潜〉《くぐ》れるだけの横穴が空いて、入った中は無人で、明かり採りからの斜光に催眠的な沈黙が降りていた。  無人で、元は古い印刷工場だったらしく、いまだ活字の金属的な匂いが残っていて、中二階に続く階段に脚を掛けると、逃亡中という危機感を脇に押しのけて、トゥアンの喉にはひたひたと曰く言い難く魅惑的な感激が押し寄せる。  自分達の、自分達だけの秘密の場所に踏みこんでいく時の感慨には誰しも覚えがあろう。廃工場の中二階には、観測塔ほど自分達の体臭が染みついたものは無かったけれど、それでも廃品の革張り椅子や網やら蜜柑の木箱やらを独創的に組み合わせ、老練な水夫達の秘密集会場めいた、船底のような隠れ家を築いてある。 「なんかこっちの方が、前のとこより好きなんだよな。僕ら、もういっそ裏ッ側に移っちまわないか?」  今日は革張り椅子にふんぞり返ろうか、それとも〈吊り網〉《ハンモック》に揺られようか、もちろん最初の選択権は瑛だ、ただし木箱のおが屑の中に隠したグラッパの最初の一口はもらう、そっちを手に入れたのは自分なのだから、という腹算用さえ心地好い。  トゥアンは果て無き景色に憧れる一方、この裏ッ側の、知る人ぞ知るという風情もこよなく愛していた。この裏ッ側には、何度来ても、秘密の、隠された場所を覗いている、踏みこんでいるという感覚が薄れない。  そういう街並みの中でもこの奥まった隠れ家で寝起きし暮らすのはどれだけ素晴らしいかと、提案はこれが初めてではなかったのだが。 「何度も言ってるじゃねーか。こっちゃあくまで『裏ッ側』なんだよ。たまに覗くくらいでちょうどいいんだ」  瑛はその都度やんわりトゥアンの望みを抑えた。惜しむ気持ちはあったが、相棒の言にも一理あるように思えたし、なによりトゥアンにこの裏ッ側を教え案内したのは瑛なのである。浮浪児達の仁義として、縄張りの優先権というのがあった。  いずれにしても、〈暫〉《しばら》くはここで暮らすことになろう、今日はその祝いとして、例のグラッパに加え、これもお宝の牛缶と塩茹での茸の瓶詰めを開けてはどうかの提案には、瑛もしたりの笑顔で同意した。  二人とも、裏ッ側では公安の姿を見かけたことなどなかった故に、逃げ切ったとまず祝杯を挙げたい気分になっていたのである。  中二階に上がって、障壁と積み上げていた木箱の下方に、そこだけするりと抜けるように細工しておいた二箱を抜いて屈み〈潜〉《くぐ》った、二人が身を起こす前に視界に飛びこんできたのは、〈滑〉《なめ》らかな黒の二本の柱。  ストッキングを履いた女の脚なのだと認めるより先に声が降った。 「待っていた。よもやこんなところに潜伏場所を持っていようとはな。……あまり手間をかけさせないでくれ」  二人の反応は、〈激甚〉《げきじん》かつ的確だった。  〈潜〉《くぐ》り穴の中で悪戯に〈喚〉《わめ》いたり暴れたりする愚を犯さず、手を床に突っ張るや後ろに〈滑〉《すべ》り跳んだ、動作の中で二人分の身体の幅は共に暮らす間に〈無意識裡〉《むいしきり》に織り込まれてあり、二人は圧延機から押し出された鋼板よろしく平らに勢いよく逆戻りだ。  後は折角の隠れ家に未練も見せず、階段を三段跳びに駆け下りる、廃工場の抜け穴から飛び出す、その手際、潔さに公安官朱鷺子は、一瞬野生の獣の躍動美を思ったほど。 「あ───」  浮浪児暮らしの中に磨かれた、警戒対象への反応の早さというのは野良猫はだしと、我に帰って慌てて〈潜〉《くぐ》り穴、浮浪児よりもずっと不手際に這い出て見れば、浮浪児二人は工場から走り去った後。 「だからどうして! 私の顔を見るなり逃げるのか。失礼だ、いい加減にしろお前達」  不法滞在者共に恐れられ嫌われているのは自覚しているし、〈職掌柄〉《しょくしょうがら》むしろそうでなければと、強面を貫くようにしている。  ただそれも状況次第という事も心得ていて、朱鷺子としてはあれで穏やかに抑えて呼びかけたつもりなのである。仔猫を撫でてやるようにしたつもりなのである。が、浮浪児二人の耳には、突きつけられぎらつく〈眸子〉《きっさき》の向こうからの様に響いたのは言うまでもあるまい。  朱鷺子に遅れて木箱の穴から這い出してきたのは平駅員で、埃を払いながら、浮浪児達が逃げ出していった工場の抜け穴には嘆賞の溜め息を、そして朱鷺子には微苦笑を向けて、 「きっとその制服のせいですって朱鷺子さん。私服着て、髪を降ろしてくれば少しは怖さも和らぐのに」 「お前が私をどう見ているのか、大体わかった。ぼさっとしてないで追いかけなさい! そうしないと、非常にまずいことに……」 「まずい事って?」 「私の火力偏愛主義が、抑えられなくなりそう」  氷に漬けこんだ温度計の目盛りよろしく、顔色が上から下に青ざめていった平駅員に、向けた朱鷺子の〈貌〉《かお》はまだ冷静を保っていたけれど。  その台詞の意味するところに、平駅員の方が我を失った。  この三条朱鷺子、三級監理官(以前は二級区分であったが降格されている)、四角四面を通り越して〈嗜虐的〉《しぎゃくてき》な規則遵法者で権威主義者であったのだが、『移動舞台暴走事件』にて公安が〈蒙〉《こうむ》った大損失の〈咎〉《とが》を全て被せられ、処刑を待つ身と成り果てた、だけならまだしもの。公安の暗部に巣くう物凄まじく常軌を逸した科学者に人権全てを剥奪された上で引き渡され、科学技術と呪術の発展のためという金科玉条の下、常人なら聞いただけでも嘔吐しかねない人体実験の素材とされる事が半ば決定していた。  なまじ奉職意識が高かっただけに〈従容〉《しょうよう》として運命に従うつもりであった朱鷺子を救ったのは、管理局のある隠然たる派閥の超法規的な横槍で、〈爾来〉《じらい》朱鷺子は規則、遵法に関しては多少の柔軟さを身に着けるには至ったものの。  彼女のもう一つの〈宿痾〉《しゅくあ》たる火器火力への偏愛と狂信だけはいっかな〈矯正〉《きょうせい》される事が無く。  この朱鷺子、好きなのである。理由もなく。兵器の姿形、匂い手触り重量感、その黒鉄の冷たさ、殺傷力、硝煙の匂いなにもかもが。  手の内に発砲の反動を受けただけでも子宮が〈疼〉《うず》いて排卵しそうになり、もし戦闘で制圧されて銃器を奪われ虜囚となるくらいだったら、躊躇いなく膣孔に筒先を自ら挿入して、最後にして最大の絶頂のために迷わず自害の引き金引きかねない、それくらいに火器火力に関しては狂人となるのである。  そういう朱鷺子が、発砲銃撃への衝動を下手に溜めこんで暴走したらどうなるか。前の事件があっても彼女に影と付き従い続けるこの平駅員は平駅員で、平駅員としては相当に変物で、もしかしたら一種の精神的破綻者でさえあるかも知れないのだが、彼でさえ朱鷺子の暴走の恐ろしさにはついていかれず、膀胱を恐怖の余り緊縮させながら、浮浪児達が逃亡し去った壁の抜け穴へと全力疾走していった。もしかしたら、二滴三滴くらいは、下着の中に零していたかも知れない。 「ウワ、ウワアアアアっ、待て、君達止まって、さもないとホントに大変なことになっちゃうううっ」  平駅員達というのは、駅の運営側の中では下っ端で、上意下達の式には基本的に従う者達ではあるが、その性は専ら穏和で平和を愛する連中が殆どで、暴虐無惨な仕事にはいい顔をしない。その手の任務に無理矢理駆り出しても士気が大幅に下がって、日向に引きずり出された〈笄蛭〉《コウガイビル》のように〈萎〉《しお》れてしまう。  そういう平駅員がああだこうだ垂れながらも朱鷺子に付き従っているのは、この度の彼女の任務というのが平駅員的小市民的良心の許容するところであるのか、さもなくば肉体関係があって情の観点からも離れがたくあるか、いずれかといえば両方である。  朱鷺子は一度重火器に対する偏愛が暴走し、かつそれが不発に終わるとなるとその〈欲求不満〉《フラストレーション》からか、このお付きの平駅員君がもう勘弁して下さい死にます死んじゃうもうらめひぎいいと〈呂律〉《ろれつ》が回らなくなるまで激烈苛酷なセックスで〈搾精〉《さくせい》してくるので、浮浪児二人を何時までも取り逃していては自分の精神と生命にも関わる危機と、今から半泣きで追跡にかかった。それら裏事情があるとはいえ、この平駅員が朱鷺子の任務を容認していると言うことは、少なくとも害意あって接触しようとしているのではないと知れる。  それでは、瑛とトゥアンのねぐらを荒らしたものとは? そして朱鷺子は、如何なる指令の下に浮浪児達と接触しようとしているのか?                      ───三───  瑛とトゥアンが、朱鷺子から二度目の逃亡を図った同じ日の、時間帯は夜。  駅の一画に、最先端の科学技術の申し子たる機械化自律式の列車の一個連隊が駐屯し(もっとも大陸のド辺境であるこの駅にはそんな高度な車輌などほとんど存在していないのだが)、対して過去の時代の鬼子である、〈付喪神〉《つくもがみ》と化した廃棄列車が大行列を為し(もっともさしもの駅でも、そういう妖怪連中はほとんど裏ッ側に引っこんでいるのだが)、両軍が〈鎧袖一触〉《がいしゅういっしょく》に大合戦の幕を切って落として正面衝突ができそうなほどにも、広大な規模を誇る操車場がある。  とはいえ実際問題として大操車場が列車で満杯になる事などないと断言してよく、〈転げ蓬〉《タンブルウィード》がどの車体にも〈遮〉《さえぎ》られることなく、端から端までのんびり転がっていった、という風景も見受けられるとかなんだとか。駅の他では〈偏執的〉《モノマニアック》なまでに建物に建物を連ね重ねて空間を埋め尽くしている事を思えば、必要なのかも知れないが贅沢で野放図な空白を置いたものだが、密集する建物を眺め続けて眼精疲労に陥った目を休ませる為には、或いは有用なのかも知れない。  そんな風な大操車場の片隅を、定宿としている単行車輌がある。一見すれば、〈長閑〉《のどか》ながら殺風景な大操車場の一角で、華やぎを与える花かと映る……映らなくもない。  ディーゼル機関の単行列車で、駅内の同類がリベットもごつごつとした無骨な車体をしているのに引き替えて、ごく控え目ながら端々に劇場を想起させる装飾が施されてある。ただ差違はせいぜいその程度。車窓の内に降ろされたカーテンも細やかな刺繍地の、ただ全体的に、どうにも意匠の感覚が古くさい。  近づいて仔細に眺むれば、老嬢の、かつて華やいでいた時代を今に引きずり出して無理矢理に舞台に押し上げたかの、裏侘びしさがつきまとう。  駅に運行する列車の中でもちょっと変わり種のこの車輌の素性は、車体の要所に〈嵌〉《は》めこまれた、真鍮プレートに簡明に語られて、曰く。   『  〈甘夏省景光河北部第一衝合駅〉《かんかしょうけいこうがほくぶだいいちしょうごうえき》公認      公共映像情宣活動車輌        シネマトレイン  ニューパライソ  』    ……訂正したい。駅管理部のお役所用語では安易平明どころかますます混乱を招きかねない。  この一両だけの車輌、要は移動式の映画館なのである。駅内広報局の外郭に属し、駅唯一の移動型映像施設として、駅の利用者や駅内に居住する者達への情報宣伝活動や娯楽提供の任を負うている。  その映画車輌も、今夜は営業日ではないらしく大操車場の片隅で停車したまま、刺繍のカーテンの隙間から灯りを〈幽〉《かす》かに漏らし、夜の静けさに憩うてあるのが、さながら海の底の水精がその〈住処〉《すみか》でささやかな光を愛でている風情とも見ゆる。  映画車輌がその休業日にどんな夜を過ごしているのか、少し内側を覗いてみよう……。  客席を改造して仕立てあげた観覧席には〈人気〉《ひとけ》は見えず、ただ一段高い銀幕に、馬、あの大なる奇蹄目の獣が他の獣類と戯れている情景が映し出されて、知育的な動物ドキュメンタリーの類ならんか。  板間仕切りの機械室にて映写機をあれこれ操作しながら試写を繰り返しているのは、一見時代後れの制服と似通ったデザインの、ジャンパースカートにブラウスの娘で、 「『馬と犬』……『馬と駱駝』……お。これはいけるかな……『馬と人魚』……」  フイルムリールを替える〈手捌〉《てさば》きはなかなか堂に入って〈滑〉《なめ》らかなのに、間仕切りの覗き窓から銀幕を窺う、というより〈睨〉《にら》みつける目は歯痒さに尖っている。  造作はけっして悪くない。むしろ整った方か、水色の眸と銅色のおかっぱの髪はそれなりに映っている。なのに、眼鏡越しに険を籠めて〈睨〉《にら》みつけるような目つき、不機嫌、気難しげにへの字に結ばれた口元が色々台無しにしていて、惜しい。柔らかさ可愛らしさという娘らしい美質を欠いている。  鼻筋や頬に散った〈雀斑〉《そばかす》だって、人によっては素朴な可愛らしさの要素に挙げようところ、この娘の場合は野暮ったさが前に出てしまう。  この娘、年若いながらも映画車輌の管理人を務め、名をアージェント・〈猫実〉《ねこざね》・ヘッポコピーという。  どうにも理解不能なことに、アージェントにとって、己のフルネームあるいはセカンドネームは何がなんでも耳に入れたくない響きであるらしく、その理由は駅に〈数多〉《あまた》ある謎の、理解不能の一群中でも上位に君臨していたりして。駅の子供達の中でも謎々遊びの題としても親しまれている。  もちろん、〈所謂〉《いわゆる》答えのない謎々であって、その時々に応じて当意即妙の切り返しができるか否かで、子供達の間での地位の上下に影響を与えたりする。ただアージェント本人の前でそれを口にする事は、謎々遊びというよりか猛犬の耳を引っ張る肝試しの趣を帯びてきて、逃げ出し損なった子供がどうなってしまうのかは極めつけの恐怖の顔で皆揃って口を〈噤〉《つぐ》んでしまう故定かにはされていない。  いずれにしてもアージェントの名前は変えようもない、神意であり世界の摂理であり宇宙の真理であり不滅の法則なのであった。受け容れられないのは、当の本人ばかりなり。  でアージェントはと言えば。  海中に落ちた馬が人面の怪魚に群がられ悶えるという、奇怪な映像にしばしぽかんと下顎を落とした虚け顔、口から魂が抜けていって細い緒でようやく繋がっている有り様の、すぐさましゅんと口の中に戻っていったからいいものの。  銅色の髪を掻き〈毟〉《むし》りながら、地団駄を踏んで狭苦しい機械室兼映写機の中に要らぬ地響きと埃の剥落を呼び起こした事である。 「……くそう、なんて時代だ! 人魚は人魚でも若狭の人魚じゃないのこれ! こんなのに欲情する奴ぁ、よっぽどの特殊変態性欲者しかいないでしょうに」  ちなみにアージェントが、先程からなにを期待してフィルムを回していたかと問わば、それはポルノ、エロ映画。  映画車輌に上演用として管理局から払い下げられてくるのは、一昔も二昔も前の文芸作という、一部マニヤ以外は見向きもせぬフィルムばかりで、お上の言うままに操業を続けていては、日々かつかつと爪に火を〈点〉《とも》すような暮らしを強いられる。  もう少し潤いのある日々を送るため、アージェントが手を出した副業というのは、映画車輌の施設を利して、ポルノ映画を仕入れてきて限られた常連客達相手に秘密上映会を開く事。  これがそこそこ当たって、娘の懐をそれなりに暖めてくれたのだが、お陰で映画車輌は〈ポルノ映画〉《ブルーフィルム》を流す〈車輌〉《トレイン》すなわちブルートレインなる尊称が冠されるに至った……アージェント自身はまさに身から出た錆なのに、自身の本名と同じくその綽名を断固として拒否し続けている。  今晩も、仕入れてきたポルノフィルムの内容を、休業時間を費やし検分していたのだが、どれもこれもが詐欺まがいの外れ品ばかり。エロに群がる欲望と、それを逆手取って〈阿漕〉《あこぎ》なシノギに精出す者の対立は、何処の世も変わらぬ構図という事なのだろう。四十八手の生写真、というて売りつけられた品が、力士達の組んず解れつの決まり手の写真だった、或いは処女の女学生の全裸生写真というて高値で買い取ってみれば、モデルがどう考えても四十路を越えて、いいところ「もと女学生」で帝王切開の手術痕まで腹にのたくっていた、などといった逸話は〈傍〉《はた》で聞く分には笑い話であっても当人には血涙絞り出させる憤哀の種となろう。  今晩のアージェントもその手の品ばかり掴まされて〈悲憤慷慨〉《ひふんこうがい》の態だが、あの一連の題名から何を〈穿〉《うが》って類推したのやらで、彼女の方にも責はあるように思われる。 「だめ……この馬シリーズは全滅。ああなんぼ安いからって、もとカウボーイの業者からなんて買い入れるんじゃなかったわ」 「でもこっちなら! なんか当たりだって確信あるのよね」  額に〈澱〉《よど》んだ後悔の縦線を振り払って、今度はケースにラベルのないフィルムを試そうとしている辺りは、不屈と称するべきか性懲りもないと呆れるべきか。  夜中嫁入り前の娘が延々ポルノ映画を求めてフィルムを取っ替え引っ替えしている図というのは、異性に幻想を抱きがちな年頃の少年に、〈啓蒙〉《けいもう》として見せてやるのも一興と思わせる、一抹の真実を漂わせていた。  して、わくわくと、期待に水色の眸を〈滑〉《ぬめ》らせて、覗く銀幕にやがて映じられたのは夜の荒野の情景の。たちまち期待の袋はしゅんと〈萎〉《しぼ》んで、それでもアージェント、きっとこれは〈淫祠邪教〉《いんしじゃきょう》の秘密儀式の潜入画像、ここから野外で大乱交に耽る男女の集団の堕地獄粘膜色情精汁絵巻が展開されるのに違いない、とむしろそちらの妄想を読み物にするなりなんなりした方がまだ客が喜びそうな思いこみを信じてフィルムを回し続ける……。  ものの、夜の荒野の情景は長々続いて、アージェントはつい退屈しのぎに、〈傍〉《かたわ》らのフィルム棚に置かれていた小説本を手に取った。そのうち素敵なエロが始まるまで、と、始めは銀幕とページの上を視線は交互していたのに、次第次第に目は文字の方に釘付けに、やがて小鼻が広がって、両の〈内腿〉《うちもも》もじもじ擦り合わせるようになっていって。  やがて片手がスカートの前、股間の辺りに〈彷徨〉《さまよ》い、布地の上からもぞもぞ触れる、その指先が徐々にもどかしげに布地に食いこむように、この頃になるとアージェント嬢の頬はうっすらと紅潮して、唇からは最前までの憎まれ口の他にも随分とまあ可愛げのある音色が零れるように。  遂に我慢しきれなくなったのか、スカートをたくし上げればどちらかといえば地味目な衣装と裏腹な、或いはそれが彼女の意気地なのか、〈瀟洒〉《しょうしゃ》で〈優艶〉《ゆうえん》なガーターベルトの吊りソックスにショーツの、クロッチは既に濡れ染みを浮かせている。二度・三度クロッチの上から撫でただけでも〈内腿〉《うちもも》がひくつくほどの快感が湧き立ち、するり、と絹地の〈裡〉《うち》に指先を〈潜〉《もぐ》りこませればちゅぷり、音が立つくらい湧きだしていた蜜と蕩けた〈肉襞〉《にくひだ》とが嬉しげに出迎える。ああ、待っていた、娘の昂ぶった芯は自分を知り尽くした指先を、指先は腰の奥から身体を熱く溶かす快楽の源となる、芯に直に触れて擦り掻き回しまさぐり〈捏〉《こ》ね回す事を。  ショーツをこれ以上、本気で感じたときの濃い蜜で汚さないようするり降ろしてさあ、本格的に〈弄〉《いじり》り耽ろう……。  それまでの一連の流れは映写機を〈捌〉《さば》く以上に手慣れていて、この〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》が日頃からどれだけの熱意と頻度でもってこの技芸の慣熟に当たっているかがとても判りやすく窺えた。  もうフィルムの事などすっかり念頭から消えやって、独りの手慰みに耽り興じるアージェントの、蜜の音と喘ぎを聞くものは、機械室の映写機と調度とフィルムだけ。 「……。……あんっ。いい……たまには、童貞視点の寝取られ物も……心に刺さるみたい……でもそれが……いいよ、いいよぅ……イく……イきそう……クリ、こんな、ぷっくり、お汁もぐちゃぐちゃぁ……」  〈肉襞〉《にくひだ》のあわいで指をひとしきり泳がせてから、淫核を転がせば甘美な刺激が弾け、更にそこを充血させ硬くしていく。  誰聞く者はない、〈猥褻〉《わいせつ》で〈淫猥〉《いんわい》な言葉だって音にしよう、その方が沢山蜜を湧かせて指の〈滑〉《すべ》りを良くし、心地好さを増してくれるから。  淫核をひとしきり〈捏〉《こ》ねて充分に秘部を熟させてから、指先をもっと下に、女の子だけの秘めやかな入口に這わせると、細かな〈襞〉《ひだ》の寄り集まった孔は柔らかく〈解〉《ほぐ》れて、指をくわえこんで、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の意識を痺れさせる程の喜悦を噴き零す。  でも、けれども。  指を〈潜〉《もぐ》らせるのあくまで浅く、膣の中を擦るのも柔らかに。  まだアージェントのそこは、処女の証が確かにあって、深い挿入と強い愛撫には切なげな悲鳴を上げるから。  実のところ処女膜を探る痛みさえ、アージェントには心地好い刺激となっていて、いっそこのまま自分で破瓜を、と自慰に耽る度、絶壁の淵から見下ろしたときと同様の誘惑に駆られる。  この膜の奥に指を深く差し入れたなら、もっと素敵な刺激が味わえるのではないか、どうせ膜一枚、自分の処女になんの価値がある、と半ば捨て鉢に膣の入口を〈捏〉《こ》ね回す……しても、結局は何時も膣道浅くの〈襞膜〉《ひだまく》をなぞり上げて終わる。  アージェントは、上映のためにエロ映画を見続けたせいか、それとも元々性的好奇心が強い性向にあったのか、セックスという行為に対し異常なまでの願望と妄想を抱くに至っている。さりながら、この年までろくに異性と付き合った事もなければ、勢いで性交に雪崩れ込むような状況に遭遇した事もなく、惨たらしく強姦される危機に直面した事もなく、未だに処女。  根暗で鬱屈してセックスに異常な好奇心を燃やす処女、それがこのアージェント。  自分はこれから先死ぬまで、男を知る事はないのではないかという〈懼〉《おそ》れが、思春期以降常にアージェントにつきまとった。自慰の間はそれを忘れられるから、より一層〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は独りの快感に夢中になる。  淫靡な手遊びを覚え初めた頃は軽い罪悪感と虚しさがあった。慣れていくにつれ、罪悪感と、快感を求める年頃の身体とのせめぎ合いは、身体の方が勝利を収める度合いが増した。かくして、朝な夕な、日毎夜毎に励むうち、自慰の快楽はすっかりアージェントの生活の一部、というか呼吸の一環ほどにもなり、終わった後での虚しさに見舞われるような段階は、既に通り越してある。  人はこういう状態を中毒と判断するだろうが、面と向かってそれを指摘するのは、それはそれで人としての優しさに欠けている。 「あ、ぅあ……あぁー……ぁ、あっ」  つまみ食いのように始めた自慰ではあるが、その昂ぶりは急速で、中指で膣を浅く刺激しながら親指で淫核を押しこんだ途端に強い波が押し寄せた。いつもなら、男が射精の到来を先送りにして快感を高めるのと同じに、快感をいなしてじっくり〈愉〉《たの》しむアージェントだが、今夜の昂ぶりは急速で強く、指遣いを緩めて波を乗り過ごそうとしたのに、既に堰は破れてしまっているでないか。  このまま寸止めしても、体が勝手に達してしまう。刺激のないまま達してしまっては、折角の絶頂がふやけて気抜けしたものになると、アージェントは瞬時に判断して、中指も淫核に集中させて───  絶頂はすぐさまアージェントを押し包んだ。いなしきれなかった快感は思いのほか強くアージェントの女の芯を緊縮させ、膀胱も締めあげ、ぴしゅ、ぴしゅと軽く〈飛沫〉《しぶ》いて二筋三筋。 「イッちゃった……ちょっと漏らしちゃった。すげえ気持ちよかったけど、なんだこの心が腐った〈溝泥〉《どぶどろ》みたいに〈澱〉《よど》んだ感じ」  急速な絶頂は、強い通り雨のようにアージェントの上を駆け抜けて、激しく濡らしたかと思えばたちまちに冷めていった。  自慰の具に供したエロ小説の、せんずりを覚えてしまって日々明け暮れる少年が、彼に道ならぬ想いを寄せる女教師に性の手解きを受けていき、いよいよ明日には本番のセックス、という段になって脇から同僚の男性教師に強姦されて奪われて、なのに女教師は〈逞〉《たくま》しい大人の男のセックスに陥落してしまって少年は、独り虚しく陰茎を〈扱〉《しご》きながら、手に入る寸前だった快楽の肉壺を男性教師が欲しいままに貪る有り様を視姦する、という筋立て。  アージェントには身につまされるところがあって、それだけに快感の高まりも速かったのだが、終わった後にこれだけ虚しいのも久し振り。素敵にいやらしい初体験をようやく迎えた、と思ったのが淫夢で、臀をうねらせ盛んに布団へ〈股座〉《またぐら》を擦りつけていた、独りの目覚めと同じくらいに心が穴だらけにされていた。 「……寝取られ物は、しばらく封印しておこう。ダメージも大きすぎよ───ってあたし」 「なんか無意識のうちに、オナニーとか、まずい、とってもまずい。いくらシャシンがつまらないからって……」 「……これもはずれか。買い叩いたとは言ったって、こんなのばっか混ざってるのはさすがに外れが過ぎる───ん?」  〈夥〉《おびただ》しく濡らし、漏らしもした秘部の始末を付けようと、映写機の脇に置いた花紙の箱に手を伸ばしたアージェントの、視界を一瞬よぎった、覗き窓の向こうの銀幕の映像が、娘の動きをスチールに切り取って硬直させた。  覗き窓越しの、観覧席の奥の銀幕という限定された視界ながらアージェントの目をなまじなポルノより吸いつけたのは、彼女の記憶に深く彫り込まれた或る物を思わせたからである。  銀幕に映し出されていたのは、あの夜トゥアン少年が荒野で遭遇した、正体不明の一団の記録映像であり、今しちょうど、荒野の窪地に航宙艇の残骸を運びこんだ情景に差しかかっていたところ。 「待って、なに今の。あのマセガキの航宙艇じゃなかった!?」 「やっぱり、そう……」  普段は映写機とフィルムへの負担が大きいからと控える逆回し速回しを繰り返し、フィルムを或るコマで停止させる。ちょうど残骸を大写しにした瞬間だ。  映写室を出て観覧席に回りこみ、投映を妨げないよう銀幕の脇から覗きこんで検分を、すればその残骸はいよいよあの日の夕刻に、流星の中を飛翔し去った航宙艇の成れの果てのように思われてきてならない。  実のところ、アージェントはあの『移動舞台暴走事件』にかなり深く関わったし、それを巻き起こした『二人だけのサアカス団』の男女とも知り合いだった。あの仲睦まじいインチキ少年と三眼の見世物女には、少なからず複雑な想いを抱いてあり、彼らが空の果てに消え去った時には、厄介払いの心の軽さと同時に一抹の淋しさも味わったものである。  だがそんな二人も結局は荒野に墜落し、航宙艇も無惨な姿を留めるのみの、艇がこれでは二人も恐らくは。驚きも哀しみもまだ受けとめかねて、何度かフィルムをかけ直すうちに、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の眉は不審にと〈顰〉《ひそ》められていった。  トゥアン少年と同じく、後からわざわざ運びこんでいるところも気にかかったし、なにより、アージェントの映画車輌の映写機は。  あの事件に際し、そんな機能などなかった筈なのに勝手に動き出して、飛翔する航宙艇の勇姿を駅の全土の画像端末に中継なぞしでかしてくれた。そうやって映像を追っていた限りでは、アージェントにはあの二人の〈艇〉《フネ》が、空の彼方さえも突き抜けていったと信じるしかなく、それは今でも変わらない。  だから。 「でもこれ、なにかが変じゃない? あたしは見たぞ、アイツの航宙艇が、夜空に消えてったところ」  これはもしや、とアージェントの〈脳裡〉《のうり》に形を為したのは捏造とかその類の単語で、それはつまり、と〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の胸中に〈凝〉《こご》っていくのは、管理局の連中が何やら航宙艇について目論んでいるのでは、という剣呑な予感の。軽い気持ちで手に取った古本の下に、毒蜥蜴が〈潜〉《ひそ》んでいたようなもので、以前読んだスペースオペラ風ポルノ小説では、蜥蜴型の異星人に、その二又の陰茎で膣と後孔を犯されて腹が膨らむまで射精されるという描写を見て以来、爬虫類に関していささか見当外れの畏怖を抱くようになっていたアージェントには、蜥蜴だの蛇だのは実物はもちろん連想させる物、事態との接触はできれば避けたい。  もうこんなフィルムは廃棄する事にして、明日は気分晴らしにキヲスク砦内部坑道の古本屋にでも足を運ぼう、と心決めしたアージェントが腰を浮かせた時に。  映画車輌の扉を叩く者があった。  状況が状況なので、アージェント、〈竦〉《すく》み上がり……。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  夜の来訪者は、管理局の目論見に接触してしまったアージェントを拘禁にやってきた秘密警察要員……などではなかったのが幸いにしてというところ。管理局の人間ではあるのだが、そういった末端の実行人員ではなく、局の中でも相当の地位にあるとされる初老の男で、何故また精々が広報局外郭の嘱託的映画車輌管理人で、裏の顔と言ってもブルートレインの主宰であるアージェントがそんな人物と知己があるのかといえば、それがそのブルートレイン繋がりだというから皮肉が効いている。  管理局の高官は、アージェントのブルートレインの常連の一人だったという。随分と佳い趣味を持ち合わせた事だ。  本日は秘密上映会の予定もなく、営業時間外ではあるが、無下にもできたものでもない。とりあえず機械室に招き入れ(件のフィルムは男に気づかれる前に片づけた)たというのに、男はもぞもぞと落ち着かず、剣山の上にでも座らされたのでもあるまいに、居心地悪げで。  局内ではどういう位置にあれ、重ねた年齢を、渋みより人の好さに変えたような男で、着ているゆったりした造りの、背広の趣味は佳い。がアージェントとしては、この年代の男はも少し苦み走っていた方が好みで、落ち着きの無さなど見せられたくはない。  それにアージェントには、駅管理局上部の別の知り合いとして広報局の上官というのがあり、こちらは「アージェントの処女を守る会」とかいう怪しげな結社だかカルトだかの構成人員と来ていて、為に〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は管理局の上部の人間に対して胡散臭い印象を〈拭〉《ぬぐ》えないでいる。この男もそのなんとやらという会の構成員なのではと疑うアージェントを、あながち責められたものではなかろう。  が、好みの問題や〈疑団〉《ぎだん》はさておくにしても、夜半わざわざ訪れてきておいて、口ごもるというのはどうにも消化に悪く、アージェントがじりじり待つうちに、話の〈俎上〉《そじょう》に乗せられたのは、ある意味先ほどの記録映像を上回る爆弾だった。 「ごめんなあ、アーちゃん。本当に済まないんだが」 「この映画車輌の営業認可、取り消される事になってしまったのだ。つまり君はクビで、この改造車輌は廃棄」  告げた言葉というのが、これである。  アージェントには高官の通達がそれこそ破滅の雷の轟きを巻き起こしたかの衝撃で、実際臀から脳天まで撃たれたような痛みが〈劈〉《つんざ》いたし、耳にはけたたましい音も鳴り響いた。  事実は〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》が言葉の意味を咀嚼した途端、心が反応するより先に、身体の方が衝撃で跳ね上がって、弾みに椅子を倒して転がり落ちたというのが実際だが、いっそ本当に雷に撃たれて絶命した方がまだ楽だったかも知れない。  苦痛に声もなく悶えるアージェントの、臀を気の毒げに撫でさすってくる男の手、完璧なまでに下心というのに欠けていて、喜ぶべきなのか、いち早い処女喪失を望む身としては邪気の無さを憤るべきなのか悩むうちにも痛みは退いていく。  ようやく口を聞く気力を取り戻したけれど、機知に富んだ返しなど出来ようはずもなく、ただおろおろと高官に取りすがった。 「なにそれいきなり。ちょっと待ってよそんな。もしかしてエロ映画かけてたの、そんなにお上の気に触ってた?」 「そんなら今後はそっち方面のは一切止めにして、わたしもしばらくは謹慎とかするから」  別になにか気高い志あって、敢えて公序良俗に背いた片手業に手を出していたわけではない。足元に火が着けばあっさり捨て去るエロ映画、これを生き汚いと罵るのは酷というものだろう。 「クビとか廃棄だけはどうにかできない!?」 「いや済まん、本当に申し訳ない。なんだかもう、そういう始末どころではなくってだな、本来なら君も逮捕拘束というのが妥当って事になっているのだ。儂らの力では、現在その処分をどうにか和らげて、駅外退去にするというので精一杯」 「嘘……わたし、駅から追い出されンの!? いやよそんな、御法に触れることは、そのやってたかも、だけど、そこまで、そんなっ」  アージェントには鯉、瀧を昇りきるとまではいかずともそれなりの向上心というのがあって、もうちょっと実入りが良い仕事を掴む為の資格の独習というのを秘かに続けている。しかしいかんせん、難問や許容を超えた暗記に苦しむうち、気がつくと手は猥本を取っていて指は秘部に這っていて、自慰に耽り浸って刹那の快火に身を焼く独り蛾、参考書の中身など、絶頂と一緒に弾けていって頭の中に留まりはせず。  当然にしてそんなでは、未だ映画車輌(並びにブルートレイン)管理人以外の〈生計〉《たつき》の道はなく、それをいきなり取りあげられた上、生まれ育った駅から追放されるとあっては。  〈雀斑〉《そばかす》の娘は、見知らぬ異国の地で最底辺の女工仕事くらいにしか就けず、〈愉〉《たの》しみも何もなく肺病あたりを患って枯れて死んでいく自分の姿が、鼻先に映し出されたかに戦慄した。体でも売れば多少は増しな暮らしが出来るかもしれないが、生憎アージェントの中には蝿の糞ほどにもその映像が浮かばない。どうせ異国に流れたところで自分は処女のままなのだという捨て鉢な思いさえあった。 「同感ではある。大体〈猥褻図画〉《わいせつずが》に関しちゃ、規制を強めては、時間が経つと共にだんだんいい加減になってまた規制して、の繰り返しというのが実状だしな。だから儂にも皆目見当がつかないのだよ。何故今回に限ってここまで厳しい処分が下されたのか……アージェント、君、何か心当たりがあったりしないか」 「あ……っ」  まず閃いたのは、先ほど見たばかりの記録映像。冥途の河原の〈奪衣婆〉《だつえば》に、衣の〈裡〉《うち》にいつの間にか押しこまれていた他人の罪帳を引きずり出され、お前の罪科だと決めつけられたかの悪心地を伴っていた。  次に押し寄せたのが、『移動舞台暴走事件』であの航宙艇に関わった際の記憶。今まで記憶に封していたのが、閻魔の鏡に映し出されて糾弾されたかの如し。考えてみればあの後追求らしい追求もなかったのがそもそも不自然だったのだ。 「なにか思い出したみたいだね、アーちゃん」  異国の地。流浪。〈落魄〉《らくはく》。感染。奇病。変異。鬼形化。人肉食。術士。封殺。魂の消滅。  それらのフルコース、しかもどこか途中で余計な要素が混じってねじ曲がった末路がいよいよ確定化したかと、気絶しそうになったアージェントの意識を手荒にぶっ叩いて我に帰させたのは。  映画車輌が文字通り震撼したのである。  正気づいたはいいものの、足元から揺るがされる衝撃に耐えきれず、高官の胸にもたれこんで悲鳴を上げるアージェントだったが、 「きゃああああっ! なに、なに? うあ、地震、この世の終わり!?」  鳴動はまだ始まりでしかなく───    また轟音、そしてねじこまれるような強烈な光。  扉には鍵してあった筈だが、いともたやすく暴威でもって開け放ち、投光器で内部を光で制圧しながら、炸裂する溶岩弾の勢いで雪崩れ込んできたのは、一人、二人、三人目は開け放った扉を身体でもって塞いだ。  無論アージェントを逃れられないようにするために。  灰色を基調とした都市用迷彩服を着こんだ、公安か、それとも別の系統の実行部隊か。アージェントには判別着かなかったが、どちらだろうと同じ事。室内に押し入ってきた要員の一人が、フィルム棚を無造作に荒らし始めたとあっては。  要員が手荒に扱っているあれらの中には、数多い外れの中からアージェントが宗教的法悦にも近い喜びで選び出した、珠玉のポルノフィルムだってあるのだ。  宝物を〈蹂躙〉《じゅうりん》される怒りが、投光器の逆光にも負けず怒鳴りつけさせたけれど。 「勝手に触んないでよ、人のシャシン! これ以上無茶苦茶すると、鼠の死骸に爪楊枝二五六本ばかり刺して、あんたの弁当箱に放りこむからね!」 「アーちゃん、ありゃそんな〈暢気〉《のんき》な代物ではなく、高機能爆薬を突っこんだケースだぞ」  なんぞ!? と引きつけるより先に銃口を突きつけられて、アージェントはやっぱり引きつけた。それまで突入してきた要員が銃を構えた事にも気がつかないでいたのは〈迂闊〉《うかつ》とは言えたが、悔やんだところで何が出来るものではない。  このままでは一瞬後に、処女膜に穴が開くより先に体中を穴だらけにされかねない。銃鉄の鈍い〈艶〉《つや》が、痛いほどアージェントの目を射たし、小さな銃口も深淵のように感じられて――― 「ひっ!? 撃、撃たないで───」 「アーちゃん!」  ぐいと強く引かれ、高官の背の陰に押しこまれる。突入要員達は管理局の高官と認識していないのか、それとも知ってなお銃を引かないのか、銃口を高官に向けて、〈火箭〉《かせん》が〈迸〉《ほとばし》る───よりも速く。  高官の、〈袖〉《そで》の中からがしゃんと小気味良い作動音が鳴り、両の〈袖口〉《そでぐち》から彼の手の中に正確に収まったのは、二丁の拳銃、大型の、自動式の。  通常〈袖〉《そで》の中に隠しておけるのは、口径も小さい小型の拳銃に限られるのに、高官が備えていたのは大型の自動拳銃、緩い造りの背広で、〈袖口〉《そでぐち》も広めだとはいえ無理がある、と指摘する余裕などアージェントには欠片もない。  構える、撃つ、が同時だった。  この至近距離ではまともな狙いは必要なかった。 「シュート! シュートシュートシュート!」  拳銃二丁流、突入要員に向けて、撃つ撃つ撃つ撃つ撃ちまくる、一切の躊躇いと容赦なく。  反撃を予想していなかったのか、機先を制され要員達は不気味な踊りに身体を跳ねさせ床に倒れ伏し、 「ひわわわああああああっっ」  銃声は耳と言うより脳髄を直接打撃するかに轟いて、アージェントは自分がしゃがみこんで無様な悲鳴を〈放〉《ひ》りだしている事にも気づいていない様子の、今度はその〈襟首〉《えりくび》を強く引かれて前にのめる。  高官はアージェントを引きずって共に車外に飛び出していた。 「安心したまえアーちゃん、生命までは奪っていない」  高官は、そのまま室内に籠もっていては程なく物量と火力で制圧されると断じたのだろうが、アージェントは車外に出たところで安全とは到底思えず、事実彼女が光に寸断される視界に見たのは、車体と台車にワイヤー掛けられ、牽引車輌によっていましも引きずられていこうという映画車輌と、自分達を半円に取り囲む更なる実行要員達という、住処と生命の二重の危機だ。  いくら拳銃があったところで弾数と火器の差はありすぎる。といってアージェントにはどう動けばいいのか、思考は恐慌を〈来〉《きた》して、四肢だってほとんど麻痺していた。  高官が背広を脱いだのだって、観念の印のようにしか見えなかったのだが。  彼は、背広の中から二本ほど筒状のなにかを取り出し、ピンらしい何を引っこ抜いたかと思うと、アージェントの頭に背広を被せ、一挙動でねじり上げ、目と耳を覆い隠してからおもむろに、取り囲む要員達の前に投じて、 「さあアーちゃん、大声だ、そして」 「マキシマムフラーーッッシュっ!」 「うっぎゃああああっっっ」  操車場の一画に、超新星が誕生したと評しては過言だろうか。少なくともアージェントには、背広で耳目を塞がれてなお、その背広には分厚い防御加工が施されていてもなお、光と音の炸裂に意識を刈り取られそうになったのである。  大声など命じられるまでもなく張り上げていて、それが結果的には対ショックの体勢となっていた事など、やはり気づく余地はなかった。  反撃はあったとしても閃光発音筒の炸裂までは予想外だったのか、既に突入要員達のほとんどが無力化されていたが、高官はなお責め手を緩めず、ズボンのポケットから引きずり出したのが、ずるりと長い、散弾銃だったというから恐れ入るしかない。  ポケットは底を抜いていたのだろうし、散弾銃も銃身を切り詰めて隠匿を容易にしてあったとしても片脚の〈裡側〉《うちがわ》に隠しておけるものでもなかろう。 「デーストローイ!」  もうこうなってくると災難なのはアージェントなのか突入要員達なのか怪しくなってくる。高官はまた容赦のない苛烈な銃撃を、がしゃんがしゃんと派手に排夾装填繰り返しながら浴びせかけ、もう〈蹂躙〉《じゅうりん》する者される者、完全に攻守が入れ替わっていた。 「ひいいいいいいいっっ!?」  しかし背広を剥ぎ取って、閃光と轟音の余波でまだ脳内を撹拌された心地のアージェントが、また悲鳴を〈軋〉《きし》ませたのは、高官の姿に恐怖を覚えたからではなく、大操車場の向こうから、こちらに向かって増援らしき者達が押し寄せてきていた事によっていた───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  同時刻、駅内、地下某所。  その頃公安官朱鷺子は。  浮浪児二人の痕跡を猟犬の執拗さで辿っていたのだが、唐突に、 「ああああもおおお羨ましいなああ!!」  豊麗な乳房を掻きむしりながら喉を垂直に立てて絶叫し、お供の平駅員をそれは仰天させていた。 「ど、どうしたの朱鷺子さん、そんないきなり、ブラウスのボタン引きちぎりながら絶叫なんかしたりして……」 「いや、今私の知らないところで、銃撃戦が発生したような気がして」  苛立ちの、勢いまかせに引きちぎったブラウスを今さら困ったように見つめながら呟いた朱鷺子の勘働き、もそっと別のところに向けられるなら、彼女にはもっと別の働き口があったかも知れないが、まあ言うても詮なきことだろう。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  再び映画車輌。  押し寄せる増援を眺め、高官は散弾銃に弾をこめ直していたものの、さすがにそれ以上の兵装までは隠し持っていない様子で、今度こそ、高官いよいよ袋の鼠に変ずの図、といった窮地か。 「とどめは……まあさすまでもなし、そんな暇もなし。さあアーちゃん、私の活躍に濡れてしまいそうなのはわかるが、今はまず逃げたまえ」 (やべぇ……マジでちょっとだけ惚れそうになっちゃったじゃない)  窮地を前にして、それでも高官の声音に絶望の色は欠片もなく、どころかアージェントが好む男性的な錆さえ浮かせてあり、ちょっとだけ腹の底に〈疼〉《うず》くものさえ感じてしまっていたりして、このまま彼と行を共にしていたなら、万が一ではあるが〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》にも処女喪失の好機が訪れたかも知れない。 「でも、逃げると言ったって、どこに?」  だが残念ながら、そうはなりそうにないと運命は残酷に告げていた。  高官は地に打ち捨てられていた背広を拾い、埃を叩く、振りをして造ったのは死角だ。足元のマンホールの蓋を追っ手の視界から〈遮〉《さえぎ》るための。アージェントを手招きし、また手の合図で蓋を示して、曰くそこから逃れよと。  アージェントは、かつての日、移動舞台のインチキ少年がそこを抜け道に使っていたことを、幸いにも思い出してはいたのだが、追っ手をかわし逃げ切れるかというと全く話は別というもの。 「そんな無責任な振りとかされたって、どうしろって言うのよ……」 「まあぼやきたもうな。とりあえずは、ああと、なんといったかあの浮浪児達。もと気候観測塔の廃ビルをねぐらにしているあの子たちだ。彼らを捜すんだ。良いな、アージェント」  それだけ伝えて、後は手早くマンホールをこじ開けアージェントを押しこむ、最後に見上げた高官の、彼女に注いでいた笑顔は、まるで慈父のような。  アージェントの性癖の中に、ファーザーコンプレックスの気を危うく埋めこむところであったが、手入れをし損ねた鼻毛が鼻孔から覗いていたため、生憎不発と終わったのだった。                    ───四───  駅に生まれ育った娘とはいえ、浮浪児でもないアージェントがこれまで踏んできた道は、駅の中でも割合い穏当な筋に終始していた。  あのマンホールから続く下水道を、恒常的に裏道として使っていたインチキ少年ならまだともかく、そんな〈柔〉《やわ》かなアージェントがところどころ〈煤〉《すす》汚れと蜘蛛の巣に〈塗〉《まみ》れたくらいで、駅の地下に〈潜〉《ひそ》むという伝説のアコーディオン弾きの亡霊に取られもせず、当たり前に人が往来する連絡通路に復帰できたのは、よほど〈僥倖〉《ぎょうこう》に恵まれたのだろう。  もしかすると伝説の亡霊殿も、根暗の処女が相手では、魔手を伸ばすこと〈憚〉《はばか》ったのやも。その〈憚〉《はばか》りとやら〈侮蔑〉《ぶべつ》か〈憐憫〉《れんびん》のいずれかに由来しているかの詮索は無用としようアージェントと亡霊の双方のためにも。  もちろん大操車場を離れ、地下の人混みの中に身を紛れこませたといってもアージェントの心は安心立命の境涯には程遠い。我が巣である映画車輌のこと、自分を雄々しく〈庇〉《かば》って逃した管理局の高官のこと、これから先の身の振り方のこと、諸々が彼女の心を千々に裂いて乱す。  駅内路線の駅と駅や各施設の連絡のために設けられた地下道は、大半が造られてから相当数の年月を経ており、幾度かの改装を経た主道筋あたりはそれこそ中央の百貨店のようにきらびやかなのだが、そこまで構われず、〈煤〉《すす》けて裏ぶれ侘びた通りもまた多い。  アージェントが入りこんだのも、駅の地下に編み目と広がる通路の中でも末端あたりか、通俗小説のドヤ街を手本として忠実に再現したかの、それはもう見事なまでの薄汚れ加減だった。  ひび割れた床板は放置、天井をのたくる配管に埃は積もりっぱなし、換気の悪い空気は湿った〈混凝土〉《コンクリート》と自由な通行人の排泄物の匂いに〈澱〉《よど》み、吊るし電球は何個に一個の割合で寿命が来ていて明滅を繰り返してなんともはや景気の良い。  この風情を、きらきら〈眩〉《まぶ》しい遊歩道よりよほど生の人情味が溢れている、などと愛好する通人紛いもあるのだが、今のアージェントにとっては己の当て処の無さをより寒々しく強調してくるようで、乾いた笑いしか浮かんでこなかった。  アージェントとしては、〈一端〉《いっぱし》にやくざな気分で枯れ〈薄〉《すすき》な歩みというのをやっているつもりだが、埃まみれ蜘蛛の巣まみれの〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》がへらへら薄笑いでよたよた歩いているのは、〈傍目〉《はため》では〈竈〉《かまど》を寝床とする猫が烏賊にあたってふらついているのと大差ない。  地下道の裏ぶれ酒場でさんざかきこしめしたお大尽でも、すれ違ったアージェントに振り向いたものの、その様子に何やら急に嘘寒さが睾丸を包むようで、ちょっかいを出すよりそこらの陰で大いばりやらかす方が先とてそそくさ離れた。  これで素直に心細さに〈嗚咽〉《おえつ》くらいしていれば、適当な酔漢の同情よろしきを得て一晩の宿と処女喪失の機会くらいはあったかも知れないがまた取り逃していたアージェント、通路の四つ辻に置かれた伝言板を認めてぼんやり立ち止まる。  高官は廃観測塔の浮浪児を捜せと言い残した。廃棄された気候観測塔をねぐらにする浮浪児二人といえば、瑛とトゥアンのあの小鬼のような二人組だろう。アージェントはその二人とも面識はあるにはあったのだが、その廃観測塔とやらがどこにあるのかまでしらず、捜せと言われてもどうにも頼りない。  だからだろうか。緑色も剥げかけた黒板に、ちびた白墨でもって書き込みなぞをしてしまったのは。   『○談 牡丹灯籠 再上演   於   ホテル   キティーネ・ヨッティーネ前       猶E&Tは入場無料』    ……他の伝言に比べ、なんとも刺々しく見ているだけで心がささくれるような字体はアージェント特有の、本人も他と比べ妙に浮いている事は自覚されてあるのだが、その理由が判らず首を〈捻〉《ひね》っているようでは改善しようがない。  何故わざわざはっきりと名指しにせず、こんな暗合めかした文言にしたのかは、恐らくは公安の探偵を恐れたためと思われる。だがアージェントは、あの浮浪児がこれを見たなら確実に食いついてくるだろうとの自信があった。  ○、と伏せた部分には本来の「怪」ではなく「猥」の字が当たる。かつてアージェントの映画車輌に紛れこんでいたその映画のお陰で、浮浪児二人は随分とエロ美味しい目を見た筈で、アージェントは悪因縁だと思いこんでいるのだが、それが浮浪児二人との出会いであり、あの時の再上映ともなれば(もちろん再上映は嘘八百だが)。  が、そもそもあの二人がここを通りかかるという確率というのは、一斗缶にラジオの部品一式を放りこんで振り立ててみたら組み上がっていた、くらいの偶然に頼るようなもの。通りかかった人々も、伝言板なぞ気にした様子もなく通り過ぎ、アージェントの書きこみの効果の程を問わず語りにしている。  アージェントにとっては大事件が勃発しているのに、地下の往来は変わらない。もう深夜だろうが人通りは〈疎〉《まば》らになりながらも絶えず、そして〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》には関心をくれない。  ───駅は何時だって、こう。  それが腹立たしいのか、或いは淋しいのか判らずに、アージェントはそれまで覚えなかった涙が、迫り上がってきたのがまた唐突で、〈堪〉《こら》えようとするより先に零して、しまいそうな後ろでくすくす笑い。  瑛とトゥアンが、真新しいアージェントの書きこみを指差してはお互いの〈脾腹〉《ひばら》を肘でつつき合い、あの日のことを思い返しているのか助平ったらしい笑みに唇〈綻〉《ほころ》ばせては、また互いを肘でつんつんと。  よもや浮浪児の助平根性の嗅覚が早速嗅ぎあてたでもあるまい。極めつきの偶然に驚愕すべきなのだろうが、アージェントは───  爽快なくらいにどうでもよくなった、という。  同時に確信があった。あの管理局高官はきっと無事なのだ、と。あの男もこの浮浪児二人も、同じ〈出鱈目〉《でたらめ》な人種だ。こういう手合いはゴキブリよりしぶとい。心配するなど愚の骨頂だろう、と。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  三人が腰を休めたのは、裏ぶれた地下道の中でも更に薄暗い一画の安食堂で、献立なぞ言う洒落た代物はなく、入るなり瑛とトゥアンは兼厨房仕切りの立呑台にびた銭を放れば、今日の有りものを出す方式、さっさと皿を受け取る浮浪児二人の世慣れ様。アージェントも真似したところ、出てきたのは大盛りのカレーで、夜中にこんなもの、さぞや胃にもたれるだろうと案じた下から腹の虫。  狭苦しい奥の席で、酔漢が油染みた床にぶち潰れていたのを引きずり出して落ち着いて、浮浪児二人はシャベルカーが土を掻くように、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は怖々と食べ始めた。途端にアージェントの水色の目、美味に輝き匙の回転が増す。皿は欠けが入り、米も古古古米あたりでもさもさしていたけれど、カレーだけは上流ホテルの味わいに匹敵した。  アージェントの様子を横目に眺めながら、浮浪児二人が交わしていた目配せは、ばらしてやったものかの相談ぶち。確かに此処のカレーは美味い、本来なら払ったびた銭ではまかなえるものではない。それがこうして出てくるのは、此処のカレー、ホテルの払い下げ、つまりは残飯という内幕によっている。カレーに限らずこの店が出すのはどこかからの残飯、みんなそう。浮浪児二人がこの店を選んだのは、自分達の財布を〈慮〉《おもんぱか》って、というのもあったし、どうせアージェントが奢ってくれるはずもないと確信していたためで。 「で、なんだっけ? アージェント、あんな伝言まで出して、僕らとこ捜すような、んな君って僕らと仲良かったっけか?」  さて、腹がくちくなるとともに、〈萎〉《しお》れていたアージェントの悪態袋も再〈充填〉《じゅうてん》されたようで、 「あたしだって、なにも好きこのんであんた達を捜してたわけじゃないっつーの! そうするしかなかったからで」  手短に事情を伝えたところ、瑛とトゥアンの方にはアージェントと合流しなければならない要もないらしく、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》を少しばかり失望させたが、といって今さら二人と別れてしまうのも、まあその、心細いという、そこはそれ。 「だったらその仏頂面やめろよな。ウェーカリ猿とお見合いしてた方が、まだましに思えてくるぜ」 「ウェーカリ猿は言い過ぎだ。どうせならメガネザルとかにしてやろうよ」  ウェーカリ、ウアカリともいうそれは、真っ赤で〈魁偉〉《かいい》な顔した剥げ親爺が毛皮を〈纏〉《まと》った風情の、眼鏡ザルはまあ、言うまでもあるまい。 「……ほほう? あたしの眼鏡への当てこすりにしたって芸がないわね」 「そんなに眼鏡が気になるなら、尿道につるを根元まで、ぶっ差しこんであげましょうか……?」 「口では言うが、どうせちんこなんて見た事もねえくせによ。オマエ知らないんだろ、現実だと、男が射精する時って音が鳴るとか」 「嘘つくなあああっ、それくらい嘘ってわかるんだからっ」 「鳴るよ。男の間だと常識だよ。話とかだとどくんっ、とか、びゅくっ、とかいうだろ、あれ擬音じゃなくって、ほんとにそういう音が鳴ってるんだ」 「……嘘でしょ?」 「だって、女だって、女だけの常識をいちいち僕らにはしゃべらないだろう?」 「そりゃそうだけど、そう言うのって男にはわかりづらい、デリケートな……」 「にやにや」  瑛の、張り倒してやりたくようなにやけ笑いで担がれていたことを知る。考えてみればアージェントとて、実物はともかくとして、エロ映画でそのシーンはいくらでも見ていたはずだった。 「……やっぱり法螺じゃないのっ。瑛はともかくとして、ちょっと見には真面目に思えてもそれか、トゥアン、ああ?」 「根暗ムッツリって言う、一番女にモてないタイプだわお前って」 「ひでえ言い草だ。とにかく……ここにいるみんなは、なんか知らないけど公安に追っかけまわされている、と」 「一緒くたにして欲しくないけど、まあ、それは事実で」 「でもなんか、あのサンジョウとかってのは微妙に違うような……」 「同じだ同じ。昔っからボクら駅っ児は、あのおばさんにえらい目に遭わされてるんだ。ありゃ更年期のヒステリーに違いない」  うちに、少しずつ腹が立ってくる。なんだって自分達がこんな風に追いかけ回されなくてはならんのか、と。知らないうちになんだかよく判らない企てに巻きこまれた。アージェントなどは合流したはいいが、だからどうなるものでもない。 「はぁ……馬鹿言い合うのにもいい加減疲れてきたわよ。で、どーすんのこの先」 「オマエだってちっとは考えろよな。おっぱいに行く筈の栄養、頭の方にまわしてるくせに。特にエロ妄想方面に」 「……なんだか一方的に追いかけ回されるのも頭に来るよな……だから、やり返しちゃどうか」  トゥアンが時折浮かべる、沈んで、どこか物憂げな目つきで口にした思いつきは、なおもああだこうだと不毛な言い合いを続けていた瑛とアージェントを、いったん黙らせ、煮詰まった安酒のように気抜けした沈黙を場にもたらした。  残飯カレーの匂いが漂う沈黙の中、瑛とアージェントは、先延ばしにし続けていた塩辛い結論を改めて掴み出されたかにうんざりすると同時に、一つの正論と認めざるを得ず、それでもやはり塩辛い物を口にした心持ちにさせられた。  殴られたからといって殴り返すのでは、結局は相手がやっている事と同じ位置に落ちてしまう事でもあるのだが、さりとて理屈が通じない相手に同じ痛みを思い知らせるには、他に手段がない場合というのも多々ある。  だとしても面倒臭い。面倒臭いは臭いが、何時までも狐狩りの狐でいるのもご免である。  トゥアンは言わば、二人がその労力と困難さを思って目を逸らしていた結論を代弁してやった形にはなる。それを差し出口と見るべきか、少年らしい率直さと見るべきか。アージェントは、 「駅の公安にやり返すってなどういう発想か。  っけ、餓鬼ぁ単純でいいわよね」 「あんたの女の好みも透けてくるわよ。金髪で巨乳で頭と股が緩いのが好みなんでしょどうせ」  とげんなりするアージェント。トゥアン自身も何か具体的な方策があっていったわけではないのが始末が悪い。が、ここで瑛が何事か思いつく。 「要するに、あいつら、この間の航宙艇の件が駅のみんなに知れ渡ったらまずいッてんで、ひた隠しにしてるわけだろ? じゃあそれの色々、ぶちまけられたら困るよな」 「やっぱり餓鬼の発想じゃないのどこまで行っても。あたしは付き合わないかんねっ」  アージェントはしつこく愚図っていたが、浮浪児二人の、ポルノが大量に放置されている、配給会社の倉庫の場所を教える、という取引材料にいかにも渋々と首を縦に振った。  瑛もトゥアンもアージェントがそれを信じたとは考えておらず、ただ彼女にも、ポーズというのが必要だったのだろうと〈慮〉《おもんぱか》っただけの事。本当は付き合うのは〈厭〉《いや》だが、そういう取引なら仕方がない、というポーズだ。  浮浪児二人がこっそり交わし合った目配せには、女という生き物も大変だ、というほろ苦さが漂った。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  駅の積層建築群の、恐らくは上層部の何処か。  ───其処は、空気がひどく沈み〈澱〉《よど》んで、相当の歳月を外界との接触なく経てきたものと窺えた。三人の〈跫音〉《あしおと》と〈身動〉《みじろ》ぎは、虚ろに響いてはくぐもって沈黙に呑みこまれ、古く深い井戸の中に投げこまれた小石の心地にさせる、どうやら三人の他には生きて動くものは皆無のようだった。  壁面には緑に光る灯りが〈嵌〉《は》めこまれ、内部を明るませてはいたけれど、照明の為の明かりというより、なんらかの計器の補助照明であるらしい。実際盤面を覗きこめば、何事かの数列文字列が表示され、時折その配列や数値を変化させていたのだが、トゥアンにもアージェントにも、その正確に意味するところはさっぱり読みとれなかった。  天井や壁面は〈煤〉《すす》け、薄汚れ、床に積もった埃には人の足跡はもちろん、鼠や蝙蝠といった、人が入りこめないような隙間や裏側を自由に闊歩する小動物達の足跡や糞などの痕跡さえもなく、ここが本当に長い間、いかなるものの進入も見なかった事を示している。  恐らくはここは、駅の古い時代の遺物遺構なのであろう、にもかかわらず、トゥアンがこれまで覗いてきた、駅内の派手やかに発展したいかなる区域よりも、〈強〉《したた》かで高度な技術や、科学の精髄といった気配を端々から漂わせていた。  大体トゥアンは、この通廊を構成している材が、金属なのかベトンなのか樹脂なのか、それさえ見当がつきかねている。そのいずれのようでもあるし、どれでもないような、全く未知の素材で埋め尽くされた通廊。  壁面も、無愛想なブロック群が不揃いに随所へ〈嵌〉《は》めこまれ、美観への考慮には乏しいようであったが、そのブロック一つ一つが思いもよらぬ機能を秘めた機械なのではないか。もし隙間を覗いて目を〈凝〉《こ》らさば、精緻複雑な基盤と回路で埋め尽くされているのが見てとれよう。  いずれも今では止まっている。停止している。  けれど深いところでなにかが眠っている、それも長い時間ずっと。  それは、かつてはこの駅に確かに根づいていて、人々に遙かな彼方への道を開いていて───  そして今の時代の駅の人々からは忘れ去られ、その用途も正体も不明と化した機構の一部なのであったが───  アージェントでさえ目を〈瞠〉《みは》ったし、トゥアンは非常な好奇心に駆られ、あちこちに鼻先を差しこんで嗅ぎ回らんばかり。三人をここに、現代の駅とは異質な機械化通廊に導いたのはやはり瑛である。瑛は路上の事情に通じた〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》というにしても行き過ぎなくらい、駅の様々な抜け道裏道に〈通暁〉《つうぎょう》し、それは相棒のトゥアンも心得るところである。トゥアン自身瑛の手解きで、今では並みの〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》以上に駅の道、各処への知識を深くしていた。  この人工の一大混沌である駅には、一体どこにそれまで予想だにせぬ空間が隠されているか知れたものではない、と半ば悟りの域に到達していた。  そのトゥアンにして、この機械化通廊にはもちろん驚異もあったがそれ以上に、惹きつけられて止まない吸引力を覚えていた。胸の奥底が感応するような。  一体この機械化通廊は、駅の中でいかなる意味を有する場所なのか。  大体にしてここに辿り着くまでに瑛が用いたのは、正確には抜け道とは言えず、幾つかの自動化検問を通過してきたのである。生体認証制が採用されていると思しき検問を、瑛は何事もなく通過してみせて、それだってトゥアンには疑問の種となったが、相棒にはどこか説明を躊躇わせる気配があった。  だが自動化検問の件は置くにしても、もしこの機械化通廊の仔細を瑛が知るならば是非に説明が欲しいとトゥアンは内心強く願っていたのだけれども。説明どころかあれこれ見て回る程度の暇さえ無さそうな。  腰を落ち着けて話すもならず、三人がこの機械化通廊への入口を前にするのと、彼らが辿ってきた通路の端に、公安の部隊が姿を現すのがほぼ同時だったのである。それまでかわし続けていた運も尽き、部隊はついに三人の痕跡を捕らえ、食らいついてきたものらしい。毒蜂の群れと軍隊蟻の一群と猟犬の集団に一緒くたに追いかけられた勢いで、三人は入口に飛びこみ扉を閉じた途端に、向こう側に部隊が殺到する、無形の圧力が伝わってきていた。  運は尽き果てたかに見え、酒瓶を引っ繰り返すと垂れてくる数滴くらいの〈残滓〉《ざんし》はあって、錠は三人が飛びこんだ〈裡側〉《うちがわ》にあった上に、扉は分厚い金属製で破るにも相当手間と時間を要しよう、おまけにその扉以外に外部区画との連絡路はないのか、機械化通廊の前後の果てに人影は見えないという大盤振る舞い、なかなか尽き果てたどころの騒ぎではない。  残された幸運の果実を無駄にはせぬように、トゥアンとアージェントは機械化通廊の奥にとにかく逃げようとした。先導は瑛に任せたと頼りきりだが、訳知りらしい者にはそれなりの重荷が肩に掛かる。しかし瑛はそんな荷など放り出したか、逃げる様子を見せず、トゥアンとアージェントを〈愕然〉《がくぜん》とさせた。  瑛は三人が入りこんだ扉からやや離れた、通廊の中途で天井に隙間があって、壁面が上方に切れ上がっているあたりに飛びつくや、張り巡らされた配管や機械群を手がかりによじ登り始めたのである。 「瑛、待ってよ、そんな隙間によじ登って、そっから逃げるのか!?」  天井の隙間の奥、暗がりに半ば姿を消した瑛から、違う! との〈応〉《いら》えと同時に、暗がりで何事か操作したのか、隙間の真下の、通廊の壁面を為すブロックの一つが、  埃巻き上げながら〈滑〉《すべ》り出てきて、その天面は各種操作〈釦〉《ボタン》やら〈目盛り抓み〉《ダイアル》やらで、中将棋の乱戦の局面を思わせる複雑さ加減で埋め尽くされた〈制御盤〉《コンソール》となっていた。  瑛は〈制御盤〉《コンソール》の操作をトゥアンに、アージェントには扉と通路の見張りをそれぞれに言い付けたのだった。  二人して訳がわからず、鰻を採ってこいという命令書を持たされて沙漠に蹴り落とされた降下兵の心地で顔見合わせて、この時浮浪児と〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の間に初めて共感めいたものが生じていたと言っていい。それでも瑛の声音には、逆らいがたい意志が彫刻されていて、二人は言う通りにする他なかった。  ……アージェントとしては。内側からしっかと封は掛けたのであるし、扉は彼女には鑑別もつきかねる金属でありながら───なにしろ詰め物を入れた乳房と天然の美乳の鑑定とは訳が違う───重く分厚く、なんとも頼もしく堅牢堅固そう。  扉越しの部隊の気配はぞわぞわ黒縄となって扉の継ぎ目からはみ出すようではあるにしても、まず錠は大事あるまいとみて、やや湾曲して延びる通廊のそれぞれ向こうと向こうに交互に視線を巡らせる。一体何時通廊の奥から追っ手が現れたものだか、最悪挟み撃ちの可能性だってある、とアージェントはそれを恐れたのだが、と、すぐ〈傍〉《かたわ》らでぎりりと旋音の。  しっかり封を掛けた筈の、旋回式の錠がぐうるりと、緩慢だが着実に回転していっていた。解錠を示す向きで。  しばしそのまま、机の端から結構な青磁の花瓶が落ちていくのを眺めるような、半ば痺れた心地で見守って、はっと心づいてわぁわぁ叫びつ腰の帯鞄から、咄嗟に取り出し外からの解錠を食いとめるべく、旋回錠の回転板の隙間に噛ませばがっちり食いこんで、解錠はどうにか妨害できたものの。  〈楔〉《くさび》替わりに錠に差しこんだものが、素敵な初体験を迎えられるという霊験を持つ筈の、〈厭勝〉《おまじない》の硬貨、というだけならまだしもの、その製法が怪しげな呪術本から引いてきた、処女の経血と愛液(即ちアージェント自身の)と、唾液と涙に浸して三晩月影に晒すという、よくまあそんな〈尾籠〉《びろう》な呪術に手を出したものだと後から思えば〈慚愧〉《ざんき》物の、アージェントの恥多き過去の〈象徴物〉《アイコン》の一つだったと気づいたときには〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》、少なからず後悔したものだが背に腹は代えられぬ。  いかなる手段を用いて外部から解錠してきたかは知らず、こちらも全く油断は出来ないと、扉に耳を押し当て向こうの気配、探ろうとするも、いかんせん分厚さが今度は仇となって聴き取れず、それでもじっと耳を〈凝〉《こ》らすうちに。ふわりと。最初は感じられるかどうかの温かさだった。それがすぐに、耳を生温かな舌で愛撫するような心地好い熱に変わり、次いですぐさま焼かんばかりに、アージェントは耳を火傷する寸前でもぎ離せば。  扉の面が見る間に一部赤熱化して、その中心に赤い光点が点り、じわじわと点から線にと延びつつあって、その意味するところを覚って絶叫だ。 「ちょっとぉ!? こんな、ここで〈雪隠詰〉《せっちんづ》めじゃあすぐに破られ───熱ぅっ、や、奴らこの扉、焼き切るつもりよ!」  そればかりか。扉をごん、と揺るがした重い衝撃に続いてめりめりと〈軋〉《きし》む音の、外部から凄まじい圧力が加えられてきて、がっしり封じられていたはずの扉にじりじりと隙間が空き───  こじ開けられると見て取って、アージェントは更に絶叫をけたたましく重ね、〈把手〉《とって》に飛びつき脚まで高く掲げて押し当て踏んばり、開きゆく扉を留めんと必死の奮闘、焼き切ろうとする熱線を避けてだから、どうしても体勢は珍妙なものとなり、スカートなどは大きく〈捲〉《めく》れ上がって〈太腿〉《ふともも》を付け根近くまで露わにしての、下着まで晒してしまっているやもだが構っていられるものかは。  胸乳を大きく晒して旗掲げ、民衆を導く自由の女神にも匹敵する勇ましさ、と讃えたいところだが、いかんせんアージェントでは油に放りこまれそうな二十日鼠の恐慌の方が先に立つのである。爆走する列車から線路に滑落しかける、という事件を経て以来、〈夥〉《おびただ》しい恐怖を前にすると失禁しかかるという癖を得てしまっており、この時だって───否、漏らしてなんかいませんとも、ええ。ちょっとばかりショーツに滲み出したのは心の汗というもので。  背後ではアージェントがかくの如く大騒ぎで、トゥアンとしても助太刀してやりたいところではあったが、彼は彼で瓢箪で鯰を捕らえろの題にも匹敵する難題に悪戦苦闘で、他人様に手を貸していられる余裕などなかった。 「瑛、僕も、言われてるみたいにしてるけど、こんなめんどうな機械なんて使ったことない。巧くできてるかどうか……」  どの操作〈釦〉《ボタン》どの〈目盛り抓み〉《ダイアル》がいかなる機能を持たされているのか判らない上に、そもそもトゥアンは何を目的として〈制御盤〉《コンソール》を操作させられているのかそれさえも知らされていない。取扱書など有る筈もなく、なんぼ男の子は本来的に機械いじり好きだとて限度がある。裏ッ側の〈単軌鉄道〉《モノレール》を動かした時とは、操作の難度も状況の切迫度合いも天と地ほど隔たって、トゥアンは全くもって往生していた。  頭上の瑛から次はこう、その次はどう、と指示が降ってきて、それに従って〈釦〉《ボタン》を押しこみ抓みを回転させたり上下させたりはしているが、正解だからといって○のランプが光ってファンファーレが鳴り鳩が飛ぶわけでもなく、間違えていたとしても×のランプが点いてブザーが鳴って足元の床が抜け〈泥鰌〉《どじょう》が密集した桶に落とされるわけでもなく。  合っているのかいないのか、瑛には頭上から天の声を寄越すより隣にいて欲しいところだが、相棒からも手が離せない緊迫感が伝わってきて。  だからといって緊張に耐えかね放り出すなぞいう愉快な真似は、天が許しても浮浪児の仁義と相棒への面目にかけても許容いたしかねる。  ただ、半泣きになるくらいは許されるはずで、トゥアンは焦りに喉をひくつくかせながら瑛を急かしたてた。 「まだなのか、なんかアージェントも限界っぽいぞっ!」  もしかしたら、自分は致命的に操作を誤っていて、次の瞬間〈制御盤〉《コンソール》が目出度くも大爆発し、何処から何処までが瑛でトゥアンでアージェントなのか鑑定困難なくらいの〈血糊屑〉《ちのりくず》を通廊に混ぜ合わせてしまうかも、と一旦危惧してしまえば後は止めどもなく膨らんで、トゥアンは勇敢な〈英雄〉《ヒーロー》にポンとなれる注射薬がもし手元にあらば、その副作用で、後で全身から七色の膿を垂れ流して発狂するという物哀しい憂き目を見ることになったとしても、状況を打開するため即座に首筋に突き立ててしまいかねなかった。 「いいから! 二人とももう少し踏んばれ、ボクの方ももう直に……っ」  怒鳴り返してトゥアンに叫ぶ最後の指示、相棒を信じてはいたが、ぶっつけ本番であの操作手順をこなせと言うのは瑛自身にも無理難題だと了解されていて、トゥアンがどうやら操作を終えたらしい、その後の数拍の間、断頭台の刃が落ちかかってくるかに首筋がひりついた。トゥアンは言葉もなく頭上の瑛を見上げ、アージェントは押し広げられていく圧と焼き切っていく熱に耐えきれず金切り声を上げる───と。  瑛の眼前の壁面に動揺が走り、亀裂が生ずる、と認める間もなく小気味よい鳴音と共に壁の一部が〈横滑〉《よこすべ》りして開き、その〈裡側〉《うちがわ》に隠されていたものが迫り上がり出す。トゥアンの操作によって、開封されて。  それは、一種の集積回路と言えたろう。地球上のそれとは異なる理念によって構成されてはいるが、極めて高度で不可解な知識体系によって造り上げられた。  〈快哉〉《かいさい》を、叫ぶより先に瑛は、集積回路の上に手を〈翳〉《かざ》し、発した声は、言葉と言うより音で造った複雑怪奇な紋様じみて響き、足下にあったトゥアンを仰天させた。  暗がりに光を置いて、瑛の掌を中心に展開された怪奇複雑な紋様は、この時代の駅では遣い手などほとんどいない、高度な呪術方程式の契印の具象化であった。 「今何したの!? 今のは……呪式を展開させた……? 君が呪術を使えるなんて!」  幾つかの事態が、間髪を入れず続け様に発生した。  アージェントが外からの攻勢についに耐えかね、〈把手〉《とって》から手足を離して尻餅をついた時、あと僅かで破られようとしていた扉の、上から追加の隔壁が落ちてきて追っ手を締め出した。今度の隔壁は元々の扉より更に難攻不落に見えた。  急激な気圧の変化に晒されたように、三人の耳と鼻の奥に軽い〈痛痒〉《つうよう》が走る。だが機械化通廊内に生じていたのは気圧の変化ではなく、もっと根深い何か。景色に劇的な変化が有ったわけではないが、三人ともここの、根本的な生命ともいうべき力が長い歳月を〈閲〉《けみ》して再び目覚めたことを感じていたのである。  かつ、三人から程遠からぬ通廊の片隅の床の一部が〈滑〉《すべ》り開いて、矩形の穴を覗かせ、其処からするする銀に光る金属の棒が伸び上がり、天井まで達してぴんと突っ張った。この奇妙な通廊に出現されてトゥアンもアージェントも一瞬戸惑ったが、すぐに避難用の〈滑〉《すべ》り棒なのだと理解する。壁から降りてきた瑛も、世慣れた風に親指を立てて指し、避難口に駆け寄った。  この際アージェントを先に行かせたのは、〈滑〉《すべ》り降りる先にもしどのような危険が待ち受けようとも、まず彼女を〈贄〉《にえ》にして自分達は回避しようという賢明な判断からではなく、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》が後に続いた場合、滑降にスカートが〈捲〉《めく》れ上がって、自分達がその中を覗いてしまってはきっとぎゃあぎゃあと〈喧〉《やかま》しいから……いやさ気の毒だ、という純然たる思い遣りによっている。  摩擦熱で手が焼けるのでは、とアージェントは恐れて滑降の速度を抑えていたが、特殊な加工が施されているらしく、〈滑〉《すべ》り棒は肌に冷んやりと、さらさらと〈滑〉《なめ》らかなまま。  とりあえずは身体を離さないようにと、〈太腿〉《ふともも》に〈滑〉《すべ》り棒をきつく挟んだら、それがまた具合良いところに具合良く当たって、妙な気持ちになりそうな。だから頭上の瑛にぶつくさぼやきは〈股座〉《またぐら》から気を逸らす為もあったが、実際危地を脱した経緯についても全てが納得ずくではない。 「てか何がやりたかったかさっぱりなんだけど。説明をしろよ説明をよう」 「あ〜……映画車輌と、ここの管制装置との情報連結をちょっと、な」 「これであいつらのやってることとか、航宙技術のこととか、映画車輌を中継して、駅の画像とか、音声の端末に一々割りこみ配信されるように───」 「はぁん、情報連結ときた、えっらそうに……ってちょっと待てお前、あたしの映画車輌を勝手に使うなやっ」  アージェント自身、実のところ瑛が述べた言葉全てを把握したわけではない。情報連結などと吹かれたところで、どこの業界用語やらさっぱりの、それでもおおよその意味は汲んで、〈憮然〉《ぶぜん》となった。  察する限り、公安の動向を駅全土に配信などという〈豪〉《えら》く高度複雑な操作をしでかしているようだし、なぜ〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》如きがそんな真似を可能とするのかも不明で、しかし問題はそこではない。似たような事態なら件の『移動舞台(以下略)』の際に目撃していて、あの時と同様に自分の映画車輌が中継点にされているのがアージェントの癇に触ったのだ。  大体、アージェントの映画車輌は、彼女が逃亡してくる際、公安の部隊に接収されそうになっているのだが、しかし考えてみれば瑛がそんな事など知るはずもないのであった。 「細かいことは気にすんなよ処女。でもまあ、踏んばってる時にちらり出ししたパンツは、なかなかイけてたっけな」 「あんたに見せる為じゃねえわっ。どうしてそういうトコばっか覗くかなぁ!」  では誰の為なのだろう、という事はアージェントは今さら考えない。 「僕も聞きたいよ、瑛。君、さっき使ったの、アレ呪式だろ? それもなんだかえらく難しそうなやつ。昔や戦争の時とかはともかく、今駅にああいう術を使えるのはろくにいないって話じゃないか」 「瑛……君は、どうしてそんなことが。君は一体……どんな誰なんだ?」 「ま、昔ちょっとな……」  これまでずいぶん長いこと一緒に過ごしてきたはずの相棒の、未知の側面が徐々に浮上しだし、戸惑うトゥアンを、瑛は今ははぐらかすのみ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  瑛が機械化通廊に施した操作に反応するように。  〈身動〉《みじろ》ぎし、更なる活動を───  開始した何者かが、在った。  駅の画像端末に割り込みを掛ける?  自分達が秘密裏に進めている状況を───  公然のものとする?  よろしい。こちらにも対抗手段はある。  駅の全土、至るところで蠢く気配の有り。  それは駅の地上地下。  あちこちに張り巡らされた───  〈数多〉《あまた》の水路に沿って。  というより水路の網、それ自体。  それそのもので。  廃棄された気候観測塔。  瑛とトゥアンのねぐらを襲撃させた。  その、意志が。  駅の水道にと、意識を拡げ───                    ───五───  地表に戻り、大通りに出た三人は、すっかり日も昇った駅の、陽差しを浴びて〈燦々〉《きらきら》と、〈茨〉《いばら》に囲まれて眠る乙女の素肌にかけてやりたくなるくらいの、草の葉に光る朝の輝きのような〈燦〉《きら》めきに満たされた駅の景色を眺めて、唖然としていた。  それは馬鹿みたいに〈燦〉《きら》めいていようとも。  駅のそこかしこ、視線の及ぶ限り建物だろうが道路だろうがところ構わず、水滴や水溜まりがとっ散らばっているとあっては。  三人が屋内にある間に〈驟雨〉《しゅうう》一過でも、いやそんな生易しい事態ではない様子の、立ち籠める臭いに雨に洗われたといった爽やかさはなく、都市の内臓の臭気が染み出したかに生臭く焦臭い。水は空より注がれたというより、駅の内部から、〈澱〉《よど》んだ老廃物を押し出しながら噴出したかと見えた。  そして噴き出す際、都市空間の老廃物を巻きこんだだけならまだしも、周辺の電気系統も巻きこんだらしく、昼夜問わず駅を彩っている電飾が、三人が見る限り至るところで鳴りを〈潜〉《ひそ》め、景色の中に欠落感の穴を空けている。  人々が苦りきった顔つきでそちらこちらを浸す水の始末に苦戦している中を、平駅員達が振り鐘をからんからん鳴らしたてながら走り回っている姿は、その鐘の〈音〉《ね》だけを取れば牧歌的とも懸賞の当たりを触れ回す目出度さ加減とも取れたが、彼らの伝達の声に耳を傾けてみればそんな〈暢気〉《のんき》な状況ではない事が浮き上がってくる。  曰く───    ───早朝、突如駅内の配水管、スプリンクラー等水回り、各水道管が破裂し漏水するという事故が駅内全域に渡って発生し、各地が水浸しに。  ───幾つかの発電所、配電所近辺でも同様の事故が発生し、各地で停電が発生している模様。  ───また、屋内の水道管の破裂により、漏電事故が発生している箇所も多数。  ───復旧の目処は未定。漏電事故の被害が広がる恐れがあるので、駅の全域において電気の使用を禁じる。  との事で、なるほどこれはただ事ではなかった。  管理局が駅内各処の放送機も使わず、専ら平駅員達の人力肉声による伝令に任せているのは、停電漏電の事情によっているのだろうし、新聞工場の輪転機も電気が通じなければ動かず、号外を〈刷〉《す》る事も出来なかったのだろう。 「うわああ……あたり一面水浸し……。おまけにあっちこっちで漏電して、街灯表示端末も全滅……」 「こりゃひでぇ。水道管の破裂事故って……聞いたとこだと駅のあちこちであったみたいだけど、そんないっぺんに起こるもんなのか、それって」  厳寒の冬の折りに老朽化した配水管が温度差で破裂したり、或いは〈迂闊〉《うかつ》な工事が地下の水道管を破損して漏水、という事態なら見知っていても、こうまで広範な水道事故というのは、トゥアンは知らない。駅の長い歴史を通してみても、そうそう勃発するような事態でもなかろう。 「瑛、あんたのやったことは、きっぱり無駄だったわね」  三人が駅の大通りまで出てきたのは、機械化通廊にて瑛が行った情報連結云々の首尾を確かめるためである。  水の匂いに混ざる駅内部の汚臭に鼻梁に皺を寄せつ、辺りの惨状を眺め渡して唖然としているのは、アージェントもトゥアンに右に〈倣〉《なら》えだったが、瑛のやった事をあげつらう台詞に、清々しく〈嘲笑〉《あざわら》う色が混ざっていたのは、なんとも素敵な性格のねじ曲がりようであった。  とはいえ実際に、駅内各処に設けられ、公共情報の伝達や、暇だったり貧しかったりする人々の手軽な娯楽として、普段は流しっ放しになっている画像表示端末も、停電に伴って黒々とした鏡面ばかりを晒してある。風景のあちこちに蝿の複眼が〈嵌〉《は》めこまれたようで、眺め続けると〈惻々〉《そくそく》と〈鬼魅〉《きみ》の悪さが漂ってくるような。 「なんでいい笑顔なんだ。ちょっとは悔しがれよ……やりやがったな。でもどこのどいつだ、こんな……まてよ? 水……?」 「駅に張り巡らされた水の網……概観としてはある種の神経系にも似て……聞いたこと、あるぞ」 「あんた、なにをいきなり言い出して……?」  トゥアンが疑念を抱いたように、一箇所二箇所ならともかく駅の全域で同様の水道事故が発生するというのはいかにも不自然で、そこになんらかの意志の介在を連想するのは思考の流れとしては有り得るだろう。瑛があの機械化通廊で行った操作を狙い撃ちにしたような時機であるのも、確かに悪意めいた何かを感じさせた。  が、陰謀論は精神耗弱への一里塚、などともいうように、世の中では負の出来事が打ち続いたとしても、それは連鎖ではなく単なる偶然というのが〈結句〉《けっく》で、その背後に何者かの意志を疑い事実の〈紗幕〉《ヴェール》を剥いでいったところで徒労に終わるのが殆どの。  事件の最奥に〈潜〉《ひそ》み、悪や破滅を掌に操る謎の首領、なぞいう都合の良い存在はいないのだ。  だと言うのに瑛は、始めから何者かの意志を想定したような口振りであったし、事故が水に関わると聞いて、記憶の中でなにごとか響くものがあった様子。怪訝にアージェントが見返す瑛は、何時にない真剣味を帯びて、駅の水浸しの景色にあって、隠れたる悪を愁う、〈粗衣〉《そい》に智を秘めた少年賢者の徳を漂わせていた、といっては言い過ぎか、にしても普段の悪童面からは隔たった〈佇〉《たたず》まいを見せていたのは事実で。 「とにかく、どっか行こうよ。見てる間にもまだ水が溢れてくるし」  トゥアンとしても公安に一矢報いる、という頼りなげに感じていた思いつきが、瑛の知識と術によって現実化しそうだったし、彼自身微力ながらもその助太刀になったとの意識がある。  その成否が、例えば公安の見やすい反撃によって左右されていたなら、失敗に終わったにしろ、闘ったという甲斐は残ったところの、結果的に阻んだのは事故という偶発事象だ。  肩透かしと幻滅すればいいのか、判別つきかねていたが、それでも逃亡中の身の上にある以上、大通りに何時までも姿を乗っけているのは間抜けであったし、水浸しになった駅の情景は、水害の多かった故郷と、それに伴う浮かない過去を想い出させて気分が腐る。  瑛の〈袖〉《そで》をつついた時。    三人から程近い、辻広場の噴水の小便小僧が、台座ごと回転するのが見えた。駅内が水浸しの停電にあっても、嫌味のように水を放出し続ける、白茶けた唐辛子じみた、未熟な筒先が、三人を指した時には、まず危機に〈聡〉《さと》い浮浪児二人が〈厭〉《いや》な予感を覚えた。  そして小便小僧の常なら無邪気な石の眼差しが、その時、そんなところに豆球を仕込む馬鹿もなかろうに、びかびかあ! ───と。  醜聞に身を屈めて歩く女優にたかり浴びせかける、三流〈新聞屋〉《ブンや》の写真機の如き偽善的な閃光を、確かに放ったのを目の当たりにしては、さしものアージェントも悪寒を催して、立ち〈竦〉《すく》んだ、のが浮浪児との反応の差だ。  浮浪児二人は閃光を避けるように飛び退いていたのだが、アージェントはただ立ち尽くし、の、彼女に向けられていた小便小僧の筒先からの放流が一旦〈萎〉《しぼ》まり、刹那の間、して次の瞬間。  石の未熟な陰茎の先から、水の細い白線が〈迸〉《ほとばし》った。細いが凄烈なまでに強力な噴出で、さながら〈光箭〉《こうせん》のように薙いだ。アージェントに向かって、一直線に。水流は道路を〈奔〉《はし》り建物の壁を撃ち〈奔〉《はし》り上がり、空へと吹き抜けて、その、威力───一瞬後、水流の軌跡線を芯に、道路の敷石、建物の外壁が細かく砕かれて舞い上がった。  そしてアージェントは、その石をも砕く〈奔流〉《ほんりゅう》の直撃を喰らい、股間から脳天までは一直線に大切断、されたりしなかったのは、飛び退ったトゥアンの肘が、偶然彼女を突き飛ばす形となって、身体が流れていたからだが。 「え、な、なに───あわああああっっ」  〈水飛沫〉《みずしぶき》を浴びただけで、水流の直撃こそ免れたものの、それが砕いて巻き上げた敷石の破片が、〈強〉《したた》かに彼女の尻を撃ち据えて悲鳴を絞り出した。 「水流が……道路、砕いた?」  超高圧を掛けて噴出させた水の細流が、切断加工に用いられる事は著名な事実である。中に研磨剤を混ぜこむ事により、硬質な刃物さえ両断するほどの威力を得る。今の小便小僧の超排尿の破壊力を見るに、噴射される際削り取られ水流内に混ざった、内部の石材が同様の効を発したのだろう。  三人にとっては〈甚〉《はなは》だしき迷惑としか言い様がない。浮浪児達の敏捷な逃げ足を止める程の異常事態は、更に波状に襲いかかり───  臀を押さえてしゃがみこむアージェントの側で、浮浪児二人も呆然と足を止めた、そのトゥアンの頭上にぱらぱら降りかかったもの、埃と石の細片。  見上げれば、通りに面して古壮を誇る石造建築の、銀行の軒上に造り付けられた〈鬼石像〉《ガーゴイル》の、雨樋口ががぱりと、今まさに何かを吐きださんとするかに口を開けた、それが零した埃と石の細片で。 「! やばい、瑛!」  〈鬼石像〉《ガーゴイル》の口から、水が溢れた。溢れてなお口から離れず、宙に球塊を為して膨れていき、小型の気球程にも膨張したそれが、一転、籠球の小ささに変じたのは、〈萎〉《しぼ》んだのではない、水量はそのまま高密度に圧縮されたのだ。  放たれた音は、労咳患者が青痰を吐くように不健康に聞き苦しく石の喉に絡んだ。  直感と本能が思考より先に少年の身体を駆動させ、隣に立つ瑛を、手では届かない、だから相棒の脇を蹴りくの字に突き飛ばす形となったたけれど、この際四の五の言っていられない。蹴り飛ばした反動でトゥアンも跳んだが。やはり一挙動の後れがあった。  道路に撃ち、敷石を穿って弾けた水の量は銀行屋上の雨水槽の全容量ほどもあったのではないかという位に大量の。  水球を、避けきれず、それでもどうにか肩口に掠めさせただけに抑えた、のにトゥアンの身体はきりきりと旋転し、路上に叩きつけられ、勢いの余波で更に一転、二転。 「う、ぐぅぅぅ!?」  それでもトゥアンが〈呻吟〉《しんぎん》の声押し出せたのは、昏倒せずに済んだと言う事、派手な横転は、むしろ〈鬼石像〉《ガーゴイル》の大嘔吐の勢いをいなす効果があったようだ。  辛うじて立ち上がったものの、肩を襲う激痛に通りの石壁にもたれて必死に息を整えるしかできないトゥアンに、追撃の砲口が据えられた。  通りの向かいのカフェの、二階の出窓を飾る花鉢へ、定期的に柄杓で水を注ぐ仕組みとなっている、水遣り娘の〈絡繰〉《からく》り像が、かたかたと戦車の〈砲塔〉《ターレット》が旋回するように向き直り─── 「トゥアン、上からだっ、伏せ───」  小さな柄杓で小さな桶から水を汲んでは注ぎ掛ける、それだけの牧歌的な動作が、この時は高速で回転する投石機、ならぬ投水機と化した。その水が石と同等の硬度と、勝る粘度で撃ちこまれるのだから始末に負えない。  今度は瑛がトゥアンを引っ張り、手荒に建物脇の塵箱の中に叩きこんで避難させた、はいいが、水弾の一つに〈脾腹〉《ひばら》を撃たれた。 「〈痛〉《つ》ぁぁっっ!?」 「いてて……瑛、無茶するなよ……っ」  「だいじょぶ、脇腹を少しやられただけ……痛ぇ……あんま、大丈夫でもねえ」  微笑もうとした気丈さを、激痛が上回って唇を歪ませる。追われた獣の目で視線を巡らせれば、近くに建物と建物の隙間の、三人くらいは〈潜〉《もぐ》り込めそうな。トゥアンに目で合図して、脇腹を押さえ、よろけながら隙間に入りこむ。  トゥアンも塵箱から飛び出し、アージェントも差し招いて建物の隙間に身を〈潜〉《ひそ》め、やり過ごそうとして三人は、引き〈攣〉《つ》った目ですぐさま通りに舞い戻る羽目となった。  見てしまったのである。建物の陰に、清掃用の水道口の、〈嵌〉《はま》ったままのホースが水流吐きながら怪蛇のようにのたうっていたのを見てしまったからである。 「まずい……っ、蛇口なんてどこにでもあるんだ」 「なになになんなの!? なんで小便小僧とかガーゴイルとかがあたしらに……あ。痛い痛い、お臀、これやば───ひぃぃ!?」  通りに戻った三人を迎えたものは、防火栓が砕け弾けて龍の火の息の凄まじさで水流を上げる様とそして、通りにある全ての蛇口、全ての水の出口が、自分達に向けられる、死の圧力に満ち満ちた気配。  水を被るとずぶ濡れになる、などと誰が決めた? このままではずぶ濡れどころか致命傷を負う事になろう。 「トゥアン、アージェント!」 「もおやだぁぁぁーーっっ」                十字砲撃挟叉砲撃、切断する、穿つ、押し潰す、破砕する、全方位から三人に水が襲いかかり、〈水飛沫〉《みずしぶき》が視界を圧し、放水の響きが〈耳朶〉《じだ》を塞ぎ、濃厚な死の匂いが鼻孔を麻痺させた。  アージェント、目は迫る死の恐怖を逸らすために、瞼裏に星が散るほど強く塞いだ。両耳も塞ぎたかったけれど、片手は臀の痛みを〈庇〉《かば》わないといけないから半端に片耳だけ押さえ、地に〈蹲〉《うずくま》り、〈軋〉《きし》り上げたのは哀れで惨めな懇願、だがその死を恐れ生を求める懇願を誰が笑えたものだろう。おまけにアージェントはまだ男も知らないのである。処女なのである。ああも自慰中毒では新古品というべきなのかも知れないが、それでもやっぱり新品なのである。 「〜〜っ、〜〜っ、助けて、誰かぁぁ……っ」  自分の身体に穴を開けるのが、男の象徴ならまだともかく、銃弾や、今度の水撃と来ては死んでも死にきれたものではなかろう。  それでもアージェントは水に穿たれ儚くなるのだ。瑛とトゥアンはアージェントよりはいくらか〈敢然〉《かんぜん》と水に対峙しているが、水撃はその姿勢なぞたやすくねじ伏せるだろう。結局は同じ末路を───  末路は、最期は、まだ来ない。  非業の死の瞬間というのは、長々引き延ばされて死に逝く者により恐怖を深く刻みこむのか。だとすれば余りにも余りな苛酷な死の鎌だ。  それとも、自分を殺すものを、目に焼きつけていかない事には、冥府の裁きで自分の死に様を報告するにも困ろうという、温かな恩情故か? 「……? ……死んでない? 今絶対に喰らうって……」  アージェントがもう自暴自棄になって目を開け、身を起こすと。  黒、だった。  紺色の暗がりの中の白の奥で、黒く、ふっくらと〈艶〉《なま》めかしい円みに息づいていた。 「間に合ったな」  動きを封じられ、いよいよ全ての水撃を喰らうばかりとなった三人を、〈囲繞〉《いじょう》して水を防いでいた壁があった。人の、壁───  その内側に身を屈め、声を掛けてきていたのが、どういう冗談なのか、これまで三人を追いかけ回してきた公安の、浮浪児狩りの三条朱鷺子だったという。  彼女の背後のマンホールが蓋を開けていて、そこからわらわらと湧き出してきているのが大盾を抱えた平駅員達で、三人を守る輪に増援していく、盾の円陣は古代の兵士の防御陣さながらで。 「えぇー……黒って。パンストとかもレース付で。いや、でも似合ってるのかなぁ」  アージェントが見たものと同じ物を見たのだろう。片膝を立ててしゃがみこんだ、股間の奥に注がれた視線を、非常時として無視した朱鷺子だったが、トゥアンがそこで目を外して起き上がらなんだら、警棒で脳天をどやしつけるかしたかも知れない。  まあ結果的には、警吏と見れば即脱兎の浮浪児の拍子を外した事にもなるし、そんな相棒につられて瑛も覗きこもうとした事で、やはり逃げ足の枕を押さえる事にもなった。もっとも瑛の方は、身を屈めようとして〈脾腹〉《ひばら》の激痛に阻まれて、朱鷺子の下着の色をその眼では確かめられずに終わったわけだが。 「今度こそ、逃げてくれるなよ、とはいえ。今度はお前たちを逃がしに来た」 「任務とはいえ、世の中はどうにもアンビヴァレンツなものだな」  逃がすと、それが任務なのだと、皮肉を嘆ずる風ではあったが、朱鷺子は確かにそう言ったのである。それは、浮浪児のねぐらとアージェントの映画車輌を襲撃し、その後も追跡し続けた、同じ公安の部隊とその指揮系統とははっきり〈袂〉《たもと》を分かつ言葉でもあった。 「公安が……守った? 逃がしに来たって」 「立てるか、子供達」 「……つっ、誰が公安の手なんか借りるか、ちょっと脇をやられたくらいで……あいたぁぁぁ!?」  虚勢は痛みの前にたちどころに瑛の面から漏れ落ちた。なんとなれば瑛、トゥアン、アージェントの順に朱鷺子は、 「痛ぇぇぇ!?」 「痛い痛い痛い、やっぱりどうしたって臀が痛いいいいっ」  三人が〈庇〉《かば》っている箇所を軽くまさぐって、賢しら口を封じたのである。いや朱鷺子としてはそういう意地の悪い心根はなく、傷の度合いを確認するだけのつもりだったと、そう信じたい。信じたいのだが。 「……折れては、いないようだな。そっちの肩も。猫実も、その尻は打ち身で済んでる。処女膜は無事だ」 「今度は、臀より心にダメージを喰らったわよ! なんであたしの膜に話がいくわけ?」  それはまあほら、アージェントの存在意義というのは、彼女がどれだけ頑として〈拒〉《こば》もうとも、その膜一枚にかかっているという事を彼女を知る者は皆心得ているからだろう。 「いいから聞け、子供達。お前達は、『封印派』に追跡されている。このままではそいつらに捕縛されるだろう」 「……やっぱりか。まだいたのかあいつら」  朱鷺子が口にした、どこか宗教の一派閥にも通じる響きを持つ言葉はトゥアンとアージェントには耳慣れないものであったのに、瑛は既知の言葉だったようで、呆れと憂慮の吐息混じりに呟いた。  ……こうして瑛は、またトゥアンの知らざる側面を見せていく。彼のような年代にある男の子にとって、相棒であり親友でもある連れが、自分には判らない知識を有しているというのはえてして羨望から嫉妬の素となりがちなものだが、トゥアンが覚えたのは、懸念というのに近かった。  瑛が遠い人となって離れていくような、否、それもあったが、相棒が独り重荷を背負いこんで、かつそれを明かせない、もの侘びしさと共に胸の底に沈めているのではないかと、それを懸念したのである。  それを思い遣りというのはたやすい。が、いかに駅の浮浪児、悪童として世故に慣れているとはいえ、その年でその洞察は、異常、とも言えた。物分かりがよすぎる。 「………………」  トゥアンは瑛を見やり、考えた挙げ句今はまだ何も言わない事を選んだのだが、そのような心理劇を少年が展開している外では、いまだ水の襲撃は続いていた。  今回駆り出されたのは、平駅員の中でも比較的体力腕力に優れた者達のようで、制服の下には筋肉のうねりが感じられる。  けれどその平駅員にしても、地を裂き穿つ水撃に〈抗〉《こう》し続けるのは難しいようで、円陣の一画には膝を苦しげに震わせるものも現れた。 「公安官! 水勢が強すぎて、盾でも防ぎきれません! このままだと、あと幾らも保ちませんよ」 「なんで僕らがこんな危険業務に……」  不平を漏らした平駅員を、以前の朱鷺子だったらその陰嚢を「優しく」握り締めて叱咤激励をくれたやったところだろうが、今は無茶な任務につかせているという自覚もあって、だから手短に瑛達に用件を伝えてこの場を畳む事にした。 「『ライブラリー』に来い、との案内人の伝言だ! お前たち、この下水道はもう一滴の水も通ってない。ここを通ってまず逃げて」  私としては駅外への退去を勧める、その為の手引きなら用意すると、朱鷺子はなおも続けようとしたが、言葉にする前に舌の上で虚しくくぐもり尻すぼまりに消えた。  三人の姿は、浮浪児二人はおろかアージェントもかき消えて、彼らが確かにそこにいた事を示すのは、マンホールの縁に引っ掛かっていた、瑛の帽子の耳当てのみ。それもすぐさま引っ張られて中に消えていって、三人は厄介事は女公安官とその部下に押しつけてとんずらを決めこむ、いっそ潔さを感じさせるくらいのに逃げっぷり。  朱鷺子は、げんなりと目を閉じながらも、次に見開いた時双眸に〈漲〉《みなぎ》らせていたのは解放感であったという。 「……とにかく、子供達は逃げたな」 「……ようし」 「あの? 朱鷺子さん? なにか目の色が」 「この水害は、鎮圧しないといけない。そうだな?」 「そうですけど、それは別の部署が」  朱鷺子にお付きの平駅員としては、もう既にとんでもなく〈厭〉《いや》な予感の紙やすりで、陰嚢から背筋に掛けてざりざり擦られていたのであるが、それでも必死に朱鷺子を説き伏せようとしたのだ。どこかで無駄と覚りつつも。  大体鎮圧すると朱鷺子は簡単に告げたが、自分達が持ち出してきた装備は大盾くらいの、それでこの異常な水撃にどう立ち向かうつもりかと、一瞬通りに目をやってから、視線を戻して彼は腰を抜かしかけたという。 「そう、鎮圧する必要がある」  朱鷺子は、目を離した隙に朱鷺子は。  随分と目方と〈嵩〉《かさ》が増していた。  全身に着装した重火器によって。  肩帯で吊った重機関銃を〈主武器〉《メインアーム》とし、〈補助武器〉《サイドアーム》として片手に狙撃銃、更に肩下と腰には自動拳銃の銃帯、襷掛けに各種手榴弾を連ねた装備帯、なんのつもりか背中には対人地雷まで担ぎ、肩には誘導式榴弾発射器、スカートの中の〈内腿〉《うちもも》には小型拳銃も巻いてあって、弾倉も身体各処に山盛り、単独で小国の軍隊でも相手にしようかの勢いだが、身体のどこかに一発でも銃弾が掠めたならたちまちに誘爆、彼女を爆心としてクレーターが穿たれるのではなかろうか。 「今、その武装、一体どこから……」 「そろそろいいよな、火力を解禁しても」 「よくない、よくありませんよっ」  最早自分の制止など、彼女の耳に届くはずはないとは判ってはいた。諦めだってあった。けれどそれをも上回る良心で、平駅員は朱鷺子の腰に〈縋〉《すが》って留めようとしたああそれなのに。 「さあ……火薬と銃弾と硝煙の時間だ」  各種兵装の作動音。  銃声が、水撃の響きを〈凌駕〉《りょうが》する様を、頼もしいと一瞬なりとも覚えてしまった平駅員は、己の不明を深く恥じた。 「あはははははははははっっっ」  桜の森の満開の下で舞う、女神のように晴れやかな〈哄笑〉《こうしょう》が巻き上がる。〈髑髏杯〉《カパーラ》で人血の酒を舐めて酔い痴れた、人を喰らう女神の大笑だった。  火線が通りを薙ぎ払い、その線条沿いに石塊を撒き散らして縦横無尽。  小便小僧の性器が吹っ飛び〈鬼石像〉《ガーゴイル》の大口は頭ごと消し飛び水遣り娘は原形を残さず、発砲音と爆発音と破砕音、轟音轟音また轟音、戦場の〈狂躁楽〉《きょうそうがく》が水を通りから水流を駆逐していく。  ───水撃がもたらしていた被害に遙かに勝る破壊でもって。 「ああ、ああ、たまらない。やっぱり私はこうでないと」  引き金を絞る度に乳首が尖り立つ。  弾倉を交換する度に淫核が充血する。  手榴弾の留め金を歯で引き抜けば、子宮が〈攣〉《つ》れて膣内に本気の白濁混じりの蜜を多量に湧かせていたし、狙撃銃の照準鏡を覗く時などは、昂ぶりの余り軽く絶頂に至っていた。 「あはははははっっ」  通りを〈邁進〉《まいしん》しながら破壊を撒き散らす朱鷺子の腰にしがみついたままの平駅員は、それでも地に〈踵〉《かかと》を踏んばって止めようとしていたのに、途中から力が入らない。  密着する朱鷺子の肉体から匂い立つ、女の香りが日頃は貞潔な彼の、雄の芯を直撃して陰茎をいきりたたせてしまっていたから。 「……僕、どこまでこの人についていけばいいんだろ……」  そんな風に、朱鷺子の推進力にこれまですっかり慣らされて、というか調教されてしまって、引きずられるように発情してしまう自分の身体が、恥ずかしくて情けなくて。無理矢理絶頂させられる処女のように〈啜〉《すす》り泣きながら、平駅員がそれでもしがみついていたのは、もう制止するためなのか、朱鷺子の肉体と、それを通じて骨身に響く重火器の反動から離れられなくなっていたせいか、もう判らない判りたくない。  少なくとも浮浪児と〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の三人を〈庇〉《かば》い逃してやったのだ、という誇らしさは、今の平駅員にとっては薬にもならなかった。                    ───六───  差し日に焼かれ、夜露に濡れてふやけてまた乾いて、を繰り返し、気の良い百姓女の肌の風合いに至った障子戸の前で、息を殺し、格子の端の紙表へ、指に唾して器用に穴を開けようとしていた瑛とトゥアンだったが、がたつきながら繰り開いた引き戸に指先を噛まれそうになって慌てて引っこめた。  駅の裏ッ側の片隅。  薄の原の中に、さらさら涼しく過ぎる、瀬には〈小鮒〉《こぶな》が泳いで淵には〈鯰〉《なまず》が微睡む小流れと、その際に板間の小上がりと土間と障子戸の庵。屋の外には四角に積まれトタン板の屋根被せられた〈粗朶〉《そだ》積みと、小川に差し掛けられた洗い場の、原に流れに〈茅屋〉《ぼうおく》と、簡素にして〈閑寂〉《かんじゃく》に、過不足なく揃った侘び住まいの眺めだが、これらの要素が十畳ほどの四角い空間に詰めこまれているとなると、〈俄〉《にわ》かに坪庭じみた様相を呈してくる。  四方を根の異なる建物の外壁で囲まれた、中庭なのだか裏庭なのだか判然としない、猫の額の原の中にちんまりと〈嵌〉《は》めこまれた草庵というのは、それこそ壺中天の趣に〈佇〉《たたず》むが、大体にしてそれを言うならここ駅の『裏ッ側』にしてからが今隠れ里のような世界だ。  浮浪児二人は今度は〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》を加え、朱鷺子が示した下水を走り抜けてまた裏ッ側に舞い戻ってきてあった。表と裏を行ったり来たりの舞台替わり、まことに忙しい限りだが、女公安官の残した伝言を無下にもできず。朱鷺子への反感は反感としても、彼女とその部下達が身を張って守り逃してくれたのは事実であるのだし。  女公安官が残した伝言の『ライブラリー』、駅に『〈図書館〉《ライブラリー》』に相当する場所は幾つもあれど、『案内人』という言葉が揃うとなっては一つしかない。  アージェントは何時かの奇縁でそこが何処でそれが誰なのか見当はついたが道筋は知らず、トゥアンは『案内人』とやらが何者なのかは当たりがついても『ライブラリー』に心当たりはなく、道も場所も心得ていたのは瑛独りの、というわけで今回も〈水先案内〉《パイロット》は瑛である。  なんでも案内人殿がおわすライブラリーに辿り着くためには、ある印を帯びた〈無法者〉《アウトサイダー》以外は、遺書を〈認〉《したた》め保険に入ってから発つ事が必須というほどの『河の下』なる悪処を通過せねばならないそうな。なんぼ瑛とトゥアンが悪擦れして逃げ足に長けた浮浪児というたかて、全ての網の目をすり抜けられるわけではない。  その上アージェントという娘まで一緒では、余計にその悪処を踏み〈跨〉《また》ぐなど、兎が〈出汁〉《ブイヨン》と〈香草束〉《ブーケガルニ》と小脇に抱え、鍋と携帯〈焜炉〉《コンロ》を担いで、ペレス・プラード楽団奏でるところのタブーに乗って臀を振り振り練り歩いていくようなもので、まだ火薬庫で火吹きの芸の習得に励んでいた方が建設的であろう。  とはいえアージェントとは、追い立てられる焦燥も、傷つけられる痛みも共有した。事ここに至っては、浮浪児二人はアージェントを〈端無〉《はしな》くも巡り合わせにて道を共にする事になった連れと見なすようになっており、お荷物というか厄介な荷というか面倒の種というか、とにかく、重荷という認識は捨てている。ああ捨てているとも本当だとも、見ない振りをしているだけとか捨てるのも面倒臭いとかではないのだったら掛け値の無し心の底からの真実だとも。  そこで、三人で危害を避けてライブラリーに行き着く為に駅の裏ッ側である。『裏ッ側』は駅の裏なら何処であっても存在している。言い換えればその暗黒の悪処『河の下』であっても、そこが駅の一部である限りは、その裏手を通して繋がっている───  ただ、裏ッ側伝いにライブラリーを目指すとしても、だ。水撃を受けた、それぞれの肩と〈脾腹〉《ひばら》と臀の痛みは、〈堪〉《こた》えて歩けないと言うほどではなかったが、さりとて無視もできない骨身に噛みつく〈疼〉《うず》き虫で、三人はどこかで休んで手当をつける必要があった。で、畳を借りたのが先ほどの草中の茅屋である。元はいかなる住人があったのかは知らず、現在は無住の〈荒〉《あば》ら屋で、かつ立地がああなのもあって人目に着かない。大地上各時代各地域の建築様式を無造作にかき集め、〈出鱈目〉《でたらめ》に細切れに〈嵌〉《は》めこんで出来上がっている裏ッ側にあっては、あれでさして珍しくもない隔離空間だったが、一息入れるには好都合だった  一通り手当てを終えて、〈身繕〉《みづくろ》いの為にアージェントは容赦なく浮浪児達を外に追い出した。が、障子に差した影で、二人が中を窺っていたのは一目瞭然だったけれど、アージェントは声を張り上げ追い払う気勢にも乏しく、衣装を整える前に障子に穴を開けてきたなら、覗く目を内から突き返してやれ、などと〈艶消〉《つやけ》しな事ばかり考えているあたり、やはりこの娘には、処女喪失の機会……遠く、遠く……。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  手当てして、ずぶ濡れだった肌を〈拭〉《ふ》いたといっても衣装を乾かしている暇まではなく、靴中まで〈沁〉《し》みた水にぐしゃぐしゃする悪心地、〈堪〉《こら》えながら三人は裏ッ側を歩く。  トゥアンにはそんな時でも裏ッ側にあるのは心が躍る時間であるのに、アージェントは初見の驚きこそあったもののその後の感動というのがどうにも薄く、〈身裡〉《みうち》だけの秘密基地に招かれた客としての礼儀に欠けている、と少年はいささか味気なく思う。やはりそのあたりの感受性が男と女の差、などと考えながらも、半ば無意識に指先を鼻の前に持っていっては、アージェントに引っぱたかれているトゥアンがいる。  何故トゥアンが先程からそんな仕草を繰り返しているのかというと。言ってしまえばアージェントの素肌に触れて、指に残ったその感触をついつい〈反芻〉《はんすう》しようとしていたからで。  水撃に〈蒙〉《こうむ》った、〈撲〉《う》ち身の手当といっても、薬局や医者から処方したようなお上品な薬など浮浪児は持ち合わせていない。幸いトゥアンは荒野行から戻ってきて日も置かず、彼の腰鞄は荒野で〈摘〉《つ》んだ薬草の蓄えが豊富で、本来の意味での、部族の〈薬袋〉《メディスン・バッグ》に匹敵した。  〈撲〉《う》ち身に効く薬草も、三人分にどうにか足りて、茅屋内に残されていた〈薬研〉《やげん》で〈摺〉《す》り下ろし〈捏〉《こ》ねてペーストにして、布切れに挟めば立派な薬草湿布となった。匂いがきついのが難だが、薬効はじんわり〈沁〉《し》みてきて、ずっと楽になって、それに関しては瑛もアージェントも有り難がったしトゥアンとしても鼻が高い。謙遜、は少年であっても知っており、大仰に踏ん反り返りこそはしなかったけれども。 「オマエのその薬草とかのうんちく、なんだかんだで結構助かってるよ。下手な術より使えるじゃん」  呪術方程式の中には、外科的内科的医療効果を発揮するという式もあるという、そういった術とまで比べられると、トゥアンにはちっと面映ゆい。が、素直に喜びかねるところがあるのは、少年の本草に関する知識は、瑛が嫌う麻薬作用のある草々の事も包括しているからで。  瑛が許容する薬草も、拒絶する麻薬草も、煎じつめれば同じ事なのだと言うことを、そこで重ねて説明する労力の無駄は避けたけれど。 「だからって、なんであたしが臀を見せる必要があったのよう……あれくらい、自分で貼れるって言うのに」  トゥアンが瑛の賞賛をまるごと受け入れかねたように、アージェントも単純にトゥアンの手当を手放しで感謝しきれなかった理由と言うのがそこにある。  確かに臀というのは自分の目では改めるのが難しい部位ではあるが、なにも盲人の集団が象を撫でて正体を当てっ子しようというわけでもなし、それこそ手探りで〈撲〉《う》ち身に湿布するくらいは出来ようものを。言い張ったが〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は思春期の悪ガキの助平根性というのを、知ったつもりで舐めていた節がある。  臀はその円みのせいで手探りではちゃんと貼りづらいとか、愚図愚図していると湿布が乾いてしまうからとか、婦人科の開脚台で大股開きよりは気楽だろうとか、瑛とトゥアンが二人がかりで臀出せ芽を出せの成木責め。またそれが事前に打ち合わせしていたでもあるまいに、一対の空中ブランコ乗りはだしに息が合っていて、ついにはアージェントも押し切られた。が、後から考えてみれば瑛まで同席させる事はなかったのだ。  スカート履きの日常だもの、不可抗力で下着を覗かせることくらいはあっても、臀を肌まで他人の目の下に丸出しにしたのは初めてで、アージェントは曰く言い難い〈羞恥〉《しゅうち》に囚われた。おいどとあそこは掌で隠して死守したつもりではあるが、考えてみれば映画車輌から逃げ出して〈来〉《らい》まともに体を洗ってもおらず、水撃でショーツの中までずぶ濡れにされたが、あんなのは〈蒸〉《おむ》れて肌に〈脂滑〉《あぶらぬめ》りを呼んだだけ。  トゥアンが先程から何かというと指先を嗅いでいるのが、自分の汗と脂の臭さを移ったのを確かめているように思われてならず、その度にアージェントは少年を〈縊〉《くび》り殺した後、珈琲の出し殻のプールに身投げして死にたくなってくる。臀を見られた恥ずかしさ、匂いに〈拘泥〉《こうでい》される口惜しさ、それらを許してしまった自分の阿呆さ加減全てで体内の圧が臨界を超えて、目玉がぽんと飛び出してしまわないのが不思議なくらいのアージェントだった。  ぶつくさ放屁のように泣き言垂れ流して、アージェントは片手でそろそろ臀の湿布、スカートの上からまさぐりながら、張りつけるがトゥアンの後頭部。少年はまた指先の匂いを嗅いであったものだから、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は発作的に己が〈腋下〉《わきした》で彼の顔を挟みこんで窒息死させてやりたくなって、すんでのところで衝動を受け流した。 「痛ぇなあ……なあアージェント、君だって、医者にかかる時は服くらいまくるだろうが」  医者の〈喩〉《たと》えまで引っぱり出して鹿爪らしく理を説いて、なんの、薮井竹庵より始末の悪い淫行科、内心では、たとえ相手が根暗で妄想に耽る癖がある自慰中毒の処女だとしても、娘の生の臀の曲線に、ストリップ劇場で〈香盤〉《プログラム》握り締めてかぶりつきになるのに勝るとも劣らぬ昂奮を得ていたのだった。もちろんトゥアンはそんな〈盛〉《さか》り〈場〉《ば》に出入りできる年でもなければ金も持たないのだが。  湿布を貼ってやる時など、アージェントは日頃の憎まれ口が〈月鼈雲泥〉《げっべつうんでい》、「ひゃんっ」とかいう、この〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》から発せられたとは到底思われない、〈前〉《さき》の世か、或いは何時かの〈来世〉《らいせ》か、〈転生〉《うまれかわり》の身の上の、男に可愛がられる幸せを存分に浴びた寵姫が雲の上から見えない管でその喉へ通して寄越したかの愛らしい〈嬌声〉《きょうせい》をあげたものだから、その音が今でも耳に残って陰茎が〈凝〉《こご》って〈疼〉《うず》いて突ん張って。  ……実のところ、今でも収まっていないのである。 「文句垂れるなよ。どうせこういう機会でもないと、男に見せる事なんてないんだし」 「それ以上言うと、あんたの臀には仔牛用の烙印でじゅーってしてやる」 「よくまあ、そうぽんぽんと悪口のタネが尽きないよな。ちょっと尊敬するよ、アージェント」  瑛は瑛で、トゥアンが自分の軽口に合わせて〈囀〉《さえず》ってはいるものの、さっきからちょくちょく相棒がズボンの中の陰茎の据わりを直している事を〈聡〉《さと》く見抜いていた。アージェントは沈黙と愛想笑いを学んで自慰中毒と妄想癖を治して処女を捨てればまずまずの可愛げで通る娘なのだから、トゥアンをけして悪趣味とは笑わない。  むしろ男の子の〈性〉《さが》の荷厄介さは自身判っているだけに、無言で同情と共感の目配せを、相棒に送ってやってから、目線を下に降ろして含み笑いで教えてやるのである。  トゥアンがズボンの前をもそもそやる余り、チャックが降り加減になっている事を。  トゥアンはけして慌てず騒がずけれど落ち着けず、チャックをこっそり直したが───今度の胸苦しさは、アージェントの生臀ではなく、瑛の、瑛が寄越した頬笑みが原因だったからこの少年も色々と難儀な事である。  いくら、瑛の微笑が奇妙に〈艶〉《なま》めいて、唇が桜貝に透き通って、濡れ髪を掻き上げて出した額とこめかみの眺めが新鮮で、男女を超越した媚色を含んでいたとはいえ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  それに最初に気づいたのは、裏ッ側に入ると何時だって周囲の景色に目を奪われ、瑠璃の眸があちらこちらに迷うトゥアンならぬアージェントだったのは〈可笑〉《おか》しい。  この時トゥアンは先ほど妙に瑛を意識してしまったのが引き続いていて、相棒に余計な視線を向けないよう目線を下に向けたままだった故に、のなんともはや。少年よ、疲れ〈魔羅〉《まら》という生理現象にはもう少し慣れておくがいいやな。  ともかく、裏ッ側の宙空に、張り出した軒先同士が繋がって、〈弓掛け〉《アーチ》になった小橋を渡っている間に、すぐ下方に迫り出した、白亜の石造りの洋館の屋上に車座をなしていたそれを認めて、アージェントが身を乗り出す。つられて覗いたトゥアンはおろか、瑛でさえ怪訝げに眉間に皺を寄せたのは、裏ッ側を熟知しているはずの瑛にしても心に引っかかりを覚えたせいにやあらん。  それ、は───  青銅のような、緑石のような、正体不明の材質で、鋳造されたでもなく、刻み、磨き出されたでもなく、かつては生あったものが化したとも、さもなくば始めからその形で異界から大地上に送りこまれたとも取れる、怪しく生々しい質感を有している。  魚の像、と見えた。  ただ全体としての輪郭が似通っているだけで、三人が知るいずれの魚類とも異なって、強いて言えば〈蝶鮫〉《チョウザメ》や〈骨舌魚〉《ピラルク》、〈空棘魚〉《ラティメリア》といった古代魚群に似ていなくもない。だが似ている、程度、どちらかといえば伝説や前時代の博物誌中の、幻獣幻魚の〈眷属〉《けんぞく》といった方がより適当だろう。  そんなのが、思い思いの奇怪な姿勢で、白亜の館の屋上に、一見無作為とも、未知の幾何学に則っているともとれる配置で並べられているのは、偽書中の古怪な天文図の具現のようで、三人はその異妖に誘引されるよう足を止めると。  末期の肺病患者の気管の奥の、聞き苦しい粘音のような水音が湧いて、水、といえばあの大通りでの襲撃と、三人を硬直させて、何故かこの時は浮浪児も得意の逃げ足も機能せず、見入ったまま。  水音は怪魚像から、と聞き分ける内にも、鳴っているのは水音ばかりではない、水底から響くような声があった。魚類には音を発する物があるにはあるが、怪魚像が発していたのは、およそ魚類が立てる音とはかけ離れた、人間の言語で囁き交わしていた。 ───〈範〉《ふぁむ》〈英〉《あん》〈遵〉《とぅあん》。   ───本人は自身を越南人と考えている模様。   ───そのようだが。その血統は、異なる。   ───だが航宙士ではない。警戒の要は薄い。   ───では猫実は。   ───あれか。処女だ。   ───処女だな。ああ、そうだ。哀れな事よ。   ───さて。瑛? A? あれは。   ───不明だ。呪式が錯綜して卦が読めぬ。   ───そもそもあれの記録は、おかしい。   ───そもそも瑛など言う人間は存在しない。   ───あれは一体いつ駅に───  ……別に、分けて注目してもらいたいわけでもないのだが、アージェントは話中の自分への扱いのぞんざいさに、反射的に手近な敷石を引き剥がして投げつけて、しまいそうなところを〈堪〉《こら》えた。 「今この変な像が喋ってたの、あたし達のこと?」 「そうみたいだ」  トゥアンはトゥアンで、血筋の事など云々されたところで知らぬ。彼は物心ついた時より〈孤児〉《みなしご》なのである。 「僕達の事、喋ってたっていうことは……。瑛、こいつらが、サンジョウが言ってた『封印派』……って奴らなの……?」  瑛は視線を擬したまま、無言で〈頷〉《うなず》いて、 「こいつら、表側の影……か?」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  駅管理局中央庁舎群、中央管理棟。駅の中でも見る人間に対して徒労感、〈倦怠感〉《けんたいかん》、憂鬱感を与えて〈甚〉《はなは》だしい、無味乾燥で人間的潤いへの考慮一切欠けた灰色の建築群。この政治的硬直、官僚的責任転嫁、司法的腐敗の一大温床は、駅の歴史と共に所在、様相を替えて、今は駅の中央部のやや南外れの広大な土地を、灰色の箱を積み重ねたような姿で領してある。  駅の他所の積層建築群とは違った質の迷宮じみた建築物で、どの位置どの階層でも同じような面白味のない部屋と廊下が続いて、視覚的に殆ど区別が付かない故、公的手続きのため訪れた利用者は、一体何処の窓口で相談手続きを行えばいいのか困惑するという。何度訪れても慣れる事は困難で、お役所仕事に付き物の〈盥〉《たらい》回しにあったりするともう最悪で、延々と似たような建物内のあちらからこちらの往来を強制された挙げ句、方向感覚を失い〈疲労困憊〉《ひろうこんぱい》し倒れる者さえあるとか。  このような、官僚機構的にも建築概念的にも迷路に等しい中央管理棟の、奥も奥、地下も地下。官僚の中でも限られた者のみが知るその広間は、床面を深く水に満たされていた。漏水ではなく、駅内各処の水脈、水道から意図的に導かれた水だ。燐光放つ石盤が、床面のそこかしこに積み重ねられ、水面から尖塔と突き出して、その灯りで室内を明るませている。石盤には一枚一枚、複雑怪奇な呪術方程式が彫り込まれていて、その式の線の連なり絡まりにも燐光が走り、〈輝滅〉《きめつ》していた。  石盤の〈輝滅〉《きめつ》は、それ自体が一つの言語として法則化されており、呪術方程式の操作に長けたものなら、意味を翻訳し得ただろう。  石盤の尖塔達は、燐光の輝滅で会話し、提案、検討、協議、決定を繰り返していたのである。  それは駅における航宙技術、航宙港機能の凍結の維持に関してであり。その為の種々様様の方策であったのだが。  彼らの計画、意志は先だって『移動舞台暴走事件』によって、多大なる被害を被っていて、計画の方針の変更や、損害の補填の為に、追加の計画の立案すら要求されていた。  それらの追加方針の中には、〈些末事〉《さまつじ》ではあるのだが、とある三人の処分に関しての項目も含まれている。    その三人。廃棄観測塔の浮浪児二人と、映画車輌の管理人の娘。    その三人の処遇を巡って交わし合う、石盤の〈輝滅〉《きめつ》は、駅の裏ッ側での怪魚像の言葉と対応していた……。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「水脈でな、お脳の働きを模造するんだよ。そこに記憶とか、移す。そういう術とかがある。ずっと昔に無くなったけどな」  駅の全土に走る、〈数多〉《あまた》の地下水脈。深く、浅く、縦横無尽に、多岐に別れ、激しく流れるものもあり、ささやかに染み渡っていくようなものもあり。  それらの水脈の網を立体的に透視した場合、脳の神経接続と見立てられなくもない。むろん水脈とシナプスには大きな差違はあれど、流体を回路として用いる演算装置の理論もある。  呪術方程式を用いる事によって、知性と記憶を水脈演算システムに転写する……瑛が二人に告げたのは、そういった事なのであるが、言葉が端的に過ぎたし、呪術についての知識に疎いトゥアンやアージェントには理解及ばぬ事柄だった。それでも曖昧ながらも、封印派とやらいう敵手の輪郭が見えてきた、ような気がしていた。 「しかし、なんだ、アイツら、ボクのやったことをパクリやがったな?」 「お前ね、その思わせぶり、いい加減にしろよな。言いたいことがあるなら、もっと判りやすく言ってよね」  怪魚像を忌々しげに〈睨〉《にら》みつける瑛へ、アージェントも似たような目つきで〈睨〉《にら》みつけながら。 「……この『駅』がさ。ずっと昔は宇宙港であったって話、オマエは聞いてるか」 「宇宙港……なに? その言葉こそ、僕は初めて聞くんだが」  トゥアンにとっては初耳の、それでも遠い遠い彼方へ繋がる響きを帯びていて、少年の胸の奥深くに〈潜〉《ひそ》む、時折〈身動〉《みじろ》ぎしては浮上する、軽い痛みさえ伴う憧憬を誘うような言葉だった。  言葉の字面は、宇宙の港。宇宙へと開かれ、通じる港。あの夕空の中を航宙艇が飛翔していった彼方。地上から仰ぐだけの星々の中に飛びこんでいくのは、どういう心地なのだろう……。  少年が女体へと抱く渇望と同じくらいの強さを持った憧憬だった、といえば台無しな形容にも聞こえようが、男にとってその二つは大差がないのかも知れない。 「まあ、少しは。今まで色々あったし」  少しは、というのはアージェントの大いなる謙遜で、脇から口を挟んだのも、多少の自意識の表出である。彼女は聞いた事があるどころか、その時代の名残を駅の地下にて眺めた事がある。  背負いこめば難事を招きそうな知識で、実際今彼女を見舞っている一連の事態も、あの情景と関連しているのだろう。大っぴらに触れ回るつもりはなく、アージェントとしても胸に呑んでおく事にしていて、この時も曖昧に、けれど思わせぶりに秘密めかしてやったつもりが。  瑛は〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の想定外の反応を返してきたものだから面食らった。 「そこら辺の時代の色々を、封印して回った者がいて、ボクがそれと関わりがあるって言ったら、オマエ信じる?」 「……まさか。だってずっと昔の時代の話なんだし。だいたいお前なんて、駅の浮浪児じゃない」 「確かにその通りなんだけどねー」  アージェントからの突っこみをいなしつつ、一向は裏ッ側を抜けて『河の下』の文書庫へ。 「……にしてもさ。その『封印派』とかって奴らも、なんだかな、だよな。どんだけ昔っからいるか知んないけど、モウロクしてんじゃないだろうか」 「僕は〈故郷〉《くに》の事、いた街の事、もうよく覚えちゃいないけど、それでも一番悪いギャングの事は覚えてる。そいつらはさ、自分達がやった事、いちいち隠そうなんてしないんだよ」 「『封印派』の奴ら、こんな僕達、浮浪児と女までわざわざ追っかけ回してどうにかしようってしてる辺りで、もうボロが出てるじゃないか」 「なんか、後一押しとかあれぁ、一気に崩れるんじゃないかって気がするぜ……なあ、瑛〜〜……?」  言いたい事だけ言って、後は他人任せの口振りだった。だがトゥアンの言葉は、一面の真実を突いていて、瑛を軽く面食らわせたのである。  この相棒は、この青銅の肌に瑠璃の眸の少年は、今までは一緒に逃げるだけに見えたのに、外圧に剣を突き出すような奴だったか? と。  けれども。思えば公安に対しても、仕返しを言い出したのだってこのトゥアンなのであった。 「トゥアン?」  狐に鼻先〈摘〉《つま》まれた面持ちで見返す瑛に、先程までの気炎はどこへやら、トゥアンは普段の何処か沈んだような表情に戻っていて、怪魚像にくれた〈一瞥〉《いちべつ》も同じ、内心が透けてこない。  〈踵〉《きびす》を返して歩き出し、少し先に進んでから、止まって瑛が歩き出すのを待った。ライブラリーとやらを目指そうにも、その道は瑛しか知らないので。  歩む意志はあっても、道がわからない。いかにも少年らしい仕草と言えた。                    ───七───  その大扉は城門と見まごうばかり巨大な。扉の表面には何事か装飾が施されていると思しかったが、前に立つと巨大さ故に全貌を追い切れぬ。  もしもっと大量の光があれば、大扉に施されていたのは、ある一つの紋様だと把握できたはずである。それすなわち、この『河の下』なる暗黒街に入域するための最低限の身の守りとなる『河の下の印』と同じ紋様で。  裏ッ側を抜けてここまで辿り着いたはいいが、今回は通行証の『河の下の印』がない故、この外道の暗黒街の住民に見つかったらどんな仕打ちを受けるか、アージェントは肉体はおろか魂までも損なわれそうな恐怖に〈慄然〉《りつぜん》たる思い、〈如何様〉《いかよう》にしても禁じえないでいた。  トゥアンは物珍しげに大扉を見上げ、手と棒きれを使用した簡易測定で高さを見定めようとしていたし、瑛は瑛で、オーバーオールのジッパーを降ろして無防備にも脇腹を晒し、湿布の具合など治していて、その〈暢気〉《のんき》さ加減はアージェントに〈癇癪〉《かんしゃく》を起こさせるほど。  なにしろ『河の下』の概要というのは。  駅の地下の運河の、そのまた下の、数世代前の煉瓦造りの遺構からなる地下空間で、一般人にはあくまで駅伝説中の存在として認識されている程度、実際の位置を知る者は少ない。  そして、違法者の〈奥処〉《おくが》。お尋ね者の、敗残者の、逃亡者の、物乞いの、落伍者の、駅のありとあらゆる食い詰め者達の中でも外道達の。  絶え間ない震動と、地下に脈動する、駅の内臓血管、機械や下水道から響く重低音そして、病的に伝い落ちる水の雫に満たされて。  かつて瑛がトゥアンに語ったところに曰く、  ───うっかり入りこんじまったら、運が良くって喉をかッ斬られて犬の餌にされるだけで済む。最悪の時はどうなるのかもわかんねえ───    との事で、この大扉は暗黒街からもかなり距離を置いてはいるが、何時無法者が〈彷徨〉《さまよ》いでてくるとも限らぬ。それだけの脅威を知る浮浪児二人が、アージェントと比して落ち着き払っているのは不可解であった。大体三人の当座の目的である『ライブラリー』というのはこの大扉の先で、大扉も『河の下の印』を帯びない者には開かれないという事を、アージェントは過去の経験からして承知しており、 「前の時は、〈袖印〉《そでじるし》を持ったのが側にいたけど、今は誰もそんなの持ってない……」 「その〈袖印〉《そでじるし》とか、一体いつからここの通行証になったんだ?」 「ちょっと待ってな、今解封するから」                瑛がまた呪式を展開させると、そこに現れた印に巨大扉が反応した。開いていく大扉。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。 「ああ、ようやくいらしたな、お三方」 「お待ちしておりましてよ。さ、こちらへ」  開いた先で待ち受けていたのは、駅の案内人の双子、ヒプノマリアとゼルダクララであった。一応三人共に面識はある。 「なんであたしの映画車輌がここに? でも、よかった。無事だったか、これも」  文書庫の〈一隅〉《いちぐう》、書庫内移動用の軌道上に停車していた車輌見て、アージェントは駆け寄って、〈堪〉《こら》えきれぬ〈安堵〉《あんど》の吐息の、それはそうもなろう、彼女の映画車輌がそこに。双子がどのように手配りをつけたやら、だが、とにかくアージェントもそれには素直に感謝した。  しかしそれも、映画車輌に皆で上がって、双子が見せたいものがあるとて、フィルムを上映するまでだった。銀幕に投映されたはあられもない格好で絡み合う男女で、瑛とトゥアンは身を大いに乗り出し、双子は間違ったと悠然と構え、アージェントだけが憤慨の。 「またそういう小細工を仕込んで! だから餓鬼にはポルノを見せるなって何度言やわかるのっ」 「お前さまは、相変わらず妙なところでモラリストだの」  掛け直された映像は、地上の現状。水道管の事故を誘発したのが管理局だったらしいと暴露され、日々の生活を滅茶苦茶にされた駅の住民達の憤る姿が各処で展開されていた。  それらの情報を広めて回っていたのは、予想外の者達の、『移動舞台暴走事件』の最後で一役買って〈来〉《らい》、また駅の表からは引き下がっていたはずの『高架族』で。彼らは独立した電源を有しており、今回の漏電事故にも影響は受けないとはいえ、どういう心境の変化があったものか。  ともあれ、駅の住民達もいい加減、この駅がなにか別の側面も兼ねていた事には気づきつつあり、それを隠蔽しようとする管理局の方策には不満たらたらのご様子だった。 「こんな事がなくっても、基本、世論っていうのは為政府が嫌いなもんだし、そこに余計な隠蔽とかされれば、ま、こうなって当然だわ」  それらを一通り眺めてトゥアンは、『封印派』とやらが躍起となって隠蔽しようしているものが航宙艇の一件だけではないといい加減〈諒解〉《りょうかい》されつつあった。あれは、大きな全体像の一部なのだと。  トゥアンの推量を、裏づけるように双子が静かな声音で語り出して。自分よりもまだ年下に見える少女達だが、その言葉には不思議な真実味があった。  ……まるでその様を目の当たりにしてきたかのような。 「かつて。昔。そのまた昔。この駅は、宇宙にも繋がっていたのよ」 「なれど、その道は〈鎖〉《とざ》されてしまいました」  ここが宇宙港であったことと、それを封印するに至った経緯。瑛がそれに関わった者であることなど。双子達は全てを明かしたわけではないようだったけれど。 「宇宙かぁ。凄ぇよな。そんな、空のそのまた上まで、この駅が繋がっていたなんてなあ……あの航宙艇だけが特別だったんじゃなくって、この駅も、だったんだ」 「でも〈鎖〉《とざ》されたって……なんでそんな、もったいないだろ」 「そして、その一部始終に関わったのが、そこにいらっしゃる、今は瑛と名乗っておられる、その方じゃ」 「あんた達までまたそういう駄法螺を。え? ちょっと、今度は本当に?」 「もう、駅の中でも覚えてらっしゃる方は、ほとんどいなくなったわ」 「──────」  それらを聞いてアージェントは困惑し、トゥアンは戸惑い、瑛は珍しく沈黙したまま。  トゥアンは、自分の胸の奥底に宿り、時にそれが強く〈身動〉《みじろ》ぎするが故に、彼を憂鬱にさせる、行き場のよく判らない憧憬、が、最終的に何処に向かおうとしているのが少しずつ自覚していた。  それはトゥアンを故郷から駅に辿り着かせ、そして今でも時折荒野という広がりの中に向かわせる、衝動。  遙かなる世界への、憧憬。その先。  結局、三人を追いかけ回す公安を、ひいては『封印派』を出し抜くには、ここが本当に宇宙港である事を駅の住人に明示するしかあるまい、という結論に至った。  駅の各処に眠る、前時代の遺構、宇宙に関わる諸々の遺物達。それらの封印を開封して。  その封印を解ける者は─── 「その為の手段は、貴方達の中のお一人の」 「そちらの瑛殿が、その術をご存知でしょう」  驚き、より、やはり、という印象が勝った。機械化通廊以来の瑛を注視していれば、誰しもそう感じよう。  三人の中で瑛の重要度ばかりが増していく事を、トゥアンはどう受けとめていたかと言えば、どちらかというと少年は。瑛が何時にない〈翳〉《かげ》を見せるようになっている事のほうが心配であったし、そして相棒を案ずる心に増して、宇宙港を、航宙艇を、宇宙を見てみたいと願っていたのだった。  瑛、トゥアン、アージェントがそれぞれの感慨で押し黙り、場のどうにも湿っぽくなった気を払った声がある。  麗しく、かつ慇懃無礼に。 「とまれ。お前様がた、体を流してきてはいかがか」 「そうそう。ちょっと臭くってよ、あなたたち」  双子曰く、文書庫は独立循環系を有しているそうな。水も駅の水路に依らず、独自供給する技術があるのだとか。故に駅の水脈網を本体とする『封印派』の手も及ばない、と。  そしてなまじ濡れると浮浪児の二人ははっきりいって犬臭く、文書庫の水で体を浄める事を、双子が是非に、と勧めるのも致し方なし、か。 「だったらこんな辛気くさい空気になる前に先にお湯遣わせろよな、これだから美形は〈厭〉《いや》なんだよっ、どこまでも傍若無人でッ」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  恐らく美形の言う事は、内容がどうあれ気に入らないのだろう。〈憤懣〉《ふんまん》を隠しもせず、それでもアージェントも濡れて冷える服と肌の不快感には耐えかねたと見え、早速と、双子に文書庫の一画の沐浴場へと案内させた。  一番風呂を取ったのは、アージェントの方。  順番にはさしたる〈拘〉《こだわ》りがなかった浮浪児二人であったが、その沐浴場とやらには少々呆気に取られた。  そこは、とにかくだだっ〈広〉《ぴろ》かったので。元々大きい風呂場というのに縁がなかったところに加え、床壁は〈混凝土〉《コンクリート》の打ち放し、配管類の類も壁に直接這い、浴槽と言うより、床の沈んだ部分が水に覆われているだけと言った方が適当で、船着き場とか護岸の川縁に立ったかの感が強い。  薄く上がっている湯気なども〈川霞〉《かわがすみ》のような。 「ボク───昔は私って言ってたっけ」  冷たくも熱くもない、体とほとんど同じ温度のお湯を使いながら。 「私は、過去の亡霊みたいなもの。本当の意味での人の身体を棄てて、駅と、そこにやってくる、宇宙への希望持つ人たちを見守るために、在り続けてきた」  トゥアンは物思いに耽る風であったが、瑛の正体に関してはあまり気にしていない。むしろ宇宙、航宙艇というものへの足がかりが身近にあったことが判って、戸惑う風な。  嬉しいのか、実感がないのか。  でもはっきりと宇宙への憧れは、ここで意識していた。 「瑛が、なんかずっと前に色々やってた、ってのは判った。ってことは、僕よりずっと年上か。まあそりゃそうだよな。なんか色んな事知ってるし。裏ッ側とか、あと呪式とか」 「でもまあ、大地上には色んなジンシュ? がいるもんな。長生きするのだってあるって聞いたよ」 「まあだから、そのへんの事は、あんま気にしてないよ、瑛」 「まあ、お前はそんな風に言うだろうって、なんとなく思ってた」 「拍子抜けでもあったし、ちょっと嬉しくもあるよ」 「でもさ、瑛───瑛はその、ずっと前の、宇宙港があった頃の駅とか知ってるんだろ? その時はさ、やっぱみんな、宇宙に出れたりしたの?」 「もしか、僕みてぇな浮浪児でも、がんばれば宇宙に……」 「──────」  瑛は〈頷〉《うなず》いてから、首を振った。それを何度か繰り返した。  その仕草の意味を、トゥアンは尋ねようとして。  結局口にしなかったのは、もし瑛が答えてくれなかったら、と心細く思う気持ちと、もし答えてもらったとしても、それが少年にとって物哀しい言葉になるのではないか、と恐れる心があったからだった。  ───流れる空気の味は、気が抜けたように淡白で、さりながら深く微妙な舌触りを含んだ。  贅沢に湯を使いながら丹念に体を〈濯〉《すす》ぎ、肌に掛け流していく二人、しばし湯の音だけを響かせ黙々と。入浴といって、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の風呂か烏の行水か、というくらい、それこそ米を七合〈掬〉《すく》う間に入ったかと思えば出てくるような、慌ただしいのが通例なのだが、この二人は機会があれば出来るかぎりしっかり体を磨くことを心がけている。  清潔を好むというより、そうやって〈集〉《たか》り来よった虫どもを落としておかないと〈痛痒〉《つうよう》で夜も寝られなくなるからで、虫にもある程度は慣れるといっても限度がある。  廃棄観測塔暮らしの間も、大雨の直後など、二人が水場と呼んでいた屋上の雨水槽でごしごしやったものだが、その際この二人、交互に、というのが常だった。水の節約には大して関係なかろうと、並んで背中の流し合いなどすれば折々の遊興ともなったろうに。 「……そういえば、ずっと一緒にいたけど、ボクとオマエって、実は裸のつきあいってしたことないよな」  この二人、四六時中視界のどこかに相手がいないと、精神に変調を来すなどの難儀な病でも抱えているかにいつもくっついているように見え、なんのかんのと風呂やその他で行動を別にしている。  どちらが言い出したわけでもないが、それぞれの時間を設けることがなんとなく習慣化していて、まあ共同生活中にも個人の時間を設けておかないと、いずれは息が詰まって窮屈さから亀裂が入るだろうしと、トゥアンはさして疑問もなく受け入れていた。実際、彼が好む麻薬作用の本草を嗜むに際して有り難かったし、後はそのほら少年の性の鬱屈の処理の為などにも必要な。馬鹿話の具にする事はあっても、さすがに手慰みは孤独な楽しみの時間、見せ合う趣味までは二人にはない。 「そういやそうだ。でもそんなのは、別にいちいち見せっこするようなモノでもないし、それにもう、なんか今さらで」 「これ見ても、そう言ってられるかな……」  瑛が今それを思いたったのは。  自分の正体に触れてなお、相棒が変わらなかったのが嬉しくあったし───  湯を浴びて清まったトゥアンの身体の、思いのほかしっかりとした骨格、筋肉や、洗われて肌が、まさに青銅と輝いているのが鮮烈に映った、とか。  少年の股間で揺れる陰茎から、アージェントの臀を見て突っ張らかっていた時の様を思い出してしまっていたり、とか。  股間を洗う際、そこに触れて、久し振りにそれがある事を意識してしまったり、とか。  色々あったのだけれど、トゥアンが、自分が隠し続けているもう一つの秘密を知っても、それでも変わらずにいられるかどうか試したい、という。  秘密の小箱というのは、結局自分で踏み壊さずにはいられない、半ば自暴自棄な心情によるところが大きくて。  今回の一件で、トゥアンには自分が秘め置いた部分、色々と晒されてしまった。今は変わらず振る舞っていてくれるけれど、人の心は移ろうもの。ならばいっそ、と。  瑛は浴槽の縁に腰かけ、脚をくつろげ、トゥアンに股間を見せつけようとした。男同士としてつきあってきた相棒に何をしているのか、という〈羞恥〉《しゅうち》と、これできっとおしまいになるという恐怖と、少年がずっとその目の当たりにしたかったものを与えてやれるのだ、との捨て鉢な〈愉悦〉《ゆえつ》さえあった。 「なんだよ、男同士ってのは判ってるし、別に見なくっていいってば」  トゥアンは、空気が少しずつ変質していくのを感じてあった。元々瑛が男としては華奢で肌の〈肌理〉《きめ》も細やかに過ぎるという印象もあって、そういう相棒がまるでポルノ本のような姿勢を取ることに、戸惑いもあったし、同時にじわじわ膨らんで、その昂ぶるままに任せれば、収まりがつかなくなりそうな息苦しさがあった。  アージェントの生の臀を目にした時のそれに近い。 「ボクが、ホントに『男』だったら、わざわざこんな風に見せると思うか?」 「え? だってついてるじゃん、ちんこ」  その段になると、トゥアンもさすがに違和感に気づいてはある。瑛の股間には陰茎は見えても、陰嚢が見えないのだ。  トゥアンも、見慣れたというほどではないにしても、瑛の裸体や陰茎を目にしたことはある。大体初めて出会った時に連れションを決めこんでいる。  だから今までは、単純に陰嚢が目立たないような、そういう体つきなのだろうと思いみなして、深くは追及せずにいたのに。  瑛が、股間に垂れた陰茎を、〈摘〉《つま》みあげる、と。  始めトゥアンは、瑛が何か忌まわしい事故か外科的処置により、その部分が欠落してしまっているかに感じられたのだ。  陰嚢があるべき位置には、傷痕めいたなにかが見えるのみで、陰嚢が欠落していると見たのだ。  けれどまじまじ見つめるうちに、そこが放っているのは傷痕の痛々しさではなく、もっと、そう、男にとって魅惑的な肉感である事に気づいて、初めてその正体に思い当たった。  瑛の陰茎に下にあって、股の間に具わっているこの亀裂は、女の───  男としての印もある、女としてのそれもある、そんな身体などあるとは思いよらずにいたトゥアンは、今自分がどこにいるのか空間認識が怪しくなるほどの激しい混乱に見舞われた。 「玉がなくって、代わりに女の……まんこか、これ。ってことは瑛って……どっちなんだ!?」 「ボクの身体、両方ついてるんだよ、男と女のが。男か女か、どっちかっていうと、どっちでもないふたなりとか両性具有とか、そう言うんだって」 「びびったか? 気持ち悪ィか? ボクとのつきあい考えるなら、今のうち───って、トゥアン、近い、顔が、近い」  トゥアンは退くどころか、瑛の脚の間に入り、まじまじ見つめていた。  嫌悪どころか。  好奇心、否、性的興奮でたちまちに心臓の動悸が激しくなりまさる。なにしろ目の前にあるのは、思春期の少年としては興味の最上位に位置するそれなのだ。  男と思いこんでいた瑛が女性器を備えていた不可解に関しては、その口から説明を聞いたその説明で納得した。  なにか色々言い立てているが、要は瑛は自分にはないものを持っていて、それがとてもとても知りたがっていた、見たがっていたものだということだ。  だから、嫌悪どころか。 「びっくりしたのはあったけど、気持ち悪いってはあんま思わないけど。どっちかっていうと、隠すほどのことか?」 「いや隠すだろ、だって……」  瑛は瑛で、この両性具有者は、予想とは外れた流れが生じつつある事に面食らっていた。  まずあって然りが、自分の身体に対する嫌悪と忌避。隠し続けていた事への糾弾。  もしかしたらと期待していたのが、穏和な許容で、多少の〈蟠〉《わだかま》りを残してしまう事は避けられないだろうし、距離が空く事だってあるだろうが、それでも今までのような付き合いを続けていける事。  なのにトゥアンの反応というのはかぶりつきの凝視で、彼が示しているのは著しい興味と、そして多分、いやきっと……性欲、だという。  瑛自身、そういう可能性のある事を、僅かなりと想定しないでもなかったのだけれど。それよりもトゥアンとの仲がここでお終いになってしまう事への身構えそればかりに気を取られ、かつ終局の悲劇に進んで酔う事で、別離に耐えようとするあまり、相棒が自分に性欲を抱くという可能性を〈埒外〉《らちがい》に置いていた節がある。  ところが、だ。  トゥアンは女としての性器を臆面もなく凝視して、そして実に納得したように〈頷〉《うなず》いた事だった。  性欲に、〈爛々〉《らんらん》と輝かせた眸で。 「やっぱり、だよなあ。瑛って男って言うには、なんか体つき違ったし、匂いも良い匂いする時あったし」 「そりゃボクだって、オマエが時々やけにじろじろこっちを見る時あるなって判ってた。だけど、ばらすと、なんか変なことになりそうでさ……」 「変な事って?」 「オマエの今の、その目つきとかそういう事だよっ。な、ボクがこうだってのはもうわかったろ?」  ただトゥアンに自分の身体の秘密を伝え、そこでこれまでの関係にきっと亀裂が入って、それで、という流ればかりを思い描いていた瑛で、もう充分、見せるものは見せて伝えるべきは伝えた。  それをこのまま見せ続けていては、取り返しの付かない事態に発展しそうで、もう脚を閉じて浴槽に浸かろうとした瑛を、トゥアンは〈遮〉《さえぎ》った。 「まだ、いいだろ。もっとよく見せてよ。前にエロ映画の女の見た時は、一瞬だったし」 「オマエ、目つきが変わってるぞ……しょうがねえなあ、少しだけだかんな」  両性具有者というのが果たして全て瑛の如しかは定かではないが、この瑛は、男としての欲望もしっかり〈具〉《そな》えていて、相棒と猥談に耽れば、エロ本を求めて一緒に駅内を廻った事もある。女体への助平心は持ち合わせているつもりであったけれど、トゥアンの、やりたい盛りの少年としての性欲を見誤っていたようで、彼の非常なる真摯の眸に〈絆〉《ほだ》されて、というより気圧されて、腰を落としなおしてまた脚を開いた。  いかにも不承不承という態であったが、秘裂の前に垂れて隠す陰茎を、トゥアンが見やすいよう〈摘〉《つま》みあげてやっていたりしているあたり、瑛の中にも諦めが生じていた、と言おうか。  女体への興味、という肉質な念に由来していようが、ここまで懸命に求められることに、自尊心をくすぐられていた、と言うべきか。  また身を引かれては、という危惧があってか、先ほどにもまして身を乗り入れて、しっかりとトゥアンは観察する、を通り越し、それは目線の圧で瑛の性器を撫で、触れ、探っていく行為だった。  瑛の〈股座〉《またぐら》を少年の熱い息遣いがとろとろと流れていくほどの近さで。 「瑛のここは、他の女と同じなの?」 「細かいところは違ってる……みたいだ」 「どこらへんが?」 「女なら、クリトリスってのが付いてるあたりから、ちんこが生えてるっぽい」 「前に連れションした時は、しっこはちんこの方から出てたじゃん。まんこの方から出ないわけ?」 「出そうと思えばどっちからでもいいんだけど、その辺りはあんま気にするなよ……な、もうそろそろ、充分だろ?」  性的好奇心の趣くままに、瑛に質問を浴びせかけていくのが両性具有者の脚の間から。  少年の問いに、自分が理解して、答えられる事柄に関しては答えてやってはいたが、瑛は彼が声を発する度、〈内腿〉《うちもも》がさわさわ撫でられるような感触に、肌に粟立ちそうになりそうで困惑していた。  トゥアンの声がまた、昂ぶりのせいか普段よりずっと音域が下がり、低い震動を孕み、瑛の腹の底にまで響くよう。  息遣いと声の震動を逸らすように、うねらせた〈腿〉《もも》をトゥアンはまだもっと、と押さえる。  触られた瞬間、瑛がもうはっきりと隠しようもなく身体を震わせたのは、けして不快だからではない、もっと別の、有り体に言ってしまえば官能に根差した感覚だった。  深淵を見下ろして立った、崖が端から砂と化してさらさら零れていく、そんな危機感が瑛をじわじわ包んでいく、のに、トゥアンに低い声で問われ、答えてやる事を、瑛もまたお終いにするのが物足りないような。  足りない? 何が? と自問して瑛は、〈彷徨〉《さまよ》いだしかかっていた意識がはっと身体に立ち返る。  そこにまたトゥアンからの問いが被さって、また瑛の心を相棒との秘やかな遣り取りにと、引き寄せていくのだった。  その先が、秘部を見せて、女の身体の構造をあれこれ言葉で教える、だけでは収まらなくなるであろうとのぼんやりとした予感、瑛は抱いてあった。 「それに、瑛ってそんな、胸あったっけ?」  トゥアンは先程から気づいていたのだが、瑛の胸が膨らんで、女の子のふっくらした乳房になっているような。 「そのあたりも、ちょっとはいじくれるんだ」  それが瑛の元々の体質なのか、後天的な技術かはトゥアンには判らず、それでも、日頃見慣れた華奢な体型には、むしろふさわしく見えた。 「生理……は、ある?」 「そっちはないんだ。だから……いやなんでもない」  妊娠はできない、と漏らしそうになって、そこまで告げる事は、その為の行為を問わず語りにしてしまう気がして言い淀む。ここでそれを言い出すのはよりトゥアンの昂ぶりを助長してしまいそうで。 「精子は出るんだよな」 「ああ、まぁ、うん」  その辺りは、お互いの夢精の〈様〉《ザマ》を目撃したり、その始末に水場でじゃぶじゃぶ洗っている現場に遭遇したりで了解済みだ。その時の気まずさは馬鹿話のネタにする事で吹き飛ばせたし、かえってお互いの友誼をより緊密にしてくれたものの、この状況で改めて確認されると微妙に気恥ずかしい。 「触ってみても?」 「まぁ、うん───あ、今のはうっかりだ。さすがにそこまではダメだぞ、ダメだからな、ボクだっていい加減こっ〈恥〉《ぱ》ずかしいし」 「───っ、いいい!?」  見るだけでは所詮満足するまい、もっと先の段階に進む事をそのうち言い出すだろうと、それはもう予想していて、だから瑛がたじろいだのは、トゥアンがいつの間にか隆々と勃起させていた事による。  完全に大人のそれにはなりきらず、雁首の境にはまだ包皮が被ってはいたが、瑛の何処か女性的な印象を与えるそれに比して、未熟ではあるがしっかりと雄を感じさせ、青黒い色合いも猛々しく、撃ちすえんとする棍棒のよう。  瑛も自身の男性器がちゃんと機能して、勃起も射精もする事は把握しているが、相棒の、少年とはいえ本当の男のそれの荒ぶった様には、完全に度肝を抜かれていた。  それが瑛に向かって脈打っているとあっては。  しかもそこまで〈息〉《いき》り〈勃〉《た》っているのは、瑛のおんなに反応してなのだ。 「ちょ、オマエ、んなおっ〈勃〉《た》ててンだ、マジ勃起だろそれ。昂奮すんなってばこんな時に、ぃ、いふぅ!?」  瑛の声を喘ぎに上擦らせたのは、トゥアンが制止も聞かずに女の部分に触れてきた、その刺激はただ痛みだけならまだともかく、両性具有者にとり意識を〈引〉《ひ》き〈攫〉《さら》われるような感覚をもたらしたからである。 「ゴメン、痛かったか?」 「痛いはなかったけど、びっくりしちまって、じゃなくって、触るなって言ってんだろうが。もうホントにおしまい───トゥア、んんんぅっ」  トゥアンは実のところ、女の秘部を見るのはこれが初めてというわけではなく、とある女優のご開帳に預かった事がある。ただその時は僅か数瞬の事であったし、ここまで近い距離ではなかった。その時も瑛と一緒に凝視したものだが、その相棒が女のあそこ、隠し持っていた事に対しても妙な昂奮がある。  女優の秘部を〈一瞥〉《いちべつ》して来、なまじ知ってしまった事による欲求は膨れ上がって、そこに瑛の秘裂だ。しかもまさしく目と鼻の先にあって、瑛が身じろぐ度に、裂け目がなんとも蠱惑的によじれ、蠢く。  年頃の男子として、凝視するだけでは満足しきれなくなって、餌に吸いつく飢えた魚のように指が走ってしまったのは、止められない展開だったろう。  そして、少し触れてみただけでは、初めての昂奮に感覚が押し潰され、質感をしかと掴み損ねた。  頼りなく柔らかなものに触れたと思う。でも本当に触れたのか?  瑛は痛みはないと言ってくれた。それなら、とトゥアンは味わい損ねた秘部の感触、より確かなものとして指先に感じ取ろうと、制止の方は聞き分けず、瑛の女性器をまさぐり続ける。  少年としてはできるだけ優しくしているつもりなのだろうが、その指先は情欲のままに走りそうになるのを、〈堪〉《こら》えているのがありありと、もどかしさに満ちていた。 「ダメだって……ヤバイって。オマエ、ボクにそんな昂奮すん、なぁぁ……っ」 「ぅ……う……ふぅ……。うぅぅ……」  触れるのは、本当にこれが初めて。  夢にまで見たその時が、予想だにせぬ機会で訪れてトゥアン、髪の根が逆立つほどだったし、顔と言わず身体中が熱い。  性の目覚めを迎えて以来、女体への〈渇仰〉《かつごう》はいや増す一方。浮浪児などをやっていれば、どうしたって世の悪徳を目にする事も多く、彼のヰタ・セクスアリスは半可通に早熟していった───つまりが知識だけが先行して実体験というのがない。  それを今、こうして体験している。  自分の指に反応して、瑛が声を上げているのも、トゥアンの実感を強める。  金を貯めて、いつかきっと、自分達みたいな餓鬼でも相手にしてくれる鷹揚な娼婦のいる〈女郎屋〉《じょろうや》を探そう、などとにやにや提案していた相棒が、今までに聞いた事のないような、男をぞくぞくとそそるような声を上げて、反応しているのが、これまで願って止まなかった行為を現実に体験しているのだと、トゥアンを強く強く実感させた。 「ここって……こんな柔らかいのか。ゼリーでできてるみたいなのに、触っても崩れないのが、なんか……不思議だ」  まさぐる指の下で、形を変えて逃げ回るような瑛の肉の〈襞〉《ひだ》。他の言葉で形容しても、そこだけが持つ感触としか言い様がない柔らかさと弾力。  どんな妄想や猥談、ポルノがもたらす昂奮より、現実の迫力は勝り、トゥアンを圧倒していた。 「ふぁぁ……トゥアン……トゥアン、オマエ、ボクは今までつるんでた相手なのに……よくできるな、こんな、コト……ふぅぅ」 「ん……そうなんだけどさ、だから逆に平気みたいな。いや平気って言うのとは違う。ずっと一緒だった瑛だから、だろう」 「瑛だって、こっち、ちんこ、硬くしてるじゃん……っ」  始めは男の平常時を示してぐんにゃりと項〈項垂〉《うなだ》れていた瑛の陰茎が、淫靡な遣り取りとトゥアンの指の刺激により、充血して、〈勃〉《た》ち上がっていた。 「あ……そうだよっ。ボクにはちんこもついてて、なのに平気ってなおかしい……んぅ!」 「だって瑛は男と違うみたいだし。〈勃〉《た》ってるのも、昂奮してんだなってのが判って、僕と同じなんだなって」  これが見知らぬ同性の勃起を目の前にしていたなら、トゥアンの昂ぶりだって〈萎〉《な》え〈萎〉《しぼ》んだかもしれない。だが、両性具有だという瑛のそれは、〈勃〉《た》ち上がっても雄の〈獰猛〉《どうもう》さよりも不思議な優美を湛え、少年には嫌悪の対象とはならなかった。  むしろ相手もまた、自分同様この行為に淫を催し昂ぶっているのだと教え喜ばせる、気象計の役を果たしている。  そして強いて付け加えるなら、瑛の勃起はすらりと優雅ですらあるのに、包皮がしっかり剥けているのがトゥアンには〈幽〉《かす》かに羨ましくさえもある。 「やっぱオマエ、変だよぅ……いいよ、こうなったらもう。好きに触れよ、気が済むまで」  瑛は、あれこれ言葉を替えて、男でもある己の異形を見せつける事で、トゥアンの意気を挫こうとしたのだけれど、相棒は〈萎縮〉《いしゅく》するどころか雄のモノをがちがちに〈聳〉《そそ》り立たせて迫って手を出してくる始末。  瑛にしたところで、進んでトゥアンに嫌われようというつもりはなく、後になって相棒に自分の身体の秘密を知られ、化け物の目で見られる事が辛かったから、その前に自ら明かしてしまう事で傷を浅くしようとしていたわけで。  ところがトゥアンは見ての通り、瑛の男のモノより女体の方にただ夢中の、陰茎が目に入っていない筈はなかろうに、これをトゥアンの性欲を甘く見ていたと呆れるか、それとも彼の懐の深さなのだと嘆称してやるべきなのか、いずれとも判じかねて瑛は結局。  力を抜いた。心の構えはまだ全て解けなくっても、そこまで〈頑〉《かたく》なに警戒せず、この相棒になら自分の身体をいじられる事、許してもいいかと。 「でもそっとだからな。そっちは男のより、ずっと敏感で、ン、ンくぅぅ!」  そうやって緊張を緩めた途端だったから、女の粘膜の方に直撃した、〈攣〉《つ》れるような刺激は〈堪〉《こら》える事ができず、反射的に身悶えした脚が浴槽の湯を蹴立てた。気を緩めた途端にこれで、つい零してしまう恨み言、童貞の性急さを見誤っていた自身にも向けられていた。 「バカヤロ、そっとって言ったばっかなのに」 「ゴメン……こんくらい?」 「うん……そんくらいなら、平気……はぁ……平気……あぁ……だいじょう、ぶ……んっ」  瑛に叱りつけられて、慎重、を通り越して、卵から膜を破らず黄身だけ取り分けようとするかの柔弱な指遣いにしたあたりがまた、トゥアンの経験の無さを語っていたが。  長い事、自慰の時も専ら陰茎への刺激だけに抑えていた瑛にはそれくらいでちょうど良い。柔々した愛撫でも、次第次第に秘裂の表面から奥に〈沁〉《し》みていって、とろり、と両性具有者が久しく覚えていなかった、湧き出す感覚があって。 「ぬるぬる……してきた」 「そんだけ、いじりまわされてんだ、濡れてきたって、おかしかないだろ……」 「あ……っ。これが、女が濡れる……ってやつか。凄い、ほんとに濡れてくるんだな……」 「オマエなんか、触んなくても先っぽから垂らしてるじゃん」 「そりゃすっげえ昂奮してるもん……」  トゥアンの若い陰茎は、まだ触れてもいないのに、先走りの腺液が、鈴口に留まりきらずに、糸を引いて湯に滴り落ちるくらいに大量に。  相棒はそこまで発情しているのに、その指先は秘裂の表でもぞもぞ道に迷うようにまごつくばかりなのが瑛には少しだけ可哀相になって、少しだけ先を許してやりたくさせた、もう、少しだけ。 「しょうがねえ奴……な、指、まんこのもっと下のほうに」 「ここらへん?」 「そう……そこに窪んでるトコあるよな? そこに、指、入れてみな? いいよ……」 「あ……っ。これ……ほんとに……中……」  秘裂の間をまさぐるばかりだったトゥアンは、言われるように指を〈滑〉《すべ》らせると、〈襞〉《ひだ》が細かく集まったような〈窄〉《すぼ》まりが。瑛が合わせて腰を軽く押し出してやれば、トゥアンの指先が、ぬる、と沈んで。  指先がきつく包まれる───どちらかといえば〈滑〉《なめ》らかな、秘裂のあわいとはまるで異なる、複雑で細かい〈襞〉《ひだ》に満ち満ちた圧力。  かつ、女のあそこには本当に入る孔があるのだという現実。  トゥアンは度肝を抜かれていた。 「はぁ……あ……そうだ、よぅ……ん、それがまんこの穴……あんま、深くはするなよ……う……ふぅ、ぅ」 「中って、こんなにざらざらで、つぶつぶ? してて……あ、今、きゅうって。まんこが締まるって、こういうのか? ……やばい、指だけでも気持ちいいって、なんだよ……」  女のあそこの、入る孔。  陰茎を挿入して、気持ちの良い孔。  射精するための、セックスのための孔。  初めて味わう膣内の〈襞〉《ひだ》、締めつけ、熱した蜜の感触にのめりこんで指で探ると、指先でない、陰茎まで粘膜にしゃぶられているかの微妙な心地好さが湧いて、ひくひくひくついてしまうほど。  まだ指の先が隠れるくらいしか差し入れていない、入口だけでこうなのに、奥の方まで埋めてみたらどうなるのかと、〈潜〉《もぐ》りこませようとしたけれど、それは瑛がしっかり手を押さえて許してくれない。  トゥアンも、瑛の機嫌を損ねたら、もうおしまいされるかもとの恐れもあって、じりじりとしつつも浅い位置だけで〈堪〉《こら》える。  それでも初めての膣の感触は、トゥアンの肌を火照らせるくらい昂奮させた。 「く、ぁ……ボクだって、自分でもそっちは、あ、く、そんなに、触んないのに……んぅぅ」 「いい、よ……なんか、気持ちいいぜ……あぁ……じんじんして……ハハ……音、立っちゃってるな……ふぅ、あ……っ」  膣内で蠢くトゥアンの指は、女体の感触をより細かに探ろうという性的興味本位のもので、けして巧みな愛撫とは言えない。  けれど執拗で〈濃〉《こま》やかではあって、〈襞〉《ひだ》を擦り上げられるごとに、蜜がさらに湧き出すのも感じられたし、膣内をほじくる指は、最初はただ異物感だったのに、次第にきつさが解されていって、じわじわとこれは気持ち良いのだと、瑛も認めざるを得ず、その頃には、ああ自分の入口が、トゥアンの指に吸いついていってる、と判ってしまって。  トゥアンはトゥアンで、指に肉壺の感触を知った時には、それだけで非常な感激に胸一杯だったのに、〈肉襞〉《にくひだ》に触れてまさぐる事だけに頭の中は一色に染められていたのに、男としての本能が、少年の欲求を更に底上げした。  指を引き抜けばふやけかかって、どれだけいじくり回していた事か。つい匂いを嗅げば、酸い、そして潮のような、瑛の身体の中の匂い。生々しく、それだけに〈股座〉《またぐら》に直接響く匂い。  瑛が蹴っ飛ばしてきたが、ぼんやり軽々と受け止めて、立ち上がってトゥアンは、これ以上ないくらい勃起した自分の陰茎と、瑛に交互に目をやる。  瑛にも、彼が次に何を言い出すのか、呆れるくらいに見やすい、欲しがり、せがみ、ねだる眼差しで。  案の定─── 「なんか、なんか、僕、もう……っ。瑛の声も、いつもとぜんぜん違うしさ、なあ、瑛も僕の、触ってくれよ」  本当なら、今すぐにでも自分で扱き立て、精汁を絞り出してしまいたい。それが一番手っ取り早い。  けれど今は瑛がすぐ前にいる。相棒の前で自慰に耽るのはさすがに体裁悪すぎる。  それに───ここまで瑛の間境、踏み越えてしまったのなら。  自分の欲望をもっとぶちまけてしまったって。  もしかしたら瑛だって、応じてくれるかもしれない。  トゥアンはそれくらい、切羽詰まるほどに発情していて、拒絶覚悟で、瑛にせめて自分にも触れてくれるよう懇願したのだけれど。    瑛の答えは、予想より、ずれていた───  トゥアンの願いを上回る───  いや、真実は、むしろそれをこそ。  願っていた、答え、言葉─── 「……触ってもらうより、したいこと、あんだろ?」  そう、違うだろ、トゥアン。  ボクの友達。ボクの相棒。  オマエがしたいのは、さ─── 「……セックス、したいんだろ。ボクで」 「したいっていうか、たまんないっていうか」  瑛の指摘は、トゥアンが今一番やりたかった事、それを露骨なまでに言い当てた。 「しょうがねえ奴だよな、ホント。いいか、今日だけ、一回きりだ───いいよ、ボクに入れても」 「ホントにか!?」  言い当てただけでなく、許してくれるという。  女のあそこを、見る、触れる、ばかりかその上にセックスまで。  トゥアンが瑛の申し出に、目を剥いて仰天したのは当然と言えたろう。 「ちんこがそうなっちまって、どうにもできない辛さ、ボクだって知ってるしさ」 「それに……ボクだって、あんなにいじられて、その、な?」  愛撫は浅いところまでしか許さなかったのに、奥が感応してしまってじんじん〈疼〉《うず》いていた。  これはきっと欲しがっているのだと、瑛は認めるしかなかった。  そこに誰かの一部を侵入させてしまう事への不安と恐れは、消し去りがたくあるけれど。    それでもトゥアンならばいいか、と瑛は心を〈戦慄〉《わなな》かせつつ─── 「うあ!」  立ち上がり、瑛はトゥアンの陰茎を軽く引っぱたいて腺液を散らさせ、悲鳴を〈爪弾〉《つまび》き出させた。  自分をこんな気持ちにさせた少年が、なんとも〈小癪〉《こしゃく》だった。  前からだと、陰茎が腹の間で押し潰されそうで〈厭〉《いや》だ、と、後からトゥアンが覆いかぶさるようなこの体勢を言い出してきたのは瑛の方。 「……なんぼやりたい〈盛〉《さか》りで、まんこがあれば突っこみたい年頃だって言っても、トゥアン、オマエ、自分が変態だって自覚しとけよな」 「ちんこが付いてる奴とヤるんだぞ、これから。ホントの女じゃないんだ。しかも友達相手で───なのに」 「なのに、なんでオマエ、そんながっちがちで、押しつけ……ふぁぁ! ちが、そこじゃない、そっちはケツ……そう、そこ……」  瑛は今さらそんな事を言うのは、この期に及んでまだトゥアンを躊躇させようとしてか。  しかしトゥアンにしてみれば。  肌を重ねようとしている相手が、長い事、男の友達として連れ添っていた相棒というのはトゥアンにだって判りきっている。  なのにトゥアンの胸に気後れか嫌悪感はまるで見えず、むしろこうなる事への不思議な感慨と、それを上回る挿入快感への欲望が充満していた。  男とみなすには華奢で骨の線も優しく、かといって女というには脂肪の厚みや骨盤の広がりに乏しい、両性具有者の瑛だけにと思える、不思議な肉付きの臀だが。その狭間の奥には確かに息づく女の秘裂。陰茎はこの角度からは見えず、やはり細目の女の子としか思えない。  トゥアンはもう、ただただセックスを体験してみたい一心で、尖端を宛がい挿入を試みるのだが、童貞故のもどかしさ、尖端は位置を掴めず、秘裂の間でまごついて、時には逸れて、多量の先走りを塗り拡げていくばかり。 「あ……っ、ぬるんぬるんて、オマエこんなに先走り……ンふぅぅ……どんだけなんだよぅ……」 「まんこ濡れてなくっても、突っこめそうだけど……ダメだかんな、そういうの……あ……マジで───」 「しちまうのか、ボクら」  後から宛がわれたトゥアンの、昂奮の先走りにぬるつく尖端が、ついにぴたりと膣孔に合わさったのに、瑛は不安げな表情を浮かべた。 「僕は、自分がそんな変態とか、考えられないんだけどな、瑛……」 「ホント、しょうがねえ奴……入れて、いいよ……?」  オマエにはちんこがあって。  ボクにはちんこもだけど、  まんこもあるから。  そりゃあ、こうなるよな。  くそ。  こうなるんじゃないかって。  見せたときに、  なんで考えなかったかな、ボクは。    でも、コイツがヤりたいってんなら。  まあ、いっか───  うん、いいよ。トゥアン。  オマエなら、いいよ─── (あ……入り……そう? ここ、だ……)  指では確かめたはずの女の孔なのに、いざ陰茎を埋めようとすると、ぬるぬる角度が定まらず、逸れるばかりであった尖端が、しっくりと落ち着く感覚があった。  一度正しい位置にあってしまうと、トゥアンの若い勃起の力は、そのまま真っ直ぐ穿つ力に変わり、本能に背を押されて、腰を押し出していく、と───    それまで何もなく、ただ弾力に満ちた膜のような質感だけがあった秘部の中に、狭い裂け目が開くような感触が生じて。  つぷ、と、尖端が、かきわけて、〈潜〉《もぐ》りこむ。  瞬間、トゥアンに、尖端から肉の茎、そして腰、を超えて脳天まで一直線にするような、熱が生じる。  未知の熱。初めて知る、女の粘膜の感触に、細胞が歓喜して噴き上げる熱。 「んぅぅっ!」  結合の始まりは、トゥアンにとっては喜びの熱、だが瑛には、身体の底から、丸いくせして圧倒的な力のなにかで穴を開けられるという戦慄をもたらして、〈怯〉《おび》えに震える〈呻〉《うめ》きを絞り出させた。  それでも、〈嵌〉《はま》りこんだ事は判って、トゥアンを促す。 「そこだヨ……そのまま……」 「でもこれ、凄く狭い……きつくて、こんなとこ、入るの、ホントに……?」 「入るから、きっと入るから……く、ぁ、くぅぅ……」 「んん……」 「と……ちゅうで……やめんな……よ? そのほうが……こわい……いっきに……」 「うん、なら」  瑛の中の狭さ、きつさは、尖端を軽く〈潜〉《もぐ》りこませただけでも判るくらい。  傷つけてしまうのではないかと、挿入に〈逸〉《はや》るトゥアンをして躊躇わせるのだが、強く促す瑛の言うがままに、押しこむと、鈴口を越えて亀頭が〈潜〉《もぐ》り─── 「───あっ」  亀頭をくるみこむ粘膜の感触、その甘美。亀頭だけなのに。トゥアンから躊躇いを消し飛ばした。  より強い快感を求めて、そのまま腰を押しこむと、尖端に伝わるのは、肉を押し剥がす感触の─── 「ふぅぅぅぅぅ───っ!」  トゥアンは柔らかな肉の中に硬い肉を埋めていく心地好さに、吐息を漏らし、 「いうぅ〜〜〜…………っっっ!」  瑛は、トゥアンのそれがまだ未成熟な雄の器官なのにもかかわらず、極太の棍棒で開けてはいけない穴を開けられたかの痛苦の〈呻〉《うめ》き、細く絞り出しながら。  二人は身体と身体で、繋がっていた。 「はいった……か?」 「うん、最後まで……入れたよ……」  埋めた時に、包皮が最後まで剥けて、亀頭の敏感な部分も全て粘膜に押し包まれているのを感じつつ。 「だよな……ふぅぅ……はぁぁ……」 「腹の奥まで、みしみしだ、苦しいくらい、広げられてるよ……ふぁぁ……」 「しばらくじっとしてろよな?」 「うん……」  瑛を気遣って、大人しくしているつもりでも、童貞を捨てた昂奮と、包みこむ〈肉襞〉《にくひだ》の締めつけ、熱さに、陰茎の方が、早く、早くこの孔の中に種付けをと急かしてきて、じっとしていることは、初挿入のトゥアンには辛い。  それに、挿入した時点で、大量に先走りが溢れた感覚がある。軽く射精してしまったかも知れない。挿入しただけでもこれほどの快楽だ、もし動き始めて、存分に〈肉襞〉《にくひだ》と締めつけの感触を貪ったなら、どれだけの〈愉悦〉《ゆえつ》があるだろう……。  じっとしたままでも、初めての肉壺をより強く感じたくて、トゥアンは下半身に力を籠め、陰茎を息ませる、と。 「ンふぁ!?」 「て、てめえトゥアン、なに、中で膨らませて───んんんっ、またぁ……わかるんだぞそれ」  膣の構造と、トゥアンの長さからして、実際は下腹部の一部が異物感に驚き慌てているだけだろうと瑛にも察せられるのだけれど、感覚としては臀を底から裂けるくらいに割り拡げられ、胃の底まで突き上げられているかの圧迫感がある。  そこをトゥアンが息むものだから、自分が一本の筒になるまで内側から急拡されたかの衝撃に見舞われた。 「腹の中に、オマエがみっちり突っこんでるんだから……はぁ……ったく」  圧迫感の凄まじさを教えてやるために、トゥアンの臀に手を拳にして肘まで突きこんでやりたくなるような衝動に駆られた。  が、相棒が自分の中を確かめようとして、と思うと、瑛の心に広がっていったのは、ちゃんと彼を受け止めてやれたのだという不思議な達成感と、自分の女の部分は、やはり男を受け入れるための構造がちゃんと出来ていたのだという、いじましさにも似た安心感。  女としてはきついし、辛いし、苦しい。  それでもこうとなったトゥアンがじっとしている事は、どれだけもどかしく切ないかも男として理解できる瑛は、だからまた許した。 「いいよ、動いても。ボクも少し落ち着いてきたしな」  本当は、まだまだ圧迫感に慣れていない。  顔を向ければ覚られてしまうだろう。  だから瑛は、浴槽の縁に〈支〉《つか》えていた片手を差し上げ、肩越しにトゥアンへ、おいで、の手。  その手にトゥアンが触れてきて、向きを返して握ってきたのが、彼がどういうつもりだったかは知らず、それでも瑛の中にこみあげてきたものがある。  愛しさなのか、嬉しさなのか。  ただ、言葉だけでなく、瑛の、トゥアンが自分の身体を味わう事への躊躇いを溶かしたのは確かだった。 「じゃあ、少しずつ……」 「うぁ……」  そしてトゥアンは律動を始める。  初体験故に、突きこみ引き抜く角度や、陰茎の長さの感覚、腰を前後させるのにどういう筋肉を使うのかが始めは掴めず、ぎこちない律動、が、程なくして、それなりに様になっていったのは、生き物としての本能の賜物だったろう。 「あぁ……あ……ん、ふぅ……」 「うああ……なか……これ、これって……凄いよ、瑛、凄いよ……こんなの、僕、初めて……っ」  長い間自慰ばかりしか知らず、自分の手や他の器具などで精を吐き出す事が常態化してしまうと、陰茎は刺激に慣れてしまって、女の膣の粘膜やその〈蠕動〉《ぜんどう》だけでは、射精まで快感を導く事が困難になる。自然の膣内の圧は、男の握力には叶わない。  けれどトゥアンは、精通を迎えてからまだそこまでは年数を置かず、自慰はもちろん知っているけれど、浮浪児暮らしの苛酷さの中では、性処理もそこまで頻繁に行えるほど暇ではない。  射精の快感は覚えているが、それを導くための刺激に対しては、まだまだ〈新〉《さら》の状態それがトゥアンの男性器。  そういう性器が、女の膣という、男の射精を促し、種を受け取るために天然自然が造型した肉の管に初めて出逢い包みこまれた。  言わばトゥアンは一番程良い、感覚の鋭敏な時季に女の秘壺の味を知った事になる。  だから、トゥアンの性感は、初挿入の感激にしばし〈眩〉《くら》まされていたものの、それが収まっていった後には、すぐさまより勝る悦楽の海に隈無く〈浸〉《ひた》りこんでいた。  瑛の中は、トゥアンにとって〈愉悦〉《ゆえつ》ただそれだけで出来上がった至極の境地で、情交、〈抽送〉《ちゅうそう》の快感は、少年の中の感覚器官をそれだけ受け止める為のものに造り替えてしまうほど、痛いくらいきつい、その痛みさえも素晴らしい、甘い、熱い、もっと、もっとこれを───!    律動する、腰を前後させる、中を味わう、また律動する、腰を遣う。  熱病に浮かされたように快感に恍惚と、〈抽送〉《ちゅうそう》を続ける意識の中、自分の身体の一部が瑛の中とどういう風に繋がっているのか眺めたくて、結合部に目を落とせば。  陰茎には、ぬらぬらまとわりついて、たまらなくいやらしく〈絖〉《ぬめ》らせる粘液、瑛の中から湧き出して熱い露、の中に。  紅い筋が絡んでいたのにトゥアンは動揺した。 「瑛、血が出てる、あそこから。裂けちゃったか!?」 「───くくっ」  一瞬トゥアンは、自分がようやく気づいた事で、瑛がそれまで〈堪〉《た》えていた苦痛、やっと〈呻〉《うめ》き声にして白状したのかと思ったのだけれども、それは忍び笑いで。 「そっか、血ぃ出たか……当たり前だろ、ん、はぁ……う……ボクだって初めてなんだ」 「あ……。え?」 「膜とかあったんだな、ボクにも」 「瑛が、初めてって?」 「そうだよ……ザマアミロ、だ」 「ざまあ、って、なんでだよ」  トゥアンは、ここでセックスは知ったが、異性に恋愛めいた想いを抱いた事は皆無で、恋愛感情の多くを占める独占欲から生じる、処女性へのこだわりは薄い。まだ気づいていないだけかも知れないが。  瑛に対しても、こんな快楽を教えてくれた事への感謝こそあれ、両性具有者が初体験であったかどうかなど、そもそも考えてもいなかった。大体瑛も、挿入の時にはそんな事などチラとも匂わせなかったわけで。  それが初めてだといきなり告げられて、むしろ瑛の処女を散らしたのが自分であった事に、いささかの気後れさえ覚えたトゥアンである。  だから、瑛が〈嘲笑〉《あざわら》うわけが判らない。 「今まで、男って、友達してた、く、ふぅ、奴に、ちんこハめたら、そいつが股から、血を流してるとこ、見るなんて……はぁぁ、はぁー……」 「ぞっとしねえだろ……だから、ザマぁ」  ああ、そういう事か、と。  一体いつまで〈拘泥〉《こうでい》し続けるつもりか、と。  トゥアンはやっと瑛の〈嘲罵〉《ちょうば》の意を理解する。  強引に押し切った自覚はあるから、今さらとは思うけれど。  もし瑛があくまで強硬に〈拒〉《こば》んだなら、それを押しきってまで強姦しようとは考えていなかった。というかできるとも思えない。共同生活の中で、瑛と取っ組み合いの喧嘩も何度か、その結果は通算で僅かに瑛が勝ち越しているくらい。  だからこのセックスも、不承不承かも知れないが、瑛の同意を取り付けたからだとトゥアンは考えていたのに。  トゥアンはそれが嬉しくて、だからこんなに結合の快感に夢中になっているのに。  瑛は最前から自分を男と見なすよう、これをホモセックスだと感じさせるように仕向けている節があるが、そもそもトゥアンは、元々瑛に対して強い男性性など、ハナから覚えちゃいねえのやな。  これで瑛が大柄で筋肉隆々の体毛濃く汗臭い型だったらともかく、初めて出逢った時でも、トゥアンが瑛に抱いたのは、とびきりの美少女を前にした時の胸騒ぎで、今こうして繋がっていても嫌悪感などまるでない。  大体瑛もそう言う口を聞きながら、乳房を文字通り膨らませたりしていては説得力というのに欠けよう。  例えば瑛が、髪を伸ばして後で一つに括ったりなどしたら。そして、普段の素肌に直に軍用オーバーオールを重ねてブルゾン羽織っただけのなりを、もっとすっきりした衣装に替えてみれば、それはさぞ素敵に映えるのではないか。トゥアン自身の好みもあるが。  と、いうか───  そんな深刻めかした話を〈捏〉《こ》ね回すには。  この状況、二人の形。  お互い素っ裸を晒して、ちんぽことおまんまんという一番大事な弱点で繋がり合った、まま。  他にももっと大事な事があるだろうに、トゥアンは。 「瑛はさ、そんなに〈厭〉《いや》なんだ? 僕とセックスするの」  トゥアンの一部は、瑛の中に埋まったまま。  瑛だって、口ではそんな風に〈煽〉《あお》っていながら、臀を〈捻〉《ねじ》って外そうともしていない。  つい止めてしまっていた律動を、トゥアンは再開させる。  ゆっくり、少しずつ、引き抜いては、また埋め戻していく、それもじりじりと鈍い速度で。  瑛は、自分の中をゆっくりと擦る感触に、〈煽〉《あお》り立てていたのが少し落ち着きを失ったように、 「いやとか、そういうんじゃなく」 「僕はいやじゃ、ない。いやだったら、なんでこんなに気持ちいいんだ?」  ゆるゆるとした動きに〈抽送〉《ちゅうそう》するのは、がつがつと律動するようなはっきりした快感は薄いが、瑛の膣内の感触、肉の管の凹凸や〈襞〉《ひだ》の細かな感触、内部がどういう風に〈蠕動〉《ぜんどう》し締めつけるのかが鮮やかに感じられて、これはこれで気持ち良い。  ただがむしゃらに腰を遣うだけがセックスでは無さそうだと、初体験のトゥアンにも感得させる。 「オマエ、気持ちいいのか?」 「すっごく。突っこんだだけで、もしかしたら軽く出ちゃったかも」 「……オマエなぁ……でも、そっか。うん」  どれだけ〈萎縮〉《いしゅく》させようとも、構わずに自分の身体を求めてきて、快感を素直に告げるトゥアンに、瑛は自分の〈頑〉《かたく》なさが、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたのである。  この両性具有の身体に、過去に触れた者がないではなく、中には嫌悪や忌避もなく好意を寄せてくれた者だってあった。  そういった者は何人もいなかったけれど、トゥアンがそこに新たに加わるのだろう。  そう覚って、瑛の身体に残っていた躊躇いが、また溶ける。 「そうかぁ……ならボクもいいか。このままされちまっても。どうせなら、ボクにも気持ちよくしてくれよな」 「ん。できるだけ、頑張る」  緩やかな〈抽送〉《ちゅうそう》は、心地好いは好いが、じわじわと欲望を切なく蓄積させる効果もあって、瑛がやっと受け入れてくれた時には、トゥアン、鼻先に肉を置かれたじっとお預けを強いられていた犬に良しが出た時のように、猛然と瑛に食らいついた。  食らいつくような、律動と腰の振りだった。 「ん、んぁ! あぁ! いいって、言った、とたん……んぅぅぅ……」 「くぅ……ぁぁ……ぅ、はぁ……擦れ、る」 「ちんこ、突っこまれるって、こんなぁ」  瑛にしても、一時の律動の中断は、膣内を程良く休憩させ、性感に待ちぼうけを食わせる事で、敏感に、かつ柔軟に、雄のモノを受け入れさせるよう調える効果をもたらしたようで、ただ破瓜の圧迫感だけではない感覚を掘り起こされつつあった。 「瑛だって、瑛の中、こんな……っ。ずるいだろ、こんな気持いい穴、隠してたなんてっ」  たまらない───  自慰の際の、指や掌の肌の圧とはまるで異なる、自分以外の意志で蠢き、ぞよめき、絡みつく粘膜。  ただ膣の中に埋めているのに、なにか女の身体全て感じさせる快感に、陰茎どころか、腰、いや胸元や膝裏までも瑛の体熱の海に浸っているかのよう。  陰茎の尖端や肉の茎、根元、全体をくるみこむ、肉の〈襞〉《ひだ》、凹凸、粒々。  ことにこの、熱い蜜に陰茎全体を隙間無く〈塗〉《まぶ》され〈塗〉《ぬ》り込まれているという感覚がたまらない。  無数の舌ならぬ舌でしゃぶりあげられ、吸いこまれていきそう。  こんな快楽の詰まった孔を、今までずっとつるんでいた瑛が持っていたなんて、それに気づきもしなかったなんて、と口惜しささえこみあげてくる。 「そりゃ、隠す、だろ、あぁはっ、こんな、からだなんだから……ぅぅ……ふっ」  それに、ここまで両性具有の身体に抵抗も無く食いついてくるトゥアンなら、瑛がもしもっと前に秘密を明かしていた場合。  二人の共同生活は、男の浮浪児二人の気の置けない〈鰥夫〉《やもめ》暮らしではなく、肉欲に溺れ性臭に噎せ返るような、朝も昼もセックスまみれの畜生暮らしになっていただろう。  それはそれで、瑛にはちと、困る。  一方トゥアンは、瑛がまた両性具有を口にしたことで好奇心が蘇り、手を股間の前に回して、瑛の陰茎を探った。触れるのは初めてだったが、今さら抵抗など無い。  すれば、すべすべと、トゥアンのモノよりずっときめ細かで血の管のおこりにも乏しい陰茎ながら、瑛もまた、硬く勃起していて、膣内はこんなにも柔らかく蜜に〈塗〉《まみ》れた女の身体、なのに手の中にはしっかり張り詰めた男の体、という隔たりがトゥアンに異様な昂奮を及ぼした。  握っているだけでは足らず、扱きはじめる……。 「おいっ、なにそっちまで触って……んんぅ! しごくなぁぁ……っ」 「ちんこだぞ、よく触れる……ぁ、ぁっ、また、擦るなよぅ……っ」 「はぁ、はぁ……なんでかな……? 瑛のだと、男のって感じ、しなくて。ぜんぜん平気だ」 「言ってろよぅ……っ、ボクのちんこ、オモチャにしてるだけだ、そんなの……」 「違うって……瑛のなら、たぶん舐めても平気な気がする」  それは、同性愛の性癖にあるのならともかく、本来は男が男にしてやる愛戯ではない。  が、瑛に男臭さはなく、トゥアンとしては肩を揉んでやるとか、そういうマッサージの延長だろうと思い浮かべて、否、やはりそんな〈暢気〉《のんき》な交流ではなく、ずっと生々しい、肉質の液が滴るような行為だと覚っても、なお。  瑛が相手なら出来るだろうと確信したし、もっと二人の中を〈稠密〉《ちゅうみつ》にしてくれるようにさえ感じていた。 「舐め……!? オマエ……はぁぁ、はぅぅ……変なことばっか、言いやがって……ぇぅぅ」 「セックスしながらは無理だから……今はしごくだけ、な?」 「しごくのもダメだ……つっこまれて、ちんこで気持ちよくなんて、なりたくない」  その言葉は、瑛がトゥアンの手淫で、陰茎からも快楽を得てしまっている事を言外に明らかにしていた。  そもそも陰茎を手淫する快楽を一番知っているのは男なのである。  トゥアンは自分の肉壺に律動する快楽に溺れている筈なのに、その手遣いは、瑛の陰茎にも確実に快感を〈刷〉《は》いていって、両性具有者を悶えさせる。  女としても肉の快楽を覚えこまされようとしているのに、その上男の快感まで引き出されては、と瑛は手淫だけは〈拒〉《こば》もうとしたのに。 「いいじゃん、瑛には両方あるんだし」 「どっちでも気持ちよくなれるなんて、凄えよな……」  トゥアンのこの思考。  彼を柔軟とみなすべきなのか。  それとも、彼には元々〈両性愛〉《バイセクシュアル》の性向が潜在していたと判ずるべきか。  瑛は考える余裕もなく、両性の快感をトゥアンに叩きこまれてもう訳がわからなくなりつつあった。 「オマエって───んぅ! あ、あ、あぁっ、よせ、ホントにちんこでも、よく───」 「なっちゃえば、いい」  瑛の陰茎をしごきながら、〈抽送〉《ちゅうそう》に没頭するトゥアンは、手の中でひくつく硬さにも魅せられて、おかしいくらい昂ぶって、肌が熱して、髪の中に湧き出した汗が額を〈滑〉《すべ》り顔を伝い、顎先から瑛の背中に滴り落ちる。  男のモノと女のモノで別なのに、やはり一つの身体、一方が快を得ると一方にも伝わるようで、トゥアンの陰茎が強く奥を叩けば、瑛の陰茎も一瞬硬く容積を増し、手の中の陰茎を扱き立てると膣内が、律動の反応とは異なる拍子に〈蠕動〉《ぜんどう》する。 「こっち、いじると、中も動いて───きつい、きつくっていいよ、瑛!」 「むちゃくちゃ、するなぁ……っあ、ふぁ、はぁー……っ、んぅ……なんで……」 「なんでいいんだ、こんなのが、ボク……気持ちいい……うぁぁ……ちんこも、まんこも……よくなって……」 「はぁぁ、あ、あん! いいよ、トゥアン、あ、ああ、はぁ……っ」  童貞だったトゥアンにすっかり〈翻弄〉《ほんろう》され、膣内を埋める硬さとその躍動を快感なのだと教えこまれ、瑛の声、はっきりとした媚声に蕩けていた。  トゥアンを、雄を、音だけで悦ばせる官能の喘ぎを、瑛は紡ぐようにされてしまっていた。 「ボク、声、止まらねぇ……んんぅ、あーっ。あぅぅ、声出るよ、う、うぁ、ふぁぁっ」 「ああ……ああ……セックス……トゥアンと……男ともしてる……はぅうう……っ」  男とも、という物言いが気にはなっても、トゥアンにはもう、質している余裕がなくなっていた。  陰茎に満ちる、じんじんと痺れるような、そして強烈な圧を孕んだこれは、射精の前兆。  考えてみれば若く過敏な童貞で、事前に精を放出して身体を快感に馴らしもしていなかったトゥアンとしては、挿入直後に軽く弾けただけで、初めて味わう女の生の〈柔襞〉《やわひだ》の快楽に、ここまでよく保たせたほうなのだ。  それも、限界が近い。 「瑛、瑛! イっていいか、僕イってもいいかっ? 我慢、限界───っ」 「───ばか。いまさら。ガマンなんか、すんな」  自分の中で硬度を増した肉塊に、瑛は次に何が起こるのかたやすく察せられた。  両性具有者自身、男としての快感の極みに何があるのか判りきっていたから。  絶頂の快感を高めるための我慢はあっても、限度はあるし、それを際限なしに続けさせるのは、苦痛でしかないだろう。  自分の身体の女の部分が、相棒をそこまで高みに導きつつあるという事実が、瑛を震えさせるくらいだった。喜びと、誇らしさで。だから。 「イきたくなったら、そのまま出しちまえ」 「ボクの中で、いいからさ……っ」 「でもそれ、妊娠とか……っ」  セックスという行為が本来何を目的としているのかくらいは判っている。  避妊具の持ち合わせなど、二人に有る筈がない。そんな何時使うか当ても無かったモノに使うような金もない。  もちろん最後の、最高に気持ち良い瞬間を、この素晴らしく締めつけしゃぶり上げてくる粘膜の中で迎えるのは、トゥアンだって大いに望むところ、いやできればお願いしたいくらいだ。  それでも妊娠の可能性は、やはり少年には大きな重圧となって膣内射精を躊躇わせたのに。 「出したい癖に、無理すんなヨ。男ってみんなそうだろ、ボクだってそうだし、さ」 「生理ないし、平気だって、ほら、ほら… …っ、んんぅぅっ」  初めての瑛にとっては、膣の使い方などまだまだ判らず、熟練の〈娼妓〉《しょうぎ》のようには、とはいかないだろう。  それでも真摯に射精を導きこうと、できる限りに自分の〈襞〉《ひだ》をまといつかせ、肉の管を絞る───  無論、トゥアンにはもう、〈堪〉《こら》えられたものではなかった。 「お、ゥッ、そんな、締めんな、ホントに出るゥ……っ」 「出しちゃえ、ボクの中に……射精……精液……、ふぅー……ん、ん、んぅぅっ」  息んで締めつけてくる瑛の中の絶後の心地好さ。  〈襞〉《ひだ》のぞよめき。吸いつかれて、まとわりつかれて。  奥へと引きこまれて。  もう何故そんなに〈堪〉《た》えていたのか判らなくなってトゥアンは、もうこれが最後と。    〈衝〉《つ》きこむ、引き抜く、〈衝〉《つ》いて、味わって、引き戻して、貪って、律動、また律動。  快感が、堰を破る。    それでも同時、に瑛の陰茎も強く扱きあげて。 「あ、待てって、あ、ああ、ちんこ、そんな、された───ら、待……あ……だ、めぇっ」  膣を締めつけると共に、陰茎にも力が入る、そこを扱きあげられて瑛も、絞り出されるように。 「えい……いく……よ……っ」 「───う、うぅぅっっっ!」  最後の理性も霧消して、体ごとぶつかるように最奥まで瑛に埋める。両性具有者の臀がへしゃげるくらいに。臀と背筋を強く強く緊張させて、ずっと繋いでいた手を、強く握って、そして。  絶頂の爆発───    陰茎から〈脊髄〉《せきずい》が一直線になり、身体の芯が吐き出される、吸い出される、痙攣しながら、脈打ちながら。 「ダメだ、ダメだよぅ……っ、ぼく、も、ちんこで、ちんこが───!」 「あううう……っ、あ〜〜〜っ、あっ、あっ、あーーーっ」  トゥアンの射精を身体の底に受ける、その衝撃、脳天まで突き抜け、両性具有者の精の溜まりを突き崩し、トゥアンの手淫の中で瑛もまた。噴き零していた。  初めての挿入と律動は、さすがに瑛の女を絶頂まで押し上げる事までは叶わなかったけれど、男の快感は突き抜けて、同時に射精してしまっていた。 「あぁ……あ……ボクも、出ちまって、なんでこんな……ぅ? え……まだトゥアン……出て……」 「……はぁぁ……ダメだ、なんか、止まらない」  自慰の時は、吐き出した精が花紙の中なり襤褸切れの中なり痕跡として残るのに、瑛の中に射精するとそれが見えない。  自分でも馬鹿げた量を射精しているのはわかるのに、その証が目に見えない事が、トゥアンにはなにやら少し違和感、不安となって、それを紛らわせるように瑛の陰茎を扱き続ければ、また両性具有者は白く濁った汁を零した。 「うぅ……ああ、また、びくって。もうちんこ、しごくなってば……」 「……セックス……しちゃったな……ボクら」  一線を踏み越えてしまった、という儚さが瑛の中にある。昔、男としてとある少女達の破瓜を散らした時は、こんな頼りなさを感じたどうか───記憶が定かではない。  けれど、女として受け入れてしまった今は。  彼女達もそうだったのだろうか。  これから先トゥアンとどうなるのか判らないし、下腹部を満たす熱さが明晰な思考を奪う。  瑛は、今はその熱に身体と心を委ねる。  そしてトゥアンも、長い長い射精が遂にお終いになって、陰茎がひくついてももう何も出ない、まで吐き出し尽くしてから、ようやく身体を弛緩させる。 「うん……気持ちよかったよ、瑛……有難うって言えばいいのか、こんな時」  最高───以外の言葉が出なかった。  セックスの快楽。それが、こんなにも。  想像を軽く超えていて、それを与えてくれた相棒に、愛おしささえ覚える。同時に感謝も。 「知るかって……だいたい、ちんこ入れたまま、有難うって言われても。あ、だからもうボクのちんこ離せよう……ぅぅ……」  それぞれに絶頂の余韻に浸る二人───    ただ、瑛は膣内に〈夥〉《おびただ》しい〈迸〉《ほとばし》りを感じていたが、トゥアンの勃起はまだまだ力を残して、こっそり窺えばその目つきも物足りなげな、思春期の性欲蛇口が壊れた水道の如しと言うところ。さすがにこれ以上つきあっていてはいられないと、瑛は敢えて見ないふりをした。  ……内心、トゥアンの性欲に応えるのも吝かではなかったのだけれど、そうすると今度は自分に歯止めがかからなくなりそうな予感があったのだ。  今日だけ、一回だけと釘を差したけれど、そんな禁など意味を為さないことくらい、男の部分も併せ持つ瑛には判りきっていたのである。  これからの付き合い、苦労することになりそうだと瑛は内心で微苦笑したことである。  ああそうなのだ。これから。トゥアンとの関係。  射精を受けた時覚えた一抹の儚さは、相棒の精の熱さが胎に馴染み、〈沁〉《し》みていくにつれて溶けて、瑛はこれがあったからとて、トゥアンと離れるつもりには、もうならなかったのだ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  そして、浮浪児二人にとっては初めての〈密事〉《みそかごと》のつもりだったかも知れないが。  行為の最中ずっと、一部始終を物陰から覗いていた目があった。  眼鏡越し、に。 「あの、瑛の身体って……両方、あるの、あいつ……?」 「ふたなりって言うやつ? いるんだ、本当に、そういう人って……」  汗と埃に汚れた身体を、存分に洗い清めてせっかく清々したのに、大事な腰鞄を忘れ物。浮浪児二人にもし〈漁〉《あざ》かれでもして、鞄の底に大切にしまってある殺精子剤を発見でもされようものなら、逆上以外の対応が思いつかぬ。で取りに戻ってみればあれである。  瑛の野郎だか女郎だかが、トゥアンの童貞ちんぽこ餓鬼の前に恥も臆面もなく大股をかッ広げて、女体の〈淫猥〉《いんわい》手解き個人授業、となった段から、アージェントには薄々後の流れは予想が付いていた。  やりたい〈盛〉《ざか》りの餓鬼二人のちんことまんこがあれば後はどうなるのか、火に〈翳〉《かざ》したバターが溶けるより判りやすい流れではないか。 「あいつら、ホントに始めてる……セックス」 「なんで───あいつらなんかが。浮浪児のくせに、あたしより餓鬼なのに」  初めてのくせして立位で後ろから、途中で暴発もせず無事ドッキングを果たしたのを見届けた時には、アージェントは〈矜持〉《きょうじ》らしきものが打ち砕かれたような気がした。  その後も、痛みにめでたく中断する様子もなければ、緊張と不慣れによる喜ばしい中折れもなく、このままでは初体験の童貞野郎が外出しなど小器用な真似をできる筈はなく、〈充填〉《じゅうてん》完了大噴射、着床完了ようそろう、となろう。両性具有者が妊娠できるのだかどうだかしらないが。 「……なんか、だんだん腹立ってきたぞ。くそう、こうなったら邪魔してやろうかしら」  そうだ、そうしてやろう、そうするしかない。ハメっ子動物と化した二人の下に躍り込んでいって、自ら喉奥に指をつっこんで盛大にぶちまけて小間物屋を開店してくれるのだ。  それでも離れないのならさてどうしてくれよう、ちょん切る用の鋏はあったかちら……。 「だって、おかしくない? あいつらみたいなのでもセックスできてるのに、あたしだけなんでまだ処女……」  血涙流さん勢いの〈憤怒〉《ふんぬ》の相で、飛び出してやる事決定、して身を乗り出したアージェントに。 「……むぷぅ……っ!?」  柔らかく絡みついて唇を塞ぐ、唇があった。  腰に淫靡な蛇のように巻きついて、引き離していく腕があった。    アージェントを、瑛とトゥアンの情交の場から引き離していく、繊細な影は二つ。  沐浴場から遠ざけられ、抵抗は柔らかな網を撃つように虚しく絡めとられ、アージェントは気づけば〈天蓋〉《てんがい》つきのベッドに転がされてあり、迫ってくるものそれは。  夜闇の色と同じドレスの、金盤の眸の少女であり。  茜色の花を綴ったような羅衣の、同じく金盤の眸の少女であり。 「野暮な真似は、控えていただきましょうか」 「あの者達のそれは、恋路なのか、友誼の形の一つなのか、判然とはせぬとしても。邪魔はいかにも無粋ですよ」 「とはいえ。睦み事に当てられて、火照った肌を一人冷ますのは辛いわね。いいわ、あすこから引き剥がしたのは〈妾〉《わたし》達。だから」 「あちらの二人が終わるまで、の間だけど。その間は〈妾〉《わたし》たちが可愛がって差し上げます」 「え、ちょっと待て。別にいい! いらない! あたしレズには興味ない! だいたい、冗談だよね?」 「まさか、本気、あんた達───?  こ、来ないで、触れないで、  服、脱がさないでぇぇーーっ」                  衣擦れはあくまで〈清〉《さや》かに、けれど止まらず。  伸び上がる悲鳴を聞き届け、駆けつけるコミックヒーローもおらず。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  問い。    離れた唇と唇の間に、雫を珠飾りと連ねた糸の架け橋かかるようになるまで、唇を重ねて、舌と舌とが淫らに粘つき絡み合い、どれだけの時間が経過したか。 「んむぅぅ……っ、ん、ん……ぷは……っ」  答え。    生娘で、口づけなど自慰の妄想に際しての味付けの為の、自分の指先とのそれくらいしか知らなかったアージェントが、〈朝鮮朝顔〉《ダツラ》と〈菲沃斯〉《ヒヨス》の混ぜ汁あたりをたらふく呑まされたかに双眸を汁気一杯にとろっとろに〈蕩〉《とろ》けさせ、たっぷり数時間は孔雀の羽で触れるか触れないかにくすぐられたくらいに、肌を過敏にかつぽっかぽかに紅潮させ、下っ腹の奥の赤ちゃん部屋では、低体温期でもないし使う当てもないのにうっかり排卵してしまうくらい、子宮が期待にじんじん〈疼〉《うず》いてしまうまでの時間。  アージェントは初めての口づけをいきなり舌までレッツキスされて、それはもうたっぷりしっぽりねっとりと可愛がられていたのであった。 「キス……こんな、舌まで……はぁぁ」 「ふふ……貴女のお口……美味しい」  脱がされるまではそれこそ、網に掛かった妊娠中のクロハラハムスター顔負けに抵抗していたつもりだが、もう四肢はぐんにゃりと、腱でもぶち切られたように力なく。  もちろんアージェントの奮戦を封じこめたのは、そんな怖や怖やの拷問責め苦であるものか、抜かず三連発が自慢の強精の男でも、〈海月〉《くらげ》なみに骨抜けにされそうな、ゼルダクララの深情けたっぷり籠もった深い口づけの。 「こちらも……とても愛おしいですよ、お前さま」  頑強に〈拒〉《こば》んでいたはずの上のお口をあっさり岩戸開きされたなら、下のお口も〈煤払〉《すすはら》い、ヒプノマリアの、口淫一回で男の精を一ガロンは吸い尽くすと風説される精妙至極の舌戯で、たっぷりじっくりぬっぷりかつじりじりと絶頂するかしないかの境目で戯れられ、骨盤が溶け出してしまったのではないかと危ぶまれるくらいに、ぬかるむ露を溢れさせていた。  沐浴の際にいつもの習慣でしっかり〈恥垢〉《ちこう》を落としていて良かった、といった見当外れの安堵や、同性に秘部を目の当たりにされるどころか口まで着けられる、といった嫌悪を感じる段階はとうに過ぎた。きっとこのままヒプノマリアにあそこから体の中味溶かされて、吸い出されて空っぽにされてしまうのだ、といった退廃的な〈諦念〉《ていねん》の域にまで至っていたが、更なる刺激が女の芯から脳天まで染み通って、アージェントの、原生動物並みに〈退嬰〉《たいえい》していた意識が揺さぶり起こされる。 「っあ!? う、ちょ……ああっ、や、んんっ」  それまでヒプノマリアの舌戯の精妙は、秘部の表だけを〈弄〉《もてあそ》んでいたのだが、ここに来て金盤の眸の少女の指が、膣孔に〈潜〉《もぐ》りこんできて、中の〈襞〉《ひだ》をまさぐったのである。  一瞬形が定まったアージェントの意識だったが、たちどころに、前よりも深い度合いに桃色に染め上げられた。  頭の周りでピンクの象がラインダンスで周回して視界を曇らせ、声などは〈桜田麩〉《さくらでんぶ》でも吐いているのじゃないかしらんというくらいに甘く〈石竹色〉《せきちくいろ》に火照ったのが判ったし、当然肌だって、髪の毛を丸刈りにしてみれば頭皮までローズに染まって、桃色の菱餅だけ食って成長したのではないかと疑わしいくらいの有り様になっているはずだ。  もうヒプノマリアの指一本だけで、アージェントは〈銀色〉《アージェント》から〈桃エロ〉《ローゼント》に改名せねばならんか、というくらいの快楽のピンクに子宮と乳首を緊縮させていたのだった。 「あんた達、なんでこんなにやらしくって、うまくって……」 「娼婦やってるって、マジだな、これは……」 「くそぅ……ずるい、ずるい……あんた達は、もう何本もくわえこんでるのに、あたしには、こんな寸止め……ああぁっ、こんなぁ……っ」  アージェントをここまで蕩かして、同性愛への躊躇いもへったくれもあったものかに感じさせているというのに、双子の愛撫は彼女を最後までいっかな導かず、気が狂いそうなまでにさせて、こんなの〈厭〉《いや》とどれだけ懇願しても菊は耳を持たないので聞いてくれない。  どれだけ悔しがっても〈勧進帳〉《かんじんちゃう》、その帳面の表には「あそこが気持ち良いので摩擦刺激をお願いします」「キスが気持ち良いので唾液交換をお願いします」「乳首が張って気持ち良いので〈摘〉《つま》んで下さいおねがします」「〈耳朶〉《じだ》が敏感になってきたのではむはむしたりふーふーしたりぺろぺろしたりをお願いします」「お願いします」「お願いします」「お願いします」とアージェントの要求が箇条書きにされていて、駅の案内人であると同時に、河の下の少女娼婦である双子には掌見るよりたやすく読み解ける。  だからアージェントの性感帯を見抜いた上で最後をするりとかわす事など双子には造作もなく、絡みついては延々と、〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》を快感と〈煩悶〉《はんもん》の淵に沈め続けた。 「気持イイよぅ……口惜しいくらい……っ、いい、いいっ、お願い、お願いよ。お願いします」  〈模擬戦〉《オナニー》にどれだけ習熟し、その出撃回数が五桁に近づこうとも、〈実戦〉《セックス》の百戦錬磨である双子に敵うわけなどない。  あっさり陥落して後はもう、ただひたすらに願い続けた。 「もう指でも玩具でも何でもいいです……っ、そこ、んぁぁぁ! そ、それ、あたしのバージン、膜、破っちゃって……下さい。お願い、しますぅ───」  別に純潔主義を貫くために処女でいたわけでもない。貰ってくれる、奪ってくれる男がいなかっただけ。このまま虚しく処女のままで一生を終えるくらいならいっそ、同性相手でも。たとえ初体験の相手が同性でも、こんな、同じ女とは思われないくらい、綺麗で風変わりな双子が相手なら、それはそれで替えがたい記念になったりしないか、などと。  アージェントが済し崩しに済し崩されようとしたのに、秘芯に〈潜〉《もぐ》りこんで、処女膜を時に柔らかく時に強くまさぐっていた指は、つるりと抜けて遠ざかっていって、しまって、その虚しさ切なさ口惜しさ。  おまけに。 「なりませぬよ、お前さま」 「───ひどい。こんなに良くして、声、出させてあああっ、あっ、あっ、ひぃぃ……、なのにダメなの? どうして、ねえどうして」 「そうよ、だめなの、いけないのよ。貴女の乙女は絶対に守らないと」 「お前さまは、物語の巫女であり」 「そして、なにしろわたくしたちは、お前さまの処女を守る会の」 「それぞれ、ナンバー1と2なのだから」  おまけに、かくの如き驚愕の真実まで宣告されたとあっては、虚しい口惜しいどころではなく、アージェントは僅かの間なりともいつもの〈倨傲〉《きょごう》のアージェントとして復活する。 「……あ?」  その謎めいた組織は、どれだけの規模に及ぶかさえも謎だが、管理局の中にまで構成員が潜伏しているとされ(真実である)、アージェントの処女を守り抜くことを専らの至上命令として(アージェント本人の意志は一切無視して)いる以外の詳細は秘密の帷の奥も奥。  その首領と副官が、よもやこんなところに〈潜〉《ひそ》んでいようとは! 「おいいまなんつっ、たぁぁぁんっっ!  ちょ、今質も……んんぅぅ! やめ、そこくりくり、感じ、過ぎ、て、ひわぁぁ……っ」  アージェントは炎の雌獅子の如く憤然と食ってかかった。  あっさり双子の指運と舌技の前に〈猫〉《ネコ》になって調伏された。 「切ない……こんな……あ、あぁっ、あふぅっっ」 「あたし、いつまで……うぅぅぅ……」  まあここでもアージェントが処女を散らすことは結局叶わなかったのだけれど。  快楽に溶けて、物哀しさに〈啜〉《すす》り泣いて、それでようやくアージェントの顔を台無しにしている、険がきつく底意地の悪い表情が流れて落ちて、後から浮かび上がってきたのは、この〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》の造作が本来持ち合わせる愛らしさの、これが実に双子の心を〈拍〉《う》った。  双子は寸止めの意地悪をしてご免なさい、と詫びて、後は絶頂を解禁した、ヒプノマリアはお優しい、ゼルダクララはお〈貴〉《たっと》い。  アージェントは、手始めに軽く二・三度絶頂させられ、身体が練れたと深く数回も絶頂させられ、これからが本番と軽い絶頂と深い絶頂を交互に叩きこまれ、そろそろ仕上げと絶頂の上に待つ、深く強烈な絶頂状態が何時までも続く絶頂海にずぶ〈嵌〉《はま》りにされ、絶頂という字義が崩壊しそうなくらいに絶頂させられたので、まずは目出度し目出度しというところ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  アージェントが気絶から覚醒して〈革張り椅子〉《ソファ》に跳ね起きれば、仙女の落涙とはらはらと零れ落ちたのは幾つもの〈小体〉《こてい》な白い花弁で。花を散らすというのは、儚く失われた貞潔の標章に用いられる古典的な演出なれど、アージェントは自分の膜の健在を誰より良く心得ている。  大体自分の周りに敷かれ、身体の上にも振りかけられたと思しき白い小さな花は栽培種の〈勿忘草〉《わすれなぐさ》で、素朴な可憐さを見せる花ではあるが、どこかの陵墓ではこれが大繁殖していることを思えば、アージェントにとってはけたくそ悪いばかりである。  〈四囲〉《あたり》を見回してみれば、博物館の収蔵庫と書斎が合わさったような一室で、双子の残り香がそこはかと染みついているところを見るのにあの二人の居室と思しい。  最後には心不全でくたばりかねない絶頂の連続に喪心した後、あの〈天蓋〉《てんがい》つきの寝室から移され、綺麗に〈身繕〉《みづくろ》い、衣装も髪も肌も調えられて寝かされていたようだが、双子にとっては看護というより生き人形で遊んでいる気分だったのではあるまいか。あんな花なぞ意味なく敷いていったりの下りに双子の稚気が、見え、隠れ。  なんにしてもアージェント独り。目覚めたもののあの拷問のような双子の床あしらいで身体は疲弊しきっていて四肢などは鉛でも詰めこまれたかに重い。寝直そう、とぐったり横たわろうとしてアージェントはブラウスの〈袖口〉《そでぐち》から延びている紅く細い糸を認めた。  怪訝に首を傾げた途端に、右の乳首に噛みついたのは痛み、それに甘やかさも〈塗〉《まぶ》された。  たまらずまた跳ね起きれば、くん、くんと甘美な〈疼痛〉《とうつう》は連続して、どうやら糸が〈袖口〉《そでぐち》を通して乳首に結ばれているのらしい。解こうとするもその機を見計らっていたかのように糸は引かれ、見れば端は書斎の扉から外へと延びていての、きっとアージェントを書斎から引っぱり出そうとしているのだろうがまた〈巫山戯〉《ふざけ》たアリアドネの糸もあったもの。〈激昂〉《げっこう》して噛み千切ろうとしても、また糸がピン! 乳首がツン!  ……アージェントは半泣きで引っ張られて糸を辿るしかなかったが、双子の書斎から出る寸前、陳列台に積み上げられた薄紫の乾物を見た。何やらの海藻の干物と思しきが、この博物館の収蔵室じみた書斎には似合いかもしれないが、あのように剥き出しで置かれる展示資料もあるまい。あの双子と合わせてみてもどうにも不釣り合いな。  もしやあれが双子の美貌の秘訣ならん、であればとって返して火を着けてくれようとて、腰鞄の中の〈燐寸〉《マッチ》を引っぱり出そうとしたが、〈咎〉《とが》めだてのつもりか糸に一際強い牽引の、痛いやら気持ち良いやらでアージェントは誰にともなく大謝りしながら、やはり引っ張られていく、前衛的な舞踏のような姿勢と歩き方で。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  引っ張られていった先はライブラリーに続く大門の前で、その片隅で双子と浮浪児二人が輪になって何事か行っているのを認めた段になってようやく、乳首の糸が解けた、と見れば糸はするする〈手繰〉《たぐ》りられてゼルダクララの手首の飾り帯の内側に巻き取られた。異性との縁を示す小指ではなく乳首に結んだあたりがゼルダクララの心映えだったのだろうが、そんなのは心映えとは言わず悪質極まりない〈諧謔〉《かいぎゃく》だという。  茜の羅衣の少女の乳首を引きちぎってホルマリン漬けにして猟奇王に売り払ってくれるの勢いで猛進していった筈のアージェントは、気づけば闇色のドレスの少女に抱きとめられて唇には人差し指で蓋。まあその人差し指が無くとも、双子の華奢な身体の感触だけで連続絶頂からの喪心という記憶が蘇り、半ば恐怖で〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》を沈黙させたのだが。  双子は無言、瑛もトゥアンも無言、そしてアージェントも無言を強いられて、何やら奇妙な無言劇が進行しているようだった。  見ればトゥアンが、どこから持ち出してきたやら、二叉の木枝の、分岐した端をそれぞれ両手に持って、一本の端を地に向けて、何事か探り当てんとしている風情の神妙な顔。トゥアンが手にしているような枝や振り子、金属製のカギの字の棒等々を用いて地下の水脈鉱脈を探り当てる術とされるが、一種のオートマティスムで、信憑性には疑問が残る。  それでも枝先を微妙にあちらこちらと向けているトゥアンには、皮肉屋のアージェントさえも黙らせる真摯が、研ぎ澄まされた刀の迫力のように満ちていて、やがて。  地に向けた枝の先が跳ね上がり、 「……ここだ」  短く切り詰めた一言で告げてからトゥアンは屈みこむ。地下文書庫の大扉の前の床は、幾つもの大なる石版が組み合わされ〈嵌〉《は》めこまれて構成されており、たとえダウジングで何事か探知しようとて、掘削は困難かと思われるのだが、トゥアンが示した箇所だけは、小振りの石版が〈嵌〉《は》めこまれてい、しかも少年が指を差しこみ息んだくらいで、一枚外れてきたところを見ると、石版の根は浅いと見えた。  居合わせた者の注視を浴びながら、一枚外したのを手がかりに、周囲のものも外していけば、どうやら一種の隠し蓋だったと見え、この地下の暗黒街よりさらに下に降る石階段の存在が明らかにされた。人一人分が通れるくらいの。穴から漏れ来たるのは早瀬の響き、石段の底、地下深くに水脈でも流れているのだろうか。 「なかなか奇妙な芸をお持ちじゃの、お前さまも」  その石段の所在は双子にも意想外だったようで、目を〈瞠〉《みは》った様が月下美人の〈蕾〉《つぼみ》が開いたよう。典麗寛雅な少女でありながら、練れて卓越した〈娼妓〉《しょうぎ》の〈佇〉《たたず》まいを〈纏〉《まと》うヒプノマリアにして、年相応の稚気を覗かせて、〈珍〉《めずら》かな可憐で魅せるという、どうにもややこしい可愛げにも、トゥアンは何処か茫洋とした目を返すくらいで感動に乏しい。ダウジングに神経を費やしたせいかは知らん、鼻梁を横切る傷痕を指先で軽く掻きながら、 「あったぜ、瑛。地下水。これで『上の駅』とかに連絡する機械だかなんだかの位置、逆探知出来ンじゃないのか?」 「……こんな地下で、オマエのサバイバル術? 役に立つたぁなあ……」  野外生活においてはなるほどダウジングは、水を得る手段の一つとして運用される状況もあるだろう。  しかしここは地下、運河の下の『河の下』、自然環境のしの字も見えないこの地下暗黒街でトゥアンの持つ野外生活術の知識が効果的に用いられるなど、オペラ劇場で〈泥鰌掬〉《どじょうすく》いの〈笊〉《ざる》が音響効果の部品として巧まぬ活躍を見せたようなもの。  瑛は耳当て帽を取り、文字通りの脱帽をトゥアンに送ったし、双子も仔細は了解しているようだがアージェントは蚊帳の外。  置いてけ堀の蚊に食われたように臀がむずむずと落ち着かず、説明を求めんとした、瑛はさっさと石段の中の闇に身を沈めていったところ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。        ───トゥアンが口に〈上〉《のぼ》せた『上の駅』というのは。  ───この駅の上空、〈気圏〉《きけん》をも越えた虚空の直中に制止している一大構造物であって。  ───かつてはこの地上の駅と対になり、宇宙の彼方へ旅立つ者達の中継ぎとなってあり。  ───それが為に『上の駅』と呼ばれていた。  ───が、それも遠い昔の話。  ───今ではこの地上の駅で、『上の駅』の事を知る者は皆無に近いはず。  石段を下り行きながら、日頃は一度喋り出せば、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の意気地と〈気っ風〉《きっぷ》で〈流暢〉《りゅうちょう》な瑛なのに、それを語る時の声はぽつりぽつりと五月雨の、その上に宿していたのだ、郷愁めいた〈陰翳〉《いんえい》さえも。  他の三人にはそれぞれ感ずるところあったように面伏せしていたけれど、アージェントには、〈瀬音〉《せのね》〈蕭々〉《しょうしょう》響く暗い石段の中で浮かない怪談のようで閉口ものだった。  幸いな事に、石段はやがて尽きて一行を地下の水路の際に導いた。  ───地下の河は、〈淙々〉《そうそう》と暗がりにも白い〈水飛沫〉《みずしぶき》を〈汀〉《みぎわ》に泡立たせ、何処とも知れぬ彼方から流れ来たり何処とも知れぬ果てへと流れゆく。  石段の果ては、椀を半分に断ち割った形の空間に通じており、その断面は地下の河に接して、岩床を暗い水に洗われてあった。  その暗い〈汀〉《みぎわ》に瑛が片膝をつき、手を〈翳〉《かざ》せば展開される、呪術方程式の発動を示す複雑な紋様。  瑛が呪式を展開させる燐光が、両性具有者の横顔に照り返しを置いた。瑛が呪式を使う事にはもうアージェントも今さら驚かないが、暗がりの中に夜の〈眷属〉《けんぞく》めいて浮かび上がるその横顔の、端正であると同時に不気味にも映る風情に、〈身裡〉《みうち》にひんやりとする感触が降りる。  背後に〈佇〉《たたず》む双子は言うまでもなく暗がりに馴染み、それはアージェントにも納得のいく〈佇〉《たたず》まいであったが、瑛もこの時同類として映った。  〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》は悪童としてアージェントはどちらかと言えば嫌っていたけれど、この地下の〈汀〉《みぎわ》にては、トゥアンの方がよほどアージェント寄りの生き物と見え、残り三人との間には境界線が生じたかのよう。  ───〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》が幸せに昏倒している間に、浮浪児二人が決めた方針というのは、映画車輌の中で提案された通り、駅の住民皆にここが宇宙港であった過去、その事実を知らしめる他は無かろう、という事。  浮浪児二人が駅の全土にどうやってそんな大それた事を仕掛ける〈心算〉《こころづもり》があるのやら、アージェントにはとんと推測つきかねる。  それでも『封印派』の追跡をかわす、というより無意味なものにするには、それしかないと聞かされれば、アージェントも余計な〈嘴〉《くちばし》を差し挟むのは、いかにも愚昧に思われた。  ともあれ、その為には『上の駅』との連絡をつける必要があるとの由。  ただ問題が少しばかりあって、まずその連絡をつける為の機構が封印されているというのが、例によって例の如し。  そしてその位置は、かつては瑛が詳細に把握していたのだが、今ではど忘れして、駅の地下を流れるどこだかの水路と接している以外は、通じている道筋はない事くらいしか覚えていないど腐れもの。  他にも駅の水脈の大半は『封印派』の知性体が思考回路としても手足としても使っているだとか、その機構までどうやって辿り着くのだ、とか。  ───少しばかりの問題、どころの騒ぎではない。  アージェントが沈黙したのは、浮浪児二人を慮って、というより呆れ果ててものが言え無くなった、といった方がより適当な。  だがその問題の内の一つは、早くも解決されたようだった。水面に向けた呪式紋を収束させた瑛の、得心したような横顔を見ればそれが感じられる。 「……わかったのか? その、場所」  瑛はトゥアンに、その呪式を探知用だと語っていた。この地下水脈伝いに、上の駅への機構の在処を探査するつもりだ、とも。  ただ全ての地下水脈が本脈支脈で連絡しているわけでもなく、ここで探知の呪式を用いたとしても、感があるかどうかは運任せであったろう。  それでもトゥアンの問いに〈頷〉《うなず》いた、瑛の翠の眸に会心の光が浮いていたあたり、〈僥倖〉《ぎょうこう》を引き当てたと見えた。 「なんにしても、これで穴は空いた、か」 「あそこか───」 「あとは移動の手段だけど……」  瑛の目指す封印地が、地下水脈以外からは隔絶されている以上、移動には船かそれに類する手段が必要とされよう。  しかし。その船、人類の叡智の一つの結晶である船。結晶様であるだけに、なかなか下下の者には下しおかれず、例えば瑛、過去はどうあれ現在は〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》である瑛が船を持つ筈もない。その〈伝〉《つて》を辿れば出してくれる者くらいはいるかも知れないが、それとてこの地下深くにどうやって運びこむのだ、という新たな問題を呼ぶばかり。水上〈乃至〉《ないし》は水中を移動を可能とするような高度な呪式の持ち合わせはないそうで。さしもの双子も船など持たず、アージェントは駅の地上の運河を往来する輸送船か、小水路を巡るゴンドラに乗り合わせた事があるくらいの。  一行の頭上に垂れこめた暗雲を、この時掻き分け顔を出したのは、光背を負ってかくやくと輝かせていた、わけでもない、浅黒い肌のトゥアンだった。 「船とかの用意はさすがにどうしようもないけどさ、ただ浮いて流されていくだけだったら、どうにかなるかもよ」  思いもよらぬ向きから差しこんだ光明に、双子でさえも〈柳眉〉《りゅうび》を〈撓〉《たわ》ませたけれど、トゥアンの思案というのは彼女達の世界を淵源としていたから、物事の繋がり人の縁というのは面白い。 「ヒプノマリア達の書斎? で見かけて、珍しくって引っぱり出したんだけど、ムカシホンダワラの干したのがあったろ。あれ凄ぇんだよ」  どうやらトゥアンが指しているのは、アージェントも双子の書斎で見かけた海藻の乾燥標本、今は乾いているようだが、水に浸して戻すと気胞を孕み、やたらと強い浮力を得るそうな。 「それを身体に巻きつけていけば……」 「なんだってオマエ、そう次から次へと。びっくり箱かよ……」 「でも、無理かなあ。見たとこ、書斎にあった奴だけだと、量が足んないかもだし……」 「……存外、可能性はあるやも知れませんぞ」  書斎を満たす様々ながらくた古物、もとえ、地下文書庫の資料群は、双子の育ての親なる人々が遺したものだという事だが、あの部屋の品々は展示目録的な意味で一部を出しているのみで、正式の収蔵庫にはそれぞれの品が山と収められているそうな。  ……風向きが変わってきたようだった。吹いてきた風が魔風だという〈南風〉《はえ》なのか、朝の希望と活力を運ぶ西風なのかはまだ定かではないにしても。  瑛とトゥアンが眸に〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》らしい生命力を漲らせていくのを眺めてアージェントは、面白くも無さそうに〈踵〉《きびす》を返したのだった。 「あたしはここで降りるからね。……なんだってこう、前と言い、今回といい、益体もない事件に巻きこまれるかな、あたしって」  地下水道の〈畔〉《ほとり》までは付き合ったものの。先だって巻きこまれた『移動舞台暴走事件』と、今回の、名づけるならさしずめ、そうさな『浮浪児〈遁走〉《とんそう》事件』を通じてアージェントが学んだ教訓は、見切りはもっと早めにつけるべき、というごくごくありふれていて、故に真理に通じていよう。  今回だって、映画車輌が地下文書庫内に保護されているのを見届けた段で、寝床を兼ねた機械室に引っこんでしまえば良かった。それをだらだら付き合って、勧められるがままに風呂に浸かりなどしたものだから、そこからあんな、あんな……双子との痴態を追想した途端に〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は〈雀斑〉《そばかす》が見えなくなるくらい赤面した。  〈羞恥〉《しゅうち》から、というよりは、思い出した途端に、アージェントの眸がインヨウカクとウバタマの煎じ汁あたりをお腹がたぷたぷになるまで呑まされたかに焦点を無くして、〈喪神〉《そうしん》の間に替えてもらっていた別のショーツを、絞ったら小瓶一瓶くらいはアージェント汁が溜まりそうなくらい秘部を愛蜜の豊泉としていた事からして、悦楽の戻り波のせいだったのだろう。  映画車輌に戻って引きこもる、という事は地下文書庫に留まる事でもある。文書庫が在すのは駅の司法の手も届かぬ『河の下』である上に、『河の下』の悪党どもからも堅牢極まる大扉に護られて、避難地としても〈究竟〉《くっきょう》と言える。むしろ最良の選択肢といえるはずだ、が───  だが待てしばし、とアージェントは踏みとどまって、あすこに居座っていては双子との接触は避けられまい。その場合自分は正気を保っていられるだろうか。  あの、魔薬のようなサッフォーの煉獄を自ら望んでしまうのではないか……今の自分の身体を見るに答えは出ているようなもので、アージェントは恐ろしい。他に適当な潜伏場所が思いつかず、結局は双子に頼ってしまいそうな自分が恐ろしい。  ああ双子が、アージェントの葛藤に気づいて、それは優しく気高い微笑を寄せている。  アージェントを喪心するまでお可愛がりになられたあの〈貌〉《かお》で、ああ、笑っている───                    ───八───  かくてこれまで同道していた〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》と、華やかなゲストとして登場した双子は〈舞台袖〉《ぶたいそで》に下がり、再び〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》は道の始まりと同じく〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》二人道中にと戻る。  悪態と〈僻〉《ひが》みの塊のようなアージェントは、道を共にしてみればあれはあれで味のある道連れであった、とトゥアンは振り返る。危難を共にした者同士にありがちな共感で、錯覚の一種といえばそれまでの繋がりだし、味があるといって、余り頻繁に口にすると味覚がおかしくなりそうな、珍味、というか〈際物〉《キワモノ》の類に属する娘ではあったが。  眩惑的で、妖しくしなやかな双子の姉妹は、離れてなお彼女達の衣擦れや身のこなしが、身の回りに漂っているような〈眩暈感〉《げんうんかん》を残し、トゥアンは気がつくと視界の中に双子の姿を捜してしまったりもして、その都度夢から醒めたように我に返る。男のみならず、同性をも惑わしかねない蠱惑を秘めた姉妹二人で、トゥアンも少なからず当てられたよう。けれどああいった夢のように美しい生き物というのは、夢のままにしておくべきだ、とトゥアンのどこかで囁く声がある。もっともな事だと、双子の面影から心を外す。  そして残ったのは瑛、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の瑛、荒野に転がる岩の、本体は変哲もない退屈な岩っコロなのにいったん陽が差してみると、野放図な輪郭に縁取られた影法師が背後に延びるように、色々な曰くを抱えこんでいる、瑛。  だとしてもトゥアンには、瑛は変わらず駅での先達であり、共に暮らす相棒であって、両性具有者が秘めている過去に関してはあまり〈拘泥〉《こうでい》していない。考えている余裕がない、というべきか。なにしろ彼は現在を生きるのに精一杯の〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》だからして。  そして今だって、次々押し寄せてくる無理難題に、まだ未熟な手足と心力で立ち向かうのがまず第一で、どうやら問題は瑛の過去に根差しているらしい事までは、追求してる暇がない。その場その場の状況しのぎと言わば言え、なまじ考えこんで動きを止めてしまって、あなやもなく、運命の無慈悲に捕らえられて一巻の終わりとなるよりずっとまし。これまで二人は駅の浮浪児暮らしの中で、そうやって生きて、生き延びてきた。  しくじった時は……その時はその時の事だ、とトゥアンは双子の案内人から譲り受けた海藻標本を、こちらも双子から借り出してきた〈大盥〉《おおだらい》で水で戻しつ、無駄な危惧を掻き消すように〈盥〉《たらい》の中身を掻き回す。  一回文書庫に戻り、この海藻と〈盥〉《たらい》を浮浪児二人が双子から受け取る時に、アージェントは何やら非常な葛藤に囚われていて二人に〈縋〉《すが》るような眼差しを向けたもの。やっぱり二人と共に行くべきか、大人しく文書庫に残るべきか、と言いたげに。双子が〈嫣然〉《えんぜん》とアージェントをお茶に誘った、その呼びかけの声だけで天頂から体内の圧が噴出しそうなくらい頬を火照らせ、膝から崩れて座りこんだあたりは尋常な反応とも思われず、浮浪児二人が知らぬ間に何事か決定的な事態が発生していたようだが、それを言えば瑛とトゥアンも同じ事。  決定的な事態、なのだろう、とはトゥアンも思う。  それぐらいあの体験は鮮烈で、強烈で、なのに夢のようだった。トゥアンには、一体何が決定されてしまったのか、今ひとつその核心が掴みきれず、ただ身体と心の芯に残った、無上の快感の記憶、思い浮かべただけで〈臍〉《へそ》の下あたりがむずむず落ち着かない心地に包まれる。 (僕は……ほんとにシたんだよな、こいつと)  〈盥〉《たらい》の向かいにしゃがみこみ、海藻の具合を注視している瑛の、オーバーオールの股間につい目がいってしまって、その〈裡側〉《うちがわ》にあるもの、そこがもたらしてくれた〈愉悦〉《ゆえつ》を思えばついうっかり春機発動、しそうになって瑛に〈睨〉《にら》みつけられた。  慌てて何食わぬ振りを装い、〈盥〉《たらい》の中の海藻を引き上げれば、よじれ乾ききった時に比べて数倍以上に膨れあがり、柔軟質を取り戻した葉のあちこちに気胞が膨れて、でもこれでもまだ戻り具合は七割方と言うところ。  トゥアンはその半透明の空気孕んだ気胞を、避妊具を膨らましたようだ、でも自分達は使わなかったし、瑛も大丈夫と言ってくれたけれどとかなんとか、要らぬ連想してしまってはまた打ち払う。  童貞喪失というのは思春期の少年にしてみれば、人格形成に大影響を与えてしまいかねない一大事件で、むしろトゥアンはよく自制している方だろう。  なにしろ今の状況というのは、地の底の誰も来ない暗がりの〈水際〉《みぎわ》で、その時の相手と二人きり。一度だけでは不慣れな行為にもっと習熟するために、反復練習はどうだろうと水を向けてみるのにもってこいの状況なのだ。  しかし、逆説的に言えば、そうやって甘美な記憶と連想につい耽ってしまうのは、差し迫った事態が深刻に過ぎて思考が逃避に走っている、とも取れる。  深刻、だとも。  瑛が探知した封印地まで赴くには、〈傍〉《かたわ》らで瀬音も速く流れゆく暗い水へ、船もなく海藻の浮力便りに身を沈めなければならぬ。  ところがその水流は、浮浪児二人を小虫のように追いかけ回した『封印派』の知性が宿っているとくる。自らの本体内に、追跡していた獲物が飛びこんできたとなれば敵手がどう振る舞うか、想像に難くない。  そもそも地下の流れに身を委ねること自体が危険極まりないだろうの、海藻が二人を目的地まで支えきれるかどうか不明、水流が〈隧道〉《トンネル》に〈潜〉《もぐ》りこんだ際、窒息せずにいられるか不明、流れの中に危険なまでに角が切り立った岩が隠されていたり、飢えて獲物に見境無しの盲目の巨大魚が〈潜〉《ひそ》んでいたりするかも知れない。  死地に飛びこむ、とはこの事である。    で、死にに行くようなものなら、トゥアンが死という言葉から思い出し、腰鞄の中から取り出したのが、紫の宝玉のような〈漿果〉《しょうか》だった。あの夜、事件の発端となった日、トゥアンが荒野で発見し、驚愕にまさに震えながら腰鞄に収めた実である。  トゥアンは呪式を使う瑛を驚異の箱ともみなしていたが、瑛にとってもここ数日の間に、トゥアンとその腰鞄は魔法の薬袋のようにも見えてきていた。その瑛にして、トゥアンが持ち出してきた〈漿果〉《しょうか》の薬効を聞かされては、唖然と口を開けて相棒を見つめる他なくて。  その美しい、見た目からしても大層な美味に映る紫の〈漿果〉《しょうか》は、食えるは食えるが食おうものなら───死ぬ、のである。  劇的な効果を狙って発せられたトゥアンの言葉は、確かに劇的な反応を呼んだ。瑛の拳骨を〈頬桁〉《ほおげた》に〈強〉《したた》かに喰らう、という。  だからトゥアンが、追撃を防ぐため慌てて言い添えたところによると、正確には。  分量を〈過〉《あやま》たず用いれば、仮死状態となり、身体が強靱な〈膠質〉《こうしつ》化し、外的傷害に対しても、損なわれることが少なくなる、というのがその薬効。要は一時的な死体となる。それも強靱な革で出来た。  水流内に〈潜〉《ひそ》む死の危険も、始めから死んでいれば関係ないのだし、水脈に宿る知性も死骸ならば敵とは認識しないだろう。 「間違いなく成功する、なんて無責任なことは言いたくないからさ、もう一度言っておくけど」 「ちゃんと聞いたとおりに効く、なんて保証はないんだ。呑んだまま、そのままくたばる、って事だって有り得る」  瑛もその話を持ちかけられた時は、さすがに深く考えこんだものである。自分はまだともかくとして、相棒が自殺にも等しい手段を採ろうとしていることに異を唱えるべきか、どうか。  考えこんだところで、他の手段は見つからず、結局は瑛も紫の〈漿果〉《しょうか》に賭けるしかないと認めざるを得なかった。 「まあ、ちょっと、いや、相当に無茶な手ではあるけど、やってみるしかないもんな」 「この実は、僕だって試した事さえない。ちゃんと生き返れるかどうかの保証なんて、ないからな」  瑛が決めたのなら、と覚悟してトゥアン、紫の〈漿果〉《しょうか》を爪の端で千切り、目の前に〈翳〉《かざ》して〈矯〉《た》めつ〈眇〉《すが》めつ、現在及ぶ限りの慎重に慎重を重ねて分量の調整を始めた。  ちなみにこの紫の〈漿果〉《しょうか》は、服用した者が紫色をした涙を止めどもなく流し続けるという副作用がある。分量正しく用いて蘇生すれば止まるのだが、誤って死したる場合は、死後もしばらく流れ続ける。  刃物でも傷つけられぬ強靱な革のようになった、紫色の涙を零す死骸。  トゥアンの故郷では、この実の作用と判明するまで、風土特有の奇病として恐れられていた。 「心配すんな。ボクの方はどうなったとしても、トゥアン、オマエだけは生き返らせてやる。それこそ、ボクの命に懸けても、だ」  きっぱりと言い切った瑛の宣言は、迷妄の〈絡〉《から》み〈蔦〉《づた》を斬断する刃の明快に満ち満ちて、その顔は、男でもない女でもない、性差を超越してそれ以上の貴さを湛え、水際の暗がりに。  その顔が胸中にある限り、明けない暗い夜の底だろうと、あるいは無限の星々の海の中に一人隔絶された完全な孤独に〈彷徨〉《さまよ》おうと、道標として進んでいけると、トゥアンは信じた。  信じて、魅せられた。この顔を見られたなら、もう死んでもいいかと、まだ短い人生しか経験していない少年をして、そう了承させてしまう程に。  なんだか胸が清々と広くなった心地して、トゥアンは微笑みながら瑛に言い返した事である。 「いや、瑛が死んだままだったら、意味がないだろ?」 「いいんだよ。そしてトゥアンは、初体験の相手がふたなりだったって烙印、一生背負って生きていくんだ。ざまあ」 「どうにもそれにこだわるなあ……」  顔では弱ってみせるトゥアンの、内心は秘やかな〈愉悦〉《ゆえつ》が充満している。何度となく猥談語らうくらい馴染んだ瑛なのに、とても新鮮に見えたし、セックスした相手と、それを話の種にする事は、随分と大人びた行為のように思えて。  ……やがて海藻もほぼ完全に水分を取り戻し、二人は入念に身体の要所要所に巻きつける。それから海藻が千切れないよう注意深く、それでも出来る限りしっかりお互いを結びつけ合ってから、トゥアンが慎重に切り分けた紫の〈漿果〉《しょうか》を口元に運び───  見交わした眸には、もちろん恐怖が強く〈兆〉《きざ》している。それだけではなく、強く息づいていた心がある。少年らしい無鉄砲な〈反駁心〉《はんばくしん》、だったろうか。それとも生も死も、相棒と一緒に進むのだ、という絆だったろうか。  いずれにしても、退こうとする恐怖と、進もうとする心を二人で共にして。  紫の〈漿果〉《しょうか》、呑み下した。  魔性の効果をもたらす実、と思えばろくに噛む気にもならず、ほとんど丸呑みしたから味は判らなかった。ただ口中にサルミアッキに似通う匂いが残ったような。  そして二人、冷たい水に身を沈める。  全身に海藻を巻きつけ、はや、目の端に紫の色合い滲ませてという、相当に気色の悪い格好で。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  喪心と覚醒の狭間は曖昧で、少年がいつ己の意識と身体の感覚を取り戻したのかはっきりしない。覚醒へと意識が定まっていくにつれ、半睡からの浮上の中にまとわりつく〈煩〉《わずら》わしさがある。まだ意識は薄暮に浸されてあったが、四肢、身体、喉、頭の中、至るところに鬱陶しく遍在しているそれ、はもしや苦痛なのではないかと気づいて、慌てて眠りの淵へ〈潜〉《もぐ》り直そうとしたがもう遅い。  一度目覚めてしまった意識は、活動を再開すべく、海水から海虫を〈漉〉《こ》し取る頭足類のように身体各処に触手を張り巡らせ、感覚を把握していく、と同時に体内に〈蟠〉《わだかま》っていた〈煩〉《わずら》わしさを泥と乱しつ取りこんでいった。  その〈煩〉《わずら》わしさが、苦痛なのだと気づいてからだ、トゥアンが真の苦痛をば擦りこまれたのは。 「───、───、───、───、───、───、───、───、───、───、───、───げぅ」  生き物の動きというより、水を注がれた熱板の〈反撥〉《はんぱつ》を思わせて、トゥアンの跳ね起きた様の突発的な。がくんと前にのめって〈頽〉《くずお》れて、一体何処に訴えればいいのかも判らないほどの苦しさに、しばし息も止まって、直後。 「……げぼっ!? がっ……がば……う、うぶぇぇぇっっ、げはっ、かはっ、がぁぁぁっはっ、うぇぇぇぇっ、う、うぅぅぅっっ」  トゥアンという袋が張り裂けた。と〈慄然〉《りつぜん》とする、それくらい激烈な咳と〈嘔吐〉《えず》きで、痙攣に目を裏返しながら、吐く、戻す、喉を塞いでいた詰まり、気管に粘着して呼吸を奪っていた汚膜、トゥアンの意志を離れて身体が全力で排泄しようとしていて、内臓が口から裏返っていって、痙攣し緊縮する臓器と粘膜の筒になってしまうかとさえ。  吐き出したのは痰と胃液混じりに濁った大量の水で、床に積もった埃と混じり合って広がった様の汚らしさは、乞食の集団に〈蹂躙〉《じゅうりん》された湿地帯を思わせた。あらかた吐き出し尽くしてなお胃の〈腑〉《ふ》の痙攣は続き、その〈臓腑〉《はらわた》が起こした反乱の苦痛のあまり、トゥアンの陰茎は、〈半勃〉《はんだ》ちに〈凝〉《こご》って鈴口から薄い精をとろとろと、〈遺精〉《いせい》というのまでやらかして、絞り出してある。  苦悶の時間はいつ止むとも知れず引き延ばされ、トゥアンの周りで無数の苦痛の小鬼が〈無言劇〉《パントマイム》を踊って少年を責め立てていたのだろう。それでも徐々に引いて、ある瞬間を境にすっと楽になった、その解放感、安堵と言ったら。  まだ四肢と関節は〈軋〉《きし》むようだが、嘔吐感と頭痛は去って、ようやく立ち上がれるようになると、今度はひどく寒く、そこでトゥアンは自分が全裸であると覚ってぎょっとした。寒さと、無防備であることの〈怯〉《おび》えとで、トゥアンは絶叫に弾けそうに頬を引き〈攣〉《つ》らせ、視線を旋回させると、幸いすぐ後ろにぐしゃぐしゃと彼の衣装一式が散らばって、飛びつけばこれがまた冷たい。水気たっぷり吸って重くなり、トゥアンはしつこく絞り叩いて出来る限り水気を切ってから、身に着け直す。  肌冷やす冷たさに、着ていたままだった悪性の風邪、下手すれば低体温症あたりにかかっていたやもで、寒さのあまり自分で蹴り脱いだのだろうかと、妙にべとつく目を手の甲で〈拭〉《ぬぐ》うと。  紫色がかった目脂が甲に伸びて、トゥアンはやっと前後の脈絡を取り戻したのだった。 (そうだ、僕は、地下の河に、ムカシホンダワラ、紫の実で)  トゥアンの目覚めは、あの紫の〈漿果〉《しょうか》が彼の目論見通りの薬効を発揮したことを意味している。  けれどトゥアンは起き上がれたが、彼の大切な相棒は、瑛は───? 「瑛は!? ───まさか?」  もう一度〈四囲〉《あたり》を見回せば、先程から視界に入ってきてはいたものの、我が事に手一杯でしかとは把握しかねていた景色、それは機械のブロック群で構成された通廊で、細部に違いはあっても、あの時公安の部隊の追跡から逃れて入りこんだ機械化通廊と同じ性質が感じられる。  トゥアンの前後に長く伸びて、その何処にも。  瑛の姿が、見えない、影も。  地下水脈に身を委ねて意識が暗黒に飲みこまれた、と思えばこの場面の急転換、そして相棒がいないという事実が、苦痛から解放されたトゥアンを、今度は焦燥の火囲い中に封じこめる。ここも変わらず静寂の擬音が耳を圧して重い、動くものはない、光はあっても〈標〉《しるべ》にならない。  何より目覚めて〈傍〉《かたわ》らに瑛がいないというその事実が、トゥアンをして長い通廊にありながら、〈澱〉《よど》んだ空気そのものに閉じこめられるかの閉塞感をもたらした。  トゥアンは仮死から蘇生し得たけれど、瑛もそうであったという保証はない。膨れあがった恐怖が喉から絶叫となって〈迸〉《ほとばし》る、一度叫んだら最後、狂を発するまで駆けずり回り、終いに壁に自ら額を叩きつけて叩きつけて何度も何度も命果てるまで。 「エー──────……っ」 「こっちだよ。んな泣きそうなツラしてんじゃねえや。ボクの方が、目が覚めるのが少し早かった」  相棒の名を為す二つの音、叫びきってしまったなら確かにどんな恐慌を〈来〉《きた》していたか怪しく、その観点では中断されたのはトゥアンにとって幸いに違いなかったが、たっぷり溜めたのに宙吊りとなった「イ」の音はさてどうしたものか。穴を掘ってその中に解放してやろうにも通廊はどこもかしこも堅固で、トゥアンの素手はおろかなまじな工事用具でも徹らないだろう。  仕方なくトゥアンは、「エ」の音だけ伸ばして誤魔化した。 「え〜〜……?」  どこかに横道でもあったのか、背後からひょこと顔を出した瑛に、何より安堵が大きかったトゥアンだけれど、あのタイミングでは、上ろうとした段がいきなり消失したようなもので、少年にはやるせない不満が喉の内で〈燻〉《くすぶ》った。無論それも瑛と無事再会できたからこそ、なのだが。 「僕はまたてっきり、僕だけっか目ぇ醒まさなかったのかって……起きたら君、いないしよう……」 「てか、オマエの方こそ死んだままじゃないかって、うっかり諦めかけたんだぞ」  瑛がトゥアンに先んじて蘇生したのは、この通廊に通ずる水際で、二人と同じく地下の水流に運ばれた種々雑多な漂着物の中であった。トゥアンと共に。海藻は解けかかっていたけれど、手の方はまだ固く繋ぎ合ったままの、二人の結びつきの強さを見よ。と讃えたいところだが実際は仮死中の硬直によっている。  さておき瑛は、トゥアンと同じ蘇生の苦しみに悶えて、それからが〈逞〉《たくま》しい、普段の習性からつい始めそうになった水際の廃物漁り。さすがに〈堪〉《こた》えて、相棒を水際から引きずりあげてはそのままずるずるなり、通廊の中まで引っ張っていって、目的の場所に流れ着いた事を覚った。  しかし、トゥアンが目覚めない。瑛がこうして蘇生しているのに、トゥアンが自分の紫の〈漿果〉《しょうか》の分量を見誤ったとは信じたくないし、実のもう一つの薬効によって外傷らしい外傷もない。なのにトゥアンは死んだまま。冷たく硬い死体のまま。紫の涙流し続けて。  二人の体の造りの違いが、〈漿果〉《しょうか》の効果時間に差を生んでいるだけ、と瑛は自分を納得させようとする。紫の涙〈拭〉《ぬぐ》ってやろうと、〈瞑目〉《めいもく》のトゥアンの頬へふっと指を這わせれば、伝う冷たさ死の温度、に血の気が退く音を聞いた───〈漿果〉《しょうか》の薬効を説明されていても、理に落ちるばかりが人の心ではない。  紫の雫に濡れたトゥアンの〈貌〉《かお》は、何処ぞの、血の涙を流す聖者像と似通って見えなくもないが色がどぎつすぎる。  なにかというと諸神諸精を〈拝〉《おが》もす習癖のあるトゥアンと異なり、瑛は生者をこそ愛する。相棒には啖呵を切ったが、もしトゥアンが本当に仮死から目覚めなかったら、瑛には彼を蘇生させる術など無かった。今の瑛にはそのように高度な呪式の持ち合わせなど無く、それでも、トゥアンをそんな聖者像のようにしてたまるかと、理屈を超えた情の大波に突き動かされるように少年の服を剥ぎ、両性具有者も全裸となって身を寄せる、肌を添わせる抱きしめる───氷を抱いた方がまだ耐えられる、それほどの忌まわしい冷たさ、に瑛は〈敢然〉《かんぜん》と、どこまでも手向かいするつもりだった。  仮死の眠りに体熱を分けてやることが意味を持つのか、などは考えず、瑛はただただトゥアンを抱きしめて、あの情交の時に重ね合った肌の熱よ、還れと念じ、願い、涙を〈拭〉《ぬぐ》い続け、たら。  くたばっている筈なのに、いつの間にかトゥアンは陰茎を木の〈節瘤〉《ふしこぶ》の如く堅くしていたので。  瑛は、虚脱と安堵と軽い怒りが混ざった吐息を漏らしたことである。  こっちからも紫の汁が出たりはしまいなと、相棒の陰茎に軽く平手をくれればメトロノームと振れたぐらいで汁はない。安心して身を離した。冷たい肌に熱を吸わせ続けていたせいで、下腹が冷えてしまって激しい尿意を催していたのである。  衣装をひっ〈掴〉《つか》んで水際まで戻って用を足し、戻ろうとすればあれ嬉しやな、相棒が起きあがっている気配があるでないか。が、駆け戻る前にまず服を着こんだのは、裸晒してトゥアンの前に出張ったれば、もしかしたら襲われかねないと警戒したからで、なにしろ死んだ間でもおっ〈勃〉《た》てているくらいなのだもの。  そんなトゥアンが無事蘇生したのが嬉しくもあり、不安で泣きそうになっていたのが面白くもあり、瑛はようやく普段の口の悪さ、取り戻していた。 「まあ死んだら死んだで、そん時は」  殊更剣呑な色に目を造りながら、トゥアンの全身を目線で舐め回してやれば、面白いくらいに相棒は針に引っ掛かる。  トゥアンはどうにもぞっとしないように、 「ちょっと待て瑛、そういえば僕起きたとき、まっ〈裸〉《ぱ》だったぞ。あれもしか、君か? 僕に一体なにをするつもりだったか!?」 「死姦───とか?」 「時と場合を考えろよな、そういうのはさ」  そういうおぞましい性的倒錯もあるとぼんやり聞き及んでもいたが、全くもってトゥアンの理解の範疇を越えている。もちろん瑛だって本気で口にはしておるまい。  だからこれは、いつもの〈巫山戯〉《ふざけ》合い。  瑛も了解していたと見え、にやりと皮肉げに笑いながら、 「たまにはそういう冗談も言ってみたい」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  瑛がトゥアンを案内していった先は、通廊内に増して、機械で埋め尽くされた三の三に倍する角を持つ部屋で、本来は相当の広さがあるだろうに、小さな〈龕〉《がん》のように狭苦しい。これでは部屋というより機械の間にできた隙間で、大人なら立ち居にも難渋しそうなところを、瑛は駅の地上にある時と同じはしこさですり抜ける。  奥の一辺の、内壁に造り付けられた〈制御盤〉《コンソール》らしき台の前で立ち止まり、左右上下の機器を改めやがて〈一揖〉《いちゆう》の仕草、こちらは瑛らしからぬ、敬意というのが伴っていたのである。それは多分、時を越えて残る機械群への敬意なのだろう。  トゥアンも同様の身のこなしで、瑛の後から相棒が対峙した〈制御盤〉《コンソール》を背後から背伸びで〈一瞥〉《いちべつ》したところ、カジノのルーレットのお化けとは見えたが、当然その仔細は判らぬ。埃が厚く覆っていたせいばかりでもあるまい。ここにある機械の全てが、トゥアンがこれまで見てきた物とは遙かに隔たる知識と技術を宿していた。  だが、これを造って、ここに設置していった人々が過去には確かにあったのだ。ここにある全ては、どれだけ隔たって異質に見えようと、大地上の人々の手になるものなのだ。 (僕も、いつか。もっと、色んなことを知ったり、勉強とかすれば、ここのこと、宇宙のこと) (わかる日が来るんだろうか。なあ、瑛)  トゥアンは内心で思っただけで、声に出して問い掛けはしなかったけれど、その時瑛が振り向いて、少年を慈しむような眼差しで、確かに見つめたと思った。  瑛は〈制御盤〉《コンソール》に視線を戻すと、厚く被っていた埃を手が汚れるのも構わず取りのければ、トゥアンがルーレットのお化けのような、と眺めた盤面には、一種の集積回路のような、そしてより奇怪な構造を持つ基盤が現れる。アージェントを交えて三人で奮闘した、あの機械化通廊で瑛が呪式を施したのと同じ知識体系に属する回路だった。  その上に手を〈翳〉《かざ》し、指先で宙に描き出したのは呪術の式と、その発動たる解を結ぶ為の契印、といった事も言葉と言うより音で複雑怪奇な紋様を描き出すような、瑛の使う呪術言語も、トゥアンにはやはり理解できず、それでも相棒が施した術により、回路が起動する気配を聞いた。  先ほど仮初めの死から蘇生した自分のようだ、とも少年はなぞらえた。  〈制御盤〉《コンソール》に緑の燐光が点り、そこを核として作動光は部屋全てに波及し、機械が復活していった。室内を静かに湧き出す駆動音が、無数に重なって、全周囲から、乾いて金属的な小さな音が幾重にも重なるとなれば、不快と取る者も多いかも知れない。  なのにトゥアンには、あの気候観測塔───もう随分遠い世界のようにも思える!───のねぐらで、雨の日、瑛と共にすっぽり襤褸きれにくるまって、暖かく安心できる小世界で雨垂れに包まれているような、そんな居心地の良さが感じられたのだった。 「これで、いい」 「今ので、封印とか、解けたわけ?」 「ああ。後は『上の駅』が応えてくれるのを、待つだけだ」  地下深く、水脈の奥、星々とは対照的な空間に、その『上の駅』への繋がりを持つ機構を設置したというのはどう言う意図によるものなのかとトゥアンは首を〈捻〉《ひね》るが、今はそれよりも気にかかる点がある。 『上の駅』は、瑛の言葉によれば星々の海へのとば口のような空間に浮かぶ巨大な構造体であり、この地上の駅と対になるという。  ところが、地上の駅の宙港機能が封印されてから、上の駅との往還は絶えているのだとも聞いた。  空を越えた遙か高みで、長い歳月隔絶されて、連絡も絶え、それでも上の駅というのは機能しているのだろうか。トゥアンはそれを危ぶんだのである。 「生きてるって思うか、本当に。『上の駅』が動いてたのは、ずっと昔なんだろ?」 「少なくともボクはそう信じてるさ、トゥアン」 「分の悪い賭けだけど、上の連中はきっと、今でもしぶとく生き延びてる方に、全額ベット張ってやらあ」  唇の端、小粋に吊り上げオーバーオールの肩帯をぱちんと親指で弾いた音は、なるほど〈賭け札〉《チップ》全てを〈賭け台〉《テーブル》に叩きつける気っ風の良さに響いたけれど。  トゥアンは瑛がそういう自信溢れた顔で賭け事に臨む時こそ、ろくな結果を呼ばない事をこれまでの付き合いの中でよくよく心得ていて、 「でも瑛って、博才あんまりないよな」 「……童貞捨てたとたん、言うようになったよな、オマエ」 「そういう瑛だって、処女だったじゃん」  トゥアンの切り返しは、瑛が彼の〈股座〉《またぐら》にさっと手を走らせ、ズボンの上から陰嚢を鷲掴みにした事によって効果的に封じられた。  その力加減絶妙な、立ち上がれなくなるほどではないし、かといって童貞をもらってやった相手に無礼な口を叩くような〈不遜〉《ふそん》を存分に後悔させてやるくらい。  効果の程は、少年がその後〈暫〉《しばら》くは相棒がさっと手を〈翳〉《かざ》しただけで、股間を押さえ後方に跳ね退くといった行動を反射的にとるようになったことからも察せられよう。  トゥアンの怨みがましげに尖る目、瑛の勝ち誇って反撃を待ち構える顔、二人の間になんとも友誼に溢れた緊張が高まった。  ───ところに差し挟まれた、音と光は。  もう何度となく開戦されては、様々な形の仲直りで締められる喧嘩を、〈有耶無耶〉《うやむや》に押し流し、鳴って輝く音と光は。  先ほど瑛が封印を解除した〈制御盤〉《コンソール》から。  金属で精妙に造られた〈翅脈〉《しみゃく》を震わせたような、〈鈴〉《リン》の音。始めは〈幽〉《かす》かに、次第に高まる。  蒼く〈仄白〉《ほのしろ》く点り、〈透徹〉《とうてつ》した魂の活動のように脈動する光。はじめは脈動の間隔遠く、やがて短く。  室内に〈輝滅〉《きめつ》する機械光は緑が基調なのに、その光は青白く、音も室内に〈横溢〉《おういつ》する他の駆動音よりずっと繊細で綺麗な、いずれも『特別』を告げているのだと、二人に了解された。 『特別な』事が生じようとしている、今この時に、それはきっと、瑛が封印を解いて、この部屋が本来の役目の為に復活した故に。                    ───九───  まだ水道管の破裂からの漏水、漏電の被害から、回復しきっていない駅は、全土がひび割れた〈水甕〉《みずがめ》まがいにまだじくじく水を滲ませ、憂鬱に湿気った。人々はその手当の為に日頃の仕事、営みを二の次にすること余儀なくされ、全身ふやけさせながら溢れ出した水と奮戦、格闘を続けている。漏電の危険から電気の使用が大きく制限されているのも枷となって、人々の〈疲厭〉《ひえん》はいや増しに。備えも無しに水に挑めば下着の奥まで、駅の内臓の悪臭に染まった水気に〈浸〉《ひた》される。といってゴム引きの防水具あたりをがっちり着こんで立ち向かえば、自らの汗と温気に〈裡〉《うち》から蒸される。  一日の終わりを迎える頃には、みな疲れきって不機嫌のいが栗が喉に〈燻〉《くすぶ》って、うっかりすると尖った言葉ばかり吐いてしまいそうで、口数少なく、せめてさっさと身体を〈拭〉《ぬぐ》いたい、乾いて良い匂いのするタオルで肌を〈拭〉《ふ》きたい、とそればかり願って目の前の厄介仕事だけを〈睨〉《にら》みつけていたから。    空を見上げている者など、ほとんどいなかった。  まず在ったのは、大気、気圧、気配、の変化であって、駅全土を包む空気の中に、肌をごく浅く刺すような弱刺激性の微細粒子が発生したかのような。  それくらいの変化では、日々の体調のせいと流し、さして深く考えこまない者が大半の、けれど。  駅に棲息する翼有るもの達が、飛び立ち始めた。  そのねぐらとする、街路樹の巣から、積層建築群の隙間から、廃墟の窓から。〈羽搏〉《はばた》きの音、羽根拍つ響き、駅の空をざわめかせて、それまで仕事の手元しか見ていなかった人々をして、視線を空へと仰がせた。  すると、黄昏時の空は。  女王の宝石飾られた乳房。珊瑚の広棚。蜂蜜色の大虎。鮭の肉色。褐色と灰の筋。雲の天使が踊る。黄昏色の無限色階を為して、その〈瑰麗〉《かいれい》。  そうやって振り仰いで、人々の多くは今日の終わりが美しい夕焼けに彩られていることに初めて気づいたのである。    そうして、人々の視線が存分に集まった頃合いだった。空に。              光の点、一つ。  〈夕星〉《ゆうづつ》の輝きとしては瞬きもせず鮮明に過ぎ、航空機の信号灯としては動かない。そもそもこの時代、駅に降りたり上空を航行していくような航空機は絶えてなく、人々の中では空を飛ぶ機械は形骸概念化している。だから人々には光の正体に見当もつかなかった。  正体不明の光点は、空の瞳孔のように拡大して光円となり、人々が固唾を呑むうちに光の円から、光条が伸びる。光円から生じた光条は、直線、曲線を描き伸びていって、空を画布として〈刷〉《は》き広げられていく。  風変わりで、そして壮麗な光の紋、光の版図は駅の上空覆い尽くすくらい巨大で、人々の遠近感を狂わせるくらい。  その光の紋の向こうから、駅の空の、更なる高みから、〈気圏〉《きけん》の彼方から悠然と迫ってくるこちらも雄大で、偉容を誇る影が一つ。次第次第に接近するにつれ、判然と整ってくる輪郭は、駅の高空にあっても瞭然と、人工的な構造を思わせた。  〈瑰麗〉《かいれい》な夕空に壮麗巨大な光の紋、そして地表を圧するように迫り来たる神さびた人工構造物とあっては、これは〈絢爛〉《けんらん》と〈煌〉《きら》びやかな終末を覚悟させる、黙示録めいた大眺望となろう。  だというのに、この展望に立ち会っていた駅の人々の胸に、破滅と絶望の鎌に刈り払われる様な恐怖や恐慌はなく、あったのは巨大な事象への感動と、この場に居合わせた事への喜びと、微かな〈疚〉《やま》しさ後ろ暗さ。大事な何かを忘れてしまっていた事への。  それは、駅の人々が全て忘れ去ってしまっていたように見えても、意識の奥底に連綿と受け継がれていた記憶があって、そう感じさせていたのかもしれない。  ───おかえりなさい───    と誰かが呟いたのは、その正体に薄々と気づいたからなのだろうか。それとも、全く知らずとも復活、を思ったのだろうか。  駅の黄昏の高空に出現した巨大構造体にあっても、各部至るところで光点が明滅を続ける様が、さながら〈久闊〉《きゅうかつ》を辞するかのように。                  ───過去は永遠に失われず───    こうして駅の古きものが、また立ち返る。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  同時刻。  其処は、官僚機構的にも建築概念的にも迷路に等しい中央管理棟の、奥も奥、地下も地下。床面を深く水に満たされて、燐光放つ石盤が、床面のそこかしこに積み重ねられ、水面から尖塔と突き出して、その灯りで空間を明るませている広間だ。  石盤には一枚一枚、複雑怪奇な呪術方程式が彫り込まれていて、その式の線の連なり絡まりにも燐光が走り、〈輝滅〉《きめつ》していた。  駅全土の水脈網に宿る知性の表示であるその〈輝滅〉《きめつ》が今、〈狼狽〉《うろた》えたように追い詰められたように〈恐懼〉《きょうく》するように、激しく瞬き、時に弱まり、広間に悲愴な〈陰翳〉《いんえい》を投げかけていて、巨大構造物を上空に迎えた駅の人々とは表裏を為しているかに。  それ自体が一つの言語として法則化されている石盤の〈輝滅〉《きめつ》だが、この時はあまりに混乱し、光の言語に精通する目であっても翻訳は困難となっていた。それでも辛うじて意味を〈掬〉《すく》いとるならば、滅び去る事への恐怖、絶望、無念、悔恨、そういう負の感情が羅列されている。  駅全土の水脈の網によって構築される『封印派』の知性は、水脈を全て枯らす事が困難であるように、容易に絶やされる事はない。  それが今、消滅、停止の危機が迫るを覚り、〈怯〉《おび》え〈戦〉《おのの》き、震撼していたのである。  封印派は、始めは確かになんらかの意図や理念があって駅の宇宙港機能や、人々の宇宙への関心を封じようとしていたのかも知れない。  それが、その意志を駅の水脈網に移植して本体と為してからは、目的は、ただ存在のための存在にすり替わっていた。 『上の駅』の存在自体が、封印派にとっては大なる脅威となることが判明してからは、殊更に。『上の駅』が衛星軌道上に静止しているだけならばまだよし。もしそれが一度降下してこようものなら、その巨大な質量が及ぼす重力、潮汐力、気圧の変移は水脈知性にとって致命的な影響を及ぼすのだった。  実際には、『上の駅』が地表に近づいたからといって、地上の事物、人々を害するほどの影響を与えるわけではないのだけれど、それでも環境の各種数値上の変化は発生する。  それらの変化が封印派の本体を綾なす駅の水脈に波及した場合、彼らの知性は霧消、消滅の危機を迎えるのだった。  ───いみじくもトゥアンが述懐した通り───  秘密の〈帷〉《とばり》奥〈潜〉《ひそ》み、不可侵の神の如く踏ん反り返り、駅の全土に影響力の触手を這わせ、権能を行使し続けてきたとしても。  水脈というあやふやなものに意志と記憶を載せ替えるという挙に出たこの封印派───  ───やはり〈耄碌〉《もうろく》していたとしか言い様がない。 『上の駅』の降下による影響が、水脈全土に浸透していくにつれ、広間の水面に突き出す石盤の塔から断末魔の閃光が放たれて、そして最期にまさしく末期の明滅を数度繰り返して途絶え、管理棟地下深くの広間は闇の版図に呑みこまれて、それっきり。  駅にはその長い歴史の中で、意味も由来も〈堆積〉《たいせき》の中に呑みこまれ、今では一体何の為の建築物だったのか、そもそも元々はどういう形状に造られていたのか怪しくなった建物というのが幾つもあって、瑛とトゥアンが〈佇〉《たたず》んでいるのも、そういった時間の流れに覆い隠された正体不明となった遺物の一つ。  現実としても緑の〈蔦〉《つた》にこんもり分厚く覆い隠されて、形状としては元は二基で一対の塔だったと推測されるが、過去に駅の中でいかなる役目を果たしていたのか、それ以上の仔細は窺えない。  その間に架け渡された、〈蔦〉《つた》と〈蔓草〉《つるくさ》の橋の中ほどに立ち尽くし、空を見上げている小柄な影二つ、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の瑛とトゥアンだ。  瑛は本来の博才がどうであれ、上の駅との繋がりを取り戻すという賭けに見事打ち勝って、その前に相棒とも繋がって、精神に並外れた高揚を得たお陰か往年の呪式の〈幾許〉《いくばく》かを取り戻してい、〈光遁〉《フォトン》、駅に潜在する、水脈網とは異なる『網』を伝う高等呪式を行使して、地上へと一足飛びに舞い戻ってきていた。 「凄ぇなあ……! あれが『上の駅』か……。でけぇえ───凄ぇ……すっげぇ……っ!」  本来は二つの塔の間に架けられた空中通廊だったのだろうが、現在は〈蔦〉《つた》と〈蔓草〉《つるくさ》の大掛棚で、床も〈蔦〉《つた》に覆われて立ちづらい、がトゥアンはその足元を意にも介さず、空に展開される光の紋と巨大構造物の一大〈絢爛〉《けんらん》劇に、ただ見入る、連ねる感嘆の言葉には飾り気がなく、それでも彼の真情が余すところなく吐露される。 「宇宙への道標、ってとこさ」 「オマエが望んでいた、果てしなく遠いところ、のな」  目を輝かせ、空打ち仰ぐ相棒へ、優しい、そう、とても優しい、道の先を行く者としての眼差しを、注いで。  瑛は知覚する。 『上の駅』から放たれる、不可視の走査の力線を。  走査の線が自分を感知し、招こうとしている事を。  瑛は知覚する。  走査の線の作用が、自分の身体を地表に繋ぎとめる力を一時消し去り、宙空に浮揚させようとしている事を、知覚する。 「それが、今───」                  瑛が舞い上がる。  足先が緑の架け橋を離れ、宙空に。  光の紋と巨大構造物が待ち受ける、宙空に。    ───この時、瑛と同様に宙空に招かれた者が、駅にはまだ他に数名あった。それはAやB、Cといった文字記号を名に連ねた者達。  それだけでなく、ある資格を、遺伝形質内に伝え、〈具〉《そな》えた者達。    ───それは、航宙士として───  ───星々の海を何処までも───  ───航海するための───  ───能力を先天的に〈具〉《そな》えた者達───    駅に数人しかいなかった。それでも数人は、この時代の駅に残り、集っていたということでもあった。 「瑛、君なにそんな、ふわふわ浮いて!? それも術かなんかか!?」  相棒は招かれて、そしてトゥアンは大地上に足を下ろしたまま。  少年には、その資格、能力が具わっていないのだと。  時を超えてその姿を復活させた『上の駅』が、如何なる意図を持ってそんな判別を行ったのかは判らない。  そしてそう判定された事すら知り得ないトゥアンは、浮かび上がっていく瑛を、ただ振り仰ぐだけ。  だとしても。  どう判定されたとしても。  瑛にとってトゥアンは相棒で、親友で、身体まで繋げた相手で、だから。  瑛は宙空から差し延べるのだ、  その手を少年に。 「ほら───行こうぜ。ボクと一緒なら、トゥアンだって今すぐに宇宙に上がれるさ」  瑛は誘う。  そうやって誘いながらも、心によぎるは不安。  両性具有者は、自分がそうであるが故に、航宙士としての資格を十全に〈具〉《そな》えていない事を、その過去に告げられている。    今『上の駅』は、瑛の〈裡〉《うち》に宿る資格を、招く意味有りとしたようだけれど。  何処まで行けるのか───  それでも瑛は、トゥアンに手を差し延べる。  相棒にたとえ資格無くとも、彼の憧れ、彼の意志。  それは身に具わったものより資格より、貴いものだと、少年を招く。    たとえ自分は最後まで少年と道を共にする事は、出来ないかもしれないとしても。  少年にその先がある事を示す事くらいは、出来るだろう。    だから、心の中はどうあろうとも。  指先をぴんと張り、目には逃さず捉えて。  さあ、おいで、と。    そしてトゥアンは。  故郷にあっては何処か別のところを想い。  駅にあっては荒野を想い。  荒野にあっては星空を想った少年は。              相棒へと。  敬服する親友へと。  初めての相手になった瑛へと。      おずおずと、指先を迷いに屈しつつも。  手を伸ばす───伸ばそうとして。  目を閉じる。  なにを想う。何を迷う。  相棒が招くのなら、空は、宇宙はすぐそこ、だ。  少年は、心の中に〈潜〉《ひそ》む、自分の知らない自分を想う。  そいつは自分の知らない事を知り分ける。  それは少年を故郷から飛び出させた。  それは少年を駅まで導いた。  駅まで導いておきながら、それの渇望はまだ止まず。  トゥアンの中のトゥアンは、この時。  空を眺めて───身を、地に低く伏せていた。  渇望はけして止まず。それでもそいつは。  食らいつく瞬間を。  今ではない、と───  だからトゥアンは。  目を開いて、笑った。  日頃、表情の底に、どこかなにか。  〈沈潜〉《ちんせん》したものを覗かせるトゥアンにしては。  いやに晴れ晴れと笑って。 「ううん、いいよ。行かなくっても」  それが、少年の、選択だった。 「トゥアン!?」  〈愕然〉《がくぜん》と───それは〈愕然〉《がくぜん》となるだろうとも。  瑛がトゥアンの〈裡〉《うち》に視た憧れは本物で、なのに。  少年は、〈拒〉《こば》むというのか───?              ───未来は待ってはいてくれない───      待ってくれないのならば追いかけるだけ。      そしてその為の道は。  なにも一つとは、限らない。 「いいんだ、今は。今は、我慢するのさ。僕はまだ背も伸びてない。瑛みたいに色んな事、全然知んないし。瑛のあとに、くっついてばっかだってことも知っている」 「だからまだここで、この駅で、少しずつ頑張るよ。  いつか宇宙に行く、その日まで───」  瑛は───  トゥアンを見て、きょとんと見て。  宙空からつくづくと眺めて。  こいつ、化け物じゃなかろうと思った、という。    相棒が選んだのは。  性急に飛び出していく道ではなく。  地力を蓄えること。    正当で、健全な選択と見えて、だがトゥアンの異常性というのがそこにある。    背伸びしたがるのが子供というもの。  なのにトゥアンは背伸びするよりも、自分の限界を確かめ、それを引き上げることを望んだのだった。  〈如何様〉《いかよう》にして?  航宙士を産み出すための知識や技術は、『中央』からさえも失われているのが、この時代の大地上である。    否───駅には〈文書庫〉《ライブラリー》がある。  瑛が復活させた、様々の機構がある。 「僕は、むしろこの駅には、こんなにも何から何まで揃いすぎてて、いいのかって思うくらいだ」 「なあ瑛。ここには、全部、なんもかもがあるじゃないか。宇宙への道標も。そして、君も」  ようやく手を差しのばし、瑛の手を取ったけれど、それは共に空へ上がるためではなく、相棒と共にこの駅にあるために。    これには瑛も、ついつられて。  笑ってしまった。  もうちょっと厳しい顔で、相棒の選択を責めてやろうかとも思ったのに。    瑛自身思いがけない、柔らかい微笑。  見損なっていたな、と。  この少年ならば、航宙士の先天的資格など有ろうが無かろうが、きっといつか〈翔〉《か》け上がっていく、と。  その思いが、柔らかな微笑となって─── 「な、まだここにいようぜ、瑛」  瑛の手を引いて、そっと地上に引き下ろし、まだ浮かぼうとする相棒の肩へ腕を回す。    そう学ぶべきものは、駅に。  目指すべき世界は頭上に、何時だって。  少年を、常に誘い続ける───                    ───現在は不変であり───                  たとえ未来がどうあろうとも。この日トゥアンが瑛と共に日常にある事を選んだというその記憶は、何時までも変わる事なく、瑛の胸の中に留まりつづけるだろう。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  地下の文書庫には、いまだアージェントの映画車輌が留まっていて、その映写機は、かつてインチキ少年と三眼の女の飛翔に際して同じ役目を果たしたように、今回も駅の地上の様子、映し出す。  そしてその時その情景を見守っていたのと同じく、ヒプノマリアはまた駅から発とうとしている、今度は二人の浮浪児を見つめていた。  今回は〈傍〉《かたわ》らに、半身であるゼルダクララが一緒にある。  映画車輌の管理人である〈雀斑娘〉《そばかすむすめ》は、双子にまた可愛がられて失神中だ。  双子は、銀幕に映し出されるのは、浮浪児二人が『上の駅』に発ってしまう情景だと、そう思いこんでいたのに。 「───て。あら、なんてこと。戻ってくるわ、二人とも。きっとまた行ってしまうって思っていたのに」 「やはり、一度でも体を重ねた相手には、どうしても情が移ってしまうものでしょう」 「けれどそれなら、〈妾〉《わたし》達だって同じでしょうに、マリー」 「それは、ほれ、わたくし達は女としてシラギク殿に抱かれましたから」 「おなごというのは、〈閨〉《ねや》だけでない、いつだって殿方に泣かされてしまいますによって」  こうして双子は、この時代の一つの変遷を見届けた。  双子は、駅の時代時代の変遷の度、文書内のある一室に安置されている、二つ並んだ、〈硝子〉《ガラス》製とも何製とも判別のつかぬ、透き通った、棺とも寝台とも見える筒型の装置の中で眠りに就くのが通例だった。  通例ではあったが。その凍結睡眠カプセルに入って、長い眠りに就くのは、もう少し先にした。  かつて彼女達と肌を重ねた両性具有者が、この時代に選んだ相手と、これから先どのように生きていくのか。  それをもう少し見届けたいと、そう願ったのである。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  そんな双子の様子を感知したのか、瑛、トゥアンに肩を抱かれながら、胸の〈裡〉《うち》で呟いた。 (ま、ま、そう言うなよ二人とも。確かにボクにはトゥアンが初めての男の子になったわけだけど、それだけじゃない) (ほらなんてっかー……コイツ、若いじゃん。ボクが一緒にいてやんないとってさ)  内心でそう囁いて、瑛はトゥアンの腕からするりと抜け出すと、相棒に向かって、何時かの夜、終列車も過ぎた高架線の上で告げた言葉を、もう一度繰り返したのだった。 「トゥアン、やっぱりボクは、オマエの事、大好きだよ」    駅の空には光が紋を為し。  駅の高空には、対となるもう一つの駅。  黄昏色の空の下。    駅の浮浪児二人は緑の塔から降りて、駅の地上へと、二人の世界へと戻っていく───                      ───端緒───  ───駅はオキカゼと沙流江が宇宙への道を再び開き、瑛とトゥアンがそれを人々に知らしめてから数十年後。宙間航行が復活したといっても、広大すぎる大地上全土にはいまだその報が浸透するには至っていない。  中央からは、ド辺境における〈些少〉《さしょう》ではあるが要注意の事案として、監視と放任の間の微妙な距離感で眺められている。  大地上のあちこちに潜在していた、この時代まで航宙士や、彼らと航宙艇との〈仲介〉《なかだち》となるマンマシンインターフェースとしての遺伝形質を残していた人々が三々五々駅に集まる一方で、それら先天的な遺伝形質に拠らぬ航宙士訓練育成法も開発され、駅に限るならば宇宙への道はより広く拓けたと言っていい。  そして駅には、星々からの客が相当数見受けられるようになった。そこは風変わりな異邦人には慣れている駅の者達の事、少々の摩擦はあったとしてもそれを受け容れるようになっていた。  ……といえば未来は〈薔薇色万々歳〉《ばらいろばんばんざい》の酒と〈耽溺〉《たんでき》の日々、誰も彼もがお星さま〈燦々〉《きらきら》の宇宙空間への大航海にと飛び出して、数々の驚異、宇宙嵐に揉まれたり宇宙壊血病に苦しんだり宇宙の隊商と遭遇したり宇宙の大将に握り飯を分けてもらったり宇宙の騎士の宇宙槍試合を眺めたり宇宙の棋士の竜王戦を観戦したり宇宙浴場に浸かったり宇宙欲情は記すことが〈憚〉《はばか》られたりウチューウチューと鳴く宇宙鼠と戯れたり……という大波乱、大怒濤をその身で味わうことが可能となったかというと、そうのようなそうでないような。  航宙技術と宇宙への道が復活したと言っても、やはり数世代以上に及ぶ断絶の影響はすぐさまに消し去りがたく、それを目指す人々のほとんどが一から学び直す事になった。過去の超絶の遺物もその全容の解明には程遠く、人々はいまだ宇宙の単位的にはご近所程度の範囲にしか再進出を果たし得ていない。  もっともそういった近場の星系にて、大地上の人々とは異なる知性体と遭遇したのは〈僥倖〉《ぎょうこう》ではあったが。  それでもやはり、想像を絶すると言われる深宇宙へは道まだまだ遠く、かつて至っていたとされるそこまで、その道筋を再び辿る事についてはまだ目処さえたっていない状況。  異星の人々との交流は概ね平和理に進められたが、それは広大な大地上の、異なる思想、文化圏の者達同士の接触と実のところ大差なく、大地上の人々から当初の興奮は次第に薄れていった。  結局のところ、駅の宇宙への道の復活は、一握りの者が空けた風穴のようなものと言ってしまえばそれまでで、多くの人々にとっては、大地上の版図が少しばかり広がった、程度の認識でもって迎えられたのである。  それを長い歴史と広大な世界を持つ文明の包容力とみなすのは鈍感な視点で、宇宙への道標となるはずの駅にやがて広がっていったのは、軽い幻滅とそう言ってよく───  宇宙への道を開いておきながら、駅はそれ以前と変わらぬ、いや、どこか停滞したような空気が垂れこめるようになっていた。  そんなある日、駅に降りてきた航宙艇がある。  個人用の高速航宙艇、といえば先進的だが、その実態は時代後れも良いところのオンボロ艇で、そして乗りこんでいた航宙士というのが、またなんというか、その、描写と説明に困るというか、その。    ……実は、読書子の前に、その航宙士は既に姿を現している。    これよりここで綴られるのは、駅の空に光の紋が展開され、〈気圏〉《きけん》の上より連絡が永らく途絶していた『上の駅』が、その姿を再び現してから数十年後。駅の宙港施設が封印されたあの過去の時代からは幾世代も幾世代も後。駅の未来の時代の物語。大地上に降り立ったある航宙士の物語である。                      ───一───  場面は駅の一画、広大な航宙艇発着場兼繋留施設。その広さは発情期の巨大怪獣が五組ばかり組んず〈解〉《ほぐ》れつ相手を取っ替え引っ替え乱交絵巻を繰り広げるのに充分、というほどで、かつての駅ならばかの大操車場がそれに匹敵する。  それもそのはず、この発着場は大操車場を潰して造成されており、あの映画車輌などは基礎工事の際にガラ材と一緒に埋められた……などと言うたら過去のアージェント・猫実・ヘッポコピー嬢が〈激甚〉《げきじん》のあまり処女の生き血を〈啜〉《すす》る化け物と成り果て、そして実は彼女以外には最早駅には処女がいなくなっていたという事実に狂死するのではないかと推測されて、それはそれでおおいに楽しそうな幻想なのだが、残念ながらそのような事実はない。  宇宙港機能が復活し、駅から宇宙に旅立つ者、宇宙から訪れる者の往来が増加したために新たに切り開かれた施設である。  駅の航宙港としての、新たな表玄関と言えよう。そして航宙港とはいえ駅内にある以上、働く者の大半は言わずと知れた平駅員である。彼らは当然この時代にだっている。きっとこの大地上のド辺境に駅が誕生したと同時に発生し、駅が滅びると共に消滅するのだろう。居着いた場所でも危難を察知すればすたこら逃げ出す鼠あたりと比して、生物としてどちらが〈逞〉《たくま》しいかは疑問の生ずるところだが、平駅員をもし駅から遠く引き離そうものなら、精神と肉体の均衡を欠いて爆発するか、さもなくば七孔から噴血して狂死すること請け合いなので、これは致し方ないところ。  とはいえ、なんぼ駅の中にあるからとて航宙港施設の職員まで務めているあたり、もう何処が駅員なのやら怪しくなってくるが、そもそも彼らは屋台の〈売〉《バイ》をやっていたり公安官の部下兼性奴隷をやっていたり、古本屋でエロ本を売っていたり博物館で不発弾の処理に失敗していたり、するのみならず、どこかの旅籠でお手伝いさんをやっていたりどこかの襤褸船で水夫をやっていたりと、駅から引き離されたら爆発するという話は何処に飛んだかという八面八臂の活躍振りなので、航宙港の職員だってこなすだろう。  今日も今日とて、発着場の整備要員を兼ねる平駅員が、着陸したばかりの航宙艇の面倒看てやろうと近づいていって、遠目から見ても薄々首を傾げていたのだが、近くに寄ってはほとんど腰を抜かしかけた。  その涙滴型の航宙艇、それこそ博物館の地下深くに押しやられ、そのまま忘れ去られて化石になりかかっていたところを発掘されてきたのではないかと疑わしいくらいに古々しい〈艇〉《フネ》で、おまけに外殻は傷だらけ継ぎ接ぎだらけ、風防ガラスは飴屋が頑張って〈鼈甲飴〉《べっこうあめちゃん》のでかいのを取り付けたのではないかというくらいに黄ばんで、後尾噴射管は取り外してカチコミに担いでいったのではないかしらんというくらいあちこちべこべこに凹んで、空いているのはあれ宇宙塵と衝突した孔でないの、という壮絶に目出度い有り様。  大地上の古い宇宙艇には、現在の水準など軽く〈凌駕〉《りょうが》して馬鹿馬鹿しいほど強力な呪術方程式と、結合した超技術が用いられている〈艇〉《フネ》もあって、見た目と性能が必ずしも一致しないことがあるとは聞くが、だとしてもない、これはない、こんなのが宙間飛行をなし得るというのは大地上全ての航宙艇と航宙技術への冒涜だ、とその整備平駅員は片手をぱたぱたさせる。大体自分の〈艇〉《フネ》を、ここまでなっても〈修復〉《レストア》しない航宙士など、それこそ宇宙空間全裸〈竜骨潜〉《りゅうこつくぐ》りの刑にされたっても文句は言えない  着陸の様子は詰め所からも望めて、見た限りでは一件無造作に見えるくらい、熟達して鮮やかな〈業前〉《わざまえ》で、航跡炎も綺麗なものだったのに。どうやら別の〈艇〉《フネ》の着陸と勘違いしたのらしい。  それでもともかく仕事にかかろうとて、作業手帳〈繰〉《く》り開き、〈艇〉《フネ》の名と主航宙士の名前を確認する、と。    航宙艇名 『〈黴毒〉《ポックス》』号  主航宙士 『ゴドー・トルクエタム』    ……その最低で最悪な〈艇〉《フネ》のネーミングセンスだけでも、それなりの職業意識で整備士を務める平駅員君は哀しくなって泣きそうになったが、まあ他人の趣味であるので異を挟むもつもりはなく、問題は航宙士の名前だった。  平駅員として生まれて駅に勤続してきて全く聞いた事のない名前、なのにもかかわらず、なにやらこみあげるものがあった。そして気がつくと、手が勝手に動いて制服を全て脱いで、綺麗に足元に畳んでいた。そして気がつくと、体が勝手に動いてその航宙艇に向かって土下座していた。何度も何度も土下座して、額を発着場の床に叩きつけていて痛い。痛いけれど止められなかった。細胞に刻みこまれた記憶が彼の意志を離れて身体を操っていたのである。  それは恐らく、恐怖という名の───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  発着場の床面を、ごついブーツで踏みしめ、無人の原野を行くが如しの堂々たる足取りで進む航宙士の女、その印象は、言うなれば。    筋肉はゴリラ!  牙はゴリラ!  燃える眸は原始のゴリラ!    と言えば一体何処のゴリラがしゃしゃりでおったかのエスキースなれど、丁寧に描写の絵筆塗り重ねれば。  四肢はしなやかかつ〈逞〉《たくま》しく十全に発達し、〈旌旗〉《せいき》とたなびかせる髪は豊かな黄金。  青藍のジッパースーツに包んだ肉体は、ぎりぎりまで己を虐め抜いた果てに獲得できる強靱さを有していながら、なお目覚ましいほどの女性美に輝く。  そこに、総身から燃える炎のように強い生命力がたちのぼっているものだから、彼女を美しい野獣めいた印象に造っているのだった。  年の頃は二〇代の半ば頃と見たが、航宙士という人種は外見年齢というのが当てにならない手合いが多いので、彼女も実際にはどうだか判らない。  この航宙士の女が、先述したオンボロ航宙艇の主、ゴドー・トルクエタムなのであった。  〈艇〉《フネ》から降りてあちらこちらと駅の情景を見回して、浮かべた皮肉げな〈頬笑〉《ほおえみ》みはいかなる感慨に起因していたかは知れず、やがてこれと目星定めた駅中の方へと歩き出していったところ。  その背後の〈管理施設〉《ターミナルビル》からころころ転がるように大慌てで駆け出してきて、ゴドーに追いすがったのは宙港窓口の平駅員の、 「お客様、困りますよう。離着陸、検疫、滞在許可。みんな全て、正規の手続きを踏んでいただかないと」  ゴドーの前に回って要請の、上背が高いゴドー相手では背伸びして、顎を逸らし気味になる風情の、制帽を取って頭を煙出るくらいまで撫でまわしてやりたくなるほどの可愛らしさであったが、獅子にまとわりつく仔犬とも見えて危なっかしい。 「……ン? んんん?」 「な、なんです、他人の顔、そんなにしげしげと」  こちらの話が耳に届いているのかどうか、怪訝そうな顔をぐいと寄せてきたものだから、一瞬、取って食われるのではないかと身を緊張させた平駅員の、ゴドーがもしも空腹などで気が立っていたなら、確かに物哀しい事態が展開されていたかも知れない。    がゴドーは平駅員の顔を穴が開かんばかりに見つめる、に留めて、そのうちに目線も得心がいったかに、不審がふっと溶けた。  なにやら、二〇年以上も間を空けて再会した相手をようやく思い出したゴリラの如しであった。 「知っているぞ、アンタの顔」 「そういう事もあるかも知れませんね。なにしろ僕たちはたくさんいるので。それより手続きを───ん?」  それは知っているだろうとも。駅にあっては視線を右から左に〈滑〉《すべ》らせるだけで、同じ顔が〈厭〉《いや》でも視界に入るのだもの。ただ、その事実を平駅員達自身はどう認識しているのか、という点に関しては、問い質してみたいところではある。  画一的な顔、振れ幅はあるが画一的な性格という現実の雛型にうんざりとなり、唯一無二の自己を確立するため同朋達を〈鏖殺〉《みなごろし》にし、積み上げた首級の上で血みどろの〈半跏思惟〉《はんかしゆい》の〈三昧境〉《さんまいきょう》に至らんとする、意欲的な反乱者は発生したりしないのだろうか。  ともかく少なくともゴドーを呼びとめた平駅員にはそういう性向はないようで、航宙士の様子には気も留めず、規定の指示に従うこと、促そうとした。  この航宙士、〈管理施設〉《ターミナルビル》に出頭もせず駅内に繰り出そうとしていて、また〈鷹揚〉《おうよう》な事にも程がある。  いくら駅が宇宙からの客相手には比較的寛容だからといって、密入港も同然の真似をされては面子が立たず、宙港警備の出動という事態だって有り得るのだ。  宇宙からの客人、といえば知育的な響きだが、文化習俗の食い違いで〈軋轢〉《あつれき》が発生するくらいならまだ増しで、大地上の人間とは完全に精神形態が異なって、相手が男だろうが女だろうが触手でもって強姦しながら溶かし殺すのが日常的な生態という剣呑な〈異星人〉《ゼノス》だって、ごく稀にではあるが到来する事さえある。  そういうモノを相手どる事さえある宙港警備要員だが、彼らは彼らで人間を破滅的なまでの銃火器偏愛中毒症にと変容させるという、サンジョウ菌に例外なく感染しているのではないかと噂される狂人揃いであり、そんなモノの出動を見ては発着場の大気含有成分の半分以上が銃弾と硝煙に占められてしまいかねない。  あまり勝手を言わないで大人しく指示に従って欲しいとゴドーを見上げ、通せんぼし続けるうち、平駅員の仙骨のあたりに奇怪な蜘蛛の様ななにかが湧いた。その蜘蛛が背中を蛇行しながら這い上がってくるという不快感の、正体が掴めず不審げに唇すぼめていた平駅員だったが。 「んんん……? あ!」  蜘蛛の名を、恐怖だと気づいた。  その恐怖に首筋を舐められ乳首を〈摘〉《つま》まれ陰茎を扱かれ、平駅員はひとたまりもなく、 「きゃあああああ!」  悲鳴一声、上げるなり平駅員、へたりと腰を抜かしてがたがたがた。整備の平駅員と同質の反応で、こちらは全裸になることこそ無かったけれど、もしそうなったとしたなら、彼が女性ものの下着を愛好する服装倒錯であることが判明したはずで、いやなかなか無個性画一的どころではない。 「ふふん、覚えてくれてたか。嬉しいもんだ」  無礼と言えば言える平駅員の絶叫に、ゴドーは引き締まった臀を、ジッパースーツの上からぼりぼり掻いて、一瞥を投げるのみで立ち去っていって。  へたりこんだ駅員のもとに、仲間が駆け寄る。 「どうしたの一体!? 違反行為? テロ?」 「わ、わからない。ただあの人を見てたら、身体の奥底から、こう、ぞわわわって、こみあげるものが……」 「前にどこかで〈酷〉《ひど》い目に遭わされたとか? それか、指名手配犯とか?」 「会ったことも見たこともない人だよう。なのになんで? 震えが止まらない……」 「なにそれこわい」  それは、たぶん、血の記憶とか種族的記憶とかいうもので。  恐らくは遙かな昔、この平駅員という種族に刻まれた記憶なのだろう。    一体このゴドーはいつ如何なる時に、平駅員達にナニをやらかしたのか─── 「久方ぶりに戻ってきた大地上でも、見知った顔がありやがる、とはねえ。どうにも妙な気分にさせられる」  どうやら長いこと地上に降りていなかった口振りだが、宇宙だろうと海だろうと、長い航海から〈陸〉《おか》に戻った船員の行動など知れている。  即ち、航海の間に乾いた上の口を満足させるか、下の方に溜まった鬱屈を発散させるかで、その手の嗅覚となると、〈痩〉《や》せ犬まがいに───いやさ、このゴドーなら、    筋肉はゴリラ!  牙はゴリラ!  嗅ぎとる鼻は野生のゴリラ!    といったところか、ともかく酒とセックスには無闇と鋭敏で貪欲になるのが上陸直後の船乗りという生き物で、ゴドーも駅の空気の流れに小鼻をひくつかせながら、積層建築群の狭間に紛れこんでいく。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  駅の積層建築群の中、奥深くに入りこんで、屋内なのか屋外なのか判然としないようなガード下にその酒場はひっそりと。  〈自在扉〉《スイングドア》の前で、それぞれ火酒の〈壜底〉《びんぞこ》を叩き割ったの、使いこんだ〈護拳〉《ナックルダスター》という獲物を手に、鼻血と目血垂れ流して〈睨〉《にら》み合って扉を塞いでいた酔漢の、玩具を造作もなく取りあげて、後頭部を掴んで、シンバル替わりに鼻面を叩き合わせる。  何故か道端に落ちていて、意味もなく引きずってきていた棺桶の中に、仲良く昏倒した酔漢二人の、〈情誼〉《よしみ》をより深めてやろうという優しい心遣いでまとめて押しこんで蓋を荒縄で縛り上げ、ゴミ捨て場に放置する。  これらの簡易な入店手続きを、実に事務的に片づけてゴドーは、改めて〈自在扉〉《スイングドア》を、〈衝角〉《ラム》と張り出した乳房で押し開け中に入ると。  漂う煙草の煙と酒の匂いがまず安っぽかった。  造りや内装が裏ぶれていた。  居合わせた客連中も、大地上の人々とは異なる姿態の異星人や〈機械人〉《マシーネン》などが入り交じっていたが、どいつもこいつも荒んで刹那的な気配漂わせていた。  行き交うのは〈濁声〉《だみごえ》大声〈喚〉《わめ》き声、皆酒と煙草で声の加減を忘れている。  〈音楽箱〉《ジュークボックス》から流れる流行遅れの歌謡曲は、雨が永遠に止まないという噂の雨ヶ森に機材と歌手を持ちこんで録音したのではないかというくらいに、みんな雑音の雨交じり。  要するに、そのあまりにステロタイプな姿に拍手を贈りたくなるくらい、決まりきってお定まりの、場末の酒場というのの展示見本のような酒場だった。 「ふふぅん、イイ感じにしっけた呑み屋だのう? どいつもこいつも浮かねえ面しやがってるのも気に入った」  駅の下流の労働者の酒溜まりと似たような雰囲気ながら微妙に異なり、こちらは航宙士ないしはそれに関わる者達のほとんどと専用となっているようで、ゴドーの神経を実に具合良く弾いた。  航宙士は便所で三日は溜まっていたブツを〈放〉《ひ》り出したかの、安らいだ表情で、 「決めた。おいバーテン、ここをしばらく、アタシの〈定宿〉《じょうやど》にさせてもらうわ」 「で、ここでもまたアンタ達かいな。木っ端働きばっかやらされとるのは、十年、いやさ百年……千年一日の如しと見えた」  〈立ち飲み台〉《カウンター》の向こうではまた平駅員の。駅は彼ら以外の人材がよほど払底しているのかそれともなにか別の事情でもあるのか。少なくともこの平駅員はこういうゴミ溜めのような場で働くことに、表面的ではどうあれ相当なストレスを内在させていると見え、グラスを、念入り、を通り越してどこか偏執的なまでの〈執拗〉《しつこ》さで磨いている。  グラス磨く手はぷるぷる震えてさえあったが、手をそうやって絶え間なく使っていることで精神的平衡をどうにか保っているのだろう。応じる声と表情は、やはり頭の毛が擦り切れるまで撫でまわしてやりたくなるくらい可愛らしい。 「はい? 航宙士さんは、この駅にはお久しぶりのお出でで?」  ゴドー、カウンターに、ウェットタオルがまだ残っていたのを発見し、こんな気取った品を置いておくとはどういう了見か、嫌がらせかと眉〈顰〉《ひそ》め、袋を破いてみれば人工的なレモンの香りまで立ったのにはほとほと呆れたご様子の。  胡散くさげにウェットタオルに鼻を鳴らしてから、 「だろうなあ。きっとすげえお久しぶりさまなんだろうよ」  金の髪を豪奢な〈飛沫〉《しぶき》と波打たせながら、ゴドーはウェットタオルをやりこめるつもりでもあるのか、顔はもちろんのこと、首筋、乳の谷間、脇腹、〈腋〉《わき》の下までがしがしと執拗に〈擦〉《なす》って汗と脂をたっぷり〈沁〉《し》みつけてやった後、これでもかとけたたましく鼻をかんで丸めて背後にぽい。  背後のボックスにたむろしていた酔漢のジョッキに見事飛びこんで、生地に染みこんだゴドー汁を出汁にしたが、酔漢は眠りこんで聞き苦しい〈鼾〉《いびき》を鳴らし立てていたので気づかず。目覚めて渇きに中身を干した時が見物になろう。 「ンな事より、さっさと酒よこせ、酒。棚の端から並んでる順にといこう」  いや景気の良い限りだが、こういう場でこの手の気前よさを見せる客というのは大概が無一文か、開き直って強請りたかりをやらかしてくるのも多く、バーテンダーの平駅員は〈立ち飲み台〉《カウンター》下に隠してある二連の象撃ち銃にそっと手を這わせ、精神的安定を得てからどう応ずるべきか、〈脳裡〉《のうり》にさっと組み立てたのだが。  ゴドーがにやにやしながら、〈立ち飲み台〉《カウンター》の盤面に押し出してきたものを見て、難しいことを考えるのを止めにした。ゴドーが前払いにしたものは、程良い〈心付け〉《チップ》や担保になりそうな金目の品ではなく、二発のライフル弾だった。隠してあるはずの象撃ち銃の。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ───大宇宙の掟を記した巻紙、というのがある。  何やら途轍もない真理を記した書のように聞こえるが、それほど珍しい存在でもない。  端がよれて擦り切れた、羊皮紙だったり紙だったりして、宇宙空間を往く者が、ちょっとしんみりしたり教訓めいた状況になると、よく近辺の虚空に漂っていたりして、映写機で撮影した際にもよく写真の隅に映りこんでいたりする。  見かけたり、写真にそれが映りこんだりすると途端に空気が説教くさくなるので、諸手を挙げて歓迎する者ばかりではないが、まあ宇宙の名物の一つだ。  その巻紙に曰く、     ───酒は、男と女が流せぬ涙の代わりに零される雫である。  ───毎夜宇宙の酒場では、辛いこと、哀しい事があっても泣くことの出来ない男女のために流されるのだ。    とかなんだとか。  そしてゴドーはそのお涙様を、味わう、というより喉の奥に放りこんでひたすら内臓に〈充填〉《じゅうてん》することのみに特化した機関と化しており、しんみりも有り難みも刻んで酒の肴にしてしまえ、という勢い。もっとも彼女は間に肴を取る隙さえ惜しんでがっぱがっぱと飲み続け、バーテンダーの平駅員にお代わりを、次から次へと、グラスじゃまだるこしい、〈壜〉《びん》でよこせのご所望で。  航宙士の燃料補給の勢いに〈目聡〉《めざと》く気づいて、バーテンダーから中継ぎで手渡すふりでちょろまかす、〈狡〉《こす》っ〈辛〉《から》い奴もあって、成功する者あり、ゴドーが投げつけた空瓶に脳天を打ち砕かれて昏倒する者もあり。  駆けつけ三杯というのは急性〈酒精〉《アルコール》中毒の大きな要因の一つだが、ゴドーは臀を止まり木に据えて、酒精以外は余分とろくに水も肴も入れず、空にした酒瓶二桁に及ぼうかという頃合いになってようやく、ついた一呼吸に、〈熟柿〉《じゅくし》の息を嗅ぎつける蚊が寄ってきたものはいいものの、息の塊の中に突入した途端に余りに濃い酒気には耐えられず、ぽたりと床に落下し、先ほどゴドーの酒を盗もうとして頭を叩き割られて気絶していた客の鼻血の海に溺れて死んだ。  ゴドーの息は最早、気体の安酒と言って過言でないくらい。 「ぷ……はああ。〈沁〉《し》みるぅ。安酒の味ってのは、はらわたにたまらんわ」 「……すいませんね、安酒で」  平駅員はぼそりと謝ったものの。  実際この酒場の酒の在庫というのは市場に流通する酒の中でも最底辺、中にはお上の認可も受けていないモグリが造った、劇毒といった方がよさげなものまで混ざった、人工着色料、人工香料、後付け添加の人造酒精、の割合の方が多いのではないかという代物ばかり。  通を自認する輩なら〈洟〉《はな》もひっかけない、曖昧酒の雑な匂い、喉を〈出鱈目〉《でたらめ》に蹴りつける衝撃、〈臓腑〉《はらわた》を灼き尽くす熱、をこそゴドーは愛しており、その高尚な趣味をこの場末の安酒場は存分に満たしてくれたのである。いっそのこと適当な色水とヘヤトニックとカラメルあたりを混合した汁で満たした樽に頭を逆さにして浸かった方がよほど手間がないかと思われる。  そういう雑な酒をお行儀よく〈嗜〉《たしな》む訳もない、〈喇叭呑〉《らっぱの》み、呑み干す間にも唇の端から零れて滴って、乳房の谷でも妙てけれんな〈混ぜ酒〉《カクテル》となって溜まっていた、ところへウェットタオルを被せてやった手がある。  鈍い〈艶〉《つや》、球状関節、金属の外殻。機械の腕。 「酒の一滴は〈血〉《オイル》の一滴というぜ。豪快で気持ち良い呑みっぷりだったがな」    二対の腕持ち、虫めいた頭部の〈機械人〉《マシーネン》だった。  紳士めかした口振りで、乳房の合間に溜まった汁を〈拭〉《ぬぐ》ってやりながら、さも当然と言わんばかりに堂々と、ゴドーの乳房を揉みしだいて、みっしりと重たげに、張り詰めた肉の形、あれこれ替えて遊ぶように〈捏〉《こ》ね回す。  ゴドーはその手を茫洋と眺め、あろうことか寛容にもされるがままに眺めていた、という。  〈機械人〉《マシーネン》は大地上においては、数は多くはないがありふれたヒューマノイドで、ただド辺境であるこの駅では、かつてはあまり見かけなかった。それが宇宙港機能が復活して以降、訪れる数が増えている。  全般として機械殻の身体を持ち合わせる者達を指すが、宿す知性に、人工知性か、元は生身の人間であったのをなんらかの原因により移植したものかの差違がある。  いずれも人権は認められているが、元生身であったも〈機械人〉《マシーネン》は、肉体感覚の名残からか異性に対しての性的関心と欲求を残している者が多く、この多肢型〈機械人〉《マシーネン》もそういった類だったのだろう。中にはわざわざ人工的な性器を着装している者もあると聞く。震動機能を仕込んだり、触手が出るのもあったりと、機械になってもセックスへの関心旺盛なのが人類というところか。  ゴドーが腰を据えた〈立ち飲み台〉《カウンター》の奥では黒髪の娼婦と爬虫類型の異星人が商談を進めており、娼婦も異星人もその商談自体もこの酒場では実によく見かける景色で、ちなみに商談の〈俎上〉《そじょう》に載せられているのはいうまでもなく娼婦の一夜のお値段である。  そちらの進行は良好のようで、娼婦は媚態よろしく作って身をくねらせて、爬虫類型異星人は彼女に〈獰猛〉《どうもう》な牙を見せつけていたが、それはこの種の異星人の満悦の表情なので。  〈機械人〉《マシーネン》はあちらさんがよろしくやっているのに当てられたのだろう。自分も手近な肉を〈摘〉《つま》みたくなって、その相手にゴドーを、と定めたと見える。  ジッパースーツの胸元、乳房が全開になるくらい〈寛〉《くつろ》げたなりのゴドーは、確かに〈扇情的〉《せんじょうてき》な姿と言えば言えなくもなく、〈機械人〉《マシーネン》は彼女を男日照りを持て余して酒場に繰り出したと判じたのだろう。  だとしても、乳房をいきなり手づかみに〈品調〉《しなしら》べとは、また早手回しもあったもの。機械化された知性故の率直さか、単にこの〈機械人〉《マシーネン》が日照った女にはこれくらい〈直截〉《ちょくせつ》的にセックスを致しますよ貴女の乳と肉孔を使用しましょうと伝えた方が間違いがないと見たのか。  いずれにしても、先程からこの女の豪毅を見るに、男に対しても譲らず、機械の陰嚢を〈強〉《したた》かに蹴り上げる膝と、聞き分けのない女の頬を一つ二つ張り飛ばしてジッパーを〈摘〉《つま》んで下ろして〈強姦〉《ツッコン》での、一悶着あるかと客は期待したのだが。 「酒もそうだが、男だってどんだけくわえてねえことか。で、どうよ、アタシの乳は」  いやはや、ゴドーの男日照りはよほど〈膏肓〉《こうもう》に入っていたようで、乳をまさぐる機械の手に、〈毛繕〉《けづくろ》いに〈蚤〉《のみ》をほじり出される猫よろしくしんわり眼を細めて見せたし、ばかりか背を反らすようにして〈機械人〉《マシーネン》の二本の片手を〈裡〉《うち》に導くようにすらしてみせる。  〈機械人〉《マシーネン》の二本の片手に右と左の乳首〈摘〉《つま》まれ早速に堅く尖らせているあたり、気前良いを通り越して安売りとか〈自棄売〉《やけう》りといってよく、三本目の腕のために〈股座〉《またぐら》を広げることまでしてのけたのには、様子を伺っていた他の客が、強姦どころかまな板ショーの開幕かとの期待に鼻息を荒くさせたものだが、〈機械人〉《マシーネン》の方が先に腕を抜いた。 「これだけじゃあまだなんとも。も少し〈具体的〉《ぐてぇてき》に確かめたいやね……もっと良い寝床でさ」  悪酒の酔いは程良くゴドーの肌の感覚整えて、乳首にも火が点ったのに、ころころ転がしていた指が離れていけば〈埋〉《うず》み〈火〉《び》だ。  〈燻〉《くすぶ》ってぶすぶすこぼすは炭ッコロだけで沢山、こちとら安酒駆動の盛る〈罐〉《かま》、と、ゴドーはさっさとそのすくたれ〈機械人〉《マシーネン》を見限った。    宇宙では一瞬の判断の後れが命取りになるのだ。    と酒場に舞いこんだ大宇宙の掟の巻紙に、〈機械人〉《マシーネン》が気づいていたどうか。 「〈機械人〉《マシーネン》のオイル臭えナニも、それはそれで味ちうもんだが」 「バカヤロ、中途半端ないじり方するんじゃねえや。この、へったくそめ」 「いやあんた、乳首消しゴムみてぇにこりっこりにしてたじゃねえか、どうせまんこの方だって、もうどろっどろに───」  せっかく膳に据えてやったのに、その場でお召し上がりにならなかった段階で、〈機械人〉《マシーネン》は食べ頃を逃していたのである。そのまま乳と〈股座〉《またぐら》鷲掴みに〈立ち飲み台〉《カウンター》へ乗っけて、そこで開始してしまえば双方いい汗とイイ汁流して終われたのに。  ゴドーは片脚を高々振り上げるや、乳の谷間を覗きこんできていた〈機械人〉《マシーネン》の肩をブーツの裏で蹴り押した、ら、くるりと小気味よく半回転の機械の体。  こちらに向けた機械の臀にもう一度くれた蹴り足は、彼女が駄々を〈捏〉《こ》ねる駆動機関を〈宥〉《なだ》める際に浴びせる蹴りよりはずっと優しく、なのに今度は小気味良いを超えて痛烈で、〈機械人〉《マシーネン》は輪郭がぶれるくらいの凄まじき勢いで宙を舞い、本番ショーを期待して〈集〉《たか》ってきていた他の客を二人ほど巻きこんで一直線にスイングドアー、ぎたん、ばたんと扉板跳ねかして、夜の通りに追い出され、なにか硬いものと激突した響きと悲鳴と機械の異常駆動音を高く残して、それっきり。 「嘘。生身の人間が、〈機械人〉《マシーネン》を?」  目方も馬力も生身の人間を軽く上回る〈機械人〉《マシーネン》を、鼻毛を抜くよりあっさりあしらったゴドーに、給仕役の平駅員が仰天の、表情が痴女を〈咎〉《とが》めたそれから雌ゴリラに〈怯〉《おび》えるものとなったのは、ま、やむなきところ。 「しっけた男にしっけた酒。尾羽打ち枯らした航宙士にゃあはまりすぎて、笑えてくる」  〈機械人〉《マシーネン》が飛んでいった方に、派手に〈手洟〉《てばな》を飛ばして、給仕の平駅員招き寄せ、 「ま、ともかくおかわり。〈金〉《ぜに》は無えが、〈金〉《カネ》ならあるんだ。どんどん、と景気よく頼む」  雌ゴリラが聞き捨てならない言葉を吐いたと表情を堅くする給仕役に、もそもそとジッパースーツの股間に〈裡〉《うち》に手を突っこんで、取り出したのが鈍く薄蒼い色合い帯びた、鶏卵大の鉱石塊の、せめて乳房の谷間から引っぱり出してくれれば多少は見場も立ったものを。  それでも給仕役の平駅員はゴドーの意向を〈諒解〉《りょうかい》の、航宙士の中には隕石帯や他星で山師を張るのもあり、そういう手合いは稀少な鉱石をキャッシュ替わりにするのもちょくちょくある。断る度に悶着が発生するので、ここの酒場でも対応はしていて、簡易計測器をレジスターの後ろから持ち出してきて、変な汁とか縮れた毛とか付いていたなら〈厭〉《いや》だなあ、と躊躇ったが、そこは温厚寛容従順が細胞レベルで組みこまれている平駅員のこと、愛想笑いで鉱石塊を丸盆に、受け取る、 「こういうのは換金してからにして下さいね。その方が、割りがいいですよ……って重っ」  受け取ろう、とした盆ががくんと沈み込み、落とし損ねる寸前で、もしかしたら軽く腰を傷めてしまったかも。  その鉱石塊、それくらいとんでもない比重を秘めていたのだった。こんな鉱石を股間にしまっておいてゴドーもよく平然と振る舞えていたものだという。 「……冗談でしょ? 計測器が、こんな数字……どれだけの比率なんだ」  計測器で計ったところ、その数値は予想以上。 「あなた、こんな鉱物、一体どこの星から。既知宇宙でこんな鉱物、発見されてたなんて、聞いた事もない」 「うっふっふ。さあどっからだと思う? 当てッ子といこうや」 「当てられたら、あと一ダースは同じの、出してやるけど、どうかネ?」 「お客さん……この店ごと、買い取るつもりです?」  こうして得体の知れない航宙士を迎えて、酒場の夜は更けてゆく、流れていく、〈爛〉《ただ》れて〈饐〉《す》えて酒と嘔吐物臭く。                      ───二───  そして、瑛───  〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の瑛は、その前身が旧時代の中央からの派遣吏であり、駅の航宙港を、呪力とその身全てを費やして封印したその人自身である事は、既に物語に語られた。その後、呪術方程式と駅の情報連結体の力を借りて、真の意味での人の肉体を捨てて、今の瑛となった事……平たく言えば妖怪もどきになった事も。  そういった妖怪まがいの瑛であるから、かつての日、駅が宇宙への道標を取り戻した時も立ち会っていたし、そしてこの時代にだって存在している。  銀髪の双子達との〈邂逅〉《かいこう》を皮切りに、長い時代を経る中で、様々な者達と出逢い別れ、けして多くはないが心を通わせ、走り抜けてきた瑛の、今は。  孤独であった。独りぼっちであった。相手がいなかった。仲間などいなかった。それだけ長い事駅に在り続けているなら、有形無形の縁、様々に出来ていそうなものだが、基本的に孤高と自己充足を旨とする性分の……翻訳すれば人付き合いが余りお上手でなかったから、頼るべき時に頼り、甘えるという事を知らなかったのだ。  瑛は眠る、駅の片隅冷たい路上で独り寝る。  あの懐かしく生温かな廃観測塔など、ちょっと留守にしていた間に、人生に絶望した廃墟〈狂〉《マニヤ》が焼身自殺の場に選び、その火が運悪く周辺の家屋を延焼させたせいで危険視され、解体処分に付されてとっくの昔に〈苦蓬〉《ニガヨモギ》が繁茂する荒地に成り果てた。  瑛は夢を見る、路上の冷たく硬い寝心地に、四肢を強張らせつつ。  この時代でも駅に在り続けている瑛の、その夢はけして安らかなものでも幸せなものでも、なかったのである。 (トゥアン。オマエは、今頃どこにいる?)  恐らくは瑛としての風変わりな生の中、もっとも深く〈情誼〉《よしみ》を通じたあの少年は、今は遙か遠く、この時代の人々でも思いもよらないような宇宙の彼方を旅している筈だ。  トゥアンがいかにして航宙士となり得たのか、そして宇宙に発ったトゥアンと駅に残った瑛の別離は、それだけで一篇の物語となってしまう故にここでは語られない。  必ずの再会を誓ってあるが、その日が何時になるのかは、今のところ運命に委ねる他なく、ただそれでもきっと、トゥアンと瑛の道は交わる筈……その希望は孤独な瑛の一つの燈火、ただ問題が一つあって。  トゥアンの事を想うと、彼と過ごした日々の中で耽り溺れた、愛欲の時間も自動的に連想されてしまうのだ。トゥアンは瑛の両性具有の身体をこよなく〈寵〉《ちょう》したし、長い歳月を経てきた割りにはそちらの方面には経験が浅かった瑛は、すっかり開発されてずぶ〈嵌〉《はま》りとなった。トゥアンが成長していった日々は、〈目眩〉《めくるめ》く性愛と官能の日々でもあって、追想すると陰茎は硬く息り〈勃〉《た》ち秘裂は柔らかく〈綻〉《ほころ》び、瑛を二重の意味で切なくやるせなくさせる。 (あの日、ボクらは、駅の空に光を呼んで) (宇宙港は、たしかに復活したけど、でもなにかが違う) (駅は今、停まって、〈澱〉《よど》んでいるみたい)  考えてみれば瑛は、駅の宇宙への道を復活させた最大功労者であるはずなのだが(封印したのもこの両性具有者自身ではあるが、そちらはさておいて)、だからといって英雄にも重要人物にも富豪にもならず、ただトゥアンの相棒としてあって、彼との別離以降はまた浮浪児暮らしに立ち戻っていた。  瑛程の者であるならもちっとこう、才覚を働かさればいくらでも身の処しようは有る筈だし、実のところ駅内からは浮浪児の数が減少している。宇宙港機能の復活は、各方面での雇用創出を呼び、浮浪児達も働き口を得てそれぞれに身を立てていった。  しかるに瑛に関しては、乞食は三日やったら止められない、との古来よりの〈喩〉《たと》え通りに、この時代になっても地べたを這いずり回る日々である。そんなに地面が好きで、かつ〈孤閨〉《こけい》を持て余しているのなら、いっそのこと地面に孔を掘って陰茎を差し入れるなり、地面に張り型を立てて〈跨〉《またが》るなりすればよかろうにと思われるがいかがか。駅の都市伝説である年をとらない浮浪児が、年をとらない淫乱変態ふたなりに取って替わられる事になるだろうか。  そういう浮浪児暮らしからの〈僻目〉《ひがめ》が無いとは言いきれぬが、瑛もまた、この時代の駅の空気に漠とした空虚と怠惰を見ていた一人であった。  こんな筈じゃなかったのにと、瑛は漠然と、惚れた〈腫〉《は》れたの大騒動を巻き起こしてようやく夫婦者となったというのに、旦那が呑む打つ買うの三拍子に加え、実は手ぬぐいを被った〈川獺〉《かはおそ》だった的な騙された感を禁じ得ないでいる。 (ヒプノマリアとゼルダクララは、眠りに就いて、次に目覚めるのはずっと先だ)  孤独を紛らわせるため、同じく時代を越えて駅に存在し続ける、銀髪金盤の眸の双子の姉妹の姿を訊ね歩いてみたのだけれど、常ならあちこちにふらっふら出没して〈銀龍草〉《ユウレイタケ》のような彼女達の姿、ここ〈暫〉《しばら》く見えていない。  茶飲み友達が朝飯の椀を持ったまま、〈卓袱台〉《ちゃぶだい》に突っ伏してくたばっているのでは、との老人の危惧で、もしやと地下の文書庫に赴いてみると。  双子は、凍結睡眠用の透き通る二基の筒の中で、長の眠りに就いていた後。落胆と〈消沈〉《しょうちん》で覗きこむ、双子は活動時と同じ姿で静穏の中に眠り姫。彼女達はこの時代に留まり続ける意味は無しと判断したのだろう。  不眠症の者が安らかに睡眠する者に対して抱く嫉妬混じりの羨望と、長い歳月を通しても変わらぬ、妖しく蠱惑的な姿にソフトネクロフィリア的な〈疼〉《うず》き、微かに覚えて瑛は、一緒にこの睡眠装置の中に潜りこんで眠りに就くのもいいのではないか、とか、下着を脱がせて乳首やあそこに色々するとどうなるんだろうとか、〈不埒〉《ふらち》な迷い催したりした時。  睡眠装置の脇の床がかぱりと開いて、多関節の機械腕ががちゃがちゃ伸び出して、瑛の鼻先にがしょんとつきつけたのが、花蔓の縁飾りが施された数枚の紙葉で、怪訝に見つめると書き連ねられた文言のある。  曰く。 『御免なさいましね、瑛。この装置は二人乗りでしてよ』  ……名指しされた事にまず驚いてそれから、でしょうねえ、と同意に苦笑する瑛。そこに、ぱらりと機械の手が紙葉を〈捲〉《めく》って次の一枚を、   『それから、眠っている間にいけない悪戯などもしなさったら、貴方のおちんちんが腐ってもげる、という呪をかけておきました』  ……瑛は、周囲をきょろきょろ見回し、どこかで監視装置でも働いていないかと不安に駆られた。またそこへ、次の一枚が〈捲〉《めく》られる。   『後ね、瑛。甘えて下さるのはとっても嬉しいわ。  けれどね、淋しくなった時だけそうなさらずに、もう少しまめやかに、通って下すったっていいじゃありませんの。   ……もう、莫迦なひと、ほんとうに……』  ここに至っては、瑛は文字通り〈帽子〉《しゃっぽ》を脱いで替わりにズック靴を頭に乗っけて引き下がるしかなかった。その背後で機械の腕は紙葉をめくり続けていたけれど、それ以上読み下し続けたなら、いかな〈薮蛇〉《やぶへび》が飛び出すものだか知れたものではない。  あの双子、出逢った時には、と瑛は自分の前身の頃の朧な記憶、揺り覚ます。もっとこう、泣いて〈縋〉《すが》ったり鳴いてよがったりしていた筈だが。まあ長い歳月の間、少女だった双子も、姿は変わらずとも色々練れて磨かれた、という事なのだろう。  それはもちろん喜ばしい事なのだが、旧い知り合いというのは、色々旧悪も知り抜いているから困り者である。 (トゥアン、オマエに会いたいよ)  この両性具有者、本人はしかと記憶しているかどうかは知らねど、一度はヒプノマリアとゼルダクララに、『長い人生、花に嵐の〈喩〉《たと》えもあるぞ、さよならだけが人生だ』とか、大意としてはそういう説教をしておきながら、いざ自分にそういう別れが降りかかってみればこれである。愛別離苦、求不得苦、中々に〈苦〉《く》から〈諦〉《たい》の〈境涯〉《きょうがい》には至り難し、というのは確かで、故に坊主は説法の種に事欠かないとはいえ、瑛をもう一度揺り動かして、あの悪擦れして不敵な活気に満ちあふれた瑛にするには、抹香臭い説話よりもっと刺激的な〈賦活〉《カンフル》剤の注入が必要なのだろう。  そして瑛は、寝苦しい眠りと、虚しい夢に浸り続ける今はまだ、〈眦〉《まなじり》に侘びしい涙の雫、溜まらせつつ。  ───じきにその〈賦活〉《ふかつ》のお注射とやら、強烈にぶちこまれる羽目になるとも知らずに、今はまだ。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ゴドーはすきっと爽快な顔で吐息を漏らしつつ立ち上がり、また歩き出す。夜目にも金の髪は豪勢にたなびき、青藍のジッパースーツに包まれた肉体はしなやかな躍動美、その顔には新星の輝き。  けれどすれ違う人々は、遭遇したら高熱を発し気が変になるという妖怪ひょうすべを目の当たりにしたが如く目を逸らし距離を取ろうとするのだ。  まあ、いかな〈沈魚落雁閉月羞花〉《ちんぎょらくがんへいげつしゅうか》だろうと、それまで〈道ッ端〉《みちっぱた》にしゃがみこんで排水蓋にげぇげぇそれは〈賑々〉《にぎにぎ》しく小間物屋をおっ開いていたのを見れば、よほど特殊な性癖の持ち主でもない限りは関わり合いを避けるだろう。  その排水蓋の内側に住まいしていたクマネズミの一族に多くの窒息死者を出した事など知らず、ゴドーは実に上機嫌であった。 「あはあ、呑んだ呑んだ。好き放題呑んでも、固い地面があるってのは悪かない───」  まともに重力も働かないような、裏ぶれた宇宙酒場。さもなくば〈艇〉《フネ》の中漂いながら、上も下もない酒浸り。  そんな悪呑みからすれば、どれだけ場末で安酒で酔漢どもは最低であろうと、ゴドーにとっては地面があるという一事だけにおいても天国の扉にも通じた酒場だったが、先程追い出された。  ちょっとばかりお行儀が良すぎたらしい。次はもう少し砕けてはしゃいだ方が店も受け入れてくれるだろう、などて、他人からすれば完全に見当外れに突っ走るゴドーには、ゲロさえまた楽しからずや、吐くだけ吐いた後の脱力感をも心地好く満喫している。確かに人体はなにかを排泄すると快を得るように設計されているとはいえ。  次いで、上から排泄する心地好さに連動したのか、今度はゴドー、下の方でも催してきて、上から下からまあ忙しい事である。 「おっと。催してきたぞ……便所はどこだ。チョッ、探すのも面倒くせえな」  一度意識してしまった尿意というのは、急速に脹れ上がるものとは誰しもが知る摂理であって、だから、ゴドーよ、紙も灯りも切れてゴキブリと鼠がシノギを削る一大抗争地ではあるが、公衆便所は二区画先だ。大した空間的距離ではないとはいえ、膀胱の内圧と現在の駅には不慣れという事情を鑑みるに、少しばかりの漏出を覚悟しても走ったがいい。  しかしゴドーは焦らない。  そしてゴドーは探しもしない。  ただ酔いにぎらつく眸を左右に送っただけ。 「……あっこでいいか」  ───美しい幻想、というのがある。  たとえ現実からかけ離れたものだとしても、それあるが為に人間は辛い生の中で生き抜いていける。そういうものだ。  例えば異性への憧憬とか、雪を冠して遙けく〈聳〉《そび》える高山の気高さとかがそれにあたる。現実の、体臭と脂に〈塗〉《まみ》れた肌やどろどろした悪想念、遠目には純白で不可侵に見えても登山者の凍死体がごろごろしてる雪原、そんなものはいちいち好んで知ろうとしない方が精神衛生的にはよろしいのである。  だから、ゴドーの以降の情景を述べる事については、〈些〉《いささ》かの、いや相当の躊躇いを覚えるのだが、それでも物語よ、〈怯〉《ひる》まずにその〈絃〉《いと》を〈手繰〉《たぐ》れ……。 「なんか、なかなか出てこない……Gの掛かるトコでのしっこの出し方は、と……ン、ハウ、ンンン」  ジッパースーツの股間部のスライダーは始め噛んで、ゴドーをやきもきさせてから開いた、それは良い、良いのだ。内側で溢れ出して布地を濡れ染みを広げてお漏らしの、その一線は守れたのだから。  だが……今さらそんな防衛線など守ったところでなんの意味があろうの、ゴドーが選んだのは積層建築の間の裏路地ではあったが、路地の間口に立てばあっさりその姿が覗けるくらいの浅い路地。こういう場所を選んだ段で既に戦線など崩壊している。  路地の突き当たりには風の吹き溜まりでもあるのか、汚れた古新聞やら〈反古〉《ほご》やら紙ゴミやらが山と〈堆積〉《たいせき》していて、せめてその〈傍〉《そば》まで寄ってやらかせば多少は、ほんの少しだけでも体裁はついたかもしれないが、ゴドーはもうそれさえ面倒で、しゃがみこんでは大股開き、股間部のジッパーを開けて───  ……状況の衝撃を〈些〉《いささ》かなりとも緩和するために、〈暗喩〉《あんゆ》というものも恩恵に授かりたく思う。しかしゴドーは、    筋肉はゴリラ!  牙はゴリラ!  溢れる尿意はお漏らしゴリラ!    であり、生ぬるくふやけた象徴表現など許してくれよう筈もない。  だから。ガンジス川の氾濫とか〈間歇泉〉《かんけつせん》の噴出とか、そう言った代用表現は抜きに詳細な描写を重ねる必要があるのだ。  腰を落として脚を開けば、女性特有の複雑な線と隆起からなる造型の股間部が展開され、筋肉と表皮の伸展に従い中心にある、頭髪よりやや濃いめの金色の陰毛に飾られた性器の、起立時や歩行時には寄り合わさる傾向にある小陰唇が開き、膣前庭の粘膜が外気に晒される。日頃どういう生活を送っているかは定かならねど実に健康的な粘膜だ。その粘膜がゴドーの息みによって何度か収縮し、〈襞〉《ひだ》が極めて多い膣孔がよじれ、すると膣孔の上で粘膜の中に数ミリの閉じた切れこみ、尿道口が僅かに開く。粘膜の収縮の様は非常に盛んで、彼女のその部分の柔軟性と〈括約筋〉《かつやくきん》の強靱さを物語った。共に、やや前に迫り出して来て、尿道〈括約筋〉《かつやくきん》の解放により、膀胱内の尿が尿道を通過する。 「お? お、おお……キタわぁ……」  かくのように排尿の過程は進行され、尿道口から始めは弱く、そして次第に勢いを増して〈迸〉《ほとばし》る尿は、アンモニアとアセトアルデヒドが入り交じった悪臭を伴いながら、体内の熱に夜気へ〈仄白〉《ほのじろ》く湯気を立て、メゾ・ピアノ。 「おーおー、いったん栓が緩むと、盛大に出よるのお。アタシゃ逆噴射のバーニアか」  その流速の激しさ、その流線の太さ、その流量の〈夥〉《おびただ》しさフォルティッシモ!  小柄な女性にあっても一リットルほども尿を貯蔵できる人もあるというが、このゴドーはそれどころではなかった。 「いやあ気ィ持ちええわあ。なんぞ笑けてくるくらい」  解放の心地好さは、ゴドーをして己の全身が一本の管と化して下方に噴き出すだけの存在と成り果てた事を無上の悦びと感じさせるほど。  ああこの、盆の窪に〈凝〉《こご》っていた〈凝〉《しこ》りが霧消して体内を素敵に流れながら噴きだしていく素晴らしさよ。  それはもう、疲労がぽんと飛ぶ薬を三単位はかッ喰らったような幸せな目つき顔つきとなり、鼻歌の一つも〈唸〉《うな》ろうというものである。 「お歌だって歌っちまおか。  ん〜ふ〜ふふ〜ぅ、とくらあ」  で───淋しくうそ寒い眠りに浸っていた瑛である。 (ん……雨……? 水道……? 誰か、蛇口閉め忘れて……)  瑛は寝苦しい夢の中で水音を聞いて、しばし聞き流して、〈俄〉《にわ》かに心細い気持ちに襲われる。その不安の正体が一瞬わからずにいたが、意識が慌ただしく股間に向かって、またすぐに安堵した。幸いにして漏らしている気配はない。  安心して眠りに戻ろうとした、瑛のぼやけた意識をつついたのは今度は鼻から。鼻孔を溶かして汚すような臭気があった。 (な……に。この、臭い……) 「この、臭いは!」  臭いの正体を記憶の貯蔵庫から判別した瞬間に瑛の意識は完全に覚醒して、それまで布団代わりに埋まっていた、紙屑や古新聞の束をはねのけて跳び起きた。  ゴドーが入った裏路地のどん詰まり、山と〈堆積〉《たいせき》していた紙ゴミ諸々は、淋しい瑛の独り寝る寝床だったので。 「うわ、うわわわっ、やっぱり小便の臭いか」 「アンタ、人が寝てるところで。うわひどい。池みてぇになってる。馬が漏らしたってこうはいかねえぞ」  瑛が跳ね起きた時、まず目に入ったもの、それは目覚ましいくらいの強い気配〈纏〉《まと》った金髪碧眼の美女なのであったけれど、〈見蕩〉《みと》れるどころか、しゃがみこんで大放尿とあっては。その尿量の多さはゴドーの足元を遙かに超えて、瑛が眠っていた紙ゴミの山まで押し寄せて、はやその麓を浸食し始めているとあっては、寝床の一大災害で、美女だろうが〈便所蟋蟀〉《ベンジョコオロギ》だろうが同じ事。  ───この時瑛は、寝床が小便浸しになるなぞ、春雨に濡れるくらいに優しく思えるほどの危機が我が身に迫ってきていることに、気がついていなかったのだ。 「なんだ。誰か寝てたんか」  胡散臭げに見上げこそしたが、ゴドーの放尿線はいっかな止まらない。人体の、というより機械の駆動を思わせる恒常性で噴出し続け、ゴドーに羞じらいとか〈憚〉《はばか》りの徳目など期待するなど、蛙に服の着用を仕込むにも似た愚の骨頂、まだその小便で水浴びする事を教えた方が早いだろう。 「ボクの寝床になんてことしてくれる。ひでぇよこんなの。人が見てるのに、止まる様子もないしさぁ……」 「さっさと出して、さっさとどっか行ってくれ」 「まあ遠慮すんない。好きなだけ見てっていいからさ。大サービスでお代はタダだよ」 「頼まれたって見たくないよ、正直勘弁してくれって……」  両性具有者が全てそうであるのか知らねども、少なくとも瑛には女体への渇望も具わっていて、過去にはその悶々に悶々と身を灼いて悶々と悶えた夜も数知れず、自慰は陰茎でも女陰でも知っている。  その瑛にして、素晴らしく充実した乳房や〈太腿〉《ふともも》の美女が、大股開きで秘裂を〈曝〉《さら》け出しているという、やや露骨でありすぎるが悩殺的の部類に充分分類される姿勢を目と鼻の先にして、性欲方面にはちくとも響かず陰茎などは〈項垂〉《うなだ》れる〈泥鰌〉《どじょう》の頭。  いかな美女でも、周囲に蚊を群がらせそうなくらい濃い〈熟柿〉《じゅくし》の臭い、人体が作りだしたとは思えないくらい化学薬品臭い尿、そんなものを垂れ流す相手に反応する程、瑛の性欲はぶっ壊れてはいなかった。  ……世の男性諸氏なら、瑛の繊細な胸の〈裡〉《うち》、おおよそ理解できると思われる。  ゴドーの放尿はまだまだ続く勢いであったし、たとえ今さらゴドーが立ち去ったとしても、せっかく〈潜〉《もぐ》りこんだ寝床はもはや台無し、寝直す事は便所掃除のスポンジの中に〈潜〉《もぐ》りこむことに等しく、諦めて、瑛の方から立ち去ろうとしてもズック靴を尿に浸さず裏路地を出られるかどうかはなはだ心許ない。  まごつく瑛と、排尿しながら見上げるゴドーの、その時─── 「んん……? よく見れば、これは」  悪酒をさんざか〈呷〉《あお》って歪むゴドーの視界の中で、瑛の耳当て帽子にブルゾン、オーバーオールという姿も揺らいでいたが、彼女の意識より先に本能が反応して、強制的に視界を定めると、小柄な姿の輪郭も明瞭となる。  なった途端に、放尿線が一際強く高く跳ね上がった。  子宮が、乳房が、視床下部が、松果体が、一瞬時に見定めたのだった。  とってもとっても美味しそう───だと。 「すっげえ! アタシの好みど真ん中!」  まさしくぱっと、南国の陽気で明るい花が咲くかに目を〈瞠〉《みは》ってびっくりの顔、〈些〉《いささ》か〈雌蕊〉《めしべ》の根元は酒に浸かっていたけれど、どこまでも陽性でそして……相手の都合は一切関係無しの。  驚く顔が花と開けば、現実にゴドーの頭の周りにはぶわっと花が出現してくるくる回って彼女の心情を指し示す。  百戦錬磨の航宙士ならこのくらいの芸当は普通にやってのけるのかも知れないが、瑛にとっては驚愕の、呪式の気配もないのに呼び寄せの術の発動か、と呆気に取られたのはまずかった。いかにもまずかった。 「……なんだとて?」  きらきらぱっぱっと咲きこぼれる花の輪の中で、瑛はゴドーの双眸が、照準器の運動じみて自分に狙いを定めていると、気づいたときにはもう───    ああ瑛、瑛よ、汝よ今や極まった。  進むも退くも、浮浪児としての敏速、も少し早めに出しておくべきだった。  相手は汝のご都合一切お構いなしの、雌の野獣なれば。 「惚れた! 決めた! アンタと寝たい!」  とても、判りよい宣言であった。  一切の誤解差し挟む余地のないくらい。  だから瑛にも、この小便女が。  この夜初めて出会った絶後の生き物が。  一応人の女の形は取っているけれど。  瑛にとって災害、そのものなのだと。  そう理解させたのだった。  否応無しに。 「いやだ!」  喰われる、との、実に実に正しい恐怖が瑛の混乱を打ち崩し、両性具有者の後頭部を蹴りつけて、尿の海に尿飛沫蹴立てて疾駆させる。ズック靴には替えがあるかも知れないが、自分の正気は、靴のようにどこかから拾ってきて付け替えるというわけにはいかない。 「待っててぇな、今出しおわるから!」  血相を変えて逃げ出す瑛の、恐怖に項の毛を灼かれるような疾走は、初速にして既に最大戦速に達し、ゴキブリはだしの素早さで、ゴドーの脇を抜き去る事を可能とした! 「いいや、それじゃ間に合わない」    しかしあくまで可能、というだけであって、ゴドーは、放尿も終えずしゃがんだ姿勢からの横っ飛び、〈股座〉《またぐら》をびたびたに濡らしながら。    逃げる方は見事、追う方は酸鼻。  しかして。    ゴドーの両腕は瑛の身体を鮫の如くがっしり捕らまえていた。  そのまま勢いでごろごろと横転し───  駅の夜には様々な物音が満ちている。夜汽車の往き過ぎる音、夜通し活動する人々の営みの音、他にも様々、まるで音の万華鏡。  瑛が眠り、ゴドーが放尿した裏路地もその例外ではない。  それがこの時、この一画から示し合わせたようにふっと音が消えたのは、いかなる偶然であったろう。どんな物音でも、それが途切れる瞬間があるとはいえ、この一画だけそれが全て一致するなど。  その沈黙は、空恐ろしいほどの圧力を底に〈潜〉《ひそ》ませてそして。次の瞬間。  夜気と沈黙斬り裂いて、裏路地を音響筒にして通りへと〈軋〉《きし》り上がった音は、恐怖と絶望で全く音色が替わっていたけれど、それでも間違いなく。  瑛の、悲鳴で。  魂を握られ、その一番〈脆〉《もろ》い部分に〈鑢〉《やすり》をかけられたような、哀れで人の〈心胆〉《しんたん》寒からしむる絶叫で、〈魂消〉《たまげ》た鳥や野良猫野良犬たちがつられて絶叫の大輪唱を開始して、その一画を騒乱の〈坩堝〉《るつぼ》に叩きこんだという───                      ───三───  航宙艇というのは瑛には夢の結晶で、けれどそれを駆って宇宙の彼方に飛翔する事は叶わない故に、乗りこむといつも憧れとやるせなさの〈混淆〉《こんこう》した想いが胸に充満する。  しかしこの日この夜、航宙艇の中の瑛の胸を満たしていたのは、恐怖と焦燥感のみの。  乗りこむ、というか引きずりこまれる際ちらと見かけた艇の輪郭が、夜目にも笑えてくるほどオンボロだったから、それもある。内部がまた、浮浪児として廃物に親しい瑛をして、〈慄然〉《りつぜん》とさせるくらい時代後れで、古い機械と濃い女の匂いが入り交じった、一種名状しがたい臭気に息が詰まった、それもある。  しかし瑛を、この自由で不敵な〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》、たとえ宇宙の大怪獣の前に引きずり出されたとしても、〈昂然〉《こうぜん》と胸を〈聳〉《そび》やかして造型が甘いと吐き捨てる〈不遜〉《ふそん》の魂を、ここまで〈怯〉《おび》えさせているのは、洗浄室で水を使っている後ろ姿の主である。  扉を閉め忘れているにも関わらず、まるで意に介せず、ばしゃばしゃ股間を洗っているのが丸見えの、この航宙艇の主である。  あれが出てくる前に逃げないと、と袋に詰めこまれたザブリスカのフォンティマのように荒れ狂って、がんがん乗降扉を叩けど、がっちり溶接でもされたかに開く気配はない。  ああ、ああ、洗い終わって奴が来る。  洗浄室を出て、すぐさま青藍のジッパースーツを手早く身に着けたのは習慣らしいが、着る必要はなかったとへらへら笑いながらアレが来る。  その、アレ。  路地裏の小便女。  航宙士らしい、そして瑛が航宙士と女という存在に抱いていた幻想をぶち砕いた、アレ。 「く、来るな、ここから出してよ、とにかくやめろぉぉっ」  迫り来たりしそれ、に、瑛はあらんかぎりの呪力でもって〈結印〉《けついん》し、放った術は宙を異様な文字列で斬り裂きながら───直撃した。  間合いといい機といい避けられる筈もない。  長い時代の中で、失った術は多く、取り戻した術は少なくちゃちな手品紛いのものばかりであったが、その中でも例外的に強力な攻性呪術で、人に使用するにはひどく躊躇われるが、仕方がないと瑛は自分に言い聞かせた。  術の余波を喰らい、それの背後の内壁に造り付けられていた仮眠用寝台が、留め具を破壊されてぼん、と展開される。  でそれは、ゴドーは、胸元を直撃されて。  顔を〈顰〉《しか》めていた。  それだけ、であった。 「痛ぇ!」 「え。痛いって。痛いってだけ? そんだけ? ……とっておきの呪式だったのに」 「え。とっておきだったん、あれで。アタシゃまた、ちょっと痛くして喜ぶとか、そういうプレイの類かって」  ジッパースーツの前をぐいと引っ張り、乳首が〈煤〉《すす》けていないかと検めている、ちょっと〈扇情的〉《せんじょうてき》と言えなくもない姿に瑛は、〈愕然〉《がくぜん》と。 「化け物か、アンタ……」 「航宙士を舐めちゃあかんなあ、少年」  唇を舐めながら迫るゴドーに、じりじり猫足立ちで位置を替えていく瑛、気づくと先ほどとは逆に、自分が寝台を背にした、追い詰められる形。  言い知れぬ危機を感じて、とっさに身を横に跳ばせた、つもりだったが。  流れる視界、ぼすんとくぐもった音、痛みはなかったが身を叩いた衝撃に、一瞬瑛が見当識を喪い、それでもすぐに復調してみると、仮眠寝台に突き飛ばされ四つん這いの、臀をゴドーに向けた体勢となっていた。  それだけならばまだしも。  瑛をそこでまた硬直させたのは。  自分が全裸になっていたという事実。  いや、なっていたのではなく、されていた。  ゴドーは手の中に瑛の衣装一式を持ち、その匂いをそれはもう美味しそうに吸いこんで、飽きたらず、ちゅーちゅー布の端を吸っていたという。 「今……どうやって……?」 「あれえ? アンタのその身体って」  瑛、自分の性器、両性具有である事を示す部分を〈曝〉《さら》す形で硬直していた事に気づいて、慌てて飛び退るも、もう遅い。  確実に目撃されたであろう事は、ゴドーの〈不躾〉《ぶしつけ》極まりない好奇の顔色が語っていた。  好奇、だけならばどれだけよかったろう。  ゴドーは、より興を覚えたように唇の端を吊り上げるや、ふん、と小さく息むと。  そのジッパースーツが、ぽんと妙に軽快な音を立てて幾つかの部位に弾け、吹き飛び、ゴドーは瞬時に脱衣を果たして、裸形を露わにしていた。  素晴らしい、としか言い様のない身体であった。野生の〈逞〉《たくま》しさと女体の美の至妙の結合。とことん実用本位を突きつめた果てに達した、機能美とも言うべき美質を宿し、かつ、男、否、雄の情火を目覚めさせ、炎と猛らせるほどの官能を全身に、その肌に、肉に、自らの重みに程良く揺れる乳房に、引き締まり、かつ脂の乗った腹に、しなやかで長い手足に、髪よりやや濃いめの〈叢〉《くさむら》に飾られた秘部に、余すところなく〈横溢〉《おういつ》させて───  が、そんな至上の肉体を前にしたところで、瑛に焼きつけられている印象は路上の小便女にしか過ぎず、美質も欲情もへったくれもあったものかはで。 「そうだよ、見りゃわかんだろ、ふたなりだよ。こんな奴と〈番〉《つが》う趣味はねぇだろ? 判ったらさっさとボクを放し───むふぅ!?」  瑛のほっそり若枝の手首を、両方まとめて〈易々〉《やすやす》と掴み取るゴドーの、もとより大柄で骨太な女であるが、にしても掌の大なること、龍が〈顎〉《あぎと》を開いて〈捉〉《とら》えるか。  といってさすがにゴドーの掌に針の牙の植わったわけでない。それこそ柔軟に〈撓〉《しな》る柳のように、瞬発力に優れる瑛なら〈鍔迫〉《つばぜ》り〈合〉《あ》いの〈膠着〉《こうちゃく》を破って、航宙士の戒めの隙を抜いてしまう事もできよう。  事実これまでも瑛は瞬間の〈反撥力〉《はんぱつりょく》で、力で勝る相手の鼻を明かしてやった事も〈幾度〉《いくたび》か。  なのに今それができなかったのは。  二人の骨格の、同じ種にありながら、兎と〈鰐〉《ワニ》ほどにも隔たる〈膂力〉《りょりょく》に圧倒されたという以上に、ゴドーから強烈に発散される、気配、瞳の中のかぎろいといったものが、瑛にして未知なる炎で、つい覗きこもうとしてしまった、その一瞬の機に、航宙士に間境を踏み破られてしまっていたからである。勝負は一瞬の機が分けるとはよく言ったものだ。  この時点でもう瑛は、物哀しく強奪される事が決定されていたようなものである。  なんにせよ瑛の逃げ足を鈍らせるほどにゴドーが全身から流出させていたもの、なんぞと問わば、まあ要はそれは、言わば単純な、    筋肉はゴリラ!  牙はゴリラ!  〈盛〉《さか》る性欲は雌ゴリラ!    という獣臭めいた精気であり、この時代の駅で異星人や〈機械人〉《マシーネン》は見慣れてきていても、野生の〈獣〉《けだもの》には馴染みは薄かろう。都市の中で両手振るってうっほうほ闊歩するゴリラに出くわした際の物珍しさと言ってしまえばそれまでの、だがそういう事だ。  ゴドーが瑛を戒めながら覆いかぶさっていく身のこなしは、しなやかで〈獰猛〉《どうもう》な筋肉の流動、二人の体格差もあって捕食者とその獲物としか見えず。  実際、航宙士が頭を沈め様、大口を開けて瑛の唇へ覆いかぶせた様子などは、肉食動物が獲物の口に食らいついて窒息させる狩り方にそっくりで。  唇同士を重ねてその弾力を〈愉〉《たの》しむといった情緒的〈感興〉《かんこう》など求めず、始めから相手の内臓を貪らんかなの勢いで、鼻まで塞がれそうなゴドーの大口にたじろぎ、はっと息を繋ごうと開けてしまった口の隙間を、見逃すゴドーではなかった。  いかな狭い隙間でも〈潜〉《もぐ》りこむ〈淫猥〉《いんわい》な触手と化して、厚みがあって長い舌が瑛の口の中に侵入し、〈蹂躙〉《じゅうりん》を開始する。  〈抗〉《あらが》う言葉を封じられた両性具有者の、目が動転し、悲痛を帯びて震えて声なき声。 「ん……く、ぢゅう……る、  れぇ……る……っ」 「ぢゅっ、ちゅう……はむぅ……っ、  れりゅ、りゅぅぅ、ぢゅぅぅっ」  体重を利して圧してくるゴドーの肉体、熱い湿った無定型の塊にきつく包まれるよう、熱い、腕を掴みとめた掌、腰を挟みこむ太股、薄い乳房を押す砲弾のように重い乳房、触れ合う部分全てが熱い。口中に充満する息さえも、熱帯雨林の温気のよう。  その熱気をかきわけ、口中で暴れ回るのは肉のへらか、瑛の縮こまる舌を絡めとって吸い上げる、それとも肉の槍か、尖って、瑛の舌の裏や根元に食いこんで、荒々しい、舌の根に〈疼痛〉《とうつう》が走るくらいなのに。  一体この女が何故そんなに自信に満ちあふれて犯そうとしているのか、瑛には全く理解できないのに。  被せた大口の隙間から漏れ出しているのは、〈腥〉《なまぐさ》いほど粘ついた音なのに。  舌を巻き上げられ、突かれる痛みの中には、瑛にその痛みをより意識させ、集中させてしまうような刺激をも伴っていて。  今ではかなり減じたが、それでもまだ酒精の臭気混じる、湿った熱を吸うのは〈厭〉《いや》な筈なのに、どれだけ〈抗〉《あらが》ってもゴドーの貪欲な舌は止まらない。  もしやこの痛み、苦しさの中に、どこか微かに甘やかさも混じってはいないか……そう瑛はゴドーの舌に意識を向けてしまいそうになって、慌ててはねのけようとして、〈抗〉《あらが》っても手向かいしても、肉の槍は倍する執拗さ荒荒しさで責めてきて、意識を更に惹きつけてしまうのだ。  それは、駄目と思いつつも流されてしまいそうな、甘やかなで堕落的な心地好さ。  手向かいすれば余計に、黙ってされるがままでも同じ事。  それでも瑛はせめてもの〈矜持〉《きょうじ》のように、懸命に背を反らせ、身体を跳ねさせてゴドーの口を逸らそうとするのだが、そうすれば今度は航宙士が押しつけてくる乳房に両性具有者の乳房が体当たりして、乳首同士が擦れ合ったりで、裸で〈縺〉《もつ》れ合っているという事実、いやが上にも突きつけてくる。  ゴドーはゴドーで、まだ幼げな両性具有者が小柄な身体を、身悶えさせ、舌は進退窮じ強張らせていながら、時折ふっと弛緩しては慌てたようにもがく、と抵抗してはよろめいてを繰り返しているのも、仕留めていく楽しさとして満喫していた。  このまま前後不覚になるまで息と舌を吸い続けてやったって良いのだけれど、ゴドーも今日はそこまでの余裕はない。先程から子宮にまだかまだかと〈急〉《せ》っつかれている。  だから、尖った犬歯で瑛の口に甘噛みを一つやってから、顔を上げたのも解放するどころか、もう一つの口でより激しく貪るための息継ぎでしかなかった。 「……ぶはっ、ぜ……ぜひゅ……ひゅ、はぁぁぁ……」 「こんな……こんなの、キスとかじゃない、舌、もぎ取られるかって……」 「だってぇー。アンタがあんまりにそそってくれること、言っちゃうからー」  瑛が〈眦〉《まなじり》に溜めている涙は、屈辱か〈羞恥〉《しゅうち》か恨み言か、多分全てが混じりあった雫を、ゴドーは甘露と舌先で〈啜〉《すす》りあげながら、言い訳は言い訳になっていなかったし、続けた慰めもなんら慰めにならず。 「そういう身体の連中と、付き合った事もあるしね、アタシは。だからぜんぜん気にしない。むしろよけいヤる気が出てきたくらい」  ゴドーの〈逸〉《はや》る心と裏腹に、というより〈戦慄〉《ぞ》っ〈引〉《ぴ》きして、縮こまる陰茎へ航宙士は〈股座〉《またぐら》全てを隠してしまいそうなくらい大きな手を被せる、と瑛を〈怯〉《おび》えさせるほどにまた掌が熱い。  熱湯につけられた、とはもちろん瑛の錯覚であって、掴まれた瞬間の熱さに少しだけ馴染むと、その熱が僅かな快味となって陰茎に沁みていくのに両性具有者は〈狼狽〉《ろうばい》した。  どれだけ航宙士が自分と交わる気で猛っていたとしても、男としての身体が反応しなければ挿入など叶うまいと、〈侮〉《あなど》るところがあったのに、ゴドーの掌の熱に、僅かとはいえ快感を呼び起こされそうになってしまった。  けれどまだ〈兆〉《きざ》しただけ。そんな弱い快感なら無視してしまえばいい、敵意にゴドーを〈睨〉《にら》みつけようとした瑛だったが、その目が驚いて下へ、自分の下半身へと降りる。  育つものを感じていたのだ。陰茎に流れこんで〈屹立〉《きつりつ》させる熱を。まるでゴドーの舌の〈蹂躙〉《じゅうりん》で体内に流しこまれていた熱気が、彼女の掌の熱が呼び水となって、一気に〈股座〉《またぐら》に集まっていったかのようだった。  瑛は自分がたちまちのうちに完全に勃起していたのが信じられないでいた。軽く陰茎に力を入れて確かめてみれば、ぱんぱんに張り詰めていて重く、やるせないくらい。  自身の意志を離れて勝手に完全勃起していた陰茎に大いに戸惑って、 「え……あの。あ! あの、ほら、ボク、ちんこはそんなにおっきくないから、きっとアンタを満足させられな、い───?」  ゴドーは、完全に〈屹立〉《きつりつ》しているのに、どこか優美さと女性らしさを漂わせる瑛の陰茎に、珍味を前にしたかに急に湧きだして垂らしそうになってしまった唾を、音を立てて〈啜〉《すす》って呑み下した───両性具有者の上に〈跨〉《またが》りなおした。  瑛は、この大女の秘部には自分のモノなど絶対に寸が足らない、別の大人の男を漁ってくれと必死に〈翻心〉《ほんしん》させようとした───熱い。  ゴドーは、久し振りの生の陰茎を味わえる事に頭がすっかり煮えていて、〈腋〉《わき》や髪の中に汗を湧かせ、背中からは薄く湯気さえ立ちのぼらせていた───肉厚の二枚の〈襞肉〉《ひだにく》の中に、尖端を〈潜〉《もぐ》らせる。  瑛は、この淫乱痴女の肉壺には、真珠かせめて歯ブラシの柄を削って珠にしたモノを埋めこんでごつごつぼこぼこと気色悪い凹凸だらけの男根でないと役不足……あれ役者不足というのだっけかどちらだっけかと、思い出そうとした───きつい。  ゴドーは、瑛を見た時に子宮と膣が即座に反応して愛液が鉄砲水となったから、コイツを喰うと決めたのか、喰うと決めたから溢れだしたのか判然としないが、とにかく身体はとうの昔に準備完了していた───入口は狙い〈過〉《あやま》たずくわえこみ、そのまま。 「ン……っふぅぅ……っ」  出会いの時がなにしろあの〈様〉《ざま》だったから、瑛は下半身に突然広がった熱を、航宙士がまた失禁したのではないかとぎょっとしたのだ。漏らした吐息も、我慢に我慢を重ねていた尿をようやく吐き出したが如しの解放感に溢れていたし。  さすがに下半身を尿浸しにされてはかなわないと、航宙士が失禁の解放感だか流出感だかに固まっているのを幸いと、彼女の下から這い出そうとした、のに。  しっかりと〈掴〉《つか》まえられていた。両の手首が、ではなく、下半身が。正確には下半身の中心で重く鈍く凝って隆起しているモノが。しっかと握り締められ、無理に下半身をずらそうとすると、陰茎の根元に痛みが走るほど。  彼女の片手は瑛の両手首を掴みとめているが、もう片手はその尻から背後に回されていて、その空いた手で、漏らしながらも陰茎を逃すまいと掴んできているのかと思ったのだが、両性具有者はその時自分の秘裂をまさぐっている指先を感じた。  つまり航宙士の両手は瑛の陰茎には触れておらず、つまり瑛を掴まえている、モノは。  この、熱くてきつくて、握る力、強く弱くして陰茎を隙間無く掴んでいる、モノは。  ゴドーが眼を細めるのに合わせて、強まった力、歯の無い口に押し潰されるかと焦って、そしてようやく気づいたのだった。  密着した自分と航宙士の〈股座〉《またぐら》の間が今、どうなっているのかに。 「熱……なんだこれ……。噛みつかれて……え? もうこれ、突っこんで……いきなり」  ゴドーは無言で、眸を〈爛々〉《らんらん》と危険なまでにかぎろわせ、一方肩は悠然とゆっくり上下させているように見えたけれど、それは秘めたる昂奮を押さえつけようとしているからで、眼光と質は同じ。  ゴドーは、事実一杯だったのだ。  瑛の男の部分、その根元まで膣内に一気に呑みこんで───  打ち出す筋肉、引きこむ筋肉、押さえつける筋肉、全ての筋肉が背面、四肢にめりめりと〈隆〉《おこ》っていたのは、〈勁力〉《けいりき》を発する為でなく、むしろ懸命に抑制しようとしていたが故に。  下の口が、ご馳走に久方ぶりにありついた喜びの余り、全力でもって噛みついて食いちぎって台無しにしてしまいかねないところを、必死で抑えこんでいたのである。  喜びに声を吐き出してしまったら最後、己のよがり声に引きずられて、この堅く尖った陰茎を持つ、柔く華奢な肉体を引き裂いてしまいかねなかった。  そろそろと呼吸を整え、自分の中の飢えた獣の頭、どうにかねじ伏せて、ゴドーはにんまりと〈頬笑〉《ほおえ》んだ。  瑛を〈慄然〉《りつぜん》とさせると同時に、〈股座〉《またぐら》を切なく〈疼〉《うず》かせる、〈強〉《こわ》い笑みだった。  異形とまで〈隆〉《おこ》った全身の筋肉が、ゆっくりと沈んでいって、彼女の肉体も精々が鍛え抜かれた闘技者程度に収まる。 「ちんぽのおっきさとか……んっ」  ゴドーが根元まで呑んだまま、臀を蠢かせたのは、瑛の雄のモノを確かめる為だけではなく、自身の肉体の中の何事かを待っているような節があった。  そして瑛が、目を剥く───  切羽詰まったような膣の圧はあったけれど、ただ狭い肉の中に押し込んでいるだけ、という感触だった膣が、この時異様な〈蠕動〉《ぜんどう》を見せたのである。  瑛は陰茎の長さ太さを気に病むような言葉を本気で吐いたのでは無かろうが、いずれにしてもゴドーには〈忖度〉《そんたく》するほどのことではない。  食べる前に確かめた限りでは、あれくらいの容積であれば、ゴドーの膣内は半ば自律的に緊縮して、相手に合わせる性質が具わっている。  膣道は厚みを増して瑛の陰茎に吸いつき、奥の子宮口が迫り出してきて、尖端を喜ばしげに迎える。  瑛はこの大柄で筋肉質の女の〈膣内〉《なか》など、〈茫漠〉《ぼうばく》とした大海洋か精々〈括約筋〉《かつやくきん》に任せた締めつけしかないものと、そう無礼にも決めつけていたのに。  今瑛は、航宙士の、筋肉に硬い外側が嘘のように、膣内が、極めて柔軟に熱く蠢きながら、自分の雄の形・長さへ〈誂〉《あつら》えたような非常な具合良さ、に変わっていったのに驚愕していた。 「んぃぃい!?」  そんな奥まで届かない筈だった尖端が、弾力に富んだ子宮口の盛り上がりに行き当たっていたばかりか。  その周囲に畳まれていた、荒いの細かなの取り混ぜた肉の粒が、ぞり、ぞりと敏感な亀頭を擦り上げる、〈魂消〉《たまげ》んばかりの心地好さ。  尖端を削り取られるかと恐ろしくなるほどの高密度の快感の塊に、瑛が声、〈頓狂〉《とんきょう》な響きを帯びて、本人の意志を越えて引きずり出された。 「太さとか……ふ……んぅっ」  子宮周りが両性具有者の尖端を良い塩梅にしゃぶり上げているのは、ゴドーにとっても〈堪〉《たま》らない充足感をもたらしていたし、瑛の声もぞくぞく背筋を伝う。  引き出していけば、子宮口は名残惜しげに尖端を離れる。  するとゴドーの膣道は中ほどで大きく隆起していて、その部分の〈肉襞〉《にくひだ》は粗めながら幾重も列して、〈潜〉《くぐ》り抜ける尖端を強く刺激していって、瑛はその鮮烈な快感に、脳内の言葉を作る領野まで浸食されて、もうまともな台詞さえ出せなくなってしまい。 「あ、あわ……あわ……」  瑛は快絶に〈翻弄〉《ほんろう》されてほとんど動くもならず、だがゴドーはお構いなしに呑みこむ、引き出す、また呑みこむを繰り返して、粘膜の喜悦余すところなく瑛に刻み、叩きこむ。  二度・三度〈抽送〉《ちゅうそう》させる度に、肉の茎にぬらぬらと広がっていく粘ついた液は、全てゴドーの中で湧いたもの。瑛の陰茎は航宙士に強引に〈直〉《そそ》り立たされ呑みこまれ、先走りを滲ませる間もなく〈肉襞〉《にくひだ》に満遍なく愛液を塗り込まれ、塗り広げられ、てらてらとぬらつく深海の魚のように。その〈滑光〉《ぬめひか》る様も妖しいまでに〈猥褻〉《わいせつ》で。 「関係ないよ……ちんぽは、みんなちんぽ。アンタのだってさ」 「もう、長いことシてなくって、待ちきれなくて食っちゃった……はぁぁ……顎の下まできゅんきゅんくるよう」  下腹部に筋肉の隆起、うねらせながら柔軟、緩急自在に膣を遣い、瑛をもう一つの口で貪るゴドーもまた、目の奥をしんしん突かれるような悦楽に、また体熱が上がっていくのを感じていた。  胎内に収めているだけでも快楽の熱がじわじわと女の芯を溶かすのに、律動して両性具有者の形で中を広げ、擦り上げ、〈捏〉《こ》ね回し、〈抉〉《えぐ》るともう、舌の根がつりそうなくらいに快美で、悦美で、細胞の一粒一粒が歓喜に踊り狂っているかとさえ。  こうして誰かと繋がる事は久し振りの、それもあったがそれ以上に、この両性具有者の快感に苦しげに歪む〈貌〉《かお》、調子を外した声、可愛らしく悶える柔かな肉体全てが、ゴドーに際限なしの快感を与えてくれている。  ───自分の航宙士としての勘、変わらずに冴えている───  と、情交の相手を見定める鑑定眼が航宙士に必要な勘働きなのかどうかはさておき、ゴドーは、一目見た瞬間に走った直感の正しさを、深く深く痛感してしみじみと、肉の〈愉悦〉《ゆえつ》と共に噛み締めて、女の肉壺でも瑛を味わう。  粘膜を強く絡みつかせながら、蜜に濃く覆われた陰茎を尖端だけ残して引き抜いて、入口の締めつけで亀頭を何度か握り締めてから、熱い〈肉襞〉《にくひだ》の連なりで、肉の茎を強く揉みほぐしながら、また奥まで吸いこみ、呑みこんでいって、子宮口周りの肉の粒々でしゃぶり上げた、途端に、瑛の雄が膨らんで弾けた。 「あひ」  強烈に過ぎる快感に、慣れる〈暇〉《いとま》もなく身勝手に〈舐〉《ねぶ》り尽くされて、瑛の思考の外で勝手に射精が始まっていた。  ポルノなどで心の琴線を強く弾く性的刺激を受けて、突発的に自慰を始めてしまって、ろくに快感を〈愉〉《たの》しむ間も、絶頂の訪れをあやす間もなく射精感覚だけが早々に臨界を越えてしまって、二〇秒と経たず噴き零してしまうような、あの感覚と似通っている。  おまけに瑛はここ〈暫〉《しばら》く精の処理をしていなかったので、ひとたまりもなかった。  ゴドーにくわえこまれてから、十往復するかしないかで射精してしまっていた。  陰茎があっけなく絶頂の痙攣に見舞われ、びくびくと吐き出している。  ただ、射精の脈動感は、その際の昂奮の度合いでまるで違ってくるもの。ゴドーの自分本位の膣壁摩擦で扱き出された射精感は、絶頂の心地好さはあるにはあったけれど、瑛には他人事のようで、どこか捨て鉢な気分で、下半身が自分の意志を離れて勝手に吐き出すままに任せた。速く流しきってしまえばいい、とも思った。  そうすればこの淫精の如き航宙士は、気の抜けた射精に失望して離れていくだろう、と。    現実は、さに非ず。  ゴドーは。  瑛の暴発さえ〈愉〉《たの》しむように、忍び笑い。 「ん……あ。ふふ、出しちゃったか」 「うん……うん……いいよぅ……このふたなりちんぽ、ちゃんとザーメン出せる、いいちんぽじゃないか……うん……」  そんな〈貌〉《かお》をここに至ってされたところで、と瑛を疎ましくさせるくらい優しげに〈頷〉《うなず》きながら、ゴドーは。ゴドーの膣内で。奥で。 「お、ぁぁ、あぁぁっ、す、吸わないで、まんこで吸っちゃやだぁ……っ」  波打ちながら〈蠕動〉《ぜんどう》して、子宮口が〈嚥下〉《えんか》する、埋まったままだらだら零し続ける陰茎に、活を入れる───  それまではただゴドー自身が貪る収縮だったのに、そのぞよめきは確実に瑛に、その性感に狙いを定めていたのだ。  びしゅう! と硬くはあるが汁気たっぷりの果実を強く絞った勢いで、噴き上がった。ゴドーの〈蠕動〉《ぜんどう》に、最初の噴出を勝る脈動と快感で精液が撃ち出される。  その快感、一度意識してしまうと、最前の射精を軽く上回る凄まじさで瑛を襲い、今度は両性具有者ごと完全に押し流した。 「ふふ……びしゃっ、びしゃって奥にぶつかって、じゅぅ、じゅぅって絞り出して……とぷんって溜まってく……」  瑛自身思ってもいなかったほどの多量の精液は、一滴残さずゴドーの中へ、膣の深くへ、子宮の入り口へ。  視覚が及ばない胎内の出来事でありながら、平常時は閉じている子宮口が、その小さな口を開けて、熱く白濁した甘露を内に呑み下していっている様を、ゴドーは下腹部の奥に溜まっていく素敵な熱として感じ取っていた。 「それに、量もすごいなァ……アンタも、ずいぶん溜まってんだ? こんな良いのに、相手とか、いなかったかい?」 「そん……なの……ぅぅ、ボクには、もう」  今度はしっかり意識して、その快絶に身も心も蕩かされながら精を撃ち出し続けていたとはいえ、瑛にはやはり了解のないまま強行された肉の交わりである。  ろくに知りもしない相手の体の中で、生の粘膜同士を重ねながら、〈遮〉《さえぎ》るもの無しに自分の精を流しこんでしまう事は、瑛に、鼻汁を他人の口で吸い出されるような軽い〈怖気〉《おぞけ》をもたらした。  そしてそんな〈怖気〉《おぞけ》など、あっさりと消え去る、意識が持っていかれそうな射精快感の中では。  ぼんやりと〈眩〉《くら》む意識が、常なら知己のない相手には明かさない心情を吐かせてしまう。  そう、瑛にはもう、身体を重ねてもいいくらい、心を許した人間はいない。 「そのお陰で、アタシがたくさん呑ませてもらったんだから、運がよかったよ」  そんな淋しい瑛をばゴドーは、いけしゃあしゃあと強奪し、その上に─── 「じゃあ、挨拶はすんだからさ……本番、いこっか?」 「ほんばんて……ボクもう、これ、限界まで絞られた感じ……これ以上なんて無理」  戦慄と恐怖の宣言であった。  そもそも不可能である。  たった一度の絶頂であるのに、瑛の陰茎はほとんど麻痺して感覚を失い、ただいまだひくついているのは判っても、そんなのは断末魔、ゴドーに食べられたままだけれど、もうぐんにゃりと萎えているのか、まだ辛うじて硬さを残しているのか、それさえも瑛には感じられず───  くきゅうぅ、ざわぞわ、ぞりぞり、にゅるるぅぅぅっ、ぐにゃぐにゃっ、ぎゅぅぅ、ずじゅぅぅっ───そう、擬態語でしか表しようのない膣内の動きが起こった時、瑛は自分の陰茎が力なく萎むどころか、変わらぬ硬度に〈息〉《いき》り〈勃〉《た》ち、ゴドーの洗礼に歓喜している事を覚った。  覚って、頭を左右に打ち振って新たな涙、絞り出した。 「あひ! ひ、ひあっ、ひぁぁ……っ」 「どこが無理とか。ほぅら、どんどん、おっきく、硬く……また、熱くなってきたよ」 「まんこ……なんでこんなに動くのっ? こんなの、まんことかそういうんじゃない、もっと違うなんかだ……ぁぁぁっっ」  ひどかった。ひどすぎた。ひどすぎる程の快楽だった。精を吐き出し尽くしたと思っていたのに、射精直後の敏感な陰茎では、気を抜くとまた強制的に絞り出されかねなかった。  自身も女の秘壺を有する両性具有者ではあるが、瑛は自分がここまで自在に膣を遣えるとは思えない。他の女達であってもだ。  長い歳月の間で、〈娼妓〉《しょうぎ》としても磨き上げられたゼルダクララとヒプノマリアの床あしらいならともかく。瑛も、最高潮に昂ぶった身体なら、無意識にやってしまう事はトゥアンの言からもあったようだけれど(その後丸一晩放してもらえなかった)、意識しては無理。  この航宙艇を見る限りでは、男を迎え入れて商売に精出すような娼婦とは到底思えないし、日頃からよくよく男漁りに精を出していたとしても、相当に意識的に訓練を積まないことには不可能な膣内の操作を、ゴドーは事も無げに、鼻歌でも〈唸〉《うな》りかねない程気楽そうに、楽しそうにやってのけている。  あるいはその肉体が元々そういう『性能』を有しているのか。  どちらにせよ瑛は、ごり押しに掘り起こされる快楽に、〈翻弄〉《ほんろう》されるばかり。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  ───既に、瑛はあの後更にもう一度の射精を、ゴドーの柔らかなのに〈強〉《したた》かな〈肉襞〉《にくひだ》と腰遣いで強制されていた。二度目は一度目のように性急に貪りこそしなかったものの、やはり瑛の意志を無視して、自在に腰と膣を遣い、両性具有者の精を〈搾〉《しぼ》り出したのだった。  女の方が〈跨〉《またが》ってきて、勝手に動いて絶頂まで持っていってくれるというのは、ある意味楽は楽で怠惰なセックスといえようが、自分の律動で快感を御せないのはもどかしくも辛くもある。  瑛とて自分が禁欲主義者でもなければ、下半身を煮溶かすような快楽を冷静に律して遠ざけられるほど、自己節制に長けた人間だとは露ほども思っていない。どちらかといえばシラギクの時代から快楽には弱い口で、この時だって、たとえ相手がゴドーだとしても、彼女の〈房技〉《ぼうぎ》に応えて下から腰を突きあげてしまって流されるまま、淫欲の〈粘泥〉《ねばどろ》の中で二匹の畜生となって転がり回るような展開だって有り得たのだ。  瑛がそうならなかったのは、単純にゴドーに貪られる事は、とても、凄く、大いに、それはもう強精家として鳴らす〈蛤介〉《おおやもり》の夫妻でも大変ですねと同情寄せて尻尾を〈囓〉《かじ》らせてくれるだろう、というくらいに消耗するのである。  肉交に没頭するうち酒気も抜けたか、彼女本来の匂いにむらむら薫る息と肌は、〈麝香〉《じゃこう》として瑛の官能を無理矢理に煽り、精に〈舌鼓〉《したづつみ》打った下腹部は野生の重さでのしかかり、〈靨〉《えくぼ》のような窪みを横に浮かべる臀は、永久機関のように〈鼠溪部〉《そけいぶ》を撃ちつけ続け、これらの躍動に絶えず〈曝〉《さら》されると、それだけで体力が持っていかれるような。ゴドーに応じての律動など、〈自棄〉《やけ》くそにも敵わない事なのだった。 「あっ、あっ、うぁぁっ、も、もうっっ」  一度目に精を漏らした後は、まだ悶えるくらいは出来たのに、二度目の吐精以降ともなると〈身動〉《みじろ》ぐぐらいが精一杯の、それとて瑛が自分から動こうとして、ではなく、ゴドーがねじこんでくる快絶に快楽中枢がよがってひくついているだけだ。  そうやって瑛から強奪されたのは、精汁や〈矜持〉《きょうじ》だけでない。その名前も、また。  呆れた事に二人はお互いの粘膜の感触と味と性器の具合良さまで味わったにもかかわらず、それぞれの名前をまだ知らないまま。  瑛としては、名乗らなければ、この肉の底無し沼のような交わりも、行きずり成り行き一夜の極彩色の異夢としてやり過ごして、後は縁が切れるだろう、などと空虚な希望に浸っていたところ、航宙士からの〈誰何〉《すいか》である。  知るものか、と顔を〈背〉《そむ》ければ、ぐいと航宙士の〈貌〉《かお》が二連惑星の軌道旋回で追いかけてきて、片目の上下の瞼を指先で固定するや、目玉をねろんねろん〈舐〉《ねぶ》り回してきて、それはもう美味しい〈飴玉〉《あめちゃん》を溶かしつくす勢いだもの。  ただでさえ沁みて痛くて気色悪い上、長い舌は〈眼窩〉《がんか》の内側にまで侵入してきそう。人肉食に覚醒した〈大食蟻獣〉《オオアリクイ》の食性のように、脳味噌を吸い尽くされそうなおぞましさには、みいみい〈泣〉《な》くのだか〈鳴〉《な》くのだか〈啼〉《な》くのだか聞き取り苦しい〈音〉《ね》を〈放〉《ひ》り出しながら白状する他なかった。  それで白状したからといって解放されるわけでなし─── 「あっは、良いよ、良いよぉ……っ」  繋がったまま、ゴドーは瑛の秘裂の方にも長い指先〈潜〉《もぐ》らせる。ゴドーの肉厚で汁気〈夥〉《おびただ》しく、いかにも強者な造りのそれに比べて、瑛の女の部分は多くの時代を在り続けてなお、愛欲の日々を知ってもまだ、幼げで繊細で、色も〈襞〉《ひだ》も薄い。  かつてトゥアンも、さんざ彼の形に馴染ませてもずっと〈真っ新〉《まっさら》のようなこの両性具有者を、それはこよなく寵したもので、瑛もまた相棒に、女としては〈初〉《うぶ》だった身をよろしく仕込まれた。  そうやって女としての悦びを知った肌であれば、ゴドーに対していかな反発心を抱いていたとしても、その愛撫に女の芯が応えてしまったとしても責められまい。  またゴドーの指遣いが実に緩急よろしきを得ていて、二枚の舌肉のあわいをなぞり上げては掻き回し、膣孔へ埋めて中の〈襞〉《ひだ》を〈捏〉《こ》ね、かき混ぜて止むことなく、瑛はそこから体の中味が溶かされ蜜と化してしまいそうな〈愉悦〉《ゆえつ》を送りこまれている。  〈頭〉《こうべ》〈背〉《そむ》けて強く目を〈瞑〉《つむ》ったのは、快楽にふやける顔をゴドーに見せたくなかったからだが、無意識の内に股間が航宙士の指を追って迫り上がっていたし、繋がったままの陰茎にも息みが入ってしまう。  どうやらなりに似合わず、セックスの経験をそこそこ積み重ねた身体であるらしい。にもかかわらず初々しく過敏な反応がまたゴドーの趣向に適っていて、彼女の陶酔をより深くしたし、もっとこの両性具有者を〈愉〉《たの》しみたくなってくる。唇を舐めながら、 「地上に戻って……はぁぁ……一本目なのに、これ、大当たりぃ……くふ、ふっ、もっと、よくしてやるね……」  取り出したのは航宙士の手慰みの供、例の男根を模した〈張型〉《はりかた》という品の、女性の性具としてはお馴染みの。  ただゴドーの愛用のそれは、宇宙生活での苛酷な要望に応え精神感応性宇宙金属を〈潤沢〉《じゅんたく》に使用し質感も硬軟も温度も自由自在、奥行きが深く大柄な女性(間接的表現)にも安心の長さと径に設計され、膣内を心地好く刺激する突起を、先端部中途部根元部でそれぞれに異なる形状と密度で配置し、女性一人でも快適な使用感の優れもの。  ゴドーはわざわざそれを瑛に見せつけたのは、不意打ちに〈捻〉《ね》じりこむのも楽しかろうが、やっぱり自分の身体の中に入ってくる物はちゃんと確認しておくべきだ〈喃〉《のう》という、実に有り難い親切心の発露なのであるったら本当に。  瑛はそんな〈大業物〉《おおわざもの》を見せつけられて〈慄然〉《りつぜん》としていた───  〈張型〉《はりかた》というものであることくらいは理解している。しかし。  両性具有者の手首ほどもある太さ。  胃の底まで届いてしまいそうな長さ。 「え? え、え、ちょっとなに、そんな……だめ……っ」  〈怯〉《おび》え、ふるふると小さく首を振りながら必死に哀願する瑛に、あの口悪く悪擦れした悪童の面影はない。もっとも近年の瑛は、駅の停滞した気配に〈悄然消沈〉《しょうぜんしょうちん》して、往年の生彩やや欠いていたのだが。  それでも不敵ですばしこい浮浪児が、無理矢理に身体を開かれ悦楽の沼地に引きずりこまれ、懸命に逃れようと〈狼狽〉《ろうばい》し〈竦〉《すく》み上がっている様は、健やかでしなやかなるものを叩き堕とす際に生ずる、〈嗜虐的〉《しぎゃくてき》な官能を誘った。 「せっかく両方あるんだから、どっちも使ってやらないと」 「アタシがずっと使ってた奴だから、ちょっときついかも……ふふ、こんだけ濡れてりゃ、へいきだね」 「あ、はぁぁぁぁーーっ、だめ、だ、いっぺんに、なんて……うぅぅ、うぁっ、っく」  そんな凶器にかかっては女の芯がすかすかの太平洋に拡張されてしまいかねないし大体他人の中古の性玩具など〈御免蒙〉《ごめんこうむ》る。瑛は、なかば麻痺した身体に鞭打ち逃れんと必死の足掻き、少しずつゴドーの下からずり上がっていく身体、がまたすぐさままた引き戻された。航宙士が臀を艶めかしく一つうねらせただけで。  ゴドーの膣が吸盤のように瑛の陰茎に吸いついて、引き抜かれそうな程強い締めつけと吸引力はしかし、快感もしっかり瑛の芯まで擦りこんできて、気を緩めれば射精してしまいそうな危うさ、〈堪〉《こら》えることに気を取られたその隙に。  引き戻された〈股座〉《またぐら》、秘裂を迎えるように押し当てられた塊に、瑛の意識が〈張型〉《はりかた》に戻ってまず感じたのは、ゴドーが拳でも作ってぶちこもうとしているのではないかという危機感。  けれどその感触は男根のそれと似て、ただし大きさがまるで異なる。女としての処女を喪った時よりまだひどい。  絶対に無理、骨盤が割れるとの恐怖で絶叫を、張り上げようとしたら圧力の感触がふっと細くなって、怪訝に声が出損なう、隙にぬるり、ときた。ゴドーの愛撫でしとどに蜜を帯びていた秘孔が易々口を開いて呑みこんでいくのが判る。  ───えーこちらの〈宇宙張型〉《スペースディルドォ》、精神感応金属を贅沢に使用しており、思考波だけで変形が可能となっており、セックスの経験が少ない初心者の方にも、先端部の形状を細めにしていただく事で、挿入時の抵抗感を少なくする事が可能でございます───    予想外の細さに困惑しつつ、これくらいの太さのモノなら大丈夫か、との安堵を粉々に砕いて〈嘲笑〉《あざわら》うように、侵入してきたモノが突如容積を増した。    ───またもちろん、経験豊富なお客様のニーズにお応えしまして、先端部や〈茎部〉《けいぶ》各処の形状を変化させ、より快適な刺激をお求めいただけます。これらの操作は思考波で為されますのでお客様のイマジネーションにより様々な形状にてお楽しみいただけます───  挿入時だけ尖端を細くして、後から元に戻すやり方は、思い遣りという底意地の悪さを物語るが、瑛はゴドーの内情を〈忖度〉《そんたく》していられる騒ぎではなく、突然膣内に発生した巨大な異物感に、肺の空気を一瞬で〈放逐〉《ほうちく》され、吐いた唾液混じりの息の塊、その哀れさ惨さ。  拡げられてはいけない域にまで膣道が拡張され、入りこまれてはいけない深さまで〈抉〉《えぐ》られて、びくん、と強く痙攣を一つ、ゴドーに〈跨〉《またが》られたままなのに、その体ごと跳ね上がってしまうくらいにびくん! と痙攣は、更に引き続いてびくん、びくんっ。  瑛の膣内の宇宙なんとやらが、みぢみぢと抜き差しを始めたのであった。  茎の各処に植わった粒々で〈肉襞〉《にくひだ》がこそぎ取られる、小さな拳くらいもある尖端で最奥を強引に〈抉〉《えぐ》られる、瑛は瑛は、自分の中身が引きずり出され、骨格がばらばらに〈解〉《ほぐ》され、壊されてしまうと〈啜〉《すす》り泣いたのに。  なのに何故───こんな拷問が、気持ち良いのだろう。〈嗚咽〉《おえつ》には確かな喜色さえ混じっていたのだ。 「ん……みりって……きたよ……お、ぅぅ」 「さっきのザーメンでぬるぬるなのが、擦りこまれて……ん、ふふっ」  〈張型〉《はりかた》を挿入した途端、二度の立て続けの膣内射精の後で減じていた瑛の反応が劇的に復活し、膣内の陰茎も前に増した硬さ太さに張り詰めたのがゴドーを陶然とさせ、両性具有者をしゃぶり尽くす臀のうねりは疲れ知らずにより粘っこく、貪欲になって。  白い丘のように充実して、女性だけの〈艶麗〉《えんれい》な曲線と引き締まった筋肉が美事に調和した、ゴドーの臀は人の身体の美しさの象徴のよう。それが、その真ん中で、粘液を白く泡立てながら陰茎を貪っている。  しなやかに、そして〈淫猥〉《いんわい》に腰をうねらせ上下させれば、姿を現してはまた呑みこまれていく陰茎は白濁と蜜にどろどろ、〈抽送〉《ちゅうそう》は凄まじいほど生々しく〈淫猥〉《いんわい》で、男が〈穿〉《うが》っているのではなく、女がなめずり〈啜〉《すす》りあげるている、下の口とはよく言ったもの。  ゴドーの膣の中は自身の蜜と二度の射精とで〈粥〉《かゆ》でも流しこんだかに〈緩〉《ゆる》まった粘液でずるずるの、航宙士はこの挿入感もお気に入りで、膣内で硬いモノの刺激、粘液に薄まったかと思うと思いもかけない角度に滑り、〈抉〉《えぐ》って深く〈捻〉《ね》じこまれるのが〈堪〉《たま》らない。指の股から逃げようとする、粘液にぬらついた魚をしっかり掴まえておくように、膣内の〈圧搾〉《あっさく》を強めると、陰茎が身悶えしてひくつくのも素敵なのだ。  瑛が味わっている、というより強引に味わわされているのは、ずるずるぐぢゃぐぢゃの液溜まりなのに、粘ついて強く隈無くまとわりついて締めあげられる、捉えどころがないのに腰が浮き上がってしまいそうな悦楽。自分が吐き出した精に陰茎を浸して〈扱〉《しご》かれているのは、僅かな気色悪さもあったが、それさえ今は心地良い。  さすがに二度の吐精の後では陰茎も性感が鈍っていたのに、女の部分を〈張型〉《はりかた》で滅茶苦茶に〈抉〉《えぐ》られ〈捏〉《こ》ね回されて、男の部分が連動してまた張り詰めて、そこにゴドーの膣が挑むように〈圧搾〉《あっさく》更に強めてきて、ずるずる、ぐちゃぐちゃ。熱い、溶ける、肉の交わりの快楽というのは粘ついて蕩ける、液と膜と熱で構成されたものでしかないと瑛に覚らせるのに、それだけのものが何故こんなにも、気持ち良い、凄い、止められない、もっと、もっとと、求めさせるのだろう。  馴染んでいく、溶けていく。より深く。相手の事などまだ何も知らない同士なのに、肉体の方が深めていく、それは〈情誼〉《よしみ》とは言えないけれど。それでは、何がこんなにも繋がっているのだろう。 「わかんなくなる、ボク、ボクが、わかんなくなる、あ、あ、助けて、許して……ぇっ」  両の性器を責められるのは、瑛にとっても刺激が強すぎる。  もしそれが、安心して身を委ねられる相手なら、快楽に流されてしまってもいいのに。例えばかつての相棒や双子なら、どんなに乱れても判らなくなっても、その〈目眩〉《めくるめ》く快楽の海に溺れてしまったって構わないと感じさせるのに。  ゴドーに奪われるようにされるのは、快楽に負けてしまいそうな意識と、それを〈拒〉《こば》む意識のせめぎ合いになって、瑛の許容を、いけない意味で軽く超えてしまう。  快感。拒絶。  ぶつかり合う感覚の火花、瑛の思考を焼いて、その最後の果てにはきっと───  瑛は完全に、壊れてしまうのだろう。  そしてゴドーが見たいのは、きっとそうなった瑛なのだ。  だから彼女は、腰遣いと〈張型〉《はりかた》を操る手を、一層執拗なものにして、 「いいよ、どんなになっても、ちゃあんと出させてやるからさ、ほらぁ……」 「まんこの方も、可愛がってあげるよ……こう……こんな感じ……」 「あ、ふ、くはぁ……出ていく───、ずるずるって……えぅ……、入ってくる……ぬるる……て」  ゴドーの経験則では、瑛のような陰核が肥大発達して陰茎となっている両性具有者は、膣道の入口の左右と、陰茎の裏側に当たる箇所に、関節の腱に似てやや柔軟な肉質があり、勃起時にはここが充血して陰茎を支える土台となる。  こういう状態の両性具有者の膣に男根を挿入すれば、快感を刺激して高める突起として感じられるだろうが、それは埋められる方にとっても同じ事。その部分を刺激される事は、陰茎を根元から、土台から快感を叩きこまれる事になる。  これだけ充血しきって硬味を帯びているなら、その部分に与える刺激は強い方がいい、とゴドーは容赦なく手首を返して〈張型〉《はりかた》を使いながら、瑛の入口と膣内の腹側、陰茎の裏に当たる部分を掻き回し───たっぷりと。してから。  おもむろに奥まで埋めた。  〈張型〉《はりかた》の尖端に応える感触で確かめていた、瑛の子宮口を胎内深くに押しこむように。  最奥を〈抉〉《えぐ》られ、身を震わせて、弛緩して、また震わせて、両性具有者は、声、細く切なく押し出して、 「奥……ごりごり……しちゃ……や、らぁ。  溢れる、ちんこから……も……」  子を孕む事はない身体なのに、何故そんな器官が遺されているのか、なにかを恨みたくなるくらい、そこを突かれ〈捏〉《こ》ね回されると、重く鈍くかつ痛烈な刺激が内臓から背骨、そして頭まで揺るがすよう。  その刺激に意識と体内がどろどろに突き崩され瑛は。  崩れてはいけないものが。  〈解〉《ほぐ》れてはならないものが。  自分を織り成している原理さえ〈解〉《ほぐ》れていくのを知覚していた。 「もうじき、アタシもイくから……」  そんな瑛の予感など知らぬげにゴドーは、瑛の生命の汁をもう二回も吸い上げて、まだ足りない、けれどもう少し、それでやっと女の芯の飢えを満たす、快美の大波を引き寄せられる、と。  官能に幾らか重みと柔味を増した乳房を躍動させ、その頂きに複雑な軌跡描かせ、背筋を〈撓〉《たわ》め、〈内腿〉《うちもも》に筋を浮かせ、全身を快楽その為だけの運動に集中させ、女の芯で瑛を貪る、しゃぶり尽くす、吸い尽くす、絶頂を、〈手繰〉《たぐ》りよせる。 「ん……キそう……来る、このまま……っ」 「ら……めぇぇ───っっ!」  すぐ際まで迫った予感。最期の予感。  多分もうすぐ自分は、最期の絶頂に至るだろう。そう、最後ではなく最期。  ばらばらに崩れて〈解〉《ほぐ》れてそれまでの。  肉の交わりの果てに、こんな最期を迎えてしまう事に、哀しく情けなく、口惜しくある、けれど、全身に満ちて押し流そうとする、快楽の極みの前に瑛は逆らえなかった。 「あ───お、オゥ……ぅぅーーっ」  今零してはいけない。漏らしてはいけない。 それなのに。  瑛の男は。  ゴドーの肉体、女の孔。  その劇毒のような快楽から逃れられず。  ───また───。  今達してはいけない、包まれてはいけない。  判っているのに。  瑛の女は。  〈張型〉《はりかた》の、大きさ硬さと蠢き。  その魔薬のような悦美に捉えられて。    男の射精と、女の絶頂が。同時に。  根元まで呑みこんで、肉の隆起と〈襞〉《ひだ》と粒で隙間無く締めつけ、異様なくらいぞよめかせ、尖端を子宮口で〈啄〉《ついば》んでくる、その男の精を吸い出す事に特化したゴドーの〈蠕動〉《ぜんどう》に、瑛は陥落して、精汁を、噴き零した。  射精の間も間断無しに蠢く、ゴドーの膣粘膜の快絶。  〈張型〉《はりかた》にもたらされた女としての絶頂に、子宮と膣道が緊縮を繰り返す。  内と外からの絶頂に、瑛は身体の境界を喪いながら、最後の一雫まで───  そしてゴドーも、挿入を繰り返しながら、奥に当たるたびに、びゅるびゅると粘液を浴びせてくる陰茎の脈動に、とうとう絶頂に到達して───  しばしの硬直。胎内を再三満たしていく、瑛の生命の熱をじっくり味わい、歓喜の極みに全身の感覚を浸し、性の喜びを存分に〈啜〉《すす》りあげ、酔い痴れる。  やがて、無上の満足に蕩けた吐息零しながら頭をもたげ、ざっと〈靡〉《なび》かせる髪が、金の〈光暈〉《こううん》とゴドーを飾った。  その〈容貌〉《かんばせ》は、昇ったばかりの明星と輝いて、艶めいて、生命の炎、より強く眸にかぎろう。 「軽く、イッちゃった……今度は、臀の方も試そうね、瑛───」  でもどちらがどちらの臀の孔を? とかなんとか迷いつつ、これだけの情痴の中で大暴れしてすぐに、次の情火の絡み合いに挑もうとするゴドー恐るべしだが。    彼女の下で、瑛の。  吐き出し、搾り取られ、絶頂を叩きこまれた瑛の、ぐったり弛緩しきった身体が。 「か……ひゅー……ひゅー……ボクもう……体が……」  四肢、胸、腹、至るところの輪郭。  ぼやけ、崩れる。  崩れていく端から、宙に展開される。  複雑にして奇怪な紋様が。  それは呪術方程式を構成している。    呪紋が、展開されて薄れていって。  もう、戻らない。  元通りには、ならない。 「くくって……いられ……な……い」  シラギク・Aであった頃の肉体は、『封印』のために費やして喪った。  その替わりに、〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》瑛として得た肉体は、駅の情報連結網と呪式を利して編み上げたもの。よって瑛の肉体は、生身に近いがその根底は異なる。その肉体の根源は呪術方程式である。    その肉体を為す呪式が。  今、〈解〉《ほぐ》れて───喪われていく。 「なんぞこれ」 「ボクの身体は……呪式で……つくったもので……」 「アンタに……むちゃくちゃされて……維持が、もう、できなく……」 「……なんとまあ。器用な真似を」  最早崩壊を留める術は無い。  ただ一時、ほんの一時の快楽に流されてしまった瑛。  一時の快楽に全てを食い尽くされて、世界から消滅しようとしている瑛。  軽率だと、愚かだと、たかだか肉の交わりの快味で長き生と色々の約束を手放すのかと、責めるのはたやすい。  けれどあの絶後の快楽に、瑛ならずとも、誰が逆らい得ただろう。  余りにも哀しく、儚い、人間という生き物の弱さ脆さの象徴する、瑛の最期の情景にゴドーは。それをもたらした航宙士は。    眼を怪訝と細めていた。  眉を不審に〈撓〉《たわ》めていた。  口を呆れたように半開きであった。    去り逝く者への〈哀惜〉《あいせき》も、崩壊をもたらした事への罪悪感も、完全に見当たらない、これ以上ないくらいの〈物怪顔〉《もっけがお》であった。 「〈R.I.P〉《レスト・イン・ピース》……さよなら、ボクが好きだった、みんな───」  瑛はこれまでの生の中、出逢ってそして心を通わせてきた人たちを想う。最期に、想う。けして沢山はいなかったけれど、その人達の面影を想いながら逝けるなら、この最期もどうにか受け入れられるだろう。    瑛の前を横切っていく人たち。  トゥアン───ヒプノマリア───ゼルダクララ───他にも。  そして最後にゴドー。  最後の顔がどうにも余計で、瑛はあっち行けと念じたが消えやらず、またこの上ない〈物怪顔〉《もっけがお》をしていて、それがにやにや笑いに変じていって、チェシャ猫ならやがて消えるだろうにやっぱりゴドーは消えないしつこい、にやけ笑いに、せっかく静かな〈諦念〉《ていねん》に逝こうとしていた心に、要らぬむかっ腹を呼び覚ます。  そんな乱れた心で逝っては、人に仇なす悪霊として未来永劫大地上を〈彷徨〉《さまよ》う事になろうぞ、瑛よ……。  まあ、もとより瑛は妖怪のようなものであり、妖怪が悪霊に宗旨替えしたところで大差なかろうが。  そもそもゴドーも、呪式の妖怪だろうが悪霊だろうがこの程度のセックスで瑛を手放すつもりは、〈極微〉《ごくみ》一粒ほどもなかったのだ。  瑛の身体から離れるに際し、じゅっぽんとか何やら便所掃除の吸盤用具が外れる時に似通った音が立ったのは、二人の性器の結合がようやく解かれたためである。ゴドーの膣孔からは瑛の精液の戻りが細い一筋しか垂れていなかったのは、あれだけ盛大に噴出したそれを、胎内にほとんど呑み尽くして逃さないように溜めこんでいたからである。  肉交前に弾け飛んだゴドーのジッパースーツが、投げ出された片隅から飛来して航宙士の官能に艶めいた肉体に着装され、覆う。 「はっはっは、させるて思ってか。  ちゅぴっ」  立ち上がり、がっと掌を合わせて握り、両手の人差し指と中指をそれぞれ揃えて四本立てて、長い舌を絡めてたっぷり唾を〈塗〉《まぶ》すうち、ゴドーの足元から、〈大黒天女〉《カーリ・マー》の血の歓喜の如き強烈な気が螺旋を描いて、金の髪を巻きあげながら噴出する。  立てた四本指、瑛に向けるや、一切の躊躇いや迷い無く、ゴドーは。  関節の可動限界をどう考えても越えた〈捻〉《ひね》りを何回転も加えながら、指先を。  〈撃〉《ぶ》ちこんだのである。  それはもう、目を覆って逃げ出してしまいたくなる勢いで。                   瑛の、肛門に。                ───これより先は、聞くも無惨見るも無残嗅ぐも無慚。  最小限の描写に留め、情景にも暗幕を下ろして精神衛生のための〈帷〉《とばり》としたい。 「ぎひ!!」  瑛が〈啼〉《な》く。  余りに余りの辛酸痛苦に。  その顔が鼻梁を中心に変形する。  獣の鼻面だ。 「ぎ、ぎ、ぎぎぎぎ、ぎぃ……」  〈軋〉《きし》り上げるは獣の声。  肘近くまでめりこんでいる。  両腕、ともだ。 「ここか? 命の要の尻子玉」  中で動かす好き放題。  探り当てた時に、会心の笑顔。  しっかり掴む。  瑛の存在の根源核。  素手で、だ。 「あい、あい、あひ───」  命の核を鷲掴みにされて。  そんなモノが存在しているなど。  瑛自身露知らぬ。  というより───  実在しているのか、そんなもの。 「あひゅーーーぅぅぅうううーーるーーーいいぃぃぃ〜〜〜〜ッッッ」  硬質な刃物が、蒼い月光の中をどこまでも昇っていくような、そんな哀切で、なのに美しい音色だった。 「こっちを、こう、で、あっちをこうして、と───セックスでイくのとは違うのだ、そう簡単に逝かせてやると思うなや……?」  びくん、びくんと痙攣する身体。  を力任せに押さえつけ。  臀の孔に。おいどに、いさらいに。  腕を突きこみ、掻き回し。  そうやってゴドーは。あろうことか。  〈解〉《ほぐ》れかけていった瑛の呪式を───  繋ぎとめたのだった。  ───素手で。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  夜や夜、深々と更けゆく夜はまだ続く。  身体を〈蹂躙〉《じゅうりん》され、精を奪われ、女の象徴器官を〈弄〉《もてあそ》ばれ、その上危うくくたばりかかるという、深刻な喜劇なのだか軽妙な悲劇なのだか判別しかねる事態にさめざめ〈啜〉《すす》り泣く瑛を覆い隠しつ、夜は更けゆく。  ただし夜の女神は別け隔てなく、全ての喜劇悲劇をその闇の衣の〈裡〉《うち》に隠すが、実のところ覆い隠してからは〈後世話〉《あとぜわ》は焼かない。 「酷い……ひでぇよ、こんな……ボク、〈強姦〉《レイプ》……されちゃった……うぅ」  夜も誰も面倒を見てくれないなら、瑛は涙を自分で〈拭〉《ふ》くしかない。でろでろに口元を汚す〈洟汁〉《はなじる》も。ただ適当な花紙が手元になくってきょろきょろしていると、脇から紐付きの綿球が差し出されたので、鼻に詰めて塞ごうとして、寄越したのがゴドーだと覚って腹立ちの余り床に叩きつけた。鈍く跳ねながら、航宙艇内の暗がりに転がっていく綿球を〈睨〉《にら》みつけながら、 「それに、崩れかかった呪式、素手で編み直すとか、どんだけ非常識なんだよアンタ……」  時代を越えた生の中、ここまでの恥辱と被害を被った経験というのはそうはなく、しんねり〈睨〉《にら》む瑛の双眸には無限の〈怨嗟〉《えんさ》が籠もって、気の弱い者なら不妊症にかかりそう。  そんな〈怨毒〉《えんどく》の視線を受けて、航宙士ゴドーは流動する水銀の滑らかさと速さで瑛に飛びかかった。瑛が身構える間もない凄まじき速度で、浮浪児の顎先からまだ滴り落ちている涙を、何時拾い上げたのか先ほどの綿球に吸わせる。  てっきり逆上したゴドーに突き倒されて、よくてまた騎乗位で犯されるか、さもなくば正常位でがっちりと拘束され、肋骨が全損するくらいに犯されるかと、顔面チックを発症しそうだった瑛には意味不明の行動だったが。 「やあ、今夜はえれえ運がよかったな。酒呑んでセックスして。げふ。ごっそーさん」  航宙艇の風防が震撼しそうなくらいのとんでもないおくびをならしてゴドーは、何やらごそごそかき混ぜ造り始めたのは酒、情痴の後の水分補給か〈回生〉《きつけ》のつもりらしい。    ちなみにそのレシピとは。 一・オールド・ジャンクススピリットからエキスを抽出します。 二・サントラギヌス第五惑星の海水を一カップ注ぎます。 三・アルクトゥルスの「アルクトゥラン・メガ・ジン」の凍結したままのものを三つ。 四・ファリアの湖沼地帯の〈瘴気〉《しょうき》を四リットル、充分に泡立つように溶かします。 五・「クァラクティン・超〈薄荷〉《ハッカ》エキス」を一目盛り、銀のスプーンの背中に浮かべます。興奮性で霊妙なる甘い香りのものを選んでください。 六・アルゴルの太陽虎の牙を一本、ほうりこみ、アルゴル連星の熱い火がカクテルの奥底に広がるように、充分溶けるまで待ちます。七・ザンファーを振りかけて、オリーブを一個。  ……とここまでが、この酒の標準的なレシピなのだが、ゴドーは最後の一手間に、綿球に吸い取った瑛の涙を絞り出して、〈香り付け〉《フレーバー》とした。  この酒は航宙士や宇宙を往く者の間で、手軽に〈檸檬〉《レモン》一切れで脳髄をブン殴られたような気分になりたい時に最適として好まれている。ちなみにその〈檸檬〉《レモン》というのは、どでかく重い金塊をぐるりと包んでいるのだが。  最後に〈搾〉《しぼ》った涙は、金塊包んだ〈檸檬〉《レモン》でぶん殴られたような絶妙の酔い心地に加え、瑛との情戯をまざまざと追想させてくれるだろう。  ピッチャーに作って腰に手を当て大〈呷〉《あお》りしているを鑑みるに瑛は、航宙艇に籠もってこの酒でへべれけになっていてくれれば、少なくとも自分がああも辛く哀しい憂き目を見なくて済んだのではないかと、渇きかけていた涙がまた湧いて視界を曇らせる。  幾つかの復讐手段が浮かんだが、結局は自分がまた犯される最後しか想像できなかったので、 「死んじまえ、この小便女……」  瑛は捨て台詞残して今度こそ、と艇から飛び出そう、とするのだが腰と膝が骨を抜き去られたかに頼りなく、身体ががくんと流れて、慌てて〈主操縦席〉《メインコクピット》の背もたれに〈縋〉《すが》りつく。  構う事か、這って出たって良い、とにかくゴドーから遠ざかるのだ、と歯を食いしばる瑛の気が、ふっと横に逸れた。  始めは瑛自身その理由がわからず、あたりを不審そうに見回し、の数度頭を左右させて気づく。  先程から視界の端で、明滅する光がある。闇の果てに光る燈火のように、あるいは旅人の道標となる星のようにかそけく、けれど確かに光っている。  〈主操縦席〉《メインコクピット》が向かう、〈制御盤〉《コンソール》の片隅で。  先程からずっと視界の端に入っていたけれど、瑛はずっと、艇の待機状態を告げる計器の灯りだろう、程度にしか想っていなかったのだけれど。  それは黄金の〈銘板〉《プレート》。簡素にして潔い美を漂わせる。これは識別〈銘板〉《プレート》、それも瑛が知る限り最も確実で信頼性の置ける呪式〈銘板〉《プレート》だ。  彫り込まれた字も簡易平明な字体で、さっと目を滑らせただけで読み取れる、読み取って、瑛はまた読んだ。  何度も読み直した。  始めは遠い記憶、読み直すにつれ巨大な意味を持って浮上してきて、最後に瑛はへたりこんだ。  激烈苛酷な情痴とは異なる驚愕が、瑛の身体の芯を柔らかな烏賊の骨に替えていた。 「なんで、ここに、『ゴドー・トルクエタム』の〈銘板〉《プレート》が……」  ゴドー・トルクエタム。  瑛がシラギクだった時代より、更に過去の航宙士。それも伝説と称される人物、その名。  なんとも素敵な冗談か、さもなくば性急な勘違いか、そのどちらかであって欲しいと瑛は知る限りの諸神諸精に祈ろうとして、自分がその手の〈眷属〉《けんぞく》を拝む習慣がない事を思い出し、仕方なくお空に祈った。瑛はゴドーがその空から降りてきた事に気づいているのかどうか。  そこへゴドーがひょこと出て。 「なんでもなにも。当たり前だろ、アタシがそのゴドーなんだから」  まだ自分はカミサマだ、と〈宣〉《のたも》うてくれた方が信じられるだろう───  が、ゴドーが寄るに従い〈銘板〉《プレート》の光が強まる、優しく暖かく。  この識別〈銘板〉《プレート》、かつて中央の厳重な管理下の元で製作されており、というのも製作の過程である強力な呪術方程式を用るからだが、最後に名を刻み、本人の生体反応を登録させる。そして以降は不可侵となり名を刻み直す事も登録の変更も不可能となる。  登録された本人が〈銘板〉《プレート》と共にある時の色は黄金、輝きを放つ。周囲にいない場合は鉛色に曇って非活性化するという性質を有する。  シラギクであった時代から見ても過去の、強力な呪式と高度な技術の複合で、恐らく現在の大地上ではこの形式の〈銘板〉《プレート》、ほとんど残ってはおるまい。    よってこの〈銘板〉《プレート》、確実無比な本人証明といえる。 「だって、ゴドーっつったら、もう遙か昔の航宙士で!」 「宇宙の果てに消えたって。その船団は、誰も還って来なかったって聞いてる」  集ってきた〈虱〉《シラミ》を砂の中に転がり回って追い散らそうとする猪のように躍起となり、瑛はとにかく否定しようとした。  するとゴドーは、くにゃくにゃと全身の関節を出鱈目に稼動させるという、なにかの病気の発作なのだか舞踏なのだか、〈檸檬〉《レモン》で脳髄をぶん殴られたような奇怪な動きで艇から出る、と、〈銘板〉《プレート》は鉛と化して沈黙し、 「ところがアタシは還ってきたんだな」  ゴドーがまた、金塊を包んだ〈檸檬〉《レモン》で脳髄をぶん殴られたようなくねくね踊りで戻ってくると、喜ばしげに黄金色の輝き取り戻し。    ……瑛の中で、シラギクの時代の記憶は曖昧で、強く残っているものは少なく、例えば双子との記憶であるとか。そして、伝説の航宙士ゴドー・トルクエタムへの憧れも、その一つ。  ───〈才媛〉《さいえん》であった、と伝えられている。  大地上の航宙史、その手探りの〈開闢〉《かいびゃく》初期にあって、同時代の全ての航宙士を牽引し、後から来たる者にはその伝説の域に何時かは辿り着かんと〈渇望〉《かつぼう》させる、まさに天空の〈暁星〉《ぎょうせい》の如き指標となった、とも。    あの遠い過去、当時は地下研究施設であった大広間で、見上げていた大肖像画、そこに描き出されていた、華麗で、智慧深く、峻烈な女航宙士の姿は、今でもまざまざと瑛の〈脳裡〉《のうり》に蘇る。  で、現在のゴドーを見た。片手に瑛の涙が沁みた紐付き綿球を持って、未練がましくちゅーちゅー〈啜〉《すす》り、もう片手には先ほど酒の具材にした太陽虎の牙の欠片を持ち、せっせと歯間のゴミをせせりだしては、ぴんぴん指先で弾き飛ばしていた。    想い出の中の大肖像画に、まずは横一文字に亀裂が走り、その後縦一文字にまたひび割れて、十字の亀裂をぶち破って粉々に、完膚無きまでに打ち砕いて飛び出してきた、瑛が出逢って犯されたゴドーは、何故か全裸で踏ん反り返っていた。    ───瑛があそこまで非道い目に遭わされたのが今晩が初めてなら、ここまで情けない幻滅を味わったのもやはりこの夜が初めてである。 「えー……。才媛だった、って。後の航宙士にでけぇ影響を与えたって……。それが、こんな?」 (ボクだって、憧れの人だったのに……) 「人の評判なんざ知るけぇな。アタシはこれがアタシだもの」 「ところでさ、誰か適当な奴つかまえて訊こうって思ってたんだけど、アタシを知ってる奴なら心当たりもあるだろ」  瑛の幻滅にはこれっぽっちも〈拘泥〉《こうでい》せず、ゴドーがぐいと顔を寄せれば、浮浪児が知る全ての酒とは全く異質の匂いが薫る。 「アンタ、ユキタダ・Cって名前に聞き覚えはないかい? そいつの墓とか祈念碑とか知んない?」 「もし知ってたとしても、あそこまでされたボクが、素直に教えるって思えるなら、アンタの脳味噌は宇宙線でぐずぐずに腐ってるに違いない」 「ありゃ? なぁんだ」 「あれだけじゃ足りなかったか。言えよもう、早くそういうことは。アタシはまだまだOKなんだからさ」  ゴドーは、瑛の遠い憧憬の対象であった伝説の航宙士は、するりと〈柔媚〉《じゅうび》な身のこなしで瑛の脇に寄り添い、 「ほら、ベッド……行こ? それともここでスる?」  オーバーオールの脇から手を差し入れてきて、振り払う間もなく両性具有者の陰茎と秘裂を一緒に掌を被せてきたものだから。  瑛、それは美事に飛び退き、それは流麗な動作で土下座して〈赦〉《ゆる》しを乞うた事である。  あれだけの事をされても、服の〈裡側〉《うちがわ》に入りこんできたゴドーの手は、とても、うっとりするくらい心地好くて、それが恐ろしかった。 「すんませんっ、ほんっとーすんませんっ! 調子こいてました。教える……いや教えさせて下さいっ」 「……でもアンタ、運がよかったって思うよ。あの場所、今じゃ知ってる奴なんてほとんどいない」 「なんしろ、今はビルの下に埋まってるし」 「……………………あ?」  その時のゴドーが浮かべた眼光は、瑛を容易く失禁させてしまうくらいだったとか。                      ───四───  ───瑛が、その時連想していたのは。  樽の中に詰めこまれて激流に放り出された子豚とか。あるいは制動機をぶっ壊されて加速器をべた絞りに固定されて加速し続けるのみの暴走列車とか、そんなもの。  そして多分、現状はそんな生暖かい危地ではないだろうと、瑛は艇内と操縦者と外の景色を眺めて、絶望とがっしり握手して固い抱擁を交わし、今夜どこに繰り出すかの相談に耽った。絶望殿くらいしか、今の瑛の相手をしてくれる者はいなさそう。  瑛が今いるそこ、ゴドーの航宙艇『〈黴毒〉《ポックス》』号内部は、昨夜とはすっかり様変わりしていた。あの、廃材工場で解体を待つばかりの〈艇〉《ふね》の方がよほど増しとまで見えた艇内は、模様替えしたわけでもないのに今や活力に満ちあふれ、頼もしい駆動音に包まれ、夜目にもくすんでいた風防ガラスなど金剛石の一枚板のように澄み切って不可侵の力強さ湛えてある。  まるで、主操縦席に収まったゴドーの精気が艇と通じ合い、循環しているかのようで、瑛にはこの航宙艇がゴドーと一対の、半ば生命体であるかのようにも。恐らくそれは正しい推察なのだろう。元気な黴毒という概念は相当に〈厭〉《いや》な代物ではある。  事実その黴毒は、早速に駅を侵していたのだった。  風防からの景色の中で、そのビル、頑丈なだけが取り柄そうな、鈍重で鬱陶しいなりの建築物は、屋上の角の一つが航宙艇からの砲撃に吹き飛ばされ、その一撃では死傷者は出ずに済んだ様子だが、内部での阿鼻叫喚と右往左往大混乱の情景が瑛の胸を〈刺草〉《イラクサ》の葉で擦るような焦燥感で満たす。  ゴドーはその砲撃の〈恫喝〉《どうかつ》に加え、〈制御盤〉《コンソール》の機器を操作し、放ったのは不可聴域の音波、ビルのある一画の隅々にまで浸透するかの。その音波、かつて『移動舞台暴走事件』に際し、大高架列車内部の作業要員達が周辺住民の強制退避に用いたのと同じ効果を有していたと見え、一画からは人、鳥、犬猫、鼠、その他諸々の生き物が一散していって、上空からは分子の移動のよう。 「よし。あのうんこビルの生態反紋は消えたなあぁ……」  まだ人殺しの悪党の方が付き合いやすいのではないかと疑わしくなるほど悪辣な顔で〈嘯〉《うそぶ》くゴドーに、瑛は勇を鼓して食ってかかって、確かに一帯からは生き物の気配、失せたと見えるが問題はそこではなかろう。 「なに考えてるんだ、航宙艇、こんな地上すれすれ低高度で飛ばして!」  後ついでに、自分をこんな事に巻きこんで、という非難もあったが、そんな言葉なぞゴドーは勃起不全の陰茎並みに歯牙にもかけないであろうと判りきっていた。瑛にもそのビルの位置を教えてしまったのは自分だという負い目がある。  昨夜それでも瑛は、懸命に脱出の機会を狙っていたのだけれど、いっかな眠らず妖しげな酒を〈啜〉《すす》り続けるゴドーに痺れを切らし、ついうとうと、してはっと顔を起こせば航宙艇は駆動系の息吹に震えており、風防には今にも衝突せんと迫る駅の積層建築!  ゴドーは無造作に操縦桿を押してその隙間を飛び抜けたが、少なくとも窓ガラスと洗濯物と季節外れで主不在の渡り鳥の巣が三つは犠牲になったはず。  瑛は、操縦席の後ろで戦慄ばかりしているより、いっそゴドーに飛びかかってでもこの暴挙を止めるべきかと、それは真剣に検討を重ね、そしてたとえその結果、航宙士が操縦を誤り、地面に衝突して諸共に爆発炎上してでも、という悲愴な決意に至った。  そんな瑛の覚悟を噛み裂いたのは。 「友達……だったんだ。アタシの。アタシに、願いを背負わせた」 「そいつが、こんな糞ビルの下敷きだと?」  瑛を幸せそうに貪り、美味しそうにしゃぶり尽くした寝台での顔、悦楽主義者の相をかなぐり捨てて、破壊者としての顔を露わにして、目を〈背〉《そむ》けたくなるほど荒んで、凄惨な顔だった。まだ昨夜のセックスに狂乱しているときの方が増しだったのでは、と瑛をして深く悩ませるほどに。  いかなる因縁があるや知らず、瑛が鮫の〈顎〉《あぎと》を覗きこんでしまった心地に〈居竦〉《いすく》んだ、その隙間を縫ってゴドーは、操縦桿の〈釦〉《ボタン》を弾くと、制御盤の一部が変形して展開されたるは照準機ではないか。  その物々しいこと、照準機からしてそれならば、先ほどビルの一部を吹き飛ばした砲なぞ蝉の小便噴射程度なのではと心臓の動悸速めるくらいで、ならば今ゴドーが撃ち放とうしている砲の威力は一体どれほどのものか。    ゴドーは照準機にはろくに目もくれていない様子だったが、その眼光自体が照準光線と化して件のビルへと突き刺さり─── 「おい待てよ! アンタまさか───」 「許しておけるものかよ───」  二人の声の下で、発射〈釦〉《ボタン》を引き絞る音が、音が、鳴ってしまい。  瞬間、風防の色が濃くなって閃光を弱めたあたり、ゴドーの航宙艇様の至れり尽くせりというところだが、それでも二人の顔に悪魔めいた〈陰翳〉《いんえい》を落としてしまうほど、激烈な光の爆発が生じた。  轟音はむしろ、砲声そのものより、一帯の崩壊音の方が圧していた。 「やりやがった……やっちまったよこの人」  瑛がそのビルを、正確にはその下に埋め立てられた場所を、ゴドー〈所縁〉《ゆかり》の地と心得ていた訳は。  恐らく現在の駅で知るのは、三人より上はそうはおるまい。その三人とは、瑛とそして銀髪の双子、即ちそのビルは、過去においては精霊の社であって、シラギクと双子との別れの地であったが故に。  宇宙港機能復活にあたり、その地が有していた機能は統廃合され、地所は民間に払い下げられた。その後、その地が潰されたと〈仄聞〉《そくぶん》した時には、瑛の胸中を少なからず〈寂寥〉《せきりょう》がよぎったものだし、後に建てられたビルも、零細出版社の仮面を被った邪教崇拝集団の所有になるらしいと知ってから〈暫〉《しばら》くは、どう報復してやったものか、双子のところに相談にまで参じたものである。 (双子は瑛をただ『慰めた』だけで、報復までは推奨しなかった為沙汰止みになったが)  だから、実は───  そう言う曰くのビルが破壊されたことには、妙な爽快感らしきものが瑛の身体を吹き抜けていったりしていたのだけれど。 「あのビルどころか、あたり一面が……サラッピンに……っ」 「ちょっとテンションが上がりすぎたなー。出力の調整、間違えちった」 「間違えちった、じゃねえや……アンタほんとにあのゴドーなのかよ……」  それでも〈身裡〉《みうち》を涼やかにしていった風を認めては、このゴドーに瑛が知る伝説の航宙士が敗北してしまうに思われてならず、噛みついてみても、当の航宙士様は全ての良識をせせら笑う、悪い顔、としか言いようがない表情で、 「アタシゃゴドーだよ。それ以外の誰でもあるもんかい」 「すげえゴドー様だよな。あの分だと、アンタの友達の墓も吹っ飛んでるだろ」  爆心は、隕石が直撃したかに〈擂〉《す》り〈鉢〉《ばち》に〈抉〉《えぐ》られていて、地形だけなら遠い過去の森の窪地を〈彷彿〉《ほうふつ》とさせたが、あちらは緑繁れる場所、こちらは色とりどりではあるが瓦礫の堆積と、まさしく生と死ほどの差があった。  これほどの威力の砲を放って、よくこの外殻継ぎ接ぎだらけの艇が反動で空中分解しなかったものだと今にして恐ろしくなる。  更に瑛は、撃砲の瞬間、呪式の発動も感知してあり、この艇には通常兵器のみならず呪式兵装まで搭載されていた事にも〈愕然唖然〉《がくぜんあぜん》の、その種の兵装を具える〈艇〉《フネ》など、封印時代以前でもよほどの格の物しかなかったし、ましてやこの時代においてをや。 「場所が判れば良かったから、あとは墓があろうが無かろうが、別にどうでもよかったんだよね」 「だったら、ここまでぶっ壊さなくてもいいじゃねーかよう……」  やる事為す事限度を越えて破壊的なこの航宙士を、本当の本当に本物なのではないかと瑛が考え始めたのは、このあたりからである。  その方向性はどうあれ、このゴドーの心性は確かに通常の枠をぶち破っており、一種の超人である事は間違いなさそうだったから。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  爆心は、広大な駅の中では潰れた〈面皰〉《にきび》の跡程度の窪みにしか過ぎないのかも知れないが、その中にいざ降りてみると、瑛にはこの世の果てに立ったかの〈荒涼寂寞〉《こうりょうせきばく》とした眺めに想われ、なんとのうブルゾンの前をかき合わせた。  航宙艇の火砲に薙ぎ払われた、件の雑居ビルを中心とした建物達は色とりどりの細かな瓦礫と化し、爆心はそこらここらから白煙の筋、細く立ちのぼり漂っていて、焼きたての粉菓子を連想させなくもなく、ゴドーの酒臭い唾液以外は昨夜の荒淫以来まともな飯にありついていない瑛は一瞬空腹を催しては、慌てて振り払う。  ここにあったビルは瑛のシラギク時代の想い出の地を潰して建てられた建築物であり、前妻の子を踏みつけにする後妻が、仏罰も受けず踏ん反り返っているにも似た事態については、〈些〉《いささ》か〈首肯〉《しゅこう》いたしかねる想いがあったものの、こうも〈暴戻〉《ぼうれい》に消し飛ばされるとなると話は別の、たといビルが邪教徒の隠し祭儀場だったとしても。  時々のねぐらはあっても定まった家を持たず、路上を巣とする瑛にしてみれば駅の全土が自分の庭……などと吹聴するつもりは、流石にない。それでも長い時代を駅で過ごしてきた瑛には愛執の想いがあって、一部とはいえそこを破壊しくさったゴドーには、〈然〉《しか》るべき報いをくれてやらねばと誓った。  とりあえずその手付けとして、瑛はくるりと背を向け全力疾走で爆心の内壁を駆け上がった。  これは逃走ではない。瑛が何か航宙士を責める類の事を試みたところで、彼女はそれさえ桃色遊戯の一環かなにかと捉えて、嬉々としておいでおいでと手招きしそうな節がある。  そういう根腐れ物は、相手をせず放置するのがもっとも堪えるだろうと踏んだのだ。  ……あながち判断としては間違っていない。    ただ。爆心の中心に降着させた航宙艇から瑛が距離を開けていくにつれ。  ばしゅう、と。  耳当て帽から白煙が噴き出したのには、仰天して瑛は足元踏み外して爆心の斜面に突っ込んで痛い。 「うぃ!?」  何事と帽子を取って〈検〉《あらた》めれば、裏地に縫いつけられた薄い基盤の、いつの間にか。  中央に表示窓があって、十、と数字が浮き出たる。見る間に九、八、七、と数字が下っていき、その間も噴き出し続ける白煙の、次第に勢い増して、不穏で剣呑な気配も共に撒き散らした。  このまま数字が〈零〉《ゼロ》まで数えきってしまったらどうなるのか、瑛はとんでもなく不吉な予感に駆られ、裏地から基盤を引きちぎろうとしたが果たせず。そんな汚れて古ぼけて擦り切れかかった帽子など、諦めて投げ捨てるなり置いていくなりすればいいのでは、と思われるのだけれども、瑛にとっては多くの想い出が詰まった〈記念碑〉《トロフィー》でもある。  この帽子の中に一杯になるまで硬貨や紙幣を受けた事もあれば、駅の通りを素っ裸で歩いた時にはこれで局部を隠したものである。  〈執着〉《しゅうじゃく》は人の過ちの〈基〉《もとい》、などしたり顔で諭す坊主がこの場にもしいたなら、そやつの〈禿頭〉《はげあたま》の後頭部に超絶美人の誘惑の微笑を刺青し、経を読んでいる間でも背後の信心者達の淫心かきたてるようにしてくれる、などと思案の間にも数字は減っていってはや五を数えた。  瑛は仕方なく詮方なくくるりと向き直って爆心の航宙艇へ、ゴドーの下へと駆け戻るしかなかったのだけれど、果たして間に合うか。  いやどうにか間に合った、数字は二を残していた、のに、数えるのは止まらず、瑛は地団駄を踏んで泣く泣く帽子を出来るだけ遠くに投げ捨てたら。  宙空で軽快な音にぽんと弾けた、音だけで帽子は無事だった、ものの。  次の瞬間、黒くて小さくて足が沢山生えた虫のようで虫ではない何かが、帽子の中から、一杯、沢山、とても沢山、滝と溢れだし、爆心の地面に零れて四方八方へ瞬く間にざざざと散っていって消えた。  瑛はぞぞぞと総身の肌に粟粒で、あのまま帽子を意地でも手元に置いていたとしても、零になった瞬間爆発して諸共に吹き飛ぶとか、骨まで溶かす毒液が噴き出して〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》瑛が溶解人間瑛に屋号を改めたり、といった憂き目にはならなかったようだが、それでも相当に愉快な事になったと思われる。  全身を黒くて小さくて足が沢山生えたゴドー〈蟲〉《ちゅう》(瑛命名)にびっしり集られる、というのは余り気色の良い体験ではあるまい。  何時の間にかは知らぬ、なんとも素敵な悪戯を仕掛けておいてくれたものだが、瑛にはそれが、悪戯どころか、逃走への警告としか考えられなかった。  一度目はむいむいで済ませるが、二度目はさてどうなるか、とのゴドーのにたにた笑いが透けて見えた。  瑛は憮然と帽子を拾い上げ、表に裏と返してゴドー蟲が一匹も残っていないのをよくよく確認してから、帽子を被り直して航宙艇を見やれば、ゴドーが黒々した物体を担ぎ出しているところ。  見たところ黒石の円錐であり、大きくて、重そうで、瑛など担ごうとてもそもそも手が回らないだろうそれを、ゴドーは頭を傾け、肩と首で支えて悠々と。  重荷担いだ様は、古代の苦役奴隷と見えなくも……なんの、ゴドーの場合はなにしろ、    筋肉はゴリラ!  牙はゴリラ!  荷担ぎ上手なお利口ゴリラ!    であり、仕留めた獲物の首級を掲げてうっほうっほと見せびらかす未開部族の狩人と評した方がよほど近い。  ゴドーは爆心の中心点までその黒石の円錐を運ぶと、どんと下ろして手をぱんぱん払って、彼女の腰まで届こうかというそれを見下ろし、ふんと鼻を鳴らして、横顔に溜めた表情は、どこかふて腐れたような、なのに懐かしむような、奇妙な色合いの。  ゴドーの暴虐は暴虐として、好奇心を刺激され、寄っていって見下ろせば、推量していたような、特に宇宙を思わせる要素はなく、磨かれて深い艶を見せてはいたが、変哲のない〈碑〉《いしぶみ》でしかないような。  ただ、円錐の中ほどに単純にして力強い呪紋が彫り込まれており、術者の目で凝視すれば、低く静かに籠もる態ではあったが、呪力が、極めて強い呪力が感じられた。 「それ、なんなの? 友達って人への、供え物かなんかか?」 「まあそんなとこかねえ。これが、アイツがアタシに取りにいかせたものさ。深宇宙のど真ん中までな」  ブーツの先でこんこんやりながら、やれやれ、といかにも大儀そうに首の骨を鳴らしたゴドーの、いかにも作った仕草と見えて、実はそれが彼女の真情なのでは、と瑛には何故かそう映った。  深い詮索は避けて、円錐の碑にそっと触れれば、御影石のような手触りと、最前から感じている呪力の気配が指先に応える。 「にしては、これ、大地上のそこら辺にある石ッころと変わりないような」 「ただ、なんか呪力を……それに相当強い……呪力を発しているみたいだけど、意味自体は凄い単純なものみたいな」 「だろうね。だってこれ、『ここが、ここです』って信号を出してるだけだもの」  言われて瑛も得心の、それは、呪術言語以前に、全ての言語、いや、〈有情〉《うじょう》の発する全ての声の意味の基本と言えた。 ───自分はここにある、ここにいる───  この黒い碑は、爆心の中心でただそれだけを外界に向かって告げていたのである。心臓の鼓動、鳴り響かせるように。  恐らくその呪波は、この大陸のみならず、山河大海を越えて、大地上の相当遠距離にまで到達するのではなかろうか。 「でも、これでここが、今日この時から、大地上の中心だ」  ───この大地上は平面的に、文字通り無限に広がっている。  そういった世界において中心という概念は意味がない。地図的には霊峰や古都など、位置指標となる幾つかの地点や地域が記されてはいるが、それらは相対的なもの。例えば『中央』と駅や各省で呼ばれているのは、大地上内のこの大陸で最も栄え、各省の為政の全統括政府が置かれている都ということであり、別に大地上全体の中央地というわけではない。  いずれにしても大地上では中心、ど真ん中の位置など定めるなどは不可能という事。それは地球といった惑星、一つの球状世界でも同じであろうが、なのにゴドーはこの駅の、この爆心を大地上の中心地点なのだと断言の、今日からそうなるのだ、と。  いきなり人の言語であらぬ妄言を語り出して、余の言葉こそが真理なり、と宣言するペリカンあたりと遭遇したかの面持ちで首を傾げる瑛に、ゴドーは平然と、 「言った通りの意味さね。ここが、大地上のど真ん中になったって事さ」 「アタシは、宇宙の果てまでは極められなかったが、その中心は見つけてきた」  白煙はたなびき、爆心の縁を越えて遠くから、〈警笛〉《サイレン》の潮騒が響いて、からん、からんと空きっ腹の乞食がお恵みの当ても無い歪んだ〈空〉《から》の皿を、匙で侘びしく叩くような音立てて、爆心の斜面の小石が転げていく中で。  瑛は、話の真偽を弁別するための、強力な術を行使した。指に唾して眉に〈擦〉《なす》りつけたのである。  そして強く目を閉じ、闇に己を閉じこめておいて、最初に目に映る物から卦を読むように、ゴドーの双眸を覗きこんで瑛は、不意に無限の虚空に放り出されている自分を知った。  そこは、〈燦〉《きら》めき〈燦々〉《さんざ》めく、無数の星々のただなか。大彗星が尾を太陽風に引きちぎられながら〈闇淵〉《やみわだ》を旅する。恒星が白炎を暗黒の虚空に焼き着けて超新星と終わる。重力の偏向が星団の姿を妖しく歪める。銀河が旋回し、数百、数千と寄り集まり銀河団を為し、それらが更に〈集〉《つど》い超銀河団を作り、これらの超大規模構造には上限がないかのように、極大の視座で眺めれば、超銀河団もまた集合して平面状の壁を為し───  宇宙の中では〈極微〉《ごくみ》の粒たる瑛が、〈梵〉《ブラフマン》にまで拡大して得た宇宙観のその壮麗、を遙かに凌駕する無辺の絢爛。  なり損ないの航宙士であり、駅と同一化した呪式の化身である瑛には、辿り着く事、目の当たりにする事の叶わぬ、遙けき遠い世界を、ゴドーの双眸の中に見出して、無限の時間の中に拡散してあった。  瑛の意識が、その小さな輪郭の中に帰還せられたのは、ゴドーがぱかりと素っ気なく、目に嵌めこんでいたコンタクト・レンズを外したからである。表面に星空模様を浮かせた小さなレンズであった。  それを親指で弾いて宙にある間に掌に掴み、平然とジッパースーツの股間の〈裡〉《うち》にしまいこんだのには瑛、自分がよくも殴りかからなかったものだと、後からしみじみ思い返したという。  どこからどこまでが虚で実なのか、瑛に無駄な気疲れを強いておきながらゴドー自身は、極大宇宙の幻視も話の断絶などまるでなかったかのように、淡々と言葉を継いだ。  それでも、瑛が知る限りにゴドーとしては、幾らか神妙な声音と面持ちではあったが。 「その発信器は、そこからの精確な座標を示す。だから、ここが今日から、大地上の中心になる」 「それ───物凄く物凄いことなんじゃ?」  瑛はゴドーの言葉をそのままに受け止めたのは、素直に信じた、ではもちろんなく、もういちいち真偽を疑うのも面倒になっていたからで。 「ったくユキタダの野郎、厄介な頼み事をしでかしよって……でも、それも果たしたし」  大地上に中心がないのなら、作ってしまえばいい。その中心として、駅の大宇宙の中心からの正確な座標を記した物体は、指標点としていかにも相応しかろう……ゴドーの友人だったというそのユキタダ某の、着想は、航宙士にとっては絆だったのだろうか。それとも何時しか妄執の呪鎖と化体してゴドーを絡めとっていなかったろうか。  どちらであっても、それがゴドーを過去の〈帷〉《とばり》の奥から、宇宙の彼方から駅に呼び戻したかと思えば、瑛は何やら頼りない心地に包まれた。  航宙士はそんな瑛の不安定な胸の〈裡〉《うち》など知らぬげに、空を拳で叩き落とさんばかりに思いきり、両手を突きあげ大きく伸びして、 「あとは、名乗りを上げておこうかい。  ゴドー・トルクエタム、  ここに帰還せり……って」  ───公安やら宙港警備隊やらの、駅の警備団体それぞれの機動部隊が、破壊活動発生の報を受けて緊急出動してきてみれば。  現場には報告通りの破砕孔が地獄の釜の蓋が開いたが如く。その中から直立態勢で浮上してきたる機影あり、どんな凶悪犯がどれだけの武装で駅に挑んできたか、との緊張を無惨に裏切って、飛んででたのが、大地上全ての航宙艇と航宙技術と鳥や他の飛行せるものへの卑猥な侮辱としか思えないくらいのオンボロ〈艇〉《ふね》。  これは破壊しないように拘束する方が骨ではないか、と機動部隊の誰もが戸惑った、その隙にオンボロ航宙艇から撃ち上げられたのに、すわ抵抗かと身構えたのだが、弾は弾でも信号筒の、三筋、その噴出煙は青藍、空色、そして緑。  機動部隊がその意味を解読するより先に、ゴドーの航宙艇は姿勢を水平、運行態勢に移行させた、次の瞬間にはかき消えていた。機動部隊が敷いていた包囲網などには〈洟〉《はな》も引っかけず。  その瞬間の消失を、この時代の駅ではまた再現のとば口にかかっただけで難航している慣性制御駆動の作動によるものと看破した者はごく僅かだった。信号筒の意味もまた然り。  後から瑛がゴドーから聞いた話によると、それぞれの信号筒が、 ・ゴドー・トルクエタム。 ・帰還せり。 ・積載貨物多数。  を意味しているとのことであったが、浮浪児が三筋の色煙から何より強く受けた印象というのは、挑戦と敵対の意志だったのだ。    オマエをこれから取って喰う、とでも言いたげな───                      ───五───  ……ゴドーの航宙艇が破砕孔から〈遁走〉《とんそう》する前に、どうにか採取していた各種記録が管理局の分析担当の部署にて検討された結果。  航宙艇から発せられていた呪式の波長が、資料槽の最奥で忘れ去られていた記録と一致する事が判明し、管理局全体が蜂の巣を突いて壊したら中から火炎龍が出現して周囲一面火の海に替えたが如き騒動と混乱が勃発した。  即ちあの航宙艇は、真実が古の船団の帰還者であるという事。  つまり、あの犯罪航宙士が発した宣言も、真実の可能性があるということ。  航宙士がゴドー・トルクエタムであるかどうかの照合はいまだしとしても、情報的価値が発生する事は否めない。  管理局内に臨時会議が開催され、ゴドー捕縛の方針が決定され、以降彼女は駅から追われる身となるのだが。大人しく追われるだけで満足するような女ではない事など、論を〈俟〉《ま》つまでもあるまい。  駅に地下の空間は各処にあって、この『河の下』もその一種と言ってしまえばそれまで。  むしろこの地下街の背骨を形作っているのは、恐らく駅の地上のなまじな建築物群よりも長い歴史を秘めた過去の遺構で、〈煉瓦〉《レンガ》造りを主とした建物達に、小分けされた灯りが群がっている風情などは多分に情緒的な眺め、とそれはあくまで皮相に留まる。  その名の由来ともなった、〈暗渠〉《あんきょ》の遠い水音が、頭上から絶え間なく垂れこめ、あちらこちらに病的な雫が滴り落ちては空気に冷たい湿気を散らす、この、〈澱〉《よど》んで堕落した影の版図よ。  何時の時代でも世の枠組みからはみ出す者は絶えず、それ故に無法者、食い詰め者、敗残者、物乞いの、中でもとびきりの外道達の一大〈坩堝〉《るつぼ》である『河の下』は、病巣として駅の地下運河のそのまた下に〈蔓延〉《はびこ》り続ける。  人の世は移り変わっても悪徳悪事の大元は変わらない、という〈喩〉《たと》え通り、この時代でも『河の下』の病んで〈糜爛〉《びらん》した〈相貌〉《そうぼう》は、いまだ浄めを知らずにいる。  しかし、〈澱〉《よど》んで停滞した世界にも、何時かは変化は訪れるもの。停滞の時間は積もれば積もっていた分だけ、揺り動かされるとなるとその勢いは増す。というか、その長きに渡る〈澱〉《よど》みを押し流すだけの威力があってこそ、変化は風と吹き渡る。  ……風、といえば涼やかで軽やかな、しかしこの時河の下に吹き荒れていたのは、そんな優しげなものではなかった。風は風でも、文明を破壊する魔の〈顕現〉《けんげん》のような風、嵐、大災害だ。  そして河の下にとってゴドーは、人の形を取った災害となった。 「うははは、うはははははっ、なにここ」 「しけた悪党と、しけた負け犬根性の臭いがぷんっぷん染みついてやがら」  深山中で、突如として〈大哄笑〉《だいこうしょう》が奔出して、空気を割らんばかりに轟き、〈岸壁鳴動〉《がんぺきめいどう》させ、〈樹梢〉《じゅしょう》も裂断せんばかりに〈大揺〉《おおゆら》し、岩塊まで宙を飛び交うわで、その恐ろしき事豪胆の者でも立ち〈竦〉《すく》みて色を失うとか。ところが大笑一過すると、山中は変わらず静まり返っており、先刻までの〈大騒擾〉《だいそうじょう》など嘘のよう。為にこれを魔の笑い、天狗笑いと名づく。  今現在『河の下』に吹き荒れているのも同じような現象で、けたたましい〈哄笑〉《こうしょう》が闇と物陰を〈蹂躙〉《じゅうりん》し、倒壊の轟音が四方八方で爆ぜて響いて重なり合う、この〈狂躁〉《きょうそう》の中に人々の悲鳴と怒号が入り交じり、暗黒街は今や修羅の巷と化していた。  そしてこちらは、山中をどよもす怪のように、過ぎ去ってもいかなければ、破壊だって幻ではなく確たる現実で、暗黒街は刻々と粉砕されつつあるのだった。  大気に充満する湿気があまりに濃く、飽和点を越えていると、〈些少〉《さしょう》の衝撃だけで相転移して、雫となって降り注ぐと言う。  ただ河の下では、満ちている暗い水気が破壊の鳴動で雨と化して降り注ぐのと、〈天蓋〉《てんがい》と河床をぶち抜いて地下運河の水が噴出し、濁流に呑みこまれるのとどちらが先か。  どちらにしても、悪党どもの涙が零れ落ちる事になるのは、変わらない。  破壊者は、暗黒街に点在する光を横切る度、〈奇矯〉《ききょう》な姿態で描出されて、影の中を飛翔していくよう。  破壊者が、両手に携えた武器だか何だかを閃かせる度に、暗黒街が端から撃ち崩されていき、瓦礫があちこち山と隆起する。  破壊者の色は金と青藍、暗がりには目覚ましい色合いで、しかしこれより後は河の下ではその色の組み合わせ、禁忌となろう……それも、破壊者が過ぎ去った後で暗黒街がまだ存続できるくらいの意気地を残していればの話で、〈余喘〉《よぜん》保つのが〈精〉《せい》ぎりではなかろうか。 「やめたげてよぉ! なんぼここの連中はクズ揃いだからって、ここまでのやりたい放題は可哀相になってくるよ!」 「えー、別にいいだろ、こんな不景気に薄暗い地下街なんて、どうだって」  地下暗黒街を〈跳梁跋扈〉《ちょうりょうばっこ》する破壊者の、腰にしがみついて悲鳴を弾けさす瑛ではあるが、別にここの外道どもには情はない。ないのにゴドーの暴虐は〈憐憫〉《れんびん》を催させるほどであったし、何よりここは両性具有者にとって、大切な〈縁〉《ゆかり》の地でもある。  ジッパースーツの上からならさしたる害もあるまいと、航宙士の脇腹に思い切り噛みついて止めようとしたらばあら嬉しやな、立ち止まってくれたでないか。  疾走するゴドーの肉体にそれまでずっとしがみついて、その無尽蔵とも思える体力の躍動に揺すられて、ほとんど車酔いしたようになっていた瑛だが、とにかく理由を話そうとした、その鼻面を塞いだものがある。  ゴドーのブーツだった。  ゴドーとしては別段怒りも悪意もなく、何やら可愛い瑛が可愛らしく脇をくすぐってきたので、〈戯〉《じゃ》れっこしたいのかとの理解で同じ調子に応じただけの事。  しかしゴドーの規格が宇宙級あるいはそれすらも越えているなら、ブーツの中の香気というのもそれに準じて、瑛は突如視界と口元を〈蓋〉《ふた》いだ闇に訳がわからずはっと息を呑んだ、次の瞬間には荒涼とした河の〈畔〉《ほとり》にいて、乳房が萎びた〈蛸〉《たこ》と垂れた〈粗衣〉《そい》の〈因業婆〉《いんごうばばあ》に衣装を脱がされかかっているところ。  強奪されるのは服かそれともまたセックスか、恐慌を来たしかけた際に、足元に銀の粉を妖美に撒いてのゼルダクララとヒプノマリアの登場で、双子が老婆にあれこれ取りなしてくれなければどうなっていた事やら。  とりあえず積もる話は色々あるが、まずは何より暴虐と理不尽の化身である航宙士の事を訴えようとしたところ、双子は少し困ったような顔で首を振り、瑛の後ろ、荒野の果てまで伸びる長く険しい道を指し示して───                  その頃現実ではいかなる事態が推移していたかというと。  ゴドーのブーツの〈菩薩級〉《ぼさつクラス》の〈馨〉《かぐわ》しさに、瑛の四肢が〈出鱈目〉《でたらめ》な痙攣を起こして、それも二秒間。後はぱったり死ーんと動き止み、ゴドーをして、この反応はどういう冗句なのかと首を〈捻〉《ひね》らせた。  一方、地下文書庫の凍結睡眠装置の中では。双子が眠りながらも困った顔で首を振っていて、その表情は河の〈畔〉《ほとり》で瑛が見ていたものと同じ顔。恐らくは、双子は凍結睡眠にある間は、通常よりもずっと〈彼岸〉《ひがん》に近い眠りにある為、同じ世界に逝きつつあった瑛にも感応したのだろう。  で、瑛は、疾走するゴドーに小脇に抱えられている自分を見出したわけだが、何がどうしてこうなっているのか、事の経緯がどうにも判然とせず、順序立てて思い出そうと試みる。確か……。  例のビルとその周辺を爆心孔に変えて、大地上の中心を突き立て、駅に向かって帰還を宣言し、機動部隊の包囲から逃走し、航宙艇は強力に〈隠蔽〉《コンシール》をかけ、それから……そうだ、と瑛は思い出す。良い調子だ。  ゴドーは自分に差し向けられる追っ手捕り手と対峙するための陣地を構築しようと、駅内の地勢をあれこれ物色するうち、あろうことか目星をつけたのが『河の下』だった。そこからゴドーが開始した破壊行動は、一件脈絡無しと見えて、きっと暗黒街に充満する悪徳と〈頽廃〉《たいはい》の匂いを嗅ぎとってこれを殲滅せんという志あったが故に……などいう殊勝げな動機など、〈哄笑〉《こうしょう》しながら容赦なく地下の建築群を破壊していくゴドーを見る限りは、〈水蚤〉《ミジンコ》の目玉ほども感じられず、瑛が思うに単に河の下の辛気くさい空気が〈癇〉《かん》に触っただけと思われて、やはり脈絡など限りなくないに等しかったようだ。 『河の下』は駅の悪処の最たるところだが、瑛はゴドーの破壊活動を看過してはおけぬと、抗議しようとして……それから駄目だ、それ以上思い出せないと瑛は回想を中断した。忘れたというより身体が記憶蘇らせる事を拒否しているような。ともかくとゴドーの小脇から身をくねらせて降りて、 「おらおら、逃げまどえ、絞め殺される豚みてえな悲鳴をあげろや」  この時ゴドーが携えてきたのは専ら銃器であったが、実弾兵器あり光学兵器あり呪式兵装ありと色々取り混ぜて、確かに〈大兵〉《だいひょう》の彼女ではあれど、どこにその物量隠しておけるのだと問うのも馬鹿馬鹿しくなるほど。  その破壊力たるや、個人用携行兵器の大きさにまで縮小された艦載兵器と認識した方が適当な銃器を振り〈翳〉《かざ》す、先では暗黒街の住民達がバジリスクもかくやの〈睨視〉《げいし》を航宙士に注ぐも、そんな眼差しだけで意趣返しができる相手なら、既に瑛の前でゴドーは死んだり狂ったり性器が腐れ落ちたり雌ゴリラの正体〈顕〉《あらわ》している筈なので。  ゴドーの走る先々、砕氷船が薄氷を割るより呆気なく河の下の遺構が崩れて怒号、悲鳴、〈毀〉《こぼ》たれた悪の巣の内部で慌てふためいたり、雪崩を打って通りに〈転〉《まろ》び出す情景は、蟻塚を突き壊した時の白い幼虫や蛹の蠢き、成虫共の大混乱と変わらず、嫌悪感さえかきたてた。  悪党なりの見苦しい〈矜持〉《きょうじ》を示して反撃せんとする者もあるが、河の下の住民の本領というのは、如何にして誰かから掠め取ってやるか、陥れてやれるか、苦しめてやれるか、どうしたら楽して寝て暮らせるかの、どれもこれもこの裏ぶれた空間に似つかわしい、堕落と〈頽廃〉《たいはい》にあって、戦闘の専門家ではない。  〈昂然〉《こうぜん》と刃向かう愚か者も、物陰を〈遮蔽〉《しゃへい》として不意打ちを仕掛ける小賢しい者も、白刃も鈍器も銃弾も、殆どがゴドーに届く前に薙ぎ払われ、辛うじて届いた得物があったとしても、航宙士の表皮に阻まれ肉や骨まで害し得ず終わった様を目の当たりにした時には、瑛は宇宙での暮らしは人間をこんなに頑丈にするのだな、〈虚〉《うつ》けた笑いを漏らすというありきたりの反応しか取れず。  頭上から煮えたぎった油を〈強〉《したた》かに浴びせかけられたのも見たが、焼けた薄皮を一枚脱皮しただけで後は新品真っ新のゴドーで、蛙の面に小便とは言うが、彼女の足を止めるには精液の一ガロンでもぶちまけてやった方がよほど効いたかも知れない。そうすればゴドーだって、少しくらいは白濁の海の中で転がり回って遊んで、しばし破壊を忘れたろうに。  〈驕慢〉《きょうまん》で、〈傲岸不遜〉《ごうがんふそん》で、非常識な破壊者の突然の闖入は、〈鼬鼠〉《いたち》の群れに発狂した雌虎を放りこんだようなもの。〈鼬鼠〉《いたち》がどれだけ狡猾であろうと阻む事など不可能事というものだ。 「鬼じゃ……鬼がここにおる……悪党共の生き肝を喰らう悪魔がここにいる」  瑛は、猛々しく笑い狂う航宙士に蹴散らされていく河の下の悪党共に、彼らがそれを知ったなら、怒り狂ってぶち殺して蘇生させてを三回は繰り返しそうな〈憐憫〉《れんびん》の情を送りながら、ゴドーが〈驀進〉《ばくしん》していく方を見やり、は、とようやくまた心づいた。  ゴドーがこのまま侵攻していったなら、地下文書庫の大扉に辿り着いてしまう───  〈燎原〉《りょうげん》の火は燃え広がり焼き尽くすのがその属性である。そしてゴドーはといえば、そのように大人しやかなものではない。なんとしてでもその推進力の行く先を変えないと、と瑛は焦燥感にじりじり〈蹠〉《あしうら》を焦がされながらゴドーを追う。  けれども瑛が、どうやって留めようというのか、何をもって組み合えばいいのだろう、あの不条理の〈煮凝〉《にこご》りの如き航宙士に。武器など持たぬ浮浪児の瑛、隠し球の呪式も乳首を静電気に噛まれた痛い痛い、で流されてしまった瑛。  言葉ではあの航宙士の耳は受けつけまい。 溶けた鉛でも流しこめば多少は注意が引けそうだが、けれどそうしたところで、右から流しこんだら左から黄金に錬金されてぷりんと出てくるだけで終わりそう。  武器は持たず、通じるような言葉も持たず、もう瑛に残されたものはその身一つだけ。  だから瑛は、断腸の想いでゴドーにオーバーオールの肩紐を緩めて、胸元をちらちらぱっぱと見せつけてみた───ちらともこちらを見やしない。  ならば、と瑛は、でオーバーオールを脱いでブルゾンだけとなって、脚をM字に開いて、指先で筒を捧げ、割れたところは広げて、あはんあはんと精一杯よがり声らしきものを出してみた。しかし瑛の声、普段は悪擦れした浮浪児の声は、行為に昂ぶった時こそ、甘い掠れを帯びて両性をそそるけれど、演技では色気も食い気もぴくりとも起こらない。当然ゴドーは見も聞きもしていない。  渾身の色仕掛けが全く通用せず、瑛は全存在が否定されたかの、〈暗澹〉《あんたん》を通り越して虚心に陥り、そこらここらに散らばっていた画用紙とクレヨン───悪徳の地下街に何故そんな物があるかと問わば、恐らくは迷いこんで命ごと身ぐるみ剥がされた旅行者あたりの持ち物だっただろう───をかき集め、始めたのは『楽しかった頃の想い出』を〈主題〉《テーマ》とした一連のスケッチ。  何時のことだか思い出してご覧。あんな事、こんな事、あったでしょう。  いよいよ回想がトゥアンとの初体験に及び、頬染めながら描いていると、びしゃりと飛び散り画を汚すな〈飛沫〉《しぶき》。瑛のほっぺたちゃんよりも赤かった。あの時でもこんなには出血しなかった、と呆然と見上げたれば、河の下の悪党共の返り血に染まったゴドーの、顎先から滴り落ちた血の雫で、その悪魔も尻に帆かけて逃げ出すご面相に、瑛も堂々と誰〈憚〉《はばか》ることなく腰を抜かした。  いっそのことついでに気絶でもしてやろうか知らん、とささやかな逃避に浸ろうとした時、ゴドーが見上げて、〈鰐〉《ワニ》が笑ったならばかくやの笑みににんまりしているのが、例の地下文書庫の巨大扉だと気づいて、瑛の腰、これから情交を三連続はこなしても平気なくらいに芯が戻った。昂奮からではなく恐れからだが。  近寄せまいと懸命な苦闘、という名の無様な色仕掛けを繰り出すうちに、何時しかその前まで辿り着いてしまっていたのが、安い戯画のようだった。 「なんか、ここが良さそうな気がするにゃあ。ここだったら、立て籠もっても結構保ちそうじゃないかい、瑛?」 「ダメだよ、ゴドー。ここだけは勘弁してくれ。頼む、この通りだよ」  予想どおりの危惧が現実化した事で、瑛は跳躍して空中で一回転してから素晴らしく柔らかな着地から、礼法に適った美しい所作で、土下座の体勢に移行する。まだ二度目の筈なのに、身体に染みついてしまった故の哀しい美しさが宿る一連の動作であった。  たっぷり三分は床に額をごりごり擦りつけてから、顔を上げて、今の間に巧い事涙が出てくれただろうかと危ぶみながら、 「ここには、ボクの……大切な人たちが眠っている」 「……本当かー? 途中は都合良くつれなくしてたのに、色々あって淋しくなったから、とかじゃないだろーなー?」  しんみりとした人情話、なぞゴドーが許してくれるはずもなかった。覗きこんでくる蒼い瞳に瑛は、こいつ宿命通でも開眼しているのではと危ぶんだのは、航宙士の指摘に〈疚〉《やま》しく感ずるところがあったりなかったりいややっぱりあったりしたりしなかったりしなかったからで。瑛が瑛になってからは、双子の下に通う機会、始めは頻繁ではあっても、その、なんだ、彼女達とは何時でも会えるという安心感とか、駅での路上暮らしの辛いながらも気楽で楽しい日々に流されてとか、次第に間遠になっていった事など、いやありませんよ? と瑛は心の〈疚〉《やま》しさを踵で奥に押しこめながら、それはもう一生懸命に否定した。 「ち、違うよ、本当だって」 「なら、オマエに免じて勘弁してやっかぁ。ちぇー、結構いい陣地になりそうだったのにな」  至誠天に通ずるという───  もちろんこの時瑛の願いを引き取ったのは、そんな天とか偉いは偉いが耳が遠い高位存在ではなく、もっと腰の軽い連中で、その名を悪魔とか呼ばれている。彼らはきっちり代償を取り立てていく事に定評があり、この時瑛が支払う事になったのは。 「……瑛に、あとで今回の無駄足分、身体で払ってもらえばいっか」  予想どおりの答えではあったけれど、だからといって衝撃が減ずるわけではない。  瑛はへにゃへにゃと再度腰を抜かしたが、その〈股座〉《またぐら》の真ん中では陰茎が早くも反応しつつあった。理性がどうあれ身体にはきっちりゴドーの肉体、その悦美に従属する事が擦りこまれてしまっていた。    こうして瑛という尊い犠牲のお陰で、河の下は破壊神が居座らずには済んだのだが、既にその時点で半分がたは破壊されていたという───                    ───六───  駅の宇宙への道が復活してから数十年、人にとっては長いと言えば勿論長いその歳月は、しかし岩を風化させて崩すには足りない。  駅の中央に偉容を誇る巨大岩塊にはなおの事、その程度の歳月では小揺るぎもせず変わらぬ姿で〈聳立〉《しょうりつ》する。  遙かな過去から存在し続ける巨大岩塊は、未来に向かってもあり続けるのであろう。  大〈穹窿〉《ドーム》内に商店主達の気配は絶えてなく、彼らの〈逞〉《たくま》しい商魂に変わって今や絶望の雲が垂れこめていた。  砦内部に侵入したゴドーによって噴霧された、指向性きちがいガスの作用で、一部の例外を除き、一時的だが強烈な暗所恐怖症を発症し、皆自ら逃散していったのである。  残った一部の例外というのは平駅員。他の者とは微妙に造りが違っていたのだろうか、彼らにガスは効果を及ぼさず、砦内に居残り続けている、というか閉じこめられてある。 「うううやだなあ。いくら人数があるからって、出歩きたくないよ、今は」 「ぼやかないでよ、私だって怖いんだから」 「人数っていったって、ボクら、もうこんなに少なく……陣屋の方にも、もう何人もいないのに……」  平駅員の一隊が、身を寄せ合いながら砦内の通廊を巡回してい、数人固まっているとはいえ皆不安な面持ちなのは、ここ数日というもの、彼らが次々〈拉致〉《らち》されていっているから。  ちなみに、〈拉致〉《らち》された駅員は一人も帰ってきていない。 「なんだって、こんな事に……」 「愚痴を言わないでってば。愚痴より、脱出経路を探すことに集中!」   「───ふっ───」    闇の中から閃いて、青藍が跳躍しきたり、平駅員の一人を小脇に抱えて消えていく、また闇の奥へ。 「あれ? あの子は!?」 「後にいるでしょ? いない───?」   「───しゅっ───」    そしてまた、闇の中から青藍が迸り、蛇の舌の閃きのような呼気と共に、また駅員の一人を〈攫〉《さら》って、すぐ消えて。 「……え? ちょっと、冗談はやめてよ、どこに隠れてるの!?」   「───しゅっ───」    また闇の中から青藍の、そう、航宙士ゴドーが、かつて魔都の夜を恐怖に震撼させていたバネ足の怪人もかくやの、跳躍を超えて飛翔というのが相応しいほど、宙に長く身を置いて、独り残されて震える駅員を〈攫〉《さら》い、そして誰もいなくなる───              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  かの時代を越えて存在し続ける一大偉容を食物に〈喩〉《たと》えるのは少々〈不遜〉《ふそん》な気もするが、それでも一番簡易な表現として、大岩塊は穴あき〈乾酪〉《チーズ》のようなもので、内部は大市場たる大〈穹窿〉《ドーム》のみならず、縦横に坑道や通路が掘削され、〈乾酪〉《チーズ》を外側から眺めてその穴開き加減を透視できる者はいないように、その全容を把握する者は少ない。  そういった、忘れられた坑道の奥に位置する秘やかな岩窟が、『河の下』に大破壊をもたらし、その動機不明な事、駅管理部の人物査定に余計な混乱を撒いてからの、現在のゴドーの拠点なのであった。  無垢の巨大岩塊の内部という立地は、彼女が欲する駅管理局との対決の拠点として、これ以上ないくらいに堅牢であり、ゴドーは現在着々と、更なる防備を構築しているのだろう。平駅員達を略取し去っているのは、その為の人的労働資源というわけだ。  その岩窟は煌々とした白熱球に照らし出されて、重厚で無骨な〈防塁〉《ぼうるい》と兵器に埋め尽くされて───はおらず、星の刺繍の垂れ幕だとか、毛足長く手触り座り心地の良い毛皮や、酒に肴と楽器など、歓楽の具で一杯だった。 「どーすんだよ、おんなじ顔のこいつらばっか、こんなにさらってきて」 「……コレクション? 同じモノを集めていくことによって増す、価値とかそういう?」  〈攫〉《さら》われてきた平駅員達は、苦役に喘ぎ油汚れに〈塗〉《まみ》れ、誰も彼もが追い詰められて暗い顔して───はおらず、皆一様に〈含羞〉《はじらひ》で身を縮め内股を擦り合わせてもじもじもじ。 「……佳い趣味してるぜ。〈勿論〉《もちろん》皮肉だけど」 「あれ? 瑛も、ああいう格好、したかったん?」 「言ってない。ビタイチそんなこと、言ってない」  瑛が言下に吐き捨てたのは、至極健全な感性と見えて、御内幕ではちと複雑な感情と記憶の結ばれがあって、それを気取られまいとの強い語句ではあったのだが。  ともかくその、平駅員達の扮装。 「このアオザイ、〈透〉《す》っけ〈透〉《す》けなんだけど……」 「君はまだいい。僕なんてこんな……セーラー服とか……ないわぁー……」 「服……あるだけ良いわよね。私なんて全裸にヘナのペイント『だけ』よ……」  取り揃えたは酒と肴と歓楽の具。  かき集めたのは、愛嬌溢れる平駅員達。  平駅員達には、あられもない格好。  これら全てが個人の意志で為されているとあれば、その個人が何を構築しようとしているのは明白だろう。  要は、〈後宮〉《ハレム》。  そこは、ゴドー・トルクエタムの〈後宮〉《ハレム》。 「最暗黒の〈縦坑〉《シャフト》の動力、全部防壁に回したのは良いけど、中でこんな事やってるってばれたら、ボクらどんな笑いものになるんだろ」  笑いもので済めばまだ穏当な部類で、駅の全兵力を差し向けてくるのではなかろうか。  現在のところ、いかに大岩塊が堅固とはいえ、ゴドーと追っ手と戦闘らしい衝突がないのは、キヲスク砦最奥の暗黒の広間の〈縦坑〉《シャフト》、慣性制御実験施設の、その超技術を賄う全動力を、砦の出入り口を覆う防御壁へと回して突入を防いでいるからだった。  駅の追っ手側は、中の状況を透視せんとさぞや気を揉んでいる事と思われるが、中がこの調子では、覗き見ない方が血圧の上昇を防がれるか、と───  ゴドーはかねて念願の〈金糸雀〉《カナリヤ》を貪り喰らった猫よろしく、大層ご満悦の態の、〈貌〉《かお》は〈闊達〉《かったつ》にして法悦に緩みきった笑み、ジッパースーツの前を緩めきって〈鴇色〉《ときいろ》の乳首まで気前よく覗かせて、それは満悦だろうさ、両脇には平駅員を〈伺候〉《しこう》させ、〈放恣〉《ほうし》に大股開きの〈腿〉《もも》の上にも平駅員を抱いてと、駅内の平駅員〈狂〉《マニヤ》が目撃したなら逆上して飛びかかっていっては返り討ち間違いなし、という贅沢の極みにあるのだもの。  で、〈金糸雀〉《カナリヤ》を獲って満腔の猫が何を求めるかというと、次なる〈金糸雀〉《カナリヤ》で、ゴドーも同じく次のお楽しみを要求した。 「おい、アタシは今、飲み物を所望じゃ」  何が「所望じゃ」だ、と心に掘った便所穴に毒づいて、瑛が回すは手回し〈風琴〉《オルガン》のハンドルを、奏でるは名曲マンボ・オン・サックス、編曲してはあるが、思わせぶりに〈秋波〉《ながしめ》を送るような曲調は健在で、岩窟内の空気へ無駄に〈艶〉《あで》やかな膨らみを含ませた。  こんな役目は猿にでもやらせるがいい、と 憤ってはみても、〈花果山水簾洞〉《かかさんすいれんどう》であるならまだともかく、岩窟内に猿は見えず、仕方なく瑛は自分が猿になったつもり、目をかっ〈開〉《ぴら》き歯列を剥き出しにきいきい鳴き真似を、すれば平駅員達か送られた視線というのがまた気の毒そうな。暖かな同情の、故のなんともやるせなさ。瑛は剥き出しにした目と歯を引っこめそろそろと。  この場合、同情を寄せられるべきは瑛ではなく、間違いなく〈十把一絡〉《じっぱひとから》げにかき集められてきた平駅員達である───  彼、彼女達が〈合衆〉《がっしゅう》した場合、お揃いの制服を着けて並んでいるならなるほど〈片吟〉《ぺんぎん》の行列みた愛らしさがある、とはいえ直立の鳥たちだからとて、その羽毛の上から無理矢理に人の衣裳を着せた様を、さて不自然と〈咎〉《とが》めるか、可愛いと持て〈囃〉《はや》すべきか。 「は、はい! 〈檸檬〉《レモン》水で溶いた蜂蜜酒です」  今しゴドーのお呼びかかった、銀の水差し抱えた平駅員などはアオザイの着用を命じられ、確かに〈長い〉《ザイ》、襖《アオ》ではあるのだが、透けるくらいの〈羅衣〉《うすもの》で、おまけにどういう縫製技術を用いているのやら、愛くるしい乳首も誘うような下腹部の膨らみも(この平駅員は女性だった)、素肌の曲線がほぼそのままに浮くくらい密着し、さながら衣服というより等身大のゴム製避妊具を着装したかの如し、である。  似合う似合わない以前に、人の〈嗜虐心〉《しぎゃくしん》を〈徒〉《いたづら》に掘り起こし、飛びかかって抱きすくめて色々〈弄〉《もてあそ》びたくさせるような危うさを演出していて、ああ勿論その色々は着衣のままにする事は論を〈俟〉《ま》たない。  今日が初めてのお〈側仕〉《そばづか》えと見え、アオザイの平駅員の、〈拍〉《う》てば応える緊張に、透けてくるのは乳首やお股だけでなく健気な精忠振りも、だがその向ける先がゴドーというのはどうにも心得違いというか。〈攫〉《さら》ってこられて〈傅〉《かしず》かされて、それでも航宙士に〈唯々諾々〉《いいだくだく》なのは、この彼女に限らず、平駅員という種族全体がゴドーになんらかの本能的従属を捧げているか、とさえ瑛には覚ゆ。  水差しを捧げてゴドーに甲斐甲斐しい彼女を陰から眺めるうち、トゥアンがまず思ったのはその忠勤への疑念とそして、トゥアンはアレ、アオザイ「も」好きだったなー、というほのぼのした想い出の。  共に暮らす日々、喧嘩くらいは当然あって、けれどアレを着ればその夜は、大層盛り上がってそれは盛大に仲良くできたものである。ちなみに着るのは勿論瑛の方、その際トゥアンが着用を催促してきたのもこの平駅員ほどではないが、上も下も〈正絹〉《しょうけん》の薄くて透けるような生地で仕立てた品で、着ける下着の色や柄とかレースの有無とかそれは細かく指定されたもの、瑛に、男ってのはやっぱりみんなこうなのか、トゥアンもそうかと呆れるやら愛おしいやら複雑な気持ちにさせた事だった。  そんな懐かしく愛おしい過去の追想につい浸る瑛の前で、平駅員は、水差しから〈檸檬〉《レモン》割りの蜂蜜酒、にじり寄った膝の上に、〈零〉《こぼ》して、粗相の、これはゴドーに折檻かと〈怯〉《おび》えた者はまだ新参、慣れた者はアオザイの平駅員が正座して、股間と〈太腿〉《ふともも》の三角地帯に蜂蜜酒を〈零〉《こぼ》して溜める様を、見守るのが酸っぱいものでも舐めたよな、微妙な面持ちに。  ゴドーはちんちんを覚えた猫を愛でる目で、アオザイの平駅員が手順をよろしく終えるのを認めるや、彼女の〈太腿〉《ふともも》に顔を埋めて犬呑みさ、航宙士の髪の金とアオザイの薄青と酒の蜂蜜色と平駅員の透ける〈叢〉《くさむら》の交響楽、じゅっぱじゅっぱと〈啜〉《すす》る音も誇らかに、平駅員の肌の香を吸った、アオザイの薄地を杯に〈啜〉《すす》るのが甘露なのだと。  蜂蜜酒といえばどこか優雅の印象が強いが、瑛はニスみたいな、猫のしっこみたいな匂いがある酒とみなしている。だからああいう部位に受けて〈啜〉《すす》ることには少なからず異見があったのだが、ゴドーのやる事だ、好きにさせる他ない。 「うんむ、うまい。ご褒美を上げよう」  〈啜〉《すす》るついで、なのか、そちらが〈本星〉《ほんぼし》なのか、ゴドーは干し終えてからも平駅員の臀を掴んで引き寄せて、彼女の〈股座〉《またぐら》をしつこく吸って悶えさせては長い事、顔を上げた時には双方共に頬へ紅を差していた。 「ありがとうございます……」  お褒めに与り素直に嬉しそうなのは大層可愛らしゅうあるが、それは下しおかれるご褒美とやらがいかなるものかまでは、まだ知らないからだろう。 「……ご褒美っていっても、気絶するまでセックスの相手じゃないか」  瑛は、〈傍〉《かたわ》らの、〈長靴下〉《サイハイソックス》「だけ」を着用した平駅員(男)がぼそりと呟くのを、肘で軽く突いて黙らせた。今の痴態にもゴドーの宣告にも彼の陰茎はちっとも反応しておらず、元々が小さいのか、〈団栗〉《どんぐり》の大きさに縮こまったまま。彼の心情には共感できなくもないけれど、もしアオザイの平駅員に聞かれてしまい、わざわざ彼女を〈怯〉《おび》えさせてどうする、と。  ゴドーのお眼鏡に適った振る舞い見せた同僚に、黒い嫉妬もなく苦い羨望もなく、ただ共なる喜びに頬を柔らかくしているあたり、そのセーラー服の平駅員、異装を〈厭〉《いや》がっていた筈なのに、よほど周りに流され迎合しやすい〈質〉《たち》であるものか。  ともかく、同僚の覚え目出度きには、共感もそうだが、自分もと〈寵恩〉《ちょうおん》願う心はあるようで、元は〈水夫〉《セーラー》の服だという制服で、身を乗り出しに順風待ちしていた平駅員へ、早速の、 「これ。今アタシは、音楽を所望じゃ」  お声がかり、昼夜の別ないキヲスク砦の中で、飽かず快楽を求めてのお盛んな限り、味わうは酒で、眺めるは周りの色とりどりの平駅員達で、ただ、聴く、が途切れて揃えに欠けたとゴドーのご不満は、瑛が手回しオルガンをムキになって奏で続けた挙げ句、ハンドルを壊した大失策を、〈繕〉《つくろ》うために蓄音機あたりをこっそり探しに出て戻ってきた時である。 「ならば、馬頭琴の〈小夜曲〉《セレナーデ》などを」  結局は見つからなかったのだけれど、それまで瑛と楽器と楽器で被っていたので、大部屋の新前役者の無聊をかこつていた平駅員には慈雨、意気が〈乾涸〉《ひか》らびる前に出番が来て、〈襞〉《ひだ》の多いスカートの膝で前ににじった。  それで制服が、ぱりんと折り目の立った〈新物〉《さらもの》なら窮屈げに場から浮こう。がその平駅員のは着崩して、線もくたくたに柔らかな、いかにも年季が入った品で、そういうのを男の平駅員───そう、この平駅員は男であった───が着けていると、生活臭のある倒錯感というややこしい風情が滲んで、またも瑛の想い出を揺らした。  あれはトゥアンがその夜の〈一戦〉《ひといくさ》の前に、身を洗っていた瑛を待ちかねて寝てしまった時の事。両性具有者に着せて〈愉〉《たの》しむつもりだったのか、どこかから手に入れてきたと思しき、〈草臥〉《くたぶ》れたそのセーラー服とやらを〈傍〉《かたわ》らに眠ってしまっていたトゥアンを眺め下ろして、男という生き物は、と深い〈思惟〉《しい》に入った瑛に降った〈天啓〉《シュルティ》のある。  他人の〈厭〉《いや》がる事は、進んでやりましょう。  内心では瑛もとりたて〈厭〉《いや》というわけでもなかったのだけれど、ともかく、トゥアンが目覚めた時にはセーラー服を着ている自分を発見したわけだ。  トゥアンの〈癇癪〉《かんしゃく》を当然予想していた瑛は、あっさりと裏切られる形となって、その夜はそれはそれでいたく盛り上がり、非常に仲良くなったものである。瑛にしてみれば、トゥアンの度量というか雅量を認めざるを得なかった。  そんな心温まる追想に浸っていたところに響いたのは、月下の大草原を往く旅情にも通ずるような、〈嫋々〉《じょうじょう》と深情けに満ちた馬頭琴の弦音の、制服の平駅員が〈天稟〉《てんぴん》と修練の調和を思わせる、それはそれは見事な業前であったけれど。  なにやらその音色には、暗愚の殿の〈勘気〉《かんき》を〈蒙〉《こう》って射殺された白馬の怨念が、〈悽愴〉《せいそう》と籠もっているようにも聞こえて、 「それは、辛気くさくて気に入らない。オマエには罰を与えるっ」  だから瑛にもゴドーが腕を交差させ、神罰の触れと下した〈×〉《ばってん》印の評価は理解できなくもなく。 「ひぃぃぃぃ、お許しをーーっ」  ゴドーは。  馬頭琴を取り落としてへたりこみ、後ろ手で〈厭〉《いや》、〈厭〉《いや》とふるふる首を振るという、どうにもある種の嗜好有した人間の感性に直撃する姿勢の平駅員の、スカートを頭まで〈捲〉《まく》りあげて茶巾縛りにして。禁じられていたのか下着も無しに縮こまっていた陰茎の、根元を真紅の〈飾り帯〉《リボン》で絶妙な力加減で縛りつけ、鈴口に〈棒紅〉《ルージュ》でこちらにも×印を引いた。  ゴドーの。  なんらかの呪か、意味不明な行為は〈長靴下〉《サイハイソックス》の呟きで明らかになる。 「……罰って言うのは、気が狂う寸前まで寸止めされる、セックスの相手だし……」  口ではいかにも呆れた風だったが───  同僚に降される罰を想像した彼の。  その陰茎は瑛がたじろぐ程の膨張率で、ゴドーが用いた〈張り型〉《ディルドー》程にも隆起して、先走りまで滲ませていたから、両性具有者は思わず声まで上げて飛び退いて、ああこりゃこの子はもう駄目だわい、と目を覆った。元々の嗜好かゴドーにすっかり馴らされてしまったか、いずれにしてもセーラー服の平駅員に宣告された罰は、見せしめとしての役には立っていない様子。  ゴドーに側近くに侍る三人のうち、最も凝っていながら、最も〈纏〉《まと》う布地の面積が少ない、というより、無い、のが航宙士に抱きかかえられている平駅員である。  ヘナというのか、あの植物性の染料で、細緻で複雑なレース状の模様を全面に染め抜き、殊に乳房と股間には特に念入りに細かく紋様を集中させ、さながら彼女は奇怪で、けれど美しい未開の地の人獣のようであった。 「これ。今度アタシは、お話が聞きたい」 「それでしたら、〈蕉斎筆記〉《しょうさいひつき》よりの一節を語らせていただきますね」  やはり〈自儘〉《じまま》極まりない命ながらも、声は明るかった。  長枕替わりに抱かれているだけならまだ良し。ゴドーが彼女の股間にその大なる掌を被せているのは隠す為でなく、孔に指差し入れて、呼び〈鈴〉《りん》替わりに声を上げさせたり、ひっきりなしに股間をまさぐられてどうしようもなく湧かせてしまう蜜を、水飴替わりにせせる為で、同僚達の前でそういう玩具替わりにされるよりは、お話でもした方がよほど増しなのだろう。  そして彼女が語ったお話というのは、趣味人好みの妖怪譚でも、仏教説話に寄った因果応報物で、瑛にはなかなか面白く聞こえたが、華にも起伏にも乏しいことは否めない。  ゴドー相手にするには、もっとろくでもない、例えば男と女が華々しく狂い死にする話だの、お化け話なら血飛沫と臓物がぶちまけられて最後には登場人物皆殺しになる、という向きの話あたりが適当だろう。  瑛はだから今回も罰を予想したのだけれど、結局はお話の間も紋様の平駅員の〈股座〉《またぐら》を〈弄〉《いじ》る事はやめず、話の上げ下げ、〈節遣〉《ふしづか》いの中に指の緩急、彼女を戸惑う媚声に震えさせた事で多少は興を満足させられたのか、やや判定は甘かった。 「んー……。微妙。微妙だから、ご褒美でも罰でもないのですませてあげよう」 「えー……私、こないだもそれで、手が腱鞘炎気味に」  甘くはあったけれど所詮はこれだもの。  ご褒美も罰もどちらでもないものも、結局は平駅員達にとっては大差ない仕打ちが待つという理不尽な、しかし理不尽なのも当たり前、ここはゴドーの〈後宮〉《ハレム》なれば。 「……罰でもご褒美でもないのは、まる一日自慰行為、強制されるし……」  まあよほど汁気が多い体質でない限り、一人の手慰みなら肌の紋様はそうたやすく落ちたりはすまい、と瑛が平駅員よりも描かれた線の方を案じたのは無情と見えたが、なんとなれば紋様を施してやったのが瑛自身だったから。  二・三枚のお手本だけで施せとの仰せに始めは大いに難渋したが、呪式遣いとして複雑な紋様を描く事、瑛自身より手の方が覚えていて、描くうちについ夢中になった。  凝り性なのか手が止まらなくなって、随分と複雑に書き込んでしまって完成が遅れ、できあがりを見たのは丸一日後。焦れて覗きに来たゴドーが見たのは、疲労困憊して眠りこけた瑛と、細筆が全身這い回る刺激にすっかりとろんとろんに出来上がって、もうゴドーでも誰でも良いから可愛がってつかあさいと縋りつくまでに蕩けていた平駅員。  ゴドーは、瑛の働きを賞し、かつ紋様の平駅員の愛らしいおねだりに応えてやるため、二人まとめて可愛がってやった事である。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  キヲスク砦の奥深く、夜も昼もないゴドーの〈後宮〉《ハレム》の時の流れを示すのは、水時計の雫というには〈些〉《いささ》か味が強すぎる、平駅員達の〈随喜〉《ずいき》の涙や蜜や精の。それら〈津液〉《しんえき》が、皆消耗して尽き果てた頃合いに、〈後宮〉《ハレム》の〈尾籠〉《びろう》な宴も一時の息継ぎを迎える。  瑛はまだ元気残した平駅員達を集め、ぐんにゃりと昏倒するような眠りに落ちた同僚達を介抱させ、自らも手伝って、嗅いでるだけで目が色に霞みそうな程生々しい匂い放つ粘液を拭ってやりながら、ふと〈惻隠〉《そくいん》の溜め息をついた弾みに我に返った。  なんで自分が女郎屋の下男の如き真似をさせられているのかと、航宙士の下に駆け戻る。  と、ゴドーはまだまだ遊び足りなさそうに、起き残っていた僅かな平駅員を集めて、「〈詩謎〉《シーミー》」なる、古い漢詩の一文字を隠して当てさせるという博打を教えこんでいる最中の、高雅なのだか俗なのだか判別しかねる後ろ姿にとうとう堪忍袋の緒が切れて、跳び蹴りをくれてしまったのは、まこと後先考えていない挙ではあった。  とはいえ瑛も、ゴドーの背中に〈潜〉《ひそ》む筋肉の異形に跳ね返されて床に落ちて腰を〈撲〉《う》つ、くらいは予感してあって、だが気づくと、平駅員に混ざって〈賭札〉《チップ》替わりの〈釦〉《ボタン》握り締め、穴あきだらけの詩文を〈睨〉《にら》んでやれ月だ〈簪〉《かんざし》と字当てに興じている最中の。  そこでまた我に返ったが、もうどんな〈狐媚〉《こび》に遭うたか、それを詮索するのも馬鹿馬鹿しくなり、〈釦〉《ボタン》を投げ捨てる。  どうにも面倒くさくなってきたが、それでも、と白黒着けようとした。 「なあ、ゴドー、ドンパチやるにしても投降するにしても、いい加減さっさとしない? いつまでもこんなハーレムごっことかやってないでさあ」  そもそも瑛には、ゴドーの存念がちいとも見えてこないのには、先より苛立ちがあったのだ。友達との約束の為に宇宙の彼方から還ってきた───瑛がシラギクであった時より、更に前の時代の人間という事を全く感じさせぬ、精気と生命力に満ちあふれた姿で。  まずそこからして、瑛にはなんだか詐欺に掛けられた想い〈拭〉《ぬぐ》えないのだが、有り得ない事が有り得る、起こり得る空間が大宇宙なのだと聞かされれば、そう言うものかと納得の、ふりだけでもしておかないと話が進まない。  けれど、この女、一体何がやりたいのだ、この駅で?  なぜこんな、駅管理局に喧嘩を吹っかける必要がある?  そして、挑んだかと思えばこんな、岩窟で乱痴気騒ぎに耽って?  どこからどこまでが本気で冗談なのか?  ───けれど瑛もまた、かつて駅の権力者側と、あの時は『封印派』が相手であったが、〈昂然〉《こうぜん》と取っ組み合った者である。  ───その瑛ならば、その心根の深い芯では、今ゴドーを動かしているものがどういう炎なのかを感じ取っているはずなのだ。  ───それはきっと、駅を覆い、権謀を巡らせるもの、息を詰まらせるもの、隠したり〈澱〉《よど》んだりするもの、停滞させようとするもの、それらへむらむらと湧き起こる〈敵愾心〉《てきがいしん》であり───  あるいは、もしかすると。  瑛とゴドーが出逢い、そしてまだ離れずにいるのは、必然だったのかも知れない。  ……少なくとも今のゴドーは、瑛に出会いの必然だのといった神妙な感覚よりも、張り倒してやりたくなるような向かっ腹呼び起こす、素っ惚けた面で宙にわざとらしく視線を〈彷徨〉《さまよ》わせているのであった。 「そーねー。そろそろ飽きてきたしなあ。よし、ここを拠点に───」  〈無辜〉《むこ》の平駅員達を、好き放題に食い散らかしておいて、今さら飽きたも蜂の頭もあったものか。それでも女郎屋の下働きとして平駅員達の粘液の始末に明け暮れる日々よりは、追っ手との鉄火場に身を置いていた方が張りがあろう。  ゴドーの台詞にいよいよか、と瑛が勇ましくはあるが、同時に自分が航宙士のお陰でこんな厄介ごとに巻きこまれている、という事情を忘却気味にある覚悟を決めるのと、ほぼ同じ瞬間であった。  最暗黒の〈縦坑〉《シャフト》の動力が遂に尽きたのは、これより修羅とゴドーが定めた時で、瑛にとっては悪意さえ感じられる頃合いである。  岩窟内の灯りが全て消え去ったばかりか、砦を守っていた防壁に回されていた動力も全てが切れたという事であり、ゴドーの下に追跡部隊が即座に送りこまれるという事でもあった。ここ数日〈頽廃〉《たいはい》の遊興に溺れてふやけきり、なんの備えもしていない航宙士の下へと。 「ありゃ。動力が落ちよった。ここなら結構イけるって思ったんだけどな」 「別のどっか、探すべよ、な、瑛」 「馬鹿ーーーっっ。ゴドーのフルドライヴ馬鹿ーーーっっ」                      ───七───  ゴドーは夢を見る。 『駅』に帰還する前、深宇宙にて〈邂逅〉《かいこう》した少年と女を、夢に見る。  まだ餓鬼のくせして、一丁前に詐欺師と山師の〈面〉《つら》を身に着けた少年。けれどその、いやに〈世故擦〉《せこず》れした悪童の眸の中に、愛おしいくらいの少年らしい心を〈韜晦〉《とうかい》させている、そんな面倒くさく、かつインチキくさい男の子。  優美で華やかで、そして愁いと官能の〈翳〉《かげ》りを瞼に宿した、すこぶるつきの美女でありながら、額に今一つの眼を具えた異相の女。その三眼さえも風変わりな装飾のように麗しい、女は黙っていれば仙女のように近寄りがたいのだろうが、年下のインチキ少年にはべた惚れでぞっこんでだだ甘の、おまけにどうやら重度の被虐嗜好にあるらしい難儀な女。  取り合わせからして奇妙な二人連れに、出逢った事自体もまた、大陸の西と東の海岸から流しやった〈浮子〉《うき》が遠洋で接触するより極小の確率の、奇跡と評するも馬鹿馬鹿しいくらいの有り得ない現象だったのだろう、が、起こってしまえば事実というものである。    航宙士の女は、二人連れが、彼女よりずっと後代の同業者なのだと漠然と感知していた。    航宙士のゴドーは、二人連れとの会話を、夢に漂いながら追体験している───  ───まさかあんたが生きていて、そして出会えるなんてねえ。宇宙では何が起こったって不思議はないって言うけれど、さ───  ───宇宙は、どこまでも広い。会えたのは、ま、奇跡ちうやつよなあ───  ───アンタらも、あの駅から上がってきたってかい。  ───アンタ達が発った時、駅はどうなってた?  ───わたしらが発つまで、駅は宇宙とは、断たれていたんだよ。どういうわけかは知んないけど。  ───そんな、ことが───  ───ま、俺らのあとがどうなったかは知らねえが、な。  ───どうでも、いい。どうせあそこには、アタシが知っている奴、アタシを知っている奴、誰一人いないだろうし。  ───長く、離れすぎた。もう、飛ぶ気もなくしちまうくらいに、さ───  ───あんたは、疲れてるだけなんだよ。当たり前だよね。他のみんなは、みんないなくなってさ、ずっと一人で宇宙を旅してたんだ。  ───うん。疲れてる時は、故郷で骨休めってのが一番だ。  ───よせやい。そんな柄じゃないのさ。だいいち───  ───帰り道が、判らないんだ───  ───いいや、〈航図〉《チャート》はある、データは揃ってる、アタシの航宙艇は、どんな長旅にだって耐えられる。  ───だけどね、どんなに還ろうとしても、駄目だったんだね。何でか、正しい道から〈逸〉《そ》れちまうのさ。  ───そりゃあ、あんたの〈縁〉《えにし》が、あの駅とは、いったん切れちまったからなんじゃねえの?  ───そうかもね。だったら、余計還ったって意味がない。  ───でも、ほんとはさ、一度くらいは、もう一度大地上の地面、踏んでみたいんじゃないの、ゴドー。  ───そうかも、ね。でも言った通りだ。  ───アタシの帰り道はわやくちゃにこんがらがっちまって、〈解〉《ほど》きようがないんだってば。  ───俺らが教えてやらぁな、帰りの道筋を。  ───わたしらは、まだあっちに帰るつもりはないけれど。あんたは。  ───友達との約束、あるんだろ?  約束、と言えばそうなのだろう。  呪いにも似ている、というのも、繰り返し舌に転がした言葉だ。  それでも───宇宙に在る間。  彼女から、ゴドーから、時間と星々の虚空を飛翔し続ける意味が〈喪〉《うしな》われていくまでの間。  結局遺されたものは、それ一つという事実には変わりなく。    大地上を離れて、距離など数字が記号の羅列に成り下がるくらいに遠く離れて。  巡る因果が、ゴドーを群れからはぐれた渡り鳥よりも孤独に、船団から彼女ただ一人だけ遺し、そして星々の海の中心に投げこんだ。  時が静止する、あの空間に。  ゴドーがその空間から脱出を果たした際に得たものは、宇宙の中心の位置と、もう一つ。  流れていくのは時間ではない、という認識。  流れていくのは己自身なのだ、という認識。  その認識を得てから、ゴドーは大地上の人々が時間と名付くるものから、外れてしまう事になった。    それからどれくらい飛翔し続けたのだろう。  ゴドーに願いを託した者は、大地上からとうに居なくなったのだろうとは覚りつつも、その願いだけは消えず。    ただ、彼らと、賢しげで生意気で、けれどまだまだ坊や坊やした少年と、彼を一途に愛する、優しい三眼の女と〈邂逅〉《かいこう》するまでは、大地上へ帰還する事など思いもよらなかった。  それが、還ってきてみれば、どうだ。  駅がまだしぶとく残り続けていた事には、少なからず驚かされたものだけれど。  どうにもこうにも駅の奴。  つまらなさそうな面ぁしてやがる、と。                    だから、ゴドーは───  だから、アタシは。  ゆっくりと目を覚ます。  余り睡眠を取らないゴドーにしては、珍しいくらい長い間、眠っていたようだ。    ……キヲスク砦の防御壁の停止の後、追跡部隊は戦力の即時突入を、と言ってもあの大岩塊は全軍を投入できる程の大きな開口部はない。追っ手の非能率は逃亡者には〈天佑〉《てんゆう》、ゴドーと瑛はそれぞれ〈仮髪〉《かつら》被って前髪で目隠しし、駅員の制服を着こみ、平駅員達にまぎれて砦から逃れた……約一名ほどどう考えても無理があるのだが、とにかく逃れた。  現在二人は、航宙艇と共に駅の〈一隅〉《いちぐう》にて身を休めている。  彼女の航宙艇の〈主操縦席〉《メインコクピット》に座したまま眠りこんだと見えたが、肩まで被せられた、仮眠用寝台から〈引〉《ひ》っ〈剥〉《ぺ》がしてきたらしいこの掛け布は誰が、ともぞり〈身動〉《みじろ》ぎすれば、誰がも何も、ゴドー以外は瑛しかこの〈艇〉《フネ》には乗り合わせていない。  〈主操縦席〉《メインコクピット》の脇の床で丸くなり、何やら苦悶する態の〈貌〉《かお》で眠っていた瑛を抱き上げ、席の中に引きずりこむ。  大柄な身体の中に抱き込めば、小さな瑛はすっぽりと収まって、乳房を枕にして寝息を立て始める。ゴドーは半ば無意識に、オーバーオールの〈裡〉《うち》に手を滑りこませ、瑛の乳房と〈股座〉《またぐら》に掌を被せたが、別に淫心を催したわけでもなく、そこが暖かいと心地好いからと、両性具有者にも同じようにしただけの事。  この瑛というのも、どうにもややこしい経緯、含むところがあるようだと、ゴドーもそれは感ずるところがあるが、それもまた面白からずや。    ……まだ夜明けまで間がある。  程良い抱き心地の体もある。  ゴドーは今〈暫〉《しばら》く眠りを〈愉〉《たの》しむ事にした。  起きた時に待ち受けている筈の状況に、期待を寄せながら。                    ───八───  〈夜闇〉《よやみ》が〈暁闇〉《ぎょうあん》へ、〈暁闇〉《ぎょうあん》が〈曙光〉《しょこう》へ、次第に力を増していく光の前に闇が退場していって、その領土に呑みこんでいた景色を陽光にと譲り渡す。  朝の陽差しの中に浮かび上がっていく駅の全景は、積層建築群の奔放にして細密を重ねた展望、の中に、大岩塊と同じ桁数の規模で駅に〈鎮座在〉《ちんざましま》すそれも、姿を表していく。  大岩塊が重厚壮大の自然の奇跡ならば、こちらは長大悠遠にして、人の手になる構造物だ。駅西端部で北から南に〈聳〉《そび》えるその構造物は、斜面を為して天へと伸び上がっていくよう。実際にそれは、天へ、空の彼方に繋がる構造なのである。  かつては駅の緑の巨壁にして『大高架ホーム』や『大高架路線』と呼称されていたそれの正体が、〈超巨大な射出機構〉《マスドライバー》であった事は、『移動舞台暴走事件』の最後に平坦だった姿が変形した事によって、駅の全土に知れ渡った。  その構造物内に住まっていた奇妙な人々、高架族は大射出機構の駐留要員の〈末裔〉《まつえい》であり、彼らもまた駅内にありながら宇宙へと繋がっていた者達であったが、長い事駅の表舞台から退いていた。  しかし駅に宇宙港機能が復活して以来、駅と再び交流を再開させ、現在では『上の駅』に物資を送る事を主な業務としている。航宙艇では輸送が困難な物資もあれば、航宙艇の運行コストに見合わない物資というのもあって、そう言った物を射出して、衛星軌道上の『上の駅』に送り届けている。  その超大射出機構の片隅に、機構の規模からすると一点の染みのように駐機しているのがゴドーの航宙艇なのであった。そのみじめで〈窶窶〉《やつやつ》しい機影、夜間にあっては追跡部隊からも、駅の人々からも隠されていたろうに、射出機構の軌道上という高所で〈燦々〉《さんさん》と陽を浴びる事になっては、脚光当たる舞台上に、深海の異様な頭足類を引きずり出したように悪目立ちする事間違いなしで、一体ゴドーは如何なる意図で航宙艇をそこまで移動させたものか。  その航宙艇の中では─── 「ゴドー、ゴドーってばよ!」  〈主操縦席〉《メインコクピット》の足元へ、身を二つ折りに覗きこんだ航宙士の髪の金、積み重なって幾筋もうねって、といえば財宝箱から溢れだす金貨の〈絢爛〉《けんらん》豪華に〈煌〉《きら》めかんばかりだが、実際には航宙艇の床の埃や油汚れを吸って、金は金でも倉庫に放置された洋金と、〈艶〉《つや》を鈍くしていた。  ゴドーは足を天井に突き出し、片膝を軽く折り、頭を床に押しつけての順逆に〈主操縦席〉《メインコクピット》に引っかかり、古い〈骨牌〉《カルタ》の絵札の一つを体現してあり、よく首を傷めないものと感心ものだし、瑛としてはその体勢のまま足首を縛って、航宙艇の後尾噴射管あたりから吊してしまいたくなった。  瑛は明け方に〈裸出歯鼠〉《ハダカデバネズミ》の海に溺れて窒息し、〈鼬〉《いたち》に乳首を噛み千切られ〈椰子蟹〉《ヤシガニ》に陰茎をねじ切られるという、動物大行進の夢に〈魘〉《うな》されて目を覚ませば夢ではなく、操縦席の脇でうたた寝してしまったはずが、ゴドーに掴まり乳房で口元を塞がれ、胸と〈股座〉《またぐら》を彼女の〈八手〉《ヤツデ》級にでかい掌でがっしり掴まれ、ぎりぎりやられているという状況に仰天し、〈蟒蛇〉《ボア》の締めつけと格闘しているのではという必死の苦闘に抜け出しても、航宙士はまだ眠り呆けたまま。  呆れ果ててもう少し寝直そうと、一時の気の迷いでゴドーに掛けた毛布が席の足元にくしゃくしゃに〈蟠〉《わだかま》っているのを拾い上げようとして、ふっと目がいった風防硝子の向こうの空模様に、また〈吃驚〉《びっくり》に眼を〈瞠〉《みは》ったが、そちらはなかば予想していたことでもあったので、ゴドーに振り返ったときの方がまた、よほど驚かされた。  ちょっと眼を離した隙に例の逆さの寝相である。この駅にそんな強力な枕返しが棲んでいるとは瑛も知らず、なんの冗談かと指先でつついて軽く揺すって、しゃがみこんで耳元に〈喚〉《わめ》いても、いっかな起きる気配のなく、苛立ちの余り航宙士の下腹部に拳を叩きこんでしまい。ちょうど殴りやすい位置にあるのが悪い。  ───硬質タイヤでもうっかり叩いてしまったかの手応えに、危うく手首を〈挫〉《くじ》くところであったという。  その上程良い角度で刺激が胃腸を程良く揺らしたのか、ゴドーの腹から〈蠕動音〉《ぜんどうおん》が不吉に響いたかと思うと、火山の噴火、を〈彷彿〉《ほうふつ》させる壮絶なる〈寝屁〉《ねっぺ》で、瑛は衝撃に弾かれ後ろに転げるところであった。手首の痛みと屁の轟音で、なんだか無性に哀しくなって、それでもとにかくゴドーを起こさなくてはならず、そんな瑛に本能が〈囁〉《ささや》いた行動というのがある。  半信半疑でその囁きに従い、ゴドーの顔の前に再度しゃがみこみ、瑛はオーバーオールの股間部のジッパーのスライダー、なるべく音を立てるように引き上げて、恥ずかしさ〈堪〉《こら》えてパンツを少しだけずらして性器を覗かせてみる、と。 「……んあ?」  たちまち鼻と耳をひくつかせ、ぱかりと眼を開いたゴドーに察知されぬよう、素早くジッパーを元に戻した〈手捌〉《てさば》きは、鳥の巣から卵を盗む〈貂〉《てん》に匹敵した。  ゴドーは逆さの姿勢のまま、床に肘を着けてじたじたとにじり、〈主操縦席〉《メインコクピット》から離れ、倒立の脚を大きく拡げてばたんばたん、古の魚竜の〈顎〉《あぎと》が噛み砕く様はかくもあったろうかに開閉させていたが、瑛にやはり全く意味が判らない挙動で、この頃になるともう航宙士の細かい一々は努めて気にしないようにしていた。  その後は体操競技の選手はだしの〈滑〉《なめ》らかな挙動に立ち上がり、風防から眺める本日の、駅の空模様は大変お日柄も良く、空は原住民の碧玉細工と青らんで、その碧空の〈穹窿〉《きゅうりゅう》に無数に撒かれているのは、本日の空模様は。晴れ、処によっては駅の飛行機動戦力の大半が出撃し、空を埋め尽くすでしょう───ゴドーの航宙艇は、既に駅の機動戦力に包囲されてあったのである。 「よく寝てられるよな、こんな時に」 「どんな時でも快眠快便快セックスは、航宙士の芸のうちだし」 「アンタこそ、よく逃げなかったもんだ」  文句と愚痴を垂れ流しながらも、いまだ〈傍〉《かたわ》らに残っている瑛へ、興がる目配せを投げよこし、〈主操縦席〉《メインコクピット》に飛び乗るゴドーの身のこなしは〈雨燕〉《アマツバメ》の旋回。  神妙に至った〈技倆〉《ぎりょう》と底の知れない経験に裏打ちされた、〈剽悍〉《ひょうかん》な身のこなしで席に腰を据え、航宙艇を〈囲繞〉《いじょう》する追跡部隊と真っ向勝負を挑むゴドーは、かくして最も在るべき場所に収まる。  そここそが航宙士が生きて死ぬ場所なのだと、心に教え骨にも刻む、美しい双肩だった。  ……本当は瑛も、キヲスク砦でゴドーがあれだけ人を舐めくさった平駅員〈後宮〉《ハレム》などを作って遊び呆ける姿に、完全に愛想を尽かしており、昨夜ゴドーが眠った隙に、今度こそと遁術を発動させる〈心算〉《こころづもり》でいたのだ。  けれど、仮眠寝台にも就かず、〈主操縦席〉《メインコクピット》に座したまま眠る、ゴドーの姿が余りにも孤独でそして、孤高で。  〈艇〉《フネ》と一つ、其処しか安らぐ場処を知らず、けれど、其処が絶対の自分の場処だと知らしめる操縦席のゴドーの姿に、ふと足を止めてしまい、この女は本物なのだと、正真正銘骨の髄からの航宙士なのだ、と〈見蕩〉《みと》れてしまった時、瑛はまた逃げ出す機を逸した事を、口惜しくも覚ったのである。  だがそれを明かすのは、臀の孔の臭いを嗅がれるよりこっ〈恥〉《ぱ》ずかしく、瑛は殊更のぼやきに隠したわけだが。 「逃げられるわけないだろ、ボクはすっかりアンタの共犯扱いだ」 「まあそれに、もう他人じゃないしぃ?」  瑛が溜め息にぼやいた、隙に〈背凭〉《せもた》れ越しに回された手が掴んできて、手首の返し一つで体が宙を回転し、ぽすんと柔らかにゴドーの体の前に収まる。  〈項〉《うなじ》の匂いを吸いながら、抱擁してくるゴドーの体熱は相変わらず高く、背中でうねる腹の筋肉も、力強く圧してくる乳房も、もう瑛は素肌に知っている。熱帯の嵐のような肉の交わりの記憶が蘇ってきて、もうこの女の肌も肉も覚えてしまったのだ、とじんわり〈疼〉《うず》きそうになる官能を蹴り出すように、身をくねらせて逃れ出て、また〈背凭〉《せもた》れの後ろに戻る。ゴドーの耳元に怒鳴りつけた。 「強姦魔に犯されただけだろっ」  この時、瑛の〈喚〉《わめ》き声に合意するように、轟いたのは号砲、砲声、押し包んだ飛空艇から一斉に。追跡部隊の攻撃が、遂に始まったのだった。  弾着の爆煙がゴドーの航宙艇を、〈竈〉《へっつい》の灰でもぶちまけたかに覆い隠し、やがて晴れてゆく中を平然と浮上してくるが傷一つ無く、いや、元からついていた艇各部至る処の傷痕以外は一つもなく。  航宙艇が神速の回避を行ったとか防御壁の展開が間に合ったといった防衛行動の結果ではなく、追跡側は始めの斉射を威嚇兼〈測距〉《そっきょ》の為に放っただけという事。  ゴドーもそれを心得ていたのか、それともそもそも相手の攻撃など歯牙にも掛けていないのか、操縦席で次々に制御盤の機器を操作し、発進シークエンスをこなしながら。  航宙士が閃かせる手の下には。  あれはエーテル偏流指示器。  そしてほら上側のは個別力場発生スイッチ。  他にも大気成分検出メータ、重力場感知盤。  呪力集積増幅装置等々等々。  〈喪〉《うしな》われた超技術と古代呪術の〈粋〉《すい》。  結集させた機器の数々。  その足元には力場制御ペダル、増幅ペダル。  胸元には艇と航宙士繋ぐ操縦桿が。  次から次に不足無く───!    宇宙に夢を求め、航宙艇に夢を託した人々の願いの結晶が今、駅の大射出機構の上に舞い上がる。  ……〈些〉《いささ》か年季の入った、と抑え目に表現するのが阿呆らしくなるから、もういっそ見たままを描写しよう。  浮かんでいるのが、否、存在し続けているだけでも航宙技術と大地上全ての航宙艇への卑猥な冒涜であるような、〈襤褸〉《ボロ》に〈襤褸〉《ボロ》に重ねて更に、尊大なまでに〈襤褸〉《ボロ》けた、ゴドーの涙滴型の航宙艇が、舞い上がる。                  このようにして、後に『大高架攻防戦』と名づけられる争闘は開始された。  〈艇〉《フネ》が〈艇〉《フネ》なら航宙士も航宙士で、ゴドーの口が耳元まで三日月の傷とぱっくり割れて、それは笑みというよりただただ〈脅〉《おびや》かす表情である。 「考えてみりゃ、アタシの〈艇〉《フネ》を的にかけるのが、一番手っ取り早かったわけだ」  あれだけ執拗に陣地が必要だ拠点構築が大切だと抜かしておいて、ゴドーが結局行き着いた結論はそれ。 「そういう事は、もっと先に思いつけよう! お陰で駅ン中がめちゃくちゃだろうが」  いくら高架族の電波に誘導されて一帯の避難は完了しているとはいえ、これだけの機動部隊の出動が、駅の通常業務に支障を及ばさぬはずがない。瑛が風防から遠望するに、駅の中、普段は血流として巡っている各種路線の動きが見られない。この一戦のために管理局は駅の業務を停止させたのだろう。  航宙艇も、随分と雄壮な発進操作は今にも駅の圏内から離脱し、宇宙の大海へ飛翔せんかの、〈襤褸〉《ボロ》はオン〈襤褸〉《ボロ》なりの勇ましさで、背景楽に管弦楽団の交響詩でもかかりそうな気配だったのに、大射出機構の低空に留まったかと見ると、噴射管は〈咽〉《む》せこんだような噴煙一つ、直立から水平態勢に移行して、本気でそこを本陣とするつもりに。  対する包囲部隊は、〈虚仮〉《こけ》にされたと見ての非難か、あくまで任務を冷静にこなすつもりの〈醒〉《さ》めた視線か、各艇一直線の光条発し、『〈黴毒〉《ポックス》』号に次々突き立てるが闘牛士の〈刺剣〉《しけん》の鋭さ、が、これ自体には破壊力はない。  これからそこに攻撃を加える、といった意の示威光線で、駅の法に則った機動部隊としての手続きなのだが、つまり。  〈寸毫〉《すんごう》の間、〈暢気〉《のんき》に宙に位置固定したゴドーの航宙艇に撃ち放たれる砲、砲、砲また砲。空中の対象への砲撃なのに、一帯は地響きに見舞われ、収まってもまだ『〈黴毒〉《ポックス》』号は着弾煙に隠されて、最早あの煙幕の中には〈艇〉《フネ》は原型が残らぬどころか細かな破片へと粉砕されているのに違いない。  やがて煙が吹き流された、そこへひょこと出たるは『〈黴毒〉《ポックス》』号。傷一つついていなかった。もとより船殻を〈痘痕〉《あばた》とべこべこにしていたモノ以外には。 「けっけっけ。その程度の火力で、この〈艇〉《フネ》の防壁を破れるもんかい」  煙が失せてまた姿を現した航宙艇の周囲には、大小様々、形状各種、紋様多岐に渡る呪式紋が〈顕在化〉《けんざいか》しておりそれらが包囲部隊からの砲撃を無効化した事を鑑みるに、この〈巫山戯〉《ふざけ》ているのではと疑わしいくらいに〈襤褸〉《ぼろ》い航宙艇、見た目とは裏腹な防壁を有している。  戦闘行動なら機動戦、さもなくば格闘戦を選んでこそ本来の特性を発揮する高速宇宙艇、それを浮遊砲台と固定しての応戦は愚の骨頂としか言いようがないが、その暗愚を帳消しにするほどの防御壁なので、〈主操縦席〉《メインコクピット》でほくそ笑む航宙士の面の皮と同等の強度を誇ると見えた。 「そっちこそ、対呪兵装はあんのかなー?」 「この省は、もともと呪術利用は遅れてたし、帰ってきてみても、あんま変わってねえようだし」 「引き換えこっちは、宇宙を駆けずり回ってその手の呪式、てんこ盛りに集めて帰ってきたからな」  やはりそうか、と瑛は独りごちる。件のビルを破壊した時から薄々察しては居たのだけれど、この航宙艇の愉快なまでに惨めな外見は意図的にかそうでないかはさておくにしても、底意地の悪い擬態として機能して、廃材屋でも引き取るのは両手を前に出してお断りする事確実に見せているが、少なくともこの駅に於いては最高位に強力な〈艇〉《フネ》なのだろうと。  防御術式は、包囲部隊の斉射を航宙艇本体には一切の影響も伝えず、そよ風を受けるように涼しげに防ぎきった。そして攻性呪式を用いた呪式兵装の威力は、瑛は既に目の当たりにしている。  風防越しに部隊を〈睨〉《ね》めつけるゴドーの眸が、鬼気を火炎放射器のように噴き出しながら、〈眼窩〉《がんか》の中で右左と眼球運動を、瞳孔がきゅう、と〈窄〉《すぼ》まって、航宙士は操縦桿を〈捻〉《ひね》りざま、操縦席の手元に出現した操作〈釦〉《ボタン》を〈拳槌〉《けんつい》でぶっ叩き───  包囲部隊が、各感覚器から表示端末に投映される映像、あるいは肉眼で確認したのは、破壊対象である、老朽化して外傷だらけの航宙艇が、〈出鱈目〉《でたらめ》に高速回転した姿の、一個の〈独楽〉《コマ》と化した〈艇〉《フネ》から閃光が全方位に〈迸〉《ほとばし》った図である。  それが彼らの見た最後の情景の、次の瞬間包囲部隊の前面に押し出されていた各艇は、宙空に轟音と閃光と破砕炎を散らして爆発四散し果てたのだった。  もう少し離れた位置から一部始終を注視していた者には、宙に浮かぶ巨大マヨネーズ容器だか巨大〈辣韮〉《ラッキョウ》だかが大回転しながら、怪光線を液汁のように撒き散らした途端、飛行艇が爆発したように見えた事だろう。 『〈黴毒〉《ポックス》』号艇内では、瞬間に猛速度に達した回転運動も完全に制御下に置かれ、その遠心力の影響も全く受けず、風防の向こうの景色が一瞬ぶれてまたすぐ収まったと見れば、包囲部隊の艇が、空中に出来損ないの花の形に爆煙を〈曳〉《ひ》いて四散しているという状況。加えて〈主操縦席〉《メインコクピット》でゴドーが、腹を抱えてげたげた笑い転げており、瑛はこの航宙艇に対する認識を再確認して憮然と。 「火力を盾に勝ち誇るの、かっこわるい」 「格好いい女を気どったことなんか、一っ度も無いぞ、アタシは」 「返せ、ボクの憧れをよう……」  ゴドーは朗らかに啖呵を切り、瑛は同情禁じえないが今更どうにもならない繰り言を〈零〉《こぼ》し、けれど、そうなのだった。このゴドーが格好をつけた事など、気どった事など、両性具有者が彼女と出会ってから一度としてない。  駅に対しても〈賢〉《さか》しらな主張の類は一切無く、やる事為す事、痙攣発作的なその場その場の感情と気分任せに。  瑛は過去の時代の伝説が、この時代、停滞しつつある駅に復活してきた事の意味を薄ぼんやりと覚りつつあった。正確には、意味など無いという事を理解しつつあった。  このゴドーというのは、〈恒星面爆発〉《フレア》と同様の、一つの現象なのだ。現象に意味などない。発生の源と、〈拠〉《よ》って生じる結末という因果があるだけ。これまでの軌跡を辿れば、ゴドーという一つの現象がやらかしてきたのは、犯し、破壊し、また破壊し、歓楽に酔い、更に破壊し、そしてそれらに一々理由などつけず───  瑛は、諸神諸精あらゆる力ある者達を祈り〈拝〉《おが》もす習慣はないが、それでもその名や属性は知っている。そしてその中に、ゴドーに贈るに相応しい名がある事にも気づいていた。  ……一体どこの大馬鹿野郎が、この破壊神と駅との因果を繋ぐなどいう、最悪な〈滑稽〉《こっけい》芝居をやらかしてくれたのか。少なくとも瑛ではない。瑛は犠牲者の一人だ。今もこうして風防から空を仰いで塩と砂糖を同時にたっぷり舐めたかの実に味のある嘆き顔を晒しているのだ。    ───空の彼方、虚空のどこかで、悪擦れした、山師まがいの少年がけたたましくくしゃみを弾けさせた気配を、瑛は遠く聞いたように思う。  朝に始まった争闘は、鉄火と被害(一方的な)を性懲りも無しに増大させながら引き続いて、大射出機構の直上遙か高くに金盤が健やかに差しかかる。その陽差しでさえも、直下で被害を撒き散らし続ける〈黴毒〉《ポックス》を浄めるには至っていない。  一時鳴りやんでいた砲撃音が再開されたのは、正午にやや遅れての頃合いの、これは実は駅の正午を告げるドンの空砲音を、航宙艇内の副砲座に着いていた瑛が、すわ包囲部隊の攻撃かと勘違いして引き金を絞ってしまった為である。  副砲座に着いて、というより着かされていた瑛は、あわわあわわと〈眦〉《まなじり》裂けそうに眼を見開き、唇震わせ〈茫然自失〉《ぼうぜんじしつ》の態。  自分が放ってしまった、ろくに照準もつけずの砲撃が、包囲部隊を大きく逸れて、眼下の駅の積層建築の一画を破壊し、爆心孔をぶち開けたのに、身震いが止まらなくなってきていた。  あの辺りも高架族の誘導音波の効果範囲内であり、生きる物は自ら動けない植物か、硝子鉢ごと置き去りにされた金魚くらいしかいない筈だが、それでも瑛にはちと了承しかねる破壊をもたらしてしまった事に変わりない。 「撃て撃て、好きなだけ撃ちまくっていいぞ、瑛」  後ろで〈喚〉《わめ》いているだけよりも、もっと楽しい事があると無理矢理副砲座に座らされ、引き金絞るだけで兵装が発射されるよう調整された操縦桿に、手を縛りつけられた瑛は、全てをゴドーに責任転嫁する事に決めた。  しかしこれっぽっちも気は晴れなかった。 「三条がここにいれば、嬉しさのあまり座りションベン漏らすところだね、こりゃ」  かつての火力偏愛狂の女公安官に想いを馳せてしまうのだって逃避なれば、つい自暴自棄で、砲声も派手に呪式砲を撃ちまくってしまっているのだって逃避である。砲口を可能な限り包囲部隊の艇から〈逸〉《そ》らして、それでも轟音〈甚〉《はなは》だしく。  ゴドーが一撃ちで三機も墜とす事もあるのに引き替え、瑛の戦果はまだ零で、これから伸びる事もまずあるまい。  砲火飛び交う争闘の中で、どうにも覚悟の据わらない事であるが、ゴドーも瑛に的中させる事までは期待していない。弾幕を張ってくれればいい程度に思っているのだろう。 「でもやってられっかぁぁぁっ」 「泣き言叩いてないで、撃てっていうのに」  さもないと、とゴドーが指した先に視線を向けて瑛は、地続きの現実ではなく、目覚めていながら悪夢の領域に入りこんだのかと、〈魂消〉《たまぎ》る衝撃に喉から変な息が漏れた。  ついでに副砲座の引き金も絞りっぱなしとなり、包囲部隊に〈出鱈目〉《でたらめ》な砲撃が浴びせられて、一時退避中の彼らの列を掻き乱し、大いに泡を食わせた。  そう、包囲部隊はその包囲する輪を拡散させ、ゴドーの航宙艇を遠巻きにしたのだが、それはいい加減、衆寡敵せずの真逆に、衆が寡に、ゴドーの航宙艇一隻に敵せずを認めて退去していったのには非ず。援軍に道を開ける為だったのだ。  積層建築群の底から、大射出機構の麓部にと這い上がり、徐々に姿を現しつつあるそれ、深く黒い、そして並外れて巨大。  それは───  巨大な砲身と、それを支える機構と車輌。  それは、八〇サンチ砲。  それは、列車砲。  あの『移動舞台暴走事件』の最終局面に際し大高架ホーム上に姿を現した超重兵器を、瑛も遠目に眼にしていて、過去の戦争の遺産に苦々しい感慨を噛まされたもの。だからその破壊の権化が、物々しく登場するだけしておいて、巨砲を一発たりとも撃ち放つことなく、大高架ホームが超大射出機構に変形する〈煽〉《あお》りを喰らい、軌道上から転落していくという阿呆のような末路を目撃した際には、トゥアンと共に息が止まりそうなくらい笑い転げたものだったが。  その後管理局が回収し、補修を施し、またどこかに隠匿していたのであろう。それを駅を脅かすゴドーへの切り札として投入した、というわけだ。  見た目は以前と変わらないようだが、全体にどこか傷ついた感がある。が、手負いであろうと大艦巨砲主義の象徴のような大砲身は間違いなく脅威と言えよう。ただゴドーの航宙艇の呪式防壁の不可侵な事、たとえ列車砲の砲撃でも打ち破れるか、どうか。  それでもその情報は朝からここまでの争闘で管理局側にも伝わっていように、その上で敢えて出動させてきたとしたならば。八〇サンチ砲の砲弾に攻性呪式の処理を施すなどして、対抗しうるとの確証を得ているのではなかろうか───  〈鋼〉《くろがね》の、動輪と隔壁と排気管と回路と〈鋲〉《リベット》と、奇怪なまで複雑に重厚に集積された、山脈にも比すべき偉容が進む。  大地上の運命の運行を司る歯車の一端であるかのような、巨大な推進力〈孕〉《はら》んだ、列車砲の機構が轟音を戦場楽と奏で上げ、その砲身の先を、世界の終末を告げる時計の運針のように、航宙艇へと定めていく。  と、砲身が安定するより先に。 grpo_bu 「ひゅっ」  航宙艇の船首を超重の偉容に向けて、ゴドーは蛇の威嚇音を思わせる、音のない口笛を短く鳴らすや、兵装管制の中から一つの〈釦〉《ボタン》を選んで叩く、列車砲の態勢が整う前に。 grpo  撃ち出されたのは、眼で追えるほど弾速の鈍い、光条とも水流ともつかぬ射線で、どこか牧歌的な速度で列車砲に着弾の、その〈暢気〉《のんき》さに見合わぬ威力を秘めていて、分厚い鋼板を凹ませたか?   ───それは、なかった。  では阻まれて、なんら損害を与えなかったのだろうか?  ───それも、なかった。  航宙艇から撃ち出された射線は、列車砲の車体を、熱したナイフが〈麺麭〉《パン》菓子を切り分けるように、あっさりと両断していった。  駅が有する力と恐怖の象徴として再登場した列車砲は。  どのような威力を秘めた砲を用意していたのか披露する前に。  砲撃は間に合わず。  本来ならなまじの砲弾など受けつけないほど強固な鋼板装甲は。  呆気ないほど容易く斬り裂かれ。  列車砲、身二つになって倒壊していって。以降、駅では列車砲というと、見かけ倒しの噛ませ役の別名、という〈鄙〉《ひな》びた認識が定着させる事になったのも、この〈様〉《ザマ》ではまあ仕方なかろう。  瑛はもう、昂奮するとか仰天するとかしてやる事すら虚しくて、逆に心は鎮まって、ゆっくりと片手で副砲座の桿に縛りつけられた片手を解いていった。そうやって落ち着けばすぐ判る事であったのに、何故今の今まで、ゴドーは片手しか縛っていなかった事に気づかなかったのだろう……。  頼みの綱の列車砲が一蹴されたにもかかわらず、包囲部隊は退却もせず、争闘はいまだ継続されていた。ただ緊張の方はどうにも持続しておらず、ゴドーは〈口蓋垂〉《のどちんこ》がそよぐくらいの大口に〈欠伸〉《あくび》を漏らし、包囲部隊からの攻撃も散発的に、陽も中天から〈怠〉《だる》そうに地平線に横たわろうとしている。  お空は日中の晴れに見合って綺麗な夕焼け、なのに瑛には〈黄疸〉《おうだん》を〈患〉《わずら》った者の張りを失った肌が連想されてならず、自分も相当に〈澱〉《よど》んだ眼をしているだろうと自覚していた。  なにしろ超大射出機構の周辺は、撃墜された艇の残骸のみならず、駅の街並みも相当に破壊されて〈惨憺〉《さんたん》たる有り様の、その何割かは自分の適当な射撃が〈逸〉《そ》れた為だと思えば〈暗澹〉《あんたん》たる気持ち、禁じえない。 「一体どんだけの〈積載量〉《ペイロード》と火力があるのこの船」 「宇宙をふらついてる間にチューンしまくったからねえ」  瑛がうんざりと呟いたのは、どれだけ高性能であるとしても、所詮は個人用の航宙艇が、朝から陽が傾くまでの長時間を、補給もなしに実弾光学兵器そして呪式兵装を、〈上棟式〉《じょうとうしき》に〈撒〉《ま》く餅の景気良さでばら〈撒〉《ま》き続けて、なお残量の底が見えてこない為だった。  つい先程も航宙艇がまたけったいな兵装を開陳したばかり。 『〈黴毒〉《ポックス》』号は身震いしたかと見ると、船体から赤黒の微粒子を広範囲に撒き散らし、病気の犬が咳きこんだ弾みに、毛皮に〈集〉《たか》った不潔な〈雲脂〉《ふけ》や〈蚤〉《のみ》の糞を振るい落としたようにしか。  ぶわぶわと拡がっていって毒蛾の鱗粉のように包囲の艇達を巻きこみ、さぞや閉口させたろう。  次の瞬間、ゴドーが遠隔起爆のスイッチを押した途端に赤黒い微粒子が一斉に大爆発を起こし、覆っていた範囲内の物を潰滅させるまでは。  〈艇〉《フネ》もさりながら、その主もこれだけの長時間の戦闘行動を継続してなお〈溌剌〉《はつらつ》、を通り越し、暴力的なまでな精気、滴り落ちんばかりのゴドーは、一度使った兵装は使用しないという私的な縛りでも課しているのか、次はどれをぶちかましてやるか、の風情で目線を上にしてしばし沈思黙考にあった航宙士は、何事か思いついた様子に手を打った。  百足の靴の紐が一遍に切れるより不吉な予感に、全身むず〈痒〉《かゆ》くなった瑛で、案の定ゴドーは、 「そういや、一つの星をまるごと消し尽くせるくらいの兵装もあったな、どっかに」 「やめてよね、それ使うのだけは。もしその気なら、刺し違えてでもアンタをとめるかんな」  この〈艇〉《フネ》が見た目通りではないのは兵装だけに限らず、船倉に空間を拡張するような超高度呪式でも施しているのかも知れない。そしてゴドーならどういう兵装をそこに溜めこんでいるものだか想像するだに恐ろしいのに、今浮かべた〈貌〉《かお》の、その邪悪さ加減と言ったらない。  瑛はもし本当に、その時となったら瑛ダイナマイトの使用も止む無しと覚悟した。  相手に抱きついて、自分を織り成す全呪式を暴走暴発させ、諸共に散華し果てる自爆技である。ばらばらに四散した後ちゃんと元通りに復する保証は全くない為、これまで行使した事はなかったが、やむを得まい。 「オマエとやりあうの? うわなにそれ素敵。あーでも、そのあたりのブツは、使いきっちまってたか」 「使いきってたって……つまり、アンタは、どっかの星を……」  攻防戦はこうして、日を置いた卵の黄身のように張りと弾性を喪い、だらだらとした〈膠着〉《こうちゃく》状況にもつれこんでいった。              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  夜間戦闘は現代戦では当たり前の作戦行動ではあっても、実行する為には特別の人的労力と周到な準備が要求される。駅の包囲部隊が今日そこまでの長時間戦闘を予想して備えているかどうか、どちらにしてもそんなものは向こうの都合であるが、付き合うにせよまた〈遁走〉《とんそう》を試みるにせよ、航宙艇はいざ知らず、生身の二人はそろそろ燃料補給が必要だった。  警戒索敵は〈艇〉《フネ》の感覚器に任せきりにしたのは、ゴドーがよほど愛機に信頼をおいているのか、呪式防壁を破るような相手が出現したならしたでより愉しめる、程度にしか思っていないからか、ともかくゴドーは〈主操縦席〉《メインコクピット》を離れて、艇内の床に座りこんで、香ばしい音と匂いを立てていた。  平底鍋に野菜と肉を放りこんで油で炒めているのだが、火力が〈煤〉《すす》けた携帯用〈焜炉〉《コンロ》というのが、夕陽差しこむ薄汚れた艇内にあって、また貧乏くさいながらも妙に釣り合いの取れて落ち着きのある気色をもたらしてある。  具材は両方とも〈艇〉《フネ》に貯蔵の冷蔵品で、ゴドーが駅に戻ってきてからそんな食材を買いこんでいる姿というのが想像できず、瑛が怖々訊ねてみるに、ごくごく普通の〈玉菜〉《キャベツ》に〈玉葱〉《タマネギ》、肉も豚肉だという事だったが、どこ産の物かまでは告げず、果たして大地上産の野菜なのやら豚なのやら、だ。  味付けの調味料も瑛が見た事もない意匠の〈壜〉《びん》と〈貼り紙〉《ラベル》でまた不安をそそったけれど、怖々味見をしてみれば、駅で普遍的に用いられている焼き肉のたれと同じかそっくり。あの化学調味料たっぷりのたれの。  肉も野菜も、噛んだら鳴いただの耳から紫の煙が吹き出すだの宇宙的な風味もなく、漁り慣れた残飯よりずっと新鮮なくらいで、化学調味料の刺激と〈相俟〉《あいま》って、瑛には舌に沁みるくらいに美味かった。体の方も気づかぬうちに相当疲労して、体力を燃やす材を求めていたのだろう。  着古した下着のゴムのように緩んだ、争闘の最中の空隙の中、二人して艇内の床に直座りで、かきこむ肉野菜炒めには〈侘〉《わ》びた西日も落ちて、裏ぶれた気配を強調しているのが瑛の気分にはまたなんとも相応しく、盛んに食欲を満たしていると、膨れた胃の〈腑〉《ふ》に押し出されたように心中に来した予感がある。 「なあ、ゴドー。すんげえ悪い予感が頭をよぎったんだが、言っていい?」 「いいとも。言ってみんしゃい」  ゴドーは、恐らくは〈麦酒〉《ビール》の類なのだろうが、やはり得体の知れない〈壜〉《びん》の王冠を親指の腹だけで押し開けて、中身を一息で三分の二は干してから、焼き肉の匂い混ざったげっぷで〈鷹揚〉《おうよう》に〈頷〉《うなず》く。  先程から彼女は、どういうつもりかえらい上機嫌の顔つきで瑛を眺めていて、時折唾を飲みこむような仕草まで見せて、微妙に両性具有者を怪訝にさせていたが、それはいったん無視して、 「アンタ、この戦争の終わらせ方、全く考えてないだろ……?」 「──────」  〈壜〉《びん》の中の残りを一息に飲み尽くし、なにやら内股でもじもじとお替わりを取りに行って戻ってきても、まだ答えに迷っているような、が、何事につけ悪く明快なこの女らしくない。という事はつまり、そもそも答えなど持ち合わせていない、という事で。  瑛は口の中から味が一気に失せたように思われたが、やっぱり得体の知れないたれの味付けの得体の知れない肉は美味いままで、やけくそ気味に皿の残りをちゃんと食い尽くしてから〈喚〉《わめ》いたあたりが、浮浪児としての〈逞〉《たくま》しさは健在なのではあった。 「あああやっぱりか。あんたな、戦争ってのは勝つも負けるも、着地を考えてないのが、一番始末に負えないってのに」 「いやいやいや、考えてるってばちゃんと。  えーとほらアレだ」  いかにも心外だといわんばかりに、内股の間で両手をきゅっと挟んで、首を激しく打ち振り、髪の金を西日の中に、散らした砂金と輝かせ、連動して乳房も火に狂乱した原始部族の舞踏のように大暴れ、勢いよすぎて前合わせからぶるんと零れて乳首まで飛び出した。  その乳首が、固く尖り立っていたのに瑛は確信する。先程から妙な目つきでこちらを見つめてきた事といい、今も両手を挟んだまま〈内腿〉《うちもも》を〈艶〉《なま》めかしく〈摺〉《す》り合わせている事といい、ゴドーは戦闘の昂奮か、肉を〈鱈腹〉《たらふく》食って食欲の次に別の欲が触発されたのか、ともかく欲情していて、瑛の問いの中身など、まともに考えていなかったということ。 (今ようやっと考え出した面だよね、これってさ)  じりじりと間合いを空ける瑛を、座ったままでにじり追いながら、 「アレだほれ、アタシが深宇宙から持ち帰ったブツ、引き渡せばいいんでない?」                ───言い出した事がこれだった。  この争闘を、前提からしてむちゃくちゃに引っ繰り返す、どうしようもなく考えなしの発言だった─── 「だったら最初からそうすりゃよかったろ!」  〈喚〉《わめ》きながら、押し倒されるより先に、ジッパースーツから零れた乳房を押しこみ直して、瑛は頭を抱えてしゃがみこんだ。無性に情けなかった。 「いいのか、伝説の航宙士がこんな脳足りんで……」 「……アンタさ、アンタの時代がどうだったか知らないが、航宙士、ってのを美化しすぎだぞ」 「アタシの時代は、みんな似たり寄ったりだったさぁ」  瑛の余りにも情けない姿と声に、ゴドーも流石に欲情は引っこんだと見え、ぽんぽん気易く肩を叩いてやりながら、慰めてやったものだけれど。  瑛はだから少し想像してみる。ゴドーの言う通り、皆彼女と同じように傍若無人なまでの生命力に溢れ、破壊的なまでに〈逞〉《たくま》しく、己の欲望に一切制限を欠けず、心のままにその強大な力を振るう往古の航宙士達の姿を。  想像しようとするだけ無駄だった。  ゴドー一人でこの惨状なのである。  そんなモノが大勢いる船団などもう考えたくもない。それは船団は船団でも暴走ゴリラの破壊集団だ。 「……それ、絶対嘘だね」 「……ま、ともかく、そろそろ店仕舞いといこうかい」  ばんばんと、尻に着いた埃と油汚れを叩き落として西日を霞ませながら立ち上がる。    店仕舞い───  この〈出鱈目〉《でたらめ》な一連の事態の始末。    ゴドーは一体どう落とし前を着けるつもりなのか、瑛も流石に少し緊張の、けれどすぐ思い直した。ゴドーがまともな決着などつける筈もない。少なくとも瑛が想像している結末など望むべくもないし、そもそも決着をきちんとつけるつもりなのかどうかも怪しいものだ。           瑛の予想は、ほぼ正しかった。 「瑛、アンタにももう一働きしてもらうから」              ……。  …………。  ………………。    ………………。  …………。  ……。  さて、さて、さて───  そこは超大射出機構の軌道の最高点。  駅の〈夜景色〉《よげしき》全てを見渡し〈豪勢〉《ごうせい》な。  夕暮れの時も過ぎ、夜の駅は光の大海。    瑛はゴドーの〈傍〉《かたわ》らでぐん伸び地に転がる。  あの後結局ゴドーに吸われたとか。  そういう事ではなくして。  とっておきの移動呪式『〈光遁〉《フォトン》』。  何故かゴドーは知っており。  瑛に行術を強いて、〈艇〉《フネ》からの離脱。    さて───  射出機構の斜面の下方では、まだ。  包囲部隊と無人操縦の『〈黴毒〉《ポックス》』号。  気の抜けた撃ち合いを続けてい。  張り合いのない喧嘩には、もう飽いたと。  だからゴドーは担ぎ出す。 「最後に残った大きな〈葛籠〉《つづら》だ」  どん、と下ろしたのは。  彼女の背丈よりも大きいコンテナの。  いやに頑丈で、ごつくて、剣呑そうで。 「さてそろそろ───」  首の骨をけたたましく鳴らし。  腕をぐるぐる回転させて。  ぐっとコンテナに押しつける肩。 「コイツを」  踏んばる足元は〈発動機〉《エンジン》の。  押し出す肩は〈起重機〉《クレーン》の。  食いしばる顎は〈噛締機〉《バイト》の。 「ぶちまけるとしようか!」      いやさ、ゴドーの力強きを表すならば。  機械とかそんなモノではないだろうとも。 そう、言うなれば───      筋肉はゴリラ!    牙はゴリラ!    燃える命は火の玉ゴリラ!      ゴドーの剛力に押され、コンテナは。  でかくてごつい『最後の〈葛籠〉《つづら》』は。  射出機構の端まで押され。      ぐらり傾いでゆらり端が浮き上がり。  危険な角度を越えてなお傾き。  ついには安全柵にのしかかる。      のしかかり、その重さとゴドーの〈膂力〉《りょりょく》に。  ついには柵、めりめりと壊れいき───  終いにコンテナ、柵を破って。  落ちていく、墜ちていく、堕ちていく。      しかし噴き上がったモノがある。  落下の最中に、コンテナの蓋、外れ……。  中から溢れ出したモノがあった。          星屑のような光の粒子。  宇宙の深淵のようなコンテナの暗がりから。  航宙艇の噴射炎と巻き上げて。      それは───  駅の全土に。  駅の上空に。      〈遍〉《あまね》く拡がった。  〈遁術〉《とんじゅつ》に呪力を〈夥〉《おびただ》しく消耗し、大の字で転がり空を仰ぐ瑛は、眼下に〈展〉《ひら》ける夜の光の〈駅〉《タアミナル》を眺める余裕さえなかったけれど。ただその時、風が流れた。  瑛の汗ばんだ前髪を揺らして鼻梁を涼やかにくすぐる。  ゴドーが落としたコンテナから湧き起こった空気の流れが、駅の〈宵空〉《よいぞら》を渡り、まっ先に瑛を目指して届けられたのだった。    その時瑛は、香りならぬ香り、嗅ぎ分ける。  シラギクの時代にも、瑛の時代にも覚えた事のない、未知の、途方もない拡がりを孕んだ、香りと言うより、それは気配。  航宙艇内の独特の匂い、包囲部隊との戦闘の臭気、そして瑛の鼻に馴染みきった駅の匂い、を、流しやっていくように。  遙かな大洋を渡る風が運ぶ海の〈精髄〉《エッセンス》、天に一番近い霊峰の、頂きを巻く風が宿す出来たての空気、それらの人跡未踏の地よりもたらされた気配に幾分か近くて、それよりもっとずっと、遠くを、ただ異なる世界を想起させる、風と気配に、瑛が起きあがる。    射出機構の最高点で、燈台のように神像のように悠然と力強く〈佇〉《たたず》む航宙士の隣に立ち、彼女がしているように空を仰ぎ、かつ地上を見下ろせば。    幾つもの景色。  此処ではない何処かの。  無数の情景。  今ではない何時かの。    それは、この大地上のどこかの光景ではなく、この時代に駅の人々が取り戻した宇宙、近隣星系の有人惑星の風景でもなく。    壁の向こう、そのまた向こう。  〈帷〉《とばり》の奥を、更に〈潜〉《くぐ》り抜けた奥。  無限の暗黒を越えてなお、進み続けた果て。  そういった先の先、果ての果て。  瑛が思い描いていた、宇宙の広がりよりも。  まだ遠く、まだ深く、まだ遙かな。    物語。  そう、それは。  今駅の全土に広がっている、この。  〈幾多数多〉《いくたあまた》の情景は。  駅の物語とは、きっと別の─── 「ゴドー、ゴドー! なんだアレ、アンタ、一体なにを持ち帰ってきたんだ!?」  遙かな過去に駅を旅立ち、宇宙の深淵に至り、延々と飛翔し続け、そして戻ってきた航宙士ゴドーが、出逢い、かき集めてきたもの。  ゴドーは瑛を見下ろし、なにかを言いかけ、結局は無言で微かに首を振り、ただ無数に展開されていく情景を指差し、そして瑛の胸を指先でつついた。瑛の肩を抱きながら。  強く抱きしめてから、すぐに離したけれど。  今までの〈暴戻暴虐〉《ぼうれいぼうぎゃく》がどうあろうと、いっぺんに彼女を好きになってしまいそうな、熱を満たした腕───  違うな、と瑛は思った。それは恋や愛ではなく、彼女がどんな風景を、世界を、物語を経てきたのか、共に何処までも翔んで、見に行きたくなるような、そういう熱気だった。      熱はいかなる叱咤や甘い言葉、哀しい懇願よりも速やかに、瑛の体の奥底、その人格の根幹、それが生の骨肉であろうと呪式で編み上げたモノであろうと関係無しに、存在の核へと届き伝わって、乾ききった地を満たす雨とたちまちに浸透して、そして駆りたてる。      幾つもの時代を駆け抜け、時に立ち止まり、また歩き出し、それを繰り返しながら、自身が気づかぬうちに少しずつ溜まっていった疲労や〈倦怠〉《けんたい》に身と心の底、今の駅と同じように〈澱〉《よど》ませていた瑛をして、強く強く、余りにも鮮烈にかきたてるのだ。        駆りたてる。  きっとそれは、〈畏〉《おそ》れと憧れ。  あまりの隔たりに〈畏〉《おそ》れを抱いてしまうくらいに、何処か遠くにある届かない場所への、いてもたってもいられないほどの渇望。      かきたてる。  多分それは、季節の変わり目に、唐突な流行り熱のように訪れる焦燥の念。  漠然とした不安と、居心地の悪さが醸成する、焦りの気持ちだ。        瑛。  航宙士を産み出す為の遺伝子操作、その特殊な変異例であるシラギクとして生を受け、その変異故に本来の世界であった宇宙への道を閉ざされた、なり損ないの航宙士。  駅の過去の時代において、後の時代の人々に宇宙への道を遺す為、その本来の肉体を喪い、駅の情報連結網の力を借りて、呪式の構成体に置き換えた。  過去において宇宙に飛び立つ事は叶わず、後の時代でもその成り立ち故に、今度は駅から離れる事が叶わず。    勿論瑛は、駅をほとんど第二の肌と慣れきって、駅に在り続ける事に後悔などないけれど。それでも───時に思うのだ。  〈羨〉《うらや》ましい、と。  駆け上がっていった、二人だけのサアカスのあのインチキ少年と三眼の女を。  何時かは自分も、と。  多くの障害を越えて、道を見つけて飛び立っていったかつての相棒を、追いかけたいと。    ───駅に拡がる〈数多〉《あまた》の情景は、瑛が日頃は深く沈めている意識の底から、憧憬と畏怖と焦燥を過《あやま》たず掬《すく》い上げる。    ヒプノマリアとゼルダクララを、どうにか叩き起こしてこの景色、見せてやりたい。  揺らぎ、移ろい、また展開される景色はまるで全周天の映画のよう。そのせいか、瑛は映画車輌を連想する。駅のどこかに保存されているはず。  アージェントはこの景色をどう見るだろう……いや、彼女の事は考えまい。もう手の届かない世界へ旅立ってしまった彼女の事は。    けれど誰よりも何よりも、囁き、誘われているのは。  果て無き宇宙へと、〈数多〉《あまた》の、無限の物語と通じている、駅の全土で繰り広げられている情景の欠片に、強く強く誘惑されているのは。    空には届かないかも知れない。  でも駅の地上のあちこちで、煌めき、揺らめく物語の欠片に今立つ場所から踏み出して、もっと近くで眺めたい、いっそのこと飛びこんでいきたいと誰より願っているのは───  ゴドーは願い、希い、求める者の背を拳で軽く叩いた。彼女には軽い力だったのだろうが、瑛には前にのめってしまう程で。 「行っておいで。アンタが自分の手で、自分の身体で触れてきてみるといい」  瑛は、前に流れた勢いにそのまま乗って、駆け出していく。後ろも見ずに。籠から解放された野鳥よりもまだもどかしげに。  ───何時かの日、初めて宇宙へと飛び立つ日、早速の規則破りをやらかして、航宙艇への通路を全速全力で走ったゴドーのように。  ゴドーは瑛の後ろ姿に、かつての自分を見出して想いしたけれど、柄じゃないかと肩を〈竦〉《すく》める。  ───あの超大射出機構ほどではないが、やはり高台に敷かれた線路の、枕木飛びに踏んで、瑛は夜の駅を歩く。運行業務の臨時停止で、灯りは黄色い常夜灯の他は見えず、夜汽車の響きも絶えて森閑とした高台線路に、瑛にやや先だって歩く丈高く〈逞〉《たくま》しい航宙士の背中がある。    考えてみれば何故戻ってきたんだと、〈臍〉《ほぞ》を噛む瑛だったけれど、あの昂奮、ときめき、胸騒ぎをどうしても誰かに伝えたくて、その相手、さしあたるところゴドーしか思いつかない、自分の交友関係の乏しさが虚しくなるだけと、航宙士の後を歩く。  駅全土に充満していた情景達は何時しか消え、まだ隅の方にはあの煌めきが〈仄見〉《ほのみ》えているけれど、やがて消えていくのだろう。  瑛が見て、〈潜〉《くぐ》り抜けた情景も、今は何処へと失せたやら、幻のように。  けれど瑛にはあれが幻とは思えない。瑛は確かに見て、触れて、味わったのだ。  それは瑛の長い時代の中でも、想像も及ばない物語たちで。 「……結局は、ね。宇宙の彼方だろうが、大地上の果てだろうが、世界の壁の向こうだろうが」 「どこだっていい。なんだっていい。果てを。そのまた果てを。アタシ達の時代は、それを追い求めてたんだね───」 「それが、還ってきてみりゃどうだ。どいつこいつも、この駅とか、手の届く宇宙とか、そんなもので満足してやがってよ」 「ゴドー、アンタは、駅にそれを教えるために……?」  結局はそれが駅に何をもたらす事になるのか、判りはしないのだ、少なくとも今は。  ゴドーにしても修身の教師ではない、駅の停滞を破壊し、〈啓蒙〉《けいもう》しようなどいう意志があった、筈もない。  それは次の台詞からも明らかで。 「はへ? え、あ、うん、そう、そういうことだったんだよ! さっすがアタシ! 伝説の航宙士!」 「……嘘つけ。やっぱりなにも考えてねえよこの人……」  多分ゴドーは心のままに振る舞っただけ。 それでいいのだろうな、と瑛は胸の面に扉が開いて、風を大きく通したような気楽さに、すっと肩が下がるのを感じていた。    というより、ゴドーのいい加減さに、瑛はなんだか全てが馬鹿馬鹿しくなり───    案外にしてこれが、この時代で秘やかに〈倦〉《う》み疲れていた瑛に、過去経てきた日々には無駄に〈拘泥〉《こうでい》されず、これからも続く長い日々へとまた再び歩き出せるような、寛容と気楽さと優しさといい加減さを教える事になったのであるが。  何時かは気づくだろうか、瑛にもそれが。    かつてシラギクだった瑛が、瑛になった時双子達にそれを教えたように、今度は瑛がゴドーから教えられたのである。  ゴドーが宇宙を駆けずり回って集めたもの。それが一体なんだったのか、何の為に駅に持ち帰ったのか。  まだ瑛にもはっきりとは判っていないし、あれだけ誰かに話したいと願っていたのに、いざこうしてゴドーの側に来てみても、言葉にすると網の目から零れてしまうよう。    けれど、何より判っているのは、ゴドーなのだろう。  だから瑛はあの、魚を求めて駅の〈暗渠〉《あんきょ》の隙間に手を差しこんだよりも、廃材置き場で宝物を見つけ出した時よりも、強く鮮やかな昂奮、今は一人だけのモノにした。多分それが一番良いのだ。 「……それで? アンタこれからどうすんだ」  実のところ、ゴドーが引き起こした騒動というのは、何一つ収まりが着いたわけではない。超大射出機構で包囲部隊と〈睨〉《にら》み合っていた『〈黴毒〉《ポックス》』号は、航宙士の合図で瞬時に姿を消して、駅のどこかに身を〈潜〉《ひそ》めているだけ。    ゴドーは引き続き駅の管理局からお尋ね者として追われるはずだ。瑛としてはそのあたりも踏まえて、航宙士の今後の存念を訊ねたつもりだった。  そしてやっぱり、訊いた瑛が莫迦を見た。 「? どうもせんよ? しばらくは休暇と洒落こむさ。その為に還ってきたんだもの」 「頼むよ、ゴドー。頼むから、アンタはさっとどっかに行ってくれ」  瑛は───  もう何度目なのか、でも今度こそと、ゴドーに背を向け逃げ出した。  ゴドーはまた楽しい追いかけっこが始まったのかと、瑛がある程度離れるまで、脇をかっぽかっぽ鳴らして待ち受けて、そして駆け出す、しなやかに、大股に───                  その筋肉は───  その牙は───  燃える眸は───    ───過去は永遠に失われず───    失われた伝説中から、ゴドーはこうして駅に舞い戻り。      ───現在は不変であり───    駅は、そこが駅である限り、どの様に移り変わろうとも、瑛は其処に変わらず在り続け。      ───未来は待ってはいてくれない───    そして駅が駅である限り、其処に誰かが、あるいは物語と言い換えたっていい、なにかはこちらの構えが出来ていようがいまいが待ったなしに訪れる。            瑛は、次に駅に訪れるなにかが、この航宙士のように制御不能の現象めいた存在ではなく、もっと与しやすい相手である事を願った。      多分それは、瑛の願いなどお構いなしに、駅にやってくるのだろうが。  ここが、駅である限りは───        今ではない何時か。此処ではない何処か。  大地上のただ中に駅。  駅の過去と未来と現在の。    それぞれの時代の物語。    まづ本日は───             ここまで!                  ───星継駅年代史・劇終───          ───そして───  ───金の粒はさらさら、銀の砂がほろほろ、流れて零れて、〈螺旋〉《らせん》に過ぎゆき果てしなく、此方から彼方へと。  闇から〈出〉《い》でて光に煌めき、光に踊りまた闇へと還りゆく。  時よ、時よ、汝時なるものよ。再び帰らざる時よ。光輝に浮かび上がる瞬間瞬間。その中に宿した、無数の人々の〈数多〉《あまた》の生が煌めく、〈燦々〉《さんざ》めく。            ───そして───  ───駅の地下の〈奥津城〉《おくつき》の、更なる奥に、〈無窮〉《むきゅう》の書物の封土の中の小坊で。  硝子の棺、ならぬ凍結睡眠筒の中に眠るは銀髪の双子、駅の案内人、河の下の少女娼婦。 〈面紗〉《ヴェール》に夜と同じ色のドレスのヒプノマリア。  花を〈綴〉《つづ》った様な茜色の〈羅衣〉《うすぎぬ》のゼルダクララ。  相似の双子の姉妹、凍結睡眠装置の〈裡〉《うち》にて、長い眠りのただ中に。  双子は、夢に見る───  かつてまだ双子が、打ち見なりの少女であった時代に、出逢い、心を開き、初々しい交わりを持った両性具有者を、シラギクを、眠りの〈裡〉《うち》に想い出し、〈夢寐〉《むび》の中に蘇らせている。  それは恋や愛と呼ぶにはまだ幼く、時代の推移という大風の中で、身を寄せ合ったような〈一時〉《ひととき》に過ぎなかったのかも知れないけれど。  それでも通い合う情の、確かにあったのだと双子は想う。同じくした志もまた、あったのだと。    だから、出逢えて良かったのだと想う。まだ雛であった時代、愛でられ〈寵〉《ちょう》されることしか知らなかった頃に、人の心の哀しみや憤激、そして出逢う事、別れる事、その意味を知る事が出来たから。                ───金の粒はさらさら、銀の砂がほろほろ、流れて零れて、〈螺旋〉《らせん》に過ぎゆき果てしなく、此方から彼方へと。      双子は夢を見る。  移動舞台の座長の少年オキカゼ、その情婦である三眼の女〈沙流江〉《シャルーエ》。閉塞の日々の中でも眸に〈逞〉《たくま》しさ失わず、一座の再起を企て、挙げ句駅を一大擾乱に巻きこんだ二人。    双子にとっては、航宙士と、その介添人の、血の申し子であった二人が出逢った偶然や、彼らが長く喪われていた駅の宇宙への記憶、呼び覚ますきっかけとなった事は勿論驚愕に値したけれど、少年と年上の女が強く結ばれあって宇宙に飛び立っていった事が、何より嬉しく愛おしい。          双子は夢を見続ける。  〈駅の浮浪児〉《ステーションチルドレン》の二人組。一人は青銅の肌に時折暗く沈潜した炎を閃かせる眸の、トゥアンなる少年。一人は翠の瞳の両性具有者、瑛。シラギクの後の姿である。  その時代に瑛がトゥアンという相棒を得た事、両性具有者が少年と通わせあった心は、始めは友誼だったとしても、二人はやがて情を交え体も重ねた事は、双子に内心で少なからず複雑な想いを抱かせたのだけれど。      それにしても、予想外と言えばトゥアンで、駅に残って地力を蓄える、といったところで、遺伝形質を持たぬ少年が、真実航宙士となって宇宙に旅立つのにどれほどの困難を乗り越えねばならなかった事か。  それを彼は成し遂げた。  どころか、この少年がなかなかの曲者で、駅に残り航宙士となるまでの間───彼を交えて、双子と瑛の交誼が非常に盛んとなった。色々の意味で。それも殆どがトゥアンの仲立ちがあったからで。  今頃彼は、何処の宇宙を翔んでいるのだろうか。              夢に見るのは彼らだけではない。  映画車輌の管理人、〈雀斑〉《そばかす》の娘、双子の慈しむ〈処女〉《おとめ》、物語の巫女、アージェント。可愛くて愛らしくて、掌の中に隠してしまいたいくらい大事だったのに、それなのにあの子は───もう、いない。          公安官朱鷺子、銃鉄の女。色々難しい年頃だとは思うし、人に幸せの形は色々あるのだろうけれど、好きな子を虐めるだけではなく、たまには虐められるのもきっと楽しいだろうにと双子は思う。  平駅員、駅の縁の下の力持ち達。一なる者と見えて千変万化の彼ら達。考えてみれば彼らも何時の時代も駅にいる。そのうちにもっと仲良くしてみるのも良いのかも知れない。  通り過ぎてきた時代、出逢い、別れて、そしてまた出逢う人々。  皆金の粒のように煌めき、銀の砂のように輝き、時には辛いこと苦しいことに〈喘〉《あえ》ぎ悩むこともあるのだろうが、その生自体が闇の中に灯る星のよう。  そう、星は空にだけでなく、地上にも。  こんなにも無数の星に満たされて。    ───愛していますよ。お前さま達。  ───とっても好きよ。貴方がた。    この生が続く限り、眺めていきたい。  もしも迷うのなら、案内させて欲しい。    ───金の粒はさらさら、銀の砂がほろほろ、流れて零れて、〈螺旋〉《らせん》に過ぎゆき果てしなく、此方から彼方へと。    駅の地下の〈奥津城〉《おくつき》の、更なる奥の小坊にて、眠り続ける双子達。双子を護るのは古い時代の遺産なる凍結睡眠装置。  これまで幾度かその中で眠りについてまだ目覚め、そうして双子は少女の姿に固定された長命も合わせ、駅を見守ってきた。  目覚めと定めた時が至りなば、装置はその時に備え双子の生理を緩やかに覚醒させ、その間に姉妹が眠っていた間の情報を、彼女達の眠りの中に送りこむ。    それあるによって、双子達は時代を飛び石に越えても、ある程度は戸惑いなく変化を受け入れ、駅の中に戻っていけるのだけれども。  その機構が、息を吹き返し、作動を開始していた。                  だから双子の夢に、過去の追想とは異なる、新たな時代の新たな物語が混ざり込む。  姉妹が今見ている者は。  ある意味では、彼女達よりも驚異の存在であった。  航宙士ゴドー、ゴドー・トルクエタム。伝説の航宙士にして、双子よりもずっと過去の人物。  まさか彼女が存命していたなんて!  その上、シラギクや施設の職員から聞かされていた人物像とは〈些〉《いささ》か、いや、相当に異なるような───?    双子にしてもゴドーのあの一個の現象めいた破壊力は驚異的であり、まして、何やら瑛が彼女に捕まっている。文句を垂れながら、それでも一緒にいる。  ……まあ、見たところ瑛は、自分達が眠りについた後随分と消沈していたようで、ゴドーの如き原初の炎のような相手は、ある意味では良い〈賦活剤〉《ふかつざい》となるのかも知れない。  と。  双子はそこで、妙な、事に。  気がついて、しまって。    装置は自分達の目覚めを感知し、それを安全なものとする為に設定した時より早めに覚醒処置を取り、その時代の駅の情報を送りこんでくるのだが。    その時期が、双子が設定していた時と、異なっている。設定した年代よりずいぶんと早い。本来ならばまだ眠っているはずの時代に、装置は双子を起こそうとしている。    一度開始された覚醒処置は、装置の中にいる双子には停止できず、目覚めさせられるのに任せるしか出来ず。  目覚めて双子は、意識と体が定まるまで〈茫洋境〉《ぼうようきょう》に漂っていたが、やがて、まず装置の時間計を確認した。自分達の勘違いで、本来目覚めるべき時代に目覚めていたならよし、そうでないのなら、また眠りに着くかどうかは、後で考えよう。    ───異状があった。  時間計が示していたのは、まるで〈出鱈目〉《でたらめ》の年、月日で、定めた時なのか、そうでないのかが判別できない。凍結睡眠と覚醒の過程自体に問題はなかったようで、起きぬけの濃い〈倦怠感〉《けんたいかん》はあってもそれは何時ものこと、体は正常、問題なし。    ならば何が生じたのだと、双子は互いに手伝って身繕いを整え、凍結睡眠装置を設置した小坊から文書庫へ、文書庫から外界の様子を確認しようとした。      ───小坊を出でた双子を迎えたものは文書庫とは全く異なる景色の。  ───縦に長大で、古いサロンのような空間。一つの建物さえ中に入ってしまいそうなくらい、異常なほど奥行きの深い。  ───出でた双子の耳に届いた音は。  ───かたん、かたたん、という。  ───駅に暮らす者には馴染みきった、列車の運行音、枕木を過ぎる音。  ───出でた双子の体に伝わったのは。  ───列車の中でのみ感じられる震動。  ───背後には、凍結睡眠装置の小坊の扉、以前として残っており。        双子の知覚が捉える限りではつまり、こう。  自分達は想定外の、何時とも知れない時期に、目覚めた。  自分達が居るのは、一つの建物を収めるほどの、巨大な車輌の中に揺られていると言うこと。    双子を認めたのか、サロンのソファに座していた者達が立ち上がり、前に出てきたその〈貌〉《かお》に、双子はその長い生の中でも最大級の驚愕に撃たれたのだった。  彼らは、彼女達は。      ───お待ちしていたのだわ。何時お目覚めになるのかって、皆ずっと気を揉んでいましてよ。    ───やっと眼ぇ覚ましたね。相変わらず綺麗だこと。    ───なんだよ、そのぽかんとした面ァ。ボクがここにいるのがそんなに変か? いや……やっぱ変か。だよなあ。    ───おい待てよ、美人双子たぁ聞いちゃいたが、ここまでの美形だとぅ? ありかこんなの。やべぇ、アタシ、持って帰って箱に詰めてぇ!                  双子が『列車』で出逢った人々は、同じ時間の針の上に乗り合わせること、けして有り得ない筈の者達で───